水だけが独り流れても、水にしか聞き取れない音を、水は聞き逃し、顧みもしない。そんな水に寄り添えてこそ、呆けた身を保てるのだと見直せば、水に見下ろされ見下ろしてもいる己の姿は常に、流れに絡む蛇で、その血と肉の疼きも何時からか虚ろなままで、「渦、渦」と呟きにも聞こえる矢印を残して消えてしまった水の音は、何処にも戻らない。薄く光るその深みの端を巡るのは矢印の影に過ぎず、その先には、切り詰められて何一つ匿えそうにない小さな弧が、投げ出されているだけで。蛇とも水の流れとも係われない、抜け殻の弧が。それで蛇もまた己の疼きを取り逃がし、「渦、渦」と呟く途切れた夢を綯い交ぜてやっと、小さな蛇で。或いは蛇でもないか或いは、蛇の姿など迂回しろよと語り掛ける姿が蛇。しかし、何処を向いてもいない矢印などを見て、迂回など出来る筈もなく、蛇でさえないままに「渦、渦」とただそのままであれたなら、と呟く渦は、精々蛇の姿を映すのみで。或いは薄く光るのもまた、己の血と肉に違いなく。
そうして渦の幻まで砕けたなら、薄く光る深みの縁は、何やらざわめいて淀む。嘗て身を投げた際の、水飛沫を沈めた目映い淵へと、淀みは向かい、その後を闇のように追えるなら、水との迷いも忘れられ、擡げた首の重みを怒りに換えて睨むばかりの眼差しに、己を恃めもする。とは、蛇の姿を半ばまで脱いで溺れる事でしかない、と気付かされて溺れるのが何であれ溺れるなら、それは血と肉を抱いた夢の始まりへと、蛇の姿となって切り込んだのだ。そんな断定は常に眠い。で折角の断定は切れ切れの端屑で、しかしそれを掴もうとは出来て、望まれていた筈のもう一方の弧、或いは弧の続きへと、促されるままの勢いに、何であれ砕けて熟れて混ざり込むなら、ただそれを、血と肉の眼差しと見做せ。そんな断定も眠いがどうした、と折々に繰り返し。
眼差しは、その抜け出た痕を埋めた粘土のような血を舐めてから、その血を薄めて洗い流した水の匂いの染み付いた、何もない真四角な隙間に行き当たり。身を投げる際の、蛇が必ず脱ぎ捨てる筈の匂いで、ならばどのようにか蛇の身を捩らせているのだが、その隙間は壁の迫るように冷めて。平たくなって幾筋か這い回るのは炎で、それは虐げられているようで、そこだけ短く地べたを照らす。それを逆向きに辿って炎の出所を探すべきだが、必ず炎の流れる方へ眼差しは引き戻された。それで蛇の身も捩じ曲げられているらしく、炎の燃え滓を次々に背負い込んでいるような、増すばかりの重みも骨身に応えた。何が邪魔をしているか段々と分かって来た気もして、「もう邪魔はしない」と自ら呟けば良さそうだが、その声が後々繰り返し邪魔になりそうでもあり。その声の向けられそうな方を振り返ると、平べったい孔の奥に、小さな蜥蜴のような炎が、一塊になって、数え切れず蠢いて。そこから外に飛び出るものは見当たらないが、ではその孔の周りは闇かと目を凝らせば、蛇の胴がぐるぐると巻き付いて煌めいて。
目を塞いだが、己の胴の煌めきは瞼の裏に愈愈留まり、蛇に孔を締め付ける力を与え続けた。目を塞いで、それで見えなくなるものなど何一つない、そんな事は分かっていたのでは。地べたを這う炎は尽き、迫る隙間は瞼を凍らせる程に冷えて、匂いも嗅ぎ取れなくなった。孔の奥の炎の光りだけで、隙間の真四角な形は照らされたが、その光りまでが冷え、炎の動きを鈍らせ、遂に炎は、じっと孔の奥を向くただ一匹の蜥蜴の姿になった。孔もまたくっきりとその蜥蜴の形になって、蜥蜴の姿そのままに孔は塞がれた。それは蛇には、消えた孔の上に腹を乗せた大きな蜥蜴の姿だった。それでも蛇はまだ、消えた筈の孔の周りで蜷局を巻くままで、のそのそと蜥蜴がその見上げる方に這い出しても声も掛けられない。光りを失って行く隙間の中に、蛇の背負い込んだ炎の燃え滓の転げて落ちる音が、蛇の腹の底をゆっくり撫でた。そして蛇の胴が尻尾の方から延びて、吸われるように隙間に滑り落ちていると気付いたが遅かった。燃え滓の熱さは火に劣らない。蛇は尻尾から胴の真ん中辺りまでを失い、炭になった後ろ半身は炎の燃え滓と溶け合って、濁った紅の火をゆるゆると噴く蜥蜴の形に伸び上がり。
それで蛇の前半身は、それより隙間に落ちるのを止められた。しかし隙間は、燃え滓の塊の蜥蜴を吐き出して、また蛇に迫るようで。身構えるようにそれに蛇が向き直ると、隙間は真四角なまま小さな部屋程の大きさを見せて、静かに蛇を迎えた。慌てて蛇はまた逆を向いたが暗い壁に塞がれ。或いは壁ではなく壁に見せ掛けた暗がりが或いは、いや。何も試すべきではない。身を預けてまでして確かめて、首尾良く危うい目に遭わなかったにしても、蛇を迎えようとするものとの隔たりは埋め戻せない。燃え滓を真似て螺旋のように垂直に身を反らせ、蛇は錐のように回った。その地べたを擦る熱が緩やかに昇り、小部屋の天井を円く溶かして行く。その一番高く抉れた真ん中に白い花が一輪、下を向く小さな顔を覗かせ、真下の蛇へ雫を滴らす。雫は回る螺旋の中へと落ちて、蛇の肌には触れず、地べたの熱に直ぐに消えたが、それで紅い湿り気が満ちて蛇は噎せ、それで目が塞がれる度に閃光が瞬き、湿り気の紅だけは残して、他の色がどれも褪せた。真四角だった隙間は見上げる限り何処も角が取れ、蛇は卵の殻に閉ざされるようで。
ただ下は沈む紅色に覆われ、卵形の底は隠れて、紅の澱は少しずつ厚みを増し、真ん中から脹れて丸みを帯びた。湿り気は大方その澱に収まったか、蛇は殆ど噎せなくなり、閃光に目を遣られずに済んだ。見上げられる花だけが、ずっと同じ間合いで雫を落として来る。蛇は澱の重みで地べたから押し上げられているのを感じた。それでも体を錐のように回せるのは何故だろう、それを確かめる事になるのか、螺旋のバネを利かせて跳ね上がろうとすると、即座にそれを嫌うように花は萎んで、黒ずんだ花弁全体から、紅い水が途切れなしの筋になって落ちて来て。蛇も咄嗟に上を諦め、絞ったままの溜めた力を真下に向けて身を沈ませた。すると、その紅い澱の中では、摘まれた小さな白い花が幾つもクルクル回りながら泳いでいたが、直ぐにそれらは霞んで消えた。蛇の身は、地べたに刺さり、更に深く差し込まれ、いや或いはそれは抜け殻。血と肉の疼きは、虐げられたように平べったくなりながらも、螺旋を描くのを已めないまま、緩やかな弧の上を滑らなかったか。そこはもう紅い澱の底である筈もなく。
