商人の街〜ダーマ――3
「へぇ……こりゃ、確かに大した逸品だな」
「ふん、当たり前だろ。最高の武器を渡すっていう契約だ、あたしはまっとうな商人なんだから契約は守るさ」
 バトルアックスと銘の彫ってある艶やかに輝く大きな戦斧を、ラグは惚れ惚れと見つめた。手に取るだけではっきりわかる、どっしりとした重みと取り回しのしやすさ。今まで使っていた普通の鉄の斧とは比べ物にならない破壊力を持つことがびんびん伝わってくる。
「ふむ、武闘家の装備はやはりろくにないか……ま、黒頭巾が手に入っただけでもよしとするべきかな」
「うるさいね、そもそも武闘家は装備できるものが少ないんだよ。なんならぬいぐるみでも装備してみるかい、さぞ似合うだろうさ」
「ほう、装備できるぬいぐるみなんてものがあるのか? ぜひ持ってきてもらいたいな」
「……あんた、本気かい?」
「おい。俺のこの武器、なんだ? なんか妙な気配があるっつーか」
「ああ、それはね、アサシンダガー。急所を突けば一撃で敵を倒せるって魔力が付与された武器なのさ。もちろん、ある程度強い敵には効かないけど、短剣にしては攻撃力も相当だし接近戦では役に立つと思うよ」
 オクタビアが他の仲間たちの相手をしているのをよそに、ラグは自分の装備を確認する。バトルアックス、魔法の鎧、ドラゴンシールド、鉄仮面。ドラゴンシールドはここの工房で作った試作品だそうだが、持ってみたかぎりでは問題ない装備に思えた。
 どれも普通に買えば傭兵時代の稼ぎが一月分は吹っ飛ぶような代物だ。値段的には手の届かないものではないが、市場に流通している量がそもそも少ないから、コネと金があっても手に入れるのは難しい。
 それがこうもあっさり手に入ることに不安を抱かないではなかったが、やはり戦士として強い装備を手に入れるというのは心が躍る。上向いた気分でバトルアックスの柄を撫でてから、オクタビアに訊ねた。
「鎧の寸法直しはしてもらえるんだろう?」
「もちろん。ま、あたしの見立てなんだからまずぴったりだとは思うけどね」
「じゃあ着けてみるか。セオ、君も鎧を着てみた方がいいよ。もし違和感があったりしたら早く直しておかないと命取りになりかねない」
「……はい」
 小さく答えるセオの声は、ひどく低く小さかった。ロンがじっとそのうつむき加減の顔を注視する。フォルデはぎっと睨みつけてから苛立たしげに目を逸らす。ラグはため息をつきたくなるのを堪えて、セオに歩み寄った。
「ほら、セオ、早く。なんなら着けるの手伝ってあげようか?」
「………! いえ、自分で、できます……」
 びくん、と大きく震えてから、こちらと目を合わせないようにしつつ鎧を着けるセオ。その手は、恐怖にかそれとも泣くのを堪えているせいか、一間は離れた場所から見てもわかるほど震えていた。
 ラグは堪えきれずふ、と息を吐く。ロンが肩をすくめる。フォルデがぎ、と音がしそうなほど奥歯を噛み締めて拳を握り締める。オクタビアがわずかに訝るような視線を投げかけてきたが、口に出してはなにも言わなかった。
 確かに現在、パーティ内の空気は最悪だった。セオは今のところ最低限の会話しかしていないのに、ことあるごとにひどく怯える。旅を始めたばかりの頃のように。フォルデはひどく苛々しているのに、それをこちらに真正面からぶつけてこずに周囲の物に当たるだけでなにも言わない。ロンですら周囲の空気がぴりぴりしているのを感じる。
 そして、ラグ自身、分別のついた大人として理性的に振舞おうとは思っているが、ロンに対する態度に硬いものが混じるのを抑えることができなかった。
 あの時、自分たちは酔っていた。頭が冷えてみればはっきりわかる。ロンの顔は確かに少し赤かった。自分たちはそれなりに酒には強いほうだと思うが、それでもワインを何本も空ければ少しは酔いも回る。そうなれば自然理性も頭から吹っ飛んでくる。そういう状況でついこぼれてしまった言葉だとわかってはいる。事実ロンは翌朝すぐに自分たちに謝罪をしてきた。珍しく、真摯な面持ちで。
 だが、その謝罪を受け入れはしたものの、ラグは彼を『許したい』とは思えなかった。
 ヒュダはこう教えた。
『人になにか嫌なことをされた時にね、相手が謝ったら『わかった』とはちゃんと言ってあげなさい。でも、『許してあげる』とは、本当にその人のやったことを本当に『もういいよ』と思えた時じゃないと言わない方がいいわ』
 謝られたから許す、ではなく自分が相手を許したいと思うから許す、が望ましい。無理に許さなくてはと思って接していると、その人への気持ちを歪めてしまい、関係を壊してしまうことにもなりかねない。そうヒュダは教え、自分はその教えを守っている。
 だからラグは、まだロンを許せない。あいつの言った言葉は、自分のまだ引きずっている古傷にざっくりと刃を突き立てたのだ。心の中には、殴りつけてやりたいという生々しい憎悪がまだ残っている。
 セオのこともあるしな、と鎧を着けながらため息をつく。セオは今朝起きた時からずっと、旅が始まったばかりの頃のようなびくびくおどおどとした態度に戻っていた。いや普段からセオはびくびくおどおどとはしているが、それでも旅の始まりから半年が経って、笑顔らしきものもよく浮かべるようになったし、心を許してもらっている、という実感も確かに感じられるようになったのだ。
 それが、今はない。セオとの間に、壁を感じる。セオの心が心を許されないまま、固まっているのを感じるのだ。
 確かにバハラタからセオはずっと傷を引きずっている様子ではあったけれど、自分たちに対する距離は変わっていなかったのに。
「みんなー、装備の他の準備の方は大丈夫? 準備できた?」
 全員が武器防具を装備し終えた頃、ふいに明るい声が上がる。はっとそちらを振り仰いで、思わず目をぱちくりとさせてしまった。いつの間にやってきていたのだろう、蒼天の聖者<Tヴァンがにこにことしながら目の前でこちらを見ている。
