山と積まれた瓦礫だが、一つ一つ手に取って馴染むまで撫で回せば、どれも瑕一つない工芸品と見紛って、汚れも汚れでなくなる。硬い尖った三角の羽を付けた小さな虫達が薄暗い中を飛び交い、うるさい羽音は波打つ鎖のように繋がって、それで何かを縛りたいが縛れずに苛立っているようだ。虫の目付きは皆怯えるようで、縛りたいのは、その怯えさせる何かに違いない。今のところは、そいつは何処かで気絶するかどうかしているらしいが、何時目を醒ますとも知れず虫達の焦りを募らせている。瓦礫の山の天辺には、曇った硝子玉を鏤めた銀の椅子が危なっかしく乗っていて、その座面の裂け目を虫達が盛んに出入りする。椅子の背には細長い鏡が斜めに立て掛けられ、虫達は、その鏡の方を向いては、羽を大きく反らして羽ばたきし、彼らが在り来たりのものでないのを誇るかのようだ。虫の数の夥しさからして、巣は、座面の裏を突き破って拡がっていそうだが、椅子の脚の下の底の見えない深い崖が、鏡に青っぽく映っているからには、瓦礫の山の天辺から向こうは綺麗に削られているに違いなく、その削られた瓦礫と一緒に、巣の大半は取り払われてしまったかも知れない。

 手紙には、何処かにあるスイッチを探してそれを捻るか、スイッチがないと分かったらそれを新たに作って目的を遂げるよう、依頼されてある。目的とは、瓦礫の山を何処かに退ける事か、虫の駆除か、それともまた別の事なのか。文面の下に続く三枚の図が手掛かりだろうが、幾ら睨んでも、円天井の設計図か、そうでないなら大きな楽器の断面図にしか見えない。円天井なら、造る手順を示しているようだし、楽器なら、時代を追って順にそれが複雑になって行った様を示しているだろうか。どちらにしろ、瓦礫や虫の群れとの繋がりを見出せないなら、未だ隠されたままのものを、先ずは探し出さなくてはならない。

 一度手に馴染ませたものは、また瓦礫に戻すのは惜しいので、足元に一纏めにした。手を離れても、それらは瓦礫には戻らず工芸品だった。虫達は近寄ろうとせず嫌がるようだった。時間が許すなら、全ての瓦礫を手に取って、ここを工芸品の山に変えられるだろうか。最後の瓦礫が工芸品に変わった瞬間、また全てが瓦礫に戻ってしまいそうにも思えるが、その時はまた、始めから遣り直すのを楽しめそうでもある。ただ、虫達には迷惑だろう。手に馴染んだばかりのものを、試しに瓦礫の天辺の銀の椅子目掛けて抛り投げてみた。途端に、その近くの虫に限らず皆元気をなくし、何とか飛んではいるが、惰性だけで宙を彷徨うようで、羽音は今にも已みそうになった。抛り投げたものが瓦礫に紛れて見分けが付かなくなったにも拘わらず、虫達の元気は戻らず、力尽きたものから瓦礫の上に落ちて、その隙間に転げ込んで行った。そうして虫の姿が殆ど消えて暫くすると、瓦礫の山は、機の熟すのを待ったかのように、一斉に沸き立つ虫の羽音で震えた。虫達は、隙間の奥に留まるままで羽音ばかりを響かせた。新しく拾い上げた瓦礫は、工芸品になるどころか手に馴染むのさえ拒み、重い瓦礫のまま、指の何箇所かを深く傷付けた。

 震える瓦礫の山は、崩れて来そうな気配もある。差し招く者が居たので、取り敢えず従おうと足を踏み出すと、瓦礫の山が丸ごと回り舞台に乗せられたように回り出し、後少しで山の裏側の断崖が見える段になって、測ったように止まった。差し招いた者が、目の前で苦情を並べ立てた。山が回ったのではなく、その者に引っ張られた私が、山の端の方へと滑るように回り込んだだけだろう。手紙を見せると、直ぐに苦情は已み、態度が一変し、寛いだ顔付きで、もっとよく見える所を知っているのでそこへ行こうと誘って来た。「お前の家なら断る」と言ったが、彼はただ、「そう言わないで」と言った。そう言っただけで、そこはどちらを向いても彼の家で、どこにも逃げ場はなく、実際、瓦礫の山は、その全体の輪郭までよく見えるようにはなった。しかしどうやら私達は、瓦礫の天辺に乗っているのと同じような銀の椅子に、それぞれ腰を下ろしただけのようだ。

 「これでどう転ぼうと、こっちの負けはない。これまで色々と見て来た限りでは。後は、何を考えたところで愚かなだけで、恐れに身を委ねてしまえば、詰まらない考えなど浮かんでも、巧く纏まらない内に消えている。何も難しい事はない。恐れだけは誰も見捨てないからで、そうしかならないんだから」と、少し苛立つような笑顔を作り掛けて、棒読みのような早口で彼は言った。そして、ポケットから銀の細い鎖を長々と取り出し、それで自らの膝から下を、楽しそうに丹念に椅子の脚に縛り付けた。同じような銀の椅子が、少し離れた所にもう一脚ある。座面は裂けていない。誰も腰掛けていないし虫が集っているのでもないが、そうしてただ空の椅子としてそこにある事を、その椅子自らが恐れ戦いているようにも見えた。瓦礫の山は震えるままで、それで、羽音の凄まじさに変わりないのは知れたが、ここに届く限りではそれはずっと遠い音に変わっていて、細い煙の一条が、吹き流されるように伝わるだけだった。それでもその細かな音の繋がりは、私の耳には、やはり鎖のようだ。一方、彼は、まるで別のものを見、別のものを聞いていないだろうか。例えば、自らの成し遂げた業績を頭の中で順に並べて悦に入っているようでもあったが、ただそれを彼は、怠れば途端に罰を受ける義務として行っているのかも知れなかった。

