商人の街〜ダーマ――6
 ダーマ独特の、墨のような、場合によっては焦げくさいとも形容できそうな、なのに不思議にしめやかな気分になる香の香りに満ちた部屋の中は、静かだった。
 ラグは顔をしかめながらお茶ばかり飲み、フォルデは険しい顔でひたすらにお茶菓子(胡桃や松の実などを入れた餡を小麦粉の生地で包んだ焼き菓子)をぱくついている。部屋の壁際に三人ダーマの神官が控えているせいもあるのだろうが、ダーマに戻ってから即連れてこられた談話室の中にはずっしりと沈黙が下りていた。
ガルナの試し≠フ最終試験で『不適格』と言われ、意識を失い。ガルナの塔の二階で目を覚まし、セオはロンが試しに合格したことを知った。驚きつつ祝福もそこそこに塔を出ると、そこにはサヴァンとインミンが威儀を正して待っていた。
「無事悟りを開かれたこと、お慶び申し上げます、ジンロン殿」
「右に同じくだよ、ロンくん」
 きっとこちらを睨むようにして見つめるインミンと、穏やかに微笑むサヴァンの言うことには、ガルナの試しで悟りを開いた場合その事実がすべての賢者の間に速やかに伝達されるのだという。
 それが誰のどんな力によってかはサヴァンは言葉を濁したが、つまりそれはダーマを統括する、ガルナの試しの受験許可を出すか否かを取り仕切る賢者たち――賢人会議を構成する者たちにも、セオたちが自分たちに無断でガルナの試しを受けたことが知られたことを意味する。
 セオたちは叱責を覚悟してサヴァンたちと共にダーマに戻ったが、意外にも出迎えはまだ年若い(といっても三十はとうに越しているだろうが)賢者一人だった。その男が言うことには、いくつかの条件と引き換えに、ロンを賢者とする転職の儀を行うことが許可されたのだという。
 条件一、ダーマはロンに正式な賢者としての資格を与えない。職業能力においてはロンは通常の賢者と同等の能力を得るが、人類社会において賢者を名乗ることは認められない。
 条件二、社会的に正式な賢者として認められるための活動は、魔王バラモスが討伐されたのちに行うべし。
 条件三、魔王バラモスが討伐されるまで、常に勇者セオに付き従いその身を守るべし。
 あまりに一方的だ、とセオは必死に訴えたのだが、ロンはいつもの笑顔であっさりとその条件を受け入れてしまった。高レベルの商人の立会いの下、契約まで交わして。悟りの書も(石のように見えたのだが)ごくあっさりと取り上げられ。
 そして今は賢者への転職の儀式のため、身を清めろと神殿の外れの一室で禊を行っている。年始の儀式がまだ終わっていないというせいもあるのだろうが、それにしてもあまりに一方的、かつ軽い扱いだ。本来なら新しい賢者が生まれたとなれば、ダーマを挙げての祝典になるはずだというのに。
 三日後の転職の儀式まで、自分たちはロンとは会えない。その転職の儀式も、拝殿の大伽藍で行うのではなく、末社の分室で略式に済ませられるのだという。それは、無許可で試しを受けたことはよくないとは思うけれども、だからって試しの儀式で成したことにはなにも違いがないはずなのに。
(ひどい)
 セオは自分などが偉そうに言えることではないと思いつつもそう感じてしまっていた。おそらくはこの沈黙の理由は、ラグとフォルデも同じように感じて気分が沈んでしまっているからなのだろう。
 それだけが理由だとは、思わないけれども。
「君たちはダーマのどこに属してる人間なんだい? まだ二十歳かそこらに見えるけど」
 ふいにラグが壁際の神官たちに向け声をかけた。神官たちは少し驚いたように身じろいだが、すぐに姿勢を正し粛々と答える。
「我々は知客寮の末席に名を連ねております。知客の師家の首より命を受け、あなた方のお世話をさせていただきます」