「……俺は、一応大丈夫ですが」
「……俺、も」
「んなもん、いちいち聞かねーでも大丈夫に決まってんだろ」
「俺も問題ありません」
 その答えにサヴァンはうん、と笑顔でうなずき言った。
「じゃあ、そろそろダーマに向かおうか。もうそろそろお昼だから、今から出れば大神官のウェイビ殿がお昼休みに入ってるところに着くだろうし」
「ウェイビ殿って……」
 世界の職業と信仰を統括する存在であるダーマのトップをずいぶん軽く呼ぶんだな、とラグは内心眉をひそめた。それは聖者ともなれば当然大神官とも友誼を結んでいるだろうけれども。
「……言っとくけど、船もあるんだぜ。あんた船ごと俺らをダーマまで運べんのかよ」
「あはは、できるよー」
「もの知らずだねあんたは。ルーラの呪文はある程度の実力がある術者なら船の一個や二個ぐらい運べるんだよ。こいつは曲がりなりにも聖者の名を冠された賢者なんだよ、おまけに魔船はルーラの呪文に感応しやすいよう調整してあるんだ、楽勝で運べるさ」
「……そーかよ」
 つけつけと放たれたオクタビアの言葉に、フォルデはわずかに苛立たしげに顔をしかめて答える。その普段よりさらに愛想のない返答にオクタビアはわずかに眉をひそめたが、サヴァンは笑顔を崩さなかった。にこにこしながらすい、と一歩こちらに近づく。
 反射的に身構えたフォルデににこりと笑いかけてから、サヴァンは言う。
「じゃ、飛ぼうか。いい?」
「いい、ってあんた、ここ室内」
 フォルデが言い終わるより早くサヴァンはどこからともなく杖を取り出し、聞いたこともない呪文を流れるように唱えていた。
「C:\Octo>move /y savants.exe Darma\stay=v
 ――とたん、世界が変わった。

「はい、着いたよ」
 言われなくともロンにはわかっていた。なにせ目を閉じる暇もなく転移したのだ、周囲の光景は否が応でも目に入ってくる。
 そこはダーマにルーラやキメラの翼で飛んでくる人間たちが使う発着場だった。ルーラの呪文は制御が難しい、転移後に着地≠ノ失敗して怪我をする術者はけして珍しくはないし、多くの荷物を運べば着地≠フ難しさは指数関数的に上がる。なので大きな街ではルーラやキメラの翼で飛んできた者が制御を誤っても巻き添えが出ないように、街の外に空間を作り、そこに魔法陣を作って飛んできた者たちを魔法的に誘導するのが普通だった(船などと一緒に飛んできた場合はそれらも固定された場所に誘導する。基本的に誘導魔法陣のない場所には船などの大きなものと一緒に飛ぶのは禁じられているのだ)。
 そもそもその習慣はダーマから始まったものなので、ダーマにももちろんそれはあり、自分は何度もそこを使用している。なので、ここは間違いなくダーマのルーラ発着場だと断言できる。仲間たちとオクタビアが、自分同様サヴァンの前で周囲を見渡しているから、全員しっかりと運んでくれてきたのだなと理解はできるのだが。
 まさか、こうまで静かに着地≠ナきるとは思っていなかった。周囲を見回して再確認する。自分たちの周囲はおそろしい数の人でにぎわっていた。
 なにせ正月のダーマだ。世界中から何百何千、ひょっとすると何万人という数の人が巡礼にやってくる。当然発着場に来る人間も半端な数ではない。
 もちろん空間は充分余裕を持って作ってあるし魔法陣の作用で飛んできた者たちが誰かの上に乗るようなことのないよう安全措置は何重にも取られているが、それでも年末年始のダーマでは発着事故はあとをたたない。それをこうも静かに、安全に見事に、オクトバーグの室内からダーマまで、聞いたこともないとはいえたったあれだけの呪文で瞬時に運んでくるとは。蒼天の聖者≠フ名を冠されているのは、やはり冗談ごとではない。
「さ、行こうか」
 にっこり笑ってそう言って、サヴァンは自分たちに背を向けた。オクタビアもそれに続く。ロンは一応仲間たちを見回したが、全員微妙に目を逸らしたままサヴァンを追って歩き始めたのを見て取って、ふ、と小さく息をついてからあとに続いた。
「創業五十年〜んンン、ダーマ蓑饅頭〜蓑饅頭〜」
「ダーマひでーん千金たーん。本家は三種の本草よーおぉぉ」
「茄子に胡瓜に蕪高菜ー、ダーマ伝来お漬物ー」
 何百何千、あるいは何万という人間がうごめく巡礼道。そこに投げかけられる道に並ぶ屋台や出店からの呼び声。数百年前よりダーマの風物となっている、かつて何度も見た光景を眺めつつ、人と人の間を通り抜けてダーマの中へと進みながらかつて学んだことを思い出していた。
 ダーマというのは、その始まりはひとつの神殿だった。
 古代帝国に存在した人間が神の手により滅ぼされ(その様子の記録が残っているわけではないのだが)、現在の人間が新たに創られた時、人は文明というものを持っていなかった。古代帝国においては人間は神の祝福を受け、さまざまな魔法技術を生まれながらにして有していたそうだが、現在の人間には神はそこまで優しくない。
 なので魔物や獣に食われながら、病に苦しめられながら、狩猟採集生活を長い間――二百年弱ほど続けていたらしいのだが、ある時ダーマに賢者と呼ばれる存在が生まれた。悟りを開いたというその存在は、人間たちに魔法をはじめとする技術を教え、神の存在を教えた。そして職業というものを創り出し、人に授けたのだ。
 そのための場所。人を職業に就け、神の存在と教えを説き、技術を教授するために森を切り開いて創り出された建物。それを人は神殿と呼び、やがて他と区別するためにダーマ神殿と呼び習わすようになったのだ。
 職業に就くことで魔物や獣に負けない力を手に入れることができた人間たちは、どんどんと数を増やし、世界に広がっていった。人間がダーマにしかいなかったわけではないが、文明を、職業というものを有していたのはダーマだけだ。
