2007.03.30.

狂気の住処
01
ビーウスの友



■ 1

 鬱蒼とした森に浸食され見る影もないが、男達が屯するこの地域は旧日本軍の野営所として使われていた。
 今や至る所に苔生したコンクリート製の建物が軍の宿泊施設に利用されたものだろう。二階造りだが、一階からの階段は崩れ落ち、二階へは梯子を渡して入ることができる。随分荒れ果てているが、屋根は健在で雨風の凌ぎくらいはできる隠れ家だ。
 廃墟の中には見張り番を任された男達が二人、座っていた。猛獣ようなガタイのいい男とそれとは対照的に痩せ型の男である。
 二人の男達は白熱したババ抜きを格闘中だった。
「おい、下等。負けた方が今日の運搬作業に従事するて約束、忘れてないよな?」
 大月が向かいにいる加藤を睨んだ。
 大月の鋭い目線は冗談めかしくあっても充分凄みが利いている。
「わ、わかってますよ…」
 加藤は小便をちびりそうな弱った顔で何とか言葉を返した。せめてもの男のプライドというものだ。
「お前の番ださっさと抜け。下等」
 大月は加藤のことを「下等」という意味合いを強めてそう呼ぶ。おそらく加藤という人間が傍から見ても明らかなほど小心者であるからに他ならない。
 差し出された大月の厚ぼったい指先に摘まれているカードに皺ができている。
 加藤は縒れたカードの一枚に手を伸ばす。大月はババを取らせようと加藤にトラップを仕掛けるに違いない。取れとばかりに掲げたカードがババかそれともフェイクか。加藤の指先が一枚のカードを地雷にでも触れまいとする慎重さで突いた。
「おお…っ」
 大月が唐突に奇声を上げた。驚いた加藤は慌てて手を引っ込める。
 大月は加藤の機敏な反応を面白がっていた。黄色く変色した歯を一杯に剥いて、笑い上げる。
「下等、お前は本当にどうしようもない奴だな。今日はお前が最初に女を抱けるよう、リーダーに申し込んでやるよ」
 法螺吹きの大月は気前のいいことを言うが、実行にうつすことは少ない。
「いいんですよ。どうせ僕は今日も女を抱けず仕舞だ」
 加藤が大月からカードを抜き取った。ババではなかったのが、加藤の安らぎようでわかる。
 大月はこめかみに血管を浮き立たせた。
 大月の殺気立った瞳孔をトランプの隙間から垣間見た瞬間、加藤にはこの先の結末が推測できたのかも知れない。

 ババ抜きにどちらが勝とうと、「下等」と罵られる加藤が大月から強制的に運搬作業を押し付けられる悲しき定めは変わらない。

 昼下がりに加藤は海岸に出た。肌を炒り付けるような熱線がお構いなしに加藤の頭上に降り注ぐ。
 加藤は手を翳し、海辺の船を探した。大方この時間帯に仲間のボートが物資の輸送に表れるはずだ。しかし如何せん、その姿は発見できない。数十分後、加藤は力尽きたように木陰に身を横たえた。

 しばらく静かに時間は経った。日はもう暮れかけている。
「おーい! 見張りはどうした!?」
 彼方から聞こえるメガフォンの怒声に加藤の身体は反射的に飛び起きた。水平線に一隻の船が見える。草臥れたビーム、塗料の剥げかかったフレーム、間違いなく仲間の船だ。目を凝らすとありありとその様相は浮かぶ。
 加藤は手を大振りに揺すって、モーターボートを誘導した。船体が近付くと加藤は海水に足を漬かった。減速して岸辺に向かうボートの船首を抑える。
 フェリーから男が飛び下り、加藤に顎を振って船倉の荷物を運び出すよう促した。加藤は波打つ海水に足を取られながら、男の指示通り積載物を諄々に岸へ放った。
「おい。大月はどうした?」
 男に聞かれ、加藤の手が止まる。
「多分廃墟で寝てると思います」
「ふん…」
 男はポケットから煙草を取り出すと、唇に挟んだ。火元を探す男の仕草に、加藤は荷物から取り出したマッチを男にやった。男が薄ら笑う。
「加藤、また大月にやり込められたのか?」
 男は火の灯ったマッチを煙草の先端に宛った後、海に捨てる。
「角田さんは大月さんと一緒にいてそんなことはありませんか?」
「俺とお前を一緒にするな。大月は従属関係てのを弁えているのさ。加藤お前はこそこそしてるから嘗められるんだ」
 角田はスモークを鼻から噴き出すとけらけら笑った。
「それより、今日のおかずが何になるかお前はきにならないか?」
 角田が口角を釣り上げた。加藤が首を傾げている間、フェリーから荷物を担ぎだす。
「僕は腹がふくれるものなら何でもいいですけど…」
「食い物の話じゃない。女だ、おんな」
「あ」
 今宵、初めて加藤の頭に女の裸体が描かれた。
 ぼっと立ち尽くす加藤に角田は眉を顰める。
「何をぼんやりしている。さっさと荷物を運べ」

