イシス〜ピラミッド――3
 フォルデは仏頂面でイシスの街を歩いていた。陽射しはまだ厳しいが、巨大なオアシスのほとりにある街のせいか涼しい風が通るのでフードをかぶっていればそう暑くはない。
 エラーニアは勇者についての話のあと、突然こんなことを言い出したのだ。
「そうだわ。せっかくだから、女王陛下に会っていかれてはいかが?」
「え? 女王陛下……ですか?」
「イシスの無二の宝重、ネフェルタリィ陛下か。まぁアリアハンの勇者の名があれば会えるでしょうが……」
「なんでわざわざ女王なんてもんに会わなきゃなんねーんだよ」
 強がって言うと、エラーニアはくすくすと笑って言う。
「陛下はこの世ならぬとさえ言われるほどの美貌の持ち主でいらっしゃるという噂を聞かれてはいないのかしら? まだみなさんお若いのに、枯れていらっしゃるのですね」
「べ、別にそーいうわけじゃ……つか、あんたには関係ねーだろっ!」
 フォルデは即座に噛みついた。美人に興味がないわけではないが、女王というだけで好奇心を削ぐには充分だし、なによりそんなところでがっつくのはフォルデの主義に反しているというだけなのだ、枯れている呼ばわりされる覚えはない。
「エラーニアさん……なにか、ご存知なんですか? 女王陛下に会う必要があるようなことを」
「必要、というのとは少し違いますが。女王陛下にお会いすれば、あなた方は必ずなにかを得ることでしょう」
 エラーニアは確信を持った表情で静かにうなずいた。
「なにか、とは?」
「それはわかりません」
 エラーニアはきっぱりと首を振る。その動作にはやはり確信がこもっていた。
「けれど、あなた方は女王陛下に会えば必ずなにかを得ます。それは間違いのないことですよ」
 そう主張するエラーニアに逆らえず、自分たちはエラーニアの紹介で女王に会うことになったのだった。
 そしてエラーニアが(元)勇者専用の王家直通の遠話用魔道具で女王に連絡を入れるやとんとん拍子に話が進み(なんでも自分たちの存在はイシス国内に入った時から女王に知られていたらしい。監視というほど厳重なものではないが定期的に様子をうかがう人間を派遣していたと聞き、フォルデはむかっ腹が立った)、今日の晩餐を一緒に取るということに話が決まり。夕刻にエラーニアの家に集合、それまでは自由時間ということも同時に決定し。
 セオは魔術師ギルドの図書館へ向かい、ラグは武器屋を見て回ると言い、ロンは噂を聞き込んでくると宣言し。そのどれにつきあうのも気が進まず、フォルデは一人、面白くない気分で街をうろついているのだった。
「くそ……なんだってんだ、けったくそ悪ぃ」
 フォルデは苛々と呟く。エラーニアの話を聞いた時からずっとそうだ。
 彼女の勇者に対する薀蓄を聞いてから。腹の底がムカムカと治まりがつかない。面白くない。苛立たしい。なにかとてつもなく不満なことがあるのに、それがなにかわからないというか。
 これはあれに似ている。ちょっといいなと思った女を、他の男にかっさらわれた時。自分としては別にどうとも思っていないつもりなのに、心には確かに穴が開いていて、ふとした時に自分がひどく苦しんでいることに気付き自分で驚くのだ。
 なにを考えてんだ俺は、とフォルデは苛立たしげに思考を断ち切った。勇者の話がなんでそんなもんと関わりあるんだ。
 イシスの街はオアシスが近いとはいえ埃っぽく、砂の色にまぶされて見える。それにすら苛立ちながら歩いていると、ふいに足元を小さな影が駆けた。
「?」
 反射的に目で追うと、それは子狐だということに気がつく。こんな街中で? と不審に思い、なぜか足元にくるくるとまとわりついているそれを抱き上げた。
「おい、お前どこの子だ? 誰かの飼い狐か?」
 当然だが訊ねても答えは返ってこない。腕の中でもぞもぞと体を動かす子狐に苦笑して、地面に降ろしかけたとき、声がした。
「あの……もし……旅のお方」
 フォルデは思わずびくり、とした。なんだ、この声。体の奥にぞくりとなにか悪寒のようなものが走り、背筋が震えた。なんだ、この声は。指先をびりっと痺れさせるような、この声は。
 声の大きさはひどくか細く、弱々しい。なのによく徹る。静やかなのに清かで、雅やかとすら言えそうなこの声をなんと表現すればいいのだろう。
 一言でいうなら、淑やか。生まれた時から人にかしずかれ、尽くされてこなければ出せない、穏やかなのに無視できない、そんな声。
 フォルデは思わず声のした方を見てしまった。そこには馬車があった。この砂漠の国には似つかわしくない木製の、豪奢な二頭立ての四輪馬車。馬も馬車も相当な値打ちものだと見ればすぐわかる。御者席にはエジンベア風の執事用職服を着た初老の男までついているほどだ。
 その馬車の上部に開けてある窓が開いて、手が差し伸べられていた。驚くほどに白く、なよやかな手。労働を知らない手だった。
「その子を、返していただけないでしょうか」
 ずんと体の奥まで染み透るような声に惑乱し、相手の言葉を理解するのに数秒の時間がかかった。
「……こいつ、あんたのなのか」
 腕の中の子狐を高く差し上げると、穏やかな声が返ってくる。
「はい。その子は私が飼っている子なのです」
 こちらを圧する気配はないのに、人を問答無用で従わせる響きを持つ声。フォルデはぎりっと奥歯を噛んでそれに耐え、ふんと笑ってみせた。
「そんな高いとこから人に頼みごとしてんじゃねーよ。お願いすんなら相手と同じとこに立ってすんのが礼儀だろ。あんたてめぇを何様だと思ってんだよ」
 怒らせるつもりで言った言葉だった。実際執事風の男はぎゅっと険しく眉根を寄せる。
 だが、声の主はくすりと、あくまでたおやかに笑った。
「そうですね。それでは、私が今そちらへ参ります」
「え……」
「お嬢様! いけません!」
 執事服の男が止めるよりも早く、馬車の扉が開いた。
 最初の印象は、白≠セった。全体的に驚くほど色素が薄い。自分と同じ銀髪に(ただし彼女は腰まで伸ばしている)、明翠色の瞳。肌は一度見た最上級の絹より柔らかく、白い。
