狂気の住処
ビーウスの友:作

■ 4

 月に懸かった雲は仄かな妖気を匂わせる。
 川瀬は車の運転席から、密かに女を物色していた。眼鏡越しに女を見つけては品定めする瞳孔は獲物を狙う肉食動物のそれに酷似している。
 ネオンの明かりが行き交う人の影を列ね、川瀬の眼鏡レンズに被さる。
 ふと、川瀬は表情を止めた。ある女性の姿がクローズアップされ、川瀬の目が緩やかにその残像を求めるかのように追う。
 川瀬はエンジンをかけると、ゆっくり車体を前へ出す。ハンドルを切ると、女の姿が路地の死角から見えてきた。
 川瀬はハンドルに爪を食い込ませた。女の後ろ姿を遠くに捉えたまま、間隔を詰めることなく、人気がなくなるのを辛抱強く待つ。
 暗い街路を女のハイヒールだけがツカツカと響く。川瀬は前照灯を減光し、徐々に女の背後へ忍び寄る。
 女は怯えていた。背後を車が追尾していることは薄々感付いていた。逃げ出しては、すぐさま追いつかれ、連れ去られてしまうのではないのか。女は肩に提げたバックを頻りに強く抱く。
 そう考えている内に車両はどんどん距離を縮めていく。女は足を止めた。
 振り返って、その男を見たら逃げよう。そうすれば警察が手配してくれる筈だ。女は拳を握り締め、決意した。鼓動がだんだん高鳴っていく。
 顔を後ろに向けようとした時、女は正面に何者かが寄ってくるのを察した。
 女はビクッと身体を震わせて、振り返るのを止める。一体誰だろう、女は不安に駆られた。外灯の下で女が注視していた人影が立ち止まる。青白い光に照らされた何者かの正体は明らかに男であった。
「どうしました?」
 男が不思議そうに女を見た。地域の人だろうか、ジャージを着てほのぼのとした雰囲気が漂う。女は九死に一生を得た思いで、ほっと息をつく。
「あの、助けてください。後ろの車に追われているんです」
 女は男にだけ聞こえるように声を殺した。車の運転手に聞かれない為だ。
 男は暗黙の了解で頷いた仕草を見せると、女の向こう側を爪先立ちになって見遣った。
「どこの車ですか?」
「すぐ後ろの車です」
 女が男に説明する為、背後を顧みた。車は尚も近付いている。
 女は車を指すように腕を持ち上げるが、その動きは途中で止まった。
 女は愕然としていた。車の運転席には誰も乗っていないのだ。
「一体、どういうこと…」
 そう思った瞬間、女は先程の男に抱き抱えられた。女はすぐさま口を布のようなもので塞がれる。悲鳴はくぐもり、近所に聞こえない。
 女は意識が遠退く中、必死に男に抗った。
 髪を振り乱し藻掻く女の目には自分の身体に纏まり付く、男の眼鏡が映っていた。
 その男こそ、川瀬であった。

 川瀬は女に車両を自動的にゆっくりと接近させ、自分は運転席を下り、女が車に注意を取られている間に、女の正面へ裏道を使って回り込んでいた。
 女には近所の人間であるかのように見せ掛ける為、無知の他人を装う。
 そして、女が助っ人を得た安堵で油断したところを、川瀬自身が他人の面を剥ぎ、仕留めるというわけだ。

 川瀬は反芻しながら、気を失った女を抱き寄せた。

 宮坂は椅子に伸びていた。椅子に座った新島が心配そうに目をやる。
「リーダー、大丈夫ですか…?」
 新島の問い掛けに宮坂は反応しない。新島はたじろいだが、やがて耳に宮坂の微かな寝息が届く。
 眠っているんだ。新島は安心して肩の力を抜いた。
「リーダーが不憫だぜ」
 大月が皮肉る。新島には自覚があるため、言い返すことはできない。
 大月は反撃しようとする気配のない新島を羊のように蔑み、女を運ぶ。廃墟の二階は情事の場所と使われていた。二階からは一階に下りる階段がないため、一階の仲間が梯子を切り離してしまえば、容易に女が逃げられないからである。
 巨漢の大月は女を担ぎながら梯子を上るという芸当を成す。仲間の中では角田もできるが、適当ではない。
 大月と入れ違いに加藤が入ってきた。加藤は部屋の外から大月の罵を聞いてしまった。
 加藤は俯く新島を見るなり、居たたまれなくなって声を掛ける。
「新島さん、気にしないでください。僕も同じような失敗があるからわかるんです。
新島さんは頑張りましたよ。ただ…」
「やめとけ」
 ワインの入ったグラスを手に持った角田が容喙する。
 角田は宮坂に歩み寄る。宮坂の手にグラスを握らす。
「リーダー、ワインです。飲めば、疲労が少しは回復するかも知れません」
 宮坂はぼんやりと目を開け、ワイングラスを手元で回しそれを飲み干した。再び目を閉じ、いびきをかく。
 角田は宮坂から空のグラスを受け取ると、加藤に向き直った。
「大月の言っていることは正しい。お前らが力無しじゃ、リーダーや俺達の負担が重くなるだけだ。少しは鍛えるぐらいの学習は必要だろ…?」
 加藤が大月から目を逸らした。大月は部屋の出口に向かって歩き出す。
「ただ…」
 大月が勝手口前で足を止めた。加藤が振り向く、闇を背景に角田の頑健な体格が蝋燭の光に映える。
「ただ…、慰められるってのは、男の名折れだ。少なくとも新島にとってはな」
 最後に角田は寂寥の目を加藤に向け、部屋を出ていった。
 今まで見たことがない角田の儚い眼差しに加藤は射竦められた。
 言葉が出ない。加藤の理解する角田とはまるで別人のそれが加藤を動転させた。
 加藤は下向く新島を見て、首を振った。
「すいません、僕が馬鹿でした」
 加藤は新島にぺこりと頭を下げ、角田の背中を追うように部屋を出る。
「新島…」
 唐突に宮坂が口を開いた。新島は驚いて顔を向ける。
 宮坂は目を瞑った表情のまま、唸っている。寝言なのかも知れない。
 新島はそれを思って苦笑うと、徐に顔を帰した。

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