旅の意味
「起きなさい。起きなさい、私の可愛いアルテミシア……」
 絹のようにすべらかな声が、アルテミシア――アルテの肌を滑り降り耳に届いた。生まれてから十六年間、毎朝聞き続けている、母ヴァレンティナの声だ。
「ほら、起きなさい、アルテミシア。今日はとても大切な日。あなたが王様に旅立ちの許しをいただく日だったでしょう」
 アルテの母はご近所でも若々しい美人で評判だった。実際まだ三十路半ばだから十六の娘の母親としては充分に若い。おまけに優しくて料理上手な大好きなお母さん。この声とももうすぐ(少なくともしばらくは)お別れなんだなぁ――とまだぼんやりした頭で考えて、はっとした。
「やばっ、今日誕生日だ!」
 ばっ、と跳ね起きて、微笑んだヴァレンティナと目が合い固まる。ヴァレンティナは優雅な微笑みを浮かべつつじっとアルテを見つめていたが、やがて笑顔のままゆっくりと口を開いた。
「アルテミシア。私はいつも言っているでしょう? 女たるもの、いついかなる時も、それこそ寝ている間も気を抜いてはいけません、って。大口開けていびきをかいてよだれを垂らしていたら、隣に寝ている殿方に幻滅されてしまうでしょう?」
「う……ごめんなさい、けどやっぱりそれって普通ム」
「無理、じゃないのよ。お母さんはやりなさい、って言ってるの。わかる?」
「……ううう、はい………」
 にこにこ笑顔から伝わる迫力に、アルテは小さくなってうなずいた。好きだけど、大好きなんだけど、でもやっぱりこの母には勝てない。っていうか怖い。微笑みながらずけっと言い放たれる一言に泣かされたことが何度あったことか。
「あなたは可愛く生まれついたんだから、それを最大限に活かして素敵な殿方を見つけなくちゃダメ。あなたは勇者として旅立つんでしょう? 男っていうのは自分が勝てない女を厭うもの。ちょっと可愛いからって油断してたら、あっという間に嫁かず後家よ?」
「う……それはヤダ」
「なら、常に自分を磨くこと。見苦しいところは人に見せないこと。いつも他人の目を意識し続けること。いいかしら?」
「はいっ」
「よろしい。じゃあ、朝ごはんにしましょう。今日はもう準備してあるから、ゆっくり食べてお城に行きましょうね」
「はいっ」
 部屋からヴァレンティナが出て行ってからふぅ、と息を吐いてベッドから降り、鏡台の前で髪を梳かす。勇者として旅に出るんだから、とベリーショートにしようかと思ったのだが、やっぱり思い切れなくて揃えるぐらいにしてもらってしまった髪は肩にかかるぐらいの長さ。旅先では手入れが難しいことはよくわかっているが、このくらいの長さなら邪魔にならないよね、と自分に言い聞かせる。
 肌に吹き出物ができていないか、目の下に隈がないかをチェック。無駄毛が生えたりしていないかも。鼻毛や耳毛が飛び出したりしていないかも当然それに含まれる。
 口の中に異常がないか、目やにや鼻くそ歯くその類がないかも調べて、大丈夫、と確信できたら身づくろいに移る。昨日のうちに汲んでおいた水でまず水分補給をしてから、洗面器にあけて洗顔。コットンで肌に化粧水をたっぷりと含ませ、それから美容液、乳液とつけてから、眉毛睫毛を整える。
 それから勝負服としてヴァレンティナが準備してくれた旅装を身にまとう。化粧はしない。できないわけではなく、ヴァレンティナにまだ普段からする必要はありません、と言われているからだ。アルテぐらいの年齢なら、いざという時に自然な印象を与える程度にメイクして、普段との違いを意識させる方が効果的だ、そうだ。それに自分でも普段からメイクバリバリな十六歳ってちょっと引くんじゃないかなーと思うし。
 仕上げに耳元にイヤリングを装着。ヴァレンティナからの課題として、勝負服の上に自分なりのワンポイントをプラスしてみろ、と言われていたのだ。母さんはどんな時も教育を忘れない。
 ピアスではなく戦いの中でなくしかねないイヤリングなのは、引っ張られたりして耳を攻撃されるのを警戒した……というのもなくはないがまだちょっとピアス穴を開けるのが怖いというのが最大の理由だったりする。ヴァレンティナは「むしろそれでよし」と力強くうなずいてくれたからいいということにしておいて。
「……よしっ」
 完璧! と鏡の中の自分にうなずいて、アルテは部屋を出た。もし変なところがありでもしたら、ヴァレンティナにど叱られる。身支度の技術はそれこそ物心つく前からきっちり叩き込まれている、手抜きなくきっちりやっても五分もかかっていない。
「おはよーっ、おじいちゃんっ!」
「おお、アルテ! お前の旅立ちにふさわしいよい朝じゃな、そして今日も可愛いのう! さぁおじいちゃんに愛をこめてちゅーさせておくれ」
「……お義父さん?」
「すいません調子に乗りました」
 へこへこと頭を下げる祖父に笑って食卓に着く。いつものことなのでちゅーはしないが。ヴァレンティナの用意した朝食は、今日もつやつやおいしそうな匂いを立てながら輝いている。
 勇者オルテガを輩出した家系であるジェッドリー家は相当なオカネモチで、やろうと思えばメイドや執事を一個小隊も雇うことができるのだが、ヴァレンティナがそんなことを許すはずがない。ヴァレンティナはしまり屋だし、なによりヴァレンティナ以上にうまくこの広い家を切り回せる人間は他にいないだろう。
 いただきます、と手を合わせて焼きたての丸パンを口に運ぶ。かりっとした歯ごたえの皮とぷぅんと薫る小麦の香、そしてしっとりと柔らかい中身。自然に口元が笑んで「おいしいっ」と言葉が漏れた。
「うんうんかわゆいのぅアルテは、いい子じゃのう。さぁ頭をよしよしさせておくれ」
「お義父さん、時間がないのでそれは後日」
「アルテは今日旅立つっちゅーに後日っちゅーんはないじゃろー!」
 いつも通りの会話を交わしつつの食事を終えると、祖父が真剣な面持ちになってこちらを見た。アルテも姿勢を正してそれに向き合う。
「よいか、アルテミシア。お前はこれから勇者として長い旅をせねばならん。辛いこともあるじゃろう、苦しいこともあるじゃろう。仲間に弱音を吐くのはよい、休んでもかまわん。じゃが、ちょっとやそっとのことでくじけることは、オルテガと、ヴァレンティナさんと、このわしが許さんぞ。勇者の道を選んだのは、他でもないお前なのじゃからな。よいな?」
「うん……じゃない、はい、おじいちゃん」
 こくん、とうなずくと祖父はぶわ、と目から涙をこぼしつつ素早く机を回り込んで自分に抱きついてきた。わわわ、と慌てる自分にかまわず、祖父はすりすりと自分に顔を擦りつけつつぼろぼろ泣きながら喚く。
「ああっ、なんとかわゆらしく健気でよい子であることよ! わしが代わってやりたい、というか一緒に行ってやりたい! いっそ国王に直訴して」
「お義父さん、やめてくださいね? この子の仲間はもう全員決まってるんですから」
「はいっ、わかっちょりますすいませんっ」
 即座に姿勢を正して頭を下げる祖父にくすくす笑みを漏らしつつ、アルテは仲間たちに思いを馳せた。優しくて美人な僧侶のゼフィラ、おてんばだけど可愛い盗賊のクセニア、頭でっかちな博打好きだけど根は親切な遊び人のヴェータ。みんな自分の大切な友達だ。
「じゃがのぅ……みな若いおなごばかりじゃろう? やはりせめて最初は護衛の傭兵を雇って、いやむしろわしが」
「あら? 勇者のパーティに恋愛は不要、とおっしゃって、仲間を全員女の子にするよう決められたのは、お義父さんじゃありませんでしたか?」
「い、いやそれはそうじゃが」
「護衛の傭兵なんて雇ったら一緒にいるうちに仲良くなってあっという間にあれやこれやする仲になってしまうかもしれませんよ? そしてそのまま孕まされてゴールインなんてことになったらどうするんです」
「うあ゛あ゛ぁ゛ぁ゛あ゛いやじゃーそんなことあるわけないーわしのアルテが男にあれやこれやとかそんなー!」
「さ、アルテミシア、お城に行きましょうか。いつまでも馬鹿なことで時間を潰してはいられないわよ」
「あ、うん」
 アルテミシアはお茶の残りをぐいっと飲み干して立ち上がった。祖父がヴァレンティナの言葉に面白いように踊らされるのはいつものことなので別に気にしない。
 そして母の言うあれこれがあんまり自分には関係ないように思えるのもいつものことだった。だって自分が男の人に、その、あれこれとかそんなのあるわけない。まだそんなの全然実感ないし。

「オルテガの娘……アルテミシア、か。ふぅむ……」
 アリアハンの王城、オービット城謁見の間。磨きぬかれた石造りの床の上に敷かれた豪奢な絨毯の紅が目に眩しい。並べられた絵やら鎧やらも含めて威圧的な雰囲気をかもし出しまくっている。さすがに三百年前まで世界を支配していたアリアハンの王城というだけのことはあるその空間で、アルテは勇者の額冠を与えられたのちの国王との会話の際、じろじろとアリアハン王に視線を浴びせられていた。
 勇者の資格を得た人間はみな、旅立ちの際には国王に拝謁する義務がある。というかそもそも勇者の資格を与えることができるのが国王だけなのだ。なので勇者資格試験に合格した人間は翌日には国王と会うのが決まり、なわけだが。
 アルテとしては、国王にこういう視線を浴びせられるとは思っていなかったので、ひたすら身を小さくするしかなかった。そもそも自分が国王にまでオルテガの娘として認識されているとは思っていなかったのだ。自分は剣も魔法も勇者としては半人前だし、他になにかすごい能力があるわけでもないし。
 それにオルテガ――父の名というものは自分にとっては正直、出されてもどう反応すればいいかわからないものだった。幼い頃から『勇者オルテガの名に恥じぬように』とか『勇者オルテガの名を穢さぬように』とかいろいろ言われてきたが、同時にヴァレンティナと祖父はどんな時も最後にはあくまで自分の選択を最重要視してきてくれた。
 つまりオルテガの娘がどうたらというのはアルテにしてみれば子供の頃しつけとして使われた悪いことをしたらやってくる魔王のようなもの。あまり現実味がないというか、自分にはあんまり関係のないことのように思えてしまうのだ。
 父としてのオルテガについては、また別としても。
「ふぅむ……体の成熟度も勇者としての成績もいまひとつ、か。オルテガの娘と言うにはあまりに未熟な感が拭えんな」
 だが国王はそうは思わなかったようで、じろじろと自分を上から下まで眺め回しながら言ってくる。アルテは神妙な顔でその視線を見返しながら、この人なんでこんなにじろじろこっち見てくるんだろう、とわずかに身を引いた。
「余はオルテガを知っておる。あの偉大な勇者の娘をあたら死なせたいとは思わん。オルテガの娘アルテミシアよ、無理をして辛い魔王征伐の旅に出る必要はないのだぞ? その細腕ではろくに剣も振れまい」
 自分たちを見守る(勇者の資格を与える儀式では所定の手続きを踏めば見学が可能だ)人々の間から、くすくすと笑い声が漏れる。な、なんか馬鹿にされてるかも、と気付き、アルテはきっと国王を見つめ叫んだ。
「お言葉ですが陛下、私は自分で勇者となることを選んだ人間です! 未熟なのは重々承知してます、でも私は、世界を守りたいって、そのために力を尽くしたいって決めたんです!」
 そうだ、家族を、友達を、大切な人たちを。その人たちの住む世界を守るために全力を尽くすと、自分で決めたのだから。
「だが、勇者としての成績はけして良好とは言えぬではないか。そのような力で世界を守ることができる、と?」
「そ、れは、私だけの力じゃ、できないかも、しれませんけど」
「仲間がいるから大丈夫、と? やれやれ……そのような考え方は自らがその仲間を助けられるほどの実力のある人間が持って初めて意味のあるものではないかな? さもなくば仲間や他の人間の足手まといになって命を落とさせることにもなりかねんだろう」
「それ、は」
「実際に結果を出すことのできていない人間が、いまだ誰もなしえていない大事業に挑むなど、愚の骨頂というべきではないかな?」
 また周囲から、さっきよりも大きな笑い声が漏れる。かぁっと顔が熱くなって、アルテは泣きそうになった。確かに、そう言われてしまえばそうなのだ。自分なりに一生懸命頑張ってきたつもりではあるけれど、自分の勇者としての成績はいまひとつという段階を突破できなかった。
 一生懸命やってそのくらいの人間が、実戦なら簡単に挽回できるなどと考えるのはただの馬鹿だ。しかもこれから賭け金になるのは、たったひとつしかない命。簡単に賭けたり捨てたりしていいものじゃない。
 わかってる、けど。でも。
 アルテはきっと、再度顔を上げて叫んだ。
「でも! 私は、勇者を、やりたいんです!」
 そうだ、やりたいのだ。その道を選んで、そのためにずっと頑張ってきた。できるとかできないとか、もうそういう段階ではないのだ。他の道なんてもう選べない。途中で死ぬかその前に世界が救われるか、それとも成し遂げられるかはともかく、その道を進みたいと、心の底から思うのだ。
 また周囲から笑い声。泣きそうになるのを必死に堪えてきっと国王を見つめる。国王はやれやれ、と余裕たっぷりに肩をすくめる。
「ふぅむ……まぁ、そなたがそう言うならば止める筋合いではないが。せいぜい無理をせぬこと」
「あら、まぁ。アリアハンの国王陛下ともあろうお方が、これはまたずいぶんと野放図なことをおっしゃられること」
 かつかつ、と背後から足音も高く歩み寄り、三人の人影がアルテの前に立った。すらりとした僧服と小さくて露出度の高い盗賊風とグラマーなバニースーツの、昔からよーく知っている人影――
