序章 星の子  
  
  

 その日  一筋の流星が墜ちた。
  

―― 東京近郊の住宅街 夜

「う〜〜〜ん、この訳は……っと」
 鷺宮奈緒(さぎみや・なお)は終わらない宿題を前に、一人頭を抱えていた。
 小柄で華奢な体つき。やや茶色がかった髪を肩まで伸ばし、肌は、象牙の様に白い。猫の様なつり目が印象的な、かわいらしい顔立ちである。年は十七歳。桐 花高校の二年生である。
 彼女にとって、最も苦手な英語である。それも、長文を日本語に訳さなければならない。
 辞書を引っ張り出し、一つ一つ単語を訳して行くが、意味がつながらない。
「ん〜〜〜、確かこの構文は……面倒くさいなぁ」
 ぼやきながら、ノートに書き込む。あまり意味は通じていないが、それでも何も書かないよりはましだ。
 書いては消し、また書き込んで行く。
「むぅ〜〜、これで半分かぁ……先は長いなぁ」
 半ば諦め気分で呟く。
 と、何か思い付いたのか、ぽんと一つ手をたたいた。
「そうだ! 昴(すばる)に手伝ってもらおう! あ、でも……頼ってばっかりじゃあ……」
 昴とは、彼女の弟だ。一つ年下だが、同じ学年である。成績優秀な彼は、今最も頼りに出来る人物なのだ。
 が、弟に頼り過ぎるのも、姉としてのプライドにかかわる。
 あまりに情けない事で、彼女は頭を悩ませていた。
 暫く後、ようやく決断がついたのか、席を立った。隣の部屋に向かおうとする。
 と、何となく窓の外を見た彼女の目に、一筋の流星が写った。赤く強く輝くそれは、普通のものよりも遥かに低空を飛んでいる様に見えた。そして、一際強く 輝くと、弾ける様に、消えた。
「あれ、流れ星だ……。何かお願いすればよかった」
 奈緒はいい気分転換だとばかり、ベランダに出る。しかしそこには先客がいた。
「昴……ここにいたんだ」
 一人の少年が、じっと流星の消え去った辺りを見つめていた。
「姉さん……」
 声をかけられ、彼は驚いた様に振り向く。やや強張った様な表情だ。
 年は彼女よりやや下であろうか。しかし、身長は180センチとかなりの長身であり、小柄な彼女はその顔を見上げる形となった。その顔は端正で、表情は年 不相応に、妙に大人びていた。
「どうしたの、そんなに夢中になって……」
「えっ!? そんなに夢中だったかな……」
 昴と呼ばれた少年――奈緒の弟――は頭を掻いた。
「そうだよ。だってあたしが声をかけるまで気付かなかったじゃない」
 奈緒はじっとその顔を見る。
 普段なら、そんな事は有り得ない。彼は、五感がずば抜けて敏感な上、極めて勘が鋭いのだ。奈緒は、一度ならず彼が超能力者ではないかと疑った事がある。
「……たまにはそんな事もあるさ。星空が奇麗だったしね……」
「また、星を見てたんだ」
「そんな所。……姉さんは?」
「あ……あたしは気分転換」
 彼女はアハハ……と笑ってみせた。
「そうか……宿題で詰まってるんだね」
 昴は口の端に笑みを浮かべた。
「うっ……分かる?」
「何となく。……手伝おうか?」
「お……お願い!英語だけは苦手なのよ〜〜!」
 実際は、「英語も」であるが……。彼女は渡りに船とばかり、弟に手を合わせ、頼み込む。
「姉さんの頼みだから、仕方が無いな……」
 昴は一つ肩をすくめると、彼女の部屋に入った。
「あたしにとって、昴だけが頼りなのよ」
 奈緒はすがる様な顔で、彼を見る。
「はいはい。……どこが分からないんだい?」
「あのね、この長文の訳し方が分からないの。単語を辞書で調べたけど、意味がつながらなくて……」
「ああ、それなら……」
 昴はすらすらと難しい長文を訳していく。彼女が1時間半かかった分量を十数分で済ませてしまった。
「……これで終わりかな?」
 昴はノートから顔を上げた。
「ありがと〜〜! おかげで助かったわ。……昴がいなかったらあたし、どうなっていたか……」
「どういたしまして。でも、あまり僕に頼ってばかりってのもどうかと思うけどなぁ……」
 そう言いつつも、昴はまんざらではないと言う顔をした。
「う〜ん、出来る限り頼らずに済ませたいと思ってるんだけど……。あっ、そういえば……」
「ん?」
「あたしが昴と初めて会ったのも、こんな夜だったね……」