 雪の結晶、あるいは深い森の奥の訪れる者のいない澄んだ泉。柄にもなく、そんな比喩が浮かんだ。
 少女はふわふわと舞うような足取りでフォルデの前までやってきて、手を差し出した。
「改めて、お願いします。その子を返していただけませんか?」
 間近で聞くとまた威力がすごい。伏して従ってしまいそうな体を必死に叱咤し、ぶっきらぼうに「おら」と子狐を差し出した。
「ありがとうございます。……ふふ、お帰りなさい、ティト」
 子狐はキュウキュウと鳴きながら少女の手に戻り、その驚くほど細い腕や肩を駆け回る。少女はくすくすと笑いながら、子狐の相手をしてやっていた。
 しばらく子狐を遊ばせたあと、少女は子狐を執事に渡し、頭を下げる。
「本当にありがとうございました。私は、ヴィスタリア・フュメーナと申します」
 ヴィスタリア。その響きに、フォルデの体はまた震えた。なぜだろう、普段の自分ならたちまち顔をしかめそうな貴族風の名前なのに、この響きはなんだか、心地いい。
 ヴィスタリアはすっと、手を差し出す。
「あなたの、お名前は?」
 ごくりと唾を飲み込んでから、なにやってんだ俺はと舌打ちし、ぶっきらぼうに言う。
「フォルデ。銀星のフォルデだ」
 ヴィスタリアは小さく小首を傾げた。
「銀星の、フォルデさま」
「…………」
「いい、お名前ですね」
 にこ、と微笑むヴィスタリア。フォルデはなぜかカッと頭に血が上り、ふんとそっぽを向いてごまかした。
 ヴィスタリアは、しばし微笑みながらそんなフォルデを見つめ、ふとまた首を傾げる。
「ときに、フォルデさま……先ほど顔をしかめられていたようですけれど、なにかお悩みでも、あるのですか?」
 どきりと心臓が跳ねたが、知らないふりをして訊ね返す。
「なんでだよ」
「フォルデさまを見て、そんなように感じられたんです。苦しんでいらっしゃるようだ、って」
 フォルデの顔がまたカッと熱くなった。堪えきれず、「うるせぇ!」と叫んで身を翻そうとする――
 とたん、ヴィスタリアの体が大きくふらついた。フォルデは仰天し、慌ててそれを支える。
「おいっ、どうしたんだよっ」
「ごめん、なさい……私、陽の光の下にずっといると、めまいが……」
「なっ……だったらこんなとこ出てくんじゃ……!」
 怒鳴りかけて思い出した。彼女が馬車から出てきたのは、自分が挑発したからだ。
「……あーっ、もうっ!」
 叫んでヴィスタリアを抱き上げ、フォルデは馬車に早足で向かった。自分にできるできる限りの力でそっと、ヴィスタリアをクッションの敷かれた馬車の座席に横たえさせる。
 懐から痕跡消し用のハンカチを取り出し、そっと扇ぐ。馬車の中は冷却用の魔術が付与されているのか涼しかった。そして懐から水袋を取り出し、軽く口に含ませる。初老の執事はそれを止めようとはしなかった。
 ヴィスタリアの喉が動くのを確認し、ほっとしてから猛烈に恥ずかしくなってきた。なにやってんだ俺、さっき会ったばっかの奴に。水までやって。なにも俺が飲んだ水袋使わせなくたってよかっただろーに。
 ヴィスタリアはしばらく扇いでいると気分がよくなったのか、わずかに首を動かして微笑んだ。その笑顔に、なぜか心臓が跳ねる。
「ありがとう、ございます」
 柔らかい声で、礼を言われた。
「優しいんですね、フォルデさま」
「なっ……べ、別に俺は優しくなんかねーよ。つか、さま付けすんな気色悪ぃ」
「では、どうお呼びすれば?」
「呼び捨てでいい」
「そういうわけには。では、フォルデさんとお呼びしてよろしいですか?」
「……好きにすりゃいいだろ」
 ぶっきらぼうに言うと、なぜかヴィスタリアはくすくすと笑った。
「フォルデさん。あなたはなぜ、先ほどあんなに苦しそうなお顔をしてらっしゃったのですか?」
 真剣な声音になって聞いてくる。フォルデはぶっきらぼうに返した。
「あんたにゃ関係ねーだろ」
「関係ないといってしまえば、そうなのですけれど。なんだか、気になってしまって」
「気になりゃ無遠慮に聞きだしてもいいってのかよ。お嬢様の思考っつーのは幸せにできてんな」
「ごめんなさい、そういうつもりでは」
「…………」
 なぜかひどく罪悪感を抱き、罪悪感を抱いた自分に腹を立て、フォルデはヴィスタリアを扇ぎながらそっぽを向いた。
 しばしの沈黙。それから、滑るように言葉が耳に入ってきた。
「私、あまり長く生きられないだろうっていわれているんです」
「っ!?」
 思わず顔を見つめる。ヴィスタリアは変わらず優しく微笑みながらふんわりとした声で続けた。
「おっしゃるとおり私の家は資産家なのですけれど、生まれつき体が弱くて、十五歳までもてば上等、二十まで生きられれば奇跡だといわれてきました。私は、今十五です。死ぬ前に美しいものをたくさん見ておこうと両親にわがままを言って世界中を旅して回っていて……だからというわけではないのですけど、心残りを残したくなくて。気になったことはすぐに聞いてしまうんです。ぶしつけでしたね。本当に、ごめんなさい」
 寝たまま小さく礼をする。フォルデはなにを言えばいいのかわからず、無言で彼女を扇いだ。
 しばしの沈黙。密室で二人きり、息詰まるような気配。
 ヴィスタリアは横たわりながら、じっと穏やかな目でこちらを見ている。――その瞳に堪えきれず、フォルデは言ってしまっていた。
「……俺、今、勇者のパーティにいるんだけど……よ」
 言ってからすぐ後悔したがいまさらやめるわけにもいかない。ヴィスタリアは上品に驚きを表して手を口に当てた。
「まぁ……勇者の?」
「勇者っつってもうぜーし卑屈だし人の言うことわかろうとしねぇボケ野郎なんだけどよ。そいつが、この国の、元勇者だっつー奴に、言われたんだよ」
「なんと?」
「……魔物を救えねぇか、常に問いかけ続けろって」
「魔物を?」
「ああ。それだけじゃねぇ。世界を救おうとし続けろって。世界の理不尽に絶えず、異議を唱え続けろって。そうじゃなきゃお前は勇者じゃなくなる、って」