「ゼフィラ、クセニア、ヴェータ!」
 思わず声を上げると、ゼフィラは一瞬こちらを向いて「ここは任せて」と小さく囁いて優しく微笑んでから国王に向き直った。なぜか国王(と周囲の人々)が顔色を変えて一歩退く。
「無理とおっしゃるならそもそも勇者とそのパーティそれぞれの独力で魔王征伐を達成させようという現在の政治方針そのものが無理の塊というものではありませんか? それを棚に上げてなよやかな少女の決意に水を差すとは……ふふ、アリアハンも落ちたものですわね」
「貴様っ、無礼であろう!」
 国王の傍らに立つ近衛兵が前に出かけたが、そこにゼフィラは素早く言葉を投げかける。
「無礼? 無礼というならか弱い少女をよってたかっていたぶる国王陛下をはじめとした皆様方はどうなんですの?」
「一国の主に対してその言いよう……覚悟しておろうな!」
「ふふ……私たちをお捕らえになる? それとも首をお落としになる? そのようなことが本当にできる、と?」
「なんだと……」
「今日十六歳になったばかりの少女勇者。しかもオルテガの娘。そんな相手を苛めて、少しばかり仲間の女に言い返された程度で首を落とす。ふふ、アリアハンの国名をさぞ貶めることでしょうね」
「な、貴様」
「それでもやる、というのならどうぞ。けれどその時は私たちも私たちなりに抵抗させていただきます。勇者とその仲間としての知識、技術、策謀、縁故関係すべてを活用してね。アリアハンの名も地に落ち、国家予算も人命もさぞ浪費されることでしょう。その危険を冒してまで女に少しばかり嫌味を言われた仕返しをしたいというのでしたら、どうぞおやりなさい。さんざん女を苛めたあげくのその仕打ちが正しいと自分で思うなら、ね」
「ぐ……う」
「それでは、皆様? 失礼させていただきます。そしてこれからは、自らの身の程というものを知られることですわね。自分たちが安穏とした生を送れるのは、勇者が命を懸けて戦っているおかげなのだということを、どうぞお忘れなく。――行きましょう、アルテ」
「う、うん……」
 ゼフィラたちのあとについて謁見の間を退出しようとして、出ていくぎりぎりではっとして国王や周りの人々に頭を下げる。最後尾にいたクセニアがそれにわずかに眉を上げ、同じように出ていくぎりぎりでくるりと謁見の間にいた人々の方を向いて叫んだ。
「女苛めて喜んでんじゃねーよこの腐れ変態×××野郎共が、てめーらの汚ねぇ×××は豚にでも使って腐り落としときな!」
「…………っ」
 アルテはかぁっと顔を赤らめ、再度頭を下げて足早にクセニアを引っ張って逃げ出した。クセニアの言ったことがよくわかるというわけではなかったが、少なくとも恥ずかしいことだというのはわかったからだ。

「クセニア。最後のあれはなに? 男というのは女に面子に泥を塗られるのがなにより嫌いな下衆どもだというのはあなたもよく知っているでしょう、あそこで悪し様に罵るのは明らかに下策よ」
 オービット城の廊下を歩きながらゼフィラがぼそりと言った言葉に、クセニアはむっとした顔になって言い返した。
「だってさー、ムカつくじゃん。あのボケども、アルテのこと馬鹿にしやがって。本当ならケツに剣ぶち込んで×××切り落としてやんなきゃ気がすまないとこだよ? あのくらい言ってやんなきゃ収まんないよ」
「それは当然だけど、あのクズどもは一応アリアハンの権力者なのよ? 一応面子を立てておいてやらなければ私たちの活動の邪魔になると言っているの。あんな愚か者どもに足を引っ張られるのはごめんだわ」
「いやー、ゼフィラにそれ言う権利はないんじゃないの。クセニアが言わなくてもあそこにいた人たち全員、しっかりあたしらの敵に回ってたと思うけど」
 ヴェータが半ば呆れたように言うと、ゼフィラはその整った眉根に皺を寄せてぎろりとヴェータを睨む。
「ヴェータ。なに? あなたはあのカスどもにアルテに言いたい放題言わせたままでよかったというの。いずれ処刑するのは当然としても、少しでもその身の程をわきまえさせておかなければ今後の活動にも差し支えるのは明白だわ、それを」
「いやー、けどさー、あんなのフツーに考えて物珍しい女の子勇者をちょっと弄っただけでしょ。そんなくらいでそこまでつんけんせんでも」
「あなたねっ」
「でも、私は嬉しかったよ」
 アルテは思わず顔を笑ませながらぽろりとこぼす。
「ゼフィラも、クセニアも、私のために怒ってくれたんだなぁって。ヴェータもさ、私たちのこと考えてくれたから言いたいこと言うの我慢してくれたんでしょ?」
「……アルテっ」
 ゼフィラはぐいっとアルテを抱き寄せる。アルテの頬と自らの頬を擦り合わせながら涙声で叫んだ。
「ああっ、本当にあなたって子はなんて可愛くて優しくていい子なのかしらっ! 本当に世界であなたほど素敵な女の子はいないわ! ああもう可愛い可愛い可愛いかわ」
「はーいその辺にしときなさいって。周りの視線が痛いから」
「ヴェータ、あなた周りのゴミどもの視線なんて気にしてどうする気? あなたが男狂いなのは勝手だけれど、アルテの視界にあなたの相手するような汚物を入れたらパーティから追い出しますからね」
「ゼフィラ、あんたさー、それあんまりあたしに失礼な言い草じゃない? あとゴミってさー……痛い視線っつーのは男からだけじゃなく女からもよこされてんですけど」
「いーじゃん、そんなのどっちでも。アルテが可愛いのは確かだしさ」
「まー、そりゃそーだけども」
「もー、みんなしてからかわないでよー……」
 思わず赤くなって言うと、ゼフィラはにっこりと笑んで顔をさらにずいっと近づけてきた。
「からかってなんていないわ。私にとってあなたは」
「あはは、ごめんごめん。ところでさー、アルテはもう旅装姿だけど、そのまま出発するつもりなの?」
「え、違うよ。これは人に見せる用の旅装だもん。いったん帰って、着替えて準備してある荷物持って……って、そういえば今日って、ルイーダの酒場に集まる予定じゃなかったっけ?」
 質問を投げかけたヴェータの方を向きながら歩きつつ首を傾げると、クセニアが笑った(同時に舌打ちするような音が背後から聞こえてきたが気のせいだろう)。
「そーなんだけどさ、やっぱアルテのこと心配になっちゃってさ。ゼフィラもさー、アルテが無事勇者になるのを見届けるのは自分たちの義務だ、とか言うしさ」
「え、そうなの? ありがとう、ごめんねわざわざ」
「いーってそんなの、友達じゃんあたしら」
「でも、アルテがいったん帰るって言うなら、あたしもいったんねぐらに戻っていい? あたしも着替えたいし、荷物持たないで来ちゃったから」
「……あなたの持ち物に持ってくる価値があるほど役に立つ品物があったとは意外だわ」
「うっさい、余計なお世話。どっちにしろあんたらも武器も防具も装備してないじゃん、いったん家に戻る気だったんじゃないの?」
「んー、まぁ。じゃ、城出たらいったん解散してルイーダの酒場に集合ってことで決まり?」
「……アルテ。あなた、もう知り合いに挨拶は済んでいるのよね?」
「うん、終わってるよ。見送りいらないって言っといた。もう子供じゃないしね」
「そう……ああでもやっぱり心配だわ。とち狂って襲ってくるような馬鹿犬どもが現れないとも限らない、やっぱり私が家まで送って」
「え、いいよ、そんなまだお昼なんだし。それにそんなこと言ったら私よりゼフィラの方が心配じゃない、こう言ったらなんだけどたぶん私の方がゼフィラより強いと思うよ?」
「う……で、でもねアルテ、私が心配だっていうのは」
「はいはい、そこまで。ゼフィラあんた過保護すぎ。故郷の街中でほいほい勇者サマ襲う奴が出るわけないでしょーが。別行動した方が効率いいんだから、全員一度家に戻って準備してルイーダの酒場に集合、決定」
「りょーかい」
「はーい」
「ううううううう……」
 ゼフィラは最後までうんうん唸っていたが、それはまぁいつものことなのでアルテは気にせず手を振って仲間たちと別れた。そう、自分はもう子供ではないのだ。
 自分の意思で、自分の力で一歩を踏み出してしまったのだから。

「おい」
「え」
 城内で働く人間のうち何人かから話を聞くこと半時。城門から出るや声をかけられ、アルテは驚いて目をしばたたかせた。この声は。よーく知っている声で、いまさら間違えようもないんだけど、なんで彼がこんなところにいるんだろう。
「どこ見てんだよ、十六でボケたのかよこのウスラボケ女。それとも俺の声忘れたとか抜かすんじゃねーだろーな、まーお前みてーなボケ頭じゃ無理もねーけど」
「覚えてるよ。覚えてるけど、なんで急に出てきたのかなってびっくりしちゃったの。私、昨日ちゃんとハヴィに挨拶したよね?」
 むすっとした顔で柱の影からずけずけとまくし立ててきた銀髪緑瞳の幼馴染、ハヴィ・イグレシアス(職業盗賊・年齢十七)に向き直り首を傾げると、ハヴィはぎゅっと顔をしかめてふんっと鼻を鳴らした。
「お前昨日のことも覚えてねーのかよ、っとにボケてんなお前。そんなんでゆーしゃさまなんてやってられんのかよ」
「ううう……もー、ハヴィってほんっとーにいちいち容赦ないよね……私だって少しは傷つくんだからね、なに言っても平気な鈍感女って思ったら大間違いだよ?」
「知るかよ。言っとくけど、お前ぐれー鈍感な女は俺は他に知らねーからな」
「うううー……」
 へっ、と吐き捨てるハヴィの顔はすさまじい仏頂面だ。ハヴィはアルテと話す時、いつもこんな風にすごく面白くなさそうな顔をする。もしかして私のことホントに嫌いなのかなー、と思ってしまうほどだ。他の女の子とかには笑顔のひとつも見せるのに。
 家が近所で、小さい頃から一緒に遊んで。同じ学校に行って両親同士も仲がよくて。それでどうしてこうもいつも無愛想かなぁ、とため息をつきたくなる。小さい頃はもっと、弾けるようによく笑う男の子だったのに。あの時、自分を身を挺して守ってくれた時も、そうだったのに――
 まぁ、それでもなんのかんの言いつつ付き合いが続いてるんだから、ハヴィもたぶん自分のことが口で言うほどは嫌いじゃないんだろうとはわかっているけれど。
「おい、アルテ」
「え、なに?」
 見上げると、ハヴィはなにかひどく真剣な顔でこちらを睨みつけてきている。その意外なほどの視線の鋭さに思わず半歩引いてしまったが、ハヴィはかまわず続けた。
「お前、本気で女だけで旅に出るつもりかよ?」
「え? うん。そのつもりだけど?」
「……バカかお前。女だけのパーティなんて回りの男から見りゃいいカモだろが。一人ぐらい男入れんのが当然だろ、なに考えてんだよ」
「え、だって私、ゼフィラとクセニアとヴェータと旅するって昔っから決めてたし。みんなとも約束したし。そりゃ食い物にしようとする男の人もいるだろうけど、それを実力で撥ね退けられるようにするのも勇者としての修行の一環かなって。それに女の子ばっかりの方が、旅の間とかいろいろ気を遣わなくてすむなぁって思うし」
「なんだよいろいろって」
「えっ……」
 アルテは思わず赤くなって口ごもった。女の子としての身だしなみやら、月のものやら、下関係のことをあからさまに口にするのは、たとえ相手が幼馴染でも恥ずかしい。
 ハヴィは一瞬怪訝そうに眉を寄せたが、アルテが赤くなったことで意味を悟ったのだろう、自身もカッと顔を赤くしてばっとそっぽを向く。がりがりと頭をかくその仕草から、本気で恥ずかしがっているのだとわかった。アルテもなんだか妙に恥ずかしくなって顔を伏せる。それぞれ相手から視線を逸らしながらの、なんとも気まずい沈黙がしばし流れる。
「……わかった。つまり、お前はあの三人が仲間ってことで決定で、いいんだな?」
 こちらに向き直り言うハヴィの表情は(頬骨の辺りがまだ少し赤かったが)仏頂面に戻っていた。アルテはほっとして笑顔でうなずく。
「うん。他の人を仲間にするつもりは、もう全然ないから」
「……そーかよ」
 ふん、と鼻を鳴らしてハヴィは歩き出す。え、と一瞬きょとんとしてから、あとを追いつつ声をかけた。
「ハヴィ、どうしたの、なんか私に用じゃなかったの?」
「……お前、んっとにボケてるよな」
 ぼそり、と告げたその言葉は、腹立たしげで、苛立たしげだった。憤懣に満ちていると言っても過言ではないような勢いだった。
 なのになぜか、アルテはその口調に、愛おしそうな、と言ってもいいような優しいものを感じてしまい、驚いて足を止める。ハヴィもその気配を察したのだろう、足を止めてくるりと振り返り、険しい仏頂面で、鋭くこちらを睨みつけながら言ってくる。
「言っとくけど。お前がどんだけ先に行こうが、遅れを取る気はねぇし、負ける気もねぇからな」
「え……なに」
「あと! ……無理すんなよ」
 それだけ早口に言って、くるりと背を向けだっとハヴィは駆け出す。なんだか顔が赤かったような、照れてたのかな、と驚きつつも、つまり心配して、わざわざ励ましに来てくれたんだよね、となんだか嬉しくなって、大声でハヴィに向けて叫んだ。
「ハヴィーっ! あっりがとーっ!」
 大声で叫びながらぶんぶん手を振る。もう相当離れて、小さな点ぐらいにしか見えなくなっているハヴィは、それでも足を止め、振り向いて、同じようにぶんぶんと手を振ってから、また背を向けて走り出した。
 ふふっ、と小さくアルテは笑って、歩き出した。自分にはこんなに心配してくれる幼馴染がいるんだと思うと、やっぱりちゃんと魔王を倒して無事に帰ってこなきゃ、といっそう気合が入ってきたのだ。

