ロマリア〜カンダタ――6
 カンダタはロマリアのスラムで、娼婦とそのヒモとの間に生まれた。
 金もなく、親からまともに愛情を受けたこともなく、当然のように道を踏み外して職業選択の儀の前から人から金を奪って活計を得ていた。金は奪うものであり、人は殴るものであり、女は犯すものだった。周囲の人間と同じように。そういう世界でしか生きてこなかったのだ。
 山賊を職業に選んだのは、自分の腕っ節の強さに自信があったからだ。人を傷つけずに金品を奪うことを上手とする盗賊ギルドのやり方はてんから馬鹿にしていた。金を奪うのなら相手を殺した方がいいに決まっているではないか、そうすれば相手は絶対にこちらの顔を知らせられないのだから。
 ロマリアのスラムで、一人夜歩きをしている人間を狙って犯行を繰り返した。大して実入りはないが、護衛がうじゃうじゃといる金持ちとやり合うには、さすがに分が悪いと思ったからだ。
 夜歩きをしている人間を襲い、時には警戒心の薄い商店に押し入り強盗をし、金品を奪い、相手を皆殺しにし、死体を適当な場所に放り出して、その金が尽きるまで酒をかっくらって女を買って暮らす。そういう生活を三十三の年まで続けてきた。
 転機が訪れたのは二年前だった。ずっとうまくやってきたと思ったのに、ある日とうとう衛兵に逮捕されたのだ。
 さんざん拷問を受けて罪を白状させられ、死刑が確定してカンダタはのた打ち回った。冗談じゃない、自分はまだ死にたくなんてないのだ。
 自分がなにをしたというのだ。ただ間抜けな奴らを襲って殺して金を奪っただけではないか。そんなことはみんなやっている、自分が悪いのではない。金がないなら奪うしか方法はないではないか。
 そう牢獄の中で人を、国を、世界を呪いながら喚いていると――
 ふいに、牢の中に突然人影が現れた。
 仰天するカンダタに、その人影は言った。
『お前が我々の命じた通りの行動を取るならば、ここから出してやろう』
 カンダタはなぜかその相手の顔を覚えていない。声が男か女だったかも判然としない。
 ただ、確かなのは、その言葉に勢いよくうなずいたカンダタは、次の瞬間ロマリアの裏路地に立っていたことと。
 これを通じて命令を出すと言われた、簡素な腕輪を自分が持っていたことだった。
『我らの命に従っていれば、我らはお前に力を与える』
 そしてすぐさま与えられた最初の命令は、城下でも有名な豪商の家に押し入って、その家の人間を全員殺し金品を奪うことだった。
 今までの自分なら絶対に降りているようなヤマだ。有名な豪商ともなれば警備の手も厳しいはず、自分一人でどうにかなるとは思えない。
 だが、カンダタは微塵も迷わず即座に実行を決めた。まるで熱に浮かされたように、腕輪の命令に従わねばと思ってしまったのだ。
 折よくその日は嵐だった。壁をよじ登って侵入し、寝ている奴らを片っ端から殺して金品を袋につめた。
 見張りに見つかりはしなかった。運がよかっただけではないだろう。本当に体の底から力が湧き出しているようで、隠密行動の技術も格段に向上していたのだ。
 そして見張りも一人一人殺していき――戦闘能力も向上していた――金品という金品を奪い尽くしてから脱出しようという時、ふと思いついて『カンダタ参上』と壁に書いた。
 たまらなく爽快な気分だった。自分はすごい。自分にはこんな豪商すらも相手にならないほどの力がある。なにもかもを思い通りにできるほどの力を振るうことができるのだ―――この腕輪の声に従ってさえいれば。
 それからもカンダタは腕輪の声に従い、仕事をこなしていった。小遣い稼ぎの小さな仕事を除けば、仕事は月に一回。どれも実入りは莫大だった。声に従ってシャンパーニの塔にアジトを構え、部下を集めた。仕事はどんどんと大きくなり、入ってくる金も比例して増えていった。
 シャンパーニの塔の魔物たちに襲われないことを部下たちは不思議がっていたが、カンダタは少しも不思議には思わなかった。自分にはこの腕輪の主がついている。あれはおそらくは神様か何かに違いないのだ。――魔界の神かもしれないが。
 だがそんなことはどちらでもかまわなかった。自分には神がついている。神の加護がある。これから先一生自分は官憲に捕まることもなく楽な盗賊稼業を続けられるのだ。もはや自分は盗賊ギルドのギルドマスターより金持ちに違いない。一月に一度働くだけで、王侯貴族のような暮らしができるのだ。
 カンダタは、そんな自分の今の環境に、心から満足していた。
 ――なので、子分の報告を聞いた時はまず面倒くさい、と思った。
「……俺を訪ねてきた奴がいる、だぁ?」
 カンダタの不機嫌そうな言葉に震え上がりながらも、子分はこくこくとうなずく。
「へい、俺らしか知らないはずの出入り口使ってアジトの中に入ってきて、親分を呼びやがるんでさぁ」
「どんな奴だ」
「男のガキです。細っこい、妙にきれーな顔した。一応剣は持ってるみたいっすけど、まともに使えるんだかどうか……」
