ロマリア〜アッサラーム――3
「ラグ兄ラグ兄、お土産は?」
「今度はどこ行ってきたのー?」
「お小遣いくれよ、ラグ兄ー」
 まとわりつく義弟妹を適当にあしらいながら、ラグはヒュダと並んで家の中へ入っていった。ヒュダがいつも通りの、明るく優しい声で話しかけてくる。
「ラグ、今日はどうしたの? 珍しいわね、いつもは私の誕生日にしか帰ってこないのに」
「今一緒に旅をしてるパーティがこの街に寄ったからね。せっかくアッサラームに来たんだからっていうんでちょっと抜け出してきたんだ」
 ラグも柔らかい声で答えた。この人と話していると、ラグはいつも自然と態度が柔らかくなる。
「あら、それなら仲間の人たちも一緒に連れてくればよかったのに」
「いや、それはやっぱりね。個人的なことだし。パーティでの活動とは分けて考えなくっちゃ」
「もう、本当にあなたはそういうところ固いわよねぇ」
 笑いあいながら家の中の、広い居間の長椅子に腰を下ろす。この家でまともに話ができる場所はここしかない。
 広い食堂兼居間と、その隣の台所と、寝室とトイレと物置。それしかこの家にはない。住んでいる子供の数がやたら多いので、そのくらいでなければ空間が足りないのだ。
 古ぼけた絨毯、傷のついたテーブル、足が欠けて不安定な椅子。そのくらいしか家具のない、狭くて騒々しい家。けれどこまめに掃除がしてあって人の体温で夜でも暖かい家だ。
 ここに帰るたびに、自分の帰る家はここしかないのだと実感する。
「ラグ兄、お土産ー!」
「ああわかってるって。ほら、ロマリアで買った焼き菓子の詰め合わせ」
「わーい!」
「開けろ開けろ、食おうぜ早く!」
「こーら、みんな? その前にラグに言うことがあるでしょう?」
「はーい」
『ラグ兄ありがとー!』
「どういたしまして」
 挨拶するや即座に始まる焼き菓子争奪戦をときおり仲裁しながら、ラグはヒュダの淹れてくれた茶を飲んだ。アッサラーム地方のお茶は他の国と比べて、異常なほどに砂糖を多く入れる。口に砂糖を含んだところにお茶を飲んだりすることも多い。食文化としてはバハラタとイシスの混合というところなのだが、お茶だけはやたら個性的なのだ。ラグも傭兵業で世界中を回ったが、こうも糖分の高いお茶を当然のように出すのはアッサラームだけだろう。
 だが、こうして帰るべき場所に帰ってきた時には、その甘みがたまらなく懐かしい。
 ヒュダとゆっくりお喋りする。こんな風にのんびり話せるのは、帰った直後のほんの少しの時間だけだ。
「なにか変わったことはあった?」
「今そっちはどんな様子?」
「楽しいことや嬉しいことはあった?」
 そんな言葉を投げかけあい、微笑みあう。ラグは心がひどく安らぐのを感じた。この時間だ。自分がなににも代えがたいほど大切にしている、幸せな時間だ。
 ヒュダの優しい世界に、自分が生きていられることを感じられる時間だ。
 ラグはそんな風にしみじみとしながらヒュダの問いに答えていたのだが、ふいにヒュダがじっとラグを見つめて言ってきた言葉に一瞬絶句した。
「ラグ。私のゴールド銀行の口座に、一ヶ月くらい前五十万ゴールドが振り込まれていたんだけど」
「……………!」
「あなたね?」
「………………」
 ラグはしばし固まったが、うなずいた。この人は本当に、どんな隠し事でもすぐに見抜いてしまう。
 初めて会った時からそうだった。自分が母を恋しがっているということを、しっかりと見抜いて連れてきてくれたのだ。反発する自分を、この家に――家族のところに。
 そして、自分が一番最初にその家族に――母になってくれたのだ。
「そうだよ。……でも、やましい金じゃない」
「…………」
「言わなかったけど、今、俺、勇者のパーティにいるんだ」
「まぁ……勇者の?」
 さすがに驚いた表情を見せるヒュダに、ラグはしっかりとうなずく。
「ああ。正直俺なんかが勇者のパーティにいていいのかな、とは思うけど、なんとかやってる。あの金は、ロマリアの国王の依頼を果たしたことでもらった報酬の、俺の取り分なんだ」
「………………」
「だから、俺の力だけでもらった金じゃないけど、俺の自由に使っていい金なんだよ」
「なるほどね……」
 ヒュダは笑顔でゆっくりとうなずいて、それからすっと懐から通帳を取り出した。
「明日にでも、そのお金を引き出して自分の口座に戻しなさい」
「………! なんでさ!」
 ラグは思わず立ち上がった。周囲の義弟妹たちが怪訝な目で自分を見るが、そんなことにはかまっていられない。
「五十万ゴールドなんだよ、母さん。それも誰かから恵んでもらった金でもやましいことをして手に入れた金でもない、正当な俺の報酬だ! だったら俺たちのために使ってどうして悪いんだ!? それだけあれば暮らし向きがどれだけ楽になるか、母さんだってよくわかってるはず――」