 彼の足元に落ちた手紙を拾って、図を見直した。円天井でも楽器でもなく、或る規則に従って描かれた、何かの軌道が描かれていると見える。その軌道の上を行くためには、三枚のどの図にも同じ所に記された軌道の中心点が、実際に何処であるかが知れなければならない。彼は、私にやや背を向けるように立ち上がっていて、初めの一歩を踏み出そうと、棒のように体を傾けた。衣服が磨り減っていて、薄い布を通して背中や尻の肌が透けた。椅子に縛り付けて膝の関節が固められたままなのに、それ程歩き難そうでもない。そうして、真っ直ぐにではなく必ず弧を描いて、黙って辺りを行きつ戻りつする。見習って同じようにすべきか。彼も、中心点を突き止めたいのだ。私としては寧ろ、彼の動きを観察する方が、それを突き止められそうではある。彼の歩いた跡は、図の描く軌道に沿っていないだろうか。足が止まった。その歩いた跡を思い出しながら図を睨んでいると、彼の止まった所が、描かれた中心点に確かに重なる。そこはもう彼の家の外かも知れない。何故ならそこは、瓦礫の山とも、空いたもう一脚の椅子とも、まるで違う方向の、彼の視線の先に何があるか見当も付かない何処かずっと端の方だからだ。時々周りを睨め回すようにはしたが、彼はそこを動かなかった。中心点は定まったとしようか。彼は図に定められた通りの軌道を順に全て歩いて回った。それでさて、手紙の言うスイッチは何処か。何に使うスイッチか。相変わらず手掛かりは一つもない。彼のした事は何の役に立ったのか。

 細長い鏡を肩に担ぐ女の影は、その彼に後ろから近付こうとするのかも知れない。背中の輪郭が似ていて、親族であってもおかしくない。足を滑らせそうになるが、棒のように担いだ鏡で平衡を保つようだ。鏡は青く透き通った。それが蜜であるかのように、尖った三角の羽の虫の群れが、後ろから女に襲い掛かろうとする。その追い着けるようで追い着けないのは、虫達が、細長い鏡に映る飛び回る自らの姿に、押し返されるせいではないか。虫の数は増え続け、瓦礫の隙間に隠れていたのが全て集まったかの勢いで、まるで宙に浮いて動く虫の山だった。女も、彼に近付いてはいるようでも側まで行けずにいる。それは、女が押し返されるからではなく、止まって見える彼が、実は地面を滑って遠ざかっているからかも知れない。時々体を一回転させて周りを眺めるのは、どちらへどれ程動いたか確かめるためではないか。それなら中心点は動くのか。そしてそれは已むを得ない事なのか。それとも中心であり続けるためには、動いていなければならないのか。

 瓦礫に傷付けられた指が疼き出し、放って置けなくなった。何か指に仕事をさせて痛みを紛らしたい。立ち上がり、銀の椅子の背凭れを緊く握って揺すった。そうする内に、座面の真ん中に縦に一本裂け目が出来、中でその裂けた銀と銀の擦り合わさる音が鳴る。何故それが銀の擦れる音に聞こえるのか分からないが、段々と耳に馴染むと、耳の奥が鎖で雁字搦めにされるようで、椅子を揺するのを已めようと思うが、もう手の指は、耳の奥のその音の命令にしか従わないらしい。見直すと、遠くの彼は、どうやら見付けた中心点を後にしたようで、右に左に体を傾けながら、先程よりも大きな弧を描いて歩みを進めており、また何かの軌道の上を行くようだが、手元の図に描かれたのとは、はっきり違っていた。多分、次の段階に入ったのだ。もう幾ら彼を観察しその軌道を追ったところで、手紙の図だけが頼りの私は、混乱させられるだけだろう。そしてどうやら、彼一人ではなかった。浮いた虫の山に見え隠れする彼に似た体格の男達が、やはり両脚を銀の椅子に縛り付けて、彼のように大きな弧を描いていた。椅子を揺する手が止まったが、銀と銀の擦れる音は、耳の中で鳴り続けた。

 私の耳の奥に硬い石が埋まっていて、銀の音はそれが目当てに違いない。銀の椅子の座面が裂けたように、私の眉間から生え際、更に頭の天辺に向けて縦に裂け目が出来、裂け目の奥に、銀の細い鎖に縛られた棘棘した緑色の光る石が覗いた。私の側に来ていた女の、しゃがみ込んで丸くした体に立て掛けられた細長い鏡に、そんな私の姿が青っぽく映るのだった。目を欺く仕掛けが、鏡に隠されているとも疑えたが、その疑いが更に酷い私の姿を差し招くか知れず、疑う素振りさえ表に出すべきではない。鏡の後ろから、女の丸みを帯びた白い手が伸び、その指が、鏡に映る中で、私の頭の裂け目の縁を撫でた。私は頭を少し揺らして、指をその裂け目に入れ易くした。取り出そうとするのかと思ったが、女の指は、そっと緑の石を抓んで回そうとするらしい。それも回り易いように、私は首を少しだけ逆向きに捻った。女の指は、その腹で石を縛る銀の鎖の凹凸を楽しむように、繰り返し撫でた。ここは男の家でなく、私の家だ。いや、家よりももっとずっと、私にだけ近しい所に違いない。近し過ぎて、却って見知らぬ所に迷い込んだようでもある程に。