 角田に下知を浴びさせられながら、加藤はそそくさと荷物を運び出していくのだった。

 宵、月は綺麗に空を浮かぶ。道外れの長椅子に宮坂と川瀬は並んで座った。
 目の前の道路を放射状の赤い光を放ちながら過ぎていくパトカーを宮坂は根深く被った野球帽の隙間から眺めていた。
 横にいる川瀬は退屈そうに、掛けた眼鏡の蝶番を弄っている。
「宮坂。新島は戻ってくると思うか?」
 不意を衝く問い掛けに宮坂はたじろぐことなく冷静に口を開いた。
「ああ、奴ならきっとイイ女を連れてくる。
諾否なしに、な…」
 宮坂は唇で笑ったが、川瀬は暗澹とした表情を変えようしない。
「それならいいが、裏切られたら私達はおしまいだ。
今なら思うが、新島は殺しておいた方が良くなかったか?」
 宮坂は帽子を浅く被り直して、点々と灯る外灯を見つめた。
「新島が俺達をサツに売るならそれでも構わないさ。
俺達の運命はそれまでだった、ってことだろ?」
「ふん…」
 川根は鼻であしらった。
「甘いな、宮坂は…」
 川瀬は眼鏡のブリッジを指先で操った。
 赤色の後光が彼方に小さくなっていく。
 宮坂は唸って、ベンチの背もたれに寄り掛かった。
 川瀬は溜息をつく。川瀬は宮坂の寛大さに自暴自棄とも考えられるいい加減さを感じながらも、何処かそういった性癖に大きな器を見ていた。
 大学病院に勤務時、川瀬は何かと上辺を気にする人間だった。それは川瀬が望んだわけではなく、病院という施設が労働者に与えた後天的作用を受けた結果の順応である。
 くだらないことに神経を磨り減らす自身への嫌気は日増しに川瀬の中に沈澱していった。
 一方で、川瀬は医師の存在意義を見つめ直した。
 不条理な考えもあえて損得勘定に基づき考慮した過程で、川瀬は違法手術や、研究でそれを露にする。
 それは自身の見識を崇高たるものと見なした所以が成したことなのだろう。
 川瀬はただ同僚の医師達に顛末を知られ、医師免許を剥奪された。
 しかし、川瀬は自然と悔恨を生やさなかった。そればかりか、肩胛骨にあるべき両翼が芽吹いたような自由感を味わった。
 それから定職に就く気配さえ見せずキャバクラなどで油を売っていたところ、川瀬は宮坂に出会した。
 川瀬は宮坂に奔放な人間の生き方を聞かされ、精神の四肢をも束縛する概念を打ち砕く切っ掛けを得た。川瀬は当時の自分と決別する。

 そして、川瀬は宮坂という男に、妙だが自分の一生を捧げてもいいとさえ思うようになる。

 川瀬が項垂れた頃、ガードレールを突っ切るような速度で蜿蜒の道路を下る軽車を宮坂が捉えた。車は間違いなく新島に貸し付けたものだ。宮坂は上体を起こした。
「おい、川瀬。裏切りの心配は杞憂に終わりそうだぞ」
 川瀬がふと顔を上げるタイミングで、車両はスリップ音を立てながら川瀬達の座るベンチの真横に停まった。エンジンの振動音が間近に聞こえ、車窓から新島の童顔が覗いた。
「すいません、リーダー。獲物がなかなか罠に嵌らなくて…」
 宮坂は手を小さく振って「気にするな」と新島に言った。川瀬は厳しい眼差しで迎えた。
 ドアが開き新島が下りてくる。両足を地面につけたところで、宮坂と川瀬を仰ぎ見る。ガラス越しには分からなかったが、新島の右頬が赤く腫れ上がっている。
「どうした? その怪我」
「ああ、後ろの女ですよ。とんだじゃじゃ馬だ…」
「ほう、それはたいした手柄だぞ。新島」
 川瀬は新島の肩を叩いた。宮坂は車の後部座席のドアを開ける。円らな目を閉じた若い女がシートに横たわっていた。
「こいつは女子大生か? 大月が喜びそうだな…」
「他にいい女はいなかったのか? 私の生成した賦活剤なら、どんな女もものにできる筈だが…」
 新島は頭を振って車から出た。川瀬は附に落ちなさそうに女を眺める。
「自分にはこれが精一杯ですよ…。自分の軟派に応じてくれるのはこういう娘達が大半ですから」
 新島と入れ替わりに川瀬が車の運転席に乗り込む。宮坂が車から女の肢体を引き離そうとしている。女の脇に両腕を潜らせるがうまくいかない。宮坂は新島に助力を促した。
 新島と宮坂が女の上下半身をそれぞれに支え、漸く車両から運び出す。ドアを閉めると、宮坂が川瀬を見上げた。
「車は山辺の保管所に駐車してくれ」
「わかっているよ」
 川瀬は手で合図を送り、車を発進させた。枯れ葉を燻したような煙が辺りに立ち込める。
 取り残された二人は道を顧みた。
「新島、道のりの前半と後半どっちに女を運びたい?」
「自分はどっちでもいいですよ。リーダーが決めて下さい」
「ならお前は後半だ。俺は後々、楽にしたいからな」
 えいと宮坂が女を背負う。新島は宮坂に随行していった。
「ねえ、リーダー。その女初めに抱くの、って誰にしますか?」
「向こうで決める。優先は、今回はないからな…」
「正々堂々、じゃんけんですね」
 新島が笑った。宮坂は息が少し荒くなったのを感じて足を止めた。新島は不思議そうに宮坂の背中を見つめる。
「どうしました?」
「新島、お前。前から言いたかったが、この女、想像以上に重いぞ」



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