一話
――南北朝時代 美濃の国
薮の中。
鋭い目が光る。
黒尽くめの、小柄な影。
覆面に覆われた顔は、表情をうかがい知る事は出来ない。しかし、僅かに覗くその精悍な目鼻と鋭い眼光は、決して追われて隠れている者のものでは無い。
あたかも、獲物に飛びかかる寸前の獣。
息を潜め、獲物の隙をうかがう。
四肢に力が漲り、“その時”を待つ。
ぴくり。
僅かな身じろぎ。
獲物が近付いて来たのだ。
数人の供を連れた、豪族と思しき恰幅の良い中年の男が薮の前を通りかかる。彼等はこの先一町(約109メートル)程の所にある屋敷に戻る途中なのだ。
男は、この一帯の領主である笠城繁正。影の、獲物だ。
影は、微かに腰を浮かした。息を詰める。
ついに、“その時”が来たのだ。
「……!」
声にならぬ、裂帛の気合い。
影は叢から飛び出すと、目指す男目がけて一目散に疾る。
「何奴!?」
供の一人が叫んだ。
が、次の瞬間彼は喉笛から血を吹き、倒れ伏す。何が起こったのかも分からぬうちに、もう一人。
刀を抜くや否や、一瞬で二人を斬り捨てたのだ。返り血にまみれたその姿は、まさに夜叉。
「真壁の手のものか!?」
繁正は刀を抜きつつ、問う。
しかし、影は無言だ。立ち塞がった男を斬り捨てると、繁正に刀を向けた。
「ぬぅ……」
繁正は刀を構えたものの、攻めあぐねて呻く。
全く影に、隙が無いのだ。
その彼に、影は無言のまま、斬り掛かる。
「……」
「むんっ!」
刀が交錯する。
――ガッ……ギィィン!
影の鋭い打ち込みを、繁正はかろうじて受ける。
凄まじい衝撃とともに、繁正の腕に痺れが走った。
その時、主を助けるべく、供の最後の一人が影に斬り掛かった。
が、次の瞬間、その喉から匕首が生える。
否。影の手から放たれたのだ。
その隙に、繁正は逃れようとする。
しかし……すかさず次の一撃が来た。
「!?」
受け切れない。
――!
血飛沫が上がる。
袈裟懸けの一撃は、骨を断ち、肺に達していた。致命傷だ。
「うっ……ぐぅっ!」
死の影が繁正の顔に落ちる。
刀がその手からこぼれ落ち、彼はがくりと膝をついた。
影はそれを、冷徹な瞳で見据えている。残心の構え。いつでも止めを刺せる様、構えは解いていない。
「み、見事……儂をこうもあっさりと倒すとは……」
繁正は影を見上げ、笑みを見せる。その顔は、これから死に行く者とは思えぬ穏やかな物であった。
「……」
「しかし……ただでは死ねん!」
「!」
繁正はバネ仕掛けの様に影に飛びかかる。懐から短剣を取り出し、斬り掛かった。
だが、影はそれを予測していた。紙一重で身をかわすと、喉笛を切り裂く。
「ウ……グッ……無念……」
掠れた声。ヒューヒューと息が漏れる。
繁正の口からごぼりと血が溢れた。
その手が宙を掻き……
「!」
偶然影の覆面を剥ぎ取る。
現れたのは、まだどことなくあどけなさを残す青年の顔。
「まさか……戌彦、何故……」
「ちちの、かたき……」
ぎこちない言葉が、戌彦と呼ばれた影の、端正な唇から漏れる。
「何!? いや、そうか……」
何かを思い出した様に、繁正は戌彦の顔を見る。
「そうか。これも、運命か……。しかし、儂を討っても、世の趨勢は動かぬ……」
その言葉を最後に、繁正は事切れたのだった……
「しげまさ、さま……」
涙が頬を伝っていた。
返り血とともに……
あたかも血涙を流している様に。
その混じり合った雫が、唇を濡らす。
錆びた鉄の味。
――どくん
「おれ、は……」
繁正の屍に、別の男の顔がだぶる。
「ちち、うえ……」
新たな涙がこぼれた。
「きゃぁ――――!!」
絹を引き裂く様な悲鳴。
見ると、繁正を迎えに来ていたのだろう、供を連れた彼の娘が立ち竦んでいた。
「あやめ……」
戌彦は一瞬呆然として呟いた。
――壊せ
――何もかも、砕け
彼の耳元で、何者かが囁く。声ならぬ声。
「ヤメロ」
耳を押さえても、声は脳に直接響いた。
――己の衝動に逆らうな
――全て、壊し尽くせ
「おれは……オレハ……オレ、ハ……」
――己の想うモノを、砕け
――全てを……壊せ
「うわぁぁぁぁぁぁ!!」
獣の様な叫び。
次の瞬間、彼は身動きの出来ぬ少女に向けて、地を蹴った……