そこにもし拾われた石が置かれてあるなら、それは、私が拾わなければならなかった。しかし私でない誰に、その石を拾えるだろうか。誰の事も思い浮かばない内に、私は、石を見失おうとしているし、その石の置かれるべき所はもう見失っている。そして、石というものがどんなものであるのかも、見失えるのなら見失ってしまおうと、あらぬ方に目線は彷徨い始めている。なぜ、石が拾われなければならないのか。その石の置かれるべき所へ出向こうとした事もなく、何も知らされないまま、ここへ連れて来られたらしい。それとも、私はずっとここに居て、そうと分かっていなかっただけで、元からここは、私が石を拾うために設えられた所だったのか。そうであるなら、ここがどんな所か分かっていようといまいと、どれ程の違いもない。しなければならない事を分かっていたのに、そうせずにいられただけだとしても、まるで何も分からずにいたのと変わらない。或いは何も分からずにいる方が、そうせずにいられなくなっていたかも知れない。そしてここは、ただ拾われた石の置かれるべき所でしかなくて、そんな所に私が居続けられるのは、私だけが、その石を拾わなければならなず、他に代われる者がいないからではないか。その私は、そんな事から目を背けてさえいれば、ここに何時までも何もせずに居られるのを知っていて、高を括っていたのか。つまり、触れるどころか、見ようともしなかった石のお陰で、私は、こうして何もせずにいられたとも言えそうだ。それならと、私は改めて目を背けた。しかし、何処から何処へ。見失ってばかりいて、何処へ目を背けられるのか。その背ける先先で、見失ったからには、また見出さなければならないものに、先回りされているだろう。石を拾って、その置かれるべき所に置かなければならないままである限り、眠ってでもいるように立ち尽くすしかなかったが、体に潜む眠気が、その端々まで払い除けられているようでもあり、そうして眠りと懸け離れる程に、どんな深い眠りの底よりも深い所を、ぼんやり眺め回すしかなさそうでもあった。

 それでも体は動こうとし、その動きが、訳ありげでなければ間が持たないかのように、灯りの方を向こうとする。夜遅くて閉ざされた部屋であっても、ここは暗闇とは違う。それなら目は必ず光りを捉える筈で、或いは、その光りに惹かれて、ここに迷い込んだのかも知れず、それに照らされてだけ私は、人の姿をしていられるようでもある。そして、その灯りの向きを見定めれば、灯りと私の間にある、何かの影の一つも目に留まるだろうし、それは、私を丸ごと招き入れたがる底の見えない裂け目のように、私に向かって拡がって来るだろう。その拡がりに身を添わせてみよう。それでもう消えたも同じだ。私を人の姿に見せている、纏わる影を全て振り払って、その灯りの下に埋もれて忘れ去られれば、眠りもせず眠らずもせずに済むだろう。そんな事を目論見ながら立ち尽くすしかない所で、私は、ただ独楽のようにクルクル回っているらしかった。ただ足元の何かの影に倣って、全く音も立てず、僅かの風も起こさずに。そして、そのように振る舞えたのなら、石というものがどんなものであるのかを、見失うばかりか、すっかり忘れてしまえたのだとも信じられた。敢えて再び思い起こそうとすれば、石とは、拡げたばかりの指の間の僅かな温かみの、冷たく乾き果てながらも纏わり続ける何ものかだった。その纏わるものを拭い取ってしまえば、石と石に係わる一切は、もう決して私の前に現れないのではないか。