 そうだ――自分は、そのことがずっと腹立たしくてしょうがなかったのだ。
「俺、それ聞いて……なんか、すげー腹立って」
「まぁ……なぜ?」
「だってよ! おかしいじゃねぇか、そんなの! あいつにあのままでいろっつってんだぜあのババア! 魔物とまともに殺し合いもできねぇような、自分以外の誰かを守るためじゃなきゃ剣もまともに振れねぇような、どころかてめぇの命張ってずたぼろになっても敵も味方も守ろうとし続けるような大阿呆でいろって!」
「聞いていると聖人のような方に思えますが……それをなぜ大阿呆だと?」
「そうかもしんねぇけど! 俺はムカつくんだよ!」
 フォルデは拳を全力で握り締めて叫んでいた。今でも言われた直後のように思い出せる、あの腹立ち、憤り。
「なんか……なんか、ヤじゃねぇか。あいつは馬鹿でよ、すっげー馬鹿でしょーがなくて、俺たちも苦労させられて」
 そんなことはどうでもいいことだった。ただ。
「いつかは変わるんじゃねぇかって思ってたけど、それが正しいって、そうじゃなきゃ勇者とはいえねぇみてーなこと言われちまって」
 あいつに変わってほしいと、今の自分はおかしいとそう思ってほしいと、そうでなければ絶対に早死にしてしまうと思っていたのに。
「あいつもそう思っちまうのが……なんか、すげぇムカつくっつーか……ヤなんだ、あいつは絶対間違ってんのに。あいつは大馬鹿の大阿呆なのに、それでいいって思っちまったら、あいつが、あいつが……」
 他人のためにだけ人生と命を使うことを、正しいと思ってしまうのではないかって。
 そう思考する自分に気付きみるみる勢いを失うフォルデの言葉。その合間に滑り込むように、ヴィスタリアは静かに笑った。
「フォルデさんは、やっぱりお優しいです」
「なっ……」
「だって、その勇者さんが大切だから、そんなに腹を立てられるのでしょう?」
「…………」
「勇者さんが大切で、勇者さんにも自分を大切にしてほしくて、自分のために生きたいと思ってほしくて。なのにそれが否定されてしまったのではないかって思って腹を立てていらっしゃったのでしょう?」
「…………」
 フォルデは真っ赤になってそっぽを向いた。素直にそうだというのは照れくさいが、この少女に怒鳴るわけにもいかない。
 ヴィスタリアは顔に優しい笑みを浮かべたまま、首を傾げる。
「勇者さんは、フォルデさんのそのお気持ちをご存知なのですか?」
「……いや」
 そんなこと素面で言えるか。
「それなら本当に、その勇者さんは、そのまま生きていかざるを得ないかもしれませんね」
「なっ」
「たぶんですけれど……その勇者さんは、自分に価値を認めていないのだと思います。自分になど生きる価値はないと。生存すら許されていないのだと。だからひたすらに他人に尽くそうとする。自分の生でなく、他人の生にしか価値を見出せないから」
「………なんで、わかんだよ」
 ヴィスタリアは小さく、苦笑の形に頬を揺らした。
「私も、自分が面倒を見られながらでしか生きられないとわかった当初は、それに似た気持ちでしたから」
「っ……」
 言葉を失うフォルデに、ヴィスタリアは続ける。
「他人のためになら自分なんてどうなってもいいという考え。それをそこまで強固に胸に抱いていらっしゃるのでしたら、一朝一夕にその習性は変わるものではないと思います。誰かに大切だ、価値があると言ってもらってもそう簡単には信じられない。その人が親切だから、いい人だから自分に優しくしようと言ってくれているのだと考えてしまうんです」
「………じゃあ、どうすりゃ」
 ヴィスタリアは微笑み、言った。なよやかな体に、溢れるほどの優しさをこめて。
「伝え続けることです。言葉と、行動で。あなたが大切で、生きていてほしい、自分を大切にしてほしいのだと。何度も、何度も」
「…………」
「きっとそれですらその方が自分を大切に思えるようになるには時間がかかることでしょう。でも、諦めずに何度も伝え続けていれば、きっと」
 その方も、自分を愛することを知るはずです。
 ヴィスタリアはこちらを圧倒するほどの淑やかな笑顔で、そう言った。

 夕方。太陽が西に沈むよりしばらく前。
 エラーニアの屋敷に集合し、エラーニアに茶を振舞われながら待っていると、屋敷の呼び鈴が大きく鳴らされた。きっと王宮からの迎えだろうとエラーニアを含めた全員で玄関に向かい、セオは仰天する。
 そこには輿が四つ用意されていた。屈強な肉体の男たちが四人、輿の周囲でひざまずき、こちらに向かい頭を下げている。
 そして扉のすぐ前に立っているのは、まだ太陽が出ているというのに妙に露出度の高い美しい女性だった。厳しい瞳でこちらの全員を眺め回し、一礼して言う。
「女王陛下からの使いの者です。アリアハンの勇者、セオ・レイリンバートルとその御仲間の方々。あなた方を我がイシス王宮の後宮にご案内いたします」
「あ、えと、その……はい……」
「では、輿にお乗りください」
「え!? で、でも、俺は輿で運んでもらえるような人間じゃ全然」
 蘇るアッサラームの悪夢に慌てて言うと、女性はきりきりっと瞳を吊り上げた。
「女王陛下を侮辱されるおつもりですか」
「え! そ、んな、つもりは」
「あなた方は女王陛下が認められたイシスのお客人。その方々を歩かせて王宮までご案内したとあってはイシス王家の名に傷がつきます。輿をお使いください」
「あの、でも、あの、俺そんな」
「セオ。ここは従っておこう」
「そうそう。礼儀というのは相手の都合を尊重することだということもわからない相手に遠慮しても無駄だぞ」
 くすくす笑いながら言うロンを女性はぎっと睨んだが、ロンは涼しい顔だ。
 ロンさんはすごいなぁ、と思いながらもセオはちらりとフォルデを見た。普段ならこういう時真っ先に怒鳴るフォルデが無言を通している。というか、戻ってきた時から思っていたのだが、なんだか呆けているような?