「――ああ。ここにいたのか」
 え、と声のした方を向き、アルテは思わず叫んだ。低く掠れた、なのに心地のいい声から想像したのと同じ、見上げるほどのがっしりとした体躯と、柔らかく端整で、そして普段は無表情だけど、時々びっくりするほど優しい表情を浮かべる顔――
「マティアスさんっ!」
 黒髪に翠瞳の戦士、二十七歳のマティアス・アールストレームは、アルテの声にす、と手を上げてゆっくりと近づいてきた。その大きな体の上に乗っている顔は、ただ静かにこちらを見つめている。
「今日はどうしたんですか? 今は確かロマリアにいるって」
「ああ、ロマリアで仕事をしてる。今日は、休んだ」
「え、なんで」
「お前が、旅立つ日だからな」
 そう静かに言って、わずかに微笑む。そういう表情はいつも通り、普段の端整な無表情よりぐっと印象が幼くて、つい可愛いなんて思ってしまい、アルテは思わず顔を赤らめてうつむいた。
 マティアスと知り合ったのはアルテが十四の時。旅の傭兵と勇者見習いの少女としてだった。
 アリアハン出身の勇者のパーティに加わっていたマティアスは、その勇者が強い魔物を倒したとかで、故郷アリアハンに凱旋するのに付き合ってアリアハンまでやってきた。その凱旋パーティーの席上で、アルテとマティアスは出会ったのだ。母ヴァレンティナは女を磨くためという理由で自分をよく方々のパーティーに連れ出すことがあったのだが、そのパーティーはそのうちのひとつだった。
 見上げるほどに背の高いマティアスは、会場の隅で、壁に背を預けてじっとパーティーを楽しむ人々を見つめていた。静かな、感情の感じられない、けれど怖ろしくなるほどに透徹した視線で、じっと。
 アルテはなんだか猛獣を目の前にした時のようにドキドキして、けれどそういう時と同様その力強さにすごいなーとうっとりして、おそるおそる話しかけてみた。「パーティー、嫌いなんですか?」と、ストレートに。
 マティアスは少し驚いたように自分を見て、少し困ったような顔をして首を振った。
「いや。ただ、苦手なだけだ」
「苦手……」
「場違いだからな」
 呟くように言うマティアスは、白と黒で彩られた礼装がよく似合っていて、すごくカッコいいとアルテは思ったのだが、さすがにそんなことを単刀直入に言うのはちょっと恥ずかしかったので、にこっと笑ってこう言った。
「大丈夫ですよー。私だってこういう場所場違いですけど、たまに来ると楽しいですから」
 だからあなたなりの楽しみを見つけられるかもしれませんよ、と続けようと思ったのだが、それより早くマティアスが怪訝そうに小さく眉を寄せ言ったのだ。
「場違い? 君が、か?」
「え……だ、だって私普段は毎日剣とか呪文とかの稽古三昧ですし。身だしなみはちゃんとするように頑張ってるけど、やっぱり日焼けとかしちゃうし。このドレスも、お母さんが仕立ててくれたけど、やっぱり貴族の人とかと比べると、似合ってないっていうか、服に着られてる感じになっちゃうでしょ?」
「そうなのか? 可愛いと思うが」
「かっ……」
 真剣な顔で、淡々とでもきっぱりと、カッコいい男の人にそんなことを言われ、アルテの顔は一気に真っ赤になった。
 それからいろいろと話をして。お互いが今どんなことをしてるかとか教えあったりして。
「そうか、君は勇者を目指しているのか」
「そうなんです。剣も呪文も、まだまだ半人前なんですけど……自分のできる限り、世界を守りたいなって思って。えへへ、おこがましいですよね」
「いや。立派だと思う」
「そ、そんなに褒めないでくださいよ……照れちゃいます。……すごく嬉しいから」
 赤くなる頬を押さえて上目遣いでそう抗議すると、マティアスはふ、と小さく、でもとても優しく微笑み(一気に印象が若々しくなる表情に、アルテは思わず見惚れた)、こんなことを言った。
「なんなら、俺が剣を教えようか?」
「え!?」
 思わず大きな声を上げてしまうと、マティアスはすっと表情を淡々としたものに変えて、静かに続ける。
「嫌ならいいが。たまには違う相手と剣を交えるのも、いい経験になると思ったんだが」
「え、で、でもマティアスさん勇者のパーティに入ってるんでしょう!? だったら忙しいんじゃ」
「いや。奴との契約はこのパーティーで終わりだ。だからできるならアリアハンでなにか仕事を見つけたかったし、君が受け容れてくれるならありがたいと思ったんだが」
「あの、あの、でも」
 静かにこちらを見つめるマティアスの瞳。落ち着いていて、穏やかで、なのに底には熱があるとはっきり感じ取れる。今まで会ったことのないような大人の男性のカッコよさにアルテは思わずドキドキしてうろたえたが、すぐにぶるぶると首を振った。
 カッコいいから怖気づくなんて、この人に失礼だ。せっかく善意で言ってくれてるんだし、こっちも助かる。ちょうど最近剣の鍛錬が行き詰まっていたところなのだ、違う相手と剣を交えるというのは確かにいい考えかもしれない。
 なので、小さく唾を飲み込んでから、顔を上げてできるだけ元気ににこっと笑い、ぺこりと頭を下げて言った。
「ありがとうございます、お願いします!」
 言ってからやっぱりドキドキして、緊張して、うかがうようなすがるような視線で見上げてしまったが、マティアスはその視線をしばしじっと見返してから、笑った。ふっ、とさっきのように優しく、さっきより少し楽しそうに口元を緩めて。
「ああ、引き受けた」
 そう言って、ぽんぽん、とアルテの頭を叩いてくれたのだ。
 それから一ヶ月、アルテはみっちりマティアスの稽古を受けた。厳しかったが充実していた時間だった。おかげで行き詰まりは解消できて、自分の剣が一段階上に上ったのがわかった。
 そしてなにより、契約を終えてアリアハンから旅立ってからも、マティアスは何度もアルテに会いにやってきてくれた。ほとんどは少し会って話をする程度だったけれど、時には稽古をつけてくれることもあった。
 同様に、今日も自分のことを心配して、そして祝福したいと思って、こうして会いに来てくれたのだろう。そう思うとついつい顔が緩んでしまうが、いやいやここはちゃんと挨拶しなきゃ、と懸命に引き締めて顔を見上げる。
「ありがとうございます、すっごく嬉しいです!」
 言いながらついつい顔が笑ってしまったが、マティアスは微笑みを崩さず、ぽんぽん、とアルテの頭を叩いてくれた。会った時から何度もされているが、時々子供扱いされてるのかなぁと思いはするものの、アルテはこうされるのが嫌いではなかった。むしろ好きだった。
 マティアスから見れば実際アルテは子供なのだろうし、大人扱いされないのも当然といえば当然だし。それに、マティアスの掌の感触は、とても大きくて逞しくて、大人の男を感じさせて、心の底からたまらなく安心できてしまうのだ。
「仲間はもう、決まっているんだったな」
「はい! みんな子供の頃からの親友なんです。みんなで協力して魔王を倒そうって昔から決めてて」
「そうか。……無理はするな」
「はいっ! じゃあ、また!」
 ぺこり、と頭を下げて、たたっと駆け出そうとすると、後ろから「アルテ!」と声をかけられ、アルテは足を止めて振り向く。マティアスは静かな、淡々とした、けれどやはり底に熱が感じられる瞳をアルテに向け、落ち着いた声で言った。
「アルテ。俺の力が必要なことがあれば、いつでも呼んでくれ」
「え……」
「俺は、君の力になりたいと、そう思っている」
 じっ、と見つめられアルテは体温(特に頭)が一気に急上昇したのを感じたが、せっかくの旅立ちの時にまで心配かけちゃダメだ! とぶるぶると首を振り、にこっと笑顔でマティアスに言った。
「ありがとうございますっ!」
 そしてぺこり、と頭を下げてまた駆け出す。うわーもう恥ずかしいなぁ、マティアスさんって自分のカッコよさに自覚ないんだもん、と火照る頬を押さえながらぱたぱたと走る――その背中を、マティアスが優しげな、そして少し寂しげな視線でじっと見つめていたのには、アルテはまったく気付かなかった。

「アールテちゃんっ」
 唐突に後ろから目隠しをされたので、アルテは「きゃっ!」と小さく叫び声を上げ、ながら目を覆っている手をねじりつつ体を回転させ相手の関節を極めつつ地面に顔を押しつけ、たところで相手が見知った人間であることに気付き慌てて叫びつつ手を離した。
「パスカさんっ! ごっごめんなさいっいきなりだったから痴漢かと思ってっ」
「っつぅ……ひっでぇなぁアルテちゃん、俺の声忘れちゃった?」
「お、覚えてますけど突然目隠しされたらそんなことわかんないじゃないですかっ」
 顔を赤くしながら反論すると、パスカ――パスクァリーノ・ラバネッリ(職業魔法使い・年齢二十五)はぱんぱん、と体をはたきながら立ち上がって笑った。
「ははっ、アルテちゃんは相変わらず怒った顔も可愛いな。膨らんだほっぺが苺みたいだ。お兄さん、食べちゃいたくなっちゃうな♪」
「きゃっ!」
 つん、とほっぺをつつかれてアルテは声を上げてからますますかぁっと顔を赤くする。本当に、この人はどうしていつもこう恥ずかしくなるようなことを言うんだろう。
 パスカと会ったのは一年に少し足らないほど前。街を歩いていた時に声をかけられたのが最初だった。
「そこの可愛いお嬢さん、おごってあげるからお兄さんとケーキ食べにいかない?」
「え……」
 急に声をかけられて、アルテは当然驚いた。もしかしてこれってナンパ? えーどうしようどうしよう、とわたわたしていると、その人は笑って続ける。
「そーんなに警戒しないでいいって、ホントケーキ食べるだけだからさ。俺がなんか変なことしよーとしたら大声上げて蹴り飛ばしていーから」
「え……でも、あの」
 ええとこういう時お母さんはどうしろって言ってたっけ、と思い出そうとするが慌てているせいか脳味噌はちっとも回転してくれない。ええとどうしようどうしよう、としばらく唸って、ええい、と開き直って正面から聞いた。
「あの、なんで私に声をかけたんですか? 私、あなたのこと全然知らないのに」
 するとその男の人はくすり、と笑って(すごくその笑顔はさまになっていて、アルテはちょっとどきりとした。だってくすり、なんて笑いがさまになる男の人なんて、今まで見たことなかったから)、ぴっと三本指を立てる。
「理由その1、俺はおいしいケーキの店を知っている。理由その2、君がケーキ嫌いじゃなさそうに見えた。理由その3――君みたいな可愛い女の子と会えた」
 ぽかん、と口を開けるアルテの前で、その人はにっと笑ってごく自然な動作でアルテの手を取る。
「きゃ!」
「ケーキが嫌いじゃないんだったら行こうよ。その店オープンカフェなんだ、今日みたいないい天気の日にはもってこいだよ。こんないい天気で君みたいな可愛い子と会えたんだ、お茶に誘わない方が嘘ってもんだろ?」
「え、で、でも」
 言いよどむと、その人は、金髪をさらりと揺らしつつ振り向いて碧い瞳をきらめかせつつこちらの目を覗き込んで、どこか切なげな掠れた声で言う。
「俺と一緒にケーキ食べるの、嫌かな?」
「……いえ、けど、なんていうか……昨日もケーキ食べたとこだから、太らないかなぁ、って……」
 おずおずと正直なところを言うと、その人は少し目をぱちぱちさせてから、ぷっと吹き出した。
「あ、あー! なにも笑わなくてもいいじゃないですかっ」
「いや違うって、ごめんごめん。ただ嬉しくなっただけだから」
「え?」
「ホントに可愛いなって。君みたいな子と会えるなんて、今日はいい日だなってね」
 ぱちり、とウインクする仕草はもう気障と言ってもよさそうなものだったが、その人にとても似合っていて、アルテは思わず頬を染めてしまった。
 そして一緒に店に向かいながら自己紹介をして、店で一緒に(小さめの)ケーキを頼んでお茶を飲みつつお喋りをした。パスクァリーノ(パスカって呼んでいいよと言われた)が魔法使いギルドで働いている魔法使いだということや、ルーラが使えるレベルなのでそれなりの高給取りだということ、そして女の子と楽しく話をするのが生きがいだということ、その他もろもろ。もちろんアルテの話も。
「それでさぁ、そのおばさんがそっくり返って喚くたびに白粉が飛んでさ、もうその子我慢しきれなくなったみたいでとうとうぶわーっくしょいっ! ってくしゃみしちゃってさ……」
「あははっ」
 次から次へと繰り出される面白い話に、思わず笑い声を立てる――と、パスカがふいににこっ、とひどく優しい笑みを浮かべた。
「やっと笑ってくれたね。やっぱり、その方がずっと可愛い」
「え」
「疲れた時には、甘いものと楽しいお喋りが一番だろ? 特に俺みたいな楽しい男とね」
 悪戯っぽいものに変わったその笑みをしばしぽかんと見つめて、ようやくアルテはパスカが、アルテがひどく疲れているように見えたから声をかけてくれたのだということに気がついたのだ(実際、連日の剣の稽古で相当に疲れていたのだということにも)。
 そんな風にしてアルテとパスカは知り合い、街で会えばお喋りをして、時々は一緒に遊んだりするぐらいには仲良くなった。だが、パスカが家の場所を教えてくれなかったので(なんだかいつでも会えるような気がしてついちゃんと聞くのを先延ばしにしてしまったのだ)、昨日ちゃんと挨拶ができなかったので、それを気にしてはいたのだが。
「……わざわざ会いにきてくれたんですね。すごく嬉しいです、ありがとうございます」