そこは一瞬、卵形の隙間で、しかしただ一度の蛇の瞬きの閃光でその形は砕け、蛇は犬のような寝息を立てて横たわる自分より大きな蜥蜴を跨ごうとしていて、その腹の端をつるりと踏んだ。蜥蜴は夜に塞がれた小さな歪な五角形の窓を、飛び出そうな濡れた大きな目で見上げただけで、目を開けたまま寝ている。その寝息に聞き入ると、それが僅かな月の光を夜の窓から導き入れているのが、蛇の額に感じ取れた。その額から毒が回るように蛇の全身を懈さが襲い、痰を吐いたが音もしない。僅かでも音がなければ、懈さだけでは眠りには入れず、蛇には好都合だ。蜥蜴は眠ってはいなかった。変わらぬ息遣いで、笑いながら蛇の吐いた痰を啜っている。その啜る音、眠りを誘う音が聞こえてしまう。それを払い除けようと蛇は蜥蜴に「丸い卵を産んだ事はあるか、あるだろう、乱暴に摘まれて欠けた花のように歪でも」と尋ねた。返事がないので「俺はお前の産んだ卵を見た。その卵の中の真ん中で。俺達は繋がっているんだろう、蜜と花弁のように」と続けたが、最後の科白は巫山戯た調子をこっそり乗せて、そんな筈はないが、という意味まで含んだか。蜥蜴は痰を舐め尽くすと、また動かなくなった。まさかずっと眠ったままかも知れない、その変わらぬ笑顔を眺める内、蛇の額は磁石のように夜の小さな窓に寄り付き、差して来る月の光りが、微かでも外の音を忍ばせていると思えて仕方ない。蛇が今、音のない方に身を寄せていて、何も知れないでいるのなら、月の光りの方には蛇に知り得る何かがあって、或いはそちらでも何も知り得ず何も聞き取れなかったとしても、身を以てその月の下の虚ろな道程を巡ったとすれば、それだけで、目の眩むような知識が、蛇の身を貫くに違いない。などと思う間に、蜥蜴が目を覚まし、蛇の右目の下を軽く咬んでいるとは。
その笑顔は消え、不機嫌に痰をねだっている様子で、粘り気のある舌が、蛇の頬の脹らみを執濃く舐めている。蛇が瞬くと、その閃光で蜥蜴の口は振り払えた。蜥蜴は喉の奥まで覗かせて口を開けたまま、ゆっくりと窓から逸れる方へ倒れ込む。いや寧ろそちらへ身を起こそうとしていて、蛇の方こそ、何処かへ倒れ込むのだ。その蛇の体は硬い棒のようで、もっと硬いものに当たって跳ね、跳ねた先でまた硬いものに当たって跳ね、うろうろ己の影を探す振りでもするしかなく、或いは水の影で構わないが、どんな形だったろうと思い巡らすと、代わりに赤い熱が行き来して、蛇の喉を嗄らした。喉は蜜を欲している。喉を噎せ返らせ、息も止めてしまう激しく濃い蜜を。夜の窓は迫っても月の光りは取り払われ、何か酷く長いものを呑み下してしまっている蛇だが、それが果たして月の光りかどうか。影などでなく、見上げられる花を探すべきで。白くさえない、色を失った或いは地上と別の色のその花だが、もう幾重にか、苦い悪臭さえ放つ穢い色を纏った歪な五角形の毒虫共に取り巻かれ、その虫の毒が、蛇には蜜の味かも知れない、と思わせるのが頼みで。
僅かな虫の這った痕に、蛇は知らせを読み取った。「ただ与えられた二つの眼にぶら下がって、それに引き摺り回されて生きるしかない、そんな愚かさは、月明かりの気配に惹かれる度合いで測れる。月を向いている積もりのその顔は、そいつの愚かさをそっくり表して、喧しい」と。やはり月の光りを呑んでしまっていたかと諦めれば、その知らせに、あの矢印の影が差すとも見え、見えもしない渦へ身を委ねるしかないか。渦が見えないのは、それが裸だからで、その纏うものに己がなれば、その渦に寄り添って居られる筈だ、などと思い描くのが誤りで、矢印の影どころか虫の痕まで見失い、蛇はただ身を震わせて、何やら纏わり付く汚れを落とすばかりに追われた。その汚れは月の光りから湧く垢だろう。ただ震えるままでいなければ、蛇としても覚束ない。細かく散った垢の欠片は低い方に集まって溝を作り、蛇の息の届かない離れた所まで流れ、順に呆気なく燃えて消える。その僅かな輝きに映える水の痕のぐるりと光りを嫌って避けたような筋の、掻き消される先にしか、蛇の身の向く事はなく、そこに設えられた使い古された戸口でも開けるように、蛇は尖らせた大口をまるで力なく開けながら、頭を捻り捻り。
月明かりの垢の燃える勢いが衰えたのではなく、目が澄んで、あれやこれやを色々に見通せているに違いない。水の痕も低い方へ追い遣られ、その分、蛇は高みに昇るようでもある。恐らく垢は湧き続けていても、蛇を脅かすものではなくなって、それよりずっと目を奪うものが行き交っている。それが益々高みを昇る気分にさせたが、呑んだままの月の光りの僅かな重みが喉の奥に込み上げただけで、逆に身は沈み込んでいて、今やどうしようもなく、次々に見通して来たものの、その奥へ奥へと、蛇は埋もれて行く様ではないか。そののし掛かって来る方を振り返ると、積み上がった色々な形が一斉に溢れたが、それらはその一塊のまま、大きな蜥蜴の目玉に違いなく、それがゴロリと蛇の目の中を占めた。全て蜥蜴が見ていたのだ。突き上がるように開かれた蛇の口が回り込んで、その蜥蜴の目玉を端から噛み砕き。それが蛇の腹に収まっていないのは確かだが、側でそれらを呑み下す喉のゴクゴクいう音は聞こえる。蜥蜴の目玉を全て食い尽くしたら、喉を鳴らす奴の正体も見て取れそうだが。しかし蜥蜴の目は、食われても食われても脂のように脹れているようで。或いは、それに圧し潰されそうな蛇の目を通して見ているので、そうとしか見えないか。いや蛇の目こそ、真っ先にその喉に呑まれていて。
引き延ばされ、曲がって硬くなった蛇の片目は、水の痕をなぞったようだ。やはり光りを嫌って、曲がる内側の方を隠して斜めに捩れる。もう片方の目は点のように縮んで、そこから僅かに涙の匂いがしなければ、目とは分からない。それでもその二つの目が、ものに焦点を合わせるには何の障りもなく、それは先ず、矢印の形に強ばった己の体に向けられ、その矢印が少し溶けて、一度に色々な方を指し示そうと蠢く虫のような姿になると、自ずと目は、その奥の、水に沈んだように仰向けに丸い腹を出す蜥蜴に向いた。腹は、大きく笑う口のように裂けていて、中のものが湧き立つように覗いた。他のものの陰に隠れるものは一つもなく、その一つ一つの裏から表から一切が、露わに剥き出され、果てなく続く勢いで。そうであるからには、その拡がりは、蜥蜴の腹を出て、遙かその奥まで延びて行かねばならないが、そうは見えて来ない。そこに隠れなく見えるもの全てが、蜥蜴の狭い体の中に詰まったままとは。その謎を蜥蜴に尋ねたい蛇だが、腹の他には、蜥蜴の脹れた喉が仰け反って、息をしようとひたすら波打つだけでは、どう声を掛けるべきか。
試しに蛇は「腹を出ないまま腹の中で交わって、そこでまた、その同じ事を繰り返すものを産み続けるなら、腹はそれらを幾らでも受け入れるままで腹を痛める事もなさそうだが」と独り言のように呟いてみた。早速蜥蜴は、蛇の両目を掠めて、已むに已まれぬように仰向けの体を大きくグルリと起こし。腹の中のものが、一斉に零れ出て見えない方へ滔滔と流れ落ち。と見えるのは、濁った様々な色を着けた霧のような渦ばかりで、身のあるものは何もない。裏返ってしまった腹の中は覗けず、確かめようはないが、蜥蜴の体はぴくりとも動かず息遣いも絶えているなら、その霧の渦も見掛け倒しで。実際、蜥蜴の平べったい体が間近まで塞ぎ掛かって、何とか見据えられるのは蜥蜴の額のみ。ただその斑模様は、後頭部の方へ向かうに連れ、窄まって行く梯子の形を描き出し、それは、何処からか蜥蜴の赤らんだ肌を離れて浮かび、より高い方を蛇に見せた。何が見えるのでもなく。
