イシス〜ピラミッド――4
「お前らは、なにが見えた?」
「…………」
 ロンの言葉に、ラグは小さく唇を噛んだ。聞かれたい話題ではなかった。
「……見えたって、なにがだよ」
「とぼけるな、見えたんだろう、お前らにも。あの女王様に抱かれた時」
 女官たちに案内された客室、テラス。夜の、砂地に月明かりが照り映えるのかぼんやりと光るイシスを背景に、ロンは訊ねた。
 ラグは沈黙を守り、フォルデは口ごもる。ロンはそれを見て小さく肩をすくめ、セオに向き直った。
「セオ、君はなにが見えたか聞いてもいいか?」
「え、あ、はい」
 は、とラグは顔を上げロンとセオの間に割って入る。自分の考えが正しければ、あの女王の力で見させられたものをセオに言わせたくはない。
 だが、セオはあっさりと口にした。
「俺がゼーマを殴り殺して、首をねじ切って、母に化け物と罵られながら父に殴り殺されるところが見えました」
「っ……」
 ラグは一瞬絶句し、うかつなことを聞いてと怒りをこめてロンを睨む。だがロンはなぜか静かにこちらを見返してきた。静かだが力のある視線。正しいのはこちらのはずなのに、ラグは不覚ながらその視線に気圧された。
「おま……んで、そーいうことさらっと、言えんだよ」
「え?」
 顔を苦しげに歪めながら言うフォルデに、きょとんと首を傾げるセオ。
「……っから! なんで、そーいう……思い出すのやだろ!? んなこと!」
「え……なんで、ですか?」
「なっ」
「だって、当たり前のことでしょう?」
「……はぁ!?」
「俺が罪を犯したのも、化け物と呼ばれるような奴なのも、罰されるべき存在なのも、当たり前のことですし、思い出す必要もないくらい当然のことですから、嫌とかそういうことは考えたことないですけど……」
 自分たちがなにに驚いているのかまるでわからない、という顔のセオに、ラグは思わずセオに詰め寄った。
「セオ! いいかい、そういう考え方をしていちゃ――」
「ラグ」
 ラグを腕で制するロンに、ラグは驚愕してロンを押しやる。だがロンはそれをうまくさばいてセオに笑いかけた。
「そうか。君はそう思うんだな、セオ」
「え……はい。間違って、ますか?」
 セオは不安そうな顔になるが、ロンはなぜかにっこり微笑む。
「君はどう思う?」
「え……」
 問われて戸惑ったようだったが、セオはぽつぽつと答えた。
「あの、もちろん、俺なんかの考えが、まともに、正しく、論理展開できて、いるかっていうと、すごく怪しいとは、思うんですけど」
「うん」
「一応、あの。基本的には、間違ってない、と思う、んですけど」
「ってめ……」
「フォルデ」
「っだよ!?」
「少し黙ってろ」
 フォルデは噛み付きそうな顔をしたが、実際に噛み付く前にロンが笑う。
「そうか。君はそう思うんだな」
「あの、はい……」
「だっからなんで」
「少し黙ってろと言ったはずだ」
 静かに言うロンの声に含まれた力に、フォルデはうっと言葉に詰まった。
 ラグもその威圧感になんと言えばいいかわからなくなる。ロンのこの迫力はなんだ。あきらかに普段とは違う。いや、もしかしたらこれが本来のロンなのか? ネフェルタリィにも通じるような、人を圧倒するのに慣れた人間の雰囲気。
 そのこちらを圧迫する妙な威圧感をたたえたロンは小さく笑い、軽く自分たちを見回して言葉を連ねる。
「俺の場合は、初めて惚れたと思った男の思い出が蘇った」
『…………』
 ラグとフォルデは揃って黙った。フォルデもそうなのだろうが、こういう話を大真面目に聞かされても正直表情に困る。話している内容はこんなにふざけているのに。