 その始まりの賢者は、周囲の人間たちを(そう望まれたにもかかわらず)傘下に置くようなことはせず、あくまで神殿の長として教えを説くという立場を崩さなかった。だが周囲の集落が襲撃された際にはその力をもって守ったため、助けられた集落は神殿にお礼として食物を納め神殿のために働いた。やがてそれが慣習化し、ダーマ神殿は周囲の人々を治めはしないけれども、いざという時には力を振るい守り、その代償として人々は寄進と呼ばれる税を納めることが決まりになったのだ。
 現在もダーマ周辺の村々は、自治を行いながらもダーマに税を納めている。いざという時にはダーマに属する者たちの力を振るってもらう見返りとして。
 そしてダーマは現代の人間の文明が始まった頃よりずっと変わらず、人間のありとあらゆる文化技術を研究し発展させる文明の発信地であり、世界中の信仰の中心であり、すべての職業の総元締めである神殿なのだ。
 現在では研究機関や、納められた税の管理から始まった交易所などもできてどんどんと巨大化し、もはや神殿とは呼べない規模の巨大学術都市となってしまっているが、ダーマが世界でただひとつ、転職をつかさどる場所である限り神殿としての性格を持ち続けることは変わるまい。なので現在でもダーマは信心深い人々にとっては憧れの地であり(どこの宗教の聖地というわけでもないのだが)、年末年始にダーマ神殿に巡礼に訪れる近隣の人々や遠距離からルーラ等で飛んでくる富裕層の人間たちは数多かった。
 なので正月、ダーマ神殿は毎年てんやわんやの大騒ぎになる。巡礼の人々の誘導、宿泊施設の整備、もちろん神殿なのだから年末年始の祭祀儀礼もとどこおりなくこなさねばならない。ダーマを統括する地位にある大神官も大忙しだったはずだ。
 その邪魔をするのは嫌だな、とロンは思った。あの善良な年寄りをこれ以上苦しめたくはない。ただでさえ自分は、彼にさんざんひどいことをしているのだから。
 昨日、仲間たちにしたように。
 は、とまた小さく息を吐く。昨日の自分は、確かに最低だった。言っていることは間違いだとは思わないが、かといってあのように思い出したくないところに無分別に矛を突き刺していいことはないと自分はよくわかっている。
 わかっているのに、やってしまった。自分らしくない……というか、自分でそうあろうとして、事実相当に板についてきていた自分には似つかわしくないことに。
 しかも最悪なことに、自分がああも理性のたがを外したのは、酒に酔っていたのももちろんだが、なにより自分がダーマに来なければならないと考えて鬱々としていたからだったのだ。嫌だ嫌だと考えて心のどこかでうじうじしていたから、普段なら微笑ましく見守ることができていたフォルデの世を拗ねた素振りが苛ついた。なだめようとしたラグの本音を引き出したいという感情を抑えることができなかった。
 結果、セオを怯えさせ、フォルデを本気で怒らせ、ラグを傷つけ、パーティ全体の雰囲気を最悪にして自分自身落ち込ませている。自分の勝手な苛立ちのために。馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
 もちろん一人ずつ全員に詫びは入れたが、雰囲気はまるで改善されなかった。当然だ、謝られたから傷つけられた記憶がなかったことになるわけではない。
 ならば、どう償い、相手の傷を癒すべきか。それを考えなければならないわけなのだが。
 ロンは小さく心の底によどむ憂鬱を込めたため息をついた。まいったことに、どこからどう考えても、早期解決は難しいとしか思えないのだ。
 フォルデの場合はまだいい。あいつは火付きがいい分怒りが失せるのも早い。のべつまくなしなんにでも腹を立てているので、怒りを持続させる方向に気力が働かないのだ。しかも生い立ちからするとすれていて当然なのに人がいいので(本人は認めないだろうが)、謝られると許さないと悪いような気分になってしまう(それを素直に表現はしないだろうが)。
 だがフォルデは空気に敏感、というか全体的な気分が雰囲気に左右されやすいので、パーティの空気そのものが改善されなければ精神状態の緩和は難しいだろう。そして残るセオとラグ、だが。
 セオは旅立った頃のような態度に戻っている。こちらの様子をうかがい、一挙手一投足にびくびくおどおどする状態だ。しかもどれだけびくびくしても泣きもせずどこか虚ろな表情でこちらの様子をうかがっているのだから、さらに始末が悪い。
 一応心情としてはだいたい想像がつく、セオは自分たちの喧嘩を『自分のせいだ』と思ったのだろう。だからもっとしっかりしなければ、と自分に言い聞かせ、結果こちらを気にしすぎて旅立った頃のような状態に戻っているのだ。それに『魔物を殺している』という事実に対する、異常なまでに深い罪悪感も大きく寄与しているのだろうが。
 つまりこの罪悪感をなんとかしない限り、セオの気が楽になるという状況は果てしなく遠い。
 ラグの方は自分にはっきりと根深い怒りを抱いている。ラグにとって母親≠ニいうものはほとんど魂の根幹に関わる存在だ。それの一番思い出したくない記憶を思い出さされた怒りは想像するに余りある。
 ラグは自分の謝罪に『わかった』とだけ答えた。つまり謝罪は受け容れる、パーティを壊すような真似はしない、だが許す気はない、というわけだ。
 この怒りを解くには、とりあえず解決策としては時間をおくこと、ぐらいしか思いつかない。ラグとしても別に怒りたいわけではないのだろうし。
 つまり、どちらにせよ、パーティの空気が改善されるにはある程度の時間が必要、ということになるわけだ。
 まいったな、と内心ため息をつく。酒に酔ってパーティの仲間に言いたい放題言って空気を壊して。しかもそれが自分の意思でならまだしも思わず口が滑ってというのが最悪だ。
 その上最低なのは、自分がそれに思いのほか傷ついているという事実だ。傷つくくらいならば最初から言わなければいいものを。
「騒がれないな」