 嬉しさに顔をにこにこと笑ませながらぺこりと頭を下げると、パスカは軽く笑って首を振る。
「わざわざってわけじゃないって。俺がアルテちゃんに会いたかっただけ。君のことなら俺にわざわざなんてことはひとつもないよ」
「もー……パスカさんって本当にいっつもそうですよねー……何人女の子勘違いさせたら気がすむんですか」
「お、勘違いしてくれるの? 嬉しいな」
「パスカさんってばもー……最後くらい真面目に話してくれてもいいじゃないですかー」
「最後じゃないだろ」
「え」
 ふいに響いた真剣な声音に、アルテは思わずパスカの顔をのぞきこんだ。パスカはおそろしく真面目な、心の底から真剣だとわかる顔でじっとこちらを見つめている。
 いつも笑顔だったパスカのそんな顔は初めてだった。これが本当のパスカなのかと思ってしまうほど鋭い瞳。それが今自分に向けられているのだと思うと、アルテの心臓がどきりと音を立てた。
「最後じゃないだろ。君はまたここにちゃんと帰ってくるんだろ? また帰ってきて、俺と遊んでくれるんだろ? そうじゃなかったら」
 と、ここで唐突ににっ、といつも通りの軽い、でも優しい笑顔になって。
「おにーさんは寂しくて泣いちゃうぞ?」
「……もう……パスカさんってば」
 本当に、この人はもう。ドキドキと高鳴ってしまった胸を押さえて息をつく。きっと遊び慣れてるんだろうなーと実感してしまう。アルテなんてこの人にとっては、それこそ掌の中でもてあそべるおもちゃのようなものでしかないのだろう。
 でも、また帰ってきてほしいというのは、きっとこの人の真実の言葉だ。
 うん、とうなずいて拳を握り締め、アルテはぺこりと頭を下げた。
「パスカさん、私、行ってきます。魔王を倒す旅に」
「……うん」
「でも、ちゃんと、絶対帰ってきます。帰ってパスカさんに会いにきます。だから」
「……だから?」
「帰ってきたら会いに行けるように、パスカさんの住所、教えてくれませんか?」
 パスカは目をぱちくりさせ、それから悪戯っぽく笑った。
「おにーさんの住所を聞くなんて。逆送り狼になってくれるのかな?」
「え? へ、えぇっ!? な、なんでそーなるんですかーっ、私ただ」
「冗談冗談。……嬉しいよ、可愛い俺のアルテちゃん」
 妙に色っぽい顔で囁かれ、恥ずかしさのあまりアルテの顔にぼんっと血が上る。顔をむーっと膨らませつつも、ちゃんと聞くまでは、ときっとパスカの顔を睨み上げていると、パスカはぱちん、と指を鳴らしてどこからか一輪の薔薇を出現させた。
 目をぱちくりさせるアルテに、すっ、とそれを差し出してパスカは笑う。
「また会う時までの、再会のよすがに」
「え……あの」
「俺に会いたいなら魔法使いギルドで呼び出してくれる方が早いよ。俺ルーラ使えるから、けっこうあっちこっち行ったりきたりしてるからさ、住んでるところも転々としてるんだよね」
「え、そうなんですか」
「でも、君とまた会う時は、きっとその薔薇が俺のいるところまで導いてくれるよ」
「え……」
 気障な台詞に顔を赤くすると、パスカは笑顔のまますい、と体を近づけて、アルテの顔をますます赤くさせてから耳元で囁いた。
「また会える日を楽しみにしてるよ。俺の可愛い、薔薇のつぼみちゃん」
「〜〜〜っ」
 背中を向けて去っていくパスカを、アルテはへたへたとへたり込みたくなるのを必死に堪えながら見送った。本当に、あの人って、どうしてこう気障なんだろう。
 でも、優しいし、親切だし、いい人だし。それに、ちょっとカッコいい。
 薔薇なんて生まれて初めてもらっちゃったかも、と顔を緩めて匂いをかぐと、花びらの間に小さなカードが挟まれているのに気付き、アルテは驚いた。カードにはなにか番号が書いてある。
「0355779……あ」
 それが魔法使いギルドの登録会員番号だということに気付き、アルテは苦笑した。確かにこれがあれば魔法使いギルドにいなくても専用の魔道具を使って連絡が取れるけど。
 本当にあの人ってカッコつけだなぁ、と思いつつも、やっぱり嬉しくてアルテは笑み崩れながらもう一度薔薇の匂いをかいだ。

「ふぅん。ずいぶん締まりのない顔だね」
 う、とアルテは聞こえてきた冷たい声にびくりとした。足が勝手に全力逃走しそうになるのを押し留めて、声のした方を向く。
 予想通り、そこにいたのは白い僧衣に身を包んだ、青髪金瞳の整いすぎなほどに冷たく整った細身の美貌の青年だった。リシャール・マルシャン。職業僧侶、年齢二十四。アリアハン教会に所属する、以前アルテに少し呪文を教えていたことがある僧侶だ。
「リシャールさん……あの、なにか?」
「『なにか?』か。ふぅん」
 リシャールはその白い肌から浮き上がるように紅い唇の両端を吊り上げ、すいっとこちらに一歩を踏み出して来た。アルテは思わずびくりとして一歩退く。アルテは、彼がどうにも苦手なのだ。
 リシャールは五十年に一人の才能の持ち主だともてはやされているアリアハン教会の秘蔵っ子で、実際どんな試練もすいすいと簡単にこなしてしまう。十六の頃からあちこちの勇者のパーティに加わっており、すでにレベルは34だとか。その美貌も相まって憧れる女性が後を絶たず、一緒に話していて睨まれることが何度もあった。
 そして、なにより。
「『なにか?』なんて聞くってことは、君は今の自分になんの問題もないと思ってるわけなんだ。ある意味すごいよね、その厚顔さ」
「な、なんでそういうことになるんですか」
「君のレベルいくつ? 1だよね? 下っ端として死ぬ気で駆け回らなきゃいけない時期じゃない? なのにそんなに締まりのない顔でへらへら笑いながら歩いててなんの問題もないと思ってるわけなんだ? へぇえ」
「う、で、でも、普通ちょっといいことがあった時に笑うくらい」
「普通、ねぇ。ちょっといいこと? へぇ」
「な、なにが言いたいんですか」
「アルテ、いいこと教えてあげようか」
 にこり、とリシャールが微笑む。その微笑みは美しいとすら言っていいもので、だからこそアルテはすざっと一歩退いた。この笑みがなにを意味するか、アルテはよーく知っている。
「な、なん、ですか」
「女がことを成せない理由の八割は、男関係なんだよ」
「そ、それが私とどういう」
「関係ない、って? 男に言い寄られてへらへらと締まりない顔してたくせに?」
「っ……! 見てたんですかっ!?」
「見てなくても簡単に想像がつくよ。君はちょっといい男を見るとすぐに惚れたような気分になる女だから」
「そっ……!」
「まぁ僕には関係がないけど、勇者としてこれから魔王を倒すための旅に出ようって時に、よくそんな半端な気持ちのままでいられるね。オルテガの娘だからなのか単にそういう性格だからなのか知らないけど、どこまで思い上がれば気が済むわけ? 世界を背負うとか偉そうに言っていたくせしてその態度か。まぁ、君の決心とやらなんてしょせんはその程度のものだったわけか、別にいいけどなら世界救ってみせますなんて偉そうに言うのやめたら?」
「………っ………」
 これだ。この口の悪さ。
 次から次へと、その美しい唇から流れるように紡がれる悪口雑言。しかもそれがいちいち痛いところを的確に突いてくるので反論できない。その上自分はやるべきことをきっちり完璧以上の出来栄えで仕上げているので、もう言われる側としてはすいません私が悪うございました、と頭を下げるしかなくなってしまうのだ。
 リシャールは会うたびにいちいちこうなので、アルテとしてはできるだけリシャールを避けるようにしているのだが、なぜかしょっちゅう会ってしまうのだ。リシャールだって決して暇ってわけじゃないだろうに。昨日も挨拶に行って嫌味と毒舌フルコースで聞かされたばっかりなのにどーしてこの人はこう、と泣きたくなりながらアルテはうつむいた。
 そこにリシャールはさらに冷たく言う。
「なに? 泣くの? 別にいいけど、僕は自分の言ったこと取り消さないよ。一応曲がりなりにも勇者をやるつもりなら、せめて泣けばすむとかいう安易な思考はやめるべきじゃないの?」
「泣きませんっ!」
 ぎっ、と顔を上げてリシャールを睨む。意地でも泣かない。泣いてなるものか。自分だって勇者の道を酔狂で選んだわけじゃないんだ。
「自分が間違ってるって思わないことを言われたって、泣いたりしません!」
 ぎっと睨みつけつつ怒鳴るように言うと、リシャールはどうでもよさそうに肩をすくめた。
「……ふーん。なら、いいけどね」
「……じゃあ、もういいですか。私、行きますから」
 小さく会釈して歩き出そうとすると、リシャールはぎゅっとその書いてるんじゃないかと思うほどきれいな眉をしかめた。
「ちょっと。君、僕がなんの用もないのに君に話しかけるほど暇人だと思ってるの? まだ用終わってないんだけど」
「え……」
「はい、これ」
 渡されたのは小さな、だがぎっしりと中身の詰まった革の袋だった。そのわりには軽い。重さとしては辞書一冊より軽いくらいだろう。
「え、えと……くれるんですか?」
「それ以外のなんだと思うわけ?」
「あ、あの……あ、ありがとうございます。開けてもいいですか?」
「君に渡したものに僕がどうこう言えるわけないだろ。好きにしたら?」
「は、はぁ……じゃあ」
 本当にこの人どうしてこういつも引っかかる言い方するんだろうなぁ、と思いつつ中を見てみる。とたん、思わず目を開いた。
「これ……薬草ですか? こんなにたくさん」
「そう。切り傷用とか打ち身用とか擦り傷用とか、それぞれ分けて入れてあるから。ちゃんと用途に応じて使ってよ。あと、アロマオイルとか肌の手入れに使う薬草とか。ああ、心配しなくても君の肌質にちゃんと合わせてあるから」
「え、私の肌質とかなんで知ってるんですか? 私そういう話してません……よね?」
「……まぁね。君のご母堂が教えてくれたんだよ。君の肌質やらなにやら、いろいろとね」
「え、えー!? お母さんってばなんでそんな……すいませんわざわざ」
「別に。薬草の調合は僧侶の必須技術だし、そのくらいする時間の余裕はいつでも作れるからね」
「え……も、もしかしてこれ、全部リシャールさんが調合してくれたんですか!?」
「当たり前だろ。既製品なんて送ったって意味がないじゃないか、どこででも買えるんだし。きっちり君の体に合わせて調合したものなら、少なくとも送る意味があるだろう。君のパーティの僧侶がいつも万全の状態でいられるとは限らないんだから」
「……あ……ありがとう、ございます……すごく、ありがたいです……」
 思わず、声が震えていた。こちらを見るリシャールは平然とした顔だが、これほどたくさんの薬草をひとつひとつ調合するのは大変な手間のはずだ。アリアハン教会の寵児として忙しい日々を過ごしているはずのリシャールが、ただ少し呪文を教えただけの、会うたびに嫌味を言うほど鬱陶しがっている自分のためにわざわざそんなことをしてくれたのだと思うと、アルテは思わずじんとした。
「そう? ならいいけど」
「はい……すごく、嬉しいです。リシャールさんって、人間的な優しさも持ち合わせていたんですね!」
「……なに、それ。君は僕がそういう優しさを微塵も持ち合わせてないと思ってたの?」
「え、だってリシャールさんいっつもいっつもただ嫌味を言うために話しかけてくるとしか思えな、あ」
「……ふぅん。君は僕のことをそういう人間だと思ってるわけだ。参考になったよ、ありがとう」
 にっこり、とぞっとするほど美しく、優雅にリシャールが微笑む。その表情はもうすでに艶麗とすら呼んでいいような雰囲気があったが、当然ながらアルテにとっては恐怖の対象でしかなく、必死に笑顔を作って頭を下げた。
「じゃ、じゃあ私行くところがあるので! これ本当にありがとうございました、じゃあっ!」
 そう挨拶して即座に背を向けて駆け足。声をかけられる前に、と必死に逃げ出す。
 なので、アルテは気付かなかった。口を開きかけたリシャールが、アルテの背中を見つめながら、ふっ、とひどく物憂げな、切なげとすら言ってよさそうな想いをこめたため息をつき、アルテが見えなくなってもしばらくはその方向を見つめながら立ち尽くしていたことに。

「アルテさんっ! よかった、会えた……!」
 横合いから飛んできた、少し甲高い、でもちゃんと男の子の声にアルテは反射的に声のした方を向き、目をぱちぱちとさせた。
「ジュンくん。どうしたの? なにか昨日言い忘れたことでもあった?」
「はぁっ、はいっ、実は、はぁっ、言えなかった、はぁっ、ことが」
「だいじょぶだいじょぶ、落ち着いてー、ちゃんと話聞くから」
 それなりの距離を走ってきたのだろう、ぜぇはぁと息の荒いジュン――ジュン・サファン、武闘家志望の十五歳の男の子――をそう笑顔で落ち着かせると、ジュンは「はぁっ……は、はぁ」と息を荒げながらもこくこくとうなずいた。その場で何度も深呼吸をし、息が落ち着くとふぅっと息をつき、アルテを見上げてほっとしたようににこっと笑う。
 あー、やっぱりジュンくんって可愛いなー、とアルテは思わず微笑む。自分には兄弟はいないけど、こんな弟がいたら絶対可愛がると思う。
 ジュンとは三年前、アルテが十三歳の時街で出会った。公園でいかにもいじめっ子ー、という感じの男の子たちによってたかって袋叩きにされているところにアルテが割って入ったのだ。
「そんなことしちゃダメでしょっ! ダメってわかっててやってるんなら鉄拳制裁しちゃうから!」
「へっ、やってみろよ、女のくせに!」