「わかってるわ、ラグ。ようくわかってる。あなたが私たちのために、本当に一生懸命頑張ってくれたのは、よくわかってる」
 ヒュダは笑顔を崩さないままうなずき、それから真剣な顔になった。
「だけど、このお金は私たちが使っちゃいけないと思うの。勇者っていうことは、魔王を倒すために活動してるってことでしょう?」
「……うん」
「魔王を倒すために戦っている人のおかげでもらった報酬でしょう? だったら魔王を倒すために使わなくっちゃ。ロマリアの王様も、きっとそのために出してくれたお金だと思うの」
「………だけど」
「それに、私たちみたいな貧乏人が、こんな持ちつけない大金もらったらろくなことがないわ。暮らしだって今までなんとかやってこれたんだもの、これからだってなんとかやっていける」
「だけど………」
 奥歯を噛み締めてヒュダを見つめるラグに、ヒュダは立ち上がって、優しく頭を撫でた。
「大丈夫。私たちは大丈夫だから。あなたは自分のことをもっと考えなさい」
「……考えてるよ」
「ちゃんと考えなさい。誰かのためだけに生きることは、いい生き方とはいえないわ」
「……ちゃんと考えてるよ……」
 自分にとってなによりも大切で、優先すべきもの。それが決まっているだけだ。
 二十年前、この人が自分をここに連れてきてくれた時から。
 うつむくラグに、ヒュダは微笑んでそっと頭を抱きしめた。
「か、母さん!」
「いい子ね。大丈夫、私たちは幸せよ。あなたや、エヴァやムーサ。私の子供たち、家族が力を貸してくれるんですもの」
「……エヴァやムーサ兄さんと同じ扱いなのかい、俺……」
 照れくさくて顔を赤らめながらぽつりと言うと、ヒュダは笑ってぱぁんとラグの後頭部を叩いた。
「拗ねないの! あなたが頑張ってるのはちゃーんとわかってるから!」
「いったいなー」
 照れ隠しでぶっきらぼうに言うとヒュダはふふっと笑う。焼き菓子を食べ終えた義弟妹たちが、わらわらとラグの周りにまとわりついてきた。
「なーなー、ラグ兄、遊んでー」
「遊ぼうよー、ラグ兄ー」
「はいはい。晩御飯までだぞ?」
 苦笑しながら立ち上がり、わっと押し寄せてくる子供たちの体を数人まとめて肩に担ぎ上げる。義弟妹がきゃあきゃあと歓声を上げた。
 アッサラームの子供たちは、どちらかといえば部屋で遊ぶ方が多いが(金持ち以外近所の屋外には遊ぶだけの空間の余裕がないため)、この家の子供たちはたいてい外で遊ぶ。家の前のわずかな空間を有効に活用しているのだ。
 まとわりつく義弟妹たちの相手をしてやりながらヒュダに笑いかけつつ家の外へ向かう――と、ふいに呼び鈴がリーンと鳴った。
「あら、誰かしら?」
「俺が出るよ」
 義弟妹たちを引き連れて、ラグは玄関へと向かった。この家を訪ねてくる客は多い。ヒュダはご近所づきあいを大切にするし(『困った時は相身互い』で助け合わなければやっていけないのだ)、子供が多い分顔も広い。当然そんな人間の一人だろうと思って自分によじ登る義弟妹を軽く支えてやりながら扉を開けた。
「はいはい、どなたです――」
 そして絶句した。
「ほほう、保父に転職でもしたのか? なかなか珍しい格好だな」
 面白がるような顔で鼻を鳴らすロンと、
「……お前……なにやってんだ? そんなにガキぶら下げて……」
 あっけに取られてあんぐり口を開けるフォルデと、
「ご、ごめ、ごめんなさっ、俺、ラグさんに、ついてくるなって、言われたのにっ……」
 すでにぼろぼろ涙をこぼしているセオがそこに立っていたからだ。
 数秒絶句して、ラグは深く息をつき、言った。
「……どうして、ここが? 尾行はされてなかったはずだ」
「ほほう、はっきり言い切れるほど尾行を警戒しているとは、よほどここの存在を俺たちに明かしたくなかったんだな?」
「質問に答えろよ」
 睨むラグにロンは肩をすくめ、あっさりと答えた。
「お前さんの荷物の中にブロープを放り込んでおいたんだ」
「……ブロープ?」
「レミラータの呪文――遠距離位置探知の呪文に反応する信号を出す魔道具さ。付属の探知機があれば、同じ街の中ぐらいの距離なら位置がわかるというやつだ。知らなかったのか?」
「………………」
 ラグは再び、深々と息をついた。
「俺は『邪魔しないでくれ』と言わなかったか?」
「言ったな」
「じゃあなんで」
「言ったが俺が言われた通りにするかはまた別の問題だ。俺が『任せろ』と言ったのは二人の面倒をみる件についてだぞ」
「……そういうのを屁理屈っていうんじゃないのか」
「まぁ、細かいことは気にするな」
 ラグは三度息をつき、それからぎろりと三人を睨みまわした。
「帰ってくれ」
「え……」
「ほう」
 フォルデが驚いたような顔になって、ロンが面白がるように眉をそびやかす。ラグは熟練の戦士の気迫をもって三人を睨みまわして言った。