 ふいにぼそり、とラグが言い、セオはびくりと震えフォルデは眉を寄せた。オクタビアがちろりとラグを見て、サヴァンがにこにこしながら訊ねる。
「なにがだい?」
「いや……ダーマならあなたの額にある賢者の額冠に気付く人もいるだろうと思ったのに、騒がれないな、と。勇者の額冠に気付く人もいないし。正直、うじゃうじゃ人が集まってきてありがたやと拝まれることを覚悟してたんですが」
「は? いくらなんでもんな阿呆らしいことあるわけねーだろ」
「いや、確かになんの対策もしてなかったらそうなってただろうさ。忘れるんじゃないよ、ここはダーマだ。全世界の宗教と職業の総本山なんだよ。神に選ばれし職業である賢者と天に選ばれし職業である勇者は拝まれるくらい当然さ。年明けにわざわざダーマまで巡礼に来るような信心深い奴らならなおさらね」
「ケッ、なーにが選ばれし職業だ、けったくそ悪ぃ」
「……ごめんなさい。本当に、ごめんなさい……」
「てめぇに言ってねぇっ!」
 怒鳴られてセオはびくり、と身を震わせたが、泣きも怒りもせず、虚ろな表情のまま頭を下げた。チッ、とフォルデが大きく舌打ちをして、セオがまた身を震わせた。
 と、あははっ、とサヴァンが笑った。
「セオくーん、あんまりほいほい謝ってると、みんなにウザいって思われちゃうよ?」
「ウ……」
 絶句し、顔からさーっと血の気を引かせるセオに、サヴァンはにこにこと言う。
「ウザい。鬱陶しいってこと。そうだなぁ、特にフォルデくんなんか、怒りっぽそうだから君のウザさに苛々してるんじゃない?」
「なっ……ざっけんなっ! 俺は別にこいつをウザいとか思ってねぇよ、ただこいつがあんまりほいほい謝りやがるからムカついただけだっ!」
「そうなの?」
「そうだっ!」
「よかったね、セオくん。フォルデくんは、君のことが大切だからそんなに簡単に頭を下げてほしくないんだって。あんまり自分のことを軽く扱われたら、悲しいってさ」
「は」
「え……?」
「なななななななっ、なに言ってんだテメーはっ! いつ俺がんなこと言ったっ、別に俺はんなこと」
「え、違うの? そうだったら悲しいな、セオくんがあんなに喜んでるのに」
「はっ……」
「え」
 セオとフォルデの視線が合った。お互いの顔を見つめる。セオは呆然とした顔のままだが、フォルデはその表情からセオの戸惑いの入り混じった『嬉しい』という感情を感じ取ったのだろう、カッと顔を赤らめて「ふんっ!」とそっぽを向く。
「うんうん、二人とも仲良しでよかったねv あ、ちなみにラグくん、僕やセオくんが騒がれないのはマヌオルって呪文を使ってるからだよ。認識疎外っていうのかな、この呪文の効いている人間は他の人間にまったく気付かれないんだ。こちらから行動を起こさなければね。レムオルと違って移動距離で効果が解除されたりもしないから、こういう時は便利なんだー。納得いった?」
「………はぁ」
 ラグはわずかにまごついたような顔で答える。おそらくはサヴァンの聖者らしからぬ気安さに戸惑っているのだろう。
 だがロンは戦慄していた。サヴァンは、昨日から自分たちとろくに話していないはずなのに、セオとフォルデの関係を見切り見事に御してみせた。しかも自分がやるよりも明るく。どれだけ人間というものを知ればそんなことが可能になるのだろう。
 やはりというかなんというか。呪文技術とかそういう段階ではなく(マヌオルなんて聞いたこともない呪文を活用できるのもすごいとは思うが)、この人は尋常な存在ではない。
 とにかくサヴァンの力で自分たちは誰に見咎められることもなく、道一杯にひしめく人々の間を通り抜け、都市としてのダーマの門を見咎められずすり抜け(基本的にダーマは出入に厳しい都市ではないが)、人の溢れる道をすいすいと歩いて、ダーマ神殿本殿の厳しい警備が敷かれている中にするすると入り込み、足音すら忍ばせずに神殿の最奥、大神官の部屋へとたどり着いてしまった。
 魔法で施された扉の鍵を呪文一声であっさりと開け、扉の両脇に立つ警備兵には気づかれもせず、自分たちは部屋の中に入った。自分すら何度かしか訪れたことのない大神官の私的生活空間。人の私的な部屋をのぞいていることに罪悪感を感じたのだろう、フォルデが居心地悪そうに身じろぐ。
 部屋の中で待つこと数分。がちゃり、と扉が開き、一人の老人が入ってきた。
 思わずロンは顔をしかめる。以前に会った時より、さらに老いている。またこの人は、世界の抱える諸問題を、自分一人で抱え込んで悩んでいるのだろう。
 胸がざわりとざわめくのに驚き、思わず自分を叱咤する。お前はそんなことを感じられる筋合いではないだろう。
 その老人――ダーマ大神官シンフォンウェイビはくるりと部屋の中を見渡し、ふ、と小さく息をついて、その深みのある美声で――ただし以前会った時よりさらに細くなった声で言った。
「サヴァン殿。いらしていらしたのですか」
「うん、疲れているところにごめんね? どうしても話さなくちゃならないことができちゃって」
 す、とサヴァンが一歩前に出る。表情も声音も、優しく笑んだ調子を崩さない。
「なにか魔王か、勇者のことで新たな情報が?」
「うん、それがね。そうだな……とりあえず、紹介するね」
 ぱちん、とサヴァンが指を鳴らす。体感的にはなにも変わったところはなかったが、呪文が解除されたのだろう、ウェイビははっと身構え、それから愕然とした顔になった。
「ジン、ロン……?」
『……は?』
「お久しぶりです。ウェイビ殿」
 ロンは静かな表情を作って頭を下げる。ウェイビはしばらく愕然とした面持ちのままこちらを見つめていたが、やがて厳しい顔を作ってぱんぱん、と手を叩いた。
「誰か! 誰かある!」
「大師、なにか」
「インミンをこれへ! 疾く連れてくるがよい!」
「はっ」
 外の気配が遠ざかっていく。ウェイビは厳しい顔でこちらを睨みつけている。
(……やっぱり、あいつ、いるのか)
