商人の街〜ダーマ――4
 ダーマにおける神殿というものは、基本的に石造りでできている。ダーマ近辺の村々の建築はむしろ木材を加工したものの方が多いのだが、神殿に限ってはすべて石造りだ。
 神殿というものはダーマに限らず、いくつかの区画に分けられている。山門、護法堂、僧舎、斎堂、拝殿、本殿等々。本殿というのは神が降り立たれるとされる神殿で最も神聖な区画で、神の御座である内陣の外周である外陣とはいえその中に泊まれたのは、賢者にして聖者であるサヴァンの紹介で、かつ自分たちが勇者のパーティであったからだ。神に選ばれし者の導きにより天に選ばれし者がやってきた、つまり自分たちは神が遣わされた存在、として扱われたことになる。まぁもっとも、現在はまだ年始の祭祀の途中ということもありウェイビの個人的な客として遇されているようだが。
 それはともかくとしてダーマという街の中央にそびえたつダーマ神殿は、それらすべての区画をひとつのお堂の中に内包している。これはダーマ神殿創設時からの伝統で、神も人もみなひとつの混沌のうちに在る、という意味があるのだそうだ。
 創設時ならともかく千三百年の間に何千何万という人間が集まって巨大化したダーマ神殿は、当然並の大きさの建築物の中には収まらない。何度も改修・補修を行って、今やその大きさは数町にも及ぶ。当然世界でも最大級の巨大建築物だ。
 なので木造建築よりも火に強く改修も容易で頑丈な建物を造りやすい、石造りの建築技術が使われている。建物の寿命が長くなること、山に囲まれた森林地帯にあるダーマは木材も豊富だが石材も同様に豊富だったこと。そういった理由もあるのだそうだが。
 ロマリアとはまた違う建築様式で創られた巨大な神殿。一見の価値はある場所だろう。自分も初めて来た時には柄にもなく感動した。今歩いている本殿から拝殿に続く廊下も、ダーマ特有の簡素だが雄大さを感じさせる建築様式で形作られており、見る人が見れば目を輝かせる美しさがある。残念ながら今仲間たちの中でそんなところに向ける目を持っているのはセオ一人だけのようだが。
 ロンと仲間たちはサヴァンのあとについて神殿の廊下を歩いていた。まだ陽は昇っていない。黎明の光もまだ東の空に届いていない頃合。ここまで早く起こされるとは思っていなかったのだろう、フォルデもラグもさっきから何度もあくびを噛み殺している。
「……っつか、なんでこんな朝っぱらから出発しなきゃなんねーんだよ」
「人がいないからねー。ダーマ神官の人たちに見つかりたくないもん。ダーマ神官の間にだって、むしろだからこそ勇者とお近づきになろうって人たちは多いんだよー。勇者を見定めようって使命感に燃えてる若い子達も大勢いるし。これから遺跡探索に行くってのに、そんな人たちに巻き込まれたくないでしょ?」
「っつかな! そもそもなんで俺らがそのガルナとかいう塔に入らなきゃなんねーんだよっ!」
 フォルデの怒鳴り声に、サヴァンはにこっと笑顔を返した。その裏を感じさせない軽さにか、にもかかわらず瞳からのぞくその静謐な輝きにか、フォルデは一瞬気圧されたように身をわずかに引く。
「ん……んだよ」
「別に、無理に入らなくてもいいよ? これは僕の勝手でやってる、いわば余計な世話だからね。嫌なのに無理にしなきゃならないって類のものじゃない」
「へ……だ、だったらなんで」
「でも、僕はガルナの試し≠ヘ受けないより受けた方がいいと思うんだよねー」
「どーいう、意味だよ」
 睨むフォルデに、サヴァンは笑顔を崩さずすらすら答える。
「ガルナの試しは心の試し、って昨日言ったでしょ? 単純に言えば悟り≠開けるか否かっていうのを試すわけだけど、たいていの人間は悟りを開こうとか考えたこともないよね? だから自分の心と真正面から向き合って、超えるかどうか試すことができる機会っていうのは貴重だし、そういう経験を一度でもしていたら、進む道に迷った時とかに役に立つと思うんだよ。経験上ね」
「……そりゃあんたは賢者様なんだから悟りとやらとかいうのを開いてねーとまずいんだろーけどな。俺らは別に」
「開いてないとまずいっていうんじゃなくて、開くための試練を受けた経験が……まぁ言ってみれば、人生の肥やしになるんじゃないかなーってこと。断固として嫌だって言うんなら別にいいけど、受けるだけならタダだし。魔物も出るからレベルも上がるし。それにオクタビアさんの交渉が終わるまで君たちもダーマから離れるわけにはいかないでしょ? せいぜい一日しかかからないんだから受けてみてもいいんじゃないかなーって思うんだけど、どうかな?」
「…………」
 フォルデは難しい顔になってそっぽを向いた。反論できないのが面白くないのだろう。なにも庶民の味方である聖者さまにまで楯突かんでも、とも思うが、まぁフォルデのこれはほとんど反射的な習慣にまでなってしまっているのだろうからあえて口出しはしない。
「受けるだけならタダ……ってことですけど、賢者の資格試験ってそんなに簡単に受けれるものなんですか? 俺も何度かダーマには来てますけど、賢者の資格試験が開催されてるなんて聞いたことありませんし。そもそもそんな話聞いたことすらない……というか、賢者にはどうやってなるのか、ってこと自体公式には明かされてないと思うんですが」
「ほう、ちゃんと調べているんだな。賢者という職業に興味があったのか?」
「お前には関係ない」
 冷たく切って捨てるような口調で返されたロンの問いへのラグの答えに、一瞬空気が凍った。
 が、ロンもラグも、互いにそれ以上なにか言うこともなく無言ですたすたとサヴァンのあとについて歩を進めた。セオがひどく顔を歪め、フォルデが難しい顔をしてついてきているのはわかっていたし、少なくともロンは心臓の下辺りにすっと冷えるような感覚を感じていたのだけれども。
 そんな中、サヴァンは一人あくまで明るく答える。
「ああ、そりゃ隠してるからね。賢者は基本的に自分の職業については、弟子や同業者以外には話さないから」
「は? なんでだよ」
「んー……いろいろ理由はあるんだけどー……あ、ウェイビ殿!」
 サヴァンは笑顔でぶんぶんと子供のように手を振る。思わずさっと胸の先が固くなったが、それでも平静を装ってそちらを向き、顔をしかめた。厳しい顔でこちらを見ているウェイビの隣には、インミンが昨日と同じなにかを堪えるような顔でこちらを睨みつけていたからだ。
「お……はよ、う、ござい、ます……」
 セオが反射的に声を上げてからもしかしたら自分なんかが最初に言っちゃ駄目だったのかもと固まってでも途中でやめる方がもっと失礼だろうと考えて言い終えたんだろうなぁという調子の泣きそうな声での挨拶に、ウェイビは厳しい顔を崩さぬまま会釈することで応えた。
「おはよーございます、ウェイビ殿、インミンちゃん。二人とも眉間に皺が寄ってるねー、駄目だよーあんまり難しい顔してると気分まで引きずられちゃうよ?」
「……そうおっしゃるならせめていま少しおいでになる時期を考えていただきたいものですな。よりによって元日の、一年でもっとも忙しい時期にやってこられる必要はないように思いますが」
「あはは、ごめんねー、でもまぁ僕が選んだわけじゃなくてセオくんたちと会えたのが一昨日だったっていうだけなんだけど。えーと、じゃあ、話は通してもらえたのかな?」
「……疎かなく。ガルナの管理人は夜明けより半刻ほどのちにやって来ることになっております。その間にインミンが案内を」
「おい。どーいうことだよ、そりゃ。お前ら公式には俺らに試しとやらを受けさせる気がないってことかよ?」
 即座に噛み付くフォルデに、ウェイビはふ、とため息をついてから顔を向けた。
「若き盗賊よ。話はそう単純なものではないのだ」
「だったらどーいう話だってんだよ」
「ガルナの試しを受けるにはまずダーマ神殿の賢者九人から成る賢人会議において、賢者となるための試しを受ける資格があるか否かを審査されることになる。そなたたちはまずその段階で問題がありすぎるのだ」
「は! 賢者だなんだっつったってお偉いさんの考えることっつーのはどこでも同じだな、金とコネのねぇ奴はお呼びじゃねぇってか」
「そういうことではない。まず単純に、時間がおそろしくかかるのだ」
「……は? 時間?」
 ぽかん、と口を開けるフォルデに、ウェイビは重々しく続ける。
「賢者という職業はそれ自体で力を持つ職業。万が一にも不心得者が賢者となりおおせるようなことがあってはいかぬ。なので賢者となろうとする者はみな、試しを受ける前に審査を受けるよう八百年ほど前の大神官が定めたのだ。人格、知性、学識、生体的霊的な適性。それらすべてを賢人会議が魔法を含めた多角的な方法で検証する。一人の人間の心身も魂も完全に調べ上げるのだ、当然、全力を振り絞ってもおそろしく時間がかかる」
「……具体的に、どんくらい?」
「一人につき最低一ヶ月」
「一ヶ月……」