「俺は君たちをここに招待する気はない。宿に帰ってくれ。俺は明日の朝まで自由時間をもらったはずだ」
「ごめ、ごめ、ごめんなさいっ、ごめんなさいっ」
 セオがぼろぼろ涙を流す。おそらくはロンに言いくるめられて連れてこられたのだろう、罪悪感でいっぱいなのは言われないでもわかった。
 わずかに心が痛んだが、それでも自分は、彼らをここに入れるわけにはいかない。
「ひどいな。仮にも仲間に隠し事か?」
「仲間だからってなにもかも明かさなくちゃいけないって法はないはずだ」
「……そりゃ、そうだけどよ」
 少し傷ついたのだろう、フォルデが痛みを堪えるような顔で口ごもる。ラグはそれを無視して続けた。
「俺は、『邪魔しないでくれ』と言ったはずだ。仮にも仲間だと君たちがいうのなら、仲間がこれだけは、と願ったことぐらい受け容れてくれてもいいんじゃないのか。聞いたところで君たちにはなんの損もない願いなんだ。それとも君たちは俺に嫌がらせをして、パーティから追い出そうとしてるのか?」
「ごめ、なさっ」
「別に俺は」
「追い出そうとしてるんじゃない、共に在りたいからさ」
 うろたえるセオとフォルデをよそに、ロンは平然と言い返してくる。
「パーティの仲間として共にやっていくのに、隠し事をしちゃいかんとは言わん。だがこれは共に旅をするなら明かす必要があることだと思ったんでな」
「それはお前の勝手な思い込みだ」
 ぎっと睨むと平然と睨み返してくる。しばらく睨み合っていると、一緒にいる中で三番目くらいに小さな弟がくいくいと裾を引っ張った。
「ラグ兄、この人たち、誰?」
 義弟妹の存在を半ば忘れていたラグははっとして、笑顔を作って義弟妹たちに言った。
「悪いけどみんな、中に入っててくれるか? 俺はちょっとこの人たちと話さなきゃならないことが――」
「あら、それなら中で話せばいいじゃないの」
「――っ母さん!?」
 ラグは目を見張って振り向いた。いつの間に近寄っていたのだろう、自分のすぐ後ろにヒュダがにこにこしながら立っている。
「母さん、これは別に大したことじゃないんだ、諍いごとっていうほどのことでもないんだから、外で充分――」
「その間この子たちを中で待たせるつもり? この子たちが退屈で暴れだしちゃうわよ」
「……っ、だけど――」
「いいから中に入ってもらいなさい。あなたの仲間なんでしょう? 私も挨拶くらいしておきたいわ」
「母さん、だけど」
「ラグ? 私をそんなに怒らせたいのかしら?」
 にこにこしながら強烈な気迫を込めて言い放つヒュダに、ラグは一瞬腰を引かせて、それから深い息をついてうなずいた。
 ――自分がこの人に逆らえるはずがないのは、よくわかっているのだ。

「みなさん、改めてはじめまして。ラグの母、ヒュダ・ミルトスと申します」
 にこにこしながら言ったヒュダに、仲間たちは慌てて姿勢を正し(ロンだけは悠然と構えただけだったが)、頭を下げた。
「こ、こちらこそはじめましてっ、今ラグさんにお世話になっている、セオ・レイリンバートルと申しますっ」
「ど、ども。フォルデ……っス」
「ジンロンと申します。以後お見知りおきを」
 それぞれの挨拶に、ヒュダはいちいち笑顔を返してうなずく。なにもそんなに笑顔を振りまかないでも、とどうでもいいことに苛々した。
「しかしラグのご母堂がこのようなお美しい方だとは思いませんでした。ラグは家族のことを少しも我々に話してくれなかったもので」
「まぁ、ラグ。そうなの?」
「いや、それは……まぁ」
 ぼそぼそと煮え切らない返事をするラグに、ヒュダは少し悲しそうな顔を作ってみせる。
「私たちは仲間に話したくなるほど大切な存在じゃないっていうこと? 残念だわ」
「ちがっ!」
 反射的に立ち上がりかけた自分に、ヒュダはころころと笑って座るよううながす。
「冗談に決まってるでしょ。私はそこまで鈍感じゃないわよ」
「…………母さん…………」
 ずっしりとのしかかる疲労感に耐えながら、ラグはのろのろと座った。そうだ、この人はこういう人だった。どういう状況でも笑うことを、面白がることを忘れない。
 それは美徳だと思うけれど、こういう時はちょっと疲れる。
「あの……いいスか? ここって……孤児院なんスか? なんか、やたらガキ……じゃねぇ、子供がいっぱいいるけど」
 今はほとんどの子供たちが外に遊びにいってしまっているが、それでも家の中には数人の子供たちが残っている。普通の家族というには確かに多すぎるだろう。
 だが、ヒュダはにっこりと笑った。
「孤児院、っていうわけじゃないわ。私たちは家族なの」
「……はぁ」
「あ、なぁに、その疑い深げな眼差しは」
「え、いや、別にそういうわけじゃ」
 慌てるフォルデに、ヒュダはくすっと笑う。