蛇は、そんな何が見えるのでもないものを、ずっと見ようとして来たのではなかったか。何が見えるのでもない方との間に何も遮るものがなければ、そこからこちらの己がどう見えるかを、曇りもなく歪みもせず、そちらへと映し出せようし。そしてその己の姿を梃子にして、そちらに向かう事も出来ようし、そちらで始まろうとする事柄に加わるべく呼び出されたものとして、涼しい顔で振る舞うのも、満更ではないし。しかし蛇の姿は、蠢く虫だった、一度に色々な方を指し示す事に係り切りで居るしかない。始まろうとする事柄の、始まるまでもない終わりが、いきなり蛇を押さえ込んで来て。その、己の屍を埋める土と同じ程の重さに敷かれながらも、蛇は、呼び出すものの方へと己が回って行かなければ、ここは生き抜けないのだと決め付けて、腹を固めた。腹を固めたのなど直ぐに忘れられるしかないが、己の屍に被さる土の重みばかりは体が覚え込んで、それを頼りに蛇は、己の墓、と言っても土を盛っただけの、その形や影やそれが風に吹き曝されて消えて行く様、後から来たもの達に踏み躙られて行く様などに思いを馳せもして、何かの音に振り返って漸く、蠢く虫の姿の、同じ所をグルグル回って描かれた円の中に、その己が閉ざされているのを見て取った。しかし独りではなさそうだが、独りどころか。
騒々しい。それは偏に、そこに一本の柱が立てられているのだが、その位置が、閉じた円の中心を明らかに外れているせいで。外れたと言ってもほんの僅かで、僅かである程、蛇の体に痛みとなって、ぐらぐらと宙ぶらりんに刺さった。最前蛇を振り返らせたのは、その痛みの音に違いなく、蛇に、虫のようである姿を耐え難くさせ、それが蛇を酷く独り切りにした。そのそっくり同じ影を引く身代わりを待つしかない、待てないなら探すしかない、探せないなら造るしかない、造れなくとも造るしかない。蛇に何が造れるか、虫そっくりの蠢く姿のもう一つの己、或いは、己を補ってそれと共に一つであるもの。すらりと窮まる答えは、己の屍で。がそれは諸々のあらゆる問いの行き着く答えでもあって、闇雲にでも求めさえすれば、自ずと返って来るもので。そうではなく、そのような答えも打ち砕く力、更に、他のどのような答えをも打ち砕く力が、虫の姿の芯にまで届けられなければ。それが求められている身代わりで。改めて蛇は、己が独り切りかどうか、周りを見回し思案したが、それで何が見えるのでもなく。
虫の姿は、蛇から失せていた。蜥蜴の胃液かも知れない水の匂いを籠めた狭い風に吹き消されていないなら、その姿の骸は、塵となって側で回っているらしい。なるほど目を凝らせば、塵は纏まって虫の形に成りたがっているようで、蛇は、その屍かも知れない己を見るのは已めた。ぼんやりとでも動く塵の形さえ追えば、その影の動きから、己の身振りを確かめるかのように、その形を、元の蛇としての姿に受け入れられたので。そんな蛇を或いは塵を、慕って来たかのように、塞がれた窓が横を向いて、その一枚だけの分厚い硝子が、恥じらうように傾くと、窓の下の方に隙間が空いた。そこは直ぐにじわりと濡れて、それが外からの水の当たる力のせいだと知れて。蛇独りなら、もう隙間の縁を這って窓に絡めてもいようが、塵はどうか。いや寧ろ躊躇う蛇を置いて、吹き止まない狭い風に導かれ、塵は、蛇のように窓へ首を擡げていて、それに気圧されたか、水の勢いが失せて隙間は狭まり、塵と窓硝子は争う音を立て、それに自ずと蛇の身が踊り。
踊るその目で蛇は、窓の隙間に艶々と溜まって行く水の塊の中に、透けた翼の小さな鳥がのた打つのを見詰めていた。水に囚われた鳥。一口に呑むに恰好な、蛇のために差し出されたかの。しかし躍り掛かるより、蛇の方こそ囚われて、何ものかに己が肉を狙われていないかを恐れて蛇は、頻りと周りに心を用いた。すると潰れた鳥の形の水の染みのような汚れが、点々と足跡のように続くのが、気に障る。周りにはそれだけ。ただそれらが、急に立ち上がって膨れ上がり、一斉に蛇に食らい付いて来るかも知れず。窓が微かにカタコトと鳴ったのは、もう隙間を抜けて窓の外に出た塵が、蛇を嗤っているに違いなくても、却って蛇は、強張った己が身を持て余し、何に向けてか、強がりなのか弱気なのかも分からずに、涎を飛ばすしかない。水の染みかも知れない鳥達が、その涎を突つきに来ても、それより何も起きそうになく。そのまま時が過ぎる程、蛇は、奥深く拡がって見えた蜥蜴の腹の中に、丸ごと呑まれてしまっているのだと思い込むばかり。涎も尽き、周りの水の染みの折り重なりが描き出す曲がった矢印が、その矢印の方向に抗って、両翼を拡げるようにも見えて来ると、漸く蛇は、窓から少しだけ身を捩り、これ以上になく静かに息を吐き。柱の位置を確かめなければ、と気負えば眠気が来て、柱など気に掛けたのが命取り。いや、重い瞼にただ抗うのが精一杯で案ずるに、命取りは柱ではなく、蜥蜴の腹の中は、位置を測られるのを嫌うのだ。違いない。にも拘わらず位置を測るために柱が立つ。そう分かったところで、位置を測りたい欲望は、蛇を捕らえて酷くなるばかりの病のよう。
狭まる窓の隙間に押される水の塊、その中を締め出されそうな、水に囚われた鳥。押し返そうとする水の塊が、震えながらグリグリ丸みを帯びると、鳥も水から振り落とされまいと体を丸め。蛇には初め溢れそうな涙の粒にそれは見えたが、中に胎児の形が透ける乳色の小さな卵に見直されると、それを焼き付けた目を窓全体に配って、角張った硝子の何処かに、その嘗て卵のように丸かった痕を探した。外側に当たる水は、雫となって伝う初めから細かく砕け、蛇の目から丸みを隠した。硝子の表面は、次々に弾ける星とその星雲を成してズキズキと痛そうに光る様が入り乱れ、窮屈に争うようだが、何故光るのか、何処から光りは来るのか。その光りの源を、蛇は卵形に思い描いて。すると直ぐにそれは、蛇の赤い口に一呑みにされ、卵は直ぐまた同じ所に産み出されたが、直ぐに赤い口の餌食になって繰り返される。その内に、その呑まれる刹那の卵の痛みが、蛇にもそっくり伝わる。赤い口の奥の胃は満たされたのではないか、なのに何故、卵は呑まれ続けるのか。なのに何故、卵を思い描き続けるのか。それは、その蛇自らが内から光るために違いなく、蛇はそうして硝子の表面を行き惑う水の砕片に光を当て、それらにじっと目を留めるままでいたいのは。卵の表面にそれが似て見えるので。硝子と同じに真っ平らな殻の卵など、触れた事も呑んだ事もないが、その殻の奥に、丸々と養分を蓄える命が眠るなら卵以外ではない。その殻の奥とは、窓の向こうか、こちらか。どちらでもなさそうなら、その薄い水の膜に命が宿る。或いは、蛇の目の届きようもない別の所に、それは守られて安らい。
