1話

  

  

――闇の中
 広大な空間に、微かな水音が響く。
 黴臭い空気。
 微かに上方から漏れて来る光。
 ここは、イサルキア王都の地下水路。
 古代魔導帝国の創成期――古王朝時代に造られたという古代都市イザ。壮麗な宮殿と、広大な市街……大陸西方一、二を争った大都市。この街は、その遺跡の上に建設されたのだ。王都の地下に広がる広大な水路網は、その名残なのだ。

 その中を、ばしゃばしゃと水音を響かせ、何者かが走っている。
 若い男だ。二十歳程か。茶金の髪に、日焼けした肌。端正な顔立ち。長身の、引き締まった体躯。しかし、その瞳は……血の如く、紅い。
「何故だ? 何故こんな事に……」
 時折背後を振り返る。
 その背後からも、同じ様に水音を響かせ、何者かが追ってくる。
「ちっ……」
 青年は、脚を速めた。
 とても人間とは思えない速さだ。あっという間に後続を引き離す。
 しかし、唐突にその脚が止まった。
 その前方に現れた影。
 まるで幽鬼の如く宙を漂っている。
 血の気が乏しい顔。肉の薄い、枯れ木の様な身体……
 身体に纏う、暗灰色のローブ、節くれ立った杖。不気味な、死神を思わせる男である。
「……ラスタール!」
「殿下……脱走されるとは、勝手な真似は困りますな。貴方は我等の王になられる御方。貴方一人の身体では無いのです」
 慇懃無礼な口調。青年を空中から見下ろしている。
「勝手な事を……。私の身体を化け物にしておいて何を言う。それに……私はイサルキアの民以外の王になるつもりは無い!」
 青年は怒りに身を震わせた。と、同時にその顔に禍々しい施術紋が浮かび上がる。
 それは、青年が人外の存在となってしまった証。
「くっくっくっ……嬉しいですよ。どうやら我等の呪法は、上手く行った様ですな」
「ほざけ!」
 叫ぶや否や、一気に跳躍する。
 空中からラスタールに飛びかかった。
 凄まじい跳躍力だ。頭上1ラン(約4メートル)弱、天井すれすれの所に浮かぶラスタールの目前まで迫る。
「ほう、なかなかの跳躍力ですね。だが、少々迂闊です」
 ラスタールは口の端を曲げ、微かに嘲った。
「“閃雷”!」
 雷鎚が青年を襲う。
「うがぁぁぁ!」
 一瞬その身体が空中で硬直すると、真っ逆さまに水面に落下した。饐えた臭いが漂う。
「ふっ……これで、少しは懲りましたか? これから少し、おとなしくしていただき……むっ!?」
 ゆらり……
 青年が立ち上がった。
「むぅ……思いの外、しぶといですな」
 ラスタールは一瞬目を細めた。
「くっ……この程度」
 痺れる身体を無理矢理動かし、頭上のラスタールを睨みつける。
「ならば……いや、ちょうど良い」
 ラスタールは視線を青年の後方に向けた。追っ手が追いついてきたのだ。
 二つの影が、闇の中朧げに浮かび上がる。
「……!」
 青年は壁際に後退し、身構えた。
「諦めが悪いですねぇ……無意味な事ですが」
「やってみなければ、分からん」
 青年は、鋭い瞳で二つの影を睨む。
 片方は、蝙蝠の如き翼をもつ男。もう片方は、六本の腕と、臀部から突き出た膨れ上がった腹を持つ、蜘蛛の様な姿の女。この世のものとは思えぬ、魔物達。
「化け物どもめ……」
「これはしたり。あなた様こそ、我等の王となられる御方ではありませぬか」
 “蝙蝠”が、割けた唇を歪め、不気味な笑みを浮かべた。
「言うな! ……何!?」
 飛びかかろうとした青年の身体に、何か網の様なものが絡み付いた。
 振りほどこうとすればする程身体に絡み付く。粘性のある糸で編まれた網。蜘蛛の巣だ。見れば、子蜘蛛がそこかしこの壁に蠢いている。
「ここは我等の縄張り……あなた様は誘い込まれたのです」
 脱出しようと足掻く青年の頭上を飛びつつ、“蝙蝠”が言う。
「くっ……」
 青年は歯噛みした。が、どうする事も出来ない。
 それでも、力を振り絞り、脱出を試みる。
「ふっ……無駄ですわ、殿下。いかがです? 私の子の糸は。絹よりしなやかで、鋼糸よりも強いのです」
 “蜘蛛”は青年の頬を撫で、妖艶な笑みを浮かべた。
 そうしながらも、彼女は更に、自らの糸を巻き付けていく。もはや、がんじがらめだ。
「ラテリア、ガルナーン、このまま我等の聖域へお連れしろ」
 ラスタールが命じた。
『はっ!』
 二体の魔物は青年を抱え上げようとした。
 が……
「うおぉぉ……」
 低い唸り。
――ミチ……ギチ……
 青年は糸を引き千切ろうと足掻く。
「無駄なのが……まさか!?」
 ラテリア――“蜘蛛女”――が浮かべた嘲笑は、一瞬後に凍り付いた。
 ぶちぶちと音を立てて、自慢の糸が引き千切られていく。
「危険だな……離れろ」
 ラスタールは僅かに顔をしかめると、呪文の詠唱を始める。
「“迅雷”!」
 振りかざした杖の先端から雷光が閃いた。眩い稲妻が青年の身体を舐め回す。
「――――!!」
 青年は身体を硬直させ、一瞬後にぐったりと頽れた。
「……この程度で死ぬことはあるまい。連れて行け」
「くっ……」
 青年は無念の呻きを上げる。
「ほう……まだ意識があるとは」
 ラスタールは半ば感嘆する様な声を上げた。
 青年はその彼を、憎々し気な瞳で睨む。と、その時……
――どくん
 何かが彼の中で目覚めた。二度浴びた雷撃の呪文が、彼の中に潜む“力”を呼び覚ましたのであった。
――ギシ……
 骨が軋む音。
「うぐっ!? ぐあぁ!」
 激痛が身体を苛む。
 骨格がより強靭なものに変わり、筋肉が膨れ上がる。全身がざわめき、己の中で、大きな“力”が膨れ上がる。
――何だ、これは?
 青年は己の中で目覚めた力に戸惑う。しかし、これは好機であった。
「はっ!」
 痛みが収束に向かいつつあるのを見計らい、全身に力を込める。
――ブチッ!
 あっさりと蜘蛛の糸は、千切れた。
「なっ!?」
 ラテリアは呆然と千切られた糸を見つめた。余程ショックであったのだろう。
 青年はそれを振りほどくと、無表情のままラテリアを見据えた。
 と、上半身の衣服――といっても、ほとんどボロ布だが――が、膨れ上がった筋肉に抗いきれず、弾け飛ぶ。身体全体が、一回り大きくなった様だ。そして、眉間に第三眼が現れ、額からは角、口からは牙が伸びる。肘の先からは棘状の突起が現れた。皮膚は甲虫の甲殻の様に硬化していく。
 そして、青年は未だ呆然としたままのラテリアに歩み寄る。無言のまま、拳を振るう。
「いかん!」
 ガルナーン――蝙蝠男――が慌てて彼女を青年から引き離す。
 その直後、青年の拳がラテリアの頭部のあった所を轟音を上げて通り抜けた。恐らく命中していれば、ただでは済むまい。
「ちいっ!」
――……ィィィィン!
 ガルナーンの口から放たれた、空を裂く、耳には聞こえぬ音の刃。
「……!」
 その直撃を受け、青年の身体が大きく揺らぐ。
 だが……
 次の瞬間、青年は地を蹴っていた。
「何!?」
 ラスタールが目を剥く。
 一瞬でガルナーンの目前まで迫り……
「ハァ!」
 拳がその腹を、貫く。
――ギャァァァァァ!!
 身の毛もよだつ様な悲鳴。
 青年はどす黒い血にまみれた拳を引き抜くと、倒れたガルナーンには目もくれず、ラテリアに迫る。
 子蜘蛛がその前に立ち塞がろうとしたが、難なく蹴散らされた。
「ヒッ……」
 恐怖にすくむ彼女。
 だが……
「“炎弾”!」
 ラスタールは火球を放つ。そしてそれは過たずに青年に命中した。
――ズゥゥゥン!
 爆発。
 轟音が地下水路に響く。
 爆煙が一瞬地下水路を満たし、視界が塞がれる。
 暫し後、そこに転がっていたのは、幾つかの小さな肉塊であった。もはや、元の形など分からない。
「ラスタール様……」
 ラテリアが身を起こす。
「無事であったか。殿下は……ふむ、少々勿体ない事をしたか。王のかりそめの肉体とはいえ、なかなかあそこまでの器を持つ者はおらぬ。他には、アルビオンの王子ぐらいなものだが……ふむ、少々計画を変更せねばならぬな……」
「ガルナーンが……」
 視線を移すと、彼女の傍らには半ば焦げたがルナーンが倒れている。
 腹にあいた穴からは、どす黒い血が流れ続けている。が、それでも徐々に傷は塞がっていく。
「まだ息はあるか……。連れて帰れ。まだやってもらわねばならない仕事がある。……引き上げる。先刻の爆発は、おそらく地上まで届いているだろう……」
 ラスタールはそう言い残すと、闇に溶けていった。

