男は居なかったが、その男の母親からの手紙が、楕円の傾いた白い板の上に拡げられていて、文面によれば、その母親は、人前では犬としか口を利かず、それを繰り返し息子に自慢していた。それを読んでしまっては、目を塞がれたような閉じ込められた気分で、庭へ走り出さずにはいられない。どちらが庭かは見えて来ないが、走り出してしまえば、そちらに向かってはいるし、どんな庭かも分かる。分厚く丸っこいざらざらした石の勾配のある壁に隔てられて、側を通っても誰も壁の向こうが庭だと気付かない。その庭について知ったのは、仲間に殺められた男が、最期にその出自の秘密を打ち明けたからだ。男の死体を始末出来るのは、男の生まれ故郷のその庭でしかない。もう後には引けない。砂埃で汚れた死体が一列にずっと並んでいて、その傍らに、それを運んで来た旅姿のままの近親者が、それぞれ一人ずつ傅いていた。互いに口を利いてはいけない筈なのに、彼らは平気な顔で喋っている。その最後尾に付いて、秘密を打ち明けた男の死体を置き、何時から待っているのか隣に尋ねると、答えは、百年前からで、何故なら、この壁は百年は経っている。百年前は、見事に角張った磨かれた石の壁だった。それなら俺達は、殆ど壁の一部のようなものだな、と誰かが言ったかも知れない。その声の反対側から、ガサガサと音がした。そこは壁の一箇所だけ崩れて窪んだ所で、棘のある厚い葉の生け垣で塞がれ、痩せた色黒の裸の男が潜り抜けて来て、掲げた黄色い布に火を付けた。薄い青い炎が移ったが、それは、橙色の火花をパチパチと弾かせるだけで、布の縁からなかなか拡がらない。列の者達が誰も口を噤み、その炎を見詰めた。一番近くの死体の顔が紫色に映えて、蝋のように溶け出しそうだ。いきなり裸の男が身を翻し、黄色い布も裏返ると、布の裏はすっかり火が回り、赤くドロリとした絵の具を塗り込めたようで、灰色の裏地の上を細かくクネクネと舐め回り、行き場を探しているようだった。

 涙を流さないのか、と壁の向こうの何人かの弾んだ声が言った。涙とは何だったろう。已みそうで已まない笑い声の事か。一斉に潜めるような笑い声が起こって、止まらなくなった。それも壁の向こうからだったが、初めの弾んだ声とは、壁で隔てられていないだろうか。すると、涙の事など、誰も言わなかったと分かった。黙って死体を布でくるめ、と言われたのだ。ただ私だけが。確かに他の死体は、どれも黄色い布で全身を覆われていて、事情を知らない者には、それが死体だとは分からないだろう。布を忘れたと呟くと、そう言い終わらない内に、列の一番前まで引っ張り出されそうになった。抗おうとする私の手にはもう、与えられた黄色い布の端が握られていて、転げそうになるような体勢で、それで男の死体をぐるぐると覆った。何人もの笑い声を聞いたように思えた。馬鹿げた事をしている私を笑うのか。それとも私の辿々しい手付きを笑うのか。いや、ぐるぐる巻きにされる死体への嘲りなのではないか。百年なんて、あっという間だ。百年前の壁も、磨かれてなんかいなかった。ずっと変わらず、今と同じにざらざらと古びていた。だから死体は侮られるのだ。お前一人が詰まらない夢を見ているんだな。いやいや、死体に言っているんだぞ。なあ、そうだろう。壁の向こうで、笑い声の数が、どんどん増して行って波打ち、壁を追い越すのが分かった。笑いに加わりたくはないが、確かに、あっという間の百年を前をすると、時間の中に取り残されて動こうともしない死体は、幾らか滑稽ではあり、笑いに包まれる方が座りが良さそうにも見えた。