「まぁ、孤児院っていうのも間違いじゃないわ。私たちに血の繋がりはない。親をなくしたりはじめからいなかったりしたせいでここにやってきた子が大半だしね」
「はぁ」
「でも、孤児院と違うのはね。私たちはお互いのことが好きだから、一緒に暮らしてるっていうことよ」
「……はぁ?」
 眉をひそめるフォルデに、ヒュダはにこにこと説明する。
「孤児院は国がお金を出していたり、働き手が必要だからとかで、まぁ義務で子供たちを育ててるでしょう? 私たちは義務じゃないの。どんな子も入る前にまず私が会ってみて、可愛いな、この子育てたいな、って思ったら一緒に暮らす気があるかどうか聞く。つまり私も相手の子もお互い一緒に暮らしたいって気持ちがないと駄目なの。もちろん暮らしてみてやっぱり嫌だって思ったらいつ出て行ってもいいしね」
「はぁ……」
「そう言いながら母さんはどんな問題児が来たって一緒に暮らそうって言うじゃないか」
「だってみんな可愛いんだもの」
 そう言ってまたころころと笑う。ラグは苦笑した。この人の愛は本当に、果てしなく広く、深い。
「あの……つまりここって、どういうとこなんスか?」
 フォルデの戸惑い気味な言葉に、ヒュダはにこにこと答えた。
「うーんとね、今の説明でわかりにくかったら、そうね、私設の孤児院って考えてもらえばいいわ。でも、誰かに頼まれたりとか義務でやってるんじゃなくて、少なくとも私は好きでやってるっていうこと」
「………そうなんスか……」
「ラグもそんな風にして、あなたの家族になったというわけですか?」
「そうよ、ラグは私の十一人目の子供なの」
 微笑みながら答えるヒュダに、ロンはこちらもにっこりと微笑んで言った。
「あなたがなぜそんなことを始めたのか聞きたいですね。なにか理由がおありなんでしょう?」
「ロン。そんなことはお前には関係ないはずだ」
 低く唸るように言うと、ロンは笑顔でヒュダの方を向く。
「聞いてはいけないことでしたか?」
「別にそういうわけじゃないわ。ただ、私にとってちょっと気恥ずかしいことだから。だからラグは気を遣ってくれただけよ」
「母さん……! 話すことなんてないよ、こいつはただ身勝手な好奇心で聞いてるだけなんだから!」
「好奇心があるのは否定しないがそれだけというわけでもないぞ」
 平然と言うロンを睨みつけるラグをよそに、ヒュダはくすっと笑って話し始めた。
「私が子供たちを育てるようになったのは……もう三十年近く前のことになるかしらねぇ。その頃私は二十歳そこそこの小娘で、大恋愛の末結ばれた夫がいて。ただ自分と夫のことだけを考えて日々を過ごしていたわ」
「それは別に悪いことではないでしょう」
「そうね。でもね、ある日、私に子供ができたの」
「ほうほう」
「母さん!」
「ラグ、いいから黙って聞きなさい」
 ヒュダに静かに言われて、ラグはぐっと唇を噛んで黙り込んだ。今すぐロンを殴り倒してでも話を止めたい。けれど、ヒュダが話を聞けと言うならそれに従うしかないのだ。
「もちろん夫も、両親も、夫の両親も喜んでくれたわ。周り中に祝福されて、私は本当に幸せだった」
「……ただそのままめでたしめでたしとはいかなかった、というわけですね?」
「ロンっ……」
「ええ。――私は臨月も近くなってきた頃に、事故に遭ったの」
「………!」
「どのような?」
「はがれた土塀煉瓦が落っこちて私に当たったの。この街ではよくある事故よ。――それで子供は死んでしまい、私はその後遺症で二度と子供が産めない体になった」
『…………!』
 息を呑む音がわずかに聞こえた。ラグは血が出るほどに奥歯と唇を噛み締める。こんなことは――自分のせいでヒュダを傷つけるなんてことは、絶対にしたくなかったのに。
 ヒュダはきっと、こんなこと、思い出したくも話したくもなかっただろうに――
「そのせいで夫ともうまくいかなくなってね。夫も、夫の両親も、私の不注意が原因だって怒ったし。それでまぁ、出戻ってきて、しばらく家に閉じこもってうじうじしてたんだけどね」
「………………」
「ある日、気晴らしにっていうんで両親に無理やり市に連れ出されたわけよ。それも街中の家族が寄り集まって店を出すっていう、商人ギルド主催の半分慈善事業みたいな市にね」
「それはまた。なかなか無神経なご両親ですな」
「ロン!」
 思わず声を荒げるラグを、ヒュダは笑顔を崩さないまま手で制した。
「……そうね、実際最初はずいぶんと恨みに思ったわ。だって子供がうじゃうじゃいるんですもの。いかにも幸せそうな家族連れもね。そして、それを見るたびに、得られるはずだった子供を、自分の不注意で失われてしまった家族を思い出してしまう」
「…………」
「本当に苦しかったわ。幸せそうな顔をして笑う子供たちが憎くてたまらなかった。下手をしたら錯乱して一人や二人殺していたかもしれないわね」
「……それはそれは」
