旅立ち前夜
「よいか、クトル! そなたはオルテガの息子、勇者の卵じゃ! その名に恥じぬよう、懸命に修行に励むのじゃぞ!」
「うん、じいちゃん」
「いいですか、クトル。あなたの使命は魔王を倒すこと。どんな相手にも負けぬよう、命がけで戦いなさい。あなたにはそれができるだけの力を身に付けさせたつもりです」
「うん、母さん」
 ワインを一本空けて酔ったのか、先ほどからしきりと同じことを繰り返す祖父と母に何度もうなずきを返し、クトルは立ち上がった。酒も入っていないのに相手できるほど自分は酔っ払いに慣れてない。
「こりゃ、クトル、どこへ行く!」
「もう寝ようと思って。明日早いし」
 そう言うと、さすがの祖父も「ううむ……ならばやむをえんか」と黙り込んだ。うなずいて二人に背を向けると、後ろから母の声がかかる。
「クトル」
「なに?」
 振り向くと母は、どこか悲痛な瞳で自分を見つめていた。居心地悪く姿勢を正すクトルに、母はやや熱に潤んだ声で言う。
「クトル。私は、あなたが魔王を倒してくれる日をいついつまでも待っていますよ。あなたならきっとやれる、オルテガの遺志を受け継ぎより高めることができるはずです」
「うん、母さん」
 さっきと同じ答えを返すと、母は一瞬泣きそうな顔になって、それからうなずく。
「わかっているのならいいのです。部屋に戻って、お休みなさい」
「うん、母さん」
 クトルはうなずくと、部屋に戻っていった。ベッドの脇にひざまずき、夜空を見上げる。
 星がきれいだった。明日はきっと晴れる。旅立ちにはふさわしい朝になりそうだ。
 旅立ちか、とクトルはこの十年のことを回想する。オルテガのあとを継ぎ魔王を倒す力をつけるための修行の日々。その成果をようやく試せる日が来るわけだ。
 修行はそれなりに辛かったけど、別にいやというほどのことではなかった。自分が強くなっていくのを感じるのは嬉しかったし、他にさしてやりたいことのない自分にはいい暇つぶしになったし。
 それになぜだろう、クトルは昔から旅立ち≠ニいうものに不思議な憧れを抱いていた。旅が辛いものだということも、重大な使命を帯びた旅だということもわかっているけれど。
 クトルは時々自分がどうしてこんなところにいるんだろう、と考えることがあった。生まれた時からアリアハン育ちで母と祖父に育てられてきたのに、なんでそんなことを感じるのかはわからない。けれど自分と周囲の環境に言いようのない違和感を感じてしょうがないということがよくあった。ここは自分のいるべき場所じゃない、と体が勝手に叫ぶのだ。
 だからだろうか、クトルにとって旅立ちは憧れだった。旅立ったらなにか素敵なことがあるんじゃないか。自分の帰るところはそこにあるんじゃないか。そんな風に思えてしまうのだ。
 母さんやじいちゃんにあんなに心配してもらってるのに。
 窓から夜空を見上げながら、クトルは目を閉じて両手を組み合わせた。
「神さま、神さま。どうかお願いです。母さんとじいちゃんを守ってください。二人が寂しい思いをしないように、安全に楽しく暮らせるように」
 魔王を倒すのは自分の仕事だから、祈りを捧げる必要はない。しばし一心に祈って、最後にこっそり付け加えた。
「あと、明日からの旅で、僕が帰れるところが見付かりますように。楽しいことがたくさんありますように」
 そう小さく祈って、クトルは着替えてベッドに飛び込んだ。明日は本当に早いのだからいぎたない自覚のあるクトルは早く寝ることに決めていたのだ。
 どうなるだろう、明日から。どんな人と出会うんだろう? 僕の仲間にはどんな人がなってくれるんだろう?
 胸はわくわくと高鳴っていたが、頭は不思議に静かだった。自分はきっと明日からの旅で、なにかを見つける。
 そう思いながら深い眠りについた。魂の深いところで夢を見ながら。

