カザーブ〜ノアニール――4
「異端審問官? なんだそれは」
 ロンの声は相変わらず冷たい。少女――エリサリはびくんと震え、堰を切ったようにまくし立て始めた。
「え、えっとですね、私はこんな格好をしていつつもエルフなんですが――」
「見ればわかる」
「は、はいぃ。で、で、エルフたちはさっきそちらの勇者様がおっしゃった通り、人間たちをすごく警戒してるんです。いつ人間と戦争になってもおかしくない、ってくらいに」
「それで」
「え、えと、だからあの、白の森≠フエルフの中で、若くて力のある者は、異端審問官となって人間の街に降り、人間の動向や勇者の動向を監視することになってるんですっ! だから私はアリアハンでもあなた方のあとを追いかけていたわけで……」
 最後の方はごにょごにょと小声になったエリサリに、ロンは冷静というより冷淡な声で問いただす。
「一応の筋は通っている。だが、だからといってこそこそあとをつけまわされるのを容認できるほど俺はお人よしではなくてな」
「ひっ! あ、あの、なにするんですかぁっ!?」
「さて、どうするか。腕の一本でももらっておくか?」
 そう言ってひょいと空いている方の腕でエリサリの腕をつかむ。悲鳴を上げるエリサリに、思わずセオは叫んでいた。
「あ、あのっ!」
 視線が集まる。一瞬思わず体が固まったが、これは言わなければとセオは必死で口を動かした。
「あの、ロン、さん。その人を、放して、あげてください。お願い、します」
「なぜ。エルフの勝手な都合で追い回されたんだ、その腹いせをこっちが勝手にやってなにが悪い」
「わ、悪いですよ圧倒的に私あとをつけただけでなにもしてないでしょてゆーか暴力反対ー!」
 じたばたと暴れるエリサリ――泣きそうになりながらも、セオは少女に必死に安心してくれ、と視線を送りつつロンに言った。
「ロン、さん。ロンさんは、別に、本当に怒っているわけでは、ないでしょう?」
「なに?」
 目を細めるロンの顔にびくつきながらも、必死に言う。
「脅迫まがいの、手段で優位に立って、できるだけ情報を引き出そうと、してるんですよね?」
「……さてな。単純にこの女が気に食わんからいじめているだけかもしれんぞ」
「い、いじめは格好悪いですよっ!?」
「ロンさんは、そんなことを望んでするような人じゃ、ありません」
 きっぱりと言うと、ロンの表情が苦笑の形に歪められた。
「……セオ、俺をそんな風に信頼されても困ってしまうんだがな?」
「ロンさんは、すごく優しい人です。だって俺に、いつもあんなに優しくしてくれるじゃないですか。……だから、いくら情報を引き出すためでも、そんなに無理をして、悪ぶること、ないです。エリサリさんは、そんなことしないでも、ちゃんと話してくれます。……ですよね?」
 問いかけるようにじっとエリサリを見つめると、少女はしばしぽかんと口を開け自分を見つめ、それからなぜか顔を赤くしてこくこくとうなずく。安心して思わず顔が歪んだ。
「ね、だから、大丈夫です。無理して、悪いこと、しないでも」
 そう訴えると、ロンは苦笑をますます深くして、エリサリの首根っこをつかんでいた手を放した。エリサリがどさっと地面に落ちる。
「……セオがいい子でよかったな、女? 慰謝料はいくつかの質問で勘弁してやる」
 セオはほっとして、また顔を歪めた。エリサリの顔がぱっと赤くなったのをなぜだろうと思いつつも、セオは心からほっとしていたのだ。この優しい人に、人を傷つけさせずにすんで。

「それでえっとあのー、質問というのはどのよーなものなんでしょーか……?」
 エルフたちに話をしているところを見つかってはまずいというエリサリの言葉に従い、セオたちはエルフの村を出た。静かな森をしばらく進んで木々の隙間にできたごく小さな広場に腰を下ろし、エリサリと向き合う。
 おずおずと聞いてきたエリサリに、ロンはふふんと鼻を鳴らしラグは考えるように首を傾げフォルデは少し顔をしかめた。おそらくはどう対処していいか戸惑っているのだろう。フォルデは強い相手にはどこまでも強気になれるが、柔らかく対応されると戸惑ってしまうようだから。