 「彼の側に行きたいのでは」と私は、目下の者に気を配るように言って、女に見せる積もりで、鏡に手紙を映した。女の二本の指は、頭の裂け目から抜かれて、三枚の中の一番単純な図に触れた。そしてその図の線を、二本の指を開いて跨ぐようにし、紙から一度も指を離さずに隅から隅までなぞり、その行き着いた中心点で止まった。始めに彼の進んだ軌道であると改めて確かめられはしたが、それは、彼のような行動を促すための、規範となる軌道を示す図などではなく、何かの物の形を描いたものであり、それを彼は、自らの行くべき軌道と勝手に解釈して、なぞったに過ぎないのではないかとも思えた。女の指が少し複雑な二枚目の図に移るのを待ったが、指は動きそうにない。多分動いてはいけない訳があって、その訳を取り除けるのは、私しかいないらしい。

 「あの彼とは偶々行く方向が同じだけで、どちらかと言うと少し迷惑した位です。そしてやっとここまで来られました」と女の声が鏡の後ろからした。こことは、私の所という意味か、それとも女の行こうとした先に偶々私が居合わせるだけか。知りたかったが、こちらから謙るようでそれは尋ねられず、替わりに「あの彼とはどの彼でしょう」と尋ねた。女の二本の指が、水底から浮かぶように図から離れ、また私の頭の裂け目の縁を撫でて来た。一度目はすんなり許したが、二度も指を突っ込まれるのは堪え難い。指の動きに抗って頭を揺らした。それでも女の指は、泳ぐ魚が急に向きを変えるように裂け目の縁を撫で直して、直ぐに中に滑り込んだ。しかし緑の石を巧く抓めず、裂け目の中は、縺れる女の二本の指に、徒に掻き回されるしかない。恐らくは、石を縛る細い銀の鎖が纏わり着いて、女の指の動きを思うようにさせないのだ。鏡に映っている筈のその様は、女の腕に遮られて見えなくなっていたが、私の頭の中で起こっている事であるなら、それ位の見当は付く。それでも相変わらず、女の体は斜め後ろ向きにしゃがみ込んで、鏡の奥の顔はこちらを向こうとしない。

 「あなたにいらして貰おうと来たんです」と女の声は、少し狼狽えるようだった。「私じゃなくて…」と私は直ぐに応えて、それに続けて私の頭の中の事を言おうとしたが、それを言い当てる言葉が見付からなかった。「裂け目の中の銀の鎖に縛られた緑の石が目当てなんだろう」と言えば良さそうだが、それでは、それとは全く別様であるかも知れない頭の中の気配を取り逃がしそうで、思い留まった。「それに取って代わるあなたなのに」と、次の女の声は潜められた。それを追い詰めるように「ではあなたの指の求めるものは?」と私は言ったが直ぐに悔やんだ。その言葉は、鏡に映る姿だけでない私の頭の中の多くの事を、明らかに取り逃がしていた。その問いに答えられてしまっては取り返しが付かないが、女は「それは…、それは…、」と先を続けたげに言ったきり口籠もった。私は機会を逃すものかと「図はまだ二枚ありますよ」と話しを逸らそうとした。「夢の中でなら」と女の声は、私の言葉を取り消すような強い調子になった。「…思うように言えたでしょう。でもあなたは眠らずにいる。待てるだけは待ったのです。手紙の図をなぞってみて分かりました。あなたは眠るのを自らに禁じていらっしゃる。ただ禁じるだけで、そう出来る筈の事でもないのに。何処でそのような術を…」私の口元が弛んだ。

 「笑われますか、そう」と言ったきり声は途絶え、女のもう片方の手が伸びて鏡に映り込んだ。そのとりわけ指先に向けて銀色が映ったが、輝きはなく白さを見紛っただけかも知れない。「あの彼の後を追っていなかったなんて嘘を、どうして吐くんですか。彼に追い着けないと分かってから、偶々目に入った私に狙いを定めたんですよ。それをちゃんと見届けるのに、私は自らの血を流しました」と言って、傷を負った私の両手を鏡に映した。傷は傷に見えないまでに塞がり、その塞がった中の僅かな血の跡も、血であるより何かの汚れに見えた。女が笑う番かも知れない。「あなたは元々西からここへ来たんです」と、女の声はまた潜められた。中心点が何処だか分かった気がした。そんな気がするままずっと、ただ足の向くままに進んで何時か足が止まれば、中心点に行き着けているのではないか。そして女が鎌を掛けているのも分かった。「今更、何処が西やら東やら。西がどっちか分かったとして、私にその来た方へ戻れと?」「ええそう。どうやらほんの少しだけ、夢をご覧になりたい気分が戻られたようですね。」

 「さっき目を醒ましたばかりなのに」と私は、真面に取り合っていないのを示そうと、態とのように女より更に声を潜めてみた。「あなたは、さっきまでずっと眠らずにいたのを忘れてしまっているのです」と、女の声は少し明るくなったが、私には耳障りだった。鏡の中で、銀色を映す女の手が私の片手に触れようとしていた。逆に私の方から、女の二本の指をきつく握って鋭く捻った。抗って引っ込もうとする女の手の甲が、鏡に当たった。鏡は、薄い膜で出来ているように、柔らかい小さな波をゆっくりと折り重ねた。それで私の姿は訳の分からないものになった。波はゆっくりしている分だけ、なかなか収まりそうにない。鏡の奥から、女がこちらを振り返りながら姿を現すのが分かったが、自らの姿が元に戻るのを見てからでなければ、私は、鏡から目を離す気になれなかった。その私の姿は、入り交じって行くばかりの波に切り刻まれて、概ね横に引かれた無数の線の集まりの、色取り取りに動き続ける塊になっていた。

 「あなたが出来る限りの事をなさるなら、私はあなたのために何でもします。予めそう決められているのは、お忘れでしょうが、あなたもご存じだった筈なのです。いや勿論、忘れられて良かったのです。それで、あなたは何一つ悪事をなさらなかった。あなたは約束を守られた。ご自身で眠りを禁じられるようになるまでは。少しも恐れなくて構わないのです。気付かれておられないかも知れませんが、あなたの息遣いはとても荒い。どんなありもしない危険の中に、ご自身の身を思い浮かべておいでなのですか。約束を果たされたあなたに、守ろうとして守れるものも、守るべきものも、もうありません。ですからどうか、どのような恐れについても、もうお忘れになって頂きたいのです。」