 ラグナは常人ならばとうに倒れているだろう長時間、高速度でアリアハンに向けて走っていた。
 行かなければならない。アリアハンへ。
 加わらなければならない。勇者の仲間へ。
 なんでそんな風に感じるのかは自分でもわからない、けれどラグナの中でそれは絶対の決定事項だった。初めて勇者の存在を知った時から。
 ラグナには一年以上前の記憶がない。一番最初の記憶は極寒の地、レイアムランドでぼうっと立っていたというものだ。そこに船が通りかかり、救助されたのだ。
 ラグナは記憶がなかったが、武器の扱いは誰よりもうまかった。記憶を失う前は戦士だったのだろう、と言われ、自分ではよくわからなかったが、その船の人々の紹介で傭兵としての仕事を受けて生計を立てていた。
 だが、一ヶ月前、アリアハンの勇者の旅立ちが近づいているということを知った時、ラグナは『行かなければ』と思ったのだ。その勇者の旅に同行しなければ、と。
 生まれて初めて感じた衝動だった。行かなければ。行かなければならない、勇者のところへなんとしても。
「…………」
 ラグナは無言で、けれど常人には考えられないほどの速さで、月と星に照らされながらアリアハンへ続く道を進んだ。

「おやぁ、マラメちゃんもう店閉めちゃうのかい? 珍しいね商売熱心なマラメちゃんが」
「ちゃん付けしないでよ、ヒドゥンさん。俺はれっきとした男なんだから」
「はは、すまんすまん」
 少しも気持ちの入っていない謝罪にマラメは少しむくれた顔を作ったが、すぐ笑顔になって露天の片付けを再開した。自分の容姿が男とは思えないほどに美しいのはちゃんと自覚している。
 手入れしているわけでもないのに艶やかな桃色の髪に黄と灰色の神秘的な雰囲気をかもし出す金銀妖瞳。象牙にも絹にも例えられたことのある柔らかく白い肌。神の造った芸術品のようだと何度も讃えられた驚異的に整った顔貌に浮かべられる表情は、普段はガキっぽくてもときおり恐ろしいほどに艶っぽいと会う人みんなが口々に言う。
 それこそ、身の危険を感じたのが一度や二度ではないほどに。
 マラメはだからこそ、にっこり笑顔を浴びせてやるのだ。
「あ、イドゥンさん、俺明日からここに来ないから」
「へ? 河岸変えるってのか? 一番人通りの多い場所だってお前すごく気に入ってたじゃないか」
「ちょっと用事があるんだ。しばらくアリアハンを出ようかって思ってる」
「なんだよ……寂しいなぁ。せっかく可愛がってやってたのによ」
 マラメは一瞬ぎゅっと唇を噛んだ。さりげなく尻を触ったり、後姿をいやらしい目で見たり、まるで口説くような口調で妙なことを言い出したりするのを可愛がるって言えるって本気で思ってるのか?
 それでも自分はへらへら笑って受け流し、敵を作らないように生きねばならない。一人に敵視されたら芋づる式にその周囲の奴らにも敵視される。自分は人間社会の敵なのだから、耐えねばならなかった。
 だけど、それももう終わりだ。
「なんの用事なんだ?」
 後片付けを終えて荷物を背負いつつ、マラメはにっこり微笑んだ。
「ちょっと世界を救いにね」
「……はぁぁ?」
 仲間になれるかどうかはわからない。だけどマラメは色仕掛けしてでも仲間に加わるつもりだった。
 オルテガの息子、勇者クトル・グリームヒルト。彼のパーティに。

「では、行ってまいります、お母さま」
 アシュタは頭を下げた。母親譲りの紅の髪がさらりと落ちる。
「アシュタ。どうしても行くのですか?」
「はい」
「彼はもはや、あの人ではないのですよ? 人格も肉体もなにもかも違う。共有するのは魂だけなのですよ?」
 どこか悲しげな母の言葉に、アシュタは小さく微笑み首を振った。
「魂が同じであること、それこそが一番重要なのではありませんか? ――彼は、ロトなのですから。お父さまと同じように」
「アシュタ……」
 悲痛な瞳でこちらを見る母。それを自分を心配するがゆえと受け取ったアシュタは、にっこりと笑ってみせる。
「大丈夫です、お母様。私は下界の魔物に負けるほど弱くはありませんわ。遣い手≠焜鴻gのところへ向かっているようですし、万事はうまくいっています。私は彼の旅を導く光となれるはず。ロトを導く光に」
 アシュタは笑んだままくるりと背を向けた。
「では、お母さま。しばしのお暇乞いをいたします。すぐこちらに参れるように努力しますわ」
「……私がその時までここにいられればよいのですが」
「大丈夫。なにも心配することはありません。私がロトと共に参るのですから」
 アシュタはそう微笑んで、その場を立ち去った。
 ――勇者クトル・グリームヒルトの旅立ち前夜のことである。

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