「……ふん」
 顔をしかめて腕を組んだ。どうするか。何者かわからないというのが面倒だ。自分は腕輪に命じられた以上に働く気はない。命じられた計画を実行する以外は、酒をかっくらって女を抱いていたいのだ。
 だが、自分たちしか知らないはずの出入り口を知っているという以上、放っておくわけにもいかない。カンダタは座っていた椅子から立ち上がった。
「そいつはどこにいる」
「こっちでさぁ。出入り口前に待たしてます」
 先導する子分について、足早に歩く。シャンパーニの塔のアジトは相当に広かったが、カンダタ一味の人数はすでに三十六人にものぼるため、人口密度はそれなりに高く、途中で何人もの子分たちとすれ違った。
 そいつらは慌てて自分のあとについてくる。当然だ、頭目である自分が動く以上どこにでもついてくるのが子分の心得というものだ。自分はこいつらの支配者なのだから。
 内心ほくそ笑みながらも、ガキを待たせているという出入り口前までやってきた。
「………ほう」
 思わず口笛を吹きそうになった。そのガキは本当にきれいな顔をしていた。男娼かと思ったほどだ。文句のつけようがないほど整った顔の部品が絶妙な配分で配置されており、泣きそうに潤んだ大きな瞳がまた男心をそそる。
 こんな奴ならどう転んでも厄介なことにはなるまい、と踏んで、カンダタはにやりと笑って子分が持ってきた椅子にどすっと腰掛けた。それを見ていた少年がきゅっと拳を握り締めて、一歩前に出る。
「あの……あの、あなたがカンダタさん、ですか」
「おうよ。ロマリア中にその名の知れた大盗賊、カンダタ一家の大親分たぁ俺のことだぜ」
 ふんぞり返ってそう答えてやると、少年は一度唇を噛んでから、頭を下げて言った。
「はじめまして、俺、セオ・レイリンバートルって言います。今日はお願いがあって、ここに来ました」
「ふん」
 金かそれとも仕事に一枚噛ませてくれと頼むか。しかしこの細っこい少年ではとても盗賊の仕事は無理そうだ―――
「あの……お願いです、みなさん、自首して、ください………!」
『………はぁ!?』
 その場にいる全員が声を揃えた。なにを言っているのだ、こいつは?
「てってってめぇなに抜かしてやがんだアァ!?」
「ロマリア一の盗賊団、カンダタ一家に向かってェ……」
「自首しろだぁ!? 舐めとんかコラぁ!」
 子分たちにいっせいに怒鳴られ、セオという名らしい少年は涙目になった。だがそれでも退かずに必死に言う。
「お願いです……自首してください。みなさんがやっていることがよくないことだっていうのは、みなさんもよくわかってるはずです……! お金がない時に持っている人から盗むのはどうしようもない時の手段として考えられるかもしれません、でも、お金を得るために人を殺すのは、絶対に間違ってるはずです………!」
「はァ? てめぇざけんなコラァ!」
「てめぇなんぞが口出すことじゃねぇんだよクソガキが!」
「何様のつもりだ阿呆が!」
 子分たちに喚かれても武器を抜かれても、少年は同じことを繰り返した。今にも泣きそうに目にいっぱい涙をためつつも。
「お願いです……みなさんが殺した人たちにも人生があって、みなさんと同じようにいろんなことを感じて、考えて、生きたいって思ってたんです。まだまだ生きていられるはずの人たちだったんです。そんな人たちを殺すのは、よくないことなんです……だから、お願いですから、罪を、ちゃんと償ってください………!」
「んだコラてめぇ……!」
 いきり立つ子分たちを手で制し、カンダタは少年に近寄った。真剣な表情を作り、腰に手を当てて威圧的な体勢を取る。
 びくん、と震える少年に、カンダタは低く言った。
「おい、ガキ。それなら聞くがな。俺らの命はどうしてくれるんだ?」
「え……?」
 きょとんとした表情をする少年。
「ロマリアの法律じゃ俺らが自首すりゃまず間違いなく拷問の末処刑される。それでもお前は俺たちに自首しろってのか?」
「…………!」
 少年の顔からさーっと血の気が引いた。唇を震わせながら、泣きそうに目を潤ませながら、必死にこちらに向けて言う。
「でも……でも! 人を殺した罪は、償わなきゃならないと、そう思って……!」
「ほう。罪とやらを償うためなら俺たちが死んでもいいってか?」
「そんな……そんなの、違います……! 死ぬんじゃなくて、罪を、償って、ちゃんと生きていかなくちゃいけないって……! だから、自首するんでなくても、今まで人を殺した分、人を傷つけた分の償いを、生きて、人を救うこととかで果たしてほしいって……」
『…………』
「ごめんなさい、ごめんなさい、偉そうなことばっかり言って、でも俺、あなたたちだって本当は人を傷つけて生きたくなんか、殺して生きたくなんかないって、本当にそう思うから、ちゃんと償って、それから幸せに、本当に誰はばかることなく幸せになってほしいってそう思うから―――」