 知客寮――客のもてなし、転じてダーマの外交をつかさどる機関だ。師家というのはダーマ神殿で指導者に当たる者たちのこと、その首ということはつまり賢人会議にも名を連ねるダーマの束ねの一人だろう。
「俺たちについて、どういう奴らだって話を聞いてる?」
 ラグの問いに、神官たちは微塵も表情を揺るがせず、静かに答えた。
「無断でガルナの試しを受けた咎人、と」
「……んっだあそりゃ! 別に俺らは好きで」
「それだけかい?」
「………堕ちた@E者となりうるものであるゆえ、厳重な上にも厳重な監視を、と」
「……っはぁ!?」
 目をむき口をあんぐりと開けぎっと神官たちを睨みつけるフォルデとは逆に、ラグは苦笑したようだった。
「堕ちた@E者、か。また吹いたもんだな……」
 そうひとりごちてから、周囲を見回し声を張り上げる。
「出てきてくれないか、みなさん? 少し聞きたいことがあるんだ」
 答えはない。ラグはまた苦笑し、唄うような口調で言葉を紡ぎだした。
「天井裏に三人、窓の外に四人、入り口の扉の向こうに五人。もうひとつの扉の向こうに四人。天井裏の三人は盗賊だな、身が軽くて武器が小さい……いや、一人は武闘家か。窓の外には戦士が二人、と僧侶と魔法使いが一人ずつ、かな。入り口の扉の向こうは戦士と武闘家が一人ずつ、僧侶が二人、魔法使いが一人……」
『………!』
「へっ、甘ぇなラグ、天井裏には四人だぜ」
「お、お前も気付いてたのか」
「たりめーだ、俺は盗賊だぜ、そーいうのが本業だっつーの。下手くそな気配の消し方しやがって、さっきから苛々してたんだよ」
『…………』
「なにも全員に出てこいとは言わない。それなりに上の情報に通じた人間と話がしたいんだ。一人でいいから、出てきてくれないか?」
『…………』
 しばしの沈黙ののち、すっと音もなく入り口でない方の扉が開き、一人の男が入ってきた。黒装束に黒覆面、細身で音もなく歩く姿は、一目で腕利きの盗賊だと知れる。
「私が責任者だ、ということになっているが。聞きたいこととは?」
 くぐもった声で言う男に、ラグは向き直って訊ねた。
「答えられないことならそれでもいいけれど、できれば答えてほしい。ダーマ上層部は、俺たちを敵視してるのか?」
「は?」
 フォルデがすっとんきょうな声を上げる。男はぴくりとも動かないまま答えた。
「なぜそんなことを?」
「最初から妙だな、とは思ってたんだ。サヴァンさんも大神官猊下も、みんなしてやたら俺たちを一般のダーマの人間の目から隠そうとしてるから」
「え……そ、そうなのか?」
「ダーマっていうのは転職をつかさどる神殿だけど、同時にありとあらゆる技術知識を研究する各種職業の総本山でもあるんだぞ。神殿ってのは基本的に、賢者になろうとしてる人間、ダーマを治める側になろうとしてる人間がいる場所だ。さもなきゃこういう神殿上層部直属の兵とかな。つまり神殿内の人間は一般人じゃないわけで」
「あ……そういや俺ダーマに来てから神殿以外の奴と話してねぇ!」
「うん。だから俺たちの情報を神殿内部の、闇に葬ろうとしてるんじゃないか、ってちょっと考えてはいたんだ。そんなことをする理由がわからなくて頭の中に留めてたけど……」
「俺たちを敵視してっから、だったら理由の説明つくな。そーいうことなのかよ、あぁ!?」
 ぎっ、と男を睨むフォルデに、男は小さく肩をすくめた。
「俺たちのような使い走りに、お偉方の考えることはわからん。ただ、勇者セオは堕ちた@E者となる可能性がある、警戒せねばならないものだと言われたのは確かだ」
「んっだよその堕ちた@E者ってのは!?」
「おい……忘れたのか? イシスの女王様が言ってただろう、人類の敵に回って勇者であることをやめた」
「……っかってんだよんなこたぁ! どーやったらそんなトンチキな話になるんだっつってんだ! セオがそんなもんになるわきゃねーだろーがっ!」