 いや、そういう考え方はいかんな。ロンにとってはきっと大真面目に語るべき思い出なんだろう。初恋なんだそうだし。ラグはそう自分に言い聞かせるが、『でもあまりまともに考えたい事柄じゃないよな』という本音はかなり大きく、良心的な心の声をだいぶ圧迫していた。ロンの気迫に圧倒されている状態で言えることではないが。
「ラグ、フォルデ。お前らはどうだった?」
 ラグはフォルデと顔を見合わせた。お互い気が進んでいないのは明らかだったが、ロンにこうも開けっぴろげに語られては自分も言わないわけにはいくまい、と覚悟を決めラグから先に話す。
「俺は、ヒュダ母さんと初めて会った時のことを思い出した」
「……俺は……自分が孤児なんだ、って思い知らされた時のことを」
「そうか」
 ロンはあっさりと答え、全員を見渡して語る。
「つまり、全員今の自分を形作っている基礎になる思い出が蘇ったわけだ。あの女王陛下の力で。あの人は嘘をついていなかったわけだな」
「基礎になる、思い出……」
「それを思い出させてどうするつもりなのかは聞いてみんとわからんが。あの人は言っていたな、星の試し≠ニやらを受ける者を選び出せと」
「ああ……」
 ラグはその時のことを思い出していた。あの異常なまでに美しい女王が、初めて表情を動かした瞬間を。

 ネフェルタリィが寝台の上でセオの瞳をのぞきこみ、体を抱きしめた時ラグは慌てた。セオにはまだ早いと反射的に思ってしまったのだ。セオが突然意識を失ってぐったりとネフェルタリィの腕の中へ倒れこんだことにも慌てたが。
 だが、ネフェルタリィはなぜか、力なくもたれかかるセオの体を抱きしめながら、驚いたように目を見開いた。
「………………」
「女王陛下とやら、まさか意識のないセオの体をどうこうするほど悪趣味では――」
 口の端に皮肉な笑みを乗せながら言おうとしたロンが、硬直した。厚顔なロンでさえ、気圧されてしまったのだろう。ラグもフォルデも固まっていた。
 ネフェルタリィ女王陛下の闇より深い黒の瞳が悲しげに歪み、一筋涙がこぼれおちるさまに。
 その涙は女王の官能的な褐色の肌を滑るように流れ落ち、首を伝い、胸の谷間のセオと触れ合っている場所まで行って止まる。その涙の凄絶なまでの美しさに固まっている自分たちに、ネフェルタリィは静かに涙を拭き、セオの体をゆっくりと寝台の脇に横たえさせて言った。
「次はあなたです、ロン殿」
「……俺は女と同じ寝台で寝る趣味は」
「心配はありません、私は眠りません。あなた方の体にも心にも害のあることをするわけではありません、ただ、これを行うと相手はみな眠ってしまうので寝台の上でなければならないのです」
「………あんたはなにをするつもりなんだ」
 ネフェルタリィは静かに、けれど確信を持って微笑んだ。
「あなた方の基を、知りたいのです」
「俺は女に自分のことを詮索されるのは好まんのだが?」
「あなたは自分が最初、なにを得ていたのか覚えていますか?」
「……なに?」
「あなたが生き始めたその瞬間、どれだけ力強く羽ばたけたか。他の誰でもない自らであろうとする力がどれほど鮮烈だったか。私はそれを思い出し、これから歩む道を選ぶ手伝いをしてさしあげることができる。自らを形作っているものがなにか、知るだけでも私と向き合う価値はあるはずです」
「…………」
 ロンは苛立たしげに顔をしかめ、忌々しそうに舌打ちしてしばし考え、それからじろりとネフェルタリィを睨んだ。
「いいだろう、あんたの話に乗ろう。ただし、妙な真似をすればその時は容赦しない」
「ええ。もし傷つけられたと感じれば、その時は私を傷つけてかまいません」
 そんな会話ののち、自分たちはそれぞれネフェルタリィに抱かれた。そしてしばし意識を失ってから目覚めた。その時にはネフェルタリィは寝台から降り、こちらを見つめながら静かに一人うなずいていたのだ。
「やはり、あなた方の一人に、星の試し≠受けていただく必要があるようです」
