商人の街〜ダーマ――1
 揺れる甲板をすたすたと歩き(傭兵をやっていた時も何度も護衛の仕事で船には乗ったのだ、船には慣れている)、ラグはセオのところへと向かった。セオはいつも通り甲板の(魔船の甲板はそう広いというわけではないのだがそれでも小さな家ぐらいの広さはある)真ん中で、年明けも間近な真冬、しかも寒風吹きすさぶ甲板の上だというのに外套もまとわずに見張り兼剣の稽古をしている。稽古を真剣にやれば暑くて外套なんぞ着ていられないというのは確かだが。
「セオ」
 声をかけると、セオはゆっくりと動きを止め、剣を鞘に収めて振り向いた。
「はい。なんでしょう、ラグさん」
「昼ご飯ができたよ。一緒に食べよう」
「……はい。ありがとう、ございます」
 セオは小さくうなずいた。持ってきた外套を着せ掛けてやるとびくりと怯えたような顔をしながらも、もう一度「ありがとう、ございます」と礼を言い、背を向けて歩き出したラグのあとについてくる。 セオの先に立って一人歩く時はたいていそうであるように、ひどく熱い視線を感じた。親を見る子供のような、年上の恋人を見る娘のような。まるで世界に頼れるのはあなただけ、とでも言っているような熱烈な視線。
 それ自体は別に普段と違うというわけでもなんでもない。ただ。
 ラグは唐突に足を止めて、くるりと振り向いた。セオの顔を見る。
 その一瞬のセオの顔は、固かった。冷たい無表情というのが一番似つかわしいだろう。
 なのに瞳には苛烈な意思がある。明確な決意がこちらに向けられているのを感じる。死から蘇生したあの時セオの瞳に浮かんでいたのと似ている、虚ろに凍った決意。あのバハラタの夜が明けてから、いつもそうであるように。
 その表情は、ラグが振り向いたことを認識するやいなや、すっと消えた。代わりにこちらの一挙一動にびくびくするかのような、臆病な顔が表に出る。この旅を始めてばかりの頃のような、今すぐ土下座して謝り出しそうな、申し訳なくて申し訳なくてしょうがない、とでも言っているような泣きそうな顔。
 なのに、瞳は少しも潤んではいなかった。
「あの……なん、でしょう、か……?」
 おそるおそる聞いてきた言葉に、ラグはできるだけ優しく笑って軽い口調で言った。
「いや。急ごうか、食事が冷める。今朝フォルデが大物を釣ってくれたんだ」
「……はい」
 そう言ってセオはおずおずと、ひどく控えめな笑みというには頼りなさすぎる形に顔を緩めたが、以前なら泣きそうに潤んでいただろうその瞳には、やはり涙の気配すら見えなかった。

 バハラタで仕事の後始末を終え、ルーラでポルトガに戻りリカルド王たちへの挨拶を済ませ、ポルトガ港を出発してから二週間ほど。自分たちは船旅での生活というものを確立し始めていた。
 ポルトガでみっちり魔船の使い方については講習を受けた。操作方法、船内での生活方法、船体の手入れの仕方、基本的な航法についてまでも。なので船の動かし方については心配はない。
 魔船というのは現在の魔法技術では及びもつかない水準の代物なので、動力機構をはじめとする魔力付与された部分の手入れは専門家でもできない。というか魔船は強力な保存の魔法がかかっており、手入れといっても掃除ぐらいしか必要ないらしいのだ。なので自分たちは細かいことを考えず、ただ自分たちにとっていいように使ってやればいい、とロンは思っている。
 魔船の基本操作方法は単純だ。ただ行きたい方向に舵(というにはなにやら怪しげな代物ではあるのだが)を動かせばそちらの方に動く。だがいろいろと付加機能がついており、現在はそのひとつ自動航行機能を使って運行していた。正確な位置座標を入力すれば、そこまで自動的に移動してくれる(おまけに帆を張ったり障害物を避けたりという細かい仕事も自動的にこなしてくれる)という便利この上ない代物だ。