 セオは思わずフォルデに近づき、訊ねていた。
「あの……フォルデ、さん。大丈夫、ですか?」
「………っ!? なっなっなっなんだよっ、急に顔近づけてくんじゃねぇっ!」
 フォルデは顔を真っ赤にして怒鳴り、後ずさる。セオは困惑しながらも頭を下げた。
「ごめんなさい……あの、大丈夫ですか? なんだか調子が悪いみたいに見えるん、ですけど……」
「だっ、大丈夫に決まってんだろっ。つか間近で喋んな気色悪ぃなっ」
「ご、ごめんなさい……」
「フォルデ」
 ラグが静かに言うと、フォルデはぐっと顔をしかめセオを見つめ、また顔を赤くしてそっぽを向く。向きながらぶっきらぼうに言った。
「悪かったな」
「え? あの……」
 なにがですか、と聞く前に女性が声を張り上げた。
「アリアハンの勇者殿、お早く!」
「は、はいぃっ」
 セオは慌てて輿に乗る。靴を荷役の一人が脱がせてくれ、セオはまた泣きたくなった。
 輿はアッサラームで乗ったものより静かに、そして早くセオたちを王宮へと運ぶ。こっそり日よけ用の布の間からのぞくと、オアシスの湖岸に巨大な城が見えた。
 純白の石を積み上げて作られた横に大きく広がる古代イシス王朝から伝わる王宮。少しずつ傾いていく陽の光に照らされたその城は、輝かんばかりに美しかった。
 中庭で下ろされて周囲を人に囲まれながら歩かされる。城の中は涼しく風通しがよく、砂にまみれてはいるけれど心地よかった。
 柱がいくつも立ち並ぶ広々とした廊下を歩く。果物のように甘やかな香の香りがどこかから漂ってきていた。歩かされること十数分、広々とした場所に出る。そこは広間というべきなのか、驚くほど大きな美しい刺繍のしてある絨毯の上に、いくつも座布団が置かれている、アッサラームでファイサルの屋敷に連れてこられた時案内された部屋と似ている部屋だった。
 ただ、ファイサルの屋敷は派手派手しいまでに色調が明るかったが、こちらは光も色調もやや暗く古びていた。けれど視線を動かすとふとした場所に美しい宝石細工が見事な輝きを放っているのに気づく。空気にまで艶が見えるような、不思議に落ち着く雰囲気の場所だ。
 そしてその一番奥、何重にも重ねられた座布団の上に、周囲に何人もの女性を従え乗っている女性がいた。その女性はにっこりと微笑んで、言葉を発する。
「ごきげんよう。お初にお目にかかりますわ。私がイシス女王、ネフェルタリィです」
 セオは思わず息を呑んだ。美しい。こんな美しい女性をセオは今まで見たことがない。エルフの女王ですらここまでではなかった。というか、そういう普通に考えられる美女とは桁が違う。明らかに違う。
 肌は柔らかく、そして甘く輝くチョコレート色。長い髪は磨きこまれた黒檀の艶。顔貌は神が特別に精力を傾けて念入りに作った芸術品のよう――などという凡俗の賞賛にまるで意味がないように思える。この美しさはそういう段階ではない。
 この世のものではない美しさ。その言葉が一番近い。人間がこんなに美しくなることがありえるのかと思うほど、すべてが完璧な美。こちらを圧倒し、従わせずにはおかない、神の美しさだ。
 全員思わず絶句して女王を見つめていると、女王は慣れているのか微笑みを浮かべたまま手招きをした。
「どうぞ、こちらへ。すぐに皿が運ばれてきますわ」
 セオたちはその言葉に従い、ふらふらと女王の横の座布団に座った。すると待ち構えていたかのようにすぐさま料理の乗った大皿が運ばれてくる。
 女王の周囲に控えていた女性たちの手により金の杯にワインが注がれる。平べったいパンがどんと乗った大皿から、女王はひとつを取ってそれぞれに配られたスープにつけて食べた。セオたちもそれに従う。他にも羊の肉をトマトで煮たものやら果物やらがどしどし出てきたが、正直味がするかどうかはかなり怪しい。
 自分の心身がひどく緊張しているのがわかる。街で女王の噂を聞いた時、女王の美しさの前には魔王すらひれ伏すだろうと言っていた人がいたが、それもさもありなんと思えた。美しいということがこれほど強力な力になるとは考えたこともなかった。
 惹かれるというのではない。むしろ、恐ろしいという感情の方が近かった。人が我が物にできるものではないその美しさに、ひれ伏してしまいたくなるのだ。
 しばらく無言で食事をする。女王はその間それなりの量を食べているのに、少しも音を立てなかった。
 やがて、女王が口を開く。
「セオ殿」
「はい……」
 きた、とセオは全身に力を入れた。
「あなた方はなぜ、私に会おうと思われたのですか?」
「……エラーニアさんが、陛下に会えば俺たちはきっとなにかを得る、と勧めてくださったので」
「そうですか」
 女王は少し考えるように唇に指を当て、それから言った。
「では、食事のあと、湯浴みをして私の寝室にいらしてください」
『!?』
「え? はぁ、はい」
 セオはきょとんとしながら答えた。なんで寝室なんだろう? しかも湯浴みをしたあとなんて注文をつけて。
 ラグたちはさらに緊張の度合いを深めたようだったが、セオにはなぜかはよくわからなかった。

「………なんなんだ、あの女王」
 湯殿に案内されながら、小声でフォルデが言う。ラグが深々とうなずいた。
「確かに美人だけど……なにを考えてるんだろうな。正直、ちょっと不気味だよな……初対面の相手を普通、国家元首が寝室に誘うか?」
「ちょっとどころじゃないぞ、あの女の不気味さは」
 ロンがいかにも忌々しげに言う。
「あの女の美しさは異常だ。人のもてる美しさじゃない。魔法で変身したところでああはなれん。あの女には、なにかおかしなところがある」
「へー。お前女見て美しいとか思ったりすんだ」
 フォルデが感心したように言うと、ロンは眉をひそめる。