「そしてそこからさらに対象者が賢者となる資格があるか審議を行う。人格も経験もそれぞれ違う九人がそれぞれの仕事の合間を縫って、全員が同じ結論に達するまで真剣に討論するのだ、最終的に結論が出るまでには申請より半年以上かかることも珍しくない」
「半年ぃっ!?」
「あの……それで賢者っていう職業、成り立つんですか?」
「そもそもガルナの試し≠受けようとダーマに申請する人間そのものが少ない。賢き者の師から弟子へ、口伝のみにて伝えられていることなのでな。むろん師は資格ありと認めた者にしか教えはせぬし、ガルナは深山の迷いの結界の奥のダーマの認めた人間以外にはたどりつけぬ場所にあるので偶然存在を知るようなこともない。自らの選びし職業を20レベルまで上げられる人間もそう多くはおらぬし、そこからレベルを1にしても賢者になりたい、と思う人間はさらに少ない」
「ああ……そうか、志望者数がそもそも少ないんだ」
 ラグは納得したようにうなずく。正確に言えば志望者数は多いのだがそういった条件でふるいにかけられたあとに残る人間が少ないのだ。ロンはダーマでの修行時代に師が賢者の審議を行ったことを知っているが、その頻度は半年に一人でも充分間に合うほどだった。
「それほどの時間をかけてまで賢者になろうとは、そなたたちは思っておらぬのだろう?」
「それは……まぁ」
「たりめーだろ、俺はただその……聖者さまとやらが受けるだけならタダとか言うから」
「………。確かに、料金がかかるわけではないがな」
 ふ、と小さく息を吐き、ウェイビはす、と視線を移した。身を小さくしてじっと話を聞いていたセオの顔を、真正面から見つめる。
「あ……の」
「本来なら、そのような人間たちにガルナの試しを受けさせるなどあってはならぬことだ。勇者セオ、あなたが現在もっとも魔王征伐に近い勇者であることは疑いようがない、だからこそ賢者の力を与えるか否かは慎重に定めねばならぬ。賢者という職業がパーティに在ることが魔王征伐を躍進させる力となるであろうからこそ」
「は、い」
 セオはひどく固い、怯えたような表情でうなずいた。いつも通りに周囲に気を遣いすぎてそういう表情になっているのだろうとロンにはわかるのだが、ウェイビにはそこまでは見抜けなかったのか、わずかに顔をしかめて続ける。
「だが、私にも……いくつかの方面から、情報が入った。結果……あなた方パーティに、ガルナの試しを受けるだけの資格はある、と判断するに至った。あなた方のパーティは呪文が使えるのはセオ殿一人、賢者が一人いれば戦いが一気に楽になるのは疑いようもない。なので、横紙破りもはなはだしいことを承知で……ガルナの試しを、秘密裏に受けていただこうと決めたのだ」
「……ふーん。案外、まともな頭持ってんじゃねーか」
 フォルデは半ば感心し半ば馬鹿にするように言ったが、ロンは思わず小さく眉をひそめていた。別にウェイビが横紙破りをするのがおかしいとかウェイビらしくないというわけではない。ウェイビは頭が固いきらいはあるが決断力と判断力を併せ持ち、世界の安寧を心より願う清廉な人間だ。ウェイビが思いきった決断をするのは、さほどおかしいというわけではない。
 だが、今のウェイビの言葉には嘘がある。どことまではわからないが、ごまかしている部分がある。曲がりなりにも落とす寸前までいった相手だ、そのくらいわかる。ウェイビはもともと嘘をつけるような人格ではないし。
 気にはなったが、今ここで口に出して聞くわけにもいかない。あとでどう聞き出すか、と考えて、小さく目を瞬かせた。セオがじーっと、憧れというか、まるで美しいものを見るような目でウェイビを見つめている。ウェイビは怪訝そうな表情になり、訊ねた。
「セオ殿。私の顔になにかついておるかな」
「え! い、い、いえっ! ご、ごめ、ごめ、ごめんなさっ、ただっ」
「……ただ?」
「……ロンさんのこと、すごく、信頼して、らっしゃ、るんだなって、思っ、て……」
「……は」
 ウェイビはぽかんと口を開け(ウェイビのそんな顔はロンも初めて見た)、インミンが目を見開いてセオとウェイビを見比べる。今度はフォルデが怪訝そうな顔になった。
「なんだそりゃ……っつか、爺さん、あんたロンとどういう関係なんだよ。そっちの女も、やたらロンの方ばっか睨んでるし。ロンになんかされたのかよ?」
「……信頼、か。まさか、そのような言葉で言い表されようとは」
 ふ、とウェイビがかすかに微笑んだ。口元は少しばかり苦しげに歪んでいたが。
「申し訳ないが、私は三日の直会までは神殿を離れることができぬ。そこで私の名代としてインミンをつける。ガルナでの諸事雑事はこの者にお任せ願いたい」
「おい爺さん人に質問されて答えねー気か」
「我らとこの者の関係はそちらの者にお聞きになることだ」
 ロンにちらりと視線を向け、切って捨てるような口調できっぱりと告げたウェイビに、フォルデは気圧されたように口を閉じた。ウェイビも伊達に大神官をやっているわけではない、その気になれば発する威圧感はまさに威風辺りを払うという言葉にふさわしい。
 それからふ、と視線を和らげ、セオを見つめ言った。
「あなた方にとっては、それが一番信じられる知り方であろうから」
「…………」
「じゃ、話はすんだかなー? 挨拶も終わったことだしそろそろ出発するよん」
「出発って……まだ神殿の外にも出て」
「C:\Darma>move /y savants.exe Garuna\01=v
 声が響いた、と思うが早いか、周囲の空間が歪み、自分たち(とインミン)は外にいた。周囲にあるのは数丈先も見えないほど濃い朝霧。足元から伝わるのはしばらく人の訪れていないだろう柔らかい腐葉土の感触。冬の朝の冷たい空気が、湿気を含み自分たちの全身を冷やす。おそらくはここは山深くの盆地なのだろう。盆地でも年明けにここまで濃い霧が出るのは珍しいが。
 そして、眼前にどぉん、とばかりにそびえるのは、天辺が見えないほど高い塔だった。形はよく見えないが、サヴァンの手元の魔法の光に照らされて鈍く光る色味はナジミの塔とよく似ている。
 ふふ、と小さく笑い声を立てて、背後からサヴァンが言った。
「はい、これがガルナの塔。賢者に転職する時必要な書物、『悟りの書』がある場所だよ」
「……っつかな! お前飛ぶんなら飛ぶって言えよ! 外に出てもいねーのにいきなり場所が変わったら驚くっつーの!」
「あれー? でもある程度実力のある術者なら、妨害の結界が張られてなければ、外だろうが中だろうが自由に転移できるのは知ってるでしょ? 昨日セオくんに聞いてたと思ったけど」
「そりゃ、まー……っつかどこで聞いてたんだよ!」
「ん? ぐーぜん小耳に挟んでねー」
「……サヴァンさま。もうすぐ夜明けです。早く、扉を」
「あー、そーだったそーだった。ごめんねーちょっとどいててねー」
 インミンが険しい顔で言った言葉に、サヴァンはうなずいてすい、と空気の流れを感じさせない動きで自分たちをすり抜け塔の前に立った。持っている杖を傾け、他の場所と少しも変わっているように見えない壁に触れさせて一言二言呪文を唱える。
 とたん、ぎぎぎ……と音を立てて壁だった場所がゆっくりと、ひどく重たげに中央から左右に開き始めた。思わず扉が注視される中で、サヴァンはくるりと振り向きにっこり笑う。
「さ、どーぞ中へ。気をつけて行くんだよ。僕たちはここで待ってるから」
「おい、ちょっと待てよ、行くもなにもまだどうすりゃ合格かとかも聞いて」
「ああ、行けばわかる行けば。まーそうだね一応目安を教えとこうか、『悟りの書』を見つければいいんだよ」
「悟りの書……? そういう書物を見つければいいんですが? それはいったいどういう」
「だから行けばわかるってばー。あんまりのんびりとはしてられないんだよ、ここの管理人に見つかって面倒なことになりたくないでしょ? あ、僕たちのことは心配しないでね、僕もインミンちゃんも管理人さんとは顔見知りだからどうとでも言い訳聞くし。マンノーモでも使ってお茶でもしてるよ」
「マンノ……?」
「ああ、土で短時間簡易的な家を作る呪文。そういうわけだから、ほら、入った入った」
「………クソ。なんっか踊らされてるみてーでムカつく……」
「あはは、気のせい気のせい。気をつけてねー。あ、明かりは心配しないでいいよ、魔法灯が備え付けてあるから」
 渋々、という顔をしながらもフォルデは塔の中に入っていく。中は確かに明かりがついていた。古代遺跡ではいつもそうだったようにさっそく罠を調べ始めるフォルデにラグも釈然としない顔で続き、セオも小さくサヴァンとインミンに頭を下げてそれを追う。
 ロンはインミンの方はちらりとも見ず、サヴァンに頭を下げ「では」とだけ告げて中に入っていく。サヴァンが微笑んで、フォルデたちにも聞こえるような声で「楽しんでおいでねー」と言って手を振るのを目の端で見てから、ロンはすたすたを歩を進めた。
 と。
「ロン、さま」
 掠れた声で、名を呼ばれた。