 と、そんな事を望んでも何がどうなる訳でなく、もし独楽であるなら、或る一点の上に乗せられて、ほんの僅かも動けないのに変わりはない。回り続ける私を止められるのは、私に代わって石を拾ってしまった者だろうか。それとも、私をここから立ち去れないようにしている、また別の見ず知らずの誰かだろうか。しかし、見ず知らずというなら、石を拾ったらしい者も、石を拾われてしまった私さえも、私には見ず知らずのようではないか。どうしたら、石を拾われてしまった私を、私の見知っている私であると、確かめられるだろう。しかし、確かめられたとして何になるだろう。見ず知らずであろうとなかろうと、ここから逃れられないなら、そんな私の何が知れたところで、何も付け加わりはしない。それに、見知っている私が見出されたところで、見知らぬ私に見出されるしかないなら、それによってまた、見知らぬ者になるしかない。それとも、その見知らぬ私の方が、ずっと変わらずにいた私であって、それを見知らぬ者と思う私の方こそ、今初めて現れた、私であるしかない筈なのに、誰とも分からぬ者のようではないのか。それなら別に、見知らぬ誰かの力を借りるまでもなく、見知らぬかも知れない自らの力で、クルクル回る体を止めに掛かっても構わない。しかしそもそも、そんなクルクル回るような体など、持ち合わせていたのか。拡がって来るどころか鋭く逸れて途切れる細い影に倣って、体は、身を縮めようと出来るだけではないか。そうしてやっと、私は、足元の低い方を、目で探り当てたに違いない。ひょっとして、石がまだ拾われていないなら、その辺りに落ちていないだろうか。

 と、そんなありもしない事を見込むだけ虚しい。もし石が私の目に映るなら、それは必ず、もう拾われていて、他の何とも係わりを絶って、私に向けて示されるだけの石であるだろう。それを見失ったか、見失おうとしているだけで、どうしてそれを退けられるのか。それでも目は、低い方へ低い方へと誘われるままで、私は、その為すに任せようとしていた。そうして、そんな私の態度について語る、誰かの声を聞かされるようだった。それは、諫めるようでもあり、庇うようでもあり、口調は、低く穏やかに囁くようで、そんな声の出し方は聞いた事がなかったが、声には聞き覚えはあった。何人かの人の、棒を立てたような姿が、浮かぶようで、傾き消え掛かる。その人達は直ぐ側に居て、時々途切れる声と声の間に、声でない物音を差し込ませた。まるで、その声ではなくその物音を、私の耳に届かせようとしているようだ。物音は単調で、声よりその物音の方が、耳に馴染み易いと分かって来て、そうなると、声のする方から身を逸らそうとしなければいられなくなった。声の途切れている間は、段々と長くなって、声は、何も示さず表情もなくし、愈愈消え入りそうに、語るためにではなく、目の前の何かに、ずっと向き合っていなければならないために、已むに已まれず出されているように聞こえた。その人達の姿は、どれも何処か似ていて、その似ているという絆で繋がっていると見え、その絆は、彼らの向き合うものにまで結ばれ、そうであるなら、その結び目から、私にまで届いているのは明らかだった。その向き合うものではなく、先ず彼らのために、私は、その絆を認めた。私の中の結び目で、絆は閉じ、閉じた中に、その向き合うものが囲われたなら、私もまたそれに向き合えるのかも知れなかったが、そうして向き合おうとすると、その向き合っているものの側で、絆は、弱々しく解れてしまうようでもあった。結び目の役割を果たせない弱さが、そこで際立った。私が加わって、絆が閉ざされたせいだろうか。それとも、その絆に耐えられない弱さが、絆を閉ざし、私達がそれと向き合わされているのは、その弱さのせいだろうか。

 単調な音を出している物が、絆の直ぐ脇にある。人の背程はありそうで、そこに突き立てられているか、宙吊りにされているか、恐らくどちらかではありそうで、何だか分からない形をしていたが、直ぐにそれが、どうでも良い、見掛け倒しのただの慰みのようなものだとは分かった。或いは、その中の青緑の小さな窓に映る赤い波線の動きから、細かな数字が読み取られ、それを書き写した手紙が、私をここへ呼び立てるために届けられたにしろ、その手紙もまた、インクの染みた紙屑でしかないと分かっていた。となれば、その音を立てる物など、目障りなだけで全くここには要らない。いやそうでもない。お陰で、私との距離を測れる物が、初めて目に入ったのだ。私の周りには、四人居て、四人とも背が高く、肩と肩が触れそうで、狭苦しそうに私には見えたが、彼らにはそうでもないらしく、それは、四人の心臓が全く同じ鼓動を拍っているからだとも思えた。そうなるには恐らく、それなりのかなりな時間が要っただろうが、その時間の中に私を加えようとは、彼らは少しも考えなかったようだ。それぞれが、それぞれ自らの耳にだけ向けて囁くような、籠もって丸みを帯びた呟きを、切れ切れに洩らしていた。私もまた、彼らと同じような声を出さなければならないのかも知れなかったが、声は出なかった。心臓の鼓動に至っては、真似る気も起きない程、私のそれとは懸け離れ、静かに研ぎ澄まされていて、それに引き替え、私の心臓からは、汚い雑音ばかりが鳴り出すようだ。一瞬彼らの声が、刺々しい細かな粒のような感じに変わったが、それは、出来の悪い心臓を持つ私の耳にだけ、そう聞こえるに違いない。それでも私の唇は動いて、それを、私を囲む四人は、身動き一つせずに正確に見て取れて、暫く黙り込んでから、何かの打ち合わせを、ただ目と目を見交わすだけでしてから、私から少しずつ遠ざかり、重なりながら姿を消そうとするのだった。