「少なくともお前が今まで何人の男を咥え込んだかなんてことではないことは確かだな」
「は……はぁっ!?」
「ロン! やめろ」
「はいはい」
「……悪かったね、俺の仲間が」
 ラグが優しい笑顔を向けるが、エリサリは涙目で震えながらラグを見上げる。
「あ……あの、あたし皆さんにいやらしいことをされて穢されて男なしではいられないような女に堕とされてどこかの街に売り飛ばされて客を取らされるようになってしまうんでしょうか……?」
「いやしないから! なんでそうなるんだ!?」
「そういうのを自意識過剰というんだぞ、女」
「だ、だってだって、男が男性経験を聞いてきたらもう股座に首を突っ込まれてると思えって……」
「いやそれも極端だから……」
 脱力するラグとふんと不機嫌に鼻を鳴らすロンの横で、フォルデが戸惑ったような顔で小さく呟いた。
「……変な女……」
 そうなのだろうか。セオには正直みんながなにを言っているのかよくわからず、エリサリの不安そうな表情にだけ注目していたのでよくわからなかったが。
 エリサリが心細そうな表情でこちらを見てきたので、安心させようと必死に笑顔に似た表情を作ろうとしていると、ぽっと顔を赤らめられうつむかれた。
「……セオ。彼女に質問、頼んでいいかい?」
「は、はい……!? お、俺、が、ですか……?」
 我ながら怯えきった表情でラグの顔を見上げると、ラグは小さく苦笑した。
「君が一番警戒されてないみたいだから」
「は、はい……わか、り、ました」
 仲間たちの視線を受けながら、セオはエリサリに向き直って言った。自分などには過ぎた役目だとは思うけれど、ラグから頼まれたのならきちんとやり遂げなければ。
「あの、エリサリさん。いくつか、お聞きしても、いいですか?」
「は、はい……私で答えられることなら」
『この状況でそこまで下手に出んでも……』などとロンがぶつぶつ言っていたが、ラグに制されて口を閉じた。
「まずお聞きしたいのは、夢見るルビーと、アン王女と、駆け落ちの相手リーマス・ウェインさんのことなんですけど。実際にいったいどういうことが起こったのか、詳しい話を聞かせていただけませんか?」
「えーと……私もその場にいたわけじゃないんで詳しい話を知ってるわけじゃないんですけどー……」
 と言いつつも心なしかうきうきした口調でエリサリは話し始めた。
「えっとですねー、二人の出会いは、樵だったリーマスさんが魔物に襲われたのを、子供の頃からしょっちゅう集落の結界の外に出て遊んでいたアンゼロット王女が助けたことから始まったそうです」
「男が助けられたのかよ?」
「そーなんですよぅ。なんかねー、必死の形相で魔物から逃げてたリーマスさんの顔を見てきゅんっ≠ニしたんですって。変わった趣味ですよねー。……まーとにかく、そんな風にして知り合って、偶然の出会いが何度かあって、二人はどんどん仲良くなっていって。恋は思案の外とはよくいったもんで、二人はあっという間に熱烈に愛し合うようになったんだそーです」
「……あの、いいですか? エルフのエリサリさんがそういうってことは、エルフと人間の男性の間に恋愛感情が生まれるって、そんなに珍しいことじゃ、ないんですか? 俺はてっきり、アン王女がものすごく、珍しい精神構造の持ち主だったんじゃないかって、思ってたんですけど」
 人間の男が女を、女が男を恋しいと思うのは繁殖に都合がいいように神がそうなるよう造ったからだ。だから繁殖に異なる性を必要としないエルフは、恋愛感情を持たないだろうというのがセオの考えだったのだが。
 だがエリサリはにやりと笑って指を振った。
「ふっふっふ、甘いですね勇者さん。エルフと人間の精神構造はかなり違いますけど、それは構成プログラムの違いであってアーキテクチャーの違いじゃないんです。構成方式が同じなんですからソフトウェアに互換性があって当然でしょ?」
「……は?」
 思わずぽかんとしてしまう。ぷろぐらむ? あーきてくちゃー? なんの用語だろうか?