――やや離れた地下水路
 先刻の爆発の場所からやや離れた所に、青年の姿があった。
 子蜘蛛を身代わりにし、逃れてきたのだ。
 最早、異形の姿ではない。
 憔悴してよろめきつつも、出口を目指す。
 やがて、彼の行く先に、光が見えた……

――イザーナ川
 王都イサルキアを貫いて流れるこの河は、古代より交易の中心であった。イサルキア港には、西方各地からの荷が集まり、また、運び出されていく。
 今日もまた、巨大な船が川を遡り、港へと入っていった……

 その川岸を、一人の少女が歩いていた。
 水を汲みにきたのか、手桶を持っている。
 川面に近付いた彼女の目に、川岸に打ち上げられたかの様な人影が映った。先刻の、異形と化した青年であった。
「……人!?」
 慌てて駆け寄る。そして、恐る恐る近付き……
「アルバイン様!? まさか……」
 その顔を見て、少女は一瞬呆然とした。知った顔であったのだ。
 そして、慌てて青年を苦労して引き上げる。
「身体が冷たい……急がないと」
 少女はその華奢な身体に鞭打って、青年を担いだ。
「お……重い。でも、誰かの力を借りる訳にはいかない……」
 そして、顔を真っ赤にし、よろめきつつも歩き出した……。