 なので現在ロンたちの時間的な予定は空いていた。かつ生活環境的には相当に向上したと言っていいだろう。魔船は海水から自動的に蒸留して(空気中の水分からも抽出して)水を事実上いくらでも作ってくれるので飲み水の心配はしなくていい。水道を捻ればいくらでも水が出てくるし生活排水は浄化して周囲の海水と同じ成分にして排出してくれる。どころか情報を入力しさえすれば風呂場に自動的にお湯を張ってくれるし船内の空気は常に心地よい温度に保たれかつ適度に循環しているのだから、今までの旅とは比べ物にならない厚遇だ。
 ロンたちの生活予定はだいたいこうなっている。六時に起床。目覚まし用の警報が鳴って全員が起き出したら最後の見張り役をした奴が朝食を作る。全員で朝食を取ってから航行開始(これも最初に情報を入力して寝ている間は停泊するようにしてある、見張りが大変だからと忠告され)。一応一人は常に操舵室で舵やら自動航行機構の様子を確認し、一人は見張り台で見張りをするが(どちらも交代制)、残りの二人は自由にしていていいことになっている。当然ながら暇なのでたいてい二人で甲板で稽古したりしているのだが。
 その二人のうち一人が食事を担当する(一刻ごとに役割は交代する。不公平のなく当番が回るように最初に考えて決めた)。食料はどっさり買い込んであるしセオの保存の呪文があるので飢える心配はない。その上この船は停泊し専用の装置を起動すればルーラの基点にもなるので(なんでも登録者に座標情報を空間を越えて伝達するらしい)、なにか足りなくなればセオがルーラして買ってくればいいわけだ。
 そんな風にして交代しつつ、夜は停泊し一刻ごとに見張りを交代しつつ三刻ずつ寝る、と(船室のベッドには使用者が睡眠を自由に制御できる魔法までかけてあるのだ)。
 なので楽といえば楽な生活ではあるのだろうが、おそらくパーティメンバーは全員そんなことを思ってはいないだろう。
「ふむ、このサーモンステーキの焼き加減。ラグ、腕を上げたな?」
 にやりと笑んでそう言ってやると、ラグは苦笑した。
「料理の腕が上がったって言われてもな……戦士なんだから戦いの技を褒められたいよ」
「俺たちのために努力してくれてありがとうと言ってるんだから素直に聞いておけ。フォルデも釣りの腕を上げたな。ここまででかい鮭を一人で釣るには相当の技術がいるはずだが」
「別に……たまたまだっつの。釣竿適当に動かしてたら引っかかってきた奴を引きずり上げただけだ」
 フォルデは仏頂面で答えたが、それが照れ隠しだということは(少なくともロンには)あからさまだ。
「本当に、すごく、おいしいです」
 セオがへろん、と頬をわずかに緩ませながら言う。笑みというにはあまりに頼りないそれは、セオにしてみれば常態だ。別に普段と変わっている、というわけではない。
 ロンにも、ラグにもフォルデにも、セオが以前のセオと変わっていることは明白だというのに。
「そうか。よかったな」
「……そうか。ありがとう、セオ」
「ふん。てめぇに言われてもありがたみねーっつの」
「……ごめん、なさい……」
 セオはぎゅっと唇を噛む。苦しげに、それこそナイフを心臓に突き立てられたように顔を歪める。以前ならそろそろ泣き声が漏れてくる頃合だ。
 だがセオの瞳には、涙が浮かぶ気配すら感じられなかった。
 フォルデはそれをしばしじっと見て、すぐちっと舌打ちをし、昼食の残りをかっこんで立ち上がる。
「見張りしてくる。ごっそさん」