 私の他に、一人だけが、姿を消しそうになかった。四人とはまた別の人で、独りだけ腰を下ろしていて、私とだけは似ていたが、四人とは似ておらず、誰が何処へ行こうと、その人だけは最後まで残るしかなさそうだった。その人が、私が拾わなければならない石を拾って、そこに置いたのだし、私や他の者達を呼び集めたに違いなかった。その拾われた石が、はっきりと見えた。私は、立ってこそいたが、その人の側に、ぴったり寄り添っていて、二人で石を見詰めていた。石は、確かに息をしていて、それに合わせて揺れていた。息は、少しムラがあっても強く鋭く吐かれて、その息の強さを、私達二人に見せ付けようとでもするのか、その身を無理にも揺らすようだった。寄り添う人の顔を覗くと、その肌の奥までを染め抜いているのは、僅かな温かみの、冷たく乾き果てそうに纏わり続けるもののようだった。そしてそれは、石の色にも似て見えているのだと、思えて仕方なかった。一体それは何なのか。なぜその人の顔が、そのようなものに似るのか。それについて、直ぐにもはっきりした答えを見付けなければならなかったが、考えは何処にも辿り着かず、徒に切羽詰まるだけだった。それは、私によって拾われなければならなかった石について知るのと、何処かで繋がっているに違いない。そしてそうであるなら、その顔についても、見失おうとするしかないのか。

 それでも恐らくは、何かを知ろうとするために、私は、その人を離れ、石の向こう側へ回り込もうとでもしていた。そうしながらも私は、その人の顔を覗き込むままで、その覗き込む中に、その人の顔を見失ったのかも知れない。身を揺らす石は、回り込もうとする私の喉元辺りに向かって、温く汚れた水の脹らんで流れて来るように、その形を伸ばして来た。その先端の表面は、一つ一つそっと抓んでみたくなる程に細かく分かれ、カサカサに乾いてポロポロと零れそうだったが、汚れ一つなく真っ白だった。私の目の前で、それもまた左右に揺れた。何処か弱々しげで、私に、手に取って欲しいかのようだった。布の擦れるような、石の息の音が聞こえて来て、その音を頼りに、石の先から更に奥へと回り込めた。そうして、行き止まりの狭い所に、石の方を向いて真っ直ぐに立つと、背骨の上から下までが、重力の向きと寸分の狂いもなく垂直で、私の胴体も、天と地を貫くものに含まれているのだと感じ取れた。身を細かく揺らして横たわる石を、透き通るような壁を背にして、斜め横から見下ろしていた。