ゆっくりと胎児の育つように、蛇は体を揺らしていて、巧まずとも、蛇と水の砕片の表面の間に、触れようとも出来る何かしらの丸みが帯びた。それが、蛇と窓硝子の真ん中辺りまでを包み取ろうとする動きに乗って、蛇は、身を胎児のように丸めようとしても、あらぬ方に歪んで行き止まるばかりだが、帯びている丸みは、無疵どころか強張る蛇の体を措いて、硝子面に卵の形を浮き上がらせた。それが、蛇の光りを受けた水の砕片で描かれているのは分かってはいても、何とかそこへ潜り込めないか。しかしそれは、浮き上がり過ぎて覆るように消え、丸みもまた何処か裏の方へ覆った。投げ出されたかの蛇の体は、卵の中へ落ちた、或いは卵の殻から外へ落ちた。どちらかには違いないなら、どちらでも良い、と思えば強張る体は緩んで、滑って水のように落ちた。しかし落ちたのは、蛇が纏っていたもの共ばかりで、痩せた無様な身を晒す羽目の蛇は、凶暴さをただ一つの頼みに、窓の隙間の乳色の鳥の卵に、赤い口を差し向け、力任せに迫るしかなく。の筈が、切り刻まれても皮一枚で辛うじて繋がるように項垂れて、真下に延びる狭い溝を見下ろすばかりとは。別の窓の塞がれるために切られた溝だろうが、そこに窓がない。窓の破れた跡もない。土のきつい匂いから壁は分かったが湾曲し、溝とは隔たっている。ぴったりその溝と合う窓の形が、どのように壁に開けられるか思い描こうとして、ただ混乱する内に、どんな形であろうと必ず巧く嵌る、予めそうなる仕方で周到な湾曲が壁に施されている、と何故かそう確信出来れば、蛇もまた、どのようであっても良い、己の形を得られた気になれた。そうして改めて鎌首を擡げると、狙い定まる乳色の中に透けるのは、胎児ではなく、水を呑んで瀕死の、しかしそうである程に蛇を凌いで凶暴な、殆ど羽も毟られて裸同然の鳥で、その飛び出そうに蛇を見詰める両目は酷く濁って、それが、長過ぎる時を掛け、余りに多くを見過ぎた証しとして示されているようであっては、蛇の鎌首は萎えた。見る事は詰まる所、害毒。そう思い至るしかないので。一瞬蛇は、その濁りと向き合う己の目を潰したくもなったが、目が引き受けないなら、害毒は更に体の奥に染みて来そうだし。
そのまま真下の溝へ水のように落ちて行けたなら、と願っても虚しく、ならば鳥の死を直ぐにも見届けたいが叶わない。しかし蛇は、うっとりと生温かさの心地良い身を伸ばし、揺り籃に潜り込むように安らえた。実際その場を揺り籃とも見馴染ませて、その形はどのようでも良かったが、その縁にほんの小さな棘が。溝の端で、それはもう決して開かない目を固く塞いで、硬い尖った矢印のようになって動かない、彼方を向いて汚れた、鳥の姿だった。或いは全く別の何かか。その冷たさが、蛇の目を突き抜けて腹の奥にまで届き。そしてそれが、次は蛇の腹が狙われていると思えて仕方ない、その同じ冷たさならば、揺り籃のどのようであっても構わないその形こそ、蛇の肉を真っ先に欲し、それを一呑みにしようと狙っていない筈がない。込み上げる笑いに、無理にも浅ましく身を沿わせるしかなく。いや蛇が笑う事はない。では何が笑う。溝の端の死んで汚れた鳥、でないなら、それに代わってまだ笑う口を持つ、汚れた腐肉を生きて眺め合う鳥、ならば何を笑う。同胞の殺され棄てられた様をしか。そのような姿を晒すために生まれて、生きて行く鳥よ。それは蛇も同じで。とは言え、そんな鳥の笑いが、仮にも蛇の腹から込み上げるだろうか。そして己の肉を食われる事を思うのであれば、たとえ笑えたとしても、それは笑う程の事でなく。抑も、食う食われる殺す殺されるなどは、一々思う程の事でもなく、明らか過ぎて眠くもなるし、だからそれは日々の眠気の中に紛れて、退屈を押し付けて来て。それなら込み上げた笑いは何かの誤りで、その誤りを、蛇は笑いと間違えたらしい。食い殺されるのもまた、笑いのように、何かの誤りと間違われそうでもあれば、腑に落ちる。何かの誤りがその、何が誤りか分からないそのままに笑いで。揺り籃の形は愈愈定まりようもなく冷たく、それに抗えず気怠く落ちる蛇の視線は、逆さに吊られた細い柱を伝い、その僅かな揺れは止まりそうになく、余りに華奢で何の役に立つやら。それが逆さであるしかないなら、それを逆さと見る方がぐるり逆さになれば、何一つ逆さでなくなり。いやそれぞれは全て逆さだが、それを逆さと見るものが居ないだけ。な訳はなく、逆さは逆さだ、と見られてはいなければ、それは端から端まで見過ごされ、消えたも同じ。しかし鳥と違いそこは蛇。逆さなど知った事か。鳥の、死んでさえ逆さを苦にする、その高い空との腐れ縁とは。何時かは空に無残に見下ろされる冷たい翼を恃むしかない鳥の、己の死をそのようにしか思えない、空で生きてしまった鳥の重さ。水の滑るように軽みを纏う蛇には、それはない。が今、それを蛇は見た。何を見たか気にもならず、何も見なかったと同じに。
蛇はそれで、自らが発する光りの縁を、ぼんやりとなぞれた。蛇の光りがただ一つの光りだが、光りが、ただ一つだけである筈もない。様々な光りが、様々に角度を付けて梯子のように降りて来る、か昇って行く。或いはそれらは全て透き通っていて、蛇の目に映ってはいないのかも知れない。焼けて失われた後ろ半身の疼きが、滑って寝返るように跳ねた。それは蛇の前半身へと生身のようにうねって、蛇の口の中に甘みとなって露を結び。その含むところを蛇は考え倦ねた。それでも甘みの涎は零れて止まらず、それは後ろ半身が途切れた方へ伝って。それが一所に蓄えられる重みとなって、そちらへ身を引き寄せられるように感じると、蛇は己の体の端にふんわりと丸っこい袋を着けているのを見付け、「卵ではない、卵とは違う、卵なら温かい、卵はもっと軽い、卵はもっと重い、卵なら横を向いている、卵なら縦に立っている、卵なら冷たい…」と、思い浮かぶまま卵を打ち消す言葉を連ね、その声が段々と、言葉を溶かして気怠い唸り声の続くだけになっても、その響きによって打ち消しの意味は揺るがずに。その声のせいで、蛇の身は沈み込んでいるに違いなかった、鳥なら、逆さの方へ、と感じるであろう方へ。蛇は、後ろ半身を焦がしたあの炎の燃え滓を、長年の探し物のように堪らなくもう一度見たくなった。その探る視線は、先へ先へ止め処なく無用の闇を拡げ、それ以上先まで延ばせば、拡げた闇ごと、小さな一瞬の炎となって煌めくか、煌めきもせず己も消えてしまいそうで、目を、闇から逆さの闇へ背けた。いや目は何処へも背かない。目は歪めるのみで、炎を見たい闇も、炎の記憶と共に歪んでいないか。それに比べて、何と己の体は真っ直ぐに背筋を伸ばしている事か、と蛇はやや驚いて、その驚きをさらりと闇から隠して、頭と反対側の体の端に加わった己が身の一部である丸い袋を、冷たく真下に見下ろした。しかし冷たいのはどちらだろう。頭だったとしたら、何とも無様で出来損ないの卵のような頭。卵のようなのに、或いは卵のようなので、卵に頭の上がらない頭とは。