 エリサリはそんなセオたちを戸惑ったように見ていたが、すぐにはっとして顔を赤らめた。申し訳なさそうにぺこぺこ頭を下げる。
「ご、ごめんなさい、あれ専門用語でした。えっとあの、そうエルフ! エルフの特殊言語なんです! ごめんなさいわかりやすい説明だと思ったんですけどすいませんすいません〜!」
「い、いえ、あの、無知な俺の方が、あそうじゃなくて俺がきちんと聞かなかったのが悪いんです、すいませんすいません」
 思わずセオもぺこぺこと頭を下げる。こんな風に他人に頭を下げられたのは初めてで、正直かなり戸惑いがあった。普通の人はみんな自分に侮蔑をもって接するのに。
 不思議な感じだ、とセオは内心思う。この人ってなんだか、すごく不思議な人だ。
「てめぇらな、ぐだぐだくだんねぇことで謝りあってんじゃねぇよ。とっとと話先に進めろ」
「あっはっはいぃっ! えっとともかく、エルフが人間に恋をするのはそう珍しい話じゃないんだってことです。本能――繁殖欲に伴う欲情はしないんですけど、相手を愛し共に在ることで精神的な充足を得るのは一緒らしいですよ。私実際にしたことないんでよくわかんないですけど。人間もエルフも単純に本能に支配されるほどわかりやすい精神構造してないってことですねー」
「なるほど……」
 エルフ自身が言うのだから間違いはあるまい。エルフという種族の特性なのだろうか、この人の言葉は学問研究、そして発表の経験のある人間のものだった。絶対に間違いのないこと以外は言明を避け、けれどまっすぐでわかりやすい。
「えっと、話の続きですね。それで愛し合うようになった二人は、結婚の申し出を双方のご両親に行いました。で、まぁ思いっきり反対されて、二人は駆け落ちをしたわけです」
「なぜ夢見るルビーを持っていったのか、わかりませんか?」
「んーと、ですねぇ。リーマスさんのご両親の方はどうかわかりませんけど、ジヌディーヌ女王――先ほどみなさんがお会いになっていた方ですね、の方には書置きが残されていたそうです。ここより西方、ラグランの泉にて待っています、と」
「ラグランの泉?」
「聖地ですね、いわゆる。飲めばたちまち体の傷や疲労が癒される、癒しの泉が湧いている場所です。神代の時代からそこで青の森のエルフたちは儀式を行ってきたそうで……まぁ、そこをわざわざ指定してきたってことは、アンゼロット王女としてはもー背水の陣を敷いたって感じなんですよね。リーマスさんとの仲を認めるか、さもなくばエルフの一族と完全に縁切りするかって。なにせラグランの泉ではいかなる偽りも口にしてはならない、っていうのが絶対の掟ですから」
「……つまり、ルビーを餌……っていうと言い方が悪いですけど、とにかく人質のように働かせて、無理やりにでも話し合いの机につかせて、自分たちの仲を認めるか否か真っ向勝負をかけようとした――ってことでしょうか?」
「そういうことらしいです」
 エリサリはこっくりとうなずく。ロンが嫌そうな口調で口を挟んだ。
「で、その聖地とやらでなにがあったんだ。話し合いの机とやらにまともにつけたのか?」
 エリサリは困ったような顔で首を振る。
「いいえ……聖地に向かったジヌディーヌ女王は、アンゼロット王女もリーマスさんも夢見るルビーもなにひとつ見つけることができなかったそうです。それで女王はリーマスさんがそそのかして逃げた――か、道行きの途中で魔族に襲われたかしたに違いないってことで、先ほど勇者さんがおっしゃったような理由でノアニールに呪いを」
「迷惑な話だな。周りが見えていない。これだから……いや、まぁそれはともかくセオ、推測見事的中だったようだな。すごいじゃないか」
「え、えぇ!? そんな、別に俺なんかがでしゃばらなくても、当然どなたかが思いついていたようなことですし、当たったのだって本当に偶然ですしっ、まぐれっていうのももったいないっていうか……」
 セオは突然褒められて軽く錯乱した。仲間のみんなは時々こんな風に自分を褒めることがあるのだが、そのたびに自分はどうすればいいのかわからなくなる。