 伸ばされた石の端は、こちらからは遠い側になって、向こうを向いている。そしてそれを、見失われたままの顔の人が、手に掴んで引き寄せた白く柔らかそうな布で、覆い隠そうとしていた。その人の手は、石の端を向いてはいなくて、なぜか僅かに上を向くのだった。ここが壁に閉ざされた部屋であるにしても、その手の向く方にだけは、壁は立ち塞がってはいないのかも知れなかった。その手を照らす光りも、私を人の姿に見せる灯りとは別のものかも知れなかった。そして、壁の替わりに何があって、何処からの光りがその手に届いているのかを、私は決して、見て取ろうとさえしてはいけないのだと分かった。その人と私が似ていたとしても、それは、その人だけが見て取ろうと出来る秘密に違いなかった。その手から白い布の端が滑り落ち、揺れる石の端が隠されると、その手の、翻されるゆっくりした動きは、あらゆる向きからの羽のように軽そうな光りに晒されるようだった。壁は全て吹き払われたかのようだった。しかし、そう私の目に映るのは、それに乗じて私が、透き通るような壁の向こうの、また別のもう少し明るい灯りで夜の闇を退けている、ここよりも広く、更に別の空間へと通じる部屋へと、自らの身を放り込みたいからではないか。そして、その部屋で黙って仕事をしている手近な誰かを掴まえて、その着ている物を剥ぎ取り、その者に成り済ましたいからではないか。その剥ぎ取った衣服と肌を剥き出した肉体は、何と若々しい匂いを立てて捩れようとするのだろう。その匂いの後ろに走り込めば、私はもう、二度とここを振り返らず、ただ騒がしく見通しの利かない欲得ずくのあれやこれやの中に、また紛れ込んで行けるだろうか。そんな私の姿を追って行く、自らの目付きの醜さと危うさを、振り払おうとしていると、白い布の上のその人の手は、少しも動いていなかった。替わりに、紙のように薄く透き通った幅の広い刃物が、波打ちながら、私の喉元を、繰り返し掠めるようだったが、それらしものを見て取れたのでも、その唸る音を聞き取れたのでもない。それなのにそれは、部屋いっぱいに振り回され、私の体を後ろの壁に押し付けた。

 そんな中に、見失われたその人の顔が、また見出された。それはまるで、その上に石の影の落ちている石のようではないか。そして、部屋いっぱいに振り回される透き通った刃物は、その石の影から滲み出る尖った小さな艶のような、その人の釣り上がった両の目ではないのか。いや、そんな妙な考えに、捕らわれていてはいけない。微睡みへの誘惑を、自らに仕掛けているようなものだ。そんな事が通用する時ではない。そんな考えはどうしても振り切らなければならないが、そう出来たかどうかを、どうして知れるだろう。たとえその顔が、石の影の落ちている石のようであっても、その影を落とす石そのものでさえなければ良いのだと、決め込んでしまおうか。そして、その人の両の目は、その奥にまで、その石の影が差し込むせいで虚ろに見えて、その虚ろな中を波打つ刃先のような鋭さを、私がただ徒に恐れただけだと、決め込んでしまおうか。しかし、そう決め込むしかない私こそ、独楽のようにクルクル回って、後ろの壁と同じに透き通って、その壁の色の中に姿を溶かし込ませなければ、ここに居てはいけない者ではないだろうか。勿論、そんな事は出来ない。だからこそ私は、ここに居なければならない。そんな私が助けを求められるとすれば、私の目の前で、温く汚れた水の脹らもうとするように、息をして身を揺らす、真っ白な石の姿の他にはあり得ない。

 逆にその石こそ、私に助けを求めている。そうであるからこそ、私からも、その石の姿に助けを求めようと出来る。そう気付いて、直ぐ手の届く所にある石の縁を、撫でずにはいられなくなった。そのやや角張って丸い縁だけは、白く柔らかい布から食み出ていた。石の表面は、微かに濡れて、掌にそっと張り付いて来る。思った通り、それは温みを持っていた。その湿り気と温みを掌に移し取ろうと、暫く掌を押し付けていたが、その湿り気と温みは、直に掌をそこから離れさせ、二度とそれを触れられなくさせるようだった。血の通う掌が触れて良いのは恐らく、それよりも必ず、熱いか冷たいか、乾いているか濡れているかしなければならないのかも知れない。いや、もっと数限りない条件があるのだ。それらどの条件にも当て嵌まらない、あってはならない感触を、掌は移し取ってしまって、それは何時までも掌に残りそうだったし、残っても欲しかった。