「お前な、人をなんだと思ってるんだ。俺は女が好きなわけではないが、容姿の良し悪しくらい認識できるさ」
「それはそうだよな。ロンだって美人は」
「まぁ欲情はまるでせんがな」
『…………』
 ラグとフォルデはなぜか揃って沈黙した。
「でも、湯浴みできるのは、嬉しいです。イシスでは無理だろうって思ってたから」
「……ああ、そうだね。まぁ、この地方は乾燥してるから匂いはあんまりしないけど」
「水浴びくらいならできんじゃねーの? してる奴街で見かけたぜ」
「あれは街の人間が順番を守ってやってるんだ。水は貴重だからな、金持ち以外は水浴びは月に一度の贅沢ってことになってる。旅の人間が水浴びさせてくれなんて言っても追い返されるだけだぞ」
「……ふーん。で、女王陛下は当然みてーに湯浴みなんてもんを毎日なさってるってか。ケッ、けったくそ悪ぃ」
「ならそれ、女王さまに言えるか?」
 ラグが訊ねると、フォルデは身震いした。
「いや。あの女王さんは、なんか、並みじゃねぇよ。なんか妙なもんが働いてる気ぃする。いざっつー時ならともかく、しょーもねーことでご機嫌損ねたくはねーな」
「同感」
「まぁな」
「……でも、女王陛下も、きっと大変なんでしょうね」
「大変? なにがだい」
「だって、あんなにきれいだから。人と接するの、すごく大変だろうって思うんですけど。人と親しく付き合うのとか」
『…………』
「まぁ、確かにな」
「命令聞かせんのにはいいだろうけどな」
「力っていうのはどんなものであれ、その人に正負双方の影響を及ぼすもの……か。確かに大変そうだ」
「あいつもそうなのかな……」
「あいつ?」
 ロンが聞きとがめると、フォルデは顔を赤くしてそっぽを向く。
「なんでもねーよっ」
「なんでもないという顔じゃないだろう。そういえばお前、エラーニア殿の屋敷に集合した時なにか妙だったな。街でなにかあったのか?」
「なんでもねーっつってんだろっ」
 仏頂面でフォルデが言った言葉に、なぜかロンはにっこり笑って顎を撫でる。
「女だな」
「なっ……!」
「なんだ、本当に女なのか。おい、言っておくがつまらん女にひっかかったら俺が承知せんぞ。せっかくその年まで貞操を守り抜いてきたというのに。もったいない」
「おま……あのなっ、妙なこと言ってんじゃねーよっ!」
 と、先導していた女性が足を止めた。天井から透ける布がいくつも垂れ下がった、香の香りが漂う不思議な雰囲気の部屋の前だ。
「こちらです」
 中に入ると、そこは巨大な石造りの池があった。かすかに湯気が立ち上っている。もしかしてこれが湯殿だろうか。貴重な水をこうも惜しげもなく使えるイシス王家の豊かさに感嘆する。
 中に入っていくと、そこには大勢の女官たちが控えていた。え、なんで? と思っていると、その女官たちがいっせいに近寄ってきて自分たちの服に手をかける。
「わっ! な、なにしやがる!」
「服をお脱がせいたします」
「いや、自分で脱げますから!」
「あなた方は女王陛下のお客人。お手を煩わせるようなことがあっては陛下の名に傷がつきます」
「あの、あの、でも、俺たち……」
「すぐ済みますので、どうぞお心静かに……」
「……………………」
「うわっ、馬鹿っ、なにやってんだ離せっ、やめろうわーっ!」
 結局セオたちは、女官にあっという間に丸裸にされてしまった。下帯まで外され、セオは真っ赤になって身を縮める。
 女官たちは目を伏せてはいるものの、湯殿から出て行ってはくれない。ラグも恥ずかしそうだったし、フォルデは顔を真っ赤にして股間を隠していた。
 だが、ロンはひどく面白くなさそうな顔はしているものの、堂々と立ちながら冷静に言う。
「女に見られながらというのは面白くないが、さっさと湯に入ろう。ここまでやられたのなら抵抗するだけ無駄だ」
「はっ、はいっ」
 その言葉に慌てて全員湯に飛び込む。ぬるめのそのお湯は、火照った体に心地よく沁みた。そういえばみんなと一緒にお風呂に入るのは初めてだ、とセオは少しどきどきした。
 フォルデが肩が浸かるまで湯に体を沈めながら顔を赤くして言う。
「……なんなんだ。なんで女に脱がされて風呂入るとこ見られなきゃなんねーんだよっ」
「女王陛下の命令かもしれんな。俺たちの品定めでもするよう言われてるんじゃないか。誰が自分を満足させられるか」
 ロンが冷静な瞳で全員を等分に見ながら言うと、居心地悪そうに体に湯をかけていたラグが顔をしかめた。
「おいおい……勘弁してくれよ。女王陛下と寝るなんてごめんだぞ俺は……」
「ほう、なかなか繊細だな」
「からかうなよ……俺は小心者なんだ。いつ無礼者と首を掻っ切られるかと心配しながら女を抱けるか。ましてや相手があんな異常な美人じゃ、勃つものも勃たん」
「……お前ら、あんまそーいう話すんなよっ」
 フォルデが顔を赤くしながら小さく怒鳴ると、ロンは面白がるような視線でフォルデを見る。
「なんだ、興奮してしまうのか? 若いな本当に」
「ばっ、なっ、違っ」
「まぁ、俺もそれなりにこの状況に興奮してはいるが。女どもに俺たちの姿を見せびらかしながら……というのもなかなか悪くはないしな」
『…………』
 フォルデとラグは絶句して、セオは首を傾げた。なにを言っているのだろう、ロンさんは。
「おまっ……妙なこと言うなっ! つかこっち見んなっ! 視線がやらしーんだよお前はっ」
「ほほう、では視姦ではなく行動で表してほしいと?」
「ロン、お前な、ふざけるのもいい加減に……って、どこ触ってるんだよっ!」
「なにせせっかくの全員での風呂だからな。ちょっと遊ぶくらいいいだろう、俺はまだまだ若いんだ」
「そういう問題じゃないっ!」
「あの、若いと、どうして遊びたくなるんですか?」