 思わずげっそりとする。予想していたことではあるが、覚悟もしていたことではあるが、それでもやはりあいつと会うことを考えただけでどっと肩に疲労感がのしかかる。
 鬱々とする自分を仲間たち(とオクタビア)がなにか聞きたそうな顔で見ているのはわかっていたが、あえて水を向けはしなかった。あとでまとめて話した方が手っ取り早い。
 やがて扉がこんこん、と叩かれて人のおとないを告げた。
「大師、シンフォンインミン、参りました」
 以前会った時と同じ、高く澄んだ硬質な声。彼女に惚れていた男は金剛石のようだと抜かしていたが、確かに彼女の声には澄んだ鉱物のような趣がある。だからといってロンにしてみれば苦手なことに変わりはないが。
「待っていたぞインミン、早く入るがよい。お前に会わせたい者が来たのだ」
「……はい」
 かちゃり、と扉が開かれて、彼女――インミンが入ってくる。緑なす、といってもまぁ間違いではないだろう髪。整っている方なのだろう顔貌。すらりとしていると言うべきなのだろう肢体。優雅というのが一番正しい表現なのだろう仕草で彼女は頭を下げながら部屋に入り、ウェイビが「よろしい」と頭を上げていいという許可を出してから顔を上げて素早く部屋の中を見回し、一番最初に自分を見つけ、大きく目を見開いた。
「……久しぶりだな、インミン」
 渋々そう仏頂面で告げると、インミンは表情を固まらせたまましばし自分を見つめ、それからきっとこちらを睨み――ぼろぼろっ、と涙をこぼした。
「……!?」
「なっ」
 ぽろぽろぼろぼろ涙をこぼしながらインミンはこちらを睨む。ああ変わってないなー、とロンは気分がさらに重くなるのを感じた。ぎっとこちらを睨みつけ、唇を引き結び、涙をこぼし続けるインミン。その横でおろおろと手をわたつかせるウェイビ。
 は、とロンは小さく息を吐く。困ったことに。そうなんじゃないだろうかと思ってはいたものの。
 この少女は、まだ、自分のことが好きらしい。

 女が突然泣き出した時にはどうしようかと思ったが。サヴァンがセオの額冠に気付かせたとたん、大神官は突然しゃんとして少し自分たちを待たせて入ってきた部屋の隣の部屋の準備をした。大神官の個人的な応接間だというその部屋で茶を出されてから(不思議な香りのお茶だった)、改めてサヴァンがお互いを引き合わせる。
「こちらアリアハンの勇者、セオ・レイリンバートルくん。そしてその仲間のラグくんロンくんフォルデくん。そして僕がお世話になってる商人のオクタビアさん。こちらダーマ大神官シンフォンウェイビ殿、そしてその孫娘のインミンちゃん」
「……よろしく、お願い、します」
「以後お見知りおきを」
 オクタビアはにっこりと笑うが、大神官だそうなウェイビという爺さんはちらりとそちらを一瞥し会釈しただけですぐ視線をサヴァンに戻す。インミンとやらいう女は、こちらに頭を下げたあと、ずっとロンをきっと睨んでいる。さすがにもう泣いてはいないが、それでも目は潤んでいた。
 なんだってんだこの女、とフォルデはむすっとする。さっきからロンばかり見て泣いたり睨んだり。別にこちらを意識してほしいわけではないが、こうも無視されると少しばかり苛つく。大神官とかいうジジイもやたら偉そうだし。まー神官なんてどいつもそんな感じだけど。
 しばしの沈黙ののち、ウェイビが口を開いた。
「……サヴァン殿。セオ殿をわざわざあなたがここに連れてくるということは、あなたはセオ殿を選んだ≠ニいうことでよろしいか」
「あははー、ウェイビ殿ったら。何度も言ってるじゃない、勇者が一人である必要はないって。そういう風に英雄を創り出そうとしたって、魔王は倒せないよ?」
「ダーマがどういう場所であるかはあなたもご存知のはず。我らは世界の平衡と平和を保たねばならぬ。魔王を倒すべく勇者に道を作り、魔王が消えたのちは勇者を諭し導く。それが我ら神に選ばれし者の責務。それはあなたもわかっているはずです」
「まぁ、それなりにはね。でも、だからってどの勇者に魔王を倒させるかとかなんて倒す前から考えなくてもいいんじゃないかな?」
「……おい。なんだよそりゃ」
 フォルデは低く言い、ウェイビを睨んだ。ウェイビは重々しく威厳のある表情でこちらをじろりと睨むが、そんなもので怖気づくほど安楽な生活は送っていない。
「お前ら、なにか? 勇者の選別でもしてんのか? どいつに魔王倒させるか勝手に決めて、そいつにだけ肩入れしてんのかよ。何様のつもりだてめぇら、ざけんじゃねぇぞこんタコッ!」
「あははー。ほんとだよねー」
「サヴァン殿。……では、若き盗賊よ、訊ねるが。勇者一人の力で、魔王を倒せるか」
「は? んなの知るか、やってみなきゃわかんねーだろ」
 セオが一人で魔王と戦うことはないに決まってるが。
「そうだ、わからぬ。どれだけレベルを上げて強くなったとしても、魔王の力がどれほどかわからぬ以上戦って倒せるかどうかは賭けだ。賭けてみるべき時にためらうのは臆病者だが、無謀な賭けをするのは愚者のすることだ。魔王が勇者を倒したならば復活を阻止すべくあらゆる手段を講じるであろう、ならば全力で勝利の確率を上げるべくあらゆる方法を講じなければならぬ」
「……だからなんだよ」
「魔王を倒すための道程は険しい。ただ強くあれば道が開けるというものでもない。ダーマをはじめとする組織の、国家世界の助けが必要だ。そして、現在の世界には、見込みのない勇者にまで助けを与える余裕は存在しない」
「は? 余裕がない、って」
「まぁ、無駄金は使えないってこと。どこの国も内情はそれなりに厳しいんだよねー、最近。魔物対策やら難民対策やらで出て行く金も多いし」
「そして、その見込み≠つけるのが我らの責務。魔王を倒し、世界を守り、かつそののちの世界においても人々の守り手となってくれる勇者を、全世界に支援させるべく各方面に働きかける。それが我らの考えた、勇者の助けとなる方法だ」
「…………」