 その自らの掌に押し返されて、私の体は後退っていた。何か短く話し掛けられ、それに何か短く応えていた。その一人しかいない話し相手のその人の顔は、もう石のようではなかった。顔の表面は、鏡のようで、つい今まで、その面と向かっていた石の肌理が、そこに映り込んでいたに違いなく、その替わりに今は、私の姿が映ろうとしていた。それを知ってか知らずか、顔は僅かに背けられた。そうして顔は何も映さなくなった。いや、その上っ面に映らなくなっただけで、それで却って、その人の顔色そのものを映していないだろうか。その顔色が、つまり、何も映さない鏡のようなのだ。私が拾わなければならない石を、その人が拾わなければならなかったばかりに、そうなってしまったのは明らかではないか。他に何があるのか。いやそれとも、ただ私がその石を拾わなかっただけで、そうなってしまったのか。しかし、私が拾わなければその人が拾うしかないのであれば、私がその人に石を拾うように仕向けたのであって、それこそが、その人の顔色を、何も映さない鏡にしてしまったのか。それともそうでさえなくて、石が拾われなければならなくなっている事だけが、他の一切に先立って力を振るったのであって、私の振る舞いなどは、後で取って付ければ済むようなものだろうか。どの途、私が石を拾わなければならないのなら、私は、その石のための、ただの付き物に過ぎないようでもある。

 その人の顔だけではなく、部屋の中の全てが、何も映さない鏡で覆い尽くされていた。ただ私と石だけが違っていて、私が鏡のこちら側にいるとしたら、石はその向こう側だった。或いは、私にそう分からせるために、部屋中が何も映さない鏡になるのかも知れない。そうであるなら、その人の顔色が、私にそう分からせようとしている訳だ。そしてそのせいで、私の全身を、私を取り囲む鏡よりもずっと、決して何も映そうとしない鏡に見せていた。見せているだけではなく、元々そうである私の姿を、隅々まで暴き立てていないだろうか。いや、何も映そうとしない鏡を、鏡と呼べる筈もない。それは、上っ面を何も映さない鏡のように塗り固めた、鏡の振りをするだけのものであり、そんな私の姿が暴かれたのだ。一方、この部屋でただ一つ、その身を揺らす石だけが、鏡とは決して何の係わりもないものに見えた。それもただそう見えるのではなく、そのようなその石の元々の姿が、何も映さない鏡によって、隅なく剥き出しにされているのに違いない。鏡によって剥き出されながら、その石の姿は、鏡によって守られてもいて、私だけが、その鏡の外に押し出されていた。或いは、何も映さない鏡は、私から、石を守ろうとしているのではないか。私の他に、石でも鏡でもないものは、ここには何もないのだから。そうして石は、その置かれるべき所に、独りで置かれているのではなくなった。それは、私と一対になってだけ、そこにあり得た。

 しかし、その石は、一体どのようなものか。部屋中の鏡は、もう何も映さない。石を映し出そうと出来るのは、たとえ鏡より更に何も映し出せないと分かっていても、鏡の振りをする私しかいない。私がそう思うだけで、何も映さない部屋中の鏡は、私を石に近付けていた。私が近付く程、石は、鏡によって堅く守られるようだった。或いは、それがいけなかったのかも知れない。石が見えなくなった。と言うより、石と見えていたものは、少しも変わらず身を揺らすままだが、なぜそれが石なのか、分からなくなった。石など、何処にもない。この部屋にないだけでなく、私の知っている世界の何処を探してもないだろう。あるとすれば、石などないとしつつも、石を探そうとし、それを見付けて、石が何であるかを問おうとしている私こそが、石のようではないか。何処にもない石なら、初めからそれは何ものでもなく、その欠片も見付からない筈なのに、それを石ishiと言い表し、改めて何処にもないと言い直す者こそが、石に係わる者であり、他には石は表わされようがないなら、その者自らが、石と成り、石であるしかない。少なくとも、そう受け入れるしかない。そうして再び見えてきたかも知れないその石を、私は、より確かなものにしようと、静かに拾い上げようとし、拾い上げた振りをした。役割を終えたように、鏡は、私の周りから跡形なく退いた。それに替わって、石の置かれるべき所だけがあり、拾った石は、元々そこから生まれて来て、全く汚されていないかのように、すんなりそこに置かれたので、辺りは、そのただ一つの石で満ちて、そこに宙に浮くようにぴたりと収まるのは、その等身像であるかのような私だった。

 すると、そこには何も置かれていないように見えたが、それが石であり、石だけがあり、石は石を映していた。映された石は何ものでもなかったが、そのように石に映される事によって、石になっていた。そして、そうして石になったものだけが、石だった。そんな厄介なものに、誰が触れようとするだろうか。