 何処かで口を挟んで、鏡は持って行かないで欲しいと伝えたかったが、女の話しが途絶えると、その気は失せた。私の姿である筈の動き続ける線の塊が、目の前から消えていた。高い方を見上げて視線を固めた。私の姿が、そのほんの一部でも、指先だけでさえ、直に私の目に入るのを避けるために。私は、全身線の塊のまま取り残されてしまうかも知れない自らの姿を恐れた。そのまま腰を落とした積もりで、躄りながら周りを手探りして回ったが、鏡も椅子も見付からなかった。或いはただ線の塊であるなら、手探りなども出来ないだろうか。見上げた方は、何が現れるのでもなく、ただ虚ろだった。目もまた線の塊の一部なら、視線を固めるまでもなく、映り込むものを黙って受け入れるしかないか。

 「ご覧になれますか、あんなに」と声のする方に、斜めを向いた女の丸い背中が見えた。女は真っ直ぐに立ち、長い片腕で低い方を指し示している。その背中に、背丈より高い細長い鏡が立て掛けられているが、何も映ってはいない。「あの人達です。あんなに…」と言って、女は懐から薄い布を束ねた帳面を取り出した。柔らか過ぎて扱い難そうだったが、低い方に見えるものを写し始めると手の動きは少しも滞らなかった。低い方は遠過ぎて、何かが微かに動くらしい他に私には何も分からなかったが、帳面に描き出される図には見覚えがある。あの彼と似た男達の、弧を描いて動き回る軌道に違いない。すっかり興に入って頁を捲るのももどかしそうに、女は次々に図を仕上げた。その足元が何時の間にか、色取り取りの線が隙間なく入り交じって、女と鏡は、鮮やかな模様の刻々移り変わる筵の上に乗っているようだ。「あの人達は何をしているのです?」と誰かが尋ねた。女は、少しだけ目を離し口元を弛ませた。

 「しているのではなく、し損なっているのでしょう。それを誰かに知って欲しくて。いえ、知っては欲しくないんでしょうけど、ただ知られるしかないとも分からずに、ああしているのです。それが分かるなら、し損なっているとも分かって、已めてしまうか、何か他を考えるでしょうに。」「已められずに、他の考えも浮かばなかったら?」とまた誰かが尋ねたが、答えはなく女の手だけが動き続けた。「そうか、だから描き写しているんですね」と誰かは決め付けた。聞き咎めるように女の手が止まり、肩越しに鏡の方を振り返ると、線の筵が激しく模様を変えて段々と縮んで行く。そのままそれが、女の足の下に埋まってしまうのを恐れて、私はそこに身を投げた。尋ねた誰かは私でなくてはならない、そのためにも線の筵は私の姿でありたかった。

 動く線は女の足元からすっかり消え、片手で支える鏡を斜めに覗く女は、鏡に映る私の姿を認めたが、私には何も見えず、鏡の前に立つよりは、女の足の下で虫のように踏み付けられて身動き出来ずにいる方を望んだ。女は、帳面の一頁目を開いて鏡に映し、私の姿を見詰めた。図だけははっきり見えて、それを私が読み解くのを女は求めているに違いない。図は、し損なったまま眠ってしまい、目を覚ましたくても覚ませずに歩き回るしかない男の息遣いが、曲がるばかりで安らおうとしない入り組んだ線から聞こえて来そうだが、それをそのまま言って、女に伝わるだろうか。寧ろそれと逆を言わなければ、女は聞く耳さえ持たないのではないか。逆とは? 例えばこうだ。「眠らずにいようと、彼は動き回らずにいられなくて、誰かに写して貰おうと遠い地面にその軌道を描くしかのは、眠りへの恐れを取り除きたいからで、その望みを託せる者が現れるまでは、新しい軌道を描き続けるしかないでしょう。」

 しかし頁が捲られ二枚目の図が鏡に映っただけで、私の言葉は何も言ってないに等しいものになった。図は、幾重もの複雑な形の葉を押し固めたような一個の野菜に見えた。その見知らぬ野菜を探し求めているのだとすれば、誰にしろそれは遠い旅をして来た余所の土地の者で、その探し回る軌道が、探す物の形を描いてしまうのも、私のまるで知らない気候風土のせいと位にしか思えない。これもまた、それを言っても女に伝わりそうになく、逆を考えなければならない。「眠らずにいるには疲れずにいる事で、それで彼はずっと動かずにいて、ただ余りに動かずにいて疲れて眠くなりそうな時、ありもしない物を探す振りを庭先でしていたのが癖になって、つい遠出するような事になってしまったんでしょう。でも眠らずにいるには、その方が良かったらしい。野菜はその土地に言い伝わる眠り薬で、見付かる筈もないでしょう。」

 頁が捲られ三枚目の図が鏡に映ると、私はまた何も言ってないに等しくなった。それは出鱈目な線でびっしり埋まって図とも言えない程だが、一枚目に似た息遣いが聞こえて、見入る程、出鱈目な線など一本もないと分かって来る。目を開けていられない程の強い風に向かって真っ直ぐに進もうとして、虚しく狭い中を行ったり来たりし続けた男の歩いた軌道だったが、それだけではない。胸に秘めるものが、彼の足取りを定めさせない。道連れとはぐれ、それを探すために引き返すのを自らに禁じていても、足はその名を呼び易い方を向いてしまう。そうして何時の間にか彼は、そのはぐれた者の家族を見舞うためにだけ、強い風に向かって行くに違いない。眠る事は、その恐らくは二度と会えない道連れの面影を、風の中に置き去りにする事だ。その逆を言ったところで、女に何が伝わるのか。そうして黙ったままいても、頁が捲られた。一枚目にそっくりだった。それからまた頁が捲られると二枚目とそっくりで次は三枚目とそっくりで、また一枚目に戻って、捲れど捲れどその繰り返しになった。