「―――ぎゃーっはっはっはっはっは!!!」
 カンダタに大笑されて、少年はびくりと震えた。
「あ、あの………?」
「おいお前ら、聞いたかこいつの台詞? 笑かしてくれるよなぁ!?」
「くくっ……そうっすねぇ、なに言ってんだこいつ」
「ギャハハハハハッ! バッカじゃねぇのこのガキ? なに抜かしてやがんだ?」
「よっぽどおきれーなとこで暮らしてやがったんだな……ムカつくぜ」
 ある者はカンダタと同じように大笑し、ある者は嘲笑し、ある者は唾を吐き捨てて短剣を抜く。少年はおろおろとうろたえながら、必死にカンダタに語りかけた。
「お願いです、俺の話を聞いてください、あなたたちだって人を傷つけないで生きたいって思うでしょう? 世界中の人たちと仲良くちゃんと向き合って生きたいって思うでしょう? 今の生活のままじゃよくないって思うでしょう? ごめんなさい生意気なこと言って、でも、でも、人を殺して、盗んで活計を得るっていうのは、やっぱり、やっぱり、間違ってるって―――」
「おい、ちっとこっち来いや、ガキ」
「え……は、はい」
 素直にとことこと近寄ってきた少年の肩を、くっくっくと笑いながらぐいっとつかむ。
「てめぇはもーちっと世間ってのを知っといた方がいいなぁ……」
 されるがままの少年の腕に力を入れ、ゴキゴキィ! と音を立てて関節を外した。
「あ………!」
 叫び声を上げて膝を突く少年にくくっと笑いかけ、子分に目配せをして荒縄を持ってこさせる。そしてそのぶっとい荒縄でぐるぐると少年を縛り上げ、床に転がした。むろん、関節は外したままだ。
「さーて、どうしてほしい? 生きたまま腹かっさばかれて内臓取り出されるか、それともナイフ投げの的にされて何本で死ぬか試されるか?」
「その前に焼いた斧で手足ぶった切って達磨にしちまいましょうよ!」
「それより自分の手の肉食わせてやるってのはどうですか?」
 囃したてる子分たち。少年は呆然とした顔でこちらを見上げ、震える唇で言う。
「な……んで、こんな、こと………」
 カンダタはこの期に及んで聞いてくるこの少年に、爆笑したくなる気分を抑えて答えてやった。
「てめぇは本気で阿呆だな。盗賊団の根城に自首しろって勧めにきやがるなんざ、殺されたって文句言えねぇってのもわかってねぇのか?」
「でも……! あなたたちだって、本当は、人を殺したいなんて思ってるはず――」
「ぎゃーっはっはっは! まだ言ってやがるぜこのガキ!」
「本気で頭足りねぇんじゃねぇか?」
 カンダタはくっくっく、と笑いながら、がすっ、と少年の腹に丸太のような足で蹴りを入れた。
「…………!」
 一瞬呼吸の止まった少年に、今度は顔に蹴りを一発。鼻の骨が、歯が折れて、血が大量に噴き出した。
「馬鹿かてめぇは。俺たちゃそんな甘ちゃんじゃねぇんだよ。人殺しなんざなんとも思ってやしねぇ。いや、いい暮らしをしてる奴らを殺せるってのはむしろ嬉しいね」
「…………!」
「この世の中にはな、いちいち人殺すのに大層な理由なんざいらねぇ奴らってのがいるんだよ。俺たちみてぇにな」
「そんな……だって、同じ、人なのに……言葉が通じて、話し合える、人なのに………!」
「だから?」
 にやにや笑いながら言ってやると、少年はぶわっと目に涙を浮かべ、それでもしつこく言ってきた。
「お願いです、ちゃんと考えてください。殺すのは、よくないことなんです。命を奪うっていうのは、生きている存在の命を必要もないのに刈り取るっていうのは、絶対にしちゃいけないことで―――」
「あーあーうるせぇなぁこのガキは」
 カンダタはしゃっと短剣を抜き、少年の顔を横向きにさせると――短剣で少年の両頬を、一気に貫いた。
「……………………!!」
 声にならない絶叫を上げる少年に、嘲笑を浮かべながらぺっと唾を吐きかけてやる。
「世間知らずの幸せな坊ちゃんよ、いいこと教えてやるよ。世の中にはな、正しさなんて必要としてねぇ奴らが、五万といるんだよ」
「あ………が………」
 ぼろぼろ涙を流しながら見上げてくる少年をふんっと鼻で笑ってまた一蹴り入れ、カンダタは火かき棒でも持ってくるかと暖炉に向かい歩き出した。

「……見張りがいやがるな」
 ちっと舌打ちしたフォルデに、ロンは軽く笑って言う。
「そのために俺が来ているんだ。そう心配することはない」
「……うるせぇな。別に心配なんてしてねぇよ」
 ぶすっとフォルデが言うと、ロンは薄笑いを浮かべたまま肩をすくめた。本当にいちいち腹の立つ奴だ。
 今フォルデたちはカンダタ一味の宝物庫に忍び込んでいた。今頃勇者は一番大きな入り口に真正面から乗り込んでいるはずだ。ラグは外で待機しているだろう。
 作戦はこうだ。まず勇者が正面から乗り込み、カンダタを自首するよう説得しようとする。そうしてカンダタはじめ盗賊団の奴らをできるだけ多くひきつけている間に、フォルデとロンが別の入り口からこっそり忍び込んで盗賊団の宝物をごっそりいただく。