 ロンは一瞬も足を止めずすたすたと歩いて行く。背後でしゃくりあげるような気配を感じたが、泣き声がこぼれることはなく、代わりに固い、絞った声で、こんなことを言った。
「どうぞ、お気をつけて」
「…………」
 ふ、と小さく息を吐いて、ロンは小さく手を上げ塔の中へと入っていった。待ち構えていたかのように扉がゆっくりと閉じていく。
 ごぉん。そう音を立てて扉が閉じる。反射的にだろう、仲間たちがこちらを振り向いた。様子をうかがおうとそちらを見て――仰天した。
「……なんで」
 そこにいたのは、三人の男だった。ただし、本来ならここにはけしていないはずの。叔父で、自分の最初の師匠で恋人だったジンファン。ダーマ大神官――違う、これは神官長だった頃のシンフォンウェイビ。そして、かつて自分の恋人だったすでに死んだ仲間、ウルバーノ・ペレイラ。
 自分の人生にもっとも深く跡を残す三人の男が、そこに立って驚いた顔でこちらを見ていた。

 ラグは仰天していた。馬鹿な、こんなことがあるはずがない。さっきまでは自分の仲間たちだったはずの存在が、まるで変わっていた。
 まず自分の隣で、髪に白いものの混じった女性が少し訝しげな顔で自分たちを見回している。数ヶ月前に合ったのと同じ顔――これは、現在のヒュダだ。
「これは……」
 考え深げに眉間に皺を寄せて一人一人に観察するような視線を向けている三十前後の女性。これは、そう、最初に会った時のヒュダだ。
「なに、これは……なんで、あなたたちがここに……」
 そう掠れた声で目を見開いて言った二十代半ばの女性が誰なのかわかるまでには一瞬の時間を要した。だが、すぐに気付く。これは自分と会う前のヒュダだ。年頃からいって、たぶん最初の子供を引き取ってきた時のヒュダ。
 三人のヒュダが、目の前に立っていた。

「なんでだよ……なんであんたらが、ここにいるんだよっ!」
 思わずフォルデは怒鳴った。こんな馬鹿げたことがあるわけがない。自分の仲間だったはずの三人が、まるで違う人間に変わるなんて。
「フォルデ先輩……あんたらって、誰っスか?」
 困惑したように言うのは、アリアハンの盗賊ギルドで、自分を慕ってやたらあとをついて回っていた後輩、デミス。
「ふん……もしかして、お前らにも、俺たちは違った人間に見えているのか?」
 皮肉っぽく、あの頃――同じ親方について仕事をしていた頃と同じように偉そうに言うのは自分の兄貴分だった男、ジルガ。
「違った人間……つまり、お前たちは俺の仲間たちだっつぅんだな? セオと、ロンと、フォルデだっつぅんだな?」
 険しい顔で言ったのは、かつての自分の親方、暁影のヅーロ。
「……おい、待てよ。じゃあお前らは……セオと、ラグと、ロンだってのか!?」

 セオは困惑していた。たぶんガルナの試しの一環なのだろうと想像はついたので、混乱するほどではなかったけれども。
「ふむ、つまりそっちがフォルデでそっちがラグか。俺はロンだ。つまり、そっちがセオだな?」
「え、と……はい」
「お前たちにはいったい俺たちはどういう人間に見えてるんだ? 俺には……全員、ヒュダ母さんに見える、んだけど……」
「俺には全員かつての恋人に見える」
「俺は……アリアハンの盗賊ギルドの、後輩とか兄貴分とか、親方とか」
「ええと……あな、いや、君はセオ、なのか……君は?」
「……みなさんのままに、見え、ます」
『は?』
 戸惑ったような声を上げるラグとロンとフォルデに、セオは困惑し、なんだかひどく申し訳ない気分になりながら告げた。
「ラグさんと、ロンさんと、フォルデさん、そのままに見えます」

 ロンは思わず眉根を寄せた。これはどういうことなのだろう。自分はかつて愛した存在三人、ラグは全員世界でもっとも愛している母親、フォルデはかつての関係者、セオはそのまま。どういう処置が施されているのかさっぱりわからない。
「どーいうこった、こりゃ。んっでこんなことになってんだ? これがガルナの試しってやつなんかよ?」
 ウルバーノ――中身はフォルデはがっちりした腕(ウルバーノは戦士だった)をぶんぶんと振り回して生前と同じきついサマンオサ訛りで喚く。
「そういうことであろうな……だが、なにゆえこのように目に映る姿を変えたのか、皆目わからぬ。なんの意味があるというのだ?」
 ウェイビ――中身はラグが眉を寄せて言う。その声は初めて会った時と同じように、周囲に反響し体の中に徹るような感覚を起こさせる。
「…………」
 ファン――中身はセオはわずかに眉根を寄せてゆっくりと周囲を見回す。その顔、仕草、すべてがファンだ。叔父そのものだ。物心ついた時からずっと憧れ、慕い、十二の時からは恋人として愛し、十四の時に捨てられたファンの。
 体の中に暴れ出しそうなものを感じ、ロンは小さく息を吐いた。ガルナの試しとやらが一体誰によって行われているのかは知らないが、そいつはよほど悪趣味な人種に違いない。
「……とりあえず、探索を始めないか。どういう理由があるのかはわからないが、ここでいつまでもこうしていたってしょうがないだろう」

「ああ……そうだな」
 最初に会った時のヒュダ(中身はロン)に答えながら、ラグはやりにくいなぁ、と思っていた。中身は仲間たちといったって、顔も声も仕草も雰囲気もすべてがヒュダなのだ。年は違うが間違いなくヒュダだ、と自分の心の奥深い場所がはっきりと告げてくる。
 三人の年の違うヒュダがそれぞれに自分を見つめ、仲間たちのように口を利いてくる。お互い同士も喋りあう。それがなんというか、くすぐったいというかむず痒いというか、なんだか気恥ずかしいような気分を呼び起こしてくるのだった。
「……うん。それじゃあ、行きましょうか。私のあとを二丈離れてついてきて」
 自分と会う前のヒュダ(中身はフォルデ)がすっと前に出る。通路をゆっくりと進む姿を、後ろから眺めながらひやひやとしていた。中身がフォルデなのはわかっていても、ヒュダが遺跡を先頭に立って進むというのはどうにも心臓に悪い。会ったことのない姿をしていても、ヒュダはヒュダだ。どうしたって自分のそばで守りたくなってしまう。
 俺が先頭に立つから、と言いたくなるのを堪えてじりじりしながら塔の中を歩く。窓はなかったが、サヴァンに言われた通り中は魔法の光で照らされているので不自由はない。一応念のため予備の明かりも用意してはおいたが。
 広々と作られた空間を横切り、おそらくは塔の中央辺りに位置するだろう部屋の扉の前に立つ。中身フォルデの外見若ヒュダがてきぱきと罠を調べ、扉の向こうに聞き耳を立て、鍵がかかっているかどうか調べて、安全を確認してから自分たちを下がらせて扉を開ける。
 とたん、ばっと後ろに跳び退って鋼の鞭を抜いた。
「ヒュダ母さんっ!?」
「馬鹿言ってないで前を見なさい! 敵よ!」
 言われてはっとして前に出る。考えるより前に口に出てしまった。だってどう見てもヒュダ母さんがいきなり鋼の鞭を抜くんだから驚いて当然じゃないか、と反論したい心理やらヒュダに馬鹿と言われてへこむ心理やらを抑え、バトルアックスを構えて前に出る。
 敵はダーマ近辺に出る魔物、マッドオックス――と人面蝶や人喰い蛾によく似ているが色が違う魔物が数体ずつだった。とりあえずもう片方より耐久力のあるだろうマッドオックスを攻撃すべく武器を振り上げた、と思うより早く鋼の鞭が奔る。
「落ちなさいっ!」
 中身フォルデ外見若ヒュダが素早く鞭を振るう。それだけで人面蝶っぽい敵はぼとぼと落ちていく。現在のヒュダ、これは中身がセオになるはずだが、も無言で鞭を振るい残った蝶を倒す。
 中身ロンの外見最初に会った時のヒュダはラグの目に止まらぬほどの速さで飛び出し、マッドオックスを一撃の元に倒していた。愕然としつつ、いやだからこれはヒュダ母さんじゃないんだ、と必死に言い聞かせ自分も狙っていたマッドオックスがギラを発しようとするぎりぎりにバトルアックスを振り下ろして倒す。
「手応えがないわね。ガルナの試しとやらもこの程度?」
「まぁ、賢者になろうっていうような人間は頭脳労働者でしょうからね。そう強い魔物を出すわけにもいかないんでしょう。魔物はあくまでついででしょうし」
 そんな会話を交わしながら消滅する魔物たちを眺め回し、素早く周囲を警戒する中身仲間たちの外見様々な年齢のヒュダたち。
 その奇妙な光景に、ラグは小さくため息をついた。なんというか、これは神経を磨耗させる。このガルナの試しというのが誰の力によるものか、そもそも人間の力によるものかどうかすら知らないが、考えた奴はたぶん相当のへそ曲がりだ。

「……おい……これって」
「旅の扉だな」
「旅の扉だな、じゃねぇだろっ!」
「なんだ、お前、なに焦ってやがん……あぁ、おめぇ旅の扉に酔うんだったな。大丈夫かよ?」
「…………」