 自分などにそんな価値はないのに。この優しい人たちと一緒に旅ができるだけで自分には過ぎた幸運なのに。この人たちが自分のことをほんの少しでも好きでいてくれるというだけで、百回死んでもおつりがくるくらい自分は幸福なのに。
 褒められたりするとどうすればいいかわからなくなる。たまらなく怖くなる。すぐに数倍のしっぺ返しがくるのではないか、自分があっという間に死んでしまうのではないかと。
 自分の居場所がどこにあるか見えなくなってしまったようで、たまらなく不安になるのだ。
 自分の罪は――あの人を殺したという罪は、ラグは許すと言ってくれたけれど、決して消えることはないのだから。
「いやでもホントすごいですよー、あそこまで正確に女王の思考言い当てられるとは思わなかったですもん。本当にさすが勇者さんっていうかなんていうか」
「エリサリさんまで……本当に、俺の手柄じゃないんですから、俺を褒めたりなんかしないでください……」
「うわー謙虚なんですねぇ、勇者さんって。……セオさんって、おっしゃるんですよね?」
「は? はい」
「セオさんかぁ……」
 じっとこちらを見つめ、少しほんわりとした口調で言われてセオは戸惑った。なんなんだろう、この雰囲気。
「で、どーすんだよ、これから。旅続けんのか?」
 フォルデがぶっきらぼうに言い、セオははっとして姿勢を正した。今は夢見るルビーのことだ。
「あの、その前に、ラグランの泉に行ってみたいん、ですけど」
「はぁ? なんで」
「本当に、夢見るルビーがなかったのかどうか、調べてみたいと思う、んです」
「俺も賛成だな。まずは現場を詳しく調べないとなんとも言いようがないだろう。世界中を巡って実は最初の洞窟にありましたとか言われたら悲しいしさ」
「ふーん。あの女の調査は信用しねぇってか。ま、俺も同じだけどな」
 面白がるような表情になってにやにや笑いながら言うフォルデに、ラグは少し困ったような顔になった。セオもたぶん同じような顔になっているだろう。
「えっと……なんというか、信用するしないの問題じゃなくてさ」
「フォルデさんみたいな、盗賊のプロの目は、女王にはないと思いますから……」
「ま、そーだろーなー。あの女王じゃ足元にルビーがあっても見落としそうだぜ」
 くくっと楽しそうに笑うフォルデの頭を、ロンは軽く叩いた。
「言っとくが、ルビーを見つけられるか否かはお前さんにかかってるって言ってるんだぞ? わかってるかそのへん?」
「……ったりめーだろーがっ! 頭叩くなボケっ!」
 蹴りを入れようとしてひょいとかわされる。そんな動きを眺めていると、エリサリがおずおずと言った。
「えーとあのー、それじゃ私そろそろお暇してもよろしいですかねー? 私のお話できることはもう全部お話したんですけど……」
 セオは慌てた。エリサリの方に反射的に手を伸ばし、腕をつかむ。
「あのっ、待ってください! 申し訳ないんですけどっ、お手数かけて本当に申し訳ないんですけどっ、ラグランの泉ってどう行けばいいのかって、案内をお願いしたいんです、けどっ!」
 エリサリの驚いたような表情が目に飛び込んでくる。申し訳なくなりながらも、セオは必死に頭を下げた。
「ごめんなさい、偉そうなこと言って。でも、もしエリサリさんの監視対象が俺たちならっ、見つかっちゃった以上しばらくほとぼりを冷ますまでは別々に行動する意味、ないと思うんですっ。だからっ、俺なんかと一緒に行動するのが嫌じゃなければ、ですけど、一緒に行った方がっ……」
「……どーでもいーけどそろそろその手放したらどーだよ」
 ぼそっと言われ、その時初めてセオは自分がエリサリの左腕をつかんでしまっていることに気づいた。
「うわひゃぁっ! ごめ、ごめん、ごめんなさいぃっ!」
「きゃ!」
 なにをやっているんだ自分は、自分などが他人の体に触れるなどあっちゃいけない、恐れ多いとすら言えそうなほど分不相応なことはなはだしい行為であるのに! なにを考えているんだ!?