 フォルデとロンが撤退したら花火で合図をし、ラグが煙幕を焚きながら突入して勇者と共に撤退。もちろん対煙幕用の暗視眼鏡も準備してある。
 そして合流して全速力で逃走し、ある程度距離を置いたところで追ってきた盗賊団員を各個撃破。
 この作戦になったのは、勇者の主張と本来の目的と兼ね合いだった。どうしても戦う前にカンダタと話をしたいと主張する勇者と、安全確実に目的を達成しようという現実の目的と。その双方を叶えられる作戦を、ラグとロンが考えたのだ。
 フォルデはまたこのボケ勇者を甘やかしやがってと思ったし、口に出してもそう言った。勇者は毎度のごとくごめんなさいと泣いたが自分の主張を撤回しようとはしなかった。
 その上腹が立つことに、潜入するなら自分一人の方がいい、ロンは足手まといだと言ったフォルデにラグがこう言ったのだ。
「フォルデ、君はまだレベル11だ。向こうにはそれ以上のレベルの人間が最低でも五人いる。それがわかっているのにたった一人で行くのは無謀だと思うよ。見張りがいた時に声を立てさせずに倒すのも、君と同等かそれ以上のレベルの人間が相手じゃ難しいだろう?」
「俺が足手まといになる心配はしなくていいぞ。俺は師匠に濡れた紙を破らずにその上を歩くって修行をさせられたことがあってな、音を立てずに歩く技術はそこそこあるつもりだ。気配を殺す技術は武闘家も普通に積むしな」
 そう言われると納得せざるを得ず、こうして腹の立つ武闘家と一緒に潜入しているのだが。
 まったく腹立たしい。自分が動いている作戦が、あのボケ勇者の主張から来るものだというのが非常に腹立たしい。
 なんで自分があんなクソ勇者のために動かなくてはならないのだ。自分はあんな奴なんかのために、指一本だって動かしたくはないのに。
「――おい、フォルデ。聞いてるか」
 フォルデは声をかけられてはっとし、ぎっとロンを睨んだ。
「なんだよっ」
「ここで待ってろと言ったんだ。俺があの見張りをやってくる」
 確かに向こうが一人である以上ロンがやった方がいいに決まっている。盗賊の専門である潜入行で主導権を握られていることにむかっ腹を立てつつも、フォルデはぶすっとうなずいた。
 ロンは軽くうなずくと、軽く呼吸を整え――だっと素早い動きで見張りに肉薄した。見張りが気がついて慌てて呼子を吹こうとするが、それより早く口を押さえて延髄に一撃を入れる。
 がっくりと倒れ伏す見張りにだらしねぇのと嘲笑しつつ、フォルデは走った。急いで宝物庫の宝物を根こそぎ奪い取らねばならない。
 見張りから鍵を奪い取って扉を開け、中に入る。思わずひゅう、と口笛が出た。
「すげぇな、こりゃ」
「半端でない荒稼ぎをしているな。盗賊ギルドに嫌われるわけだ」
 今まで見たこともないほど大量の貴金属、宝石、ゴールドに美術品。魔法具魔道具の類までどっさりありそうだ。
 だが今は品定めをしている時間はない。片っ端から道具袋の中に入れていく。
 実際道具袋というのは便利なものだ。重さや大きさを無視して、同じ種類のものを99個まで中にしまうことができるのだから。これがなければ交易も運搬も盗賊稼業も、今よりずっと困難だっただろう。
 作業が終わるまでにかかった時間はせいぜいが千数える程度だっただろう。おそろしく大量の宝物をしまう時間としては上出来だ。
 小走りに宝物庫を出る。あとはとにかく急いで行動するしかない。
 通ってきた道を足早に戻る――と。
「待て!」
 フォルデは小さく叫んで、ロンを押しとどめた。
「どうした」
「声がする。誰か向こうの部屋にいる」
「なに?」
 聴覚に集中しようとしてか一瞬目を閉じてからまた開き、ロンは訝しげな顔をした。
「確かにするが……これは俺たちの通る道からは外れているんじゃないか。音のする方向が微妙に違う」
「……………」
「盛り上がって騒いでいるようだからその横を通り抜けていけばいいだろう。むしろ好都合だろ、気づかれにくくなるんだから」
「……………」
 確かにそうだ。今自分たちがすべきことは迅速に撤退すること。よけいなことに気を逸らすのは阿呆のすることだ。
「………………」
「フォルデ?」
 足を止めた自分にロンが眉を寄せる。それはわかっていたが、足が動かなかった。
 なぜだろう、気になる。あの向こうから聞こえる声がひどく気になるのだ。あの声を放っておいたらいけないような、あの声のところに今すぐ駆けていかなくてはいけないような、そんな気がしてしょうがないのだ。
 気のせいかもしれない。ただの勘だ。間違っていたら取り返しがつかなくなる、だが―――
「お前先行ってろ。あとから追いかける!」
「フォルデ!?」
 フォルデは小さく声を上げたロンを無視して走った。騒ぎの大きさからその声の主はさして遠くないところにいるとわかる。
 ただの勘だ――だが自分の勘も信じられないで盗賊ができるか!