 「先を見られないのです。同じ所を捲り直すしかありません」とやっと女の声が聞けたが、それは上から響き落ちて来た。私は、或いは少なくとも私の耳だけは、やはり女の足の下に踏み付けられているらしい。「勿論、私のせいですね」と、その声の出所を探る積もりで言ったが、声は、周りと何の繋がりもなく鏡に映されて、消えた。声が鏡に映るなら、例えば大声を張り上げて鏡を揺さぶれるだろうか。女は鏡を持ち上げ、肩に水平に担いだ。鏡面は上に向けられて、その恰好のまま低い方へ女が駆けて行けば、細長い鏡は風を切って、翼のように浮力が付きそうだ。「鏡は置いて行って下さい」と大声を張り上げた積もりが、何処にも聞こえる気配はない。それでも私は「せめて手紙は私に返すべきでしょう」と続けた。「あれは誰が書いたのか、まだ分かりません」と、背中を向けた女の声が返って来ただけ、私はほっとしたが、それが響き落ちて来なかったのは、私の耳がもう女に踏み付けられていないからであるのなら、却って気に懸かる。上を向けられて見難いが、鏡の中はひどく揺れていないだろうか。

 「あなたは決して急いでいる風には見えない。それどころか、他のものが急ぐようでも、決してそれに惑わされず、あなた独りはゆっくりしているようにさえ見えます。それでも私には、付いて行けない程、あなたが急いでいるように感じられてしまうのです」と、私は女に言った。いや、女が私にそう言ったのか。一体どちらがどちらに付いて行けないのか。それが分からない私は、さっき女に言われたように、少しだけ夢を見たい気分にでもなっているのか。「見えなくなってしまいました」と女は、さもしおらしい声色を使った。確かに、遠くで微かにでも動くらしい何かは、私にも見えなくなって、低い方も高い方も見分けられなくなっていた。「消える前に全て描き写せたんだから」と言う私の声は、何処にも聞こえていないようで、「全て描き写すなんて誰に思い付けるでしょう」と返って来た声も、何処で聞こえているか知れなかった。青く透き通っていた筈の鏡の中は、濁って泥を浮かべたようにしか見えない。

 初めて女の衣服に目が行った。ただ一重の飾りも折り目もない筒形の布を纏うだけだ。あの彼と同じで布地はひどく磨り減って透けていたが、その奥に体の線は現れず、肌の色も全く浮かんで来ない。その腰の辺りに静かに触れると、ただそれだけで、そこだけ布は裂けて捩れた。その裂け目の長さも幅も、鏡の中で女が指を挿し入れた私の頭の裂け目とぴったり同じではないか。その直ぐ前に跪いて、それを間近に見ようとする者は人の姿をしていた。それが私なら、私はもう線の塊ではない。直ぐ後ろに人が来れば気付きそうだが、女は身動き一つしない。ゆっくり息を吐き掛けると、裂け目は更に捩れて丸い穴を見せた。その奥に私は、銀の鎖に縛られた緑の石を見て取りたかった。そうすれば、また暫くは女は私から離れずにいようとするだろう。私の目に映る緑の石が、女には、なくてはならないに違いないからだが、緑の石は現れなかった。

 目に映ったのは、手紙の一枚目の図だった。女の体がそこにある筈なら、腰の肉の奥の辺りに、その図は、はっきりした線でこちらに向けて描かれていた。女の肉の見えない虚ろな中に、その図はどのようにそこに浮かんでいられるのか、触れてみない訳には行かない。穴の縁を撫でる、恐らくは白過ぎて銀色に見えてしまう二本の指が、ゆっくりと拡げられた。その拡げられたままで指を穴に入れるには、指は先ず輪を描くように傾きながら裂け目をなぞって、穴の形を少し引き延ばさなければ叶わないだろう。その見当で指の向きが変わろうとすると、指の股に、細い微かな陽が差し入って来た。指と裂け目の角度が僅かに狭まり、陽が指を掠めて薄っすらと照り返し、その指の上で滲み拡がる気怠そうな金色の光りが、逆さまの馬のような形に現れた。二頭、重なるように並んで、西に向かって帰ろうと空を駆け上ると見えた。陽の差して来る方角に違いなく、そのようにして私は、西を見付けたのだった。

 「これでもう鏡を譲り渡すべきでしょう」と私は言った。女に言うべき事が初めて、寸分違わず述べられたのではないか。しかし「あと手紙も…」と急いで付け加えなければならなかった。応えるように女の肩は傾いたが、鏡は乗っていなかった。私にはそれで良かった。望めばその望む所に、私を導くものを映す鏡が、先回りしているだろう。女の体が頽れたが、足を滑らせたまま走り去るようでもあり、その先の少し低い辺りに、女が描きたくても描けなかった様々な図柄の、水に姿を変えて止め処なく溢れ出る泉が、暗く小さく蠢いて、盛んに女を誘っているに違いなかった。身を投げてそこに頭をすっぽり浸せたなら、図柄の湧き上がる音に閉ざされ、もう何も見ないままにずっと、女に感じ取れる以上のものが、女に与えられ続けるだろう。それでもまだ、金色の光りを滲ませる私の二本の指は、女の腰の布の穴の縁を拡げるままだった。逆さの馬は一足先に帰路に就いたらしいが、その帰路が、更にそれに加わる変化を許そうとしないかのようだ。