 いかにも馬鹿にしたようにそいつらが言うので、アルテは言われた通り本当にやった。というか、鉄拳どころか武器を使って(剣の稽古の帰りだったのだ。もちろん鞘に収めたままで、だが)叩きのめしたので、そいつらは半泣きになって逃げ出した。
「私にやられた憂さ晴らしこの子でしようとしたら、また叩きのめしちゃうからねっ!」
 仁王立ちするアルテに、そいつらは「うるせーばかやろー!」とひねりのない捨て台詞を吐いて逃げ出した。まったくもう、とため息をついてから、アルテは苛められていた子に向き直る。
 その子はぽかんとした顔でこちらを見ていた。あ、女の子なのにみっともないとか思われちゃったかな、と思うと胸が痛んだが、できるだけ明るくにこっと笑って言う。
「大丈夫? ちょっと待っててね、今手当してあげるから」
「え、あの、その」
「うわ、口の端が切れてる。ちょっと待ってね……」
 アリアハンの公園には井戸がついている。ので、そちらに駆け寄って釣瓶桶を引き上げ、取り出したハンカチを水で濡らし、駆け戻ってきてそっと唇についた血を拭いた。
「てっ!」
「あ、ごめん、大丈夫? うぅん、たぶん皮膚が切れてるだけだと思うけど……ちゃんと消毒した方がいいよね……ごめんね、私、まだ回復魔法使えないの。もっと呪文の練習頑張ればよかったなぁ……」
 しゅんとするアルテに、その子はぶるぶるぶると力いっぱい首を振る。その顔が真っ赤なのを見て、どうしたんだろうと首を傾げつつも、唇を拭き終えてハンカチをその子に渡す。
「はい、あげる。一人で帰れる? なんだったら私送っていくけど」
「え、いえ、あの、あのっ」
「うん?」
 首を傾げると、その子はかーっとますます顔を赤らめてうつむく。どうしたんだろう、と顔をのぞきこもうとすると、ふいにばっと勢いよく顔を上げられ、ものすごく必死という感じの顔で見つめられた。
「あのっ!」
「うん、なに?」
「僕っ、ジュン・サファンっていいますっ。あのっ、あなたの、名前、って」
「ああ、名前? 言ってなかったね、ごめん。私、アルテミシア・ジェッドリーっていうの」
 笑顔で言うと、ジュンは小さく目を見開く。
「もしかして、オルテガさまの……」
「ん? うん……まぁね」
 小さく苦笑して舌を出す。アリアハンの誇る勇者オルテガの名前を覚えている人間は数多い。近所の人の中には自分とオルテガを比べてため息をつく人もいる。でもそんなこと私に言われても困っちゃうんだけどなぁ、というのが正直なところではあるのだが。
 この子もそういう風に思うのかな、と少し困ったように笑みつつ見下ろす――が、ジュンの反応は真逆だった。ぱぁっと顔を輝かせ、きらきらした瞳で言ってきたのだ。
「じゃあ……もしかして、アルテミシアさんも勇者を目指してらっしゃるんですか!?」
「え? うん、まだまだ未熟だけどね」
「それでそんなに強いんだ……すごいですね。僕なんか、男のくせに、アルテミシアさんに助けられちゃうくらい弱いのに……」
 見る間に落ち込んだ顔になりうつむくジュンに、アルテは苦笑し、ぴしっとジュンのおでこを弾いた。
「たっ」
「いけない考え方をしたおしおき、だよ」
「お、おしおき、って……」
「ジュンくん、あのね、私のお母さんが言っていたことなんだけど。『泣き言を言うのも愚痴を言うのも、途中で諦めることも間違ったことじゃないけれど、自分ができないこと、諦めたことに言い訳をつけるのはやめなさい』って」
「え……」
「えっと、自分はこうこうだからできなかったんだ、とかできないこととか間違ったことを自分のせいじゃないって考えるのはよくないんだって。それまでの人生で、問題を解決できるようになるための、努力? を怠ってきたのはあくまで自分なんだから、その選択に責任を持ちなさいって」
「…………」
「なにかができないならできないで、その苦手なところを自分のできることでなんとかしないと、世間なんて乗り切っていけないって。だから……えっと、なんていうか……そういう、男のくせに、とか気にするの、駄目だよ。男の子でも、女の子でもさ、私は戦いを頑張って、ジュンくんは他のことを頑張ってたってだけで、別のことを選んだってだけで、どっちが偉いとかいうんじゃないんだから」
 ね、とにっこり笑いかけると、ぽかんとしていたジュンの顔がくしゃくしゃっと歪んだ。そしてぶわ、と瞳から大量の涙が流れ出す。
 わ、と慌ててアルテはハンカチを渡そうとしたが、ジュンに渡したことを思い出しておろおろしつつジュンの手の中のハンカチを見る。だがジュンはそれに気づきもせず、う、ううっ、と泣き声を漏らしながらひたすら泣きじゃくった。
 その日はジュンが泣き止むまで待って、家に送っていって。お礼の品を届けられたりそのお返しを届けたりして。そんな風に、ジュンとアルテは親しくなっていったのだった。
 ジュンは現在武術の道場に通っている。将来は武闘家を志しているらしい。少し大丈夫かな、と思わないでもないが、会うたびに体のどこかに傷を作っているほど熱心に稽古しているようなので、もちろんアルテはその夢を応援していた。
 ジュンが息を落ち着けて、じっ、とどこか切羽詰った瞳でこちらを見る。アルテも微笑みながら、その瞳を見返した。
 しばらく視線が行き交う。ジュンはなにか口にしようと開いては閉じ、を繰り返していたが、アルテが待っていると数度深呼吸してから決死の覚悟を決めた、というくらいの表情で言葉を放つ。
「アルテさん。僕、ちゃんと武闘家になれたら、勇者の仲間を目指そうと思ってるんです」
「え、そうなの?」
「はい。ですから……あの」
「うん。なに?」
「あの………」
 口ごもり、一瞬うつむいたが、すぐにきっ、と顔を上げ、にこっと笑って言い放つ。
「いつか、追いつきますから!」
 そして即座に背を向け、全速力で走り出す。アルテはちょっとあっけにとられていたが、やがてくすっと笑ってしまった。
 ジュンは真っ赤だった。きっと自分がこんなことを言っていいのかとか、みっともないとか、恥ずかしいとか、そういう気持ちでぐるぐるしてたんだろう。
 なのにジュンは自分にちゃんと会いに来て、宣言してくれた。その気持ちがわからないほど、アルテは鈍感ではない。
「頑張ってね、ジュンくん」
 私だって負けないんだから、と呟き、笑顔で歩き出すアルテは、ジュンの言葉にライバル宣言以外の意図があるとはこれっぱかりも考えておらず、走るジュンが顔をくしゃくしゃにしてこれでいいんだ、まだこれでいいんだと自分に言い聞かせながら泣きじゃくっていたことも、少しも気付いていなかった。

「いらっしゃいませお客様、今日はなにをお探しでしょう? 今日は薬草がお安くなっておりますよ。旅のお供にぜひひとついかがですか?」
「あ、ううん薬草はいいの。もう充分あるから」
「では毒消し草などは? 移動中に毒を受けては致命的です、安心の種にぜひおひとつ」
「ううんそれも……ってもー、ウターリド、商人の顔いい加減やめてよ! そりゃ営業中に来た私も悪かったけど、曲がりなりにも友達でしょ? そっちの顔ばっかりっていうのは」
「……ちっ。客じゃないのか」
 小さく舌打ちして、愛想のいい笑顔を満面に浮かべていたウターリド――ウターリド・ガーミディー、商人十九歳は、こちらを無視して帳簿の計算を始めた。表情を消して。いつものぶっきらぼうな、それどころかこちらの存在を認めているかすら怪しいような、愛想というものがまるで存在しない無表情で。
 だけどアルテは気にせず笑ってウターリドに話しかけた。あくまで客扱いされながら笑顔を浮かべられるよりも、仏頂面で遠慮なく話してもらった方が友達としては嬉しい。
「ねぇウターリド、私今日から旅に出るんだよ」
「…………」
「旅立つ友達に、なにか一言優しい言葉をかけてあげようとか思わないの? 昨日もろくに話してくれなかったしさ」
「…………」
「はー……もー、ウターリドってば。本当に、素直じゃないんだから。ちゃんと喋って人間関係構築しないと、老後寂しいよ?」
「…………」
 ウターリドはこっちを見もせずに、ひたすらすらすらと帳簿にペンを走らせている。本当にもー、と思いつつも、まぁしょうがないか、と苦笑した。ウターリドというのは、初めて会った時からずーっとそういう奴だったのだから。
 ウターリドと初めて会ったのは三年前。商店街の外れにできた新しい道具屋にカッコよくて優しい店員さんがいる、と学校の友達に(戦士とか勇者志望の人間が戦技を学ぶ職業訓練校だった。アルテは初等学校を卒業してから、上の学校に上がらず職業訓練校に通っていたのだ)誘われたのがきっかけだった。
 道具屋という商売は実にいろいろなものを取り扱うが、どんな道具屋でもまず薬草はある。授業の関係上怪我の絶えない自分たちの学校では、安くて質のいい薬草はいくらでも必要だったので、アルテも新たな店の開拓を求めてそれに付き合ったのだ。
「いらっしゃいませ! なにをお探しですか?」
 店に入るや声をかけてきたのは、確かにちょっとカッコいい、自分たちより二つ三つ年上のお兄さんだった。笑顔が爽やかで、自分たちの細かい注文にも(薬草にも体質によって合う合わないがあるのでどうしても細かくなってしまうのだ)いちいち丁寧に親切に対応してくれる。薬草もわりと安くて質もよさそうだったし、他にもいろいろ気を惹かれる小物とかが揃っていたし、いいお店見つけたな、と嬉しくなりながら店を出たのだ。
 が、家路をたどる途中、あ、と思い出してしまった。あの道具屋に置いてあった美容クリームの中に、母ヴァレンティナが探していたものがあったのだ。なかなか見つからないので、見つけたらできるだけ買ってきてくれと言われていた。
 なので慌てて店に向かったその途中、ふと裏路地から聞こえてくる声にアルテは足を止めた。
「……ですから、それは誤解ですよ。私はただ、商人としてあの方のお役に立とうとしただけで」
 さっきの店員さんの声。なんでこんなところにいるんだろう、と裏路地をのぞきこんで、アルテは仰天した。店員さんが大勢のいかにも筋者という感じの男たちに囲まれている。
 その中の、ひときわごつい大男がぐい、と店員さんの胸倉をつかんで怒鳴った。
「てめぇ舐めんのもいい加減にしねぇと殺すぞああん!? 兄貴の女たぶらかしといてなに抜かしてんだコラァ!」
「ですから、それは誤解ですよ。あの方と私とはお客様と店員という以外の関係はありません」
 胸倉をつかまれながらも、店員さんの表情と声は穏やかだ。あくまで冷静に、淡々と、男たちに対応している。
 それはすごいとは思うけど、とアルテは唇を噛む。この手の輩は理屈が通じない。誰かに負けたと思わされること自体を受け容れられず、その相手を異常なまでの熱意を持って攻撃する。このままじゃあの人はきっとひどいことをされる、どうしよう。
「ざっけんな、アァ!? じゃあなにか、素っ裸の兄貴の女と同じ部屋にいててめぇは自分は清廉潔白だなんぞと抜かせんのか、アッ!?」
「えぇ、もちろん。やましいことはなにもありませんから」
「んなことが信用できると思ってんか、アッ!?」
「ですが、なんと言われましてもそれが事実ですし」
 アルテは素早く裏路地を見回す。裏路地の前後にそれぞれ五人ほどのいかにも堅気ではない男が立ち塞がり道を塞いでいる。おそらく兄貴というのは奥にいる小柄なのにいかにもな威圧感を発している男だろう。こちら側はチンピラ風の男が多いが、それでも体は大きい。
 が、手持ちの装備と道具を確認し、アルテは数度深呼吸してから覚悟を決めた。
 手持ち袋の中から、身元がわかるものと必要なものを取り出す。ただし、金属製の文鎮だけは残した。
兄貴≠轤オい男めがけ手持ち袋を山なりに投げつける。見事命中。がんっ、と音がして兄貴≠ヘ脳天を押さえ倒れる。周囲の男たちは一気にいきりたった。
「あっ、兄貴ぃっ!」
「んっだこら、どこの誰が」
 その言葉を最後まで聞かずアルテは動いた。手に持っていた模擬刀を、兄貴≠ノ視線を集中させているチンピラの脳天に振り下ろす。「あぎゃぁっ!?」と喚いてのたうつのを無視し、あるいは足を払いあるいは急所を突き、なんとか全員一気に怯ませられた。
 その隙にだっと奥に走り、目を見開いて固まっている店員さんの手を取って駆け出す。店員さんは目を見開いた表情のまま、素直についてきてくれた。必死に走って、走って、もう間違いなく逃げられた、と思ってから、ぜぇはぁぜぇはぁと本気で呼吸が荒い店員さんに笑いかける。
「もう大丈夫ですよっ! よかったぁ、逃げられて!」
 店員さんはのろのろと顔を上げる。その表情にアルテはちょっと驚いた。店員さんの顔に浮かんでいるのが、今までの表情とはまるで似つかわしくない、氷のような無表情だったからだ。
「……余計な、お世話だ」
 無表情のままそれだけ言って、店員さんはこちらに背を向けた。驚いて慌てて後を追い訊ねる。
「あ、あのっ! 余計な、お世話って?」
「……あいつらはここらへん一帯の商店街から保護料を取り立てている奴だ。この辺りで商売するならどうしたって無視はできない。そんな相手に因縁をつけられたなら、とにかく低姿勢に出て嵐が過ぎ去るのを待つしかないんだ。こんな風に途中で逃げたら、向こうは面子にかけても追ってきて叩きのめす。さっきなら袋叩きにされるぐらいで済んだだろうが、今度は少なくとも腕の一本は持っていかれる」
「……そんな……!」
 アルテは愕然とした。それじゃあ、自分のしたことは、この人にとってはただ迷惑にしかならなかったのか?
