ボヘミアの深い森
横尾茂明:作
■ 終焉1
龍太と少女は部屋を出た。
朝起きたときから少女は人が変わった様に無口になっていた。
エレベーターの中でも押し黙り始終うつむいている。
フロントで精算し外に出る、ベルボーイがBMWの扉を開けて待っていた。
龍太は少女を助手席に乗せ、運転席側に廻って乗り込んだ。
「さー、デッケンドルフまで一走りだね…」
龍太は思い切り楽しげに少女に問いかけたつもりだったが…その声に動かされることもなく少女は押し黙ったまま遠くを悲しげに見ていた。
昨夜の少女の告白は…あまりにも凄まじく慰める言葉も龍太には見つからなかった。
(聞かなければよかった…)と龍太は思う。
異国の地で、暇つぶし程度の気分で少女を拾い…日本人にないその肌とプロポーションに感嘆した龍太。
はじめは性の捌け口として求めた路傍の少女なのに…少女の輝くばかりのピュアな感覚に龍太は圧倒され知らずうちに心を奪われてしまった。
性具として扱われ、見知らぬ男の精液にまみれた女体と分かってはいても、今の龍太にはあきらめられない想いで胸が痛かった。
(離したくない……)
右手にミュンヘンエアポートが見え隠れしだした、もうすぐイーザル川が見え出す頃…。
なおも少女はうつむき、遠くを惚けたように見つめている。
龍太は少女の閉ざした心をどうやって開かせることが出来るのか焦りの中で考える。
昨夜の少女の告白は…ほとんど聞き取れなかった。
断片的ではあるが少女の身に起こった拉致でのすさまじい性体験は理解したが結末は分からなかった。
内容が内容なだけに…龍太にはかける言葉がすぐには見つからず、ただ焦りの中で時間だけが単調には流れていく。
車窓の風景も無意味に流れた…しかし淀んだ沈黙の空気はなんら晴れず龍太は少し苛立ちはじめた。
(あと1時間もすればデッケンドルフ…)
(少女は黙ったままこの車から降り…消えてしまうだろう)
(あぁー何とかしなければ…何とか…)
右手に洒落たレストランが見え出す。
龍太は賭けた、このレストランで少女の気持ちがほぐれなかったら…この数日の出来事は無かったものとしてフランクフルトに帰ろうと。
BMWをレストランの正面に滑り込ませる。
ドアを開け、右に回り込んで助手席のドアを開けた。
少女は下を向いて肩をふるわせていた…。
「さーお昼にしようよ、お腹空いてるだろ?」
少女は首を振る…そして耐えていた堰が崩れるように押し殺した声で泣き始めた。
龍太は途方に暮れ、遠くの山裾を見つめる…。
瞬時、この状況をどう扱っていいのか龍太には分からなかった。
コンサルティングを生業に今日まで同僚に打ち勝ち成り上がった自負心も…少女の前ではなんの役にも立たないと感じた。
デリケートな女心が分からない…ニューヨークでのスーザンとの別れも未だに龍太は理解していないのである。
勝つこと、そればかりを考え今まで強く己を磨いてきた。
だから弱い人間には全く興味はなく、軽蔑さえもしていた。
しかし最近…ようやく気付いた事がある。
世の中の80%は弱い人間で構成されているということを。この80%の心を真に理解し対応出来ねばこれ以上の高位には行けないということも。
あの時…スーザンはなぜ泣いたのか。
いま分析すれば…気の遠くなるほどの女のデリケートな抵抗心、理解してくれない男に対しての訴えの表現。
いま少女は泣いている、それは自己の哀れを嘆いているのか…あるいは龍太の理解力の無さに嘆いているのか。
やはり龍太は途方に暮れるしかなかった、一言で言えば少女のデーターが少なすぎて分析が出来ない。
自分がもし弱い人間ならば少しは少女の心に同調し、その嘆きの一端が掴めたのかもしれないのだが。
「さー…泣いてないで、僕に打ち明けてくれないか」
龍太は言うと再び運転席に乗り込みドアを閉めた。
少女は静かに泣いている、昨日までの天真爛漫な少女の面影は何処にもなく…今は清楚な女性が悲しみに暮れている風情に映った。
龍太は少女の横顔を見つめる、時折ハンカチで涙を拭く仕草がいじらしく、抱きしめたい感情にとらわれるが…手は出なかった。
車を静かにバックさせ、再びハイウェイに戻した。
アクセルを強く踏む、車は叩かれるように加速した、それはすべてを振り切る龍太の心でもあった。
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