その頭にそっくりな袋を引き摺るしかない無様な姿、蛇の面影もなく。傍目には恐らく、どちらが頭か判らず、何の印も見付からない棒のような胴の両端にくっ付けられた、ヌルヌルと捻くれた卵形が、牽制し合うばかりのような。そこで初めて後ろ半身は、二度と、疼きさえ甦らないまでに失われたと知れて、蛇は胴の真ん中を支点に、木切れのようにカタカタと回ってみた。その回転が、宙を矢印のように指し示す方に、長い梯子が、蛇と組んで踊るのか、やはりカタカタと回って。その梯子とは、粘り気のある白い光りで結ばれているに違いないと蛇は目を凝らす。或いは、梯子と蛇を一つに包む別の大きな袋。梯子の向こう側に袋の口が開いていて、袋を出た所で、蜥蜴の噴く透き通った炎が行き交っているなら、回り続けるまま蛇は、それまで胃に収めた肉の命の悉くを、そこに解き放てられるか。或いはその解き放たれた筈のものを、逆に何倍にも背負わされるか。回り過ぎて向きが分からなくなった胃の底に、躊躇いだけが溜まって行くようで。ゆるゆると体が回るのは収まりそうでも、胃だけは、中のものが、どちらからどちらへ流れるのかを定められない、或いは定めたくもないために、木切れのように回り続けるしかない。カタカタと音などもしないので、それは何時か唐突に千切れて、腹を破って何処かへ飛び散るようでもあって、待ち遠しい。がまだずっと先で、そんな腹をくねらせてでも、蛇なら蛇のように這うのなど楽しい筈もなく。いや、ゆるゆるとでも独楽のように体を回しながらでなければ動けない蛇は蛇か。全く梯子とを繋ぐ粘り気のある白い光りのせいだ。いや、粘りでも光りでもなく、その白だけ。その白はあっさりと、蛇の目の白に窮まって。いくら頭を振っても、その白は蛇の目の端端まで犯し、目の玉の奥まで食い込み、頭蓋を抜け背骨まで通じる。尚頭を振るしかないその目で、体の反対の端を見ると、卵形の袋が見当たらない。縮んでただ隠れているだけと朧気に。それでもそれがそこにまだあるのを確かめないでは、蛇は声を出すのが酷く身を危うくすると思えて、すると却って何かで不意に声が出てしまいそうで、口の奥が拡がり、喉を空っぽのままにしておくのが嫌で嫌でざらざらと。
他にないなら、他でもない白を飲み下して喉を満たすしかないのに、白は先回りして蛇の身を白く染め、それを振り払おうと蛇は反転を繰り返し。別に白が痛いのでも苦しいのでもないと気付いても、体の動きは已まず、寧ろそうしていて却って痛みと苦しみが生まれるようで、それとも、そうであるようである事によってそうでないような、しかしそれで白から暫し猶予を貰っているのかも知れず。袋は見付かった。酷く肥え広がっていて、その見失われていたのは、そのせい。体の端が知らぬ間に大きく脹れてしまうなど、蛇には思いも寄らず、まだそれが体の一部かどうか疑うべきだ、繋がっているだけで体の一部かと。そのままでそれは、蛇と別の事になっていて、蛇の目から隠れた方で、梯子と、蛇よりずっと密接に繋がっていたとして、蛇に何が出来るか、と言うより、それは蛇には何か。取り敢えずもちろん白、脹れた袋もその向こうに隠れた所で行われている事も、蛇の身に染まったのと同じの。であるからにはもう、蜥蜴の吐く炎も要らず。蜥蜴の炎は濁って汚い、腐った肉の臭いが耐え難い。そんなものが入り用になっても、蛇はそれを目の中に易々と映し出せるし、映し出せなくてもその映し出せない中に、それと同じものを宿せる。或いは、そうでなくてさえ構わない。それらは当面の事でもなく蛇は先ず、体がまだ反転を続けているかどうかを、見極めなければならないだろうが、白に犯された目では、それが無理な仕事なのが歯痒く。逆さに吊られた細い柱の、余りに華奢であるので白に塞がれてさえ震えられる、その響きが届かないか。いや、何も響かなくてさえ。そのそれが、恐らくは蛇に、望みを捨てさせないよう仕向けているだろうか。それともそうでなくてさえ蛇は、隙なく白に塞がれてさえ、蛇に係われるものとの、程良い間を取れたのではないか。或いは、そんな間などなくてさえ。つまりは脹れた袋はもう蛇ではなく。いやそれが蛇でないなら、蛇も蛇でないのかも知れず、そんな危うい所を転がっているか、転がっていないか、していられるのは、凡そ蛇に備わる強運のせいであるのかと。或いは、そんな言い回しは戯言の類と決め、つまりは蛇は、そのようでしかない何かの仕掛けに捕らわれているので。もちろんそうでなかったとしても、蛇も蛇でない蛇も、揺るぎようはない。そのようでしかないままに何も変わらない限りは。しかし、何も変わらないとは何がどうなのか、と蛇は、その指す方を探らずにはいられないが、指すとは何をどうか、探るとは何をどうかを、まるで知っていない、その仕方も見当も付かないようでは。
諦めるしかない。諦めるとは何をどうか、とも知らず。そうして放られたかも知れない螺子の一回りのような動きを弾みにして、身を翻らせる己の姿を、どちらへともなく追っているばかりと気付く蛇の、その一身に蛇であるのは疑いなく。そうして蛇は、白をその白のまま含み込むようにして除けられたのなら、何れ白を吐き出さねばならず、そうなら早速吐き出すべきだがその吐くのは蛇ではなく、何処か遠くの、蛇との縁も知れない恐らくは蜥蜴とも別の生き物に任せるしかないらしく。それでも白のままの白に係わる、蛇次第の蛇に変わりはない。その蛇次第の蛇の他に、蛇の身に触れようと出来るものもない。そうでありながら例の袋は例のごとくで、蛇の輪郭を似付かわしくないままにしていたが、そうであるなら蛇にはもう、輪郭など脱ぎ捨てる用もない。その蛇の向かう所、その蛇を蛇でなくそうと脅すものは、悉く退けられ、ただ蛇だけが、一筋の力に溢れる水の流れのように押し出されて行く。それで振り返ると何処にも、振り返った己の身にさえ、蛇の姿の片鱗すら見付からないとはどういう訳だ、その驚きのまま。
引っ掻き損ねた描線のように反り返る蛇は、身の端の袋を一気に削ぐように噛み切って、その身の勢いの輪を作る成り行きで更に身を捩り、宙の一点をその先に狙い定め、それが流れてぼやけるのなら、そこに映り出る、輪を解き掛けた己の姿に、全身をぶつけるように噛み付いた。その牙を剥く口が小さな穴をこじ開け、如何にも滑稽な程に蛇らしくギラギラした胴が波打ち、その穴を抉るようにして、蛇はどうにか食い込んだ。或いは穴などなく、ただ牙が空を裂く微かな響きに身を沿わせ、そのもう消えたかも知れない響きへと、身を押し込めようとしているか。しかしそうしてでも蛇は、ほぼ狙い定めた辺りへと、身を移し換えられたに違いない。そうでない事を示すものも見当たらないと、その自負の身で溢れる力を余すように、ゆっくり再び輪を描いて、袋を噛み切った傷を舐め、その形をゆるりゆるりと探った。舌が、その中の小さな丸い幾らか凹凸もある柔らかい穴を突き止め、今度は力を抜くように、またゆっくりとその穴へ、尖らせた、しかし柔らかい冷たい頭を、滑り込ませて行けるようで。そして、時が短く途切れたように少しだけ、ただ分からないだけでそこに在る幾つかの事柄が、バラバラに並んで起こって、それから、その後にまた蛇の時が戻ると。
