放課後、学校、夕暮れ。
 かりかり、がり。かりがりり。……かりり。
 放課後の教室で、一人(いやつきあって一緒にいてくれる相手はいるのだが)のろのろとシャーペンを動かしていた藤野は、プリントの半ばで頭脳が理解を拒否してしまう問題に突き当たり、手を止めた。おそるおそるのろのろと頭を上げ、向かい側に座っているつきあって残ってくれる相手に上目遣いで訊ねてみる。
「……なーユズピー、この問題わかんねーんだけどさぁ……」
 すると相手――藤野にとってあだ名で呼ぶのが当然なくらいの親友(だと、少なくとも藤野は思っている)橘ユズヒコは、目を落としていた本から視線を上げ、「んー? どれだよ?」などとかったるそうに言いつつも律儀にプリントに目を落とした。
「……x=-3/4,y=2/3の時、2x-5y-6x+8yの値を求めよ……? って、計算問題じゃん。これのどこがわかんねーわけ?」
「いやだってさぁ、えっくすとかわいとかがなんで数字と関係あんだよ? 意味わかんねーっつーかさー。それにさ、なんでまいなすがあるやつが入ってくるわけ? えっくすを引いたりしちゃうんだぜ、おかしーじゃんか」
「お前な、代入法ってけっこう前に習ったやつだろ。教科書の……えーっとー」
 鞄から教科書を出してぺらぺらめくり始めるユズヒコの下を向いた顔を、藤野はぼんやりと眺めた。宿題を忘れたせいで出された課題のプリントをえんえん解き続けたせいで、脳味噌が溶けそうに疲労している。
 そのぼんやりした頭とぼんやりした視線で見てみると、眉間に皺を寄せてもの思わしげに教科書をめくるユズヒコの顔は、普段はそんなこと考えたこともないけど、整っているというか、きれいというか、女子に「カワイイ!」とかこっそり言われちゃうだけのことはあるよな、という感じに見えた。
 ユズピって、ズルイ奴だよな。
 ぼんやりした頭でそんなことを思う。やっぱり普段はそんなこと考えもしないことだけれども、こっそりわずかにちょっとだけでしかないけれども、確かに思っていることだった。
 別に嫌な奴だというのではない。むしろすっげーいい奴だと思っているし誰にでもそう言っている。勉強けっこうできるのに偉ぶらないしノリいいし親切だししかもそういうのがいちいちさりげないっていうか、自慢ったらしくないし。ごく当たり前のことをやっているという感じでやってくれるので、こっちも当然のような気持ちで受け取れるのだ。
 それに、トモダチ大切にするし。自分が困ってる時さりげなく助けに入ってくれたこと、何度もあったし。今も自分がすがりついて頼んだら、「えー……」という顔はしたけど一緒に残ってくれたし。
 すごくいい奴、なんだけれども。
 じーっとユズヒコの顔を見て、はぁ、とため息をつく。そーいう奴だからこそ、なんつーか、『ずりーなー』って思っちゃうんだよな。
 さらっと普通になにげにいい奴。ちょっとけっこうなかなかやる奴。そーいう奴と一緒にいると、自分はいっつも三枚目だ。にぎやかしの、道化者の、引き立て役。バカやってみんなに笑われて、場を盛り上げはするけれども女子にスキとかは絶対思われない奴。
 別にそういう役割が嫌だというわけではないけれど、自分はそういう奴だと思っているけれど。それでもなんだか時々、自分がものすごい馬鹿みたいな気がして、須藤ちゃんに話しかけられただけでうろたえる自分がもうとんでもなくみっともない奴みたいな気がして、もう自分死んじまえーというような気分になったりして。
 そういう時、ユズピが須藤ちゃんと(も、他の女子とも)緊張せずにさらっと笑って自然に話をしてるところとか、そんで何気にカッコいいいんてりじぇんすな話題とか話してるのを見ると。
 ずっりぃなぁ、とか思っちゃうんだよな。
 と、きちんと明文化して考えたわけではないが、藤野はそんなようなことをなんとなーく思いながらぼんやりとユズヒコの柔らかく動く口と顎を見つめた。あー、やっぱユズピってニキビとかないよなー。いーなー俺洗顔ジェル使ってもぶつぶつニキビできんのに。
「――なわけ。わかったか?」
「ひへぇっ!?」
 急に見つめていた顔がこちらを向いて素っ頓狂な声を上げる藤野に、ユズヒコはわずかに形のいい眉をひそめてこちらを見た。
「おい、藤野、聞いてたのかよ?」
「ひぇっ……わり、聞いてなかったかも……」
「お前な、人に説明させといて聞いてねーってどうよ……」
「わ、悪かったってー! 今度はちゃんと聞くから、お願いしますユズピ大明神さまっ!」
「ユズピ大明神ってなんだよ……ったく、もー一回だけだかんな。いいか……」