「ほほう、それが知りたいと? じゃあセオ、ちょっとお兄さんと隅の方に行こうか」
「なに考えてんだ腐れ武闘家ボケ変態いい加減にしやがれーっ!」

 身を隠しながら風呂から上がると、女官たちがよってたかって体を拭き、薄絹を身にまとわせてくる。恥ずかしかったが逆らったらさらに恥ずかしいことになりそうな気がして素直に従った。
 絹を何枚もまとわされはしたものの、一枚が透けて見えそうな薄いものなので、なんだか体を露出しているような気分で気恥ずかしい。なんとなく全員腰の辺りをもぞもぞさせながら先導の女性に続いて歩く。
 また廊下を歩くこと十数分、階段を登ると、そこはむせ返るような花の香りで満ちていた。冒険者の一団体がごろごろ寝転がれるほど広い絨毯と、その奥の十人単位で悠々寝られそうな巨大な寝台、その周囲を花の山が取り巻いている。
 そしてその寝台の上に女王が座っていた。蛇を象った王冠を外し、宵闇より深い黒髪を広げ、夕食の時より薄い長衣を羽織ってじっとこちらを見ている。セオは思わず背筋がぞくりと震えた。心の奥底まで見通されそうな目だ。
 周囲に座っている自分たちよりさらに薄着の女性たちが、女王が手を上げるとさっと立ち上がりすすすっと退出していく。先導してくれていた女性がちらりとこちらを見て、「お急ぎを。あらぬ噂が立っては勇者殿もお困りでございましょうから」と小さく囁き階段を下りていくと、部屋にいるのは自分たちと女王だけになった。
 フォルデが居心地悪そうにもぞもぞと体を動かし小さくなる。ラグが同じように体をもぞもぞさせながらも、自分とフォルデの前に立つ。ロンはそのさらに前に立って庇うように胸を張る。そんな三人の緊張を意識しながらも、セオは不思議に静かな気分でじっと女王を見つめていた。
 この人は、きっとなにかを自分たちに伝えようとしている。
 女王が口を開き、その音楽のような音の声が響いた。
「なぜ、私が、というよりイシスの王族が家名を名乗らないのか知っていますか?」
 予想していなかった問いに全員目をしばたたかせる。セオがおずおずと答えた。
「えと……イシスの王族は、太陽神ラーの子孫で、特に王位にあるものはラーの同一存在、現人神であるから、世俗の人間のものである家名は名乗らないんだって、聞いていますけど……」
「表向きは、そういうことになっていますね」
「表向きは?」
「真実は少し違います。イシスの王族は全員家名を持っています。それ以外の名を名乗ることなど考えられぬほど魂に深く刻まれた名が。ただ、それを名乗るのに耐えられぬだけ」
「耐えられぬ、とは?」
 ロンのやや詰問するような響きの言葉に、女王は物憂げに笑みを作った。
「私の名はネフェルタリィ。正式な名は、テストケース・ラー・938σ・ネフェルタリィ。そう刻まれています」
「え……?」
 なんだ、それは?
 目を見張るセオたちに、女王は憂わしげな笑みを浮かべながら言う。
「我々イシスの王族が古代帝国人の血を引いているというのはあながち嘘ではありません。我々は古代帝国人の創り出した人造生命体――ホムンクルスの子孫なのです」
『…………!』
「ホム……なんだ、そりゃ?」
「古代帝国人が魔法で創り出した人造生命体だ。神の手によらぬ自然ならざる命……古代帝国の遺跡にでも現在ではほとんど残っていないと聞くが」
「え……じゃ、人間じゃねぇってことか!?」
「フォルデ!」
「いいえ、気にする必要はありません。その方の言葉は正しいのですから」
 女王は――ネフェルタリィは微笑んだまま首を振る。
「古代帝国人は神を自らの手で創り出そうと考えたのです。その実験体として創られたのが我々の祖先。古代帝国人は神の実験体が自分たちに逆らうことのないよう魂に刻印を押しました。だから我々は、古代帝国崩壊より千五百年の時を数え血が薄まっているにもかかわらず、屈辱的なその家名……実験番号しか名乗れないのです。名乗れば苦痛が心身を襲う。そのようにできてしまっているのです」
『…………』
「私は先祖返りなのです。人造生命体の特殊能力を多く持って生まれてきた。たとえば私のこの顔貌。普通の人間にはありえぬ形です。これも神の実験体として創られたがゆえの特質」
『…………』
「そして、さらに言うならば……セベク、いらっしゃい」
 にゃーん、と鳴き声をあげながら猫が一匹ひょいと寝台に飛び乗った。毛並みのつやつやとした美しい猫だ。ネフェルタリィはその喉を撫でてやりながら言う。
「セベク、モードチェンジ。デモンモード」
 ざわっ、と猫の体が波打つ。肌の色が変わり、質が変わり、体の大きさが変わる。
 ネフェルタリィの手の中にいた猫は、一瞬で魔族――ベビーサタンへと変わっていた。
 驚き身構えるセオたちに、ネフェルタリィは微笑む。
「心配はいりません、この者は私が支配していますから。これは私の命を狙ってやってきたバラモス配下の魔族なのですが、この程度の魔族ならば核を解析・制御することで支配できる。これも私の力です」
「……なぜ、そんなことを俺たちに? イシス王家の秘中の秘にあたる事柄ではないのですか?」
 緊張に満ちたラグの言葉に、ネフェルタリィはまた微笑んだ。
「ええ。本来ならばけして外部の人間に知られてはならぬこと。けれど、あなた方はエラーニアが紹介した方たち。エラーニアが私のところへよこしたということは、あなた方は魔王バラモスを倒せる可能性を持つ人間だということなのでしょう」
『…………』
「私の力では魔王バラモスは倒せません。全世界の軍勢が徒党を組んでもバラモスを倒すことはできない。私にはわかってしまうのです。バラモスを倒せるのは勇者だけ。世界を救える存在だけなのです」
「………っ」
「セオ殿」
「……はい」