「……え」
 思わず目をぱちくりとさせると、フォルデははっと我に返ったようにこちらを見て、カッと顔を赤くしつつもそんな感情を叩きつけるように、またもきっと男を睨みつけた。
「てめぇらの親玉はなに考えてんだ。何をコンキョに、セオが人の敵に回るなんぞと阿呆なこと抜かしてんだよっ!」
「……勇者セオは、幼き頃、兄弟のように育てられた人間を殺した、と聞いている」
『!』
 電流のような衝撃が走った、という気がした。
「勇者セオは幼き頃、兄弟殺しの罪を犯したがゆえに、オルテガの息子でありながらアリアハンより正当な勇者にふさわしいだけの後ろ盾を得ることができなかったのだ、と。それがゆえに貴君らのような在野の冒険者を仲間に加えざるをえなかったのだ、と……そう私は聞いているが?」
「………――――」
 セオは心臓を冷たい手でつかまれたような感覚を得つつも、頭の中は奇妙に冴えた、ぽかんとした気分だった。それを今言われるとは思っていなかったのだ。
 自分の罪。ゼーマ殺害という、自分の人生で最初に、はっきりとした形で犯した罪。
 それはもちろんこれまでの人生で、ひたすらに引きずり尾を引きラグやロンやフォルデにさんざん迷惑をかけてきた自分の罪悪感の源ではあるのだけれども、それを今追及されるとは思っていなかった。すでにもうそれ以上にいくつも罪を重ねてしまっている、今になって。
「っ……けんな! その兄弟とやらがセオになにしたかわかってんのかよ! それこそガキがやられたら死にかねねぇ嫌がらせを八歳年下の相手にするような根性曲がりなんだぞ、んな奴をぶっ殺したくれーでなんで人類の敵扱いされなきゃなんねーんだ!?」
「勇者とは、人類の剣にして盾にして希望。人の永久なる護り手。それが個人的な感情で人を殺した、となれば警戒するのは当然では?」
「ざけんなてめぇっ、勇者じゃなきゃ人殺してよくて勇者だったら駄目だってのかよ!? あったま悪ぃんじゃねぇのかクソボケ野郎っ、てめぇらなんぞにどうこう言われるほどこいつは落ちちゃいねぇんだよっ!」
「貴君がどう感じるかはダーマ上層部の判断とは関係がないことだと思うが」
「てっめぇっ……!」
「フォルデ」
「っせぇなっ、こいつらに言われっぱなしで」
「こいつらに怒鳴ったってしょうがない。こいつらを動かしてるのはダーマ上層部だ」
「っ……」
 この人たちは俺の罪を咎めている。ゼーマを殺した罪を。決してしてはいけないことをした、罪を犯した事実を。
 なのに、だけどなぜ、こんなに自分は平静なんだろう。
「……一応俺からも言っておくが。セオはダーマに勇者として公式に認定を受けただろう? それの取り消しもされていないのに人類の敵扱いはないんじゃないか?」
「勇者セオの兄弟殺しは公式には事件として存在しない。勇者オルテガが尽力し非公式に蘇生させたからだ。なので勇者セオの勇者という名を公式に取り下げることはできない、が」
「警戒はきっちりするってかよ。けっ、お偉い奴らってのはどこも一緒だな、建前と腹の底を使い分けんのだけは天才的だぜ」
「俺たちにガルナの試しを受けることを許してくださったのは大神官猊下だぞ。それは大神官猊下がセオと俺たちを勇者として認めたってことじゃないのか?」
「確かに。だが、ダーマ神殿とて、そのすべてが一枚岩だというわけではない」
「権力闘争か……どこにでもある話ではあるんだろうけど」
「クソが、んなことでロンにいちいち因縁つけてきやがったのかよ、ざけんじゃねぇぞボケ野郎どもがっ」
 ロン。
 その言葉に、セオのぽかんと呆けていた頭は猛烈に動き出した。ロン、そうだロン。この人たちはこう言った。勇者セオはダーマ上層部に警戒されていると。
 じゃあ、ロンが転職の際にあんな条件をつけられたのも?
