内側の世界
天乃大智:作

■ 第2章 きよしちゃんとキーボー1

 そんな空想とも夢とも思える記憶が、僕にはある。
 僕の住んでる町は、典型的な日本の田舎町であった。二本の川の河口に出来た漁師町であった。日本海で獲れる魚や蟹は、美味しい。なんと言っても、海が綺麗であった。その優しい顔をした日本海も、冬には変わる。荒ぶる神が荒れ狂う冬の日本海が、本性を現す。漁師達は、荒ぶる神が鎮まるのをじっと待つしかない。
 江戸時代には、小さな藩が置かれ、今もその城跡が残り、公園として使われている。
 僅か数万人の町だが、それでも、「市」であった。
 町を離れると、直ぐに、田園地帯へと繋がる。リアス式海岸の為に、平野部は少ないが、ここで生産される「お米」は、良質で美味い。冬には、雪が積もり、道路は即席のスキー場となる。
 夏は、海が綺麗なので、人口の十倍近い海水浴客が、押し掛ける。この時ばかりは、道路は、人と車で溢れかえる。車中では、気の早い子供が、浮き輪を膨らませている。渋滞が続く中、肌を露出した人々が、行き交う。夏の風物詩であった。つまり、一年中、遊ぶ事に事欠かない町であった。
 今日も、川向こうの集落へ遊びに行くところであった。
 春である。
 待ちに待った春である。近年は雪が極端に減った。暖冬が続く。それでも、日本海の冬は厳しい。以前は、年末に降り積もった雪が、根雪となって三月まで融けなかった。それが、正月を過ぎると、一旦融け、一月から二月に掛けて、再び雪が積もる。だんだんと雪が融ける期間が長くなり、今では、冬のシーズンに数度、一週間から二週間、田園地帯を白く染めるに過ぎない。冷凍庫の様なスキー場で、息を吸う様な冷気は感じない。
地球の温暖化であった。
 今日は、塾の日だ。友達はみんな居ない。こんな春うららな陽気の中で、薄暗い部屋で勉強する気が知れなかった。勉強は、学校だけで十分である。
でも、川向こうには、友達が一杯居る。
 僕が、きよしちゃんと出会ったのは、やはり、友達が塾へ行って、僕が一人だけになった、よく晴れた日の事であった。自転車に乗って、遠乗りに出掛けた。なんとなく、川向こうに向かった。母さんは、何時も、「川向こうには遊びに行ってはいけません」と言っていた。そう言われると、行きたくなるのが子供です。川向こうの小学校の校庭では、草野球をしていた。僕は野球が、大好きだった。でも、グローブもバットも持っていない。
 バックネット裏から、楽しそうに野球をしている少年達を見ていたら、「キーボー」、突然、声がした。
 僕は、無視した。暫くして、また、声がした。
「黄帽。お前だよ。そこの黄色い帽子を被ってるヤツ。そう、お前だよ」
 さっきより、近くで聞こえた。
 僕は、いつも黄色い帽子を被っていた。別に黄色い帽子が、好きな訳ではなかった。母さんが、黄色い帽子しか買ってくれないのだ。黄色い帽子は、交通安全に役立つと言うのが、母さんの持論であった。僕は、不満であった。みんなが被ってるプロ野球チームの帽子の方が、良かった。
 そう言われて振り返ると、僕より2学年位年長の男の子が、僕をじろじろ見ていた。僕は、喧嘩になる、そう思った。
「何?」
「お前、野球やりたいのか?」と聞かれ、思わず、「うん」と答えると、直ぐに、仲間に入れてくれた。
 すごく楽しかった。僕は、ピッチャーを任され、ホームランも打った。嬉しかった。日没まで、野球は続けられた。
 声を掛けてくれた少年は、名前を「きよし」と言った。夕闇迫る帰り道、きよしちゃんと僕は一緒になった。
「キーボー、野球上手いな。また、来いよ」
 僕は照れた。僕の夢は、プロ野球選手になって、母さんに楽をさせてあげる事だった。今の僕には、大金を稼ぐプロスポーツは、プロ野球しかお思い浮かばなかったのだ。
「右利きか?」
 きよしちゃんが、夕日に照らされた瞳を僕に向けた。
「そうだけど・・・」
 皆が右で打つから、右で打つ。皆が右手でボールを投げるから、右手で投げる。あたり前の事であった。
「んー、キーボー。一度、左で野球遣ってみろよ」
「はあ」
