「sweet sleepy lip」



ノックの後ドアを開ける。それから「順」と呼びかけようとして、夕歩はすぐに口をつぐんだ。
見ると、自分の刃友は部屋の床の上に寝そべっている。窓の方を向いているので夕歩の位置から顔は見えない。だけどぐっすりと眠り込んでいるのは間違いなかった。起きていれば夕歩の訪問に反応しないはずがないからだ。

夕歩は改めて部屋の中を見渡した。もう一人の部屋の主は留守中のようだ。たいして広くもない部屋の中は静まり返り、窓から差し込む夕日で赤く染まっている。
見ると夕暮れの日差しは順の顔の辺りも容赦なく照らし出していて、夕歩は心配一割、呆れ九割で「眩しくないのか」と思ったりする。

後ろ手にドアを静かに閉めて、部屋の中に上がりこむ。順の頭の斜め上には「ココナッツ娘。」とかいうアイドルの写真集が、開かれた状態で伏せられている。寝転がって読んでいるうちに寝入ってしまったんだろう。
その雑誌と順の後頭部を目の端で捉えながら、夕歩は順の寝顔を想像した。
どうせ子供っぽい顔して眠ってるに決まってる。無防備な……もっと言えば、締まりのない寝顔がすぐに浮かんで溜め息が出る。

夕歩は背中を向けて眠っている順を無造作にまたいで、窓際のカーテンに手をかけた。
まったく、寝る前にカーテンくらい閉めればいいのに。

そのままカーテンを引こうとして、何の気なしに順の方に目を向けた。やっぱり眠っている。夕日が顔にかかっているのにも関わらず、起きる気配は全然無い。

「…………」

順の寝顔なんて特別珍しいものでもない。だけど、昔よりも大人っぽく見えるような気がする。……たぶん夕焼けに照らされているせいだ。
夕暮れの赤は人の心にフィルターをかける。まったく迷惑だ。

夕歩は順の寝顔から目を離して、音を立てずにカーテンを閉めた。
その後は……もうやることがないので、眠っている順の隣に座った。別に急ぎの用があったわけでもないし、訪問を告げにいちいち相手を起こす間柄でもない。夕日が遮られた部屋の中は、少しだけ薄暗い。隣の順が起きる気配はない。

もう一度順の寝顔に目をやった。次にココナッツ娘、消されたテレビ、閉められたカーテン、閉められたドア……そうしてまた順の寝顔に視線が戻る。順はやっぱりまだ起きない。その唇は、無防備に薄く開かれてる。
この部屋の中で、今意識があるのは自分だけだ。時計の秒針がチッチッと軽く規則的な音を立てている。後ろのベッド、閉まっているドア、ココナッツ娘、カーテンの隙間から僅かに漏れる夕日。

気が付いたら、順の唇にそっと指を伸ばしていた。寸前で一瞬だけ手を止め、そして恐る恐る人差し指で軽く触れる。
順は――起きない。
夕歩はそのままの姿勢で固まった。触れたはいいけど、今度は指を離すタイミングが掴めない。順の寝顔から視線を外すタイミングも掴めない。いったい一人で何をやっているんだろう。


ガチャリ。


「――――!」

突然ドアが開いて、心臓が飛び跳ねた。この部屋のドアをノックもなしに開けてくるのは、ここで眠っている順以外には一人しかいない。
その「一人」は部屋の中に一歩踏み込んで、夕歩を見ると動きを止めた。正確には「夕歩の指の位置」を見て動きを止めた。順の唇に触れていた指は当然咄嗟に引っ込めたが、少しばかり間に合わなかったように思う。部屋の入り口からは順の顔は見えないけれど、指がどこに置かれていたかくらいは分かるだろう。
順はまだ起きない。時計の秒針の音だけがやけに大きく聞こえてくる。

「……見た?」

ドアのところで固まっている相手に向かって、夕歩は一応確認した。小さな声で。

「えっ? あー……ああ、あ、いや」

メガネの奥の目が泳いでいる。普段は容赦のない突っ込みを順や刃友に向けて放つ彼女も、実は人のいい一面がある。
夕歩は無言で立ち上がった。順は起きない。

「夕歩?」
「帰るね」
「あ、ああ……」

順のルームメイトは、依然としてドアのところで突っ立ったままだ。その彼女の横を抜けて、夕歩は静かに、かつできる限り迅速に部屋を出た。






ドアのところで立ち尽くしていた綾那は、やっとのことで我に返った。廊下に顔を出してみたけれど、夕歩の姿はもう見えない。部屋の中に目を戻すと、その刃友が呑気に寝入っているのが見える。窓の方を向いているので綾那の位置からだと顔は見えないが、起きる気配はないようだ。

綾那はずかずかと部屋の中に入っていった。自分の部屋だ、気を使うこともない。ルームメイトがこいつなら尚更だ。
部屋の中央まで進み、眠っている順をおもむろにまたぎ越える。その動作の途中で床の上の雑誌が目に留まった。なんとかいう娘の写真集だ。確か「どこだっけ娘」とかなんとか。

綾那は屈んで、開かれたまま伏せられているその写真集を手に取った。別に中身に興味があるわけじゃない。うっかり踏みつけて滑って転ぶのはごめんだからだ。
そんなヘマを踏むつもりもないが、「あたしの本を踏んづけたお詫びは、身体で払ってくれればOKだから〜」などと持ち主に言われると暑苦しい。まあその時は持ち主本人も踏みつけてやればいいだけの話だが。

拾った雑誌を閉じながら、目が偶然順の寝顔を捉えた。夕歩が触れていた位置に視線が動く。順の唇は無防備に薄く開かれている。
もしあの時、自分がドアを開けなかったら……

いや、これ以上考えるのはやめておこう。

と、閉じられていた順の瞼が開かれた。何の前触れもなく、ごく自然に。ごく静かに。
寝そべったままの視線が綾那を捉える。

「あらー、綾那。何? 寝込み襲ってくれるの?」
「ふざけるな。淫魔を襲うバカがどこにいる」
「そんな怒んないでよ。まったく短気なんだから〜」

起きたばかりでぼんやりしてるのか、普段よりも力のない笑みを浮かべながら順が起き上がる。
ひとしきり目をこすってから、順は立ち上がって二段ベッドの梯子に取り付いた。
珍しい。もう少し絡んでくるかと思ったが。

「もう一眠りするわ。おやすみー」
「ん」

淫魔も睡魔には勝てないらしい。新たな知識を脳にインプットしながら、綾那はテレビの前に陣取った。あのゲーム、昨日はどこまで進めたんだったか。

「綾那」

背後の高い位置から順の声が降りかかる。綾那はゲームのスイッチに手を伸ばしながら、声だけで「ん?」と答えた。

「……ありがとね」
「え?」

何だろう。思って肩越しに振り向いたが、順はこっちを見てはいない。上段のベッドに足を掛けた姿勢で、綾那に横顔を向けている。

「なんでもない。おやすみ」

順は軽くあくびをしながらベッドの中に潜り込んだ。もそもそと動き、肩の上まで布団を被っている。

「…………」

もしかしたら、淫魔も淫魔で色々とあるのかもしれない。だけど……

やっぱりこれ以上は考えない方がよさそうだ。
さっきと同じ結論を出して、綾那はゲームのスイッチを入れた。




 (「sweet sleepy lip」 完)




はやてSS目次へ戻る

現白屋トップへ戻る