「星の試し=c…?」
「イシス王家に伝わる無二の宝重、『星ふる腕輪』。それを得る資格があるかどうか、我らの祖先があなた方を試すのです。あなた方のうち一人を選び、試練を与えます。それに打ち勝てば、星ふる腕輪をあなた方にお渡しいたしましょう」
「試しって……なに、すんだよ」
「人によって試しはありようを変えますが、一番多く行われたのは祖先との真剣勝負だと記憶しています」
「祖先……まさか、幽霊がいると?」
「え゛」
「はい」
 うなずくネフェルタリィ。フォルデが固まる。思わずため息をつきながら、ラグは訊ねた。
「……いいんですか? 星ふる腕輪といえば、イシス王家初代から伝わるとさえ言われる国宝。それに、あなたはアリアハン王を敵に回す気はないと」
「エラーニアの推薦。そして私が見たセオ殿と、そしてあなた方の深き想いには、アリアハン王を敵に回すだけの危険を冒す価値があります。そして、星ふる腕輪を持つ資格があるかどうか、星の試し≠ナ見定めます」
「……もしないと思ったら?」
「腕輪は渡さない。それだけのことです。あなた方に害を与えるつもりはありません」
「…………」
「けれど、星の試し≠ヘ心・技・体、すべてを試される試練です。基を見つめる心、戦いの技、逞しい身体。あなた方の中で最もその三位に優れた方を選んでください。さもなくば意味がありません」
 ネフェルタリィはそう結び、なんと答えるべきかわからない自分たちの前ですっと身を翻したのだった。

「あの人が俺たちの中になにを見たのかはわからんが。俺たち、というかそのうちの一人か、を試したいと思っているのは確かなようだ」
「ああ」
 ロンはうなずく自分たちにうなずきを返し、軽い口調で言う。
「俺にやらせてくれんか?」
「……は?」
「へ?」
「あの……俺は、いいと思い、ますけど。ラグさんと、フォルデさんは……」
「ま……待ってくれ、やるって、星の試し≠か? ロンが?」
「ああ。嫌か?」
「嫌っていうか……」
 ロンがこういう場面で積極的に前に出るとは考えたことがなかったのだ。どうにも今までのロンの印象にそぐわない。ロンはこういう目立つ場面では、さりげなく裏方に回って暗躍するような雰囲気がある。
「……俺は気に入らねぇ」
 フォルデがあからさまにムッとした顔で言う。
「星ふる腕輪の名前くらい俺だって知ってる。身のこなしの速さを倍にしちまうっていうとんでもねぇ魔道具だろ。どうせろくな試験じゃねぇ。そんなもんに、お前みてーなふざけた奴を出すっつーのが気に食わねぇ」
「お前が出たいのか? お前は幽霊はちょっぴり苦手だったと思うんだが?」
「……っそりゃ俺よりお前の方が強いのはわかってるけどな! けどそれならラグだっているだろ。そっちのがまだマシだ。なに考えてんのかわかんねぇ面して一人決めしやがって」
 なるほどそれが気に入らないわけか、とラグは苦笑した。要はへそを曲げているわけだ。自分としても指名されれば出場するのにやぶさかではないが。
「ラグより俺の方がいい」
 あっさりロンはそう言った。ラグは思わず目を見開く。ムッとした顔を表に出すほど子供ではないが、自分では駄目だと言われたのも同然なのだから当然面白くはない。
「なぜそう言える?」
「ラグ。俺とお前とではお前の方が強い」
「え……」
「だが戦えば、勝つのは俺だ」
「っ」
 ラグは思わず奥歯を噛んだ。反射的に反論を怒鳴りたくなったが、まだ若い仲間もいる前でみっともない真似はしたくない。
 フォルデは思いきり顔をしかめて怒鳴った。
「だっからな! お前がなに考えてんのかわかんねーのがムカつくっつってんだ! お前なんか妙なこと考えてるだろ、なんか……なんかわかんねーけど、馬鹿なこと!」