「だいったいここの奴らはいちいち気に入らねーんだよ! どいつもこいつもかしこぶりやがって偉そうにっ、周りの村の奴らに恵んでもらって生きてるくせしゃあがって!」
「恵んでって、お前な……」
「賢者だかなんだか知らねーけどな、たかだかあの腐れ武闘家にだってなれるよーなもんだろーがっ、同じ職業いちいち拝んでんじゃねーっつーんだよ! ……あいつが武闘家続けたいかどうかとか聞きもしねーで、当然みてーに賢者になるって決めこみやがって」
「……お前そんなこと気にしてたのか」
「べっ、別に俺は気になんて」
 そうだ、そうだ、そういうことになる。ロンが悪い条件をつけられたのも、みんなが自分の巻き添えで警戒されてしまったのも、今ラグとフォルデが嫌な気分になっているのも、すべて自分の犯した罪の――
「………ごめんなさい」
「は?」
「ごめんなさい………!!!」
 ごうっ、と耳元で風が逆巻くような気がした。体中にばちばちと電流が走ったような気がした。目の前が真っ赤になるほどの強烈な罪悪感に、頭の芯がくらくらした。
 ず、と一歩歩を進めた。ば、と男が身構える。ラグが驚いたように肩に手を触れた。
「ちょ、セオ、どうしたんだ――つっ」
「ごめん、なさい……ごめんなさい」
「おい、なんだってんだよ、どこ行く気だよてめ――いちっ」
 ず、ず、と奥歯を全力で噛み締めながら歩を進める。そうしないと罪悪感で吐きそうだった。
 自分は、駄目だ。本当にこのままじゃ駄目だ。この人たちを仲間と呼ぶ資格どころか、隣に存在する資格すらない。
 変わらなければ。進歩しなければ。せめて、せめてこの人たちの邪魔にならないようにしなければ。――一緒にいられなくなってしまうかもしれない。
 この人たちは、あの時確かに、自分に『生きていい』と言ってくれたのに。
「ダーマ上層部の人たちと、話をつけてきます」
『……は?』
「賢人会議を構成する人たちに、ロンさんやラグさんやフォルデさんに対する不当な圧力を撤回してもらうよう、お願いしに行ってきます」
「え、ってちょ、待ってくれセオ、それはちょっと今の状況では」
「……へっ、面白ぇじゃねぇか。おいセオ、俺も一緒に行くぜ」
「……え。で、も」
「申し訳ないだのなんだの抜かしたらぶっとばすぞ。気に入らねぇ奴を仲間が殴りにいくってのにつきあうってだけだろーが、なにが悪ぃんだよ」
「………はい………」
「いやセオ、落ち着いて普通に考えてくれ、そんな頬染めて見つめてないで。フォルデっ、お前も尻馬に乗ってるんじゃない!」
「……勇者セオ。我々は職務上、あなた方がダーマ神殿の奥部に向かわれるということであれば全力で阻止せねばならぬのだが?」
「どうぞ、阻止しようとしてくださってかまいません。俺に対してならば、殺す気でやってくださっても問題ありません。俺からは、あなた方に攻撃を加えることもありません。――ただ」
 すい、とセオは剣帯から鞘に入ったままの剣を外し、構えた。
「申し訳ありませんが、それでも、俺たちは押し通らせていただきます」
「――――疾ッ!!」
 ざっ、と部屋の外の気配が一気に動く。セオはだんっ、と床を全力で蹴った。フォルデが走る。ラグがこちらに向かって動きながらなにか叫んでいるような気配を感じたが、耳には入らなかった。
「だから、ちょっと待て―――っ!!!」

 遠くで爆音のようなものが聞こえた気がして、ロンは耳をそばだてた。ロンがいるのはダーマ神殿の外れ、僧舎の一角の旦過寮と呼ばれる部屋だ。賢者となる、すなわち道を究めんとする人間が弟子入りする前に三日間瞑想を行う場所。
 旦過詰と呼ばれるこの時間は一種の幽閉生活で、とにかくひたすらに座禅して瞑想するしかやることがない。食事どころか茶も出ないし、用を足す時は部屋の隅の糞桶を使う。一応糧食は持ち込めるが、最大でも竹の水筒と竹皮の包みひとつ分だけ。入門の際には庭詰と呼ばれる神殿の外での座り込みも必要となるというのだから、実際ばかばかしいほどの苦行ではある。