 腰に纏われた布切れを残して、女は私から離れて行くようでもある。それとも離れて行くのは、腰の布を切り離してその先の泉に向かう女の影だけだろうか。確かめようと、掠める陽差しを振り払ってでも、指は、穴の縁から螺子を切るように穴の奥に向かおうとするが、穴は却って塞がり掛けて、鋭い重みを指先に掛けて来る。その痛みを伴う感触を忘れなければ、女が泉に求め得るのより更に果てもないような図柄の描き方を、私の指は、知れるままでいられるだろうか。ただ眺めるだけでは得られなかった図の秘密に、今私の指は触れているに違いなかった。ただ穴の縁を離れてしまって、それを忘れずにいられるか、その何程かの証しがなければ、迂闊に指を動かすべきでない。西を見付けた事が助けにならない筈はない。こんな時こそ、その真っ直ぐ先に据えられた鏡が、私を導く景色を映しているだろうが、どちらが西なのか。逆さの馬に去られては、手掛かりは何もない。と言って、見出された方角が見失われたのではなさそうだ。どうしたらそちらを向けるか知らされていないだけだ。見出されたのが西だけで、他の方角について何も分からないでは、私独りで西を指し示せないのも当たり前だ。

 泉は、女の影に覆われるようにして、その女の影と共に掠れて萎み掛けた。穴の縁の指に掛かる重みが急に失せ、四角い布切れがするりと地面に落ちて低い方へと滑る。その布の穴が目玉のように見えると、布は平べったい白い生き物のようで、枯れたらしい泉の残した窪地の底に、身を隠したいのかも知れない。女の剥き出しの白い腕が窪地の手前で降ろされて、生き物は女の手に掬われた。その怒りを湛えるように見開かれた穴の目に、女の二本の指が突き立てられた。白い生き物が最期の痙攣を起こすようであるより早く、女の体が、腕や脚や胴までも折り畳むようにその場に倒れ込んだ。白い小さな布切れがただ両手だけを覆う他、女は裸だった。近付こうとすると、女の着ていた筒形の服が足に纏わり付いて、それより進むのを妨げた。焦って足掻く内、両足共を、その服の腰の辺りに開いた穴に突っ込んでしまったらしく、罠に掛かった獣のように、私はそこを動けないばかりか体を寝かす事も出来なくなった。

 僅かな光る気配に釣られてそちらを向いた。その瞬間の頬を掠めて私の項から背筋や腋に纏わり付く生き物のような後味の悪さは、無防備な女の姿を軽はずみに視野の外に押し遣ったからだろうが、その後味の悪さが、それを私にどうにも出来なくさせた。或いはただ、時を後戻りさせられないのに、四六時中その時を見張ってはいられないと気付かされる度に味わう、いつもの後味の悪さの、その味がいつもと少し変わっていたに過ぎないのか。その変わったにはそれなりの訳があるだろうが、それを穿鑿し出せば、更に別の後味の悪さが次々に控えているのを知らされるだけのようで、それこそが後味の悪さの正体にも思える。真っ直ぐ行った遠い先に、垂直に立つ細長い鏡が私の方を向き、その左右を揺らめく青っぽい灰色の影のようなものが、鏡を支えるらしかった。幾ら遠く離れていても、闇と見紛う暗い壁の中に一つだけ開いた小さな穴から覗くようにして見れば、その遠くのものを、直ぐ間近からのようにくっきり見られるのを、私は知っていた。或いはそれは、西を見付た際に、こちらから頼んだのでもないのに、授けられた技かも知れない。ただそうして鏡を間近に引き寄せても、映るものが一つも捉えられず、それが私の目のせいとも、そこに何も映っていないからとも決め兼ねた。それに比べ、その左右を揺らめく影の方が、余程その姿を鮮やかに私に晒した。左右に揺らめくのではなく、別個の二つが両側で鏡を支え、交互に青くなったり灰色になったりを繰り返している。その見掛けに従い、直ぐ側にそれがある積もりで、両方に手を差し伸べてみたが、二つの姿には何も加わらない。代わりにか、私の両手は無闇に熱くなった。

 霧のような小雨が、静かに冷たい風に流れて来た。心なしか、二つの姿の、色の入れ替わる速さが増すようだ。私は、両腕を拡げ、両掌を風に向けて器の形にした。両手の熱は収まらないが、そこに雨水が溜めるまでは、熱さを耐えなければならない。

 「女の顔に振り掛けてやれ。」

 「そうか、女は死んだんだな。」

 掌で揺れる水は、透き通る炎のようだった。拡げた翼を前で閉じ合わせるように両腕を振り出し、その二つの水を、直ぐ側の積もりの何も映らない鏡に向けて投げた。「やったぞ」「いやだめだ」「やったぞ」「いやだめだ」と、向きの違う二つの声が行き交う。声のどちらかは青く、もう片方が灰色に違いないが、どちらがどちらかは速過ぎて分からない。しかし言葉も色も速くない。何が速いのか。或いは、私の知らない何かが働いて、その速さを捉えられずに、速過ぎると感じられるだけか。ありもしない穴に、ありもしない近さを覗き見たせいかも知れない。いや、声に着いた色を見て取れた試しもないなら、声の色を見分けようと出来たのは覗き見た御陰とも喜ぶべきか。尤も別に望んだ訳ではない。声は続いたが、段々と交わらなくなり、それぞれの色の細長い壺の中にでも収まるように、どちらも窮屈そうな独り言になり、その言葉が直ぐ様打ち消されずにいるのが辛そうにも聞こえ、遂には、「やったぞ」の中に「やってないぞ」、「いやだめだ」の中に「そうだそれでいい」の響きが、こっそり忍び込ませてあるのまで聞き取れて、声はただ、自らが空気を震わす音であるのを求めるだけで、色が着くのは仕方ないにしろ、それで何かを言い当てたりするのを嫌うらしいが、元々そうであったのか、私がその声の言おうとする事に応えられないせいでそうなってしまうのかは、知りようもない。