 フォルデはむすっとした顔で考えた。一応筋は通っている、ような気はしないでもない。だが面白くない。まるで自分たちがこいつらの掌の上で踊らされているようではないか。自分たちは自分たちの意思で、勝手に魔王を倒そうとしているのに。
「ま、ダーマの方々の考えとしては、害になるような性格の勇者に魔王を倒してもらっちゃ困る、っていうのもあるんだろうけどねー。魔王を倒すほどの力のある勇者ならやろうと思えば世界を滅ぼすことだってできるだろうし。そうでなくても所属する国の命令に盲従するようだったら、その国が世界征服に乗り出したりする可能性もあるでしょ? 仲間を作れる勇者なら、その仲間の人格も見定めなきゃならないし」
 フォルデはにこにこと言うサヴァンの言葉に目をむき、ぎっとウェイビを睨みつける。人に性格をいちいちうんぬんされるような馬鹿らしいこと受け入れてたまるか。このジジイやっぱりろくなもんじゃねぇ。
 だがウェイビは眉を動かしすらせずフォルデを見返してから、傲然とした表情でサヴァンの方を向き告げる。
「堕ちた@E者のような存在を、これ以上作り出すわけにはいかぬ。それはあなたが誰よりもよくわかっているはず」
「………! お前らあいつのこと知ってんのかっ!?」
 思わず立ち上がると、ウェイビは肩をすくめた。
「むろん。世界中の勇者の情報はすべて集めておる。サヴァン殿のような、在野の賢者の力もあるのでな」
「じゃあ、俺らがあいつに……負けたのも」
「ああ、サドンデスさんのこと? それなら僕がオクタビアさんに聞いたんだー。ウェイビ殿にも話したよ。勇者の話を聞いたらなんでもいいから伝えてくれ、って言われてるからね」
 にこにこと告げられて、フォルデは言葉に詰まり、のろのろと腰を下ろした。正直知られたい話ではないが、話されたからといって怒るというのも格好が悪すぎる。
「……それで。どうなのですかな、サヴァン殿。あなたはなんのために、アリアハンの勇者セオ・レイリンバートル殿をここに連れてこられたのか。こうも内密にするということはなにかお考えがあるのでしょう?」
 重々しい口調で訊ねるウェイビに、サヴァンはにこり、と笑みを深くしてみせ、あっさりと答えた。
「うん、僕はね、この子たちにガルナの試し≠受けてもらおうと思ってるんだよ」
「!」
 さっきからずっと黙ってロンを睨みつけていたインミンが、はっとした顔になって立ち上がる。ウェイビの眉間に、一筋深い皺が寄った。
「……あなたは、彼らに賢者の資格があるか試そうといわれるのか」
『は?』
 思わずラグと声を揃えてしまった。賢者? って確か魔法使いと僧侶の呪文を両方使えるっていう職業だよな。なんでそんな話が出てくるんだよ。……もしかしてここ転職の神殿だから、誰か転職させようとか考えてんのか?
「おい、待てよ。俺らは別に転職なんてする気なんざねーんだぞ」
「………。サヴァン殿、あなたはこのようなことを言う者に、賢者の資格があるとお思いなのか?」
「賢者の資格は知識じゃない。悟り≠開けるか否か、それがすべて。それはあなたもよくわかっているはずだよ?」
「それは、そうですが」
「おいだから勝手に話進めんなっつってんだろ!」
「ああ、ごめんごめん。つまりね、思うんだけど。君たち、賢者の資格試験……みたいなもの、受けてみてくれないかな?」
「だっから俺らは転職する気なんてねーって」
「うん。でも、今の君たちにはきっといい方向に働くと思うんだよね」
「は?」
「ガルナの試し≠ヘ人の心を試す試験なんだ」
「え」
「自らの弱さ、強さ、傷。自分がなにを求めなんのために生きるのか。自分が今、こうも苦しいのはなぜなのか。それらを見つめ直し――越える機会になる」
『…………』
 思わず全員がサヴァンの顔を注視する中で、サヴァンはにっこりと笑ってみせる。
「今の君たちには、そういうものが必要だろう?」

 セオは一人、神殿の廊下を歩いていた。
 あのあと痺れを切らしたオクタビアが大神官に話しかけて話が途切れ、大神官も年始の儀式が迫っているということでオクタビアの相手をそういった業務担当の神官に任せて退出し。そのあと自分たちはインミンに世話をされて神殿内に部屋を与えられた。
 サヴァンは『明日ガルナの試し≠ェ受けられる場所へ行くから、今日はとりあえず体を休めるなりダーマの観光をするなりしておきなさい』と笑っていた。
 だがセオは部屋に引き取りはしたものの、さすがにまだ陽も暮れていない時刻ということもあり、すぐに眠りにつくことはできなかった。世界最大の学術都市ダーマとはどのようなところなのか、この目で確かめてみたいという気持ちもあったが、自分にはそんなことをする資格はない、と思ってしまう。
 敵を殺し、仲間たちを傷つけ、存在すべきではないのに生きながらえている愚かな自分になど。
 それで部屋に閉じこもり、室内でもできる鍛錬を行っていたのだが(途中で夕食の膳を運んでこられ中断はしたものの)、少しばかり尿意を催したので、手水を探しているところなのだ。
 ダーマ神殿の本殿はさすがに広い。ダーマについての文献も一通り目を通してはいるが、さすがに神殿本殿の構造までは書いていなかった。一応一般的な神殿の造りは把握しているので、手水があると思われる場所に向かっているところなのだが。
 そんなことを自分が考えてもしょうがないだろうと思ってはいても考えてしまう。なぜサヴァンは、あんなことを言ったのだろう。
ガルナの試し=\―悟り≠開けるかどうかを試す賢者の資格試験。合格した者は賢者に転職するために必要な書を神より賜るという。
 セオのその試しに対する知識はその程度のものでしかなかった。そもそもダーマを支えるといっても過言ではない職業だというのに、賢者のことについて詳しく書いている書物が極めて少ないのだ。悟りとはなんなのか、試しの内容はなにか、なぜ書物が転職に必要になるのか、そもそも神に選ばれるとは、賢者になるとはどういうことなのか。そういったことについて詳しく知っているはずの賢者たちは黙して語ろうとしない。ただはっきりと語っているのは、賢者になることができるのは『悟りの書』を持つ者と、もう一種――