両目の直ぐ端に、透けた翼が備わって、その翼に唆されるように目に映る光りのどれもが、見えもしない空へ向かう軽みを纏い、競うようで。或いは、毒気を隠し込む、目よりずっと奥深い穴をそれぞれに銜えて、その入り組んだ危うさを競うような。それらどれもが絡み合う線で出来ていて、線の捩れた束の落とす細い影が、水の深さでも測るように真下に尖って延びて行こうとするのを、それぞれの穴の、息を継ぐような動きで引き留めていて。そこに水面の姿が紛れても、水の痕に敷かれた、様々な形に潰れた蜜が匂い立っては、尖った影も直に立ち消える。その蜜の匂いの脹らんだ方の縁の、それより先は古い月の光りが腐ってどろりと滞っているだけの辺りに、欠けたままの花が幾つか寄り添い、一塊の小さな膨らみを守って、柔らかい影を従えている。花は、蜜の焦げる音を聞き、それに痛みを感じようと膨らむに違いなく、月の腐った光りの奥の炎の影を待ち望んで、花の色をより白く見せるための、その炎が浄めた水を、一滴だけ求めていた。ただ一滴を。その花の膨らみにも、穴が銜え込まれていて、ただそれは僅かに透ける花の塊の中の、楕円に束ねられた襞の波立つので、辛うじて見分けられ。襞の動きは、その上に閉ざされた薄い隙間を、穴の更に奥に回り込ませようと誘うようでも、隙間はただゆっくりと身を揺らすだけで、そこに張り付いて、少しずつ眠るように閉じて行くしかない。そうして隙間は消えるが、楕円をくねらせて襞の片側だけが急に強張って、次の隙間を同じ辺りにまた押し出す。初めそれは凹凸を際立たせて笑うようだが、穴の中だと観念するのか、直ぐに表情は失せ、それもまた薄く閉ざされて消えると見えたが、隙間としては消えながら、雫のように楕円の縁を流れて止まった先で、僅かに割れながら肉を得て、浅い襞となってその列の端に加わった。そうした繰り返しで、襞は古びもせずに保たれるらしい。その新参の襞である程、輝く湿り気を滲ませ、その雫となって自ずと流れ集まる方へと穴の形を歪ませ、そこだけを濡らして暗い色に変えた。それは小さな炎のようにも見え、するとそこは明るい色の肉にも見えて、その無防備な表面には、咬まれた痕が窮屈に並んで、無理にも螺旋を描きたそうだが、肉の薄さに試みは挫かれ、反り返っては縮まろうとし損なう曲線の中を、咬まれた痕の列は、彷徨うしかない。その内に、その痕ばかりは一塊に脹らんで。
そのまま、見えない程に緩やかな渦に巻き込まれそうでもあるなら、それへの備えからか胎児の形に身構えてみたが、居心地悪そうに伸び縮みを何度となく試して、その縮んだ方へ留まるまま透ける膜を薄く張り、卵の形に閉じた。それだけが、そこを剥がれて花の膨らみの銜え込む穴の更に奥へと、愈愈流れ落ちようとすると、そればかりをずっと見詰めて、石のように動じない己を見出す蛇は、己の体もまたその流れに委ねられていると感じて、温む水に浸されるように全身が痺れ。その痺れの他に蛇の姿はないと気付けば、後はただ流れのままに、胎児の形の透ける乳色の卵を追うのみで。それを迎える方の水の破片は、先ず砕けた。乳色の卵は更にその先まで流れ、砕けた水の破片を何れは全て受け入れなければならないかのように脹れ続け、もう卵形に薄く拡がる膜にしか見えないが、その影は逆に縮んで、一点に集まる勢いで濃さを増す。見下ろすままにもその点を巡ろうと出来れば、痺れであるだけの蛇も蜷局を巻けそうで。うっかり俯くままのその隙に、砕けた水の一欠片一欠片が、月の腐った光りの奥の炎をそれぞれに映し、その熱で自らも平たく細い炎を宿し、それらが破片ごと踊るように揺れると、色々な音や香りを混ぜ込んで何となく賑やかな、暖かくも冷たくもない風が誘い込まれ、蛇とは別の、何処にでも隠れるままの痺れが、その風に触れて一斉に沸き立った。いや確かに沸き立ったが極僅かで、少しも変わらず隠れるままでは何も起きなかったのと同じで、その何もなく均された静けさに付け入るように、偏りなくぼやけた暗い光りが滑り込んで、直ぐに死んだように止まった。痺れは逃げ果せたか。
蛇には痺れは消え、その暗い光りに浸り込んで動かないのが蛇だった。或いは痺れは、暗い光りより更に均され、その光りの上に映る影として塗り込まれているようで。動かないでいる程に、蛇は暗い光りに溶け、その暗い光りが、そのまま最早蛇ではないか。そしてその上を覆う薄い痺れは眠るようで、それに蛇の眠りを重ねれば、蛇は眠るままに少しも朽ちないで、蛇の時から解き放たれても行けそうで。しかし襲って来た眠りは、重く被さる大粒の砂の流れのようで、息苦しささえざらざらと音を立てるようでは、蛇を覆う薄い痺れは、屍となって干涸らびた己の姿が、彼方から映し込まれて来たもののようでもある。その同じ彼方を向いているに違いない、色褪せて汚れた尖った鳥が、傾いて撓んで何処まで延びて行くか見えない細い柱を伝って、蛇の直ぐ上を掠めて、蛇の眠りを破ったのか。或いは、隠れて蛇を追う艶艶とした炎が、暗い光りの静けさに耐え切れずに綻びたか。何れにしろそれで蛇は、曲がった矢印の形に身を固めさせられ、そのまま暗い光りから離れて、沈んで行くしかなく。ただだらしなく開いた口から、涎だけは切れ切れに垂れ、それはまた、別の命のようにそれぞれが身をくねらせ、暗い光りの拡がる高い方へと泳ぐ姿勢を見せた。それを蛇は、己の位置を測るために見上げるが、測れたのはただそれらと比べられる、己の重さばかり。それ程重くもないが、蛇を取り巻くものが軽過ぎるせいで、その少しの重みが、蛇に一切を諦めさせ、その息の根を止めようとしていて、それに抗って蛇に出来るのは、涎を止めるために口を噤もうとする事だけ。いや、口を噤まなくても涎は止まっていた。そして口ももう噤んでいた、その口は、それも曲がった矢印の形に固まって、その重さに蛇の体は下を向き、更に沈んで行きそうで、
抜け殻だけがそこにそのまま残るなら。いや抜け殻ではない、それなら抜け殻だけが沈んで行くのだとして、何が残るのか。それを知るには先ず、蛇は下を向くのを已めようと、曲がった矢印の形に固まった体の内に、暗い光りの残り滓を見て取ろうとした。そしてそれらしきものは確かに、水に沈んだ切れ切れの薄い膜のように揺らめいて、その僅かな光りを暈かして、水に溶かそうともするようだが、それらは、知らぬ間に蛇の体に入り込んだ異物かも知れず。蛇にはそれが、それ自らによって光るより、外からの光りを浴びているとも見えた。それは、蛇の体からでも月の腐った光りの奥の炎からでもなく、もっと別の、光りにしては余りに濁ってどろりとして、ただそれに触れるものしか照らせそうにない、形の定まらない泥の固まりのような光り。或いはそれが光りなのではなく、それに触れるものを照らす微かな光りを探り当て、その光りをどろりと擦って、輝かせているだけか。そうなら、それが触れるその感触にしか、その光りの正体は知り得ず、そこへ身を潜り込ませでもしない限り、蛇には何も知りようがなく。そしてそれらは、無力な蛇を尻目に、蛇には知れないその光りの元に、水に沈んでいるのならその水を少しも揺らさずに、ゆっくりと形を整えて、一つに纏まる動きを続けた。しかしそれはある段階で滞るのか、或いは纏まり切らないような形がその望まれた形なのか、蛇には何処か中途に見える姿で、同じ動きの中に閉じ籠もった。しかしその光りは、確かに一纏まりに繋がるままにはなっていて、斜めから見られているように見える五角形が身をくねらせ、その五つの角が先から急に暈かされて少し脹れ、それぞれ、水を舐める舌の形に丸まりながら一斉に掻き消えるなら、恐ろしく細い、しかしくっきりとした白い線で編まれた網目が替わりに浮き上がり、それが風に千切れて消えるような先に、斜めの五角形の光りが、何処からか捕らわれて来て、また身をくねらす、その繰り返し。蛇に出来るのは、体を揺らして、それらが水に沈んでいるのなら、その水を揺らしてみる事だけか。そうはしてみたいが、そうしているのかどうかも分からないが、しかし沈んでいるのが、己の抜け殻なのかそうでないかさえ分からないでは、それも仕方ない。そう諦めると、その光りの動きの繰り返しは、少しずつ小さくなって遠ざかって行くらしく、蛇がその距たりを測ろうと、それとの隙間が出来ていそうな辺りに目を向けると、くっきり見出されるその隙間はしかし、その光りの動きの中の何処かに設えられた、それまで全く見えていなかった隙間で、仕掛けられた罠であるかのように、蛇をあっさりと迎え。