 だが賢者となる人間は、ほぼ全員そういうばかばかしい苦行≠大真面目に乗り越えてきた連中なのだ。そういう人間でなければ、神殿に入る、すなわち賢者を目指すことは許されない。ならばこの程度は経験しておいてやらねば普通に賢者を目指す奴らとしては収まりがつくまい、とロンはあっさりとこの苦行の命を受け容れた。
 なんにせよダーマでの修行経験もあるロンにしてみれば、三日間の座禅と瞑想程度ならばさほどの苦ではない。が、面白そうなことに気が行ってしまうのはどうしようもなく、ロンはしばしその爆音に精神を集中した。
 爆音は途切れたり立て続けに響いたりしながら遠ざかっていく。神殿の奥へと向かっているようだ。セオたちかな、となんとなく思った。ダーマで唐突にそんな騒ぎを起こしそうな異分子といったら自分たちくらいしか思い浮かばない。
 よしよしなんでいきなり暴れたのかは知らんが頑張れ、と応援するような気分で音を追っていると、ふいに音が消えた。捕まったか、とも思ったがにしては唐突すぎる。これは消音の結界が張られたな、と小さく舌打ちした。せっかく音から実況を想像して楽しんでいたというのに。
「……瞑想の最中に舌打ちとは、相変わらず不真面目な奴よ」
 ふいに、扉の向こうから静かな、なのに周囲の空間中に反響して響き渡るような声が聞こえた。ロンは一瞬目を見開き、それからくすりと笑って答える。
「旦過詰の賢者見習いに声をかけにくる大神官もなかなかに不真面目だと思うが?」
「……確かにな」
 ふ、と疲れたような息を漏らす。その音も大神官、シンフォンウェイビから発されるとひどく音楽的に聞こえる。ウェイビは所作のひとつひとつがいちいち品のある人だったが、特に声がよかった。大伽藍で行われた、低いのによく響く体の中にまで徹る声で話される法話などはそれこそロンには音楽会のように聞こえたものだ。
「で。なにか用があるのか? 用がないのに見られる危険を冒して俺に会いに来てくれたというのだとしても、俺は嬉しいが」
「……大神官に対する敬語も忘れたか?」
「俺と一緒にいる時は肩書きは忘れてただのウェイビに戻ってくれ。俺は前にそう言っただろう?」
「……たわごとを」
 ひどく苦しげに発された声に、とりあえずロンは口を閉じた。ウェイビを困らせるのは本意ではない。
 しばしの間。それからウェイビは、ひどく真剣な声で呟くように言った。
「……わしはお前には賢者の素質があると、そう思っていた」
「は?」
 ロンは目をぱちぱちとさせる。さすがに予想外の言葉だった。
「……驚いたな。俺を神殿に群れ集まっている道守ってますと自己主張するような人間と同一視したのはあなたが初めてだぞ」
「同一視しているわけではない。賢者の素質があることは、神殿で修行を行うだけで足れりとする人間と同じことではないぞ」
「……これは失礼」
「わしが孫の婿をただ孫の言うままに選んだと思っておったのか? 残念ながら、わしはそこまで純粋に孫を思える爺ではないのだ」
 ウェイビは小さく笑い声を漏らす。苦しげな笑い声だった。
「孫が一人の男にひどく執着していることを知った時、わしはその男のことを調べた。手の者を使ってな。能力、評判、心身の在り方、その他何もかもを。そして思った。賢者になりえる男だと。孫を、このダーマで守っていくことができる男だと」
「…………」
 実際に会いもしていないのにそんなことが言えるというのもある意味大したものだと思うが、それよりも。
「俺に迫られた時呆けてたくせに」
「っ、今はそういう話をする時ではないっ!」
「いや、失敬。だが、真面目な話、あなたは俺が同性愛者だということを知らなかったのか?」
「………、その道のたしなみがある、とは聞いていた。だが、感心できぬこととは思うが、結婚前にそのような道に踏み入る人間はけして少ないわけではないし、きちんとした相手がいるならばそのような振る舞いに及ぶことはないだろう、と……なので、まさかわしのような爺を口説こうなどとは……」
「その道、ねぇ」