 しかし、笑うような奴らは、どうせ通りすがりのお気楽な余所者だ。この辺りの連中なら、一日中、犬のように黙りこくっている筈だ。黙りこくったまま、姿も見せない。姿を見せるとしたら、全身を黒く塗り、黒い尻尾を付け、犬そっくりの小さな真ん丸の目と濡れた鼻で、四つん這いで怖ず怖ずと現れるに違いない。それで犬と見分けが付かないなら、本当に犬かも知れない。身を翻した痩せた色黒の裸の男は、四つん這いになって、私が死体をぐるぐる巻きにした黄色い布の端を銜え、後ろ向きに棘のある厚い葉の生け垣に入り込もうとしていた。紛れもなく、ここら辺りの人間だ。安心して付いて行ける。生け垣を掻き分けると、後ろから、点呼する男女の声が聞こえた。死体に傅く者達が、私抜きの列を組み直しているのだ。或いは、新入りも何人か加わっただろうか。一列でなく、一列が二列、二列が四列と、扇のように拡がりながら、何処までも延びて行く気配だった。その差配を任された赤くドロリとした炎が、人の姿を真似て、解き放たれたように踊り回るだろうか。列が何処までも続くなら、踊る炎はもう、壁から遙か遠ざかっているだろう。

 見掛けより深い生け垣は、壁の厚みの更に奥まで続く。生け垣ではなく、棘のある厚い葉の低い木がずっと密生している。そのくねくねした細い枝に手足を取られて動けないが、それは私ではなく、黄色い布を銜えた犬そっくりの痩せた男の方で、私は枝と一緒になって、その男を押さえ付けている。男が唾だらけの口をだらりと開き、替わりに私が黄色い布の端を銜えると、逆に男の方が、私を押さえ付けようと、黒い体を起こして来た。重なる葉と葉の間に隠されていたらしい沢山の小石が、その体に降り懸かり、その重みによって開かれた枝と枝の隙間に身を滑らせた私は、布を巻いた死体と共に、やっと生け垣から抜け出せた。男の体は小石の下にすっかり埋もれた。蹴ると、黒く短い毛に覆われた、犬の細長い腹が剥き出された。やはり百年が経っていた。百年前に、葉と葉の間にせっせと小石を潜ませた者を探せ。などと誰かに命令した積もりになって、私は身を翻した。

 何度塗り直せば気が済むんだ。どれだけ塗り直しても、汚れは誤魔化せないぞ。百年前まで見通せる目にはな。お前らが汚れてるんだ。汚れてる者らに汚れが消せる訳がないが、どうやら、木で出来た人形共に話し掛けているのかも知れない。動く度にカラカラと音を立てる連中だ。他の場所とは違う。管理する者が居る筈だ。母親からの手紙で頭が一杯で、仕事をほったらかしてるな。いや、私に全て任されているらしい。私の言葉に聞く耳を持つ者など一人も居ないのだから。先ず布を全て剥がした。死んだばかりのような綺麗な体だ。他が皆、百年前でも、死体だけは、抱けばこちらの冷えた体を暖めてくれて、節々の強ばりを解してくれそうな程に新しい。剥がした布を焼く火を探さなければ。仰ぎ見さえすれば、都合良く火が降って来そうだが、地面ばかりを見続けるしかないのは、目を離した隙に、天地がひっくり返って、足を掬われそうな気がするからだ。そのせいでか、地面は凍り付いた。その凍った表面は、笑っているようだった。死体を。笑うんなら私を…、いや。

 笑うんなら連中を笑え、無能な木偶人形共を。代わりに私が笑ってやろうか。しかし、どうやって。笑い方など疾っくに忘れた筈だ。仕方なく掌を見ると、小さくて透き通るように白い。まだ何も分からない子供の手だ。道理で。あんな密生した棘だらけの生け垣を擦り抜けられるのは犬と子供くらいで、あの長い列の中に、子供は私の他に居なかった。込み上げる笑いは、笑いにならず、喉に小さな石を詰まらせたように咳き込むばかりで、子供である事にただただ嫌気が差す。それでも、笑えない笑いだけは残りそうなら、それが許せなくて、これら一切を放り出せないのだろう。死体は少しずつ汚れて行く。時間との戦いが始まっている。どうしたら終わらせられるのか。火だ、火だ。勿論、死体を焼くのは許されていない。死体に触れさせて、火を穢してはならない。よくは知らないが、多分古くからの教えだ。それで、物事が分からなくても許される子供の私が選ばれたのか、初めから仕組まれていたとすれば。考え過ぎだろうか。その私の考えなど及びも付かず、死体こそ、どう仕様もない程に、考え過ぎているように見える。きっと生きているだけではどうにも考え切れなくなって、それで思い余って死ぬのだ。死ねば、生きるままでは決して叶わない程に、幾ら考え抜いても、その際限まで行き当たらずに済む。それで、何時まで経っても何処へも戻れないのだろう。しかしそれこそ死ぬ者の望みであり、掛け替えのない死の魅力であるに違いない。やっと笑えたか。いや、とんでもない。笑わずに済んだのだ。笑ってしまった後にか。そうかも知れない。誰とも口を利かないのは正しい。それなら、死体を汚すままなのも正しいが、為すに任せる訳にもいかない。木偶人形共が動き回るせいだ。それなら犬を探せ。凍った地面の下に埋まっているのが見えただろう、さっきまではな。何処を見ているのだ。何処を見ているのか探り当てようと、キョロキョロ見回す羽目に陥っているらしい。酷くなる一方で、首の骨がグニャグニャになりそうだ。