「ほう。それをお前に見抜かれるとはまだまだ俺も修行が足りんな」
 ロンはいつものごとく飄々と言う。だがその言葉を連ねる口の動きにすらこちらを威圧するものがあった。一対一で戦って相手に呑まれていると感じる時に似た威圧感。ラグは唇を噛む。確かに、今の自分が今のロンと戦って勝てる自信はない。
 だが、フォルデはぎっとロンを睨んでまた怒鳴る。
「ざけんな! 言っとくけどな、旅はまだまだ続くんだ! こんなとこで勝手に死なれちゃ困るんだよ、馬鹿みてぇなこと考えてたらぶっ殺すぞ!」
 ラグは思わず目を見開く。そうか、フォルデはこの気迫を決死の気迫と考えたわけか。確かにそうともとれる、だが、それにしては妙に、しなやかというか、硬いものがないというか……。
 眉を寄せるラグと睨むフォルデに、ロンは笑う。
「なんだ、お前ら俺が死ぬ気で試練に望むと思ってるのか?」
「……別に、そういうわけじゃ」
「……違うのか?」
「違う。俺はただ礼をしたいだけだ」
「礼?」
「ああ、あの女王陛下に。忘れていたことを思い出させてくれた礼をな」
 にぃ、と唇の端を吊り上げるロン。ラグは思わず、背筋に寒気が走るのを感じた。

星の試し≠ニいうのは盛大な国家行事らしい。まぁ国宝を譲り渡すかもしれないのだから当然といえば当然なのだろうが。
 ラグたちは全員まだ夜も開けていない頃から叩き起こされ、朝食をとらされ、眩しい朝焼けの光を浴びながら着替えをさせられた。今度はさすがに薄絹ではなかったが、女官たちにこぞって分厚い布で体中をむやみにぐるぐる巻きにされ、ラグは朝っぱらからげんなりする。
 それから女王と引き合わされ、前後を大量の女官と兵士たちに囲まれながら移動する。中庭の砂地の脇、ちょうど柱の影になって見にくい場所から細い通路に入り、そこをえんえんと歩いて階段を下りて、さらに歩く。そして少し広くなっている場所に出た。
 あらかじめ準備してあったのだろう、いくつもの松明立てに炎がともされ、床の砂地を赤く染めている。そしてそこで女王はいったん足を止めた。自分たちはその数歩後ろで待たされる。
 ネフェルタリィは砂地の上にひざまずき、す、と両手を上げた。
「我らが祖、偉大なるアメン王よ。ここに星を見つめ道を歩まんとする者あり。そに星を降すか、いまだ天に留めるか、いざ御力によって試したまえ……」
 抑えた声でそう祈るように言うネフェルタリィは、巫女のようだった。これほど美しく神秘性に満ちた巫女もそうはいないだろう。
 彼女に抱かれた時のことを思い出すと、今でも体がぞくりと震える。世界のなにより美しいものに抱かれて、自分の一番大切な思い出を思い出させられる。それは奇妙で、恐ろしく、痺れるように心地よく、吐き気を催させる体験だった。自分の醜い部分を拡大鏡で見せつけられているも同じなのだから。
 ネフェルタリィはひとしきり祈りを捧げると、一人階段を下りた。自分たちは追ってはならないと言われているので静かに待つ。
 すぐにネフェルタリィは戻ってきた。背後に豪奢な服を着た骸骨を連れて。
 フォルデがひくっ、としゃっくりのような声を上げる。さっきからずっと緊張していたが、やはり幽霊を見て恐怖のあまり硬直したらしい。ラグも硬直はしないものの気圧されてはいた。イシス王家の血というものか、アメン王とやらは骸骨になりながらもこちらを圧倒する美を感じさせたのだ。美しい骸。そんな代物今まで見たことはない。
 だが、ロンはその奇妙な圧力にも身にまとう威圧感を減じはしなかった。静かにネフェルタリィとアメン王の骸骨を、呑みこむような底のない気迫をもって見つめる。
「これより星の試し≠始めます。アメン王は試しを受ける者と、一対一での真剣勝負をお望みです。試しを受ける者よ、前へ」
 ロンが一歩進み出た。