 教科書を広げて始まった説明を、藤野は必死になって聞いた。細い指が指す文章を懸命に追い、ユズヒコの言葉をうんうんと全力でうなずきながらなんとか頭に入れる。なんとなくそのままの流れでそれから先の問題も説明してもらい、それからほどなくしてプリントの解答欄を全部埋めることができた。
「うっしゃー、プリント終わりーっ!」
「途中からほとんど俺が解いたみたいなもんだったけどな……」
「こーまかいこと気にすんなってー! さっさと職員室に出して帰ろーぜっ」
「……そだな。帰るか」
 一緒に鞄をひょいと持ち上げ立ち上がる。もはや傾きかけた陽が差す茜色の廊下を、いつも通りにしょうもないことを喋りながらてろてろと歩いた。
「んでさー、木場センセーがさ、『そんなにやりたいなら今私の目の前でやってみろ!』ってさー」
「マジかよ。あのセンセー何気にかなり無茶振りするよなー」
「そんでもー全員どっ引きの中さー、俺が一人でちまちまと」
「やったのかよ!? お前もーちょい自分大切にした方がよくねーか」
 職員室にプリントを提出し、昇降口へと向かう。のんびりとした足取りで歩を進めつつ、喋ったり時々お互いをつつきあったりしてじゃれ合う。別になにかすごいことをしているわけではないし、時間の無駄遣いと言われたら反論できないかもしれないけれど、自分たちはたいていいつもこんな風に学校が終わったあとの時間を過ごしてきた。
 そして、たぶん、それはこれからも同じことで。
「んでさ、その焼きプリンがビミョーにまずくってさぁ! コンビニで売ってんのだってもっとうまくね? って感じなんだよ! けどそー言うわけにもいかねーし、マジで参っちゃったっつーか」
「ははっ……けどさ、なんで店とかで売ってるのって焼きプリンが多いんだろうな。フツーの冷やしたプリンとか全然売ってないしさ」
「へ」
「え?」
 思わず目を瞬かせた藤野に、ユズヒコはぎくりとしたように固まる。なにか変なこと言っちまったのか俺、と全力で思っていそうなパニックを必死に抑えている顔に、おずおずと告げた。
「あのさ、ユズピ、プリンってもともと焼いたり蒸したりして火を加えるもんでさ、冷やして固めるプリンってーのはまた別もんなんだけど……」
「………っ!?」
 ユズヒコは愕然、を絵に描いたような顔をしたかと思うと、ぼんっ、と一瞬で顔を真っ赤っ赤にした。拳を口元にくっつけて表情を微妙に隠し、視線もこちらから微妙に逸らしながら、『死にてぇぇぇ!!』と心の中で思っているのがありありとわかる顔で、羞恥に耐えながら唇を引き結ぶ。
 ――その顔を見ていたら、にやー、とついつい笑みが浮かんできてしまった。
「ユーズピっ!」
「どわっ! なにすんだよっ、重いってっ」
 のしかかるように飛びついて、ユズヒコにじゃれつく。顔には満面の笑みが浮かんでいるのが自分でもわかった。
 ユズヒコはまだ真っ赤になりながら必死にこちらを振り落とそうと暴れたり押しやったりしてくるが、そんなものは全然平気だ、抱きつきじゃれつきプロレス技をかけ、と全力でユズヒコを構う。
「なにすんだよっ、こら藤野っ」
「えぇー? いーじゃんかぁ、ユズピと俺の仲だろー?」
「どーいう仲だよっ、離せってっ」
「いやー、だってさぁー」
 じたばたと暴れるユズヒコにヘッドロックをかけつつ、にへにへと笑う。
「ユズピってほんっとーに、かっわいー奴だよなー! って思ってさー!」
「はぁ!?」
 叫んでから「のやろ……」と呟いて、ユズヒコは藤野の脇腹に手を入れてわしゃわしゃとくすぐってくる。
「わひゃ! わひゃひゃひゃひゃ、やめろってこのっ、んなことする奴はこーだっ!」
「ひひゃ! わははっ、くすぐってーってやめろ馬鹿このっ、だったらこれでどうだっ!」
「わひゃひっ! わひゃわひゃひゃっ、なんの負っけるかーならこの技でどうだっ!」
 じゃれあい構いあい暴れあい。そんなことをしながら無駄におかしくて笑いあい。
 そんなことをするだけでおかしいぐらい楽しいのは、ユズヒコがいい奴で、何気にいろんなこときっちりこなす奴で、だけどすんげー恥ずかしがり屋で時々すこーんとボケたことをする、なんのかんの言いつつとっても可愛げのある自分の親友だからなのだ、と(明文化はできないながらも)思うと、普段よりさらにテンションが高くなって藤野はユズヒコにじゃれつかずにはいられなかったのだった。

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