人妻の事情
非現実:作

■ 人の妻として3

「お帰りなさい〜」
「あぁ」

溜息交じりの言葉と、くたびれ過ぎた雰囲気は相変わらず。
何が入っているのか解らない重い鞄を放り遣される。
スリッパを気だるそうに履く夫の後ろから、暖かいリビングへと付いて行く。

「御飯にする?」
「いや……風呂入って寝る」
「また?」
「ゴメン、疲れてるんだ」
「……そう」

夫の表情は有無を言わさないという感じだった……。
「疲れて話など聞いてる状況じゃない」と全身で訴えている。
(ふぅ……また決心が鈍っちゃう……今日こそ借金の事を話さないと思ってたのに……)
今日、私はギリギリの線で踏みとどまった。
やはり夫にちゃんと話す事が最優先だと、最後の良心が待ったを掛けたのに……。
(あなた……私……大変なトコに……)
心の叫びは届かない。
ガララッっと脱衣所の扉が開く音を聞きながら、私は立ち尽くす。

それから……心を込めた(筈の?)夕御飯をラップする私は無心。
お風呂場ではシャワーの音がした。
そんな隣の脱衣所で、夫の着ていたワイシャツを洗濯機へと放り込む。
……何かを考えてしまうと、即罪悪感にさい悩まされる。
自業自得。
この言葉こそ今の私に相応しい、だから私は何も考える事無く作業をロボットのように進めた。

夫の洗物と室内干を終えて、暫くして長い夫の入浴タイムが終わった。
全裸のままガシガシと頭を拭く夫は、私に苦労掛けまいと必死に働いてくれている。
疲れきった夫の逞しい背中をチラ見する。
(…… ……)
その背中……私は凝視できない。

「寝るわ」
「うん」

夫の言葉に素直に応じる私。
見えない家庭では、私は良妻。
でも……。

夫が寝室に消えてから暫くの間、見やしないテレビを付ける。
今日は流石にネットする気分も起きない。
……いや、何もする気になれない。
(今日は疲れた……私も寝よう)
ベットに潜り込む夫を見届けてから……部屋の電気を消す。
……おやすみなさい、そしてお疲れ様。
私が妻であり家を守る為の存在であるゆえの……心からの言葉である。

だけど…… …… ……。
寝れない…… ……。
どうしても寝れない……。
次第に沸々と今日の事を思い出してしまう。
(愛人って)
(うぅん……あんなトコにバイトだなんて)
(でも、お金が…… ……)
(でもあんなとこに面接行くの…行くなんて夫への裏切りよ……ね)

ブルゥっと身体が震えた。
私は俗に言う箱入り娘で、今の夫とも親戚の叔母からのお見合いがキッカケ。
初体験は笑われるかもしれないけど26歳、今の夫。
大学院を卒業してからも、就職難に喘ぐ仲間を尻目に「家事手伝い」になった。
お陰で「家事手伝い」に関しては完璧になったのだが、所詮は外の世界を知らない身。
結婚した夫の収入は、多分他と比べてもかなり上ランクらしい。
お金と自由は夫婦共存のもの、だけど私はそれを勘違いした。
隣で寝息を立てる夫を裏切った。
…… …… ……。
(やっぱり言えない……こんなに疲れて働いてくれるのに……)
胸元に掛かったシーツを、濡れる目尻まで押し上げた。
   ・
   ・
   ・
あれから一週間が過て……。
連日続く電話を切り、受話器を置いて溜息を付く。
返済の目処が立たない私に、相手は遂に「自己破産」の文字を口にしてきた。
それは暗に離婚を意味している。
そんな事は絶対に駄目。
私は夫を愛している。
それに……両親を悲しませたくない。
(だからそれだけは……駄目…よ)
だけど私には解決する糸がまるで見えなかった。
手にしていた受話器を眺めながら……私は考える。
何度も何度も同じ事を考えている。

(土下座してでも許して助けてもらう……夫に言う?)
駄目……そんな事しても許してくれるわけが無い。
謙虚誠実という言葉を絵に描いた様な人だ。
別居、最悪離婚。
(実家に…… ……うぅん、ダメッ!)
お父さんやお母さんにも言える訳が無い。
ここまで育ててくれた両親に、恩を仇で返すのは出来ない。
不出来な子になってしまった事を告白する事は出来ない。
(じゃぁ……どうしたら……)
頭の中では借金と離婚と親の落胆振りと、そして…… …… ……。
私の手は受話器へと伸びていた。

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