「ごめんなさい、ごめんなさい、馬鹿なことして、本当にごめんなさい、許してなんて言えませんけど本当に本当にごめんなさい……」
「え、いえ、あの……」
 戸惑った表情のエリサリに地面に擦りつける勢いで頭を下げる。なにをやっているんだ自分は図に乗って、申し訳ない申し訳ない申し訳ない――
「あの、別に、私、嫌じゃなかったですよ?」
「え?」
 仰天して頭を上げる。ちょっときょとんとした表情のエリサリと目が合った。
「私別にセオさんに腕つかまれても嫌じゃない、っていうかその、ちょっとドキッとはしましたけど別に嫌なドキドキじゃないっていうか、私としてはその、別にちょっと触るくらい全然かまわないんですけど」
「――――」
 セオは絶句してエリサリを見つめた。なにを言っているんだろうこの人は。本当に不思議な人だ。わけがわからない。なんでこんなことを言うんだろう。自分のような人間に触られて、不快に思わないはずがないのに。
 なんでこの人は、さっき会ったばかりのこの人は、こんな風に当たり前のことみたいに、自分を受け容れてくれるんだろう。仲間というわけでもない、この人が。
 わけがわからずセオはぼうっとエリサリを見つめた。エリサリもこちらを見つめ返す。真紅の美しい瞳が目の中に飛び込んでくる。
 なにを言っていいのかわからないままに、しばらく見つめ合った。
「……どうでもいいがそろそろ出発した方がいいんじゃないか。どうせなら早い方がいいだろう」
 そうロンにぶっきらぼうに言われてはっとした。そうだ、今はとりあえず優先事項を先に片付けなくては。
「あの、じゃあ、案内、お願いできます……か?」
「あ、はい。三日ぐらいかかるんですけど」
 先にたって歩き始めたエリサリを追おうとすると、不意に後ろからフォルデに腕をつかまれた。
「……あの………?」
 意図がわからずびくびくしながら顔を見上げると、フォルデは急激に凄まじく不機嫌な顔になった。
「バッカみてぇ。結局女かよ」
「……はい?」
「なんでもねぇよタコ! クソッ」
 乱暴に腕を放してずかずか先に歩くフォルデを慌てて追う。その前にラグがすぅっと歩を進めてきた。
「別に気にしないでいいよ。フォルデは……そうだな、なんていうか……ちょっと苛ついてるだけだから」
「ラグさん……でも」
 苛つかせてしまった原因が自分にあるのなら謝りたい。謝らねばならない。
 そう言いかけた時、ラグがおずおずと口を開いた。
「あのね、セオ」
「はい……なんでしょう?」
「あのね……」
「はい」
「いや、あのね、つまり……」
「はい」
 ラグはしばらくあのあの、と繰り返し、結局ため息をついて微笑んだ。
「いや、なんでもないよ。気にしないで」
「………? はい」
 わけがわからない。だがなにを言いたかったのか聞いていいものかわからない。
 セオはまだわからないのだ。本当にわからない。この人たちが、自分などを好きでいてくれる優しい人たちが――どこまで自分のわがままを許してくれるのか。

『……森は相も変わらず深く、美しい。だがやはりセオには人を、というよりは生あるもの――むしろ心あるものか、を拒んでいるかのように見えた。鳥や獣の声も常に遠くにしか響かぬ森。それはどこか、よそよそしく、寂しい。』
 セオはノートにペンを走らせていた。日記兼自伝小説のノートに、だ。
 アリアハンからずっと書き続けているので、最初は新品だったこのノートもすでに半ば以上が文字で埋め尽くされている。書いたところでただ紙の無駄になるだけのようなものを、よくもまぁここまで書き続けたものだ、と振り返ると思わず苦笑が漏れる。
 だが、書くのをやめようとはどうしても思えなかった。十年――ほとんど物心ついた時から書き続けてきた唯一の幸福へのよすが。書くのをやめてしまったら、十年必死の思いでしのいで辛うじて降りかからなかった不幸が、自分に対する罰が、一気に降りかかってきそうで恐ろしかったのだ。
 それに、なにより。ノートに起きたこと、思ったことを書き連ねるのは、たのしかった。ある意味日常の一部になっていて素直に楽しいとは思えなくなっているにしても。