 死体の顔が、歯を見せて笑い始めた。考え過ぎるのに飽きたのなら、死体には不本意でも、それはそれで喜ばしい(しかし誰にとって?)。庭の景色が、ぐっと身近になったじゃないか。木偶人形共のやってる事も、そうは苦でなくなった。時の経つのに、ビクつかずにも済んでいる。掌を見直すと、小さな赤いブツブツが幾つも出来ていて、それぞれが、溢れる間際の涙のように細かく震えた。死に顔の笑いを、掌に掬い取ったのか。いや、そうするように促されているのだ。二枚の薄っぺらな掌は、柔らかい蝋のようで、蝋細工の死に顔なら、その掌にも掬い取れたと見せ掛けられよう。重なり合う掌が反り返ると、暗い空に向かって笑うようだった。ずっと遠くから高い所を舞って来た、一枚の花びらのようにも見える。月足らずで生まれて来たのは、花盛りに、間に合わせたかったからなのだ。女の腹の中の居心地より、まだ肌寒い花の景色の方に惹かれたんだな。などと、死んだ男の言葉が思い出された。その光りと風は、赤ん坊の男の肌を容赦なく傷めただろう。若い頃からこの死に顔と同じに皺くちゃの男の顔は、その皺だけで、花の季節を愛でて来たのだ。重なる掌から弾け出た右の小指が、死に顔の鼻先を掠め、そこに起こる小さな風に吹き曝されるようで、寒気が襲った。凍った地面が透き通り、上を向いた黒い犬のぺちゃんこの小さな顔が現れた。その瞳に映る暗い空に舞う、チカチカした小さな無数の輝きは、瞳の中ばかりでなく、黒光りする犬の顔の毛並みにも艶々と映って揺れる。振り仰げば、火だ。間違いない。

 その火は、庭の中では、硬い木で出来た操り人形の姿をしている。火であるからには、その熱が、どのようにか人形の動きに吹き込まれなければならない。熱は、何処から来るのか。それこそが、この庭の秘密でないとしたら、死んだ者を前にしては、私の熱が際限なく奪われるしかない。しかし私が熱を捧げる事は、口を利くよりずっとここでは重い罪で、あり得よう筈はない。熱病に冒されたように、口から赤い舌が出て息が上がり、苦し紛れに、両腕を伸ばして死体を押し遣ると、それは独りでにスルスルと離れて行く。凍った地面が、鏡のように磨かれたようで、少し先の浅い窪みで、死体は、向きを変えながら止まった。向きを変えたのは、私が二度と、それに近付けないのを知らせるためにも見える。水が欲しい。飲みたいのか、体に塗りたいのか、その中を泳ぎ回りたいのか分からないまま、私は、熱を込めるように硬く握った拳を、その場に繰り返し叩き付けた。凍った地面を割ってしか、水は得られない。死に顔の笑いが、寝惚けたような顔付きになっていて、更にそれは、寝惚けている事に自ら戸惑い、狼狽えるような表情に変わろうとするらしかった。それは、私の地面を打つ拳の振動が、その顔の皮膚を震わせるせいなのか。私には聞こえないが、その振動で、庭の隅々までが、どのようにか響き渡るらしい。耳を塞ぐような素振りの木偶人形共が、その響きの元凶が男の死体であるかのように、その周りに集まり出し、やがて、湿った音を籠もらせて、互いの身を激しく擦り合わせた。死体は、それらの中に、すっかり隠されてしまった。