 小雨を運ぶ風が過ぎて、別の生温かそうな雨粒の、疎らに地面を打つ音が続く。音は、途絶えたかと思うとあちこちで出鱈目に繋がって、多分私を酔わせようとするのだ。私はまた、翼を拡げるように両腕を翳し、掌は雨を受ける形を取っていたが、大粒過ぎるせいか、偶に掌に落ちても水気は全て撥ねた。その両手は熱いままだったが、穴の縁を拡げた二本の指先だけは、熱さを免れ、却って何も感じない程に冷え切っていないか。その右手か左手かは分からないのに、鏡の灰色の側だとは分かったが、青と灰色が左右を絶えず入れ替わっているからには、どちらかに定まる筈もない。冷え切ったながら、塞がろうとするあの穴の重みの鋭い感触を、指先はまだ憶えているだろうか。先ずはその時の痛みを取り戻す事だ。冷え過ぎて感じないなら温めるのだ。右か左か分からないまま、見掛けは直ぐ側の鏡の表面に、指先を何度も突き立てるようにした。鏡には何も加わらず、指先も冷たいままだが、空いた方の翳されたままの手が固く握られ、その高い位置からして、掴んではならないようなものを掴んでいる恐れもあった。放そうにも放せないのは、その何かを外から掴むのではなく、その内から外へと力を掛けて掴んでいるかららしかった。指の全ての関節が逆に曲がって手の甲がすっかり隠れ、反り返った掌の表面だけを見せる、のっぺりとした逆の握り拳が思い浮かんだ。痛みかどうか分からないが、私が感じ取れる以上のものが、そこに包み込まれていないだろうか。それが何か思い浮かべようとして、繰り返し思い浮かぶのは、どうしても最後まで見届けられない或る図柄ばかりだった。最後どころか或いは最初の線から何も見えていないようでもあり、それなら何故それが図柄かも怪しい筈だが、もしそれが何かの図でないとしたら、例えば私の人である姿なども、恐らくは酷く見難い夥しい線に引き千切られて、始めから互いに結び付きようもないものとして、後戻り出来ない時のあちこちにばら撒かれてでもいそうなのだ。それが、少なくとも私にとって図柄であってやっと、それを見る私の姿は、或るこの時の中に収まれもするに違いなく、そのためにそれを、図柄としか見て取れないのではないか。

 何も映らないまま、鏡の中の隅々までを、透き通った炎が満ちている。その直ぐ脇の、それぞれ灰色と青の細長い壺に閉ざされた中で途絶えた二つの声が、炎から伝わり出た熱で燃やされていて、直に壺ごと灰と化して粉々になり、それを蹴散らす青くなったり灰色になったりを繰り返す二つの影が、その上で踊るように絡み合った。鏡の表面に突き立てるようにした筈の私の指先が見当たらないなら、二つの影は、その二本の指先の形を変えた姿にも擬えられるだろうか。それなら二つの影は、或る図柄を描き出そうとして絡み合うのではないか。影は、燃え滓となった声が撒き散らかっている地面を盛んに引っ掻いて、そこに次々に似た図柄を描き重ねているに違いないが、どれも拙くあやふやに見えて、直ぐに掻き消されてしまっても惜しくはない。ただ、そうして踏まれる燃え滓が再び熱を持ち、そこから僅かに甦る声を、私は聞き取るべきかも知れない。しかし耳で聞くには、遠過ぎてどうにもならない。指先が憶えていなければならない、塞がろうとする穴の重みの感触の他に、それを聞き取れそうなものはなさそうだ。指先が形を変えた姿かも知れない二つの影が冷え切っているなら、鏡に満ちる透き通った炎の熱は、そこに伝わらないのか。影の中に、あの鋭い感触が甦る気配はない。

 鏡の中を炎が動く。それなら炎は、全く透き通っている訳ではない。いやまるで透き通ってはいなくて、鏡が何も映さないのは、炎に遮られてに違いない。二つの影が、地面の拙いばかりの図柄に見切りを付けるかのように、踊りを已めて抱き合うまま、鏡の方に沈み込むように身を擦り寄せた。影は、鏡の冷たさを感じ、逆に、鏡の表面に、影の僅かな熱が移ろうとするようだ。互いに蜷局を巻き合うように一つの姿に溶け込んだ影は、青くもなく灰色でもなくなり、細長い鏡を縦に背負って、それをずっと遠くから見詰める私の方へ遣って来ようとしている。その道程がしかし、真っ直ぐに見えて真っ直ぐでないのは、鏡が様々に向きを変え、時には全く裏返りさえするので分かる。背負われた鏡が裏返るなら、影も私に背を向けて私から遠ざかるのだ。決してただ向きだけを変えて、こちらに進んでいるのではない。何故なら、向きが変わる度に、影と鏡は、その位置を上下に振らし、大きく見えたり小さく見えたりを繰り返すからだ。それなのにそれは、何かの図柄を描くどころか、ずっと同じ速さで平らな所を、真っ直ぐ私の方に近付くように見えてしまう。そう見えるように私が、影の動きに応じて、その見る向きを変えるべく、影よりも何倍も素速く絶えず動き回ってでもいるのか。或いは、私と影との間に、歪んだ波形を様々に入り組ませたレンズでも置かれているのか。或いはまた、とても私には思い及ばない程の単純な仕掛けにでもよるのなら、穿鑿するだけ無駄だった。しかし、その影と鏡の真っ直ぐにしか見えない軌道と私との間の何処かに、或いは、何か単純な仕掛けが係わる何処かに、或る図柄が描かれていなければならないだろう。いやそれも、単純過ぎて私には思い及ばない、図柄でさえないものかも知れないが、無駄な穿鑿でしかない。