「なんの用だ」
 突然聞こえてきたはっきりとした声に飛び上がりそうに驚いて素早く身を翻し物陰に隠れ気配を殺す。反射的にそこまでやって、ようやく気がついた。この声は、ロンさんの声だ。自分の隠れている柱の背後、おそらくは露台の方から聞こえてくる。
「…………」
 それに応えるのは、息詰まるような沈黙。だが、漏れる息の響きで気付く。これは確か、インミンさんの。
「用がないなら、悪いが向こうに行ってくれないか。俺は一人で星など眺めつつ考え事をしたい気分でな。お前がそこにいると、はっきり言って邪魔だ」
「…………」
「言い返しもせず、ただ黙って目を潤ませてこちらを睨む、か。まったく、進歩がないなお前は。三年前も、その前も、そのまた前もずっとそうだった。そんな風に俺を見たところで意味がないということがわからんか? 俺はお前の機嫌を取ろうとやっきになるダーマ神官の子息どもとは違うぞ」
「…………」
 斬りつけるような冷たいロンの声。インミンはそれに、ただ沈黙で応える。だが呼吸音の乱れで、必死に泣くのを堪えているのがわかった。
 ロンさんは、どうしたんだろう、なにを考えているんだろう。セオは困惑した。普段のロンとは、なんだか違う。ロンは決してこんな風に、むやみに人を傷つけるような言葉を口にしない。人を傷つけそうな言葉を口にする時は、必ず相手の心をいい方向に動かそう、という目的があってやっているのに。
 なんだか、これは相手を傷つけようとして口にしている言葉に聞こえる。
「まだだんまりか。お前はよほど人に察してもらうことに慣れているらしいな。まぁ、ダーマ大神官の大切な孫娘の、世間知らずのお嬢さまのままでいたいというのなら別に口出しする気はないが? なら俺の前をうろちょろするな。目障りだ」
「………知ってます」
 インミンがぼそり、と声を漏らす。その声は濡れていたが、必死に気を張っている時のようなきっとした響きがあった。
「ほう。なにを知っていると?」
「あなたが、私を、嫌いなのは」
「は、自意識過剰だな、小娘。お前程度の人間が他人に嫌われるほど意識されている、と? 頭が悪いにもほどがあるな。俺はお前を嫌いなんじゃない、ただ鬱陶しいだけだ。寝る時にまといつく羽虫のようなものだな」
「…………」
「もう一度言ってやろうか? お前は邪魔だ。鬱陶しい。目障りだ。俺の前からとっとと消えろ」
「…………」
 小さく息を呑むような音がしてから、かつり、と足音がした。インミンがロンの方へと近づいた音だ。
「……お守り、を」
「は? お守り?」
「……私が聖別した、お守りです。死の呪文を、少しでも、防げるかと」
「…………」
 わずかな沈黙。それから、わずかな衣擦れの音。ロンが腕を伸ばし、インミンの差し出したものを受け取ったのだ、とわかった。
「感謝する」
「…………っ」
 ぶっきらぼうなロンの言葉。それにまた、今度は大きく息を呑むような音がして、ぱたぱたと足音が近づいてきた。
 セオはこの場合どう反応するのが正しいのかわからず、気配を殺したままインミンが通り過ぎるのを待った。そしてそのまま動けず固まっていると、ロンがふ、と息を吐き、笑みを含んだ――なのにどこか寂しげな声を(ロンの聞いたことのない声にセオはひどく動転した)かけてきた。
「いるんだろう、セオ? こちらに来ないか、星が綺麗だぞ」
「………はい」
 最初から知られているのはわかっていた(だから立ち去る時に音を立てて話を邪魔するよりは聞いていた方がいいのだろう、と判断したのだ)。それでもおろおろと右往左往してしまう自分を叱咤し、懸命に感情を抑えた声でそう答えて柱から出て露台へ出る。
 ロンは露台でじっと星空を見上げていた。こちらの方を向こうとはしない。しばし黙ってその背中を見つめていると、ロンはくすりと笑い声を漏らした。
「『なんて声をかけたらいいかわからない』」
「え」
「そういう声だったな。さっきの君の声は」
「………はい」
 確かに、そうだったかもしれない。ロンはこちらを向こうとはしないまま半ば独り言のように言葉を続けた。
「確かに、さっきの一幕は俺が見ても声のかけようのない愁嘆場だったからな。そう考えるのも無理はない」
「………ごめん、なさい。あの、見られるの嫌、でしたか……?」
「いや。嫌ならそう言っているさ。俺が気付いてたのは君もわかっていたんだろう。むしろ、そうだな。誰かに話しておきたいとは思っていた。話すのは気は進まないというのも、本音なんだがな」
「…………」
 ロンはこちらを向かない。セオはどう反応すればいいかわからないままじっとロンの背中を見つめた。
 そのまま沈黙すること数分。ロンは静かに話し出した。
「あいつは――大神官の孫娘はな。俺に惚れてるんだ」
「……はい」
「もう十三年と半年は前のことになる。あいつがまだ四歳だった頃、大神官……その頃は神官長の一人だったが、あの人が教えを説くために、ダーマ近辺の街に向かったことがあってな。その時にあいつも一緒についていって、誘拐されたことがあるわけだ」
「! 大丈夫だったん、ですか……?」
「ああ。俺が助けたからな」
「え」
「俺はその頃ダーマで修行してたんだ。ダーマはありとあらゆる職業の技術を研究し、教える学校でもあるからな。叔父に紹介されてそこで武闘家の修行をしていて、教官に指示されて護衛の末席についていて、あいつが誘拐された時に動員されて。で、まぁなんとかあいつを助け出したわけだ」
「すごい、ですね……」
「運がよかっただけだがな。それで、あいつはその時から俺にぞっこん惚れ込んでるわけだ。困ったことに」
「はい……」