 成人してからはこれまで誰にも負けたことのない自慢の足で音を殺しながら走り、騒いでいる部屋の前までやってきて、見張りがいないのを確認してから、そっと部屋の中を覗き込んだ。
 ――そして絶句した。
「おらおら、なぁにやってんだヘジィ! さっきから外れてばっかじゃねぇかよぅ!」
「黙ってろや、次こそ当ててやらぁ! おーらよ、っと!」
 一人の盗賊がナイフを投げる――そのナイフがざくっと的の腹に突き刺さる。的の少年が呻き声を上げた。
「やぁっと得点かよ。ほぅれ、好きなとこに跡つけな」
「おうよ。そうだな……ここはどうだ!?」
 少年にナイフを突き刺した盗賊が、燃え盛る松明を渡されてそれを少年の股間に押し付ける。少年は声にならない声で絶叫した。
 なんで声にならないのか、数秒観察してようやくわかった。少年は頬に、短剣を突き刺されているのだ。右の頬から左の頬へ、突き通すように。あれではとても大声は上げられまい。
 三十人はいる盗賊たちは、少年の周りで囃したてながら少年の体にナイフを投げている。それで得点を競っているらしかった。――人の体を傷つけて遊んでいるのだ。
 すでに少年の体には何本もナイフが突き刺さっている。身動きが取れないようにぐるぐるに縛り上げられた少年は、さらに背後の木の板に手足を太い釘で打ち付けられていた。
 そんな風に、今にも死にそうなまでに、残忍という言葉では言い足りないほどに痛めつけられていたのは――自分たちのパーティの勇者、セオ・レイリンバートルだった。
 十数秒真っ白な頭で黙ってその光景を見ていた。見ている光景が頭の中で現実と結びつかなかったのだ。
 それから目の前が真っ赤になって、すぐさま部屋の中へ飛び込もうとする――その肩を誰かにつかまれた。
「!」
「待て。騒ぐな」
 反射的に腰の短剣に伸びた手を押さえ、口も押さえて自分を壁に押し付けたのはロンだった。全身の力をこめて暴れる自分を巧みに押さえつけ、ロンは顔を近づけて囁く。
「今出て行ってどうするつもりだ。セオを助けようというのか?」
 なにを当たり前なことを言っているのだこいつは。フォルデは渾身の力をこめてロンを睨みつけた。
「やめておけ。今あそこに出て行くのがどういうことかわかっているのか? 盗賊団のほぼ全員と真正面からぶつかることになるんだぞ」
 それがなんだというのだ。勇者が、あいつが、今にも死にそうになっているのを放っておく気か。
「別にセオを助けるなと言ってるんじゃない。セオが死んでから、放り出されたその遺体を回収した方がはるかに安全だと言ってるんだ」
「!」
 なにを言っているんだこいつは! 暴れだそうとしたフォルデを、それでもロンは巧みに押さえ込む。
「いいか、フォルデ。忘れたのか、勇者は死んでも絶対に蘇生できるんだ。遺体さえ回収できればな。それならセオが死んで、盗賊たちが興味を失って立ち去ってから遺体を回収して蘇生するのが一番安全な策だ」
「………!」
 だからって。だからって。
 だからってあいつをあんな真似されたまま放っておく気か!