 独りではなかった。私と同じように、木偶人形共に囲まれたそれぞれの死体を、少し離れた所から眺める者達が、庭の中に幾らでも居た。ただ誰も、拳で地面を打ったりはしていない。直ぐに拳を解いた。庭中を響かせているのは、庭そのものの震えに因るらしい。何の力もない私が、水を求めるなど、まるで恥ずべき事だ。待てと言われた犬のように大人しく這い蹲って、体を休めていられるだけ有り難く思うべきだ。手こずっているのか、人形共の顔が歪んで来た。そう言えば、し忘れた事を思い出した。死体を庭に委ねる前に、その口の中に食い物を押し込んで置くよう、死に際の男本人から頼まれていた。そのために、林檎を一個、ポケットに入れて来たのに忘れていた。それで、死体は、人形共に抗っているに違いない。抗うために、死体は息を吹き返していないだろうか。項垂れた首を捻って、片耳を地面に付けると、怖ず怖ずとしたその息吹が、地中から聞き取れた。耳に流れ込んだその音は、私の頭蓋骨をぬるぬると撫でさすり、次第に角を取って、私の頭蓋骨を、一個のすべすべした球にして、更にその球をどんどん磨き込んで、仕舞いには、掌の乗る程の小さなものにしそうだが、勿論、それではあべこべだ。そのように骨が磨かれなければならないのは、死んだ男の方だろう。息の根は、直ぐに聞き取れなくなった。まだ死んだままだろう男は、次の息を継ぎたがっているに違いないが、何かが足らない。

 死体に向かって躄り寄ろうとしたが、案の定、私の体は、あらぬ方に滑って、死体の周りを巡るしかないが、私は独りではなかった。私は何人も居た。数えれば数えただけ私の数は増えて切りがなく、数えるだけ無駄だった。どの私も、同じようにそれぞれの木偶人形共に囲まれた死体を見詰め、その周りを虚しく巡っていた。深く息を吸って、その最も深く息を吸った私を、一人だけの私に定めようとしたが、どの私も、まるで息が吸えない。息は何処へ行ったのか。地面に唇を押し付けて、チューチューと吸った。地面は、生温い苦い味の硬い石で、石の蒸気が、音を立てんばかりに噴き出ていて、私は噎せ返った。壁に囲まれ風もない庭の中は、すっかりその蒸気に充たされているに違いない。それが私の冷え切った体に入れば、水滴のように固まる小石となって、肺はもう、それらの小石で一杯なのではないか。小石を全て吐くしかないが、吐けたとしても、どの私も、ただ石の詰まっていた皮袋でしかなくなって、私かどうかも見分けられなくなってしまうに違いない。死んだ男にしても、石の蒸気ばかり吸わされるのでは、却って息が詰まるだろう。その男は、木偶人形共を打ち払っていた。或いは、人形共に操られているだけか。そうしてまた目に出来た死体は、色艶も良く、ふっくらとしていたが、皮や肉があちこちで破れ、紫色に汚れた骨が剥き出されていた。人形共は、その骨の汚れが耐え難いかのように、段々と直に死体に係わるのを已め、死体を取り巻いて、石の蒸気に紛れるように、輪郭だけの揺らめく姿になった。

 水が求められているのが、痛い程分かった。庭に水を撒けば、石の蒸気ではなく水蒸気が立ち昇り、甦ろうとする者は息が継げるのだ。それが駄目なら、息を詰まらせて、死に直すしかない。私にはどうにも出来ないが、それについて、別に引け目は感じなかった。少しずつ石の匂いが薄れ、木の芽の匂いが拡がった。それは、私の肺に詰まった小石を溶かして、私に新しい息を吸わせたが、男の方には、その同じ効き目は全くなさそうだ。それは、男との最後の別れの時が近いのを、私に告げているに違いない。死に顔を覗き込もうとしても、もう何も見えては来ない。代わりに、痩せた黒い犬が、覗き込んでいるらしい。私の吸う息は、木の芽の匂いに満たされていなければならなかった。微かに石の匂いが混じっただけで、息が詰まる。遠巻きの木偶人形の輪郭は、石の蒸気と練り合わされて、すっかり炎の形になっていた。そして私が息を詰まらせる度に、それは更に、尖った嘴を死体に向けて振り下ろす灰色の鳥の姿へと形を変えて行き、その目が一斉に見開かれると、群がって、死体のふっくらとした肉を啄み出した。それを眺める私は、独りだけの私だった。