 空を掴もうとするばかりの白く痩せた片腕だけが、その満ちた石の中へと突き立てられていた。それは、ずっとそうしていたのだ。身を揺らして横たわる者の腕だった。空を掴みたい筈もないが、石の中には何もない。私は、石が何であるかを、知れたように思えた。石とは、その身を揺らす者の望みに一切応えようとせず、空っぽである程、そこにのし掛かって行く重みではないか。それに圧し潰されそうなその身は、そのために設えられた限られた狭い所で、藻掻き続けるしかない。それでも腕を突き上げるのは、そこがただ空っぽなのではなく、彼の望みに応えようとする何ものかが、必ずそこにある事を、空っぽな石のために、証し立てようとしているからに違いない。にも拘わらず、それに応えようとしないからこそ、石は石であるしかない。それを変えられるのは、私しかいない。いや或いは、望みを捨てようとしない身を揺らす者こそ、石を変えられるただ一人の者で、私は飽くまでそれに抗って、石を石のままにしようとしていないだろうか。石のままどころか、私はずっと、身を揺らす者をも、石にしてしまおうとして来たではないか。それを、その石として置かれるべき所に置こうとするのは、石としての私の望むところで、それに抗うためにこそ、横たわる者の身は、揺らされるのではないか。

 私から見る限り、二人で一つの石なのだ。一方は、それに為す術なく空っぽで居続けようと立ち尽くし、もう一方は、ただ見下ろされて、空っぽが決して空っぽのままであり得ないのを望みながら、何一つ得られないでいる。二人は、こんな所に来て、二人切りで何をしようとしているのか。少なくとも、為す術ない私は、何をしたいのだろう。ずっとこの二人のまま、ここにこうして居続けられれば、恐らく私は、他に何を望む事もない。一方、私に見下ろされるだけの者は、明らかに、私がそれとは別の事を望むのを、待っているに違いない。別の事とは、私が空っぽで居続けるのを已める事でしかないだろう。しかし私は、たってと願って、自ら空っぽになったのではなかったか。そのためにだけ、様々なものに背を向け、私に授けられた力を、残りなく注ぎ込んだのだ。そうして私は、その私の体から抉り出したもの全てを、辱められた汚れた物として、闇夜の空の向こうにでも委ねた筈だ。他に私に何が出来ただろう。

 その辱められた汚れた物に、私が見下ろしている者の姿は、そっくりだった。自ら抉り出した物に、仕返しでもされているようだ。それでも、もう決して目を逸らせないと分かっていた私は、それならと、却ってそれを、あからさまに目の奥に映し取ろうとするしかなかった。しかしそれは、そうしていれば、その内にそれを、闇に委ねてしまえると、私の体から汚物を抉り出した先の経験から、学んでいたからだ。ずっとこの二人のままでは居られない、その覚悟を少しずつ決めていた私には、そのようにして、見下ろす者を捨ててしまおうとするしかなかった。ただ眺めてさえいれば、目は、愈愈それを忘れ難く事細かに描き出し、遂にはそれは、一個の汚物となって抉り取られ、吐き出されるように、ここからは見えない何処かへと、捨て去られるだろう。私もまた、待つだけだった。それは、見下ろされる者が待つのを已めるのを、待つ事だった。それでよいのか、と私は、何度も問うていただろうか。そうかも知れない。但し、決して待つ事を已めずに。

 それでも尚、二人で一つの石なのだろうか。私が眺めなければならないのは、片方ではなく、二人揃っての、対になった姿ではないのか。しかし、それなら私は、二人を、一纏めに汚物として捨ててしまいたいのか。それも、そうかも知れない。しかしそんな事は、叶う筈はない。今、捨てられようとされているのは一人で、残るもう一人、私が、それを捨てるのだ。それこそが、私がここで知らなければならない事で、それを知らされるために、私はここへ呼び出され、離れ離れになるしかない二人は、それぞれに辱められ、汚物となって、互いの前から姿を消すしかない。石など初めから何処にもなかったし、私に見下ろされる者は、それをただ私に伝えようとする姿しか、最早、私に見せる事を許されてはいない。だからこそ、私は、私一人を救い出すために、拾わなければならない石などを独りで思い描き、それを独りで拾おうと身構えなければならなかったし、そのようにして、私に救えたかも知れないもう一人を、救おうともしなかった。そうして私は、誰も救えなかった。私の体の中にまた、抉り出した筈の辱められた物共が、圧し戻されているのが分かった。それは、私の知りようもない、闇夜の空の向こうに満ちていたであろう汚れに塗れてしまっていて、再びそれを私の中から抉り出そうとするには、それは途方もなく捉え難そうで、それによって私は、闇夜の向こう側からも、辱められなければならないに違いなかった。