 フォルデは必死に暴れる。こんなことをしている場合ではないのだ、一刻も早くあの情けないボケ勇者のところに行かなくては―――
「フォルデ。なにをムキになっている」
 間近にあるロンの顔が、じっと自分を見つめている。
「お前はセオが嫌いなんだろう? しょっちゅう怒鳴りつけて殴ったこともあったはずだ。そんな大嫌いな、甘やかされた坊ちゃん勇者のセオが、痛めつけられようが殺されようが、お前がそこまで怒ることか? 本当に死にはしないんだ、蘇れるんだから放っておけばいいんじゃないのか?」
「………………!」
「フォルデ――セオはお前にとってどういう存在だ?」
「―――――――」
 ロンは真剣な瞳で聞いてくる―――
 一瞬、わずかに手の力が緩んだ。そう感じたフォルデは、全身のバネを使ってロンの手を跳ね除け、叫ぶ。
「うるせぇっ!」
 そしてだっと部屋の中に駆け込んだ。
 盗賊――こんな奴らに盗賊なんて言葉を使うのはもったいない、馬鹿どもでいい――どもが驚いたようにこちらを見つめる。フォルデは全速力で勇者に向かい走った。
 勇者にナイフを投げていた馬鹿が目を丸くしてこちらを見る。体の奥底から真っ黒い衝動が立ち上ってきた。フォルデはその衝動に身を任せ――
 その馬鹿の喉を、短剣で切り裂いた。
 ぷしゅーっと喉から血を噴き出させて馬鹿その一が倒れる。人を殺したのは初めてだったが、嫌な気分になったりはしなかった。むしろスカッと爽快な気分だ。
 勇者に駆け寄って全身の力をこめて打ちつけている釘を抜く。大して強く打ち付けてはいなかったようですぐに抜けた。ぐったりと倒れこんでくる勇者を支えて、頬に突き刺さった短剣を抜く。どばっと血が噴き出した。
 勇者が虚ろな目でこちらを見つめながら、なにか呟いている。聞く気はなかったが、フォルデの優秀な耳はしっかりと勇者の言っている言葉を捉えてしまった。
「ごめ……なさ……に、げ……」
 たまらなく頭に血が上った。なにを言ってるんだこいつは。まともに喋れないぐらい痛めつけられてるくせしやがって。なんでこの期に及んで謝ってやがるんだ。
 背後に気配が迫っているのに気づいた。ばっと勇者を抱えながら転がってかわす。
 かろうじて、というレベルでなんとか身をかわしたその攻撃を放ったのは、ラグと張るほどの大男だった。カンダタだ、と一目でわかった。周りの奴とは一人、威圧感が桁外れだ。
「てめぇ、そいつの仲間か?」
 にやけながら斧を手の中でもてあそぶカンダタに、勇者を床に置いて身構えた。カザーブで買ったチェーンクロスを準備し、愛用の聖なるナイフを構える。
「いい度胸してるな、小僧。だがまぁカンダタ盗賊団の根城に押し入ったからにゃあ、五体満足で帰れると思うんじゃねぇぞ?」
「ぐだぐだ抜かしてんじゃねぇ、とっととかかってきやがれ抜け作。てめぇごとき三下に偉そうな口叩かれる覚えはねぇよ」
「……んだとコラぁ……ぶっ殺すぞ!?」
「それはこっちの台詞だぜ」
 ぐっと一歩を踏み出そうとした直前、足に弱弱しく手が触れた。
「………!?」
 勇者だ。勇者が、ぼろぼろの体で、血を流している手で、フォルデを押しとどめようとしている。
「フォ……ルデ、さ……逃げ、て、くださ………」
「てめぇろくに喋れもしねぇくせに一丁前なこと言ってんじゃねぇ! 黙って転がってろボケタコ!」
 怒鳴ると、勇者の顔が泣きそうに歪み、首を振った。
「おれ……なんかの、ため、に……フォル、デさんが……人を、傷つけ、たりしちゃ……駄目、です………」
「………なに?」
「フォルデ、さんは、やさしい、のに……人を、傷つけたり、しちゃ、フォルデさんが、傷つ………俺なんかの、ために、生き、て、いるものを、殺しちゃ、だめ……にげ、て……」
「――――」
 フォルデは数瞬、言葉を失った。頭の中が真っ白になった。
 そして――これまでの人生で一度も味わったことがないほどの怒りが、今までこの勇者といると何度もそんな思いをしてきたけれども、それよりさらに層倍するほどの激甚の怒りが、体中から湧き出してきた。
「―――今お前がそんな体じゃなかったら、殺す気でぶん殴ってたな」
 そう低く言うと、勇者は顔を歪める。
「ごめ……な、さ………」
 勇者はおそらくたまらなくすまなく思っているのだろう――だが、自分がなぜ、どれだけ怒っているかということは、おそらく全然わかっていない。
「そのガキは逃げろって言ってるぜ、坊主?」
 にやにやと言うカンダタに向き直る。体中が沸騰するほどの怒りに満たされ、なのに頭の中はたまらなく冷えていた。心と頭が凍てついていた。まるでナイフを胸に突き刺されて、死にかかっている時のように。
「―――黙ってろ、クソ野郎」
 チェーンクロスを大きく振り上げる――
 その瞬間、視界が塞がれた。