「あんまり一気に食べると胃に悪いぞ。あとちゃんと暖かくしていけよ」
「うるせぇ、余計な世話だ」
 言い切って立ち上がりつつも、見張り台の寒さは身に沁みているのだろう、船出前にポルトガで買った毛皮のコートをまとってフォルデは部屋を出ていく。食堂兼会議室は厨房のすぐ上、船室から外へ向かう出口の少し前。前後に玻璃に似ているが微妙に輝きの違う材質で作られた窓を嵌めこんでいるので、フォルデが帆柱の立つ船室の上へ向かうのが食事をしながらもよく見えた。
 ロンは小さく肩をすくめ、食事に集中する。早食い食いだめは冒険者の必須技術だ。次の自分の分担は舵の監視だ、早めに行くにこしたことはないだろう。
 一分も経たないうちに食べ終えた、と思った瞬間、声が響いた。
『三時の方向からマリンスライムの群れだ! しびれくらげも数匹出たぞ!』
 フォルデの声だ、と認識するより早い反射でもって全員即座に立ち上がり船室の外へと走り出す。走りながら船内では常に持ち歩いている武器防具を装備しなおした。鎧は基本的に風呂と寝る時以外は常に身に着けている。
 星ふる腕輪の力もあるのだろう、真っ先に戦場にたどり着いたのはロンだった。触手を器用に動かしてもはや甲板の上に上がりかけているしびれくらげたちに、片っ端から突きを入れて回る。
 見張り台から真っ先に飛び降りたフォルデはすでに鋼の鞭を振り回してマリンスライムたちを薙ぎ払っていた。だがいくらフォルデの動きが素早いとはいえ数が圧倒的に違う、あとからあとから乗り込んでくるマリンスライムに幾度も体当たりを受けたようで口の端に血がにじんでいる。
 軽く二十を超えるマリンスライムの大群を一人で相手取り、口の端に血がにじむ程度ですむというのは相当に尋常でないことではあるのだが。
 頭の一部でそんなことを考えながら次のしびれくらげに突きを入れ倒す。しびれくらげの麻痺攻撃はキアリクの使える人間がいない以上相当な脅威だ。しびれくらげもこちらに触手を伸ばしてはくるが、この程度の魔物なら機を読めば攻撃される前に倒すのはそう難しくない。
 自分に数瞬遅れてラグとセオも追いついてきた。ラグは当然即座に状況を読み取り、鉄の斧を振り回して手近なしびれくらげの体を断ち割っていく。
 そして、セオは素早く呪文を唱えた。
「月は射そそぐ銀の矢並、打つも果てるも火花の命!=v
 ベギラマの熱閃がセオのかざした掌から瞬時に広がる。赤々と輝く炎と光のあわいにあるような熱の帯。それは瞬きするより早くマリンスライムたちを飲み込み、一匹残らず焼き払った。
 ほぼ同時にロンが最後のしびれくらげの頭に黄金の爪を突き立て、消滅させる。同様に消滅していくマリンスライムたちにちらりと視線をやってから、セオはフォルデに歩み寄った。
「フォルデさん、回復、します」
「いい。薬草がまだある」
「……でも」
「あのな、てめぇは俺らの中で一人だけの呪文使いなんだぞ? 今回みてぇに攻撃に呪文使うことだってあんだろうが。だったら使わなくてすむとこは魔法力温存しとけ。どうせこれから何度も戦闘あんだから」
 口調はぶっきらぼうだが言っていることは正しい。セオもそれはわかっているのだろう、一瞬泣きそうに顔を歪めたが瞳を潤ませることなく「……はい」とうなずいた。
 そう、これからも何度も戦闘はあるだろう。今日一日で、数えるのも面倒になるほど。
 やれやれ、と肩をすくめてロンは操舵室へと向かった。どうせ小半時、いやその三分の一程度の時間が過ぎればまた魔物が襲ってくるのだ、いちいち別れの挨拶をするのも面倒だ、とこの二週間で全員そういう結論に達している。