 ロンは思わず苦笑する。自分にとっては、道ではなく、ただの性癖なのだということをこの善良な老人に理解しろと迫るのは酷だろうと理解はしていた。
「いまさら言うのも愚かだが……孫は本当にお前を慕っている」
「そのようだな」
「皮算用のそしりを受けるやもしれぬが……あえて、今頼む。ロンよ。賢者となり、バラモスを倒すという目的を達したのち、ここに戻って、孫と一緒になってくれぬか」
「……は?」
「お前は、大神官となりえる器を持っているとわしは思う。世の不浄を見つめ、その中に身を置き、しかしそれに染まらぬお前は」
「…………」
 ロンは相手に見えないのを承知で小さく口を開けて呆れの意を表してから、苦笑した。そうきたか。
「悟りを開いたならば、お前にもわかるであろう。悟りとは、一度得れば、一度悟ればそれで終わりというものではない。あまたの真実があり、そのひとつを掴み取るのにすら人は艱難を乗り越えねばならず、掴んだと信じた真理も次の瞬間にはたやすく失われかねん」
「確かに」
「人によって真理は異なり、その真理すら唯一でも絶対のものでもない。物語ではないのだ、正しい理屈を知ってさえいれば間違えることはないなどというばかばかしいことはありえぬ」
「そうだな」
「悟りを開いた人間ですら、賢人と呼ばれる存在ですら、それぞれ考えることは違い、必ずしもわかりあえるとは限らず、それどころか得たと思った真理を使いこなせず、くだらぬことにつまずき、時にはごくあっさりと得たものを失い忘れ、ついには賢者などとはとても呼べぬ存在にすら成り果てかねん。名を得た者は、力を得た者は、なにかを得た者は、常にそれを失い堕落する危険を同時に得るのだ」
「まったくもって」
「賢者とは、賢者の資格とは、それを受け容れ、それに負けぬ、悟りが悟り足らず、真実が真実足らず、この世に生きる者はすべて愚かしく、自らの力が足りず、自らが過ちを犯しこれからも犯すだろう存在であることを認め――かつ、それを踏み越えて真理を追究する者を指すのだ」
「ごもっともなことだ」
「――自らの愚かしさを知りながら世界に踏み出し、関わり続ける勇気を持つ者。その資格を、お前はもっとも正しく体現している」
 半ば独白するようだった言葉がふいにはっきりとした意思を持ってこちらに向けられた。これは返事をせねばならんだろうな、とロンは頭をぽりぽり掻きながら、数秒で考えをまとめ、肩をすくめてから言う。
「ま、その辺りはわからんでもないが」
「…………」
 わずかに不意を討たれたような沈黙。あっさり肯定されるとは思っていなかったのだろう。
「だが、忘れていないか、ウェイビ殿。これは大神官選定会議ではなく、孫の結婚相手についてのお話し合いだ。大神官がどうたら賢者の資格がどうたら言う前に、考えるべきことがあるだろう」
「なんだ、それは」
 は、と小さく息を吐いて、見えないとわかってはいつつもつい肩をすくめる。
「惚れた腫れた、さ」
「……なにを、子供のような」
「結婚相手に対してはそれなりに重要なことだぞ。はっきり言うが、インミンは俺に惚れているかもしれんが俺はインミンに惚れてはいない。で、俺は惚れてもいない奴と、しかも女と結婚する気はない。だからインミンとは結婚しない。以上、なにか言いたいことは?」
 ウェイビはしばし沈黙した。それから困惑と苛立ちの色も濃く言葉を投げかけてくる。
「インミンのどこが不満だというのだ。あれだけひたすらに一途に女人に思われて、すげなく放り捨てるというのか」
「放り捨てるもなにも、最初から拾った覚えはない。最初の時も言ったはずだ。俺の目には、あなたの方が魅力的に映る」
「……っ、だから、そのようなたわごとを……」
「これがたわごとならインミンの俺への想いもたわごとの部類だな」
「ふざけるな! お前も男ならば、いつまでも男と遊んでいてどうするというのだ。きちんと家庭を作り、子孫を残していくのが人としてあるべき道だとは思わんのか!?」
「ぜんぜん」
「っ、ロンっ……」