 フォルデは飄々とした顔のジルガと、わずかに気遣わしげな顔をするヅーロと、じっと頼りなげな表情で自分を見つめてくるデミスを睨み回し、ちっと舌打ちした。旅の扉がこんな塔の中にある(となればたぶんこれを使って塔の中を移動する仕組みになっており、使わなければ目的の場所にはたどり着けない仕掛けになっているのだろうと想像はついた)のも嬉しくないが、この状況、なんというかひどく気色が悪い。
 ヅーロもジルガもデミスも、顔も声も雰囲気もすべてが一緒に仕事をしていた頃そのものなのに(デミスは別だ、ただ付きまとってきていただけで同じヤマを踏んだことはない)、言動が微妙に違う、この違和感。
 ヅーロは職人肌の盗賊で、自分にも他人にも厳しかった。三年一緒に仕事をしてきたが、他人を心配するところなど見たことがないし、笑顔すらほとんど浮かべたことがない。そんなヅーロが(ラグがするように)、心配そうな顔をしたり困った顔をしたりするというのはひどくむず痒かった。
 デミスはいつも鬱陶しいほど明るくてにぎやかで、ついてくるなと怒鳴ってもへらへら笑って減らず口を叩くような奴だったので、そんな奴が(セオのように)しおらしく心配そうに自分を見る姿ははっきり言って気色悪い。
 ジルガはまだ違和感が少ないが、それでもジルガはあんな風に(ロンのように)飄々とした顔はしなかった。いつも自分がどんな風に見られるか気にしているカッコつけの気取り屋、という感じの奴だったのだ、やはり奇妙な感じを受けてしまう。
 なんだってんだ、なんでこんな真似しやがんだ、とひどく苛立ったが、そんなところをこいつらに見せるわけにはいかない。ぐ、と唇を噛んで、ずいっと前に進み出た。
「フォルデ、おい」
「うっせぇ。このくらい、なんでもねぇ」
 吐き捨てて真っ先に旅の扉に飛び込もうと足を上げ――
『なぜ見せられぬのか』
 唐突に響いた知らない声にばっと飛び退った。
「誰だっ!」
「誰だって……ええと、フォルデ、おめぇ、もしかして」
『なぜ苛立つところをこの者たちには見せられぬのだ』
「だから誰だって聞いてんだよっ!」
『我はSatori-System\trial01.exe=x
「………は?」
 フォルデはぽかんとした。なんだ、何語だそれ?
「おま……つか、なに……」
 どう反応すればいいのかわからなくなったフォルデにまた声が響く。この時、フォルデはようやくこの声は耳を震わせているのではない、と気がついた。耳に空気の振動が伝わってこない。なのに声は聞こえる。つまり、これは心話、というやつか?
『なぜ苛立っている様子をこの者たちから隠そうとするのだ』
「……お前……なにモンだよ」
『我はSatori-System\trial01.exe=x
「そーいうこと聞いてんじゃねーよっ! お前がどーいう奴かって聞いてんだ!」
『我はSatori-System≠フトライアルプログラムナンバー01。ガルナの座標G5-E3における試練≠フ作成者。お前の現在閲覧可能な言語情報で表現するならば、ガルナの試し≠創り出した存在が試練のひとつを作成させるため創り出した人工知性体』
「人工知性体……?」
 なんだ、なんなんだそれは。どういう意味だ。よくわからない、いまひとつピンとこない、だがつまりそれは。
「……お前のさっき言ったのに答えるのが、試練、だっつーのか?」
『そうだ』
「おい、待てよ! なんでそんなもんが賢者になるための」
「フォルデ」
 声をかけられ、はっとした。デミスと、ジルガと、ヅーロがこちらを見ている。今の自分は突然わけのわからないことを喚きだした変態に見えるんじゃないか、と気がついてかぁっと顔が熱くなり、苛立ちを込めて怒鳴りつけた。
「言っとくけどな! 別に妖精と会話してるわけじゃねーぞっ、ただ急に妙な声が」
 いやそういうのがそもそも普通に考えておかしいんじゃないか、と気付きわたわたと慌てるフォルデに、ジルガが静かに言った。
「説明しなくていい。だいたいのところはわかってる」
「は?」
「お前も声が聞こえたんだろう? ガルナの試しの試練の作成者、とやらの」
「はあっ!?」

 セオは胸の辺りにわだかまる、奇妙な感覚を必死になって抑えつけていた。
「そ、それってお前らも、あの妙な声が聞こえたってことかよ?」
 フォルデは自分たちがなにかを言うたびにぎゅっと眉をしかめる。おそらくは見えている存在と自分たちの言動との違和感に拒否感を感じているのだろうとわかった。見ていて気分が悪い、とでも言いたげに。
 わかっている、別にそれはおかしいことでもなんでもない、見えているものと耳に入るものがずれているなら誰だってそう感じるだろう。
「……ああ。あな……君たちも聞こえたのか?」
 ラグは会話をするたび、自分たちが激しく動くたびに困ったような顔をする。ラグは全員ヒュダに見えているそうだから、ヒュダに似つかわしくない言動をされるのが嫌なのだろうと思う。それも当然だ、ラグはヒュダを誰よりも大切にしているのだから。だからこんな感覚を覚えるのは変で、おかしくて、あってはならないことなのだ。
「まぁな……突然心の中に響いてきた、という感じだ。なんだか突然質問をしてきたんだが、お前らはどんなことを言われた?」
 ロンは一見いつもと変わらないように見える。けれどなんとなく、どこか苛立っているように思えた。それはそうだ、かつての恋人というものに対してどういう感情を抱くかは人それぞれだろうが、やはり複雑な想いもあることだろう。それが仲間のような口を利くのは、きっと不快に違いない。
 だからおかしなことでは、まったくないのだけれど。
「俺は……なんか、なんで苛立ってんだ、みたいなこと聞かれた」
「俺は……。今の状況をどう考えているか、みたいなことを」
「俺は恋人たちにまた会えた感想を聞かれた。……セオ、君は?」
 こちらを見つめる視線に、セオはうつむきながらぽそぽそと答えた。
「……なぜ、そんな感覚を、持つのかわかるか、と聞かれ、ました」
 そう、セオは確かに、妙な感覚を覚えていた。胸の辺りがすうすうするような、かと思うとぐつぐつ煮えているような、疼きとも寂寥感ともつかない奇妙な感覚を。
「そんな、感覚? って……どんな感覚だよ」
「……別にそんなことまで聞く必要はないだろ。全員違う質問をしてきたってことか……どういうつもりなんだろうな」
「これが試練、だそうだが。質問に対する答えで賢者の資格に合格か不合格か決めるということなんだろうな」
 フォルデも、ラグも、ロンも、いつもと違う。お互いをまるで見たくないもののように、微妙に視線を逸らしながら見ている。
『今までもそうだったのではないか?』
(……違います)
 心に響く声に、心の中で首を振る。他の仲間たちの心の中にも、こんな風に声が響いているのだろうか。
『だが大晦日の喧嘩のせいで、君の仲間たちはお互いの存在を疎ましいと感じていたのでは?』
(……喧嘩は、していたと思います)
 自分が、さっき魔物を殺したように、自分のわがままのせいで無理やり眠らせて中断させてしまったけれども。
(でも、喧嘩しているけれども、ラグさんもロンさんも決してお互いを別の存在に仮託したりはしていなかった。お互い自身をパーティの仲間と、相手と認識しながら喧嘩をしていた。それと視覚情報で混乱させられたがゆえの違和感とは、一緒にすべきではないと思います)
 なぜ大晦日に喧嘩をしたのか、などといちいち聞く気にはならなかった。『ガルナの試し≠創り出した存在が試練のひとつを作成させるため創り出した人工知性体』。その言葉が正しいならば、ラグたちに実体とは違う姿を見せた存在と自分に問うてくるこの存在とは同種のはず。塔に入った時から心を、記憶を探っていて当然だ。
『では、なぜお前はそのような感覚を覚えるのだ? それがわかっているのに、なぜそのように感じる?』
(…………)
 そうだ、自分はこんな感覚を感じる必要はない。そんな意味はないし、そんな資格はない。自分にはこの人たちを仲間と呼ぶ資格は、もはやないのだから。
「クソ、偉そうに抜かしやがって……こんなもんどーでもいいだろ、さっさと奥に進もうぜ!」
「試練だ、というんだから答えないで奥に進んだら不合格確定だろうな。そもそも俺たちは暇な時間を精神的な試練を受けて有効に使おう、ということでここまで来たんだろうが」
「っ……! っちいち偉そうに抜かすんじゃねぇよっ……!」
「これはすまん」
「……今聞いてみたところだと、別に心の中で答えてもかまわないそうだ。それぞれ心の中で答えて奥に進めばいいと思う。だからそう喧嘩する必要は、ないだろう」
「……っ! 別に喧嘩してんじゃねーよっ!」
『では、お前はなぜそのような感覚を自分が感じると思う?』
(…………)
 なぜ。なぜなのだろう。自分にはそんな資格はないのに。そんなことを感じる必要も意味もなにひとつないのに。
 なぜ、自分やお互いを見る視線が普段と違うというだけで、寂しい≠ネどと偉そうなことを思ってしまうのか。
『なぜだ?』
(――それは、たぶん)
 小さく心の中で答えて、旅の扉へ一歩を踏み出す。