 そう、船出してから二週間。その間魔物の襲撃率は今までとは桁違いに上がっていた。
 これまでの旅で魔物が襲撃してくる確率はさして高くはなかった。洞窟やピラミッドのような魔物の巣窟である場所ならともかく、普段の旅程では一日に一度あるかないか、とロンの短くはない冒険者人生(のうち魔王出現後)とさして変わらない頻度でしかなかった。
 だが海に出たとたん、その頻度が跳ね上がったのだ。一日に、少なくとも五十回以上。百度を超える回数襲われることもさして珍しくはない。感覚的に言えば、ゆっくり百も数えていればすぐに魔物の襲来があるというところ。砂時計で計っても普通の大きさのものなら十回も反転させればまず魔物が来ると思って間違いない。自分たちの力量からすればさして強くはない魔物ばかりだからまだよかったが、強敵だったら正直精神的に危うくなる人間もいただろう。
 最初は航海は危険になっていると聞いたがここまで魔物が多くなっているのか、などと言い合っていたが、今では違う。そもそも自分たちが眠りについている間はぐっと魔物に襲われる頻度が減るあたりからして明らかにおかしい。
 つまり、おそらくは。
 船室に入る前、ちらりとセオの方を見る。セオはあと半時は自由時間だからだろう、甲板に残って稽古をするようだった。食事の後片付けをするラグに頭を下げているのが見える。
 この二週間で、セオが魔物を倒す姿を何度も見た。
 海に出て初めての魔物の襲撃の時、セオが出てきた魔物に容赦なく鋼の鞭を振るうのを見た時は正直目を見張った。泣くどころか、瞳を潤ませることすらなく、的確に判断を下し効率よく魔物を片付けていくその姿。たいていの人は戦い慣れた戦士と判断するだろう姿を見て、ロンは我知らず鳥肌を立てた。
 そして、今もそれは変わっていない。
 じっと見られているのに気付いたのか、セオがこちらを向いてぺこりと頭を下げてきた。以前と同じ、気弱で情けない表情で。自分などが視界に映ってごめんなさいとでも言いたそうな、申し訳なげな顔で。
 けれどその瞳に涙はない。
 こちらがいつまでも見ているせいだろう、困ったように顔を歪めてこちらを見つめ続けるセオに、軽く笑いかけてから踵を返した。別にあの子を困らせたいわけではない。
 ただ、セオが今の自分の状況を受け容れているのかどうか、問うてみたいのも確かだった。セオはいつも戦う時、必死に衝動を堪えるように奥歯を噛み締めているのだから。

 フォルデはくしゅっ、と小さくくしゃみをした。毛皮のコートに毛布までかぶっていても、夜の見張り台は凍えそうに寒い。セオの話だとある程度温度を保つ結界は張ってあるらしいが。
 今日のフォルデの見張りの順番は三番目。もうすぐ交代の時間だが、まだ空は明ける気配も見せない。
 今のところ魔物の襲撃はその気配すらなし。寝ている間に魔物が襲ってきたことはこの二週間の間でも一度あるかないかぐらいだったが。だからって見張りをサボる気はさらさらない。
 仲間たちは船室で眠っているはずだ。次の見張り番であるセオも。
 フォルデは小さく顔をしかめた。セオのことを思うと、フォルデはこの二週間いつももやもやする自分を感じる。
 自分はセオの恐怖を知った。その重さを身を持って感じ取った。だがだからといってあいつが馬鹿だというのを撤回する気はない。魔王を倒すついでに、あいつの情けない根性を全力で叩き直すという誓いも破る気も。
 だが、海に出て、最初に魔物に襲われた時。セオは敵を殺すと言った言葉を、躊躇なく実行したのだ。
 武器で、あるいは呪文で容赦なく敵を、魔物を倒し消滅させていく。判断も的確、実力も充分。鍛えられた戦士というべき見事な行動で、セオは自分たちと協力しつつ敵を殲滅した。