「あ、あのっ、私あの人たちのところに行って、ちゃんと説明してきますっ」
「……説明? なにをだ」
「えっと、私が余計なお世話で助けに入っただけで、店員さんは別に」
「店員じゃない。俺はあの店の店主だ」
「えぇっ!? だって、私とそんなに年違わないのに」
「その分の苦労はしてる。とにかく、説明だのなんだのも余計なお世話だ。こっちが悪いと認めたなら、向こうはどこまでもつけこんでくる。娼館に叩き売られたくなかったらとっとと家に帰れ」
「そ、そりゃしょ、娼館とかに売られたくなんか全然ありませんけどっ! 私、私の責任をちゃんと果たさなくちゃ」
「責任を感じる必要は微塵もない。お前と俺はなんの関係もない通りすがりだ。自分の世界にとっとと戻れ」
「そんなことないですっ!」
 アルテは必死に首を振る。その勢いに髪がぶんぶんと揺れたが、ほとんど気づきもしなかった。
「お母さんが言ってましたっ、『一度やり始めたことの始末は最後までつけなくちゃ駄目』って。『途中でやめたら、その後始末を誰かが肩代わりしなくちゃならなくなるんだから』って! だから、私が決めてやったことなんですから、最後までちゃんと店員さんのこと、守ります!」
 全力できっぱりと言い切ると、店員さんはぎゅ、とわずかに眉をひそめた。無表情の整った顔立ちの上に浮かべられたその仕草は、アルテを思わずたじろがせるほどの迫力があったが、それでも懸命に胸を張る。
 店員さんはその顔のまま、小さく息を吐いた。ひどく重い息だ、とアルテは思った。
「……そこまでする必要がどこにあるんだ。そんなことをして、お前になんの得がある」
「え、得っていうか、だって。目の前に襲われてる人がいたら、普通助けるでしょ?」
 きょとんとして訊ね返すと、店員さんは深々と息を吐いた。それからすっと、アルテに手を差し出す。
「あの……?」
「家はどこだ。送っていく」
「え、だけど、店員さんが襲われた時のためにっ」
「……曲がりなりにもアリアハンは法治国家だ、明るいうちならそうそう襲われたりはしない。それに向こうだって都合があるんだ、今度来る時はちゃんと体裁を整える。だから近日中のことじゃない」
「……でも」
「これ以上余計なことをするな。迷惑だ」
 そう言われると、アルテはどうしようもなくなってしまう。しゅん、とうなだれたアルテを、店員さんは引っ張ってくれた。アルテはとぼとぼとそれに従う。
 店員さんはなにも言わない。アルテはなにも言えない。しばらくひたすらに沈黙が続いたが、やがてそれに耐えきれなくなってアルテが声を上げた。
「あの、店員さん。お名前、なんていうんですか?」
「……お前に言う必要がどこにある」
「う……だ、だって……ちゃんとお詫び、したいじゃないですか。だったら名前知らないとお詫び状も書けないし、それに、関わった人のお名前聞けないのは、寂しいです」
 そう言うと、店員さんは小さく息を吐いて、ぶっきらぼうに答えたのだ。
「ウターリド・ガーミディー」
「……あの、私、アルテミシア・ジェッドリーです」
 応えはなかった。
 そんな風にして知り合ってから、アルテは毎日のようにウターリドの店へ通った。自分のせいで迷惑をかけてしまったのなら、自分が守らなければと必死だったのだ。
 ウターリドはそんなアルテを完全に無視した。挨拶をしても、様子はどうですかと聞いても。声をかけることすらまるでしてくれない。正直アルテはやっぱり怒ってるんだーと泣きそうだったのだが、ある時美容クリームのことを思い出しておずおずと声をかけて、驚いた。
「こちらのクリームですか? さすがお目が高い。こちら、希代の天才美容薬師アイマンの調合した作品でして、毎晩寝る前に薄く塗るだけで翌日は一日湯上りのようなぷるぷるの肌になるという逸品でして」
 初めてこの店に来た時と同じ、爽やかで優しい笑顔。流れるように並べられる言葉。さっきまでとはまるで違う態度に、アルテは呆気に取られ、やがておずおずと訊ねた。
「あの……怒ってたんじゃ、ないんですか?」
「はい、なにがでしょうか?」
 ウターリドはあくまで爽やかな笑顔だ。アルテは必死に訴える。
「だって、私迷惑かけちゃいましたし! あの絡んでた破落戸たちを殴ったりして……だから、ずーっと私のこと無視してたんじゃ、ないんですか!?」
 その言葉に、ウターリドは唐突に無表情に戻った。えっ、と思わず身を引くアルテに、すっぱりと告げる。
「無視していたわけじゃなく、単に相手をする必要を認めなかっただけだ」
「え……」
「客じゃない人間が店に来て、なんで相手をしなくちゃならないんだ」
「……は?」
 アルテは思わず、ぽかんと口を開けた。
「だ、だって私たち、一応知り合いましたしっ」
「知り合ったからってなんで相手しなくちゃならないんだ」
「あ、相手しなくちゃならないっていうか、普通人として相手しません!? だから私、私がやったことでウターリドさんにすごい迷惑がかかったから怒ってるんだろうなって」
「迷惑? 別に迷惑をこうむった覚えはない」
「え」
「あいつらのことならあいつらの上司と話をつけた。お前の家の名前も使ったら、案外簡単に和解できた。だから今後あいつらが店に来ることはないし、迷惑をかけられることもない」
「な……ど、どーしてそのこと教えてくれなかったんですかーっ!」
「客じゃない相手にどうしてわざわざそんなことをしなきゃならないんだ」
「………………」
 平然とした無表情を、ウターリドはあくまで崩さない。アルテはもうなんと言っていいかわからなくなり、しばし途方に暮れたが、やがてぷっと吹き出した。ここまで突き抜けてると逆におかしい。なんというかこの人、ある意味すごく面白い人なのかもしれない。
「ふふっ、くふふふっ、ウターリド」
「……なんだ」
「あのねっ、私、これからウターリドに敬語使うのやめるから。だって気遣うの馬鹿馬鹿しくなっちゃったんだもん、あはははっ」
「……好きにすればいいだろう」
「うん、好きにする。ふふふっ……あとね」
 ぎゅ、とウターリドの手を握る。ウターリドは変わらぬ無表情だったが、気にせず笑いかけた。
「私の、友達になってくれる?」
 その問いにウターリドは眉を動かすことすらせず、「……好きに思えばいいだろう」と言ったので、アルテはにっこり笑って「うん、そうする」と返したのだ。
 それからつきあいが続いている。向こうがどう思っているのかは知らないが、アルテにとってはウターリドは友達だ。商売抜きではまともに話をしてもくれないけれど、こちらの話すことは案外ちゃんと聞いていて、お願いをすると無表情な仏頂面ながらもたまに応えてくれたりする。
 なので、アルテは微笑みながら言った。
「お客としての用事がないわけじゃないけどね。あのね、小さな袋を腰帯につけるための紐がほしいんだけど」
「それを早くおっしゃっていただきませんと。それでしたら」
「無理に愛想よくしなくても、普段通りでいいよ。商人の顔するの、疲れるんでしょ?」
 そう笑うと、ウターリドは笑顔から唐突に無表情に戻り、「……別に」とぼそりと呟いた。
「そう? だってウターリドって、私と素で話してる時の方が楽そうな感じしてるよ?」
「……客に対してきちんと態度を繕うのは、当然だ。もう身に着いてるから、別に疲れるわけじゃない」
「そう? ならいいんだけど。商売だからって、あんまり無理しないでね。これからはそう様子を見にきてあげられなくなるし」
「…………」
 仏頂面のまま会計を終えたウターリドに、最後にアルテは微笑んで言った。
「なにか私に一言ない? 旅立つ人間に、友達として」
「………………………」
 ウターリドは沈黙した。もう応えないつもりかな、とも思ったが、こちらを見つめてはいるので、しばらく待つ。
 長い沈黙ののち、ウターリドはぼそりと、ぶっきらぼうに、愛想の欠片もない声で言った。
「……死ぬなよ」
 短い一言。だが、確かに自分に向けた一言だ。客にではなく、アルテミシア・ジェッドリー個人に。
 なのでひどく嬉しくなって、笑顔で「うん」と言って背を向けると、ウターリドはそこにさらにぼそりと言葉を投げつける。
「……死んだら、客が一人減ることになるからな」
「…………」
 ちょっと呆気に取られたが、いまさら振り向いて怒るのも大人げないしみっともない。まぁウターリドはウターリドなりに心配してくれたと思うことにしとこう、と苦笑して、アルテは店の外へと歩き出した。
 その背中を、ウターリドが愛想の欠片もない、けれど焦げ付くような視線で見つめていたことには気付かずに。

「やっほほーい、アテりーん!」
「きゃっ!」
 唐突に背筋を撫でられて、思わず飛び上がる。気配なんて感じなかったのに、と慌てて振り向いて相手を見ると、そこにいたのはゼノだった。ゼノ・ラーダ。遊び人ということは聞いているが、年齢は知らない相手。
「あ、あの……ゼノさん。なにか、御用ですか?」
「むっぴー、アテりんってば体温零下三十度! 鋼の鎧級ガードの固さに、ぼくちんチョーゼツむかむかぷん!」
 本当の顔どころか体型もよくわからないピエロ装束と化粧に覆われた体をたゆんたゆんと揺らしつつぷんぷん、と腰を振ってみせるゼノに、気圧されて一歩退く。
「は……はぁ」
「なぜなぜホワーイ、君は僕につれないのダーリン。イエスタデイワンスモーア。君とならランデブーマジオッケーっスよーなのにどうして告白不成功?」
 身をよじりつつ近づいてくるゼノに、思わず二歩退く。ゼノがなにを言っているのかよくわからない。
「は……は?」
「チチチチチ、ブッブー時間切れ。イコール君をさらう時がきた」
「は……はぁ!? ちょっと、あのそれはっ」
 思わず三歩退くアルテに、ゼノは笑顔を浮かべたまま固まっているとしか思えない顔でちっちっちっ、と指を振ってみせる。
「ヘイガール、イッツジャスジョークユーノー。僕はただ君と話がしたいだけ。ラビンユーな時がほしいだけ。愛し合ってるかい世界のみんな、君は僕にラブオーケー?」
「は……あの、すいません、私……」
 さっぱり理解できない話の内容にもはや恐怖すら感じつつアルテは四歩退いた。ゼノは即座にその間合いを詰めてくる。
 どうしようこの人、という混乱と困惑と恐怖。ゼノと会う時はいつもそうだった。出会った時からこの人はずーっとこの調子だったのだ。
 一年ほど前、アルテが家の庭で剣の稽古をしている時。ひょい、と庭の木の陰から現れて、驚くアルテの手を握り言った。
「ヘイカモンエヴリバーディ、イッツアショータイムはこれからだぜハニー?」
「……は?」
 わけがわからず呆然としたアルテの手を、力を入れている様子はないのにひどく遅滞なく(こちらに顔を向けたまま後ろ歩きで)引っ張りながらゼノは親指を立て。
「つまりこれはナンパ。天に星地に花君に愛。僕は君に生まれる前からフォーリンラブっス結婚してくださいお姫様っ!」
「は……はぁ!?」
「そっちを向いちゃノノノノン、そう僕の名前はゼノ・ラーダ、君はアルテミシア・ジェッドリーそして二人はいつしかハピラッキー。そういうことでレッツゴーウィズユー、共にヘヴンへ涅槃へ蓬莱へー!」
「あ、あのっ、すいませんっ、私剣の稽古があるのでっ」
 と言って背を向け逃げ出そうとする――その前にするり、と滑り込むように掌を握られた。
「え……」
「ウィズミーウィズユーエターナルジュッテェム、一緒に行こうよワールドワイド! 世界は僕らの遊び場だ、君は勇敢なプリンセスー!」
「ちょ、ちょっと、待ってーっ!」
 叫ぶより早くゼノは走り出してしまっていた。アルテも手を引っ張られてやむなく走り出す。
 しかもこの男、足が速い。相当。アルテも引っ張られている関係上本気で走らざるをえず、足を必死に石畳に叩きつけるしかない。
「ひゅっほー、なかなか足が速いねマイハニー!」
「どっ、どうもっ、ていうかマイハニーって」
「キミの足は速い、なぜなら生足が服に似合ってステキだから!」
「は……っ、はっ?」
「映えはハエー!」
「………はっ?」
 アルテはぽかんとした。意味がわからないけど、これってもしかして、シャレ、のつもり?
 それからもゼノは走りながら怒涛のようにシャレやらギャグやらを連発した。
「太ってる子が吹っ飛んだー!」
「根瘤を持った人が寝転んだー!」
「僕は独身だからここの文字は読めない、そう嫁ない!」
「鏡の前でかがめば香がむーんと漂ってくるよ!」
「いろんな業績を成した茄子さまがおいでなすった!」
 高速で走りながら次々繰り出されるシャレとギャグ。当然アルテは笑えなかった。本気で走りながらギャグを言われても笑えないし、なによりこの自分の手を引っ張る人がどうにも怖い。もしかして危ない人なんだろうか、誰か助けてー、と思いながらも手をがっしりつかまれて離れることができない。
 必死に走ることほぼ半刻。アルテはぐったりと草むらの上に倒れこんでいた。
 アリアハンの市街部の外れの公園。めったに来ないこの場所にたどり着くや、ゼノは「ききーっ、ワンスモーアストップ!」と言いつつ唐突に止まったのだ。
 本気で半刻の間走り続けるというのはそれなりに体力に自身のあるアルテでも正直辛かった。ぜぇはぁと荒い息を横になりながら必死に整えていると、「ばぁっ!」とゼノが唐突に顔を目の前に突き出してきた。
「………っ!」
 正直「きゃーっ!」とか叫びたいところではあったが、いくらなんでもそれは失礼だ。それに怖いし。声を飲み込み、とりあえず敵意を持っていないということを表すため頑張ってにこっと笑ってみる。
「あ、あの……ふぅっ、はぁっ……なん、ですか?」
 ゼノはじーっと自分の顔を見つめてくる。化粧で表情がわからないので正直怖かったが、それでも微笑みつつ見つめ返し続けると、ゼノは唐突にこっくりとうなずいた。
「え……あの」
「未知に、不可解に、理不尽に。遭って被害を受けて、なお微笑みかけられる。それは強さか、それとも愚かさか」
「え……は?」
「どちらにせよ、君は優しさを知っている。愛されて、愛を与えることを当然だと思う子供。それは騒乱の源にもなろうが、僕は尊さを感じずにはいられない」
「あの……ゼノさん?」
「うん、僕は君がいい。僕には手を出せないし出す気もない。でも終末を終わらせるのは君がいい。最後に君が立っていたら、僕は君を愛そう」
「え……はい?」
 微笑んでいるようにしか見えないピエロの化粧。それでそんなわけのわからないことをすらすらと言うと、ゼノはひょい、と体を引っ込めた。とりあえず身を起こすと、手を振り腰を振り体を振りながら、こちらに背を向けて去っていくゼノの姿が見える。
「じゃっあねー、アルテミシア・ジェッドリー通称アテりん。さよなら三角また会う日まで。ばい、ならー!」
「…………」
 アルテはその後姿を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。名前知ってたんだ、という突っ込みもできないままに。
 それからも何度かそういうことがあった。唐突に現れて、自分を連れまわしたり自分に悪戯をしかけたり、自分の状況を引っ掻き回す。わけがわからなくて、怖くて、変な人で。
 なのに、アルテは彼にどこかすごいものを感じていた。並の人間じゃないというか、なんというか。遊び人だというわりには身体能力がとんでもなかったり、『イーオナズーン!』とか呪文の名前を言ってみるだけで大爆発を起こしたり。そういう明らかに普通じゃないところもたくさん見せられたし、それ以上になんというか、心に一本芯のある人、という感じがするのだった。
「どしたのー、アテりん? ドリームロリータ森懲りた? 君の心は夢見がち?」
「いえ……あの」
 どこからともなく取り出したボールでジャグリングしながら顔をのぞきこんでくるゼノに一歩引きつつも、アルテはおそるおそる訊ねた。
「あの……もしかして、私が旅立つから、来てくださったんですか?」
「…………」
 ぽんぽんぽん、とゼノはボールを受け取って懐にしまった。そして「てへっv」と声に出して言ってこつんと額を叩いてみせる。
「イッツアシークレットユーノー! 僕の心は鉄骨金庫、心の内緒は国家機密! 君にだけあげる最後の鍵は、旅の最後に渡すのさ!」
「………はぁ」
 やっぱり意味がわからなかったが、それでもたぶんそういうことなんだろうな、という気配は感じ取った。なので、アルテはぺこりと頭を下げる。
「ありがとうございます、ゼノさん。私、頑張ります。魔王を倒すために頑張って、そしてここにちゃんと帰ってきますね」
「…………」
 一瞬の沈黙。のち、小さく、囁くような声でいらえがあった。
「うん。やっぱり、君がいい」
「え」
「グッバイグッデイまた会う日まで! モーニンローリンごきげんよー! アテりんダーリン頑張ってねー!」
 言うやなにか小さな球を取り出した、と思うやぽんっ、とその球が弾けた。そして煙が吹き出し、アルテの視界を灰色に染める。
 そしてそれが晴れた時には、もはやゼノの姿はどこにも見えなくなっていた。はー、と小さく息をつき、また歩き始める。
 とりあえず、たぶんあの人なりに自分を激励しに来てくれたんだろう。一応こちらに好意を持ってくれてるのだろうし、喜んでおくことにしよう。
「怖いけど……」
 正直なところをうっかり呟いてみたりしつつ、アルテは足を前に進めた。

「あのー、アルテくん。僕のこと、覚えてるかな?」
「え……」
 道の脇からおずおずとかけられた声にアルテはばっとそちらを向いた。そこにいたのは、予想通りの水色の髪を長く伸ばした(不精で伸ばしているのだという言葉にうなずけてしまう、櫛の通っていないぼさぼさの髪だ)、紅玉の額冠を頭に乗せたほんわかした表情の男性だ。アルテは思わず顔を輝かせて駆け寄った。
「当たり前じゃないですか! わーラビさん、お久しぶりです。でもいい加減その呼びかけやめましょうよ」
「ごめんねぇ、だってアルテくんが僕のこと忘れてないかな? ってついついいっつも不安になっちゃうんだよ。ここのところあんまり会ってなかったしねぇ」
 ほんわーとラビ――ラビ・ブリュハノフは笑った。もう二十八歳になるとは思えない、あどけないとすら言えそうなほんわかした笑みだ。
 十六歳で悟りを開いた天才賢者さまとは思えないなぁ、とアルテは微笑む。でもこれがラビなのだ。もうそれなりにいい年なのに、いつまでも天然で、ほわほわしている、いつでも幸せそうな優しい青年。いつもこちらの心を和ませてくれる、とてもいい人なのだ。
 ラビと会ったのは一年半ほど前。ラビがアリアハンに古代遺跡の研究に来た時に出会った。
 アルテはその日、職業訓練学校の授業でナジミの塔へと赴いていた。アリアハンの王城であるオービット城から直通の通路が伸びているナジミの塔は、アリアハンの戦闘系職業訓練校では実戦訓練の場のひとつとして用いられている。いくつかの職業訓練校が合同で訓練を行う時に使われることが多かった。
 アリアハン周辺よりも魔物が強く、見習いの段階ではまともにぶつかるのは厳しいのだが、だからこそというか、自分たちよりも強い相手とぶつかった時どうやって勝つか、ないしどう生き延びるかと試行錯誤させるための訓練として使われるらしい。オービット城から直接乗り込めるため、一日で行き帰りが可能なのも大きいらしかった。
 そこで同じ班になった人たちと協力し(魔法使いギルドや教会、その他もろもろからも同じような見習いが来ていたのでそれなりの人数になった)、現れた魔物と必死に戦って時に撃退し時に逃げる、ということを何度か繰り返し、そろそろ戻ろう、という時になって、ざざっ、という音と共に魔物の群れが現れたのだ。
「きゃっ……!」
「やだっ……!」
 現れたのはナジミの塔でも最強の部類に入る、人面蝶とフロッガーとバブルスライムという組み合わせだった。体力も魔法力もかなり消費している今、この組み合わせとぶつかるのは本気でまずい。
 おまけに現在位置は教師たちのいる集合地点からかなり離れている。つい調子に乗って深入りしすぎた。つまり、助けが来る可能性も相当低い。
 どうしようどうしよう、と焦りながらも、必死に魔物たちを睨みつけつつ後じさりする。同じ班の仲間たちはもはや顔面蒼白だ。もはや士気は決壊寸前。まともに戦えるとは思えない。
 なんとかしなきゃ、とアルテは武器を構えつつきっとフロッガーの虚ろな眼球を睨みつけた。なんとかこいつらを引きつけて、その間にみんなを逃がして――
「――大地よ、炎よ、風よ。三位の力ひとつとなりて、我らが敵をみな破砕せよ=v
 どっごぉぉおぉん!!