 僕は、問い返した。今まで、そんなアドバイスをしてくれた人は居ない。
「どうも、キーボーは左利きの様な気がするんだ・・・」
 確かに、僕は、右と同じ様に、左でも打てた。左でも、投げられた。
「うん。遣ってみるよ。そうそう、きよしちゃん達が、僕の小学校に来てくれたら、対抗戦が出来るよ」
 僕の憧れの王貞治選手は、左利きであった。王選手も、中学の時に右打ちを左打ちに変えている。左利きの選手が、気付かずに右で遣っている事が、意外と多いのだ。野球は、左利きが有利なスポーツである。右利きの人が、左で野球をする事は、有名である。
「キーボー、俺達が、そっちに行けない事、知ってるだろう?」
 僕は答えなかった。きよしちゃんは、同和問題の事を行っているのだ。
「何で、一人なんだ? 友達は、居るんだろ? 」
「今日は塾の日で、友達は居ないんだ」
 夕日に照らされた、きよしちゃんのオレンジ色の顔が、少し寂しそうな顔をした。
「それにしても、お前、よく一人で来られたな? 度胸あるよな。酷い目に遭わされるとか、思わなかったのか? 俺たちは、遊んじゃいけない子だろ?」
「僕は一人で寂しかったんだ。誰かと遊びたかっただけだ」
 僕は、少し腹が立ってきた。
「キーボーは、塾とかは、行かないのか?」
「行きたくても、行けないんだ。僕の家は、父さんが居ないから、貧乏なんだ」
「ふーん、そう」
 きよしちゃんが、言った。そんなこんなで、僕たちは、いろいろ話した。きよしちゃんは、この国では、珍しいストリートチャイルドであった。彼一人が、ストリートで暮らしている。
「嘘」と思った。でも、本当であった。僕は今日から、塾に行くお金がないから不幸だとか、毎日、同じ服を着てるのは、貧乏で嫌だとか、電話がない、テレビがない、冷蔵庫がない、トイレもない、風呂もない、玩具も無い、と言って母さんを困らせるのは、止めようと思った。
 母さんに感謝である。
 こんな家だから、友達の家にも遊びに行けなかった。遊びに行けば、今度は、僕の家に遊びに来ると言うに決まってるからだ。でも、きよしちゃんと知り合ってからは、きよしちゃんの「家」に遊びに行くようになった。
 そこは、橋の下や、川原の小屋や、工事現場の資材置き場や、スクラップ工場だったりした。
「いくつも家があるんだね」
 僕が聞くと、恐ろしい小父さんが、捕まえに来るからだと言った。僕は、とりあえず納得することにした。
 中でも、居心地が良い所は、橋の下であった。ここが意外と暖かい。でも、トラックが橋の上を通ると、その騒音と振動は凄まじかった。橋の梁に、資材置き場から持って来た板を何枚も渡して、その中に潜り込むだけだから、中に入っても這ってしか動けない。僕たちは、合言葉を使って恐ろしい小父さんを、警戒した。かなり仲良くなったのに、きよしちゃんは、生い立ちについては、何も話してくれなかった。
 でも、一番の親友である事には変わりない。二人でお揃いの革ジャンを着た。パチンコをして、一緒に映画館に忍び込んだ。きよしちゃんは子供なのに、お酒もタバコもやった。一緒に盗みもやった。すごく緊張して、スリリングだった。昼間の万引きも、どうやら、大人達は、きよしちゃんの事を知っていてか、あまり、深追いはして来ない。
 これが、街の優しさだと思った。
 でも、すぐに、母さんが学校に呼び出され、僕は、大目玉を食らった。
「頼むから、止めて。そんな事は。小さい頃から、そんな事をしていると、大人になったら、ヤクザになってしまう。それだけは、止めて頂戴」
 母さんは、怒った。
「大人になったら、してもいいの?」
 僕が、反抗すると、パシン・・・
 いきなり、母さんに平手で殴られた。
「あんただけは、まともに、育って頂戴」
 左耳の鼓膜が、破れたかと思った。僕は、しばらく泣きながら、左耳が聞こえるようになるのを待った。母さんは僕を抱きしめて、震えながら泣いた。生まれて初めて母さんに、殴られた。そして、盗みはしないし、大人になっても、ヤクザだけにはならないと決めた。

■つづき

■目次

■メニュー

■作者別


おすすめの100冊