 最初はそれに驚き、驚いたことに腹を立てた。それから前言を違えなかったことを認めてやるべきか迷い、結局なにを言えばいいかわからずその行為が当然のことのように振舞うしかなかった。
 敵を躊躇いなく倒す。それは、確かに自分がセオにやらせようと思っていたことには違いない。
 だが、なにかが自分の求めていたこととは違う。そう心のどこかが告げるのだ。今のあいつは、俺が目指させようと思っていたあいつじゃないと。
 それに、今、あいつは。
 周囲に視線を投げかけながらぼんやり考えていると、ふいに見張り台についている縄梯子が揺れた。
「っ!? ……セオか」
「あ、あの、こん、ばんは」
「なんだよ。まだ交代には早いだろ」
「え、えと、はい。でも、目が覚めたので、せっかく、だしと思って」
「なにがせっかくだよ。俺がてめぇの仕事を他人に任すような奴だと思ってんのか」
 ぎろりと睨んでやると、セオはう、と顔を歪めたが、それでもじっとこちらを見つめてすっと腕に下げていた籠を差し出してきた。中には湯気を立てるポットが入っている。中をのぞくと、茶色いどろりとした液体が入っていた。匂いが甘い。
「? なんだこれ……コーヒーってやつか?」
「いえ、あの、ココア、っていうんだそう、です。この前、買ってきた、カカオの種を発酵させて、種皮と胚芽を除いてすり潰した粉、それに砂糖と牛乳を加えて温めたもの、で。ホットチョコレート、ともいうんだそう、ですけど。最近スーから、ポルトガに、入ってきたものだ、そうで……オクタビアさんから教わったもの、なんですけど」
「ふーん……」
「あ、あの、よろ、しければ」
「は?」
「よろ、しければ」
「だからなに……」
 言いかけて、言葉の意味に気付いた。
「俺に!?」
「え? は、はい。お嫌で、なければ、どうかな、って」
「…………」
 なんでだよ、と訊ねたい気もしたが、いまさらそんなことを聞くのはひどく無粋な気がしてやめておいた。認めるのはひどく気恥ずかしいが、こいつはこいつなりに、やはり自分たちを大切に思っているということなのだろう。
 あの時、『一緒に幸せになりたい』とこいつは確かに言ったのだから。
 脳裏によぎった言葉に嫌なことを思い出した、と小さく舌打ちし、ポットからさっさとココアをカップに注いで飲んだ。
「あぢっ!」
「あ、だ、大丈夫ですか!?」
「べ、別に平気だっつの! いちいち勢いづくな、鬱陶しい」
「ごめ、んなさい……」
 うつむくセオにフォルデはくそ、と頭をがりがりとかいた。別にこいつにこんな顔をさせたいわけではないのだ。
「……てめぇ、自分の分のカップはねーのかよ」
「え? だって、フォルデさんにと思って持ってきたん、ですから」
「お貴族様じゃねーんだ、この寒い中俺だけ温かいもん飲むわけにいくか! おら、お前も飲め」
「え、で」
「でもじゃねぇ! いーから飲め!」
「は、はいっ」
 セオはふぅ、ふぅと注がれたココアに息を吹きかけ、こくこくと飲んだ。飲み終えたらまたココアを注いでカップを差し出すのでフォルデも息を吹きかけて冷ましてから飲む。
 その温かく甘い液体はじんわりフォルデの体を温かくしてくれたが、心中はなんとも表現しがたい気持ちだった。セオに温かい飲み物を差し入れしてもらうというだけでもひどくむず痒いことなのに、あげく飲ませあいっこなんてガキじゃねーんだからと思ってしまう。このココアという飲み物が案外フォルデの好みに合っていたからよけいに微妙だ。
 しばし無言でココアを飲み合って、最後にカップを押し付けてから、フォルデはぼそりと言った。
「おい、セオ」