「仕方ない。こういうことは言いたくなかったんだが……まぁあなたもけっこう見当違いなことを言ってくれたんだ、帳消しにしてもらうとしよう」
「なにを、っ」
「ウェイビ殿。はっきり言うが、俺がインミンと結婚したとしても子孫を残せる可能性はほぼ存在しない」
 きっぱり言うと、ウェイビはわずかにたじろいだようだった。少しうかがうような声で訊ねてくる。
「……子種がない、とでもいうのか」
 ロンは思わず苦笑した。善良な人間というのは、こういう時少し面倒だ。
「そうじゃない。いわゆる愛の契りというものを交わすことができんのさ」
「? なんの」
「早い話が、俺は女相手じゃ勃たん」
「っ!!」
 ウェイビは嵐の時風が窓に吹きつけて立てるような、ひきつった音を漏らした。数秒荒い呼吸をしてから(この人倒れんだろうなと少しばかり心配になった)、必死の声で言う。
「ばかな。そのようなことが、あるわけが」
「あるから言っているんだろうが。俺は別に女嫌いというつもりもないが、それでも女の裸体を見ると吐き気がする。気色悪い。迫ってこられたら思わず蹴倒したくなるな。いわゆる一般的≠ネ男が男に迫られた時と同程度には」
「病気、というわけではないのか」
「病気、ね。病気の定義は『心身の働きに異常が起こり、不快や苦痛や悩みを感じ、通常の生活を営みにくくなる状態』だろう? 少なくとも俺は物心ついた時からずっと男が好きで、それに不快も悩みも感じてない。男と寝るのも俺にとっては日常の一部だ。それを病気と呼びたいならお好きにどうぞ、としか言えんが医学的見地から見てそれが事実だと思い込んだら恥をかくぞ」
「………、っ」
「この世の中にはそういう人間は確かにいる。さっきあんた自身が言ったことだろう、真実は人によって違うと。俺のこの感覚が人によってはとうてい受け容れることのできない汚らわしく気色の悪いものであるのと同様、俺にとって『男と男の関係は遊びごとの範囲にあるのが当然』だの『一人前の男は妻を持ち子供を得て家庭を作るのが当然で幸せな暮らし』だのという感覚は反吐が出るほど気色悪いものなんだ」
「………、だが、っ」
「そういう男と結婚してあなたの孫が幸せになれるか、もう一度考えてみることだ。少なくとも俺なら新婚当初から自分に欲情もしてくれん相手が夫だなんぞごめんだがな。よもやさっき賢者の資格をとうとうと述べてくれたその口で、『そんな理屈は理解できない、認めない』などとは言わんだろうが?」
「…………っ」
 しばしの沈黙ののち、静かに身を起こす音が聞こえる。帰るのか、とロンは小さく息を吐く。別にこういう話が嫌というわけではないが、えんえんぐだぐだ続けるのは疲れる、まぁこのへんで終えておくのが妥当だろう。
 ああそうだ、とふと気付く。ついでだからこれを聞いておくか。
「ウェイビ殿。さっき神殿の奥の方から爆音が聞こえたんだが、あれはセオたちか?」
「……ああ。なぜそれを?」
 不審そうな声に適度に朗らかに笑ってみせる。ウェイビに悪印象を与えたいとは、ロンは決して思わない。
「単にそれ以外いなさそうだと思っただけだ。ダーマの神殿奥部で突然暴れだすような異分子は、今のダーマには俺たちしかいないだろう?」
「相変わらず勘のよいことだな」
「いやいや。理由を知ってるか?」
「……お前への対処に代表される、自分たちへの警戒心――堕ちた@E者になりうる存在という我々賢人会議の認識を不満とし、改めよと主張すべく神殿最奥部へと押し入ろうとするのを、三応寮の者たちが押し留め争いとなった、と聞いている」
 三応寮とは古くは高位の神官の世話をする人間が集まる役寮だったが、現在はダーマ神殿が独自に保有する戦力を統括する役寮となっている。基本的にダーマは軍事行動を起こす必要が生まれた際は民兵を徴集するが、子飼いの戦闘員というのはどうしても必要になるものだ。
「なるほどな……セオのことだ、自分のせいで俺たちに迷惑をかけていると思ったら耐えられず暴走したんだろうな」
「……驚かないのだな」
「なににだ?」
「我々が勇者セオを堕ちた@E者として警戒していることにだ」