(俺が、愚かで、弱いからです)
 人工知性体は答えなかったが、かすかに瞬くような火花が散る心象がセオの中に伝わってきた。

「………っ、く」
「くぁ……ん、っだぁ、こりゃ」
「……お主たちも、酔ったのか?」
「ああ……今までにないくらいな」
 ふ、と息を吐きながらウェイビ・ラグに答えて、ロンは立ち上がった。頭がぐらぐらする。胃の腑が揉み絞られたようで、今にも吐きそうだ。初めて船に乗った時の船酔いのような感覚。自分は今まで旅の扉に酔ったことなどなかったのに。
「んっだってんでぇ……アリアハンの旅の扉よりひ、で、うおぉぇ、うあぉぇえっ」
「……大丈夫か?」
「だいっ、丈夫に決まってんだぁろ、うぉぇっ、妙な気遣うんじゃねっ、うお、ぉぉぇえっ」
 ひどく気遣わしげな顔でげろげろと吐くウルバーノ・フォルデの背中を撫で下ろすファン・セオの様子を、ロンは奇妙な気分で見つめた。自分もひどい吐き気と戦っていたので、座って休んでいるとそのくらいしか目に入るものがなかったせいもあるが、実際、奇妙な眺めだった。
 ウルバーノと付き合っていたのはロンが十八の頃だった。ウルバーノは二十一。半年ほど付き合って喧嘩別れしたのだが(原因は一応ロンの浮気ということになっているがそれよりも積もり積もった憤懣が爆発したと言った方が正しいと思う)、それからも何度か会った。お互い旅の冒険者をやっていたので顔を出すところは似たようなものだったのもあるだろうが、やはり縁というものもあったのだろう。
 会って、話し、酒を飲み、たいていは情を交わし、場合によってはよりを戻し。たいていは一月もしないうちに大喧嘩して別れるのだが、それでも自分とウルバーノは仲がいいと言ってよかったと思う。情交においても戦闘においてもその他のことについても、相性がよかった。
 別にお互い初めての男だったわけでもないし運命の人と思いこんでいたわけでもない。こっそり浮気したことは何度かあるし、ウルバーノの浮気を見つけたこともある。だが、それでもロンの人生の中で、ファンを除けば一番長い時間を共にした男はウルバーノだったと思うのだ。大人としての、お互いを尊重する付き合いというものを学び始めたのも、ウルバーノと付き合ってからだ。
 そういう相手が、最後に見た姿のまま、叔父で、自分の人生を変えた男に背中を撫で下ろされている。十四の時に別れた、今見ても惚れ惚れするほど男ぶりのいいファンに。ありえない光景だ。
 どちらもとうに、死んでいるのだから。
 そんなことをぼんやりと考えていると、鋭い声がした。
「敵だ!」
 ウェイビ・ラグの深みのある美声が知らせる。はっとして跳ねるように立ち上がると、ガガガッと床を蹴りながら以前スーの辺りで見たアカイライの色違いが四匹こちらに押し寄せてくるのが見えた。
 こちらも床を蹴り黄金の爪をそいつらに突き立てる。同時に腹の底から吐き気が一気に湧き上がり、頭がぐらりとしたが、伊達に成人直後から冒険者生活をやってはいない、短く息を吐いて堪えた。
 続いてファン・セオが鋼の鞭を振るい二体を薙ぎ倒すが、頭から直接二本足が生えている鳥のような魔物はまだ一体残っていた。ウェイビ・ラグが斧を振るうより早く、大きなくちばしを開き素早くガッガッ、とこちらに喰いついてこようとする――
『なぜ恋人たちが全員死んでいることを話さない?』
「っ!」
 唐突に頭の中に響いた声に、ロンは不覚にも一瞬動きを鈍らせてしまった。魔物はその隙を逃さずロンの体に喰いついた。黒装束の中の肉にくちばしが食い込み捩り、筋繊維が千切れて激痛が走る。
「っそがぁ!」
 ロンが動くより早くぶぅん、と鋼の鞭が振るわれて、魔物の体は斬り裂かれた。耐久力を超えていたのだろう、魔物の体は瞬時に塵に帰る。
「大丈夫か、ロン! 傷を見せろ、すぐ回復するからな」
「ああ……すまん」
 今のは少しばかり強烈だった。下手に手当をすれば後遺症を残しかねない、回復呪文が一番手っ取り早いだろう。
 そう小さく頭を下げると、ひとく心配そうな顔をしていたファン・セオは一瞬さっと顔に朱を散らし、うつむきながら手早くロンの上半身を脱がし回復呪文を唱えた。その光景もなかなかに奇妙だ。自分の前ではいつも冷静で淡々としていたファンが、そんな顔をしてくれるなど考えたこともなかったのに。
 まぁ、珍しいものを見れたということにしておくが、と腕の痛みを堪えながら内心苦笑していると、また声が頭に響く。
『なぜ恋人たちが死んでいることを話せない。自分が孤独だということを話せない』
「…………」
『自らの弱さを見せたくないからか。これだけ長い時間を共に過ごし、まだ心を許せてはいないのか。結局お互いに他人でしかない、そう思っているのか』
「なぁ、みんな。今俺の頭の中にはさっきの試練の作成者とやらの声が聞こえてきてるんだが、みんなはどうだ?」
 唐突に言うと、ファン・セオとウェイビ・ラグは困惑したような顔になり、自分の危機に鋼の鞭を振るってからまたげぇげぇやっていたウルバーノ・フォルデは顔をしかめた。
「? 俺には……特にないが」
「……さっきからうっせぇくれぇ聞こえまくってんぜぇ。頭ん中にがんがん叫びまくってやがる。っだってんだっ」
「わしには特に聞こえんが……もしや、あの声、人によって聞こえる場所が違うのか?」
 ウェイビの顔が問いかけるような視線を向ける。中身はラグだというのに、その視線には敵意が含まれていない。もとより探索中に敵意を見せるほど子供ではないとわかってはいるが、わだかまりが微塵もないというわけにはいかないだろうと思っていたのに。
 やはり今自分がラグにはヒュダに見えるから敵意を抱けないのだろう。そのことが少々面白くない自分に苦笑しつつも、そんなことなどおくびにも出さず真面目な顔でうなずく。
「たぶんな。思うんだが、この異様なまでに酔う旅の扉、そのために作ってあるんじゃないか?」
『……は?』
「ダーマにいた時耳にしたことがあるんだが、賢者を目指す人間の修行方法の中に自分の体を痛めつけながら精神を鍛える、というのがあるんだ。肉体的に追い込むことで悟りを得られるもんなのかどうかは知らんが、賢者が弟子に施す修行の中にあるんだからそう的外れな方法でもないんだろう」
「……つまり、あれか? こっちを気分悪くさせて質問するってのが、ここの試練とかいうのの流儀ってわけかぁよ?」
「そうなんじゃないか。魔物が攻撃してきた時にわざわざ質問してくるなんてのも、それっぽいしな」
「……っざけんじゃねぇぞぉクソッタレがぁ!」
 ぐいん、とウルバーノ・フォルデは立ち上がり、ずかずかと部屋の外へ向かい始めた。
「待て……フォルデ。一人では危険だ」
「うっせぇよ、あの声出した奴すげぇ気に入らねぇ! ぜってぇ見つけ出してぶん殴ってやらぁ!」
「……フォルデ。大丈夫か?」
「大丈夫に決まってんだろぉがぁ!」
 ふ、と小さく息をついてロンは立ち上がった。恋人たちの姿をした仲間たちが部屋の外へ出て行くのに、ゆっくりと周囲を見回しながらついていく。ひとつにはまだ吐き気や傷の痛みが落ち着いていなかったからで、もうひとつには間近で見た十五年前と同じファンの真剣な顔に、柄にもなく心臓が跳ねたからだ。
『なぜ、そのことを仲間たちに明かせない』
「……昔の恋人の姿を仲間たちにまとわせるような悪趣味の、人が戦闘してる最中に質問してくるような輩に答えてやる義理はないが、せっかくだ、一応言ってやろう」
 小さく声に出して言いながら、ロンは肩をすくめた。
「俺は、大切な人間には格好をつける方が好きなのさ」
 その答えに対する反応は、脳裏に瞬いた小さな閃光だけだった。

「……これを、渡るのか?」
 正直げっそりとしながら訊ねると、フォルデ(外見若ヒュダ)は真剣な顔でうなずく。
「他のところは全部探したんだから、あとはこの先の部屋から行ける場所しかないでしょう」
「いやだけど……これはどう考えても無理だと思うんだけど。落ちるよ、絶対。戦士っていうのは敏捷性は低いものだって決まってるんだし……」
「しのごの言わない! 男だったら根性入れてやんなさい、命綱はつけてあげるんだから」
「だけど……さぁ」
 はぁ、とラグはため息をついて目の前に広がる光景を見つめた。ガルナの塔の、入ってきたのとは反対方向にある出口から出てすぐの場所にある二階建ての建物。その二階には東方向の壁がまるまる取り除かれていて、真ん中辺りの鉤から塔へとぴんと張られた綱が伸びていた。
 風雨にさらされていたとは思えないほどしっかりとしていたし(魔法がかかっているのだろうとセオ(外見現在ヒュダ)は言った)、太さもラグの足を乗せても余裕があるほどだったが、それでもラグには自分が綱渡りをできるとはまるで思わなかった。自分は魔法で普通よりはるかに軽くしてあるとはいえ金属製の鎧を着けているのだ、どう考えても途中で落ちる。