 確かに、忘れていたな。ロンは自分を省みて思う。
 悪いことではないだろうし(苦痛を忘れることで楽になるということは確かにあるのだ)、罪悪感を抱いているわけでもない。あの人――師匠にも、家族にも。抱いたところで意味がない。
 とうに全員、死んでいる。
 いまさら自分の生き方を悔やむほど馬鹿になる気もないし、あの時の選択を呪うほど後ろ向きになる気もない。あの時の自分にとっては、確かにあれが一番正しい選択だったのだと今でも思う。
 ただ、あれは確かに、自分にとっては傷だったのだ。彼と、彼らのことは。
 若さにまかせて男に片っ端から誘いをかけたことも、女という本来男に愛されるべき性とされているものを忌避するようになったことも、彼と彼らが自分に傷をつけなければありえなかったことだ。
 そんな自分の中に深々とついた傷を、記憶の隅に追いやって、自覚せずにおくのはやはり、自分の趣味に合わない。
 だって、傷を美しく見せるには、自分の心身にどう傷がついたかよく見ておかなくてはならないだろう?
 ロンはにぃ、と笑んだ。滑るように自分の後方へと退がるネフェルタリィに、すれ違いざまに囁く。
「女王陛下、あなたには感謝している。忘れていたものを思い出させてくれてな」
「…………」
「だから、せめてもの礼として。あなたの先祖は徹底的にぶちのめさせていただく」
「あなたの望むままに。それができるのならば」
 できるさ。
 背中へと去っていくネフェルタリィを意識の隅へ追いやり、笑みをますます深める。戦いの期待に全身が疼く。そう、自分はずっと戦ってきた。自分が自分であるために、戦い、勝つことを必死で覚えなければならなかったのだから。
 生まれて、物心ついた時から。

 しん、と静まった広間。息詰まるような雰囲気の中、ラグはじっとロンとアメン王を見つめていた。
 構えでわかる。アメン王(の亡霊)は相当にやる。レベルでいうなら24、か25というところ。超達人とはいわないが、今の自分たちより高い。
 どうする気だ、ロン。
 そう思いつつ見つめていると、ロンは笑みを浮かべたまます、と動いた。
 さざなみのような、静かで、流れるような踏み込み。なんだ、この絶妙の間合い。ラグは思わず息を呑んだ。
 ぎゅおん、とアメン王の足が跳ね上がる。どうやらアメン王は武闘家らしい。長い手足を活かしロンの間合いの外から頭を狙う。
 ロンはそれをわずかに体を沈めつつ受け流した。そしてアメン王が足を戻す前に踏み込み、拳で(鉄の爪は外していた)腰骨を突く。
 だがアメン王は体を大きく倒しそれを避けた。そんな体勢じゃ次の攻撃が、と思う間もなくアメン王はそのまま地面に倒れ、即座に追い討ちをかけるロンの攻撃を体を回転させて苦もなくかわし、しなやかな動きで間合いを取って立ち上がる。
「くそ……どういう動きしてるんだあの骸骨」
「……アメン王はイシス武闘術の原型を創り出した武闘家。イシス武闘術は種族的に柔軟な体と地面が砂地だということを活かした地面に倒れても戦えるよう編み出された武術です。転倒からどう起き上がるかについては達人級かと」
 セオが低く抑えた緊張している声で言う。ラグは唇を噛んだ。
「じゃあ武闘家のよくやる転ばせて踏みつけるって技は難しいわけか……」
「おそらく……! アメン王が動きました!」
 ラグもそれを見ていた。舞うように軽やかな動きで掌底を突き出す。下から上に、ロンの顎を狙った鋭い攻撃だ。
 ロンはその攻撃をわずかに退いてかわしつつ、腕がぎりぎりまで伸びきったところ手をでつかんだ。そしてそのまま回転させ、膝を叩き込み投げながら手首の関節を壊す。
「! あの速さの攻撃をつかんだ!」
「うまい!」