 「掴んではならないものを掴んでいる。放せ」と、私は、私か影かに言った。私か影かは、「何も掴んでいない。掴める筈もない」と、私か影かに言い返した。何れにしろそれは、誰が何をする事についてなのか。掌の反り返る裏返しの拳を握って物を掴めるなら、私は死んでいるのではないか。或いは、私の死体そっくりの私の抜け殻がそのような掴み方をするのを、生き抜けた私が、見てしまうのか。私はただ、私の抜け殻へ赴こうとしているだけで、そうしてしまうのは、その抜け殻に係わってしか、生きる術を見出せないからではないか。私は、その抜け殻の手に、その抜け殻を丸ごと掴ませようとして、その全身の姿を求めても、求められずに、その似て非なる図柄の影に煩わされているばかりではないか。生き抜けた私に、抜け殻の何が知れよう。その殻の中に嘗て収まっていた中身の、その居心地の感触、つまりは、私に思い起こせる、そこを抜ける前の自らに対する感じ方が、精々の手掛かりでしかないが、無駄な穿鑿を蒸し返している。

 影と鏡は、私を行き過ぎてしまったに違いない。私は、鋼を捻るような力を込めて、やっと後ろを振り仰ぎ、より高い方へ進むそれらを見上げ、見失わないために、仰け反ったまま全力で後退っていたが気休めで、見えるのは、見上げるどころか限り限り見下ろしてやっと見えて来る低い方に、じっとしている人の姿の抜け殻一つだけだった。訪れない私を待ち兼ねるように、その姿は、燃え滓の欠片を抓み上げて息を吹き掛け、その縁に、透き通る火に似た僅かな声を点した。その抜け殻の全身の輪郭が、闇の前に漂って輝く糸のように晒された。闇は、枯れた泉のツンとする匂いに覆われていた。その底に流れ込んだ雨水が、一枚の掌に掬われたように溜まり、そこに、甦った声の僅かな明るみが鈍く映えて、浮かぶように見えた。その大方は地下に染みて、残り僅かの雨水を接げるものが何であるかを知るのは、水に映える声の明るみだけに違いない。それを、鏡に映して耳を傾けられでもしたら、せめてその声の、それがまだ声であるのか、或いはその抜け殻に過ぎないのではないのかと、自らを問う声だけでも、聞き取れるだろうか。

 とそのように問う者こそが、枯れた泉の底に流れ込む人の姿の輪郭となって、雨水に接ぎ合わさるようだった。私がそれを見下ろす限りでは、その輪郭は首から下だけで頭を欠いていた。私が、自らの体の首から下を見下ろすのか。私は生き抜けたのではなかったのか。或いは、欠けた頭を補うのが、溜まった雨水であるようなら、私のものではないだろう。そして輪郭は一つではなかった。それでも、雨水を接いで重なり合い、一つの輪郭が、段々と激しく形を変えながら細かく震えているように見えた。

 その輪郭の数をか、数える声がする。数もまた図形で表されるのだ、と私は思った。数というものがそもそも、或る日誰かによって描き出され、その全てを誰にも知られないまま伝えられて来た、一つの図形かも知れない。果てもなく続くと見える形が、図形としての数の姿として現れた。数える度に声は、その形の内から外へ向けて掴むように、しっかりとそれを包み込んだ。包まれる形はその度に違ったが、段々と一つの姿に収まろうとするらしい。雨水を接ぐ人の姿の輪郭は、もう数えられない程だが、その収まって行く数の姿に抗うのを決して諦めないかのように、増え続けた。その激しく震えるばかりのような様も、数を表す一つの図形とも見えたが、独りでに出来上がってしまうなら図形に似たものでしかなく、そうであるならそれは、数を拒む全く別の図形が表される時を、ひたすらに希ってそうしているのかも知れない。

 雨水が全て地中に吸われた。跡に残った一枚の掌のような窪みに、声の明るみは尚も点ったが、水を接いだ輪郭は全て呆気なく絶え、数えるものをなくした声は、行き場を失って揺らめくばかりのようでありながら、その向くべき方向を、目の眩むような確かさで見出していないだろうか。とそのように問う者も、水や輪郭の後を追った。再びそれ一つだけになった人の姿の抜け殻は、枯れた泉の中を燃え滓の欠片を集めて回った。声は決してその方を向かなかった。拾い上げた燃え滓に息を掛けても、声は二度と点らず、燃え滓そのものが細かな塵になって吹き消され、その辺りの燃え滓が尽きると、人の姿もそれと同じ事になった。それは、声がその時になって初めてそちらを向き、それを一吹きに吹き消したに違いなかった。そうして声は、その向くべき方を向いた。

 方向は一つではない。私はその方向を、一からではないにしろ順に数えられて、声はその度に、青と灰色から作られる違った色を見せるだろうから、その果てのなさに飽きたりもしない。図形は知らない。泉に至り着けずに倒れた女の事を憶えていて、その晒されて干涸らびた体を用いて色々と身の安全を図ろうとする者などが、図形について詳しく知っているだろうか。女も恐らく同じ遣り方で身を守った筈だが、私は要らない。屍にお呼びが掛かるのは、数えるのに飽きた者同士が、その疲れた顔を晒し合うしかない場面でだけだ。声が絶えて数が止まると、止まった数だけが何度でも数え直された。それだけを私は待ち望んでいた。数は、声のように違う色を見せない。素振りだけで、数え直してなどいないからだ。それが、彼らにとっての屍のように、私の身を守った。知らない数が喉を溢れて吐き出されると、それは、一斉に沸き立つ虫の羽音のように、辺りを征服して行くようだった。誰も座らなかった空の椅子を探した。(2004.12.27)
















モドル