 にこにこと言うヒュダに、セオとフォルデは圧倒されたように口を利かなかった。ロンは黙り込んでこそいないものの、珍しく真剣な顔で話を聞いている。
「それでね。私、そんな自分が怖くなって。このままじゃいけない、と思ったのね。子供を普通に、可愛いと思えるようにならなくちゃいけないって思ったのよ」
「………それで孤児を育ててみようと? それはまた、いささか短絡的な気がしますが」
「……っ」
「そうね。自分でもその自覚はあったから、考えたわ。育てられる側の子供にとっても、育てる側の私にとっても、いい結果が導き出されるようにしようって。それで決めたの。お互いが『育てたい』『育てられたい』と思っている相手を、そういう相手だけを育てるようにすればいいんじゃないかってね」
「…………なるほど」
 ロンは小さく息をついて肩をすくめた。ヒュダは微笑みながら続ける。
「最初は一人だけの予定だったわ。まだ五歳にもならない子だったから、毎日の世話をするだけでも本当に大変だった。だけど、そのうちにね。孤児を探しているっていう噂が広がったのか、他にも子供たちが回されてくるようになったのよ」
「…………」
「一人の子を育て上げる前に次が来て。またその子を育てている間に次が来て。本当なら断ればいいのかもしれなかったけど、なんだか意地になっちゃってね。こんな風に持ち込まれる子供たち全部を立派に育て上げたら、私の生まれることができなかった子供も浮かばれるんじゃないか、別れた夫を見返してやれるんじゃないかって考えに取り憑かれちゃって」
 ヒュダは口元に手を当ててくすくすと笑う。その手は安い石鹸と水仕事のせいでぼろぼろだ。染物の仕事もしていたから、染料の色も染みこんでいる。
 けれど――どんな大国の貴婦人よりも、きれいな手だ。
「そんな風にして無我夢中で子供たちを育てて、気がついたらこんなにたくさんの子供たちに囲まれることになりましたとさ。両親も呆れて逃げちゃったし、元夫だってもう死んでるのにね」
「……あなたにとって子供たちというのは、結局亡くした子供の代わりなんですか?」
「ロンっ!」
「おい、ロン、そりゃいくらなんでも……」
 立ち上がったラグと困惑げな声を上げるフォルデを笑顔で制し、ヒュダはロンに顔を向けた。
「代わりにしているつもりはないわ。でも、代わりじゃないというわけでもない」
「……どういうことですか?」
「最初は確かに代わりだった。途中からは意地と成り行きだった。そういう時間があって――夫がいて子供がいる幸せな家庭を失って、失ったから今の私が、今の私の家族がいる。あのたまらなく辛い時間が、お金がなかったりなんだりでキリキリする時間がなかったら今の幸せはないわ。だから、どっちも大切で、必要なものなのよ、私にとってはね」
「…………」
「それに」
 またにこっと、まるで童女のように微笑んで。
「可愛い子供たちを育てて、一人前にしていくのはとっても楽しくて幸せなことだしね」
「……よくわかりました」
 ロンがふいにすい、と立ち上がった。なにをする気だと構えるラグを無視して、ヒュダの前まで歩み寄りひざまずく。
「あなたはすばらしい方だ。俺はあなたを尊敬します。あなたの人生に、これからも幸せがあり続けるように」
 厳粛な面持ちでそう言うと、ヒュダの手を取り、軽く口付けをした。
「…………っ! なにをやってるんだ、ロン!」
「敬意を表しているだけだ。どうしたラグ? そんなに母親を独り占めしたいのか?」
「……っ、別にそういうわけじゃないっ!」
「珍しいな、声の調子が乱れてるぞ?」
「ロン……!」
「はいはい、二人ともやめなさーい!」
 ぱんぱんぱん、とヒュダが手を叩く。にこにこ笑顔で自分たちの間に割って入った。
「ラグ、あなたが私を大切に思ってくれてるのは嬉しいけど、なにもそんなにムキになることはないのよ。ロンさん、あなたもラグをからかわないの」
「う……」
「これは失礼」
 飄々とした顔で肩をすくめて見せるロンに、ヒュダはふぅ、とため息をつくと、また笑顔になった。
「しょうがないわね、二人にはちょっと罰を与えます」
「え……」
「……俺もですか?」
「もちろん。それからセオくん、フォルデくん。あなたたちにも手伝ってもらいたいんだけど、いいかしら?」
「え、は、はい、俺でできることでしたら……」
「……つか、なにすんスか?」
 自分たちのやり取りに気圧されていたのがまだ抜けきらないのか、腰を引かせながら聞いてくるセオとフォルデに、ヒュダはにっこり笑ってうなずいた。
「もちろん、お仕事よ。働かざるもの食うべからず!」
「え、えぇぇ……?」

「……それでここの飯作りの手伝いねぇ。ま、いいけどよ」
 しゅるしゅると器用にジャガイモの皮を剥きながら肩をすくめるフォルデに、セオはおずおずと言う。