「だけどどう考えても他に行く場所がないんだからここを渡るよりしょうがないじゃないの! ぐだぐだ文句を言ったって問題は解決しないわよ!」
「いやだから、他に解決する方法があるんじゃないかと思うんだけど」
「方法? どんな」
「いや、ほらええと……そうだな、要は向こう側に行けさえすればいいんだろう? ならわざわざ綱渡りなんかしなくたって、向こう側から縄を下ろして二階に登ればいいじゃないか、向こう側に忍び返しがあるわけでもないし。フォルデならここの綱を渡るぐらい楽勝だろう? ここくらいの魔物なら、二手に分かれてる時に魔物が出てもなんとかできるだろうし」
 そう言うとフォルデ(外見若ヒュダ)はふむ、と考えるような顔になった。実際言われてから考えたにしては悪くない提案だと思う。少なくともラグは少なくとも五丈は長さのある綱を平衡を取りながら渡るよりは、縄で二階へ登る方が楽だ。鎧は脱いで小分けにして引き上げればさして難しい仕事ではない。
「……そうね、その方がいいわね。いい考えだわ、ラグ」
 にこ、と軽やかな笑顔で、今の自分よりも若いヒュダが自分に笑いかける。どきん、と思わず心臓が跳ねた。若かろうがヒュダはヒュダだし、異性として見るなんて馬鹿なことをする気はないが、世界の誰より愛している存在であるヒュダの若々しい姿というのは妙にラグの心を落ち着かなくさせた。
 中身は仲間のフォルデだと、わかっているのに。
「……いや。別に」
 ぼそぼそと答えてから、他の仲間たちの方を見る。セオ(外見現在ヒュダ)とロン(外見初対面ヒュダ)。どちらもヒュダの姿をした仲間は、それぞれの表情でうなずいた。
「いい考えだと思うわ。私もラグと一緒に、向こう側の下から登ります」
「私はこちらから渡るわね。幸い荷物というほどの荷物はないし」
「……わかった」
 小さくうなずいて踵を返す。正直、あまり見ていたい光景じゃなかった。何人もヒュダがいるというだけでも混乱するのに、それが全員中身は共に戦う仲間だという違和感。気色悪さすら覚える。絶対的に守るべき存在であるヒュダと、一緒に戦わなくちゃならないなんて。外見だけのことと、わかっていても。
『なぜそう思う?』
 頭の中に響く声。ラグは舌打ちして足を速めた。これまでの探索の間も何度も聞いた声。賢者になるための試練の声。
 その声はたいてい、心身が厳しい状況に追い込まれている時に聞こえてきた。戦闘中や、旅の扉を使った直後などに。
『仲間たちが母親の姿をしているのがなぜそんなに嫌なのか?』
『仲間と母親、どちらが重要性では高いのか?』
『母親が自分よりも仲間を優先しろと言ったら、どうするのか?』
 いちいち自分の痛いところを衝いてくるような質問ばかり、何度も何度も繰り返し。一応いちいち(落ち着いた状況になってから)答えてはいるが、その答え方はもうかなり投げやりになっていた。
 この声の出す問いは、どれも自分が、精神衛生のためにあえて考えずあいまいにしてきたものばかりだからだ。
『母親が自らと並んで共に戦うのは、嫌なのか?』
(嫌だよ)
『なぜ嫌がる? 母親が戦う力があるならばお前を守りたいと思う可能性は考えないのか?』
(……そういう問題じゃない)
『ではどういう問題だ?』
(俺はヒュダ母さんを守るために生きてるんだ。ヒュダ母さんが傷つく可能性は少しでも減らしたいと思って当然だろ。外見だけのことってわかってるけど、それでも不快なものは不快だ)
『母親は自分のためだけに生きることを望んではいないのに?』
(…………)
『仲間に対する守りたいという感情は母親に対するものとはまったく別のものなのか? 母親を守るように仲間を守りたいという考えはお前の中では存在してはならないことなのか?』
(……ああ、そうだよ)
『母親の他に生きる理由を持つことを、なぜお前はそうも恐れるのだ?』
「……っうるさいっ……!」
 がづっ! と音が立つほど全力で壁を殴りつける。骨にじぃん、と衝撃が走り手から腕にかけてがひどく痺れた。戦士の心得として手袋をしているので手の皮が破れるようなことはなかったが、それでもじんじんと骨に響いた衝撃がずきずきと手に痛みを走らせる。
「……ラグ……大丈夫?」
 後ろからひどく気遣わしげな声で訊ねてくる、外見現在ヒュダのセオ。それに小さく「大丈夫」とだけ答えて、ラグは足早に歩を進めた。今は彼と話したい心境ではない。
 声はもう頭の中から消えていた。だが問われた言葉は反響するように何度も記憶の底から響く。それをぎりっ、と音がするほど奥歯を噛み締めて追い払いながら、ラグはずかずかと歩を進めた。
 自分が醜く薄情なのは知っている。何度も何度もいやというほど確認している。だがそれがなんだというのだ? 自分は生き方を変える気はない、ヒュダが第一で、他はすべてその他大勢で、それでいいのだ。
 自分のことはどうだっていい。ただ、ヒュダさえ幸せでいればいい。ヒュダの幸せのために、世界が安らかであればいい。
 そのために自分は仲間を守る。世界のために泣いていたあの子を、どんな苦痛も呑み込んで戦うあの子を全力で守る。
 それだけだ。それだけでいいんだ。俺はそうでなきゃいけないんだ。そうじゃなかったら、俺は。
「……生きる資格がなくなってしまう」
 意識しないうちに口から漏れた言葉に、ラグははっと口を押さえ、ぎゅっと唇を噛み締めてさらに足を速めた。
 
「……これを、渡れって?」
 思いきり顔をしかめて言うヅーロに、フォルデは仏頂面でうなずいた。自分だって別に好きでこんなことを言うわけじゃない。
「五階だぞ、ここ」
「すぐ下に天井あんじゃねーか。よっぽどヘマやんなきゃ一階分しか落ちねーよ」
「だから、そのよっぽどのヘマをやる可能性と向こう側までとちらずに渡れる可能性を考えてみたら、どうやったって釣り合いが取れないだろうっつってんだよ」
「んなこと言ったってどーすんだよ。他に行く場所もーねーんだぞ? だったらさっさと渡るっきゃねーだろーが」
 積極的にやりたいわけではフォルデだってない。二階の床の高さに張られた綱ではどう失敗してもせいぜいが捻挫だが、ここでは命を落とす危険がある。
 だが他に方法がないなら、やるしかない。やるしかないなら文句を言わず全力でやれ。そう自分に叩き込んだのはあんただろう、と言いたいが中身がラグだとはわかっているので言うに言えず、フォルデは口を引き結んでヅーロというかラグというかを睨んだ。
「んっだよ、だったらここで試練とかいうの棄権すんのかよ? 俺はごめんだぜ、試練とか抜かして偉そうにムカつくことしてきやがる奴らぶん殴ってやるって決めたんだからな」
「資格試験なのだから、偉そうなのも受ける側にとって腹が立つのも当然だろうに」
 肩をすくめて言うジルガに、フォルデは怒鳴った。
「っせぇなっ、別に受けたいから受けてんじゃねーんだ、文句言ってなにが悪ぃんだよ!」
「自分で受けたいから受けた試練だったら文句は言わんのか?」
「う……いや、言うけどよ」
「お前らしいな」
 くく、とジルガが喉の奥で笑う。カチンときてぎっとジルガを睨みつけた。
「んっだよ、なんか文句あんのか!? ムカついた時にムカついたっつってなにが悪ぃんだ!」
「いや、フォルデらしくていい、と思っただけさ。お前のそういう意地っ張りなところは見ていてとても愛おしい」
 にっこり笑顔で言われて、フォルデは思わずおぞぞっと背筋に悪寒を走らせた。いつも偉そうな気取り屋のジルガにそんな笑顔でそんなことを言われるとひどく気色悪い。中身はロンだが、それでもやっぱり気色悪い。
「気色悪いこと言ってんじゃねぇ、このボケ野郎っ」
「ひどいな。せっかく思いを込めて愛の言葉を囁いたのに」
「ざけんな」
 そうだ、ふざけるなというのだ。愛の言葉なんぞ囁かれたところで面白くも嬉しくもない。
『では、どういう言葉を聞きたいと思うのだ?』
「……っ」
 頭の中に響いた声に、フォルデはイラっときて舌打ちをする。他の面々ももう慣れているのだろう、どうしたのかと訊ねもしない。ただ一人デミスだけは(中身がセオなので)ひどく気遣わしげな視線を向けてきたけれども。
『お前はどういう言葉を、行為を求めていたのだ? 周囲になにをしてほしかった?』
(うっせ。てめーには関係ねーだろ)
『周囲がなにをしてくれれば、自分は不幸ではなかったと思えたと思う?』
「……は」
 フォルデは不意を衝かれ、一瞬ぽかんと口を開けた。
(……不幸ってなんだ。俺は別に不幸じゃねぇ)
『だが、自分の生い立ちにひどく不満を持ってきたのではないのか?』
(な……)
『恵まれた人々に、親のいる子供たちに、ずっと憤りと憎しみを抱いてきたのではないか? 自分はそうではないから。自分は普通よりずっと損をしているから』
(ッ……)
『損をしている分の落とし前を周囲につけさせてやる。自分が不幸な分を恵まれている人間たちから奪い取ってやる。そういう感情があるから盗賊行為に微塵も罪悪感を抱かないのではないのか?』
(………っ!)