 何を感じ取る間もなく、紫色に汚れた骨の一式が、バラバラに転げるだけになった。その間もじっと動かなかった黒い犬の後ろに回り込んで、右手で犬の腹を撫でながら、犬の覗き込むままの辺りを、後ろから覗き込んだ。頭蓋骨はすっかり剥き出され、幾つかに割れてバラバラにされていても、死に顔だけは、そこにそのまま残されていて、私は、それを左手で掬った。掌に、男の小さな死に顔が浮かび出るままになったが、それは笑い顔でも寝惚け顔でもなく、どんな表情も受け付けない、一枚の薄い皮に、ただそれと分かるだけの目鼻を書き込んだようなものだった。見回すと、庭はさっきまでよりずっと狭く見えた。何人かが、それぞれ運び込んだ死体の黄色い布を剥がしたり、その剥き出しの死体を、少し離れた所から眺めたりしていた。鳥達に啄まれている死肉も見られたが、自ずと目が逸れた。私の傍らの犬は、細い尻尾を低く振り、そちらへとゆっくり駆けた。私は、男の死体を包んでいた黄色い布を拾い上げて、後ろを振り返った。壁の崩れて窪んだ所は見付かったが、そこは棘のある厚い葉で塞がれて、通り抜けられる隙間などない。私は、直ぐに目を閉じ、両腕を伸ばして黄色い布を頭の上に掲げたまま、木の芽の少しでも強く匂う方へと、蹌踉めきながらも進もうとした。しかし木の芽はどちらからも匂って、ただ無闇にふらつき回るだけだ。布を焼く熱い火が求められているのは明らかで、それを手に出来ない事に、引け目を感じないではいられなかった。私の体の熱を炎に変えるにはどうすべきか。その答えに行き当たるまでは、行く手を闇に閉ざしたまま、足の向くに任せて闇雲に進むしかないのか。

 その闇にはしかし、小さな孔が幾つも空いていて、その一つ一つの中に、空の彼方まで続くそれぞれの景色を見せ、目を凝らせば凝らしただけ、それらの景色はどんな細かな所までも明らかにされるようで、その細かくなる程、どれも男の死に顔に似て表情を失い、遂には蒸気のように消えようとはするが、更に奥の細かな所に纏わり付くようなまま、決して消えはしない。それを掻き消すには、ポケットの中の林檎の他に頼れるものはなさそうだ。しかし、もう使い途のない林檎こそ、数え切れない程の小さな孔ばかりで出来た塊で、ぼんやりした闇などよりも、死に顔に似たものを、どれ程多く隠して持っているか知れたものではない。それが腐って干涸らびて、林檎の匂いも全く抜けて、何であるか分からなくなるまでは、私は、私を閉じ込めるだけの数知れない孔を持ち運びながら、庭の中を歩き続けなければならないだろうか。いや、林檎がどうなろうと、孔は孔のままではないのか。林檎が孔の塊なのは、死に顔と同じに、表情を受け付けないものになってしまっているからではないか。そしてそれが、林檎ばかりの事でないとしたら。

 左手を顔に近付けて、そっと目を開け、掌だけを見た。浮かび出る男の死に顔の土色の頬の奥に、林檎の干涸らびて何だか分からなくなったものが、僅かな湿り気を帯びて、静かに含まれているように思えて仕方なかった。そのガサガサと硬い肌に林檎の匂いを僅かでも嗅ぎ取りたかったが、辺りの強い木の芽の匂いばかりが、酸っぱさを増して行く。もう用なしの私は、疾っくに庭から外へ追い払われてしまっていないだろうか。掌の死に顔から目を離す替わりに、再び目を閉じた。(2004.7.24)
















モドル