 目の前が真っ赤になるほどの、見渡す空間すべてを包み込む大爆発。それが唐突に炸裂し、アルテはぽかんと口を開けた。
 自分たちもその爆発に当然巻き込まれているのに、熱さすら感じない。呪文だ、とアルテは理解した。だけど、こんな、もうナジミの塔ごと吹っ飛ぶんじゃないかってくらいの大爆発って、もう最上級呪文しかありえないんじゃ。
 そんなものを、誰が、なんのために。呆然とするアルテの前で、もうもうと舞い上がっていた煙が、あっという間に消え去った。呪文を使った人が影響を消したんだ、と気付くより早く、魔物たちが消え去り静謐さを取り戻した空間を横切り、アルテたちの前にとことこと一人の男性が歩み寄った。
「いやぁ、無事でよかった。とりあえずとっさだったからイオナズン使ってみたんだけど、全部魔物倒せたかな? みんな、怪我とかないかな?」
「あ……あの、あなたは……」
 震える声で問うた友達に、その水色の髪の賢者の額冠を被った人はぽりぽりとぼさぼさ髪の頭をかいてあはは、と笑った。
「えっとね、僕は――」
「ブリュハノフくんっ!」
 後ろから投げかけられた声に、その人はきょとんとした顔で後ろを向いて、ぽりぽりとまた頭をかく。
「やー、どーもローディス教授。ご機嫌いかがですか?」
「ご機嫌いかがじゃないだろうっ! 君はなにを考えているのかねっ! 我々はこのナジミの塔の調査に来たんだよっ、あんな呪文を使ってナジミの塔が倒壊したらどうするつもりだったのかねっ!」
「えー? なんで倒壊なんてことになるんですか? ナジミの塔はミソロジカルメタルで外部コーティングしてるから物理ベクトルとは断絶していますから、倒壊させるにはベクトルに次元断層を乗り越える第六素エネルギーを加えなくっちゃ駄目じゃないですか」
「くっ……せ、専門的なことはどうでもよろしい! 遺跡内であんな大規模な呪文を使うなんて非常識じゃないかねと言っておるんだ!」
「え? だって、もし万一弱い呪文じゃ倒せないくらいの耐久力を持つ突然変異体だったらあの子たちが危ないじゃないですかー。いつでも補給が可能なら、初撃は最大戦力を持って行うのは戦術の常道だと思うんですけども」
「へ、屁理屈を言うのはやめたまえっ! もし万一制御に失敗していたら」
 喚きたてる初老の男性にきょとんとした顔で相対する水色の髪の男性をアルテはしばしぽかんと見ていたが、ようやくはっとして飛び出した。水色の髪の男性をかばうようにして前に立ち、きっと顔を上げて叫ぶ。
「待ってくださいっ!」
「……なにかね君は。子供は引っ込んでいたまえ」
「子供ですけど、関係者ですっ! この人は私たちを助けてくれたんです、文句を言うなら私たちに言ってくださいっ!」
 きっ! と初老の男性を睨みつけると、初老の男性は顔をしかめて、居心地悪そうにふん、と鼻を鳴らした。
「ふん……話にならん。ブリュハノフくん、早く戻ってくるように。ここまで足を運ばせたのは君なのだからね。君の言語解析呪文とやらをさっさと見せたまえ!」
「はいはーい」
 ひらひら、と手を振る水色の髪の人をおそるおそる見上げると、その人はへらん、と気の抜けるような笑顔でこちらを見返してくる。なんだかほっとして、それからはっとして慌てて頭を下げた。
「あのっ、ありがとうございました! 私、アルテミシア・ジェッドリーっていいます! さっきは助けてくださって、本当にありがとうございました!」
「いやー、どういたしましてー。こちらこそ助け舟出してくれてありがとうね。僕は、ラビ・ブリュハノフっていうんだ」
「ラビさんですか、よろしくお願いしますっ」
 にこっ、と笑いかけると、ラビは照れくさそうにぽりぽり頭をかきながら、またへろん、と気の抜けるような笑みを浮かべた。
「えっと、私たち、今学校の訓練中なんで、とりあえず戻らなきゃならないんですけど」
「あー、じゃあ送っていこっか?」
「えっ、いいんですか? ありがとうございます、助かります! ……じゃなくて、ちゃんとお礼をしたいから、連絡先を教えてもらえると嬉しいんですけど」
「……連絡先かー。うーん」
「あっ……ご迷惑、でした?」
「いや僕としては全然迷惑じゃないんだけど。うーん」
 首を傾げて眉を寄せしばらく考えて、ラビは笑顔になってぽんと手を打った。
「じゃあ、僕が君に会いに来るよ。君の連絡先を教えてもらって。その時にお礼してくれるっていうのじゃ、だめかな?」
 どこかうかがうような顔になって訊ねてくるラビに、もちろんアルテは笑顔でうなずいた。
「もちろん、かまいません、ありがとうございますっ!」
「いやー」
 照れたようにぽりぽりと頭をかくラビに、おかしくなってくすくすっと笑うと、ラビもあははーと気の抜けたような笑い声を漏らした。
 あとで同じ班の者たちに、「あなたよくあんなとんでもない呪文ほいほい使うようなめちゃくちゃな人と平然とした顔で話せるわね……」と言われたりもしたが、アルテは意味がよくわからなかった。ラビは自分たちを助けてくれた人なのだから、笑ってお話しするのは当たり前だ。
 そんな風にして、ラビとのつきあいは始まった。こちらからラビに連絡することはできなかったが(なにか事情があるらしいと思ったので、強いて連絡先を訪ねることはしなかった。アリアハンの人間ではないのはわかるのだが)、ラビはちょくちょくアルテのところにやってくる。
 お喋りしたり、お茶を一緒にしたり、ラビが今どんな仕事をしているのか聞いたり(ほとんどの時間は研究をしているらしい。どんな研究かは聞いてもさっぱりわからなかった。なんだかすごい研究なんだろうなぁとは思うのだが)。そんな風にして時間を共に過ごしながら、ラビはアルテにとって大切な人間の一人になっていったのだ。
「……アルテくん、今日が旅立ちの日、なんだよね」
 会うのはだいたい一ヶ月ぶりということで、お互いの近況を知らせあってから、ラビは少し困ったような顔になって訊ねた。アルテは真剣な顔でうなずく。
「はい」
「勇者になったってことは、聞いてるんだけど……どうしても旅立つの?」
「はい」
「どーっ、しても?」
「はい」
「どーっ………っ、しても?」
「はい」
「うーん、そうかぁ。じゃあしょうがないのかなぁ。でもなぁ。うーん」
 ラビは少し困ったような顔でうんうんと唸る。心配かけちゃってるなぁ、とアルテは苦笑した。
 ラビはアルテが勇者オルテガの娘で、勇者志望だということを一ヶ月前まで知らなかった。つい話しそびれてしまっていただけなのだが(それに自分の素性を知らないラビとのお喋りはいい感じに気が抜ける貴重な時間でアルテとしても失いたくなかったのだ)、旅立つことになるだろうからと気合を入れて説明するとラビはものすごくびっくりし(ぽかん、と目と口を大きく開けてしばらく固まっていた)、こちらをものすごく心配してきたのだ。一ヶ月の間に何度も手紙をよこしてくれるくらいに。
「ラビさん、大丈夫ですよー。私ちゃんと勇者の資格試験に合格したんですし、仲間もいますしっ」
「うーん。それはわかるんだけど。アルテくんがすごく頑張ってきたのはわかるんだけど。うーん」
「私、まだまだ未熟だから、頼りないのはわかりますけど。私、魔王を倒すために頑張るって決めたんです。だから、心配しないでください! ちゃんとアリアハンに戻ってきて、またラビさんにお会いしますから!」
「アルテくん……うーん、でもなぁ。うーん。しょうがないんだろうけど。でもなぁ。うーん」
 うんうん唸り続けるラビに、アルテも困ってしまった。ラビに心配をかけるのは本意ではない。でも自分は旅をやめる気はまるでないし。
 少し考えて、母から教わった方法を思い出した。えー、あれをやるの、いくらなんでも、と尻込みする気持ちもあったが、かといって他になにか方法を思いつくわけでもない。仕方ない、と自分に言い聞かせ、アルテはラビの服の裾をおずおずと引っ張った。
「うーんうーん……ん、なんだい、アルテくん?」
「ラビさん……」
 潤んだ瞳で、上目遣いにラビの顔を見上げ、少し擦り寄って、きゅっと服の裾を縋るようにつかみ、どこか寂しげに切なげに儚げに、世界で頼れるのはあなただけ、というような声で。
「なんでもするから、お願い、聞いて……?」
「………………」
 ラビはぽかん、と口を開けて固まった。しまった、外したーっ、とアルテはカッと真っ赤になり、ぱっと服から手を離して後ずさる。
「え、えっとね、つまりあのなんていうか、心配しないでっていうことが言いたくて! 私、ちゃんと頑張って生き残って、戻ってきますから! ラビさんもお仕事頑張ってくださいね! それじゃあっ!」
 ぺこり、と頭を下げて、脱兎の勢いで駆け出す。うあーんもう恥ずかしいお母さんのばかー、と泣きそうになりながら。
 なので、ラビが数分そのままの表情で硬直してから、ぼっと女の子のように顔を赤くして、「ええぇぇー!?」と叫んでのた打ち回ったことには、当然気付かなかったのだった。

「やぁ、アルテ。よかった、会えて」
 ごく自然に家のままにたたずむ黒髪黒瞳の美男子に、アルテは目を瞠った。
「アベルさん……!」
 アベル・モントルイユ。二十一歳の、現在世界でもトップレベルのサマンオサの勇者。英雄サイモンの長男で、自分とも子供の頃から親しくしてきてくれた人だ。
 そして、自分の初恋の人が、爽やかに優しく微笑みながら、こちらに近づいてくる。
 アルテは真っ赤になってうらたえ慌ててから、ダメダメちゃんと私ももう一人前ってこと見せなきゃ、と必死に表情を作ってアベルに微笑みかける。
「こんにちは! アベルさん、今日はなにかアリアハンに用事があったんですか?」
「アリアハンに用事って……ひどいな。これでも、俺は君に会いにやってきたんだけど?」
 少しばかりおどけたように苦笑してみせるその仕草に、アルテはぼんっと顔を真っ赤にさせた。だって、以前会った時よりさらに凛々しさを増したアベルの顔が、自分の前ですごく気を許した感じに笑ったのだから。
 本当に、アベルは。その凛々しく端整な顔貌も。ごついという印象はないのに力強く、しなやかに綺麗な筋肉のついた体も。使い込まれた武器と防具、そしてその下からのぞく実用的な衣服すら彼のために仕立てられた一点もののようにみせるほど見事な着こなしも。旅の残された数歩の距離を素早く埋め、つん、と呆けるアルテの額をつつくだけで洗練しつくされた美しさを感じさせてしまう挙措も、本当に、もうもうもう。
「……カッコいい……」
「え?」
「っ、なんでもないですなんでもっ! あはははっ!」
 アルテが必死にぶんぶんと首を振ると、アベルは柔らかく笑んで、少し身をかがめアルテの顔をのぞきこむ。うわわ近い近い顔が近い、とうろたえるアルテに、アベルは笑顔のまま蕩けるように優しい声で言った。
「アルテみたいな可愛い子にそういう目で見てもらえると、自信がつくな。君をエスコートする資格があるぐらいの男に、一歩近づけたかな?」
「………っ!!」
 アルテはもはや完全に頭に血を昇らせたまま固まった。もうもう、本当にどうしてこの人は、こんなに当然のように王子様なんだろう。
 初めて会った時からこの人は変わらない。出会いは八年前、アルテが八歳の時、オルテガの葬式の席でだった。
 父親の葬式といっても、アルテは別に悲しみに沈んでいたわけではなかった。アルテにオルテガの記憶というものはほとんどない。なにせアルテがまだ四歳の時に家を出たのだから。なので悲しみようがないというか、実感がないというのが正直なところだった。
 ただ、他の人たちが悲しんでいるのはよくわかっていた。近所の人も、祖父も、母ヴァレンティナでさえ、大切な人を失った痛みに耐えているのがよくわかった。
 だからアルテはしっかりしなければ、と自分に言い聞かせ、懸命に働いた。父が死んで悲しいかどうかすらよくわからない自分の役目は、他の人が悲しむことのできる時間を作ることだと思ったのだ。
 なので弔問客に挨拶をしたり、祈りを捧げる僧侶の人を呼んできたり、懸命に考え、動いた。アリアハンの英雄であるオルテガのために訪れる弔問客は多く、挨拶するだけでも大変だったが、それでもそれが自分の役目だと思って。