「で、でも、ヒュダさんが夕食をご馳走してくださるのに、なにもしないのはどうかと思いますし、働かざる者食うべからずっていうの当たってると思いますしっ、それにせっかくラグさんが家族と食事ができる、んですから、それを妨害するのは、どうかな、って……」
「だっから別にいいっつってんだろーがよ、細けー奴だな」
「う、ごめ……ごめんな……」
「あーもーこんなことで泣いてんじゃねーよタコッ」
「ほらほら、二人とも手を動かす! 急がないと時間までに終わらないわよ!」
「わーってるよっ」
 フォルデはぶっきらぼうに答える。だが表情は落ち着いていた。最初は少しヒュダと接するのに気後れ気味な印象があったが、今ではもうすっかり心を許しているらしい。
 それはやはりヒュダの開けっぴろげな性格によるものだろう。一緒に料理を作ろう、という提案にしり込みする自分たちに、にこにこしながら台所に連れ込んでぽんぽんと指示を出しいつの間にか料理を作る手伝いをさせている。
 ラグとロンは大量の食材を買出してから手伝いに加わるのだそうだ。ロンもそれをごく自然に受け容れている。
 ラグが世界で一番愛していると言うのもうなずける懐の深さと器の大きさ。不思議な人だな、とセオはこっそりヒュダの様子をうかがった。
 ヒュダはトントンと軽やかにピーマンを刻んでいる。セオの視線に気づいて、手を動かしながら「なぁに?」と微笑みかけてきた。
「いえっ! あの、なんでもないんですっ! ただ、あの、その……ごめんなさい……」
「謝らなくてもいいわよ、あなたの視線は嫌じゃなかったし」
「…………ごめんなさい…………」
「気にしなくていいったら、別に気を遣ってるわけじゃないから。百人以上も子供を育ててるとね、自然とこういう風になっちゃうものなのよ」
「あ、ご、ごめんなさい!」
「あなたは別に馬鹿にするつもりで言ったんじゃないでしょう? だったら気にしないでいいのよ」
「………ごめんなさい………」
「大丈夫よ、私慣れてるから」
「……あんた、よくこいつと話してて苛つかねぇな」
 本気で感心した口調でフォルデが言う。ヒュダはナスの皮を剥きながら器用に首を傾げた。
「あら、どうして?」
「こいつなに言っても謝るばっかでまともに話しようとしねぇじゃん」
「……ごめんなさい……」
「だっから謝る暇があんなら改善しようとしてみやがれってんだよ!」
 そう怒鳴るフォルデに、ヒュダは包丁をまな板の脇に置いて、ぴん、と額を弾く。
「てっ! なにすんだよ!」
「怒鳴らないの。あなたが腹を立てる理由はわかるけど、だからって気の弱い子に怒鳴ったりしちゃ怯えちゃうでしょう? 別にあなたが怒ってるわけじゃなくたって、気のちっちゃい子っていうのは大きな声出してるだけで自分が怒られたんじゃないかと思ってびくってしちゃうんだから」
「…………。そうなのか?」
 フォルデに顔を向けられて、セオは慌てた。
「いえっ、あのっ、別に、そのっ、そういうわけじゃ、いえヒュダさんが間違ってるっていうわけじゃないんですけどっ、フォルデさんは全然悪くなくて、俺が馬鹿で臆病なのが……」
「……この人の言う通りなわけな。ったく、だったら最初っから言えっつの」
「いえっ! 違うんです、俺が弱虫なのが」
「自覚してんだったらとっとと直しやがれっていっつも言ってんじゃ……!」
 ぴん、とヒュダがまたフォルデの額を弾く。
「だから怒鳴らないの。そんなんじゃ自分が悪かったって思ってても伝わらないわよ?」
「え?」
「バッ、バカ、なに言ってんだあんた!」
「セオくんに怖がらせて悪かったって言いたいんでしょ?」
「え……」
「違ぇよっ!」
 真っ赤になって噛み付くフォルデに、寸秒たりとも手を止めず話しかける。
「それと。たとえ悪いところを自覚してたって人間の性格なんてそうそう変わるもんじゃないの。あなただってすぐカッとなるところとか直そうと思ってもなかなか難しいでしょう?」
「べっ、別に俺は自分が悪ぃなんて思って――」
「意地張らないの」
「黙れよあんた!」
「はいはい」
 ヒュダは怒鳴られても涼しい顔で調理を続ける。セオは思わず尊敬の眼差しでヒュダを見つめてしまった。ラグにもそういうところはあるが、フォルデの怒りをこんな風にあっさりと軽やかに流して優しく注意までできるなんて、この人はやっぱりすごい。
 しばらく黙ってそれぞれ手元の仕事を片付けていたが、ふいにフォルデが芋の皮を剥きながら訊ねた。
「なぁ……ヒュダさん」
「なぁに?」
「ラグって、ガキの頃どんな奴だった?」
 セオは思わず耳をそばだてた。それは、自分も知りたいと思っていたことだったのだ。
「そうねぇ。ラグは二十年前――八つの時にここに来たんだけど。その頃は……ふふっ、ずいぶんやさぐれてたわねぇ」
「……え?」
「やさぐれてたって……ラグがかぁ!?」