 だん! と床をかかとで蹴り下ろし、フォルデはぎっと仲間たちを眺め回してぶっきらぼうに告げた。
「先行くぞ」
「え、フォルデ、おいっ」
 張り渡された綱にひょいと足を乗せ、たたっとほとんど小走りに渡り出す。自分の盗賊としての能力はここのところの戦闘で桁違いに上がっている、これほど太くしっかりと張られた綱なら五階だろうと渡るくらい造作もない。
『周囲が憎かったのではないのか? 恵まれた周囲が。自分はそうではないから。不幸だから。ずっとそいつらに復讐してやりたいと思っていたのでは? だから盗賊の厳しい修行にも耐えてこられたのではないのか?』
(うるせぇっ!)
 心の中で怒鳴って足を進めることに集中する。イラつく、ムカつく、腹が立つ。ぶん殴ってやりてぇ、蹴り倒してやりてぇ。こんな奴にこんなことを言われる筋合いはない。
『否定はしないのか?』
(うるせぇっつってんだろ!)
 そんなこと、考えたことはない。自分が不幸かどうかなんて。
 自分は孤児だった。盗賊ギルドに拾われ、物心ついた時から借金を背負わされていた。自由は勝ち取らなければ得られないもので、自分の面倒は自分で見なければならないもので、だから親やら家やら制度やら、自分の力とはまるで関係のないものに保護されている奴らはみんな大嫌いだった。
 だけど、だからって、それはそいつらが羨ましいとか、妬ましいとか、そういうのじゃない。全然違う。まるで違う。
 自分は、ただ―――
「フォルデ! 上だ!」
「っ!」
 鋭い声にフォルデははっとして、体を前に投げ出した。まだ綱渡りの途中だったのでさすがに平衡を崩したが、綱をしっかりつかんでひょいと体を持ち上げまた綱の上に立つ。
 自分のいた空間を通り過ぎたのは巨大なあぎとだった。鋭い牙と鹿のような角の生えた頭部、蛇のように長細い体、そのどちらもを黄金色に輝かせ、悠々と中で体を回転させてその魔物はこちらを睨んだ。
「……ドラゴン!?」
 思わず叫んでしまった。自分でも知っている最強の魔物ドラゴン。それがこんなところに!?
 その黄金色のドラゴンは、ゆっくりとこちらを向き、シャゲェェ! と吠えた。はっと我に返り綱の上で体を反転させて走り出すが、それが致命的な隙を背後に作ったのだろう。ドラゴンは素早くこちらに体を伸ばし(空気の流れでわかる)、フォルデの背中に噛み付いてきた。
「ぐぁっ……!」
 激痛。背中の肉がごっそり削られたのを感じる。衝撃と痛みで体の平衡が崩れた。こなくそ! と心の中で叫んで必死に体勢を立て直す。
『周囲を憎み、蔑み。そうして必死に心を奮い立たせてきたのではないのか? 自分は自分の力だけで生きていかなければならないから。誰も助けてくれないから。その憤ろしさを糧にして、必死に努力してきたのではないのか?』
「うるせぇっつってんだろうがこのクソボケ野郎ッ……!」
 背中で思いきり自己主張する炎を直接押し当てられたような熱さと痛み。それを堪えるためフォルデは苛立ちを声に出して吐き出しながら綱の上を走った。向こう側の床まであと三丈。ドラゴンが次の攻撃をしてくるまでにあそこまでたどりつかなければ。
 不幸とか幸福とか、そんなものは知らない。考えたことがない。そんなものは自分にとってはどうでもいい。ただ、自分は。
「ギャォオォ!」
 空気が渦を巻く。こちらまで伝わってくる熱気。まさか、以前聞いたように、ドラゴンは炎を吐くつもりなのか。まずい、綱が焼き切れる、と頭のどこかが思ったが、それよりも今はとにかく前に。
「グゥゥー……!」
 ごっ、と全身がチリチリするほどの熱気がこちらに押し寄せる――
 と思うや、それは途中で止まった。
「フゥッ!」
 ジルガの、いいやロンの気合が響く。ざしゅっ、と肉に刃が突き立てられる音がする。
 そこでようやくフォルデは床にたどり着き振り向いて、目を見開いた。
 ドラゴンの吐いた炎を止めていたのはデミス――いや、セオだった。ドラゴンの口からほとばしる炎を口のすぐ前で盾をかざして止めている。体が熱で焼けることなど気にもせずに、無表情で。――宙に浮きながら。
 ロンは攻撃を終えて綱の上に着地したところだった。さすが武闘家というか、綱の上で飛び跳ねたのだろうに体勢が崩れていない。
 そして、来た側の床から、猛烈な勢いで宙を飛んできたのは、ヅーロ――ラグだった。
「でぇぃやぁっ!」
 ドラゴンの上まで球のように飛んできて、そこからラグは急に真下に落ちた。空中で体勢を整えぶぅん、と斧を振り回し、ずっぱりとドラゴンの首を落とす。
 敵が消滅した、と思うやラグの体はふわりと落下速度がやわらぎ、綿のようにふわふわと綱の上に下りた。それからぽうん、ぽうんと何度も綱を蹴ってふわふわとこっちにやってくる。ロンはすたすたと見事に平衡を取って綱を渡り、セオは滑るように宙を舞い、こちら側の床にすたりと着地した。
「……っ、大丈夫、ですかフォルデさん……っ、今、すぐ回復します」
「……別に大したことねーよ。てめぇだって怪我してんだろーが、そっち先回復しろ」
 背中の傷は今でもずきんずきんと激しい痛みを訴えていたし、血がだらだらと流れるのも感じていたが、今にも泣きそうに顔を歪め(なのに瞳には涙の気配もないままで)、心配で心配でたまらないという顔で自分の手当をしようとするセオ(顔がデミスというのが妙な気分だが)にそんなことを言う気などさらさらない。ドラゴンの吐く炎を受け止めたのだ、セオだって相当にひどい火傷を負っているはず。
「まぁまぁ、ここはひとつ俺がセオの手当をするから、セオはフォルデの手当をしてやるといい。ほらフォルデ、とっとと傷を出せ」
「っせーな、偉そうに言うな」
 そうロンにぶちぶち言いながらもフォルデはもろ肌を脱いで上半身をさらした。傷にそっと手がかざされ、暖かい光がほんわりと傷を照らすと、すぅっと痛みが引いていく。ロンは軟膏の形状になった薬草を取り出し、セオに塗りつける。
「……なんだったんだよ、さっきの。お前ら空飛んでたけど」
「ああ、セオの呪文だ。自分は飛行の呪文で空を飛び、ラグは浮揚の呪文で宙に浮かせて壁やら床やらを蹴って前に進ませた」
「んなのできんならハナっからやりゃいいだろーが!」
「……ごめん、なさい……」
「それをセオが言う前に駆け出していったのはお前だろうが、フォルデ。話が終わる前に走り出してんじゃねぇ、てめぇは盗賊だろうがよ」
「ぐ……悪かったな」
「えっ、いえっ……こちらこそ、言うのが遅れて、ごめん、なさい……」
「よしよし、お互い謝りあって仲良しでけっこうなことだな」
「っせーぞロンっ」
 奇妙な気分だった。かつての親方、兄貴分、後輩。そいつらが仲間たちの中身を持って共にいる。一方では懐かしいようなこそばゆいような気分もあったが、もう一方ではひどい違和感と馬鹿にされたような憤りを感じていた。どちらもまるで違う人間で、フォルデの中でもまったく違う場所にいるのに。同じ存在として扱われるのがひどく腹立たしい。
『なぜそう思うのだ』
(うるせぇ)
 また頭の中に響いた声に苛立ちながら返す。
『同じものとして扱われるのがなぜそうも腹立たしいのだ』
(腹立つに決まってんだろーがクソが、どっちも別の人間なんだぞ、一緒くたにすんな馬鹿にしてんのか)
『お前にとって彼らはどういう存在なのだ』
(……こいつらは)
 外側を覆っている奴らは、かつて仲間だった奴ら。一緒に仕事をし、自分に誇りを、負けん気を、義務感を教えてくれた奴ら。
 中身は今の仲間たち。お互い命を預けあって共に戦い、心配して心配されて、腹を立て泣かれ仲裁されて――