「はい」
「お前、なんで急に魔物さくさく倒すようになったんだよ」
「え」
 フォルデはぎろりとセオを見つめ言う。戸惑ったような困ったような情けない顔。これは以前となんにも変わらないのに。
 だから、こいつが変わったわけを、こいつの口からちゃんと聞きたいと思ったのだ。鬱陶しくたれこめるもやもやを、なんとか吹き飛ばしてしまいたい。
「海に出てからやたら魔物がばかすか出てくるようになったのも、お前の勇者の力とやらのせいなのかよ?」
「…………」
「おい、黙ってんじゃねぇぞ。ごまかす気じゃねぇだろうな」
「……いえ」
 セオはゆっくりと首をふる。表情は困惑から、戦闘時のような(この二週間の間に見た戦闘時のような、という注釈がつくが)冷静なものに変わっていた。
「ただ、俺にも、よくわからない、ので」
「わからないィ?」
「はい。勇者が、普通に旅をしているより、はるかに高い頻度で、魔物と出会うのは確かなこととして認められて、います。だから、旅の途中で、それほどたくさん魔物と出会うわけでもないのを少し、おかしいなとは思っていたんです、けど。今、それを取り返すような勢いで、魔物に襲われるのが、俺の勇者の力のせいなのか、自分でもよく、わかりません。勇者の力というのは、基本的に、自覚的に使えるものでは、ないので」
「……そうかよ」
「だけど、たぶん、俺のせいなんだろうな、と思います」
「っ」
「俺が、魔物を倒すと決めたから、魔物たちは襲ってくるんだろうな、と思います」
 じっとフォルデを見返して言う、その表情は静かだった。
 フォルデはカッと頭に血が上った。別に怒るところではないのはわかっている、だがセオのその台詞と表情に体が勝手に苛立った。
「あんだけ魔物倒すの嫌がってたくせして大した掌の返しっぷりだな。結局てめぇにとって命がどーだの理解がどーだのってこだわりはその程度だったわけかよ」
 別に喧嘩を売りたいわけじゃない。なんで自分はこういう言い方しかできないのか、と心の中で苛立ちながらも口は勝手に動いてしまう。
「自分勝手なもんだよな、てめぇ勝手な理屈で殺すの嫌がっといてなんかあったらこれかよ。魔物の命ってのも別にてめぇのおもちゃじゃねぇだろーによ」
 ああクソッタレなに言ってんだ俺は! と怒鳴りたいような台詞。だが、それを言われたセオは、怒りも悲しみもせず、静かにうなずいた。
「そうですね。本当に、そうです」
 淡々と。表情を変えず、ごく当たり前のことを言われたようにうなずくその顔。
 それを見た瞬間、久々にフォルデの腹の底から怒りが湧いてきた。
「てめぇ、なんだよそれ」
「え」
「てめぇにとっちゃ俺は言い訳する価値もねぇ相手ってわけかよ! ざけんなてめぇ、俺を舐めてんのか!? 言っとくがな、黙ってハイハイうなずいてりゃ納得するほど俺はお人好しじゃねーんだよっ!」
「…………」
「お前、あのカンダタのいた地下遺跡で俺らを守りたいとか抜かしやがったよな。言っとくがな、俺らは女子供じゃねーんだよ! てめぇの勝手で守ってやめてってやられて黙ってるほど弱かねーんだ! 俺らは、少なくとも俺はっ……」
 激情のままに怒鳴りかけ、途中でその言葉がひどく恥ずかしいものに感じられて一瞬言葉に詰まったが、ここで止めるのもみっともなく思えてええいと声を投げつける。
「てめぇをお互い背中を預けあえる仲間って認めたから、絶対守るっつったんだ!」
「っ……」
 セオの顔がくしゃりと歪む。泣きそうな顔になる。けれどその瞳から涙がこぼれることはなく、一瞬うつむいてから顔を上げ、唇を震わせながらもゆっくりと首を振った。
「今の俺は、そんな言葉に値するような人間じゃありません」