 だが、必死に気を張って挨拶をした直後、すれ違いざまに小声で囁かれる言葉を聞いてしまった。
「お父さんが亡くなったっていうのにねぇ、泣きもしないでよく笑っていられるわ」
「英雄オルテガが亡くなったのにどうして悲しまないでいられるのかしらねぇ。やっぱりオルテガさまに育てられたわけじゃないから、薄情になってしまうのかしら」
「母親の教育が悪かったのねぇ。やっぱりお育ちが、ほら、あれだから」
「っ……」
 アルテはざっ、と血の気が引くのを感じた。
 自分でもお父さんが死んだのに泣きたくもならないのを薄情じゃないかな、と少し思ってはいた。だからよけいにその言葉は堪えた。
 でもそれはいい、事実なんだから。だけど、なんでお母さんのことまで悪く言われなきゃいけないんだろう。私のせいでお母さんが悪く言われちゃうなんて。
 母ヴァレンティナはもともとジェッドリー家に仕えるメイドだった。だけどアルテはそんなことを意識したことはない。ヴァレンティナは物心ついた時からジェッドリー家をしっかり切り回す頭がよくて料理上手なお母さんだった。なのに。
 駄目だ、そんなこと考えてる場合じゃない、ちゃんと顔を上げて次の人に挨拶しなきゃ、と自分に言い聞かせ、ばっと顔を上げて微笑む――とたん、ぽん、と頭に掌を乗せられて驚き固まった。
 その人は、十代半ばぐらいの年に見える少年だった。すらりと背が高く、顔立ちは凛々しげで、なのに顔に浮かんでいる表情は優しい微笑み。思わずぽかん、とするアルテに、その人は優しく言った。
「大丈夫」
 そしてすっとさっき囁いていた人たちを追いかけて、小さく、しかしきっぱりと告げる。
「失礼。父親を亡くした少女に、母親の悪口を言うのは人間としていかがなものかと思いますが」
「なっ……なんですの、あなたは。あなたにそんなことを言われる筋合いはありませんよ!?」
「関係ないのに口を出してくるのはやめてくださいません!?」
「関係ならば、あります。勇者オルテガは僕の父の親友でした。その娘を悪く言われて黙っているような教育を、父から受けてはいません」
「父の親友……ま、まさかあなたは」
 その少年は、あくまで凛と顔を上げ、それこそ王子様のように格好よく言い放った。
「申し遅れました、僕の名はアベル・モントルイユ。サマンオサの英雄、サイモン・モントルイユが長子です」
 その名乗りを、アルテはぽかんとして聞いていた。父の親友、サマンオサの英雄サイモンの話は聞いていたけれど、だけど、その子供がこんな、突然。
 と、アベルがこちらを向いた。どきり、と心臓を跳ねさせながら固まるアルテに、アベルはにこり、と優しく笑って、いたずらっぽくウインクをひとつしてみせる。
 その仕草に、アルテの心臓は直接つかまれたように高鳴った。
 それからアルテは挨拶に戻り、アベルは母や祖父、集まった人々となにやら話をしているようだった(あとで聞いたのだが、父親の名代としてやってきたらしい)。大人のように毅然と、堂々としたその素振り。すごいなぁ、カッコいいなぁ、と思って、胸がなんだかひどくドキドキした。
 葬式が無事終わり、とりあえず今日のところは解散という時になって、アルテは「あ、あのっ」とアベルを呼び止めた。彼と話がしたかった。なにか、なんでもいいから。面白い話題を思いついたわけでもないのだが、黙って座ってなんていられなかった。
「ん……なんだい?」
 アベルはこちらを向いて微笑む。その表情のさりげない格好よさに思わず顔が赤くなる。
「あの……ありがとう、ございましたっ! 今日は、いろいろ……」
「気にしなくていいよ。俺が君を放っておきたくなかっただけだから」
 ぼっ、とさらに頭に血が昇る。なんでそんなことそんな、当然みたいに言うんだろう。しかもそんなカッコいい笑顔で。そんな人今まで、会ったことない。
「あ、あの……サイモンさんの、息子さん、なんですよね?」
「うん、一応、長男なんだ。だから、家族の代表ってことでやってきたんだけど……」
 少し瞳の感情を沈ませて、目を逸らし、抑えた悲しみを感じさせる表情で呟く。
「できれば、もっと、他の用事で来たかったな……」
 あ、とアルテは口に手を当てる。そうだ、アベルさんはお父さんのお葬式にやってきたんだ。なにを浮かれてたんだろう私のバカバカバカ。不謹慎にもほどがあるでしょ。
 しゅーんと沈み込むアルテに、アベルは少し困ったような笑みを浮かべ、そっと頭を撫でて、蕩けそうなほど優しい声で言った。
「そうしたら、君ともっと楽しい話がいろいろできたと思うのに。君を、もっと喜ばせることができたと思うのに」
「………っ!!」
 だから本当にどうしてそういうことをそんな顔でー! と真っ赤になりつつもぱぁっと光が差したような気になるくらい嬉しくて、瞳を潤ませつつアベルを見上げ、必死に言う。
「じゃあっ……あの、また、来てください! それで、えっと、また、その」
「うん、今度はちゃんと君に会いに来るよ。それで、楽しいことをいっぱいしよう。アリアハンを案内してくれると、嬉しいな」
「は、はいっ!」
 真っ赤な顔でこくこくうなずくと、アベルはにこっと爽やかな笑顔を浮かべた。
「もちろん、ヴァレンティナさんがいいと言ったらだけどね」
「う……はーい……」
「だって、今度君と会う時は、誰に後ろ指をさされることもなく一緒にいたいだろう?」
「…………っ!!!」
 もう、本当にもう、この人ってどうしてこんなにもう。アルテはもう泣きそうなくらい嬉しくて、たまらなくて、アベルの服の裾をつかんだ。
「ん? どうしたんだ、アルテちゃん?」
「あの、えっと、あのね」
 アルテは恥ずかしくて照れくさくて本当にもう泣きそうだったが、それよりも心臓からなにかが溢れそうで、堪えきれなくて言ってしまった。
「あのね、私がもっと大きくなって、すっごくすっごくいい女になったら、お嫁さんにしてくれる?」
 母の教え、その三(ぐらい)。『これだと思った男は逃がさず即座に唾をつけろ』。アルテなりに懸命に考えて、『唾をつけ』ようと試みた言葉。
 アベルは少し驚いたような顔をしてから、にこっと微笑み、答えてくれた。
「君が今よりもっと素敵な女性になったら、俺なんか相手にしてくれなくなっちゃうよ」
「そっ、そんなことっ」
「だから、俺はもっと、君にふさわしいくらいのいい男になれるよう頑張らないとね」
「えっ……」
 にこっ、と爽やかな笑顔で言われ、ぽかんとするアルテに、アベルはすっと身をかがめ、素早く、軽く、でも優しくアルテの額にキスをし――アルテは頭に血が昇りすぎて、ひっくり返って倒れたのだ。
 そんな風にして自分たちは出会った。アベルは約束通り、自分のところに何度もやってきてくれた。『楽しい』ことをいっぱいしてくれた。……頭が冷えるよう適度な間はおいてくれたけれども。
 だから、今はアルテもわかってはいる。アベルは本当に王子様のような人だから、誰にでも優しいのだ。自分が特別だというわけではなく、ごく自然に当然のように人に優しくしてくれるだけなのだ。
 だからアベルのお嫁さん、なんて身の程知らずな夢は忘れようとしているのだけれど。アベルが自分の初恋の相手だというのは疑いようもない真実だし、アベルは会うたびにその格好よさを自分に見せつけてくれるので、ついついその凛々しい顔を目の前にすると、アルテはでれでれとした情けない女の子になってしまうのだった。
「勇者資格試験合格のお祝い、まだ言ってなかったな。おめでとう、アルテ。よく頑張ったな、偉いよ」
「あ、ありがとう……! 嬉しいです」
「そうか、よかった。それなら……これを受け取って、くれるかい?」
「えっ」
 差し出されたのは髪飾りだった。見事な細工が、美しい銀色に輝いている。アルテは呆然とそれを見つめた。
「これ、って……」
「銀の髪飾り……頭を守る魔力が付与してあるんだ。それほど強力なものじゃないけど」
「魔力って……高いんじゃないですか、これ……?」
「買えばそれなりの値段はするけど、これは宝箱から手に入れたものだから気にしなくていいよ。それに、これを一目見たときに思ったんだ。これはきっとアルテに似合うんじゃないか、って」
「え……っ」
「だから、受け取ってもらえないとこれは売るしかないんだけど……迷惑、かな?」
 困ったように微笑むアベルに、アルテは慌ててぶんぶんと首を振った。そんなことない、そんなこと絶対あるわけない。
 するとアベルはほっとしたように「そうか、よかった」と笑い、すっ、と手を伸ばしてアルテの髪にその髪飾りを挿した。指が髪にっ、とアルテは思わずかぁっと顔を赤くしたが、それに気づいているのかいないのかアベルは微笑んで言う。
「似合ってる」
「………っ」
「旅は大変だと思うけど、俺で力になれることがあったらなんでも言ってくれ。できる限り協力するよ。君ならきっと、それこそ世界一強くて素敵な女の子になれる」
「…………っ!」
 もう駄目だ、限界だ。心臓がもたない。アルテは顔を真っ赤にして、「ありがとうございますっ、頑張りますっ!」と勢いよく頭を下げ、ばっとアベルに背中を見せて駆け出した。その背中に、アベルが声を投げかける。
「一緒に勇者、頑張ろう、アルテ!」
「っ………!!」
 アルテは足を止め、振り向いて、「はいっ!」と叫んで頭を下げ、また走り出す。心臓の動悸は、しばらく治まってくれそうになかった。

「アルテ、おっそーい!」
 ルイーダの店の二階に上がるや投げつけられたクセニアの声に、アルテは両手を合わせて頭を下げた。
「ごめんっ! 帰り道の途中でいろんな人に会っちゃってっ」
「……いろんな人? アルテ、それはいったい」
「男でしょ、その『いろんな人』って。その顔見りゃわかるわよ」
「えっ」
 ヴェータに言われ慌てて顔を押さえるアルテに、ゼフィラがさっと顔色を変えた。
「アルテ……本当なの。まさかあなた、男に襲われたりなんてことは……! ああっ、やっぱり私がついていくべきだったっ……!」
「ち、違う違う、友達や知り合いと話したりしてただけ! 変なこととか、なんにもしてないしされてないから!」
「ふーん……その新しい髪飾りはどーしたの、アルテ?」
「え、これ? これはアベ……ってもうっ、いいでしょそんなことっ! 私たちはこれから旅に出て、しばらくはアリアハンに戻らないんだから!」
 そうだ、自分たちは勇者のパーティとして旅に出るのだ。好きとか嫌いとか、恋とか愛とか、男の子とか、そういうことはとりあえず忘れなくっちゃ。自分にはまだ早すぎる。勇者やりながらそんなことできるほど器用じゃないんだから。
 ……少なくとも、しばらくは。
 アルテの言葉に、ゼフィラが笑顔で立ち上がり言う。
「そうよアルテ、アリアハンには魔王を倒すまで帰らないのよね、私たちは。まとわりついてくる男どもの影なんかは、全部ここに捨てていきましょう!」
「そーそー、これからは女同士で楽しくやってこーよ! いざ、魔王征伐の旅へ!」
「そうだよねっ、うん! 魔王征伐、頑張ろう!」
 ゼフィラとクセニアにアルテがこくこくとうなずくと、ヴェータがやれやれ、と肩をすくめる。
「……旅に出たとしても男と縁が切れるよーなことはなさそーだけどね、アルテの場合」
 ヴェータの言葉が耳に入らないまま、アルテはうん、そうだと自分に言い聞かせていた。自分たちは魔王征伐の旅に出るんだ。大切な人たちを、その人たちの住むこの世界を守るために。
 そしてちゃんと帰ってくる。また会える。さよならなんて言うつもり全然ない。
 だから。今度会う時は、ちゃんと、あの人と。
 そこまで考えて、アルテはひどく恥ずかしくなって立ち上がり、笑顔で言った。
「みんな、行こっ!」
「ええ」
「了解!」
「はいはい」
 そして先頭に立って歩き出す。これから旅に出るというのにだらしなく緩んだ顔なんて、仲間たちにだって見せられないから。

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