「こちらへ」
 ネフェルタリィはす、と寝台の上を滑るように動き、重ねられた布団の上に横たわって手招いた。セオが反射的に進み出ようとすると、ラグとロンとフォルデがばっと前に出て言う。
「失礼、女王陛下。あなたはなにをなさるおつもりなんですか?」
「俺たちの前で彼を寝台に誘うつもりなら俺たちにも考えがあるが」
「あんたっ……なに、考えてんだよ。こんなガキつかまえて」
 ネフェルタリィは物憂げに首を振る。
「心配は無用。あなた方にもあとで同じことをしていただきます」
「なっ……」
「これはあなた方に私ができる最大限の支援。私はイシス女王としてアリアハンを敵に回すわけにはいきません。できるのは私人として、一個人としての助けだけなのです」
「あっ……あんたなっ、だからってんな、んなこと……」
「セオ殿、こちらへ」
「…………」
 セオは軽く息を吸い込んで、うなずき寝台に乗った。
「おい、セオ!」
 フォルデの呼びかけに答えるより早く、ネフェルタリィが滑るように近づいてくる。
「セオ殿。私の目を見てください。心を落ち着けて、心静かに。私を受け容れてください」
「…………」
 ネフェルタリィの目を見つめながらセオはすぅはぁと深呼吸を繰り返す。緊張はしたが、それ以上になにかを得なければと必死だった。ネフェルタリィの黒曜石の瞳が近づいてくる。
 揺れる。黒が。触れる。かぐわしい花と太陽の香り。優しい、柔らかい。深くまで沈む。どんどん奥へ。奥へ。奥へ―――
 そして一瞬、意識が途切れた。

 泣いている。
 誰だろう、この泣き声。どこかで、ずっと昔にどこかで聞いたことがある。
 自分が今いる場所に気付いた。家だ。アリアハンの勇者、レイリンバートル家の屋敷。
 そこで泣いているのは、泣いているあの人は。
 母だ。
 セオはそれを必死に泣くのを堪えて見つめている。母は自分のせいで泣いているのだから、自分が泣いてはいけない。母を慰めなければ。
 擦り寄って、必死に頭を撫でようと手を伸ばす。昔一度撫でてもらった時、とても心地よかったから。
 けれど母はそれに気づかない。自分が手を伸ばしているのを、泣きながら振り払う。そしてまた泣く。
 そうだ、覚えてる。あの人は自分が物心ついたころ、よく泣いていた。自分のせいで。
 記憶と認識が少しずつ広がって形を成していく。あの人はずっと傷ついてきた。レイリンバートル家は武人の家系。名門とはいえぬ、位としては中の下というところの家だったが、オルテガが生まれたことにより一気に権力の中枢へ飛び込むことができた。
 レイリンバートル家には親戚、そして自称親戚が群がり、金と権力のおこぼれを少しでももらおうと、あるいはレイリンバートル家当主――祖父に成り代わり権力を握ろうと狙っていた。
 母は父と見合いで結婚した名家の娘だった。気位の高い彼女は、オルテガの花嫁として、レイリンバートル家の女主人としてオルテガが誇れる存在であろうと、いつも気を張っていたのだと聞いている。
 だからこそ、セオが五歳の時、勇者の試し≠ナセオが勇者であることが発覚した時は有頂天だった。いかに勇者が生まれやすいといわれるアリアハンでも、二代続けて勇者が出ることなど前代未聞。レイリンバートル家の誇り、さすがデュンヴァルト家のご令嬢。そう賞賛された。
 そして、母は――アルステーデは、初めて自分に目を向けたのだ。
 母は自分の教育に全精力を注ぎ始めた。優秀な家庭教師をつけ、授業を監督し、自らも教育を施した。
 けれど、成果は上がらなかった。
 自分は父とは、オルテガとは違い、どの授業でも天才とは呼ばれなかった。剣術の授業では剣を人に向けて振るうことを怖がり、呪文の授業では理論について考えすぎて実践に時間がかかり。
 母は少しずつ、苛立ち、怒りを自分にぶつけ――そして、泣くようになっていった。なぜできないのかと。お前はオルテガの、この私の息子なのに。
 そういわれるたびセオは申し訳なくて泣きじゃくりながら謝ったけれど、それがまた母を苛立たせるようで、なぜ勇者なのにお前は泣くのかと何度も怒鳴られた。
 母は、今にして思えば子育てに向かない性格だったのだと思う。自分が勇者と認められる前は、自分は母に関心や愛情を受けた覚えがない。乳は乳母に与えさせ、おしめを替えたことなど一度としてない。たぶん子供が嫌いだったのだろう、自分が赤ん坊の頃すり寄っていくと、突き放しはしないものの嫌そうな顔をした。
 そして、教育を施すようになってからは思い通りにならないことが起きるたびに怒り、叫び、泣いた。母は思い通りにならないことが許せなかったのだと思う。今までの人生に、母の思い通りにならないことはなかったから。
 だから自分は、物心ついた頃からずっと、申し訳ないという気持ちでいっぱいになりながら生きてきた。
 母に自分ではない、一人の少年が近づいていく。手に花を持っている。母はそれを受け取り、少し少年と話すと、微笑んだ。
 ゼーマだ。
 ゼーマは自分が物心ついた頃から変わっていない。自分よりずっと優秀で、両親の、特に母の関心を引くのがうまくて、両親の見ていないところでは自分を徹底的にいじめていた。
 今思えば、ゼーマも必死だったのだろう。実の親ではない両親に可愛がられていたところに現れた闖入者。両親の血を引く息子であり、勇者でもある自分。それを排除しようと、少しでも貶めようと必死だった。そうしなければ自分の方が捨てられると思っていたのだと思う。
 そしてゼーマは才能に恵まれていた。わかりやすい優秀さを見せつける才能、優等生である才能、大人に気に入られる才能に。引き取られてきた時にすでに物心ついていたことも幸いしているのだろう、ゼーマは常に母のお気に入りだった。