「っ………ざっけんじゃねぇぞこのクソタコ野郎っ! 値しねぇって思うんなら言葉につりあうぐらい価値を上げりゃいいだろ! そんくらいのこともわかんねぇのかよっ、第一てめぇが無理して泣かないようにしたところでてめぇの価値がいまさらどうなるもんでも」
 まくし立てる途中でばっとフォルデは自分の口を押さえる。なに言ってんだ俺、んなこと今言うことでも。
 だけど、ずっと気になっていたことだった。セオは海に出てから、いや自分たちを蘇生させた直後に大泣きしてから自分たちに一粒も涙を見せなくなっていた。いつもいつも、一緒に旅に出てからずっと、ことあるごとにそんなこと泣くことじゃねーだろということに対しても泣いていた泣き虫のこいつが、ほんの少しも。
 それが、ひどく。自分は、不安で。
 認めたくない感情が頭の中でぐるぐるし、脳天から血の気を引かせたり上らせたりとうろたえているフォルデを、セオはじっと、感情の感じられない目で見た。そして言った。
「俺は、人でなしなんです」
 その言葉は、セオにしてはありえないと思うほど、静かで、硬く、冷たかった。
「……おま」
「そして、これからも人でなしであり続けたいんです。みなさんの言葉に、気持ちに値しない、最低の存在で」
「なん、で」
 わずかに目を伏せながら、セオは淡々と答える。今までこいつの口から聞くなんて想像もしていなかったほど、揺るぎなく。
「人でなしでなければ、俺のわがままを通せないからです」
「わがままって、なんだよ」
 震える声での問いに、セオはふ、と吐息を吐き出して、顔も瞳も少しも歪めさえせず、なのにたまらなく悲しげに見える顔で答えた。
「みなさんに、ラグさんにロンさんに、フォルデさんに……世界が滅んでも生き続けていてほしいって、俺は思ってるんです」
「――――――っ」
 フォルデは数瞬、頭を真っ白にして絶句し、それから怒鳴った。
「ばっっっかじゃねーのっ!!?」
 それからだんっと見張り台から甲板に飛び降りる。頭が、体がやたらに熱かった。腹の底から怒りだかなんだかわからないものがたまらないほどの勢いで湧き出てくる。
 セオに対してなのか自分に対してなのかわからない。どこかにぶつけたくて、けれど誰かにぶつけられるほど自分で認められる代物じゃなくて、ひたすらずかずかと甲板を踏み鳴らして船室に飛び込んだ。
 なんなんだ、あいつ。馬鹿みたいだ。なんであんなこと言いやがるんだ。ひどくいびつな、そのくせ確かな意思の篭もったあんな言葉。
 馬鹿なあいつ、こっちの都合をなにも考えてないあいつ。だけど心の底から真剣だったあいつ。そんなあいつの言葉に胸が燃えるように熱くて、そして、痛かった。
「……ちくしょう」
 悔しい。悔しい悔しい悔しい。俺はあいつにあんなこと言わせたくなかったのに。あんな顔させたくなかったのに。
 この二週間、自分がひどくもやもやしていた原因をフォルデは知った。俺は、別にあいつに魔物を殺させたかったわけじゃない。ただ、俺はあいつに、ちゃんと、自分のことを大切だと思ってほしかったんだ。世界のほかの存在と同じように、少なくとも自分たちにとってはそれよりずっと価値があるものだと思ってほしかった。
『一緒に幸せになりたい』とあいつが言ったあの時、ようやくつかまえた、と思ったのに。
「ちくしょう……」
 自分の部屋に飛び込む。そして体を中から突き破ってしまいたいような荒れ狂う感情をベッドに叩きつける。魔法が付与されているというベッドはフォルデの拳を柔らかく受け止め、揺れた。