 驚く自分たちをくすくすと笑いながら、ヒュダは続ける。
「ここに来る前ね、ラグはずいぶんひどい目に遭ってたらしいの。詳しいことは話してくれなかったけど、血の繋がったお母さんが亡くなって、持っていたものを全部奪われて。それでスラムの子供たちの組に加わったみたい。その頃からずいぶん体大きかったから優遇されてたんじゃないかしら。まぁ、初めて会った時には通り魔強盗としてだったって言えば、そのやさぐれ具合が見当つくかしら?」
「通り魔強盗っ!? マジか!? あいつンなことしてたのかよ!?」
「…………!」
 セオも、おそらくフォルデも仰天していた。あのラグが。いつも優しくて、穏やかで、普段はまず怒った顔なんか見せないラグが。誠実で間違ったことを決してしようとはしないあのラグが、通り魔強盗だなんて。
「まぁ、この街ではさして珍しくない話なんだけどねぇ。他にもそんな風にして出会った子はたくさんいるわ」
『…………』
「それで一緒に暮らさないか、って聞いて。最初は驚いて渋ってたけど、そっちの方がお金を奪いやすいわよって説得したらうなずいて。一緒に暮らすようになったんだけど――最初はめちゃくちゃ警戒してたわねぇ、私のこと。信用できない、自分の母さんはただ一人だけだ、って顔して、家を飛び出すこともしょっちゅうだったわ」
「……それがどうやって、あんな風に……」
「どうやって、っていうほどのことはないわ。一緒に楽しく暮らしていたら、自然と気も許すし相手のことを好きにもなるものよ。あの子はその変貌具合が特に激しくてねぇ。十歳の頃は母さん母さんって私にひっつきっぱなしだったわ」
 フォルデがぷっと吹き出す。
「マジかよ」
「もちろん。……そうして日々を過ごすうちに、あの子はすごく優しくて一途な子に育って。十六になる前に、傭兵ギルドに殴り込みをかけたのよ。雇ってくれって」
「……マジで?」
「ええ。その頃からあの子は並外れて体が大きくて、力も強かったから。兄や姉が私のところにお金を届けるのを見てて、自分にだってって思ったんじゃないかな。私がお金を受け取るたび、兄や姉を羨ましそうに見てたもの」
「…………」
「それがあの子が十四の年。それから傭兵として世界中を巡って、定期的にお金を届けてくれて。年に一度、私の誕生日には必ず戻ってきてプレゼントをくれるのよ」
「…………」
 セオとフォルデは手を動かしながら黙り込んでいた。ラグの過去。今まで垣間見ることもできなかったラグの人生に触れてしまった気がしたからだ。少なくとも、自分は。
 ふと、思った。――ラグは、どうして自分の旅に一緒に来ようと思ってくれたのだろう。最初は報酬の見込みなんて、まるでない旅だったのに。
「あなたたちはなにか好きなことはある?」
 ヒュダに突然聞かれて、セオはうろたえた。
「あの、その。好きなこと、って?」
「生きがい。やりたいこと。やっていて楽しいこと。趣味。生きる目的。なんでもいいから好きだなぁ、って思えることよ」
「な、なんだよ、突然」
「あら、別に変なことじゃないでしょう。自分の子供の仲間がどんな人か、ちょっとくらい私も知っておきたいわ」
「……百人以上いるガキにいちいちそんなことしてんのか?」
「ええ。だって楽しいんですもの」
「……ったく」
 フォルデはわずかに苦笑して、それから考え込んだ。
「好きなこと……好きなことねぇ。金持ちからもの盗むのは生きがいっちゃ生きがいだけど……好きかどうかって聞かれると……うーん」
「金持ちから≠チていうのがフォルデくんとしてはこだわるところ?」
「っせーな、別にいいだろ。俺は金持ちとか王侯貴族とかそーいう奴らが右往左往すんのを見るのが好きなの。それが自分の手でやったことならサイコーだね」
「なるほどねぇ」
 ヒュダはふふっと笑い、ひょいと手を伸ばしてくしゃりとフォルデの頭を撫でた。
「! なっ、なにすんだよっ!」
「ん? お人よしのいい子だなぁ、って思ってね」
「なっ……」
 フォルデはしばし絶句して、口をぱくぱく開け閉めし、それから顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。
「馬鹿言ってんじゃねぇっ。……価値観狂ってんじゃねぇのか」
「ふふ」
「……ったく、ンなこと言ったのあんたが初めてだぜ……」
 最後の言葉は口の中で小さく呟かれただけだったので、ヒュダには聞こえなかっただろうと思うのだが、ヒュダはくすくすと笑ってフォルデの頭をまた撫でた。
「やめろって!」
「あはは。セオくんは?」
「え……と、俺は……」
 セオはしばしなんと答えるか迷った。自分などがなにかを好きと言っていいのかという思いもあり、自分の醜い執着を見せてヒュダが不快な気持ちにならないかという思いもあり。