「げほっ! なんだっ!?」
「ぐぇほっ! か、火事か!?」
「煙だっ、げほっ!」
「馬鹿野郎煙幕だっ、早く暗視眼鏡持ってこい!」
 一瞬呆然としたフォルデの手を、誰かがぐいっと引っ張った。
 反射的に抵抗しようとしたが、その手が優しくぎゅっとフォルデの手を握った感触にはっとして抵抗をやめた。
 ――ロンの手だったのだ。
 手を引かれるままに部屋を出て、走る。ラグがいたので(もともと動きが遅い上鎧を着込んで勇者を背負っている)全速力とはいかなかったが。
 走りながら小声で訊ねた。
「おいっ、お前なんでいんだよ? ボケ勇者は死んでから回収すんじゃなかったのかよっ?」
「仲間を助けるのに理由がいるか?」
 すまして答えるのに顔をしかめる。
「てめぇ、さっきと言ってることが全然違ぇぞ」
「そりゃそうだろう。俺は大人で、嘘つきだからな」
 言われたことを数秒考えて、ぎっとロンを睨みつける。
「てめぇ……俺を、試しやがったな!?」
「ご名答」
 ロンはあくまで涼しい顔だ。殴ってやりてぇ、とフォルデは拳を握り締める。
 最初っからロンは勇者を助ける気だったのだ。なのに、助ける前にフォルデが動くかどうか試した。フォルデは勇者を嫌っている。それでも勇者を仲間とみなして助けに行くかどうか―――
「ま、俺もあんな奴らにセオをいいようにさせておく気はないからな。かといってただ真正面から助けに飛び込んでいっても潰されるだけだ。で、お前に時間を稼いでもらってラグを呼びにいくことにしたわけだな」
「………ざけやがって」
「怒るな。突っ込んでいく若者の援護をするのが大人の仕事だ。……まぁ、俺も突っ込んでいきたくはなったがな。―――あいつらは全員殺す気でやるぞ、俺は」
 最後の言葉はすうっと声が低くなった。こいつ怒ってやがる、とフォルデは思った。感情を読ませないロンだが、今思いきり怒っているのはわかる。さっきから一言も発しないラグも、明らかに苛烈な怒りを体中から発散している。
 ――自分もそんな風に怒っていたのに。
 フォルデは唇を噛んだ。怒りは薄れていないが、ひどく嫌な気分だった。
 猫を思い出していた。アリアハンにいた頃、親方から独立して一人暮らしをしていた頃に、怪我をした野良猫を拾った時のことを。
 その猫はひどく警戒心が強く、どんなに必死になってもフォルデの用意した餌は食べようとはしなかった。怪我の手当てをしようとするたびに死ぬほどに暴れた。
 結局その猫はフォルデの手を決して借りることなく、拾ってきて三日で死んだ。それからフォルデは決して動物は飼わなくなったのだ。
 胸が、ひどくすぅすぅした。
「ロン、フォルデ。気づいてるか」
「なににだ」
「敵さん、追いついてきてるぞ。……すまん、俺のせいだな」
「なに、予測のうちだ。予定の場所に逃げ込んでやるぞ」
「ああ」
 予定の場所――あそこか、とフォルデは思考を巡らせた。シャンパーニの塔の中で戦わねばならなくなった時戦う場所だ。ひとつしか出入り口がないどん詰まりの部屋で、出入り口が狭い。つまり一度に何人もを相手しなくてすむわけだ。
 背後から足音が聞こえてくる頃になって、フォルデたちはその部屋に飛び込めた。ラグはそっと勇者を床に下ろし、武器を構えて出入り口の前に立つ。ロンもその隣に立った。
「フォルデ、お前はセオの手当てをしてくれ」
「はァ!? なんで俺が!」
「戦力として一番抜けて困らないのはお前だろうが。セオが回復すれば回復呪文が使えるようになる、それだけで格段に生き残れる確率は違うぞ」
 フォルデは舌打ちして横たわっている勇者に近づいた。手持ちの道具袋から薬草を取り出す。
 普通店に売っている薬草というのはただの薬ではない。魔化された肥料を使って作られた魔法の薬だ。
 魔法といっても数百年も前に大量生産が可能になった肥料なので、わずか8ゴールドで手に入るほど安価な薬なわけだが、効き目はすごい。怪我をした場所に塗ればあっという間に傷を癒してしまうのだ。
 むろん深すぎる傷には効き目は薄いが、死んでさえいなければ薬草を大量に使えばいつかは治る。ラグに言われて薬草を大量に買い込んでいたのが幸いしたわけだ。
「ごめ……な、さ……俺、おい……逃げ、て、くだ……」
「黙ってろ」
 薬草を手足の傷に、腹の傷に、顔の傷に塗りこむ。帯を外すのが面倒だったのか鋼鉄の剣は腰につけられたままだったが、鉄の鎧は当然取り去られていた。
 たっぷりと塗るとみるみるうちに傷が癒されていく。頬の傷も跡が残らずきれいに治っていくのを見て、フォルデはほ、と息をついた。歯や鼻の骨は相変わらず折れたままだったが、回復呪文を使えば治るだろう。
「――てめぇらよう……なかなか舐めた真似しくさってくれるじゃねぇか?」