 悔しい。悔しい。あいつは、セオはもう受け容れてしまった。喪失を、絶望を。この世界にはどうにもならないことがあるということを。そして自分にはそれをどうにもできないのだということを。
 嫌だ。自覚した。俺は嫌なんだ、あいつがそれを認めることが。ずっとずっと腹立たしくてたまらなかったあいつの甘っちょろい戯言。俺はそれを憎んですらいたのに、あいつを打ちのめして世界のどうしようもなさを認めさせたいと思っていたのに、なのに。
 あいつが救われない存在のことをしょうがない≠ニ認めてしまうのが、今こんなにも悔しい。
 どすっ、がすっ、とベッドに全力で拳を叩きつける。枕を放り投げ柱を蹴り地団駄を踏み鳴らす。そんなことで気は晴れない、晴れるわけがない。
 だって自分は、あいつになにかしてやれる自信がないんだから。そんなの認めたくない、負けたくないと心底思う、だけどあいつに馬鹿じゃねぇのと怒鳴れる自信がない。自分の思考のむちゃくちゃさがフォルデはよくわかっていたし、なにより。
『あいつを守ってやれなかった自分が、今のあいつになにを言ってやれるっていうんだ?』
 フォルデは突き刺さるように鋭く心の中で、そう考えてしまったのだから。
「くそったれ……こんちくしょう……!!」
 拳を血が出そうになるほど握り締めて、がん、がんと床を殴りつけた。じわっと熱くなる瞳に必死に知らないふりをしながら。頬の濡れた感触を懸命に無視して。
 そんなことをやっていたので、ココアの礼を言いそびれてしまったと気付いたのは明けた日の夕食の時だった。

 セオはフォルデが去った見張り台から四方を索敵していた。パーティメンバーとしての役目は決しておろそかにしてはならない。
 だが見張り用の毛布に包まってはいなかった。毛布は折りたたんでポットとカップを入れたバスケットと一緒に体の前方に捧げ持っている。風は冷たいが、体温が高くなっているので我慢できないほどではない。
 セオは時に深く、時に浅く呼吸をしながらすっすっと狭い見張り台の中で小刻みに移動と回転を繰り返している。ロンに教わった、呼吸法と歩法の訓練をしているのだ。最初は四方を怠りなく索敵しながら訓練に神経を傾けるのに苦労したが、今ではもう慣れた。
 自分の能力は、確実に向上している。セオは理性でそれを自覚していた。わずか二週間の戦いで、力も速さも耐久力魔法力も三割り増しくらいにはなっている。
 新しい呪文もいくつか覚えた。一週間前にはベギラマなんて使えなかった。今ではその上の新たな攻撃呪文も習得できそうな勢いだ。これからもたぶん、どんどんと新たな技と力を手に入れていくのだろう。
 だからこそ、その制御方法を確実に習得していかなくてはならない。手に入れた力は完璧に使いこなせるようにしなければ。無駄な時間など一秒もない。今のように、敵を倒してレベルを上げられる状態がいつまで続くかわからないのだから。
 自分は、人でなしであることを選んでしまったのだから。
 脳裏にフォルデの顔がよぎる。フォルデは本当に怒っていたように見えた。当然だ、自分はあの人たちの気持ちに値するものを、気持ちすら返せない、と言ったのだから。自分のわがままで勝手にあの人たちを守る、相手の意思に関わらず、と宣言したのだから。
 フォルデは言っていた。『無理して泣かないようにしたところで』と。けれど自分は無理をしているわけではない。だって当たり前じゃないか。今の自分に、泣ける資格はない。そんなこと許されるはずがない。
 だって、自分はこれから流される山ほどの涙を無視してでも戦うことを、選んでしまったのだから。
 ぎゅ、と唇を破れそうなほどに噛み締めて、セオは闇の中訓練を続けた。

戻る   次へ
『君の物語を聞かせて』topへ