 母がこちらを見て怒鳴る。巻き藁を断ち割れるようになるまで食事は出さない、家にも入れないと。そしてゼーマと微笑みあいながら家に入っていく。
 だからまだ八歳にもならないセオは、必死に剣を振る。大人用の重い剣を。手にできた豆を潰しながら、何度も何度も。少しでも母の気に染まない部分をなくすために。少しでも母を泣かせないために。
 けれど必死に剣を振って、夜半までかかって巻き藁を割って、召使に家に入れてもらっても、母は起きてはこなかったし、翌朝会った時にはため息をつかれた。オルテガは五歳で巻き藁を断つことができたというのに、と。
 腹をすかせながら眠りについた自分は、そう言われて、また泣いて、母に怒られた。
 父が、それを見ている。アリアハンの勇者、オルテガが。厳粛な表情で、睨むように。
 父が母の行動をどう思っていたのかは知らない。あの人はいつも世界を回っていて、家にはめったに帰ってこなかったし、教育については完全に母に任せていた。
 そして、自分を遠くから見ていた。けして近寄って抱き上げることなく。ただ、見ていたのだ。あの一度をのぞいて。
 ざ、と視界に一瞬灰色の砂嵐が走った。そして、見えている世界が変わる。
 血。血だ。まだ湯気の立っている、熱く紅い血。
 自分の手は血にまみれている。手だけではなく、体中が。当然だろう、一人の人間の首を捻じ切り、引っこ抜いたのだから。
 声がする。両親の声だ。信じられないという顔で、こちらを見ている。
 セオは無表情のまま、それを見返す。一時的に感情を出力する回路が落ちたようになっていて働かない。そう、この時が初めてだった。セオが、人でなくなったのは。
 オルテガが訊ねる。
『お前が、やったのか?』
 セオはうなずく。ごまかすことなど考えつきもしなかった。
 オルテガが、顔を朱に染める。生まれて初めて見る父の激怒の表情。それは次の瞬間、爆発した。
『死んで償え! この愚か者が!』
 オルテガは一気に間合いを詰めて自分を殴る。セオは反射的にかわそうとしたが、オルテガの力はたとえ人でなくなったとしても自分をはるかに上回っていた。オルテガの強烈な、本気の拳がセオの顔をえぐる。
 父は、怒っている。それを認識する。なんで? なんで父上は怒っているんだろう? 今まで一度も怒ったことはなかったのに。自分を見てくれたことはなかったのに。
 母が、こちらを見ている。あれは、恐怖? 自分のことを、さっぱり理解できない存在と、自分とはまったく違う存在として決めている、異質なものを見る表情だ。
『……化け物!』
 母が吐き出すように言う。震えながら。
『鬼、化け物。お前など勇者ではない。人間ではない! お前など生きる価値もない。なんでお前のような奴が生まれてきたのか。お前など生きていてはいけないのだ、死んでしまえばいい!』
 オルテガに殴られている自分を、魔物を見るより憎憎しげな、恐怖と蔑みの目で見つめて言う。
『お前など生きる価値もない。生まれてこなければよかったのだ! お前はあの子を殺したのだから。兄を殺したのだから! お前など人間ではない、生きていてはいけないのだ! お前など――』
 オルテガに殴られ、顔から血を噴き出す自分を、恐ろしいものを見るような目で、泣きながら叫んだ。
『この世から消え去ってしまえばいいのに!』
 その言葉を最後に、映像が歪み始めた。
 そうだ。この時から、母はセオを殴るようになっていった。たいていはまだ熱い火かき棒で、時には茨鞭で。傷つき血を流し、ぼろぼろになるセオを見なければ、まともにセオと話ができないようになっていった。
 なぜなら、自分は化け物だから。産みの母親にも、この世から消え去ってくれと願われるほど厭わしい化け物だから。
 だから、殴られても、傷つけられても、どんなことをされても当然なのだ。自分はこの世で一番価値のない呪わしい存在だから。
 父はあの一瞬の激情のあと、ますます自分を遠ざけるようになっていった。遠くから自分を見るようになっていった。自分に関心を持ったのは、自分に触れてくれたのは、ゼーマを殺した、あの時だけ。
 当たり前だ、自分はこの世で一番価値のない存在なのだから。産みの母親にすら消えろと祈られるような、汚らわしい化け物なのだから。
 セオはそう、理解した。
 だから自分が傷つけられるのは当然なのだ。憎まれるのも疎まれるのも当然なのだ。自分に唯一与えられた存在価値は、勇者として魔王を倒すこと、それ以外ないのだから。
 だから自分は、本当は、自分にも、他人にも、優しくされてはいけない。勇者として魔王を倒すことができなければ存在してはいけない、化け物だから。
 ごめんなさい、ごめんなさい。本当は生きていてはいけないのに、しぶとく生きていてごめんなさい。世界を少しでも守りたいなんて思い上がったことを考えてごめんなさい。
 だって、世界は、こんなにも―――

「……セオ。セオ」
 何度も揺らされて、セオはゆっくりと目を開けた。
「う……?」
「よかった、セオ、目が覚めたか。俺たちと違ってずっと目を覚まさないから心配したよ」
「ああ、女王は心配ないとは言っていたがな。なんだかひどく悲しげな顔をしていたから」
「悲しげ……?」
 なんで、自分はそんな顔をしていたのだろう?
 よく覚えていない、だけど確かに心に残っている。泣きたくなるほどの罪の意識が。
「……女王、陛下は……?」
「あの女なら寝室だ。俺らは今日城に泊まれとさ。明日、星の試し≠受けさせるとか言ってたけど……」
「星の試し=H」
 セオはきょとんと、目を見開いた。

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