 カンダタの声が部屋の中に響いた。追いついてきやがったか、とフォルデは立ち上がって部屋の出入り口に走った。
「それはこちらの台詞だ。――俺たちの仲間をあれだけ傷つけた落とし前はつけさせてもらう」
「言っておくが、泣いても許してやらんぞ?」
 低く這うようなラグの声音と違い、ロンの声はあくまで軽い。――だが、フォルデはその底に煮えたぎるような怒りを感じ取った。
「俺らの宝物庫の宝根こそぎ奪いやがったのはてめぇらだろうが? ま、てめぇら全員ぶっ殺して取り返させてもらうがな」
「やれるもんならやってみやがれ、表六玉」
 ロンの横に進み出ながらフォルデが言う。――カンダタに自分のもやもやを全てぶつけてやるつもりでいた。
「でかい口叩きやがるじゃねぇか、小僧がよう。――命乞いの声を聞くのが楽しみだぜ」
 カンダタが斧を振り上げる――
「――待ってください!」
 自分たちの後ろから、そんな声が聞こえた。
「セオ! まだ休んでいなくちゃ……!」
「いえ、あの、大丈夫です……! 俺なんかより、今は、カンダタさんと話を、しなきゃ……!」
 ふらふらになりながらも立ち上がり、カンダタの前に立とうとする。それをロンが押しとどめた。
「退がっていろ。今の君じゃこいつの相手にはならん」
「そうですけど……俺なんかじゃ届かないに決まってますけど……それでも……!」
 勇者は足をふらふらさせながら、目を潤ませながら、カンダタを見つめて言った。
「お願いです、カンダタさん……罪を、償ってください………!」
『………はぁ!?』
 妙なことを言い出した勇者に、その場にいた全員が目を丸くした。
「カンダタさんは、正しいことを必要としてないのかもしれません。でも、世の中で正しいってされていることは、理由がなく正しいとされているわけじゃないんです! 太古から何度も何度も心の赴くままに争いを繰り返してきた人間が、血を流しながらお互いが傷つかないですむように考え出された知恵なんです! 間違っていることをしている人間は、間違った方法で傷つけられても文句が言えな―――」
 フォルデは全力で、勇者を殴っていた。
「っ……フォル、デさ………?」
 きょとんとした顔でこちらを見る勇者。こいつは本当になにもわかってねぇんだ、と思うと腹の底と目の奥が焦げつくように熱くなった。
「この……クソ馬鹿野郎………!」
 たまらなかった。この勇者は、この大馬鹿者は、あれだけ痛めつけられて、説得に行ってあれだけ手ひどく裏切られて、それでもまだ、説得しようとするのだ。人を傷つけるのは間違っているとかいうお題目のために。殺されかかった相手に、正しさを説くのだ。
 なんでそんな風なんだ。どうしてこいつは、こっちの気も知らないでそんなことが言えるんだ。
 腹が立つとか悔しいとか殺してやりたいとか、そんな思いが体中でぐちゃぐちゃになって、もう―――たまらなかった。
「――てめぇがどんなことを抜かそうと俺はこいつを殺す。殺したって少しも後悔しやしねぇ。止められるもんなら止めてみやがれ力づくで!」
 叫んでフォルデはカンダタに突撃した。本来ならフォルデの戦い方はチェーンクロスで牽制しつつナイフで急所を狙うというものだったが、体中が捩れてしまいそうでとてもそんな悠長な戦い方をしている余裕なんてなかったのだ。
 自分の全速力でナイフを喉に突き立てようとする――その瞬間、カンダタがにやぁ、と笑った。
 ―――ずばっ。
 そんな妙に爽快感のある音がした、と思うと、体中から力が抜けた。立てなくなって床にくずおれた。なんでだ、と自分の体を見てみて、自分の体がばっさりと斬り裂かれているせいなのだ、とわかった。
 なにをやっているんだ、とフォルデは自分を叱咤した。自分はこんなところで死ぬわけにはいかないのに。魔王を倒すって決めたのに、カンダタを殺すって決めたのに。
 あのボケ勇者を、死ぬほどぶん殴ってやるって決めたのに。
 頭がくらくらして、目の前が少しずつ暗くなってくる。ラグとロンがこちらに駆け寄ってくるのが見えた。その向こうに、勇者の――セオ・レイリンバートルの顔が見えた。
 泣いているのか、と一瞬思った。目が潤んでいたからだ。
 だが、勇者の顔は無表情だった。すとん、と顔から表情が消えていた。妙だな、と思った。あいつは泣いた顔か泣きそうな顔か困った顔かしか見せないが、あんななんにもない、ぞっとするような欠けた顔なんかしなかったのに。
 勇者の顔が震えているのが見えた。なんでだろう、遠くなる意識の中でそこだけははっきり見える。なんにも感情が感じられない、空っぽの顔ががくがくと震えるのだけは。
 震えが最高潮に達した瞬間―――
 勇者の姿が消えた。

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