ひょっとして抜け殻が、こっそり脹れながら形を整え、綻びを繕い硬さも増して、蛇を捕らえようと待ち構え、それにまんまと嵌ったか。いやそんな詮索は要らないと直ぐに捨てた。しかし何を捨てたのか、と蛇は直ぐに悔やんで、それは取り返しが付かず、ずっと尾を引くに違いないとまた悔やむと、それが、固まっていた蛇の体を弛めるようで、自ずと蛇は首を擡げ、見上げようとも出来た。それで見上げているかどうか分からないが、そうして見上げているのが、見上げるべき方向に違いないと決め付ける事は出来て。そうして見上げた見上げるべき方向はしかし、ただ見失われ、消えて行くだけ。当てずっぽうのままに決め付けたのが早計に過ぎたらしいが、それは悔やまれはしなかった。恐らく、弛められた体を隙間一杯にのたくらせ、何かの幾つかの記号にも見えるように象らせて、それらを上下左右に回して見せる事が出来たからだ。いや幾つかと見えたのは、ただ一つの形が転げ回って、違った形を次々示していると見えただけか。それらを蛇は、己の抜け殻らしいその内側に映るものとして見ていた。しかしどうも、そこに己を映す鏡が据えられているのではなく、実は蛇の体は、まだ曲がった矢印の形のままで、その抜け殻の内面に映り出た蛇の姿の柔らかさに、己を重ねてしまっただけ。では曲がった矢印の形は、と見回しても見付からないし、その見回す己の姿形を、蛇の体として確かめも出来ず、自らの重みがくるくる回りながら見失われて行く事しか確かめられない。それは何だろうと自問すれば、勿論それは自問ではなく、蛇と別の事を問うてしまったかも知れないが、敢えて自問と押し通す程に、その問いにばかり重みが移って、それがゆっくりと沈んで行くのだけが、そこに残るようで。それでそれが問いであるとも見えなくなり、沈むのは沈もうとする何ものかでしかなく、その何処にも蛇らしさが見出されない、その蛇らしさとは、
まさか抜け殻、そのまさかは余分の、何もない中に蛇を落とし込んで、蛇に蛇らしさを分からなくさせた何か。それが蜷局でも巻けば蛇らしいが、いや蜷局くらいはあっさり巻いて。それは常に動いていた、動きの中に掠め取ったものを隠すために。止まったら最後、ずっと貯め込まれていたものが一斉にぶちまけられる筈もなかろうが、それでも、それに掠められず仕舞いで解き放たれたものなどが、次々に凶暴に溢れそうな気配はあり、抜け殻の内面に映る蛇は、それを恐れてか、上下左右に回る速さを増したそうでも、それが叶わず焦りの色を滲ませる。それは唾に微かに混じる血のような薄い色で、その色の滲む所とそれより滲まない境が緩やかな曲線を引き、それは面を拡げて、薄紅色の糸のように細い線の、網目模様を浮き上がらせた。その網目の面が硬そうな艶を出して曲がって閉じて整う形は、ずんぐりとした六角柱で、蛇の姿をその奥へ閉じ込めた透き通った石に見え、ゆっくり回ると、立方体にも球体にも、また無造作に切り出されたままのゴツゴツした特徴のない石塊にも、見掛けを変えた。それに従って蛇の姿も、見ようでは、蜥蜴になったり海星になったり海月になったり、竜の落とし子にも似たりするが、石の形が一巡して六角柱に戻る時には、記号のような蛇の姿が復って来た。ただ止まってはいないらしいが、酷くゆっくりとしか回らず、或いは回るように見せ掛けるだけで、そのまままた蛇とは別の形になってしまい、その蛇に戻っている間の姿も、蛇でもなく記号でもない、別のものの姿形が映し出されているのではと疑われた。そしてそう疑う事で、まだそこから消え去ってはいないとだけは、己を確かめられたらしい蛇だが、その蛇であるのも疑われなければ済むまいと、疑うものと疑われるものの境も疑われ、水の中に暈かされても行きそうな。
水は常に疑いを拒むので、それで却って、暈かされた蛇の確かさを、黙って匿うような恰好で。水は、月の腐った光りは受け容れて、それは遥か前から水に親しく混ざり込んでもいて、そのせいで長過ぎる病を得たかのように、何処か静かに安らえる岩盤の奥に延びる穴でもないかと、更に深く透き通るため、身を硬く締めに掛かっていたが、月の腐った光りの奥に燃える炎か、その尖って煌めく細かな燃え滓によって、先を阻まれていた。しかし寧ろ、身を忍ばせたいのは、炎か燃え滓の方ではないか。いや既にこの上なく水の奥に忍んでいたのに、急な蛇の訪れに、その隠れ処を掻き回された。確かに蛇には、そんな水に触れるのが新しかったが、それは、その水と光りの結び付きに、計り知れない古さを覚えたせいで、そこには音を通さない蛇に聞けない言葉が交わされていそうで。もしそれが蛇に聞き取れたら、己の重みが見失われて行くのを、曖昧にそれを誤っているとも承知で自問として問うて済ませた、その問いが、蛇を通さず、裸のままの水と光りに関わる問いとして、水と光りの間を行き交っていそうな。或いは行き交いなどせず、問いの向く傾きをそれ自らが探って、常に問いだけの力で動いて、問いと問いが互いの傾きの美点などを、盗みながら切り裂きながら契りながら、水も光りも置き去りにして顧みず、その先まで流れて渦を巻いてもいそうな。もしそうなら蛇は、聞き取れなくとも音など踏み越え、その問いばかりの絡み合う辺りへと、泳いで行けないか。その泳ぎ方、その向かうべき傾きについても、蛇はきっと何処かで、未だ若く真っ新だった頃に見せられたか学んだかして、恐らくは既に身に付けていないか。そして蛇はもう、それらの問いの渦に身を沿わせ、己もまた一つの問いになって、新しい傾きを引き延ばそうともしている。その引かれたばかりの線に映える無垢の色まで見て取れそうで。そう思えてしまって蛇は、静かにそっと、そこに於ける己の全てを拒まれた。果てたかとばかりにしか問われないその問いの、そっと失せる事によって。独り蛇だけのその新しい傾きは残って、蛇の目の奥に刻まれようとも、それを決して蛇は、己のものとして受け取れそうにない。そこには、水と光りの古さと蛇を隔てるより、更に計り知れない距たりが、蛇を打ちのめし、蛇自らさえ、その疎さに加わる距たりの一角を占めていて、蛇にとってその傾きは、どんな彼方の見知らぬものより馴染めないままに、その身の奥へ食い入り、血の中へも流れ。それによる痛みも苦しみも悔いも自虐の味も少しも感じられず、それがまたその疎さを扱いようもなくさせた。そしてその扱いようのなさも、それがそれの妨げとなって、蛇を拒めば。