 だん、と地面に叩きつけられたアメン王は地面から足を跳ね上げさせ、ロンの頭に膝を入れようとする。だがロンはそれもかわした。相手の手首を握っていて避けにくいはずなのに、寄せてはかえすさざなみの動きですぅっと体を退き、さっきと同様足の動きが止まった一瞬の隙に両手で握って関節技をかける。
 そのあまりに鮮やかな動きに、ラグは悔しいが思わず見惚れた。戦士として、戦闘を生業とする人間として、真に巧みな技を見た時はいつも感嘆の思いに包まれる。セオも似たような感情を覚えたようで、ため息をつきたそうな面持ちで言う。
「ロンさん、すごい……」
「ああ、半端じゃない技の冴えだな」
 ロンはここまで見事な技術を持っていたのか。いや、普段とはあきらかに技の切れからして違う。今まで単にやる気がなかったのかとも思うが、明らかに気迫が段違いだ。
 ロンは、いったいなぜこの試練を受けようと言い出したのだろう。

 自分でも技がよく切れてるな、と思った。自分が研ぎ澄まされているのがよくわかる。戦う前からわかっていたことだが、これは勝つな、と思った。
 それも当然だ。自分の宿敵と対峙しているようなものなのだから。
 ロンの周囲にはいくつもの映像が浮かんでいる。ネフェルタリィに見せられた時のようなわずかに色あせた映像。
 家族と、師匠の映像だった。
 自分に一番懐いていた弟が叫ぶ。
『兄ちゃんホモになっちゃったのかよ! なんだよそれ、変だよ! おかしいよ、気持ち悪いよ!』
 まだ小さかった下の妹がわけがわからないという顔をして首を傾げる。
『兄ちゃん、へんたいなの?』
 いつも自分に優しくしてくれた姉がひどくおぞましげな顔で言う。
『あんた、本当にホモなの? ねぇ、嘘でしょう? あんたがそんな変態なはずないわよね?』
 厳しかったけれど、自分を一度も殴ったことのない上の兄が自分を殴りつけて言う。
『この、恥さらし!』
 父と母が相談しているのが聞こえる。
『あんな子に育つなんて』
『どうすればいいのか』
『村の人間に知れたら』
『もう縁を切るしかない』
 何度も自分を抱いた、自分の師匠で初恋の男である叔父がこちらを向かないまま語りかけてくる。
『ダーマまでは送り届けてやる。だがそれでお別れだ。遊びの時間は終わったんだ』
 アメン王が強烈な脚力で無理やりロンを振り解く。だが関節が痛んでいるのだろう、立ち上がる動きは鈍かった。その隙を逃さず後ろ回し蹴りを頭蓋に向け放つ。
『男が男を好きになるなんておかしいんだ。正気に戻れ。可愛い女の子を愛して、子供を作るんだ』
 左手で受けられたがそれは計算のうちだ。すかさず放ってくる蹴りをつかむようにして受け、体を回転させる。
『周りから村八分にされて、家族にも嫌われて、帰る場所もなくならせたいのか? 今ならまだ間に合う。真っ当な道に戻れ。正常な男に戻るんだ』
 正常。そんな言葉に意味がないことは、叔父自身が誰よりもよくわかっていたことだろうに。
 十四歳の自分はそれに反発した。周囲の、叔父の、身勝手で自分の尊厳をまるで無視した言葉を憎み、その言葉に真っ向から逆らうと決めた。片っ端から男に誘いをかけ、言い寄る女を冷たく突き放し、周囲の言葉は実力で黙らせた。周囲に、家族に、誰より初恋の男に。自分は間違っていないと、女ではなく男を愛する自分は絶対におかしくなんてないと、必死に証明しようとしたのだ。
 馬鹿だった。愚かだった。周囲から孤立しいっぱい傷ついた。でも、あの時の自分はそうでもしなければ、自分が絶対的に正しいと思わなければ立ち上がれなかったのだ。
 自分の家族から、愛している人から自分を否定されたという事実は、それだけ自分を打ちのめしたのだから。
「ふっ!」
