楽園の底
なすの子:作

■ プロローグ2

 疲羸(ひるい)していた悪魔の肉体は、薬効のおかげで幾分回復したようだった。悪魔が少女の膝の上で目覚めた時、悪魔は初めて黄昏時なるものを見た。下界のように岩石に囲繞された空間で育った悪魔には、天井の光は常に明るかったが、どうやら光の加減は時間帯で変化するようである。悪魔が少女を仰ぐと、少女は座りながら転寝をしていた。この場所が心地よかったのだろう。風が昼間より比較的涼しい空気を運んでくる。悪魔がそっと少女の膝から頭を擡げ、身体を起こした。悪魔が立ち上がると付随するように少女は目覚めた。少女は目をぱちくりさせて、悪魔の様子を見ると微笑んだ。少女は悪魔に続いて立ち上がると、悪魔の許に歩み寄った。少女は自分の胸を右手の人さし指で指した。
「はみね」
 少女が口を開いて発声した。悪魔が解せないという表情をしていると、少女はにこやかに反応した。
「は…み…ね」
 少女は同じようにしかし前よりゆっくり口を開いて発声した。
「はみね」
 悪魔が少女を指差して発声すると、少女は頷いた。どうやら少女の名前は、はみね、というらしい。少女は次に悪魔を指差して発声した。言葉そのものの意味は判らなかったが、ニュアンスは理解できた。悪魔の名前は何なのか知りたがっているのだ。しかし悪魔には自分が悪魔であること自体わかっていない。悪魔は黙って首を振るだけだった。少女は悪魔の反応に笑顔で返して、唐突に悪魔の掌を握った。悪魔の方を振り向いて、また何かを口にした。どうやらどこかに連れていこうとしているようだった。少女は悪魔を手で引いて歩き出した。抗う理由がない悪魔は、少女の導くままに歩を進めた。初めにこの世界に出たとき、遠方で白い建造物が幾軒も見えたが、その方角に少女は進んでいるようだった。少女は右手で草叢を掻き分け、左手で悪魔を引いた。少女は、歩きながら時折悪魔を心配そうに振り返り、悪魔の存在を認めると笑顔になって再び進行方向に向き直る。その繰り返しを何度かした後で、少女は立ち止まった。どうやら方向としては白い建物の集落には向っていたようだが、目的地は別にあったようだった。草叢がさっぱり刈り取られた界隈(かいわい)に、蒲鉾(かまぼこ)屋根の木製の家が一棟建っていた。少女は、悪魔に微笑んでまた口を開く。少女の家なのだろうかと思いながら、悪魔は少女に手を引かれる。遠くからはわからなかったが、家は粗造に見えた。少女が玄関らしき扉の前まで来て、立ち止まった。少女は右手で拳を振って、扉を叩く。しばらくして、家屋からごそごそと物音がした。他人が木造の床を歩くような軋んだ音も聞こえてきた。その音が扉の前まで迫った時、扉がぎしぎしと開き、中から大きなシルエットが浮かんだ。

 少女がシルエットに向って、言葉を投げ掛ける。どうやら挨拶のようである。シルエットは少女から悪魔の方に振り向いた。シルエットは悪魔に近付くに従って薄まっていき、ロイド眼鏡を鷲鼻の付け根に引っ掛けた優しそうな老人の姿に変わっていった。先ほどまで料理をしていたのか、老人は割烹着の姿だった。老人は目を細めて、室内に少女と悪魔を促した。屋内は、所々天井から吊り下がったランプの光で明るかった。玄関の先は、台所になっているらしく、壁には土塊のついた斧やスコップが立て掛けられており、火の点されていない暖炉の上には、深林をモチーフにした絵画が飾られていた。部屋の中央には小さな円卓と一揃いの椅子が四脚等間隔に並べられていた。老人は白地のテーブルクロスを円卓にかけた。それから暖炉に移動し、調理場から持ち出した銀色の鍋をミトンを着用して持ち上げた。銀色の鍋からは香ばしい匂いが漂ってきた。悪魔は食べ物を口にしたのは何日ぶりだろうと回想した。下界ではそもそもまともな食べ物に有り付いたことがなかったので、老人の作った料理は何もかも素晴らしく思えた。老人に促されて、少女と悪魔はそれぞれ隣り合う椅子に腰掛けた。老人はテーブルの上の木製の台座の上に、鍋を下ろした。少女は椅子を立ち上がって、暖炉の左側にあり少女と同じ大きさの食器棚に駆けていった。食器棚から銀色のスプーンと白い皿をそれぞれ三つ出し、テーブルに戻るとそれを三人の座席に配った。少女はきょとんと見ていた悪魔に目配せして、椅子に腰を下ろした。最後に老人が悪魔の向かいの席に腰を下ろす。老人は優しい口調で悪魔に何かを口にした後、悪魔の前に置かれた膳を取り上げた。銀色の鍋から杓文字(しゃもじ)で白いスープを掬い、それを膳の上に流し込む。老人はにこやかにスープを悪魔に差し出した。熱々と湯気が立ち上るスープに、悪魔の咽喉がごくりと反応する。悪魔は、皿に吸い寄せられるようにスープを啜った。スープを口にした途端、濃厚な焼き鳥の風味が味蕾(みらい)を刺激し、悪魔は感動で涙を流した。それだけでなく、スパイラルに流動する何かが脳髄に駆け上がってくるのを感じた。悪魔の視界は酷く乱れていた。少女や老人の残像がちらつく。やがて部屋中の全ての色彩が和合し、万華鏡のように光を放って歪んだ。悪魔は目を瞑り、嘔吐しそうな感覚を催しながら、頭を振って何とか正気を取り戻そうとした。悪魔は目を開き、再び少女と老人を見る。少女は心配そうに悪魔を見つめ返した。先とは明らかに何かが違っていた。雰囲気ではない。悪魔は不意に口を開いた。今なら何かが伝えられるような気がした。
「おれは…だれなんだ」
 悪魔が発声したのは間違いなく言葉だった。悪魔は信じられなかった。自分の伝えたい意思を言語化できる。悪魔の言葉に、老人は眼鏡の奥の目を細めた。

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