岩盤の奥へと延びる、何かの弱々しい長い影にも、裏返されたかに歪んだ空っぽな拡がりにも見える、斜めを向いて薄っぺらな細い楕円が、そのまま蛇の体で。それを確かめようとする程、それは逃げるように弓なりに曲がって、更に細く尖って奥へ延び。その特に当てもなさそうに曲がって行くばかりなのは、珍しく蛇を喜ばせもし、先を急げばそれだけ早く見失われるかも知れないのに、希望の光りでも追うようで、蛇を昂ぶらせ。しかしその蛇の体は、当てのない曲がり方を已めないせいで、跡を残さない。螺旋となって先へ切り込むのか、一筆書きを試すばかりなのか、縺れているようでも何度も同じ所に戻って環を閉ざしているだけか、飽くまで出鱈目か、既に規則に縛られているか、そのどれであろうと、蛇は受け入れる積もりになれるし、どれでなくても構わない。ただその何処へか曲がり続けて、それが水の中の月の腐った光りを抑え付けているらしく、その働きだけは失いたくない。或いは光りではなく、その光りの何処へか移って行こうとするその動きを抑えていて、蛇は、己の体の曲がり続ける様を、それへ被さる覆いのようにも思い描けた。しかし、別の側で底が抜けていたのでは徒労だ。水と光りの端までを覆える筈もない。まさかその曲がる軌跡を織り上げるかして、果てのない覆いを装い、水と光りを見下ろす高みで、終わらない舞を舞ってでもいるか。それなら余りに無防備で取って返すべきだが何処へ。曲がるのさえ当てもなく、返す方向など分かる筈がないなら、楕円の体の曲がり続けるここに、巣を拵えるしかないか、それは却って危うい、わざわざ居場所を知らせ、危険は巣の向こうに隠れてしまう。蛇は、問いの渦に身を沿わせた際の、泳ぎ方を思い出そうとした。しかしそれの、どのそれか知れないが、それの扱いようのなさだけが、蛇の望む事を妨げるばかり。蛇にとってのその妨げこそが、何処へか少なくとも幾らかは危なくない方へと、蛇を通して行くようで、そうして蛇に岩盤の終わりの、その岩盤を熱と重さで断ち切った、より硬い垂直な岩盤を抜ける別の入り口を見せた。目を凝らすとその中に、細い線の網目模様がゆらゆらと斜めに延び、その先で、薄紅色を反転させてまた薄くさせた色が暈かし込まれた、見知らぬ空っぽな拡がりが、静かに蛇を待っているのが覗けたが、蛇はそれとの疎さの、その扱いようのなさに身を捩るしかなく。その身の捩れるのと、弓なりに曲がり続ける動きとが、どう繋がるのか、背き合うのか、まるで測り兼ねても。
干涸らびた虫の羽が柔らかい風に運ばれる僅かな塵で破れるように、蛇を通り抜けさせた岩盤が軽々と砕け散っているのは、振り返るまでもなく、それをそうしたのが、蛇であり、蛇を妨げるものでもあり。何故なら蛇には覚えがあって、蛇と蛇への妨げは、そこに挟まれた岩盤さえ、いや硬く厚い岩盤をこそ、虫の腑をサラサラの粉にして吹き払い骸を空っぽにして転がすようにして、黴臭い狭い方の暗がりへ投げ捨てる癖があって、その度に、襤褸と裂けて切れ切れの岩盤は、埃一色に埃を塗した虫の骸の後塵を拝するばかり。水は疾っくに見限って、黴臭くも狭くもない、水の冷たい暗さを拡げられる方へ流れ、大き過ぎて見晴るかせない渦へと傾けば、水以外の動きを全て振り落とし、覗き込む蛇の目に疎さしか映さない。ただ垂直な岩盤の方は無傷で、その遥か下へ水を沈めて乾き、白々と透き通って天を衝いて聳え立った。蛇はそれで、水に惹かれて奈落へ落ちるのでもなく、その透ける中へ目を凝らせば、それと距てられるままにそこに居られた。白々と透ける中は、紙のように薄くドブの底のように濃く輝く雲が、粘っこく勝手放題に細く伸びて入り乱れるようで、それは、警戒を怠らずにじっくりそこを巡る、岩盤の黒い血の流れに違いなく、同じ血が蛇にも巡っていて、蛇はドブの底より更に黒々とした己を思い描きながら、その入り乱れて動く流れのままに身を傾かせようと。いや、そうしている積もりなだけで、刃物のように垂直に急に突き上がる空きっ腹が、その外と内の血の一切を司って、蛇の形と動きを決めて仕舞うしかなさそうで。その空きっ腹が、垂直のままが苦しそうに、硬い刃は突然、鞭になって唸った。それは、急峻な岩盤の天辺から底までを斜めに一振りに打ち据えるようでも、掠りもしなかったか。しかし振るわれたのが、撓りのある蛇の体なのは明らかで、冷め切った空きっ腹を温かい塊が流れ込んで満たすと、蛇を妨げるものは、恐らくそこにあるままでも、呆気なく隠れた。蛇は、明るさも暗さも暈かされた、塵だけが煌めく虚ろな拡がりへ向け、ただ撓るに任せて鞭のように身を抛てた。そして、そこだけその掠りもしない一隅に蛇が気付くと、その辺りが、垂直に立つ楕円の輪郭を際立たせて白く透け。表面を水に削られた角の痕が幾つか浮かんで、元はずんぐりした六角柱と見えた。それが、垂直の岩盤に見えていた全てであるに違いない。大きさは比べようもないのに、その楕円が、天を衝く岩盤とそっくり同じ位置を占めていれば。変わらずその中を巡るままの黒い血は、何処かの深く隠れた、ずっと古い岩盤の流れを引いていそうで。
その繋がりの徴を、見出せなくても、感じさえ出来なくても、蛇は己の内にそれが紛れ込んでいるのを打ち消せず、それが楕円の中の血の奥を覗くのを躊躇わせた。或いは始祖より負わされた蟠りなどが蛇を苛んでいるか、それが分からず仕舞いで、空きっ腹も当てにはならずに、別の途を探れようか。逆にそれが運を啓かせているとも考えるなら、鞭の体でそれを打とうとするのを已め、目を背けながらでも、それに寄り添い、巻き付かずにいられるか。脅されてでもいるかのよう。その疑いが蛇の身を重くし、そののろのろと増す重みが正確に知らされる程、蛇は、楕円の奥が疎らに濁って行くのが、己のせいだと悔やむしかなく。いや知らされるのは身の重みではなく、その濁りが何処へか産み出す重みで、それが段々と重なれば蛇殺しの仕掛けがいきなり間近に転げ出そうで、それへの備えとして、鞭の体に粧いを凝らし、蛇の姿は消すべきでも、紅などなければ己の肌から黒い血を滲ませ、固めながらそれを身に塗りたくり、蜈蚣に化け。その蜈蚣の脚で、楕円の奥の濁りとそれに纏わり滞る黒い血の上っ面を這って、そこを石に変え。しかし厚みのない額はもう、薄紅色の細い線の網目模様を滲ますその白い楕円の石の一撃に、打ち据えられた後で。それでも蛇はぬるりと斜めに緩い弧を刷き、暗さに惹かれるまま水の方へ戻る構えを仄めかし、乾いた闇の縁に水の深さを測ろうと身を長々と晒して、額の打たれた痕は、炎のように浮き立った。その己の姿を全て分かっていながら、それが何に向け何を示しているかが、全くぼやけたままで、己の姿の何を分かっている筈もない。ならば、その晒される己の身こそ暈かされて、水の影の欠片と壊れて消えないのは妙ではないか。或いはその長く柔らかい身は既に石。逆に楕円の硬い石は既に蛇。その行き違いなしに、蛇も石もここにはあり得ないとしたら。白い石の緩やかな丸みの上に、蛇の額の血の痕が、胎児のような矢印を示して、だからまだその薄っすらとした形には、行き違いの向きは表せず。(2010.5.14)