 アメン王を砂地に叩きつけるようにして足の関節を壊す。それでもアメン王は(痛みを感じないからだろう)地面から無事な方の足で蹴りを放ってきたが、ロンはあっさりかわして踏みつけた。これだけ神経が研ぎ澄まされているのに苦し紛れに放たれた蹴りなどに当たるはずがない。
 ダーマに預けられ、叔父と別れ、片っ端から男と寝て成人と同時にダーマを追い出され。世界を巡るようになり、何度も傷ついて、少しずつ傷つかないように隠すすべ、人の言葉を受け流すすべを覚え。
 一人で生きることが楽になり始めた頃、ダーマに戻り。自分の生まれた村が山賊に滅ぼされたことを知った。
 その時の衝撃は、言葉にするのが難しい。自分は家族とは縁を切ったつもりだったし自分はたった一人だという寂寥感と裏返しの開放感が気に入っているつもりだった。そしてその頃の自分は二十一で、家族とはもう七年以上会っていなかった。だから寂しいとか、悲しいとか、即座に思えたわけではない。
 ただ、衝撃だった。自分とは違う場所で、普通に生きていくはずだった家族。結婚し、子供を作り、真っ当に生活していくはずだった家族。それが自分より先にこの世から消滅するというのは、おかしな、あってはならないことのように思えたのだ。
 キメラの翼で生まれた村に舞い戻り、ぼろぼろになった村を見て。村外れの墓場を見て。それでも信じられなくて、自分の家に入り込んで。もはや薄れている血の染みと家の傷を見て。それでも信じられなくて。
 家中をひっくり返し、なにか残されたものがないか調べ。なにもないことを知り。ふらふらしながら叔父の家に向かった。
 ダーマで別れてから叔父が村に戻ったのかどうかは知らない。弟一自分の家族とはとても顔を合わせられない状態だろうから、なんとなくロンはまた旅に出たのだろうと思っていた。若い頃世界中を旅したという叔父にはそれが似合っているように思えた。
 でも、それは違った。
「はっ!」
 苦しい体勢から繰り出される攻撃を次々受け流してさらに体勢を崩させていく。限界まで体が開いた、と思った瞬間ロンは小さく飛び、全体重をかけてアメン王の頭に踵落としを放った。アメン王は受けようとするが遅い、ロンの足はアメン王の頭蓋を打ち砕く。
『ロンよ、我が甥よ』
 その引き出しの中はそう始まっている手紙でいっぱいだった。どこへ出せばいいのかもわからない、受け取ってもらえるかもわからない、そもそも出す気があるのかどうかすら怪しい手紙をこの七年、叔父は書き続けてきたのだ。この村で。弟の息子に手を出したと家族に知られ、肩身が狭いことこの上ないだろう村で。
『ロンよ、我が甥よ。お前はきっと裏切られたと思っているだろう。確かに私はお前を裏切ったのかもしれない。愛した男を守ることができなかった。家族の心ない言葉の刃にさらしてしまった。だが、あの時私は今しかない、と思ったのだ。お前を解放してやれるのは今しかない、と』
 アメン王は頭蓋を砕かれながらもまだ動いていた。地面から無事な手足で突きと蹴りを同時に放つ。
『同性しか愛せないというのは不幸なことだ。世間から後ろ指をさされ、蔑まれる。そしてなにより子供を残すことができない。愛し合うことが次へと続いていかないのだ。血を残せない、いつまで経っても絶対に二人きりで家族になれないということ。そのやるせなさを、私はよく知っている』
 アメン王の攻撃をロンは踏み込んでかわした。攻撃を無効化するには最適な間合いを少し外してやればいいのだ。これだけはっきり見えているのに、それができないわけはない。
『人は死ぬ。どれだけ愛していても二人きりならどちらかは先に死ぬ。どちらかは残されて一人きりになるのだ。愛せば愛しただけその孤独は辛い。なにも残らない虚しさ。そんなものを私はお前に味わわせたくない。お前には幸せになってほしいんだ』