 それでも、見下ろされる者は、身を揺らすのを已めない。今更、私がどうであったところで、何の係わりも及ばない。それなら私にはもう、その者の姿は、手に取るまでもない何処にでも転がっていそうな石と、同じなのではないか。どうなる訳でもないと分かってはいたが、それを確かめずにはいられなかったのか、私は、身を屈めようとした。見下ろすのを已めて、それと同じ目線になれば、何か見付かるかも知れない。それで、身を揺らす者とぴったり真正面に向き合える位置を探していると、石が、私に眼差しを向けた。私は、身を屈めようとも出来なくなった。石は、直ぐ側に私が居るのに気付いたのか。その眼差しは、見知っている私の姿がいきなり現れて、それを直ぐには信じられず、その真偽を探るようでもあり、私とは分からず全く見知らぬながらも、何かの繋がりを持つ者の姿を探るようでもあった。ただ、眼差しの眺めているのが、その見知っている私だと認めているにしても、その私の姿は、何処かしら謎めいているらしかった。眼差しは、その謎を追って、謎を解こうとしていた。そして、直ぐ次の瞬間に、それは行き止まったのかどうか。謎が晴れ、そこに、確かな私の姿を捉えたのかどうか。それを私は、棒のように立ち尽くし、身を硬くして、何も見ていないし何も感じてもいないかのように、上から静かに見返すばかりだった。

 応えようとも出来ただろうか。出来たなら、私達は今ここで、こんな向き合い方をしていない。私の姿を捉えたかも知れないその眼差しの、その晴らされた謎の更に奥まで進もうとする僅かな煌めきの、私に向けて投げ掛けられようとするのを、私は、自らの瞼をわざと重くし、決して動じない、強く冷たい淀んだような眼差しで応じ、私に係わろうとする、最後かも知れないその眼差しの動き掛けるのを、容赦なく封じた。訳ない事だった。石の眼差しは、直ぐに弱々しく背けられ、石はまた、私の係わりの及ばない所へと、愈愈ただ一人だけの戦いへと、赴かなければならないようだった。石の眼差しを、私がはっきりと拒んだ事だけが残った。その私には、何処にも赴くべき所がない。それはしかし、私の方こそが、その石の眼差しによって、とことん容赦なく拒まれた証しではないか。私の眼差しは、放り捨てられ曇るばかりで動きが取れず、一方、私を拒んだ石の眼差しは、そんな私など疾っくに置き去りにして、その眼差しだけが飛び過ぎて行けるずっと彼方に、向けられていないだろうか。ただ、私に知らされたのは、その遠過ぎる眼差しの、余りに軽々とした、余りの冷たさだった。その冷たさは、私を救えたかも知れない時が絶えたのを、繰り返し繰り返し、ただ示そうとしていた。それでもまだ私は、二度と甦らないその時を、幾ら虚しかろうと求めようと出来る、ささやかな愚かさを頼りにも出来た。しかし、その軽過ぎる冷たさを追い始めたかも知れない私の眼差しは、吹き払われる小さな羽よりも弱々しく、途端に背けられ、くるりと向きを変えて真っ直ぐに戻されて来るしかない。見下ろされるままの石は、その強く吐かれる息に合わせて、変わらずに身を揺らすばかりだった。

 私はまた、似たような遣り方で、僅かに違う色合いの石でも探し始めていただろうか。しかしもう、赴くべき所のない私なのだ。石の幻は二度とそれらしき像を結ばず、それに代われるものも現れず、まだ残っているらしい時を、どう遣り過ごそうにも叶わず、忘れられる限り、時のなかなか終わりの来ないのを、忘れてしまおうとしていたに違いない。 (2004.2.14)
















モドル