―― 十年前  夜
 布団に潜り込み、うつらうつらしていた奈緒は、ふと窓の外の物音に気が付いた。
 眠い目をこすりつつ、身を起こす。好奇心が眠気に勝ったのだ。
 上着を羽織り、ベランダに出る。
「ん? ……奈緒、起こしちゃったか」
 そこにいたのは、彼女の父親だ。
「うん……パパ、どうしたの?」
「ああ、珍しく星がよく見えるからね。……あれが牡牛座。で、あっちが双子座さ」
「あれは?」
 彼女が指差した先には、一塊の星の姿があった。
「ああ、プレアデス星団さ。六つの星が見えるだろ?」
「プ……プレアデ……?」
「昴(すばる)の方が言いやすいかな?」
「へぇ〜、すばるかぁ……きれいな星だね」
「うん、そうだね。で、あっちにも……」
「……ねえ、パパ。あれ何だろう?」
 と、その時、何かを見つけた奈緒は、父親の袖を引っ張り、空を指差した。
「どうしたんだい? 何も見えないけど……」
 父親は怪訝な顔をして辺りを見回す。
「赤い光がお空を飛んでったんだよ! 見てなかったの? ……UFOかなぁ?」
「流れ星じゃないのかな? ……お、おい」
「学校の裏山の方に行ったみたい。きっとどこかに落っこちたんだよ! 探しに行こ!」
 苛立たしげに、奈緒は父親を引っ張って部屋に戻る。そして、廊下に出、階段を駆け下りた。
「あなた、それに奈緒ちゃん、どこ行くの?」
 母親が台所から顔を出し、尋ねる。
「ああ、奈緒が何か見つけたみたいなんだ。ちょっと行ってくるよ。すぐ戻る」
「気をつけて下さいね。……それと奈緒ちゃん、上着を着ていきなさい。風邪引くわよ」
「はぁ〜い。……ねぇ、早くぅ〜〜」
 奈緒は渡された上着を着ると、父親の袖を更にぐいぐい引っ張り、せかす。
「分かった、分かった」
 二人は懐中電灯の明かりを頼りに、流星の墜ちた方を目指した。

―― 暫し後 裏山
「お〜い、奈緒。もう気は済んだだろ? 早く家に帰ろう。母さん心配してるぞ」
 父親がやや疲れた顔で、先に行く奈緒に呼びかけた。
「ごめんね、パパ。もうちょっと!」
「お、おい……しょうがないなぁ……」
 彼女は更に、先に行く。父親は苦笑を浮かべると、後を追う事にした。
「まさかとは、思うけどな……」

「う〜〜ん、確かこっちに……あっ!」
 彼女は、星明かりの下、草むらの向うに人影を見つけた。
「あれ、誰かいる……」
 奈緒は草むらをかき分け、人影のもとに向かった。
「男の子?」
 彼女の足が止まる。
 灌木の影に、少年らしきシルエットが浮かび上がっていた。
 忍び足で近寄る。
 年は彼女と同じかやや下ぐらいか。こちらに背を向けているので、顔立ちは良く分からない。何故か、着ている服は、かなりぼろぼろになっている。
 彼は、微かに肩を震わせ、天を見上げている。泣いているのかもしれない。
「……どうしたんだろ? 迷子かなぁ」
 声をかけようと近寄る。
「…………!!」
 その気配に気付いたのか、少年がこちらを振り向き、何かを叫んだ。
 彼女には良く聞き取れなかったが、どうやら、「誰だ!?」と叫んだ様だ。
「……どうしたの?」
 奈緒は、構わず近寄っていく。
 それに対し、、少年は警戒した様子でジリジリと後退した。
 が、彼女の姿を確認し、安心したのか足を止めた。
「けがしたの? それとも迷子?」
 気遣いながら、彼女は近寄る。
 少年は何かを言おうとしたが、慌てて袖で涙を拭った。
「ねぇ、どうしたの? ……けがしてるじゃない!」
 彼女は、少年の膝や肘の辺りの服が裂け、その下の皮膚から血が滲んでいるのを見つけ、慌てて駆け寄る。
「うで、出して。あしもよ」
 奈緒は、ポケットからハンカチを取り出すと、少年の腕を掴んだ。彼は、一瞬抵抗したが、彼女の意図を理解したのか、大人しく従った。
「……よし、と。これで大丈夫。もう泣いちゃ駄目。男の子でしょ」
 奈緒は、少年に笑いかけた。
 彼も笑みを返す。今まで気付かなかったが、端正な顔立ちだ。
 彼女はその時、微かに彼の瞳が琥珀色に光った様に見えた。
「きれい……」
 奈緒は呆然としてそう呟いていた。

 その後、その少年は警察に保護された。
 彼は記憶も名前も、言葉すら失っている様であった。
 暫くの間、彼は施設に収容されていたが、その間に言葉だけは思い出した様だ。
 そして、彼は新たに“昴”という名を与えられ、新しい家族の元に迎えられる事となったのだった。


「……そうだったね、あの時も……」
 昴は懐かしそうに目を細めた。
「でも、もう十年かぁ……早いなぁ」
 奈緒も頷く。
「ああ。あっという間だったね」
 昴は何故か一瞬、寂しげな表情を見せた。
「……何か思い出したの?」
 奈緒は不安げに問う。もし彼が記憶を取り戻したとしたら、一緒に暮らす事が出来なくなってしまうかもしれない。そう思ったからだ。
「いや、何も。……でも、あの時見つけてくれたのが姉さんで良かったと思ってる」
 昴は笑みを浮かべる。しかしそれは、どこか不自然であった。
「ホント? あたしも、あの時流れ星を追っかけて良かったな。こうして昴とも逢えたんだし」
 一瞬その表情を怪訝に思いながらも、努めて明るく彼女は言った。
「……宿題手伝ってもらえるし?」
 それに気付いたのか、彼はわざと茶化した様に言う。
「もう! それだけじゃないってば!!」
 奈緒は怒った様に拳を振り回した。
 二人のじゃれあう声が、部屋中に響いた。


 この時、奈緒は気付いていなかった。
 二人を巡る、運命の歯車が軋みを上げて動き始めた事に……