 ロンは小さく苦笑を漏らす。
「別に。あなた方もいちいちご苦労なことだな、とは思うがな」
「…………」
「要するに敵に『これ以上なく完膚なきまでに殺される』ことを防ぐための手段の一環だろう?」
 ウェイビは沈黙して答えない。これがとんでもなく見当違いだったら阿呆みたいだな、とは思ったが、せっかくなので思ったことを言うことにした。
「最後に魔王を殺すためにはただ一人の取替えの効かない勇者を作ってはいけない。オルテガのような例を作ってはならない。魔族にはすべての勇者に対し、『この勇者を最大戦力をもって倒せば他の勇者に魔王を討ち取られるやも』と思ってもらいたいわけだ」
「…………」
「魔王に対抗する武器である勇者を常に確保しつつ、レベルが上がるように処理しきれる程度の敵を与えねばならない。ダーマは勇者の力にならねばならないが魔王を倒した勇者の所属する国に増長されても困る。それらもろもろを解決するためには、魔王に最後の一撃を加えられる勇者を全力で守るためには、ダーマに認められた『正当な』勇者――本命の犠牲として派手に動いてもらう魔族たちへの囮を作るぐらいのことは、頭があれば誰でも考えるな」
「…………」
「当たり前だがそんなことはダーマ外部には明かせない。ダーマは世界の信仰を一手に引き受ける存在だ、それが生贄のような存在を認めてしまえば世界が揺らぐ。もちろん勇者にもだ、囮となる勇者にはもちろんだが本命にも。世界の犠牲となって滅びるような存在、そんなものを認めるような奴は勇者じゃない≠ゥらだ」
「…………」
「その本命という位置につけるにはセオは実にうってつけの相手だ。単純に戦力としても三人も仲間を連れていけるというのは大きいし、なにより所属する国家と折り合いが悪い。他の国にもいちいち誼を通じて回っているし。アリアハンが増長しようとするのに、いちゃもんをつける方法はいくらでもあるな。が、ここのところあまりに活発に活動しすぎているので、魔族に狙いをつけられる可能性をあなた方は恐れた」
「…………」
「なので考えたのがダーマ神殿そのものが勇者セオの名に傷をつけることだ。ガルナの試しを受ける許可をあなたが勝手に出して、それを論拠にいちゃもんをつけ、賢者という戦力を俺たちに与えつつ評判を落とす。俺たちは活動しにくくなるが魔族たちがセオを本命と考える率は低くなる……と、こんなところか? サヴァン殿がどこまで絡んでるのかは知らんが。少しぐらいは本気で警戒してる奴もいるんだろうしな」
「……それだけが理由、というわけではないがな」
 低く、苦くウェイビは答える。一応見当外れというわけではなかったらしい。格好がついて少しばかりいい気分になった。
「魔王バラモスが出でてより、魔族に殺された勇者はオルテガだけではない。王の命令で幽閉されたといわれる勇者にもその影に魔族の関与が囁かれているし、ネクロゴンドの勇者は総勢数万といわれる魔物の軍隊をぶつけられ倒れた。オルテガも、ダーマにただ一人の勇者として認められたほどの男だ、魔族に目をつけられ、さんざん疲弊させられたあげくに周到な罠に落とし込まれなければ命を落とすことはなかっただろう」
「ふむ」
「我々が魔族について知っていることはあまりに少ない。その組織体系どころか生態すらけして万全の知識を持っているわけではない。せいぜいが種の名と力の強さ程度だ。だが、少なくともバラモス麾下の魔族は、勇者を警戒していること、高いといってよい知能を持っていることはこれまでの戦いの中で知れている。奴らの情報収集網がどれほど緻密なものかはわからんが……」
「囮を作るまでの時間稼ぎにでもなればいい、と?」
「……うむ。ダーマが正当な勇者――囮として他の勇者を挙げることについての正当化にもなる。打てる手は打っておくべきだろうと判断した」
「ふむ……で、素朴な疑問なんだが。それはそもそもの目的の、『勇者の道を整える』というダーマの役割とは完全に反していないか?」
 瞑想の間につらつら考えたさっきまでの台詞