「俺がダーマにいる間はしょっちゅう俺のあとをついて回ってたな。で、まぁあいつが子供の頃はよかったわけだ。俺も周りの人間も懐いてるなぁぐらいにしか思わなかったからな。が、九年か、八年と少し前か……まだあいつも八歳か九歳ぐらいだったから子供なわけだが、ダーマに戻った時に……ああ、俺は成人と同時にダーマを出てたんだが、とにかく戻った時にウェイビ殿に呼び出されてな、言われたわけだ。孫娘を娶る気はないか、と」
「………!」
 セオは目を見張った。それは、ロンにとっては、言われても困るしかない申し出だ。
 ロンはこちらを見ようとせず、星空を見上げたまま話している。
「まぁ、最初は普通に断ったさ。常識で考えて成人した男にまだ十歳にもならない孫娘を薦める祖父はどうだろうと思ったしな。だがウェイビ殿はあくまで真摯に、真剣に孫娘を娶らないかと持ちかけてくる」
「…………」
「なんでも俺がいない間ずっと孫娘が俺がいつ帰ってくるのか気にして元気がなかったことが相当に心苦しかったらしいんだな。息子夫婦を早くに亡くし、孫娘だけが家族だったあの人は、孫娘が喜ぶのならなんでもする気でいたようで。最初は婚約という形でいいのでダーマに根を下ろしてくれないか、としつこく口説かれたわけだ。爺馬鹿この上ないことにな。それならそれで、俺の素性やダーマにいた頃の素行くらいは調べておくべきだろうに。……あの人は懸命に世界の安寧のため尽くす賢人だが、爺馬鹿の上世間知らずだった」
 ふ、と珍しくもどこか疲れたような息を吐くロン。セオはなにか言うべきだろうか、と頭をぐるぐるさせつつもなにも思いつかず黙ってその背中を見る。
 ロンはじっと星空を見つめながら言葉を続ける。やはりどこか疲れたような声で。
「で、俺はその頃恐ろしいほどにガキだったので、あの人を手ひどく傷つけてしまったわけだ」
「え……」
「ウェイビ殿を誘惑したんだよ。まだ十歳にもならない可愛い孫娘を、ただその幸せのためによく知りもしない男に差し出そうとしている善良な老人をな」
「―――………」
「あの人はその頃まだ六十になったばかりでな。修行一途に生きてきた人間特有の清廉な色気があった。で、顔もわりと好みだったんでそそられたのと、まだ子供の孫娘を同性愛者の俺に薦めてくるのが少しばかり気に障ってな、落としてやろうと思ったわけだ」
「…………」
「別に関係を持ったわけじゃない。ただ俺は孫娘ではなくあなたが好きだ、ということを匂わせて、あの手この手で誘惑しただけだ。もちろんあの人は最初は困惑した。だが孫娘のため何度も俺のところを訪れたし、俺はその頃わりと童顔でな。しかも相当な美少年顔だったし。その上俺は世間知らずの聖職者を落とすのに慣れていた。そういう人間の中にもそっちの素養がある者とない者がいるが、あの人はある、と俺には思えたから、自信はあった。で、実際あの人はわりとあっさり俺に落ちたよ。別になにをしたというわけじゃないんだが、あの人と俺の間には確かに恋愛感情と呼べるものがあったと思う」
「…………」
「だが、あの人はその頃からどんどんとやつれていった。あの人は『孫娘の好きな人に対しよからぬ感情を持ってしまった』と思っているんだ。誘惑したのは俺なのにな。だから必死にその感情を押し殺し、やっきになって俺と孫娘をくっつけようとした。俺はそれが腹立たしくてな、全力であの人を誘惑した。それがあの人をひどく苦しめることにも気付かずにな。細かい経過は省くが、最終的に俺はあの人と喧嘩別れしてダーマを出た。で、その少しあとにやってきた叔父の真意を知る機会まで、俺がどれだけひどいことをしたのかわからずにいたわけさ」
「………ひどいこと、なんでしょうか」
 セオが訊ねると、ロンはこちらを向かないまま小さく肩をすくめてみせた。
「少なくとも、同性愛という世界なんぞ想像したこともない善良な老人を一人手ひどく傷つけた」
「でも……なんにもわかってない俺がこんなこと言うの、偉そうだと思い、ますけど。そういう、恋愛っていうのは、お互いの気持ちがないと成立しないと、思うので、ロンさんがそんなに、苦しまれること、ないと思い、ますけど」
「……苦しんでるか、俺は」
「だって……だから、インミンさんに、なんとかして嫌われようと、してるんでしょう。すごく、苦しそうだったのに」
「…………」
 ふ、とロンは息を吐いた。びくっ、とセオは思わず震える。
「ご、ごめ、ごめんなさい、俺なんかが偉そうなこと……!」
「いや……そうじゃない。ただ……そうだな。旅の初めの頃に戻ったようでも、君はやはりこの旅の間で得たものを失っていないんだな、とな」
「え?」
「君の言う通りだよ、セオ。俺はあの娘に嫌われたいんだ。あの娘にとっとと俺のことなぞ忘れてほしいんだよ。そうしないと俺がいつまでも罪悪感を感じ続けないといけないという、自己中心的な動機でな」
「……そう、でしょうか」
「ん?」
「俺には、自己中心的だとは、思えない、です」
「…………」
 ふっ、と小さく息を吐いて、ロンは星空から視線を下ろし、ゆっくりとこちらを向いた。その顔に浮かんでいるのは、笑顔だった。少しラグのいつもの笑顔に似た、ロンにしては珍しい雰囲気の。
「セオ。君は、やっぱりいい子だな」
「え……そんなこと、ない、です……」
「いい子だよ。本当に」
 そう言ってロンはセオの頭を軽く掻き混ぜた。幼い子供に対するように。優しく。暖かい手で。
 セオは硬直して、それをただ受け容れるしかなかった。すぐ離れなければいけないと、この手を受け容れてはいけないと、わかっているのに。自分にはそんな資格は、ないのだから。
 けれど、体はその言葉を無視して固まり、自分のそうしなければという意思に従ってくれなかったので。セオはそれからゆっくり数百数えるより長い時間、ずっとロンに頭を撫でられ続けることになったのだった。

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