 ――それを言うならばセオは、自分などが楽しいなどと感じていいのだろうかと、今でもやはり考えてしまうのだけれども。
『それはどこか孤独な人の心に似ているように思えた。あるいは、エルフの。どちらにしろ寂しい存在であることには変わりはなかったけれども。セオの知識の範囲内では、そのふたつの差は不分明だった。あるいは感情、か。セオの出会ったエルフは、フォルデが主張したのとはまた少し違う意味で、ひととしての哀しさを背負っている存在だと感じられたからだ。』
 そこまで書いてセオは少し考えた。エリサリのことを思い出したのだ。
 彼女はまったくエルフらしくない。セオにはエルフと出会った経験自体が少ないのだからそういう言い方は不適当かもしれなかったけれど、実際彼女はエルフという種族のイメージにはそぐわなかった。
 まるで自分のようになにかあるとすぐにうろたえ、狼狽し、慌てふためく。押しに弱く、けれど底には決して譲らぬものを感じさせ(セオにはそう思えたのだ)――それでいて、よく笑う。
 一緒の道行きの最初の食事の時、おどおどとしつつも一緒にどうかとラグに差し出された料理を食べ、目を見開いて笑顔を浮かべた。『おいしい!』と眩しいほどに元気な笑顔で。
 それからの、あるいは火を囲みながら、あるいは歩きながらのお喋りでも、エリサリは頻繁に笑顔を浮かべていた。元気に、屈託なく。
 やっぱり、彼女はとても不思議な人だ。
 そう思考をまとめ一人うなずいて、ぞくりと背筋に走った悪寒に身をすくませた。これは単に気温が低いためだろう。夏でよかった。冬に来ていたならば真剣に防寒対策に全力を注がねば凍死しかねなかっただろう。
 だがノアニールの気候は夏ですら寒冷といってよい。一応すでに天幕は購入してあり、寒ければそれを広げようと決めてはいるのだが、見張りは外で火の番をしなければならないし、我慢できる程度なら万一敵襲があった時に備え外で寝た方がいいと全員外で寝ることを選び、これまで天幕は使われなかった。
 しかし今は天幕は広げられている。種族全体の特性とはいえ、女性であるエリサリのためである。エリサリ自身は外でかまわないと主張したのだが、ラグが危険を減らすためにもその方がいいと主張したのだ。
 別にそれがうらやましいというのではないが、今まで女性と寝食を共にするという経験がなかったため、奇妙な感じがするのは確かだった。
 エリサリはあの中で、どんな風に寝ているんだろう?
 そう思ってちらりと天幕に視線をやる――や否や、天幕の出入り口が揺れてセオはぎょっとした。
「……エリサリさん」
 エリサリが天幕から出てこようとしている。視線が合うと、エリサリは小さく微笑んだ。
「あ、セオさん……すいません、邪魔しちゃいました?」
「いいえ! どうして、ですか?」
「なにか書いてらっしゃるみたいに見えたから。天幕の中にも書く音がしましたもん」
「…………」
 たまらない恥ずかしさに襲われ、セオはうつむいた。悪いことではないとラグたちに言われてはいるものの、自らの心のうちを書き連ねるという行為はセオにとってはどうしても罪悪感がつきまとう。
 だが、エリサリはそんなことには頓着せずあっさりと聞いてきた。
「なにを書いてらっしゃるんですか?」
「……日記兼、自伝小説……って言っていいものかわからないんですけど、そういうものです」
「へぇ、すごいですね! 小説が書けるなんて、セオさん頭がいいだけじゃなくてそういう才能まであるんだ、すごいなー」
 セオは目を丸くした。すごい? そんな形容詞が自分に使われるなんてあっていいのか? 自分などが他人に評価されるなど、そんなことはありえないことなのに。
 しかしエリサリは屈託の欠片もなくにこにこと微笑んでいる。どう返事していいのかわからなくて、セオは真っ赤になってうつむいた。この人、やっぱり不思議な人だ。
 だが、エリサリの爆弾発言はそれでは終わらなかった。
「ちょっと読ませてくれません? 私小説読むのって好きなんですよー」
「え……え!?」
 セオは絶句した。読ませる? 自分の書いた小説を、人に?