 そして、この人に自分の好きなことを言いたい、知ってほしいという思いも、確かにあった。
「俺は……」
「うん」
「……本を、読むのが、好き、です」
 言ってしまった、と羞恥に顔を伏せるセオに、ヒュダは笑顔で言葉を重ねる。
「どんな本が好きなの?」
「あの、えっと、本なら、なんでも……でも、小説が、特に、好き、です」
「あぁ、それでお前自伝小説なんて書いてんだな」
 ふいに割り込んできたフォルデに、セオは仰天した。そんなことまで知られたいと思っていたわけではない。
 反射的な恐怖で固まるセオに、ヒュダは興味深げな顔で訊ねてきた。
「セオくん、自伝小説書いているの?」
「え! あ、あの、あの、その、そんな大したものじゃ全然ないんですけどっ、もう習慣になってるていうか、書かないと落ち着かないっていうか」
「それはやっぱり、セオくんが勇者だから?」
「え? い、いえ、別に……そういうわけじゃ。ただ、習慣で……自分の考えたこととか、感じたこととか、起こったことなんかを、小説仕立てにして書くのが、あの、楽しくて……それで」
「そうなの……」
 ヒュダは考え深げな顔で深くうなずく。セオが恐怖で震えだしそうになりながら、「ごめんなさい」と謝ろうとした時――
「セオくん。その小説、絶対にちゃんと、最後まで書きなさい」
「え……?」
 思ってもみない台詞にぽかんとヒュダを見つめるセオに、ヒュダは真剣な面持ちで言ってくる。
「セオくんのためにも、世界中の人のためにも、絶対その方がいいわ。世界のために、あなたは小説を書くべきよ」
「あの……なんで、ですか……?」
 ラグやロンやフォルデだって、自分が小説を書くことを責めはしなかったけど、それに価値を認めたわけではなかったのに。エリサリは読んでみたいなどと言ってくれたが、あれは好奇心のなせるわざだと思うし。
 だがヒュダはこの上なく真面目な顔でセオに言う。
「セオくんが幸せになろうとなかなか思えない子で、勇者だからよ」
「え……?」
「セオくん。人間がどんな時に一番物語を必要とするか、わかる?」
「え……」
 セオはきょとんとした。そんなことは考えたことがなかった。
「あの、わかりません……」
「それはね、現実に押し潰されそうな時よ。受け容れようのないどうしようもない現実をなんとか飲み下すためには、物語が必要なの。私みたいにね」
「どういう、ことですか……?」
「人生には受け容れがたいことがいくつもあるわ。もうどうしようもないこと、自分の力ではどうにもならないこと、認めたくない、認めてしまったら生きるのが苦しくなることが。そういうことを受け容れるには、物語が必要なのよ。過去の苦しみも、今の辛さも、すべてが未来のいつかには『そういう過去があったから現在の幸せがある』と思えるように心を励ましてくれる、めでたしめでたしで終わる物語がね」
「…………めでたし、めでたしで終わる、物語…………」
 半ば呆然としながらセオはその言葉を聞いた。そんな風には――今まで考えたことがなかった。
「それに、楽しくて面白い物語は、辛い現実を一時忘れさせてくれるわ。どうしようもなく落ち込んでいる時に立ち上がる気力を与えてくれる」
「…………」
「人生というのは物語よ。自分の物語は幸せがいっぱいであってほしいと誰もが思うわ。だけど現実はそううまくはいかない。だから&ィ語が必要なの。自分の人生はめでたしめでたしで終われると思えるような、今の苦しみが未来の幸せに繋がるのだと教えてくれるような、自分の人生という物語には今の苦しみが必要なのだと考えられるような物語がね。――そうしてみんな、苦しみをなんとかやり過ごして、自分の物語を作っていくのだから」
「…………」
「そして、セオくん。君は勇者だわ。勇者の人生を描いた小説を、きっとたくさんの人が読むでしょう。そして思うの。『自分だって』って。『こんなに苦しんでいるのにめでたしめでたしで終わってるんだから、自分だって』ってね。現実を認める勇気を持つ手助けを、きっとあなたの書く小説はしてくれる」
「…………」
「だから、セオくん。その小説を頑張って書きなさい。そしてめでたしめでたしで終えられるように、頑張りなさい。幸せになれるように。――それはきっと、あなたを救うことになる」
「…………」
 ヒュダの真剣な瞳の輝きを、自分がどこまで感じ取れているのかセオには自信がなかった。言っていることも理解はできるがそれがすべて正しいのかどうかはわからない。
 でも、けれど。ヒュダが自分のことを真剣に考えて、大切に思って、本当に自分の書く小説に価値があると思ってくれているのを感じ取り、泣きそうになりながら。
『母親って、こんな感じなのかな……』
 そんなことを切ないような嬉しさの中で、ぼんやりと思った。

戻る  次へ
『君の物語を聞かせて』topへ