 ああもう違うそんなんじゃない。どっちもそんなどういう存在なんぞと言えるような奴らじゃない。自分にとっては洒落や冗談で済ませられるような奴らじゃないんだ。
 少なくとも自分にとっては、命を懸けるに値する奴らなんだ。
(てめぇなんぞに誰が言うか、バーカ)
 なので思いっきり馬鹿にしたように心の中で言ってやったが、声は微塵も揺るがずに再度問いを投げかけてきた。
『彼らはお前を不幸から救ってくれたのか』
(…………)
 そんなんじゃない。不幸だとか救うとか甘ったれたもんじゃない。
 だってそうだ、フォルデは、一度だって自分が不幸だと思ったことはない。物心つく前から借金を背負わされ、両親やら家族やらそういうものがおらず、選べる道は少なくて周囲の奴らがみんな柄悪くてフォルデ自身しょっちゅう殴られ罵られた。だが食うものも寝床も自由を勝ち取る道もあった、殴られたら殴り返してよかったし文句を言いながらも手当してくれる人間がいた。自分の人生は、最低より相当にマシだったのだ。
 そんな中、今自分は仲間と旅をしている。自分の人生懸けるだけの価値を持った目的のある旅を。自分の力を世に示すために、世界にうようよしている馬鹿どもにざまあみろと言ってやるためにセオと仲間たちと共に魔王を倒す。そしてそのついでに、セオのムカつく情けない根性を全力で叩き直してやる。そう決めたのだ。
『寂しさを埋めてくれたのか?』
(…………っ)
 寂しいだなんてことを、自分は考えたことはない。そんなことを考える暇はなかった。だって前も、今も自分にはやらなくちゃいけないことが山ほどある。
 今ラグとロンは喧嘩しているしセオは――辛そうだ。どうすればいいかわかってるわけじゃない、けど立ち止まって考えている暇はない。放っておくわけにはいかないのだ。あいつらは――仲間なんだから。
 だがそんなことをこんな奴に言うなど死んでも嫌なので、フォルデはせせら笑うように鼻を鳴らし、心の中で言った。
(うるせぇ、クソボケ)
 その言葉に対し、声は答えなかった。

「まさか綱から飛び降りることになるとはなぁ……」
「まぁそうぼやくな、セオの呪文で傷も捻挫もなく着地できたんだから。だが実際奇妙な道ではあるな、綱から天井に落ちて、そこの亀裂から飛び降りるというのは。わざわざ亀裂を作ってあるとは思わなかった」
「けど他に道はねーんだ、行くしかねーだろ。この階他に出入り口らしい場所ねーし、当たりくさいぜ」
 何度も襲いくる魔物たちを撃退しつつ、喋りながら階段へと向かうラグたちをセオは奇妙な気分で見つめた。
 ラグとロンが、まるでわだかまりがないかのように話している。おそらく外見の相違のせいで認識が通常と異なっているのだろう。それがいい影響なのか悪い影響なのか、セオには判断がつかなかった。
 フォルデも苛立ちが治まったような顔つきで、先頭に立って罠を調べている。自分たちの姿が通常とは異なって見えることが気にならなくなったのだろうか。
 それは正しいのか正しくないことなのかちらりと思考を走らせて、すぐ首を振った。そんなことを自分などが考える資格はない。さっきもまたこの人たちを傷つけてしまった自分が言う資格はない。自分はもうこの人たちの仲間でいる資格はない。
 だからもう、自分にはこの人たちと感情を共有できないことを寂しい≠ネどと思うことは、許されないのだ。
『なぜそう思う?』
(自分は人でなしだからです)
『人でなしだとなぜ仲間でいる資格がない?』
(あの人たちを、きっと傷つけてしまうからです)
『今でも彼らは傷ついているとは思わないのか?』
(…………)
『お前が彼らを拒絶している時点で彼らをどうしようもなく傷つけているとは考えないのか?』
(…………)
『そもそもなぜ仲間でいることに資格を持ち出す? 彼らがお前をこれまで共有してきた時間によって無条件に仲間と認めてくれているとは考えないのか?』
(……だけど)
 何度も繰り返したその問答に、やはり同じ答えを返す。
(俺にはあの人たちの命を全力で守ることしかできないんです)
 人殺しが。命の重みを知っているのに世界中の命を奪おうとする存在が。勇者の力をいつ失うかしれない最低の人でなしが。
 あの人たちと共に在って、幸せになることなど、絶対に許されるはずがない。
 それをわかっているのに、自分の心はうろうろと揺れ惑う。弱くも、愚かにも、醜くも。必死に凍らせようとしても、あの人たちの一挙一動に揺れ動いてしまう。そのままでは、あの人たちを傷つけてしまうのに。そんなこと許されるわけがないのに。
『許されないというが、そもそも誰に許しを得る必要がある?』
(……俺自身に、です。そして、世界に)
 誰よりも自分が、そんなことを許せない。そして世界のすべてが、そんな醜い行動を許すわけがない。
 ゆっくりと階段を下りながら、声は何度もセオに語りかける。
『単に意地を張っているだけではないのか? お前が彼らの命を守らなければならぬ、などとは彼ら自身すら思っておらぬのに?』
(……そうですね。ただの意地、なのかもしれません)
『彼らがそんなことを望んでいると思うのか? 彼らはお前と同じようにレベル上げをすることができる、それなのに保護対象のように扱われるのは彼らの矜持を傷つけると思わぬのか?』
(そうかもしれない、とは思います)
 だけど、それでも。自分は怖いのだ。
 あの人たちが傷つくのが。命を失うのが。世界から消えてしまうのが。命を奪われるあの瞬間の絶望を、もう一度味わわされるのが。それを避けるために自分は他者の命を奪い、絶望を味わわせてきた。ただ自らの力の糧とするために。
 そんなことは絶対に、許されるわけがないのに。命を選別する権利など自分にはないのに。それがどれだけ残酷なことか、自分は身をもって知っているのに。
 そんなことをする自分が幸せになっていいなどとは、自分は少しも思えないのだ。
「なるほど、それが君の煩悩か」
「――え」
 空気を震わせる声が耳に届き、セオははっと周囲を見渡して目を瞠った。
 そこは図書館だった。それも異常なまでに広大な。見渡す限りどこまでも続く磨きぬかれた板張りの床と黒檀のような輝きを放つ書棚。当然書棚の中には書物がぎっしりと収められ、独特の香りを放っている。
 周囲がやわらかな光に包まれているので、セオはなにげなく天井を見上げて絶句した。天井が見えない。どっしりと厳しい歴史の重みを感じさせる書棚は、上方向にもどこまでもどこまでも視線が届かなくなるより遠くまで続いているのだ。見渡す限り遠くまで。
 はっとして周囲を確認する。ラグたちがいない。これもガルナの試しのひとつか、もしくは違う存在の魔法か。あっさりと分断されてしまったのだ。
「―――っ」
「慌てなくていい。もう君たちに危害が与えられることはないから。いうなれば、これが最終試験だからね」
「え……」
 さっきと同じひどく甲高い声に振り向くと、そこにいたのは一人の赤ん坊だった。まだ首も据わらないほど幼い赤ん坊が、小さな書き物机の後ろの小さな寝椅子に、ゆったりと体を預けながらこちらを見て笑っている。
「……君、は」
 赤ん坊はしゃぶっていた指を口から外し、笑顔になってこちらを見て、大人とまったく変わらない滑らかな口調で言う。
「こんにちは、勇者セオ・レイリンバートル。よくここまで来たね。僕がガルナの試し≠フ最終試験官にしてSatori-System≠フマスタープログラム、Satori-System\master01.exe=\―『悟りの書』だよ」

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