「……………………ッ!!」
 セオは激しく首を振った。ありえない。考えられない。そんなことがあっていいはずがない。
 あんな小説人様の目にさらしていいものではない。そんなことを考えること自体が小説というものに対する冒涜だ。自分の想いだけをただひたすらに連ねた、ただ自分のためだけの小説。
 ――ただ、いつからか、それでもどこか、読んだ人がいたら面白いと思ってくれるようにと、少しずつ形を整えることはしだしたけれども。
「そ、そんなにムキになって拒否しなくても……ちょっとくらい読ませてくれてもいいじゃないですか」
「無理……無理、ですっ……!」
 それは出せない、出す宛てのない恋文のようなものだった。ここにはいない誰か。自分の想いを受け止めてくれる存在しない誰か。都合のいい存在である誰か。世界のどこにもいない誰か――そんな存在に向けた。
 セオの、見苦しいまでの想いがこめられた恋文だ。――自分のことを見てほしいという。
 そんな小説が誰かの目に触れるだなんて――考えるだけで、死んでしまいたくなる。
「そんなに……嫌なんですか?」
「……………………」
 嫌? その言葉はセオの感情にはそぐわない。自分は人の要望に嫌だと言う資格などないし、なにより、わずかに嬉しかったのも確かなのだ。
 誰かが、自分の書いたものを読みたいと言ってくれることが。
 ただ、セオはただ――
「嫌じゃ、ないん、ですけど……」
「けど?」
「……俺、怖い、です」
 告白すると、エリサリはきょとんとした顔になった。
「怖い?」
「はい。……これは、俺の、今までの人生の、全部だから」
 それが否定された時、どうすればいいのか。
 否定されても自己肯定できるだけの自信もよすがも、セオにはない。
 あるのは、まだ怖くてとても胸を張ってなんて言えない、仲間の人たちへのたまらない思慕だけ。この人たちを自分のすべてをかけて護りたいという、それを受け容れてくれているかもしれないというたまらない不安と隣り合わせの想いだけ。
 そんな時に世界に向けて丸裸になって一歩踏み出すというのは、臆病のそしりを受けて当然とは思うものの、やはり、できなかった。
 そんなセオの言葉をどう受け取ったのか、エリサリはしばし難しい顔をして考え込んだ。眉間に皺を寄せてなにやら必死に考えている。セオがもし自分のことについて考えてくれているんだとしたらと不安になって声をかけるか否か迷っていた時、エリサリは顔を上げて言った。
「わかりました。今は、読ませてもらうの諦めます」
「………は、はい………?」
「でも、セオさんが怖くなくなった時――私に今までの人生の全部を見せてもいいって気持ちになった時には、絶対に言ってください。私、たぶんこれから何度もセオさんの前に現れると思いますから、その時に」
 そう厳粛といっていいほどの表情で言って、ふいにエリサリはふわっと微笑んだ。
「私も、その時までに、セオさんの人生全部を受け止められるだけの存在になれるよう、頑張りますから」
「…………」
 セオは思わず固まってしまった。そんなことを言われるなんて、思ってもみなかったのだ。
 自分を受け止めたいという人がいることはおろか、自分の人生を頑張らなければ受け止められないほど重みのあるものだと言ってくれる人がいるとは、少しも思わなかったのだ。
 そんなことは初めてなので、セオはどうすればいいのかたまらなく戸惑って戸惑って、うろたえたけれど、エリサリがじっとこちらを見ているので、狼狽と困惑でいっぱいになりながらも、小さくうなずいた。
 エリサリは「約束ですよ?」と小さく笑って、用を足しにいくのか林の中へと姿を消す。その後姿を見送って、セオは混乱と戸惑いに満ちた、けれどたまらなく熱いため息をついた。やっぱりあの人はたまらなく不思議な人だ――
 他人に自分のすべてを読んでもらう。そのことを考えるとやはりセオの体は震える。
 けれどいつか、それを受け容れられる時がくるのだろうか。嬉しいと思える時が来るのだろうか。誰かに読んでもらいたいと、そう思う時が来るのだろうか。
 もし、誰かに読んでもらえるとしたら、俺は――
 じっとその人たちに視線を投げつけかけ、セオは真っ赤になって首を振った。そこから先は、たとえ頭の中だけでも考えるだけでもたまらなく無礼なほど、あつかましくて、そしてたまらなく必死な想いの詰まった願いだったからだ。

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