 そんなことを書いた手紙。いくつもいくつも似たような内容が書かれた手紙。最初に読んだ時は強く反発した。勝手に俺の幸せを決めるなと思った。けれど、何枚も何枚も手紙を読んで、叔父の苦しみの一端がわかると、その感情は少しずつ静まり、最後には小さな哀しさだけが残った。
 襲ってきた山賊は家族を全員殺したけれども、叔父に全員殺された。叔父はその時の怪我がもとで死んだのだと残った村人に聞いた。自分の知らないところですべては終わっていた。自分の家族は、愛した人は、この世から消え去った。一人になった。
 そう実感した時のひどく虚しい感覚。これが叔父の書いていたことなのだろうと、実感した。世界に自分ただ一人。そんな感覚。
 少しずつその気持ちを日常の中に薄れさせながら生きた。その虚しさを忘れて、ごまかして。常に見つめ続けるにはその虚しさは重すぎたから。
 そうしてもうそれを気付かないほど薄れさせて、なにも考えないようになってから数年。自分は、セオと仲間たちに会ったのだ。
 大切なものができた。それはひどく懐かしい感覚だった。自分よりも大切なものを護りたい、そう必死に誓った幼い頃を思い出した。
 恋ではない。仲間たちと寝たいとは思わない。やろうと思えばできたし欲情もするが、それよりもただ大切にしたかった。簡単に寝てしまうのがもったいないほど、仲間たちを労わって護ってやりたかった。共に日々をすごし、自分の背中を守り、自分を受け容れようとしてくれる、受け容れてくれる仲間たちを。
 幸せだとすら思い始めていた時に、女王に思い出さされたのだ。自分はきっと、最後には一人になるのだろうと。
『気持ち悪い』
『近寄るな』
『変態』
『正気に戻れ』
 周囲の幻は口々に言う。そう、わかっている。正常な£jだったら楽だったのだろう。もっとずっと単純に、なにも考えず生きて結婚し子供を作り、一人でなく死んでいくことができたのだろう。
 でも、それが自分なのだ。たとえどんなに不幸だろうが、自分はそういう風にしか生きられないのだ。それは変えられないし変えたくない。変化を押し付けるのならば全力で戦う。
 結局最後には一人で死んでいくのはわかっているけれど、それでも自分はこうして生きる。こうして生きたいのだ。なにも生み出せなくても、傷つけられても、自分で自分を滑稽だと思っても、それでもそれが自分なのだから。
 そして今自分には大切な存在がいる。恋ではなくても誰よりも愛している人々が。だから、愛し返してくれなくても、気色悪いと思われていても、自分は仲間たちを愛し、そのために戦う。さんざん傷つけられて生きてきたのに誰より世界を愛する勇者と、母以外のものを必死に切り捨てようとする優しい戦士と、恵まれている者を憎まずにいられないほど寂しい生を生きてきた盗賊のために。
 たとえ一生一人でも、この気持ちに正直に生きる。そう覚悟して生きるのだと、決められた。
 そう決めたから―――
「ふぅ……はっ!」
 上から全力の膝を相手の腰骨に叩き込む。アメン王の腰骨は見事に砕けた。肉の防護がなければ骨を砕くのはたやすい。
 アメン王が動かなくなると、女王がさっと手を上げて叫んだ。
「勝負あり!」
 ロンはふ、と小さく笑んで仲間の方を振り返る。セオが顔を真っ赤にしてぱちぱち拍手していた。ラグも苦笑気味に手を打つ。フォルデはおそらく今までずっと硬直していたのだろう、まだ緊張の残る仏頂面でこちらを睨むように見ていたが、口元はわずかに緩んでいた。
 そう決めたから、自分は、この仲間たちのためなら、どこまでも強くなる。なれる。そう思えることがしみじみと嬉しく、ロンは笑顔で仲間たちに近寄り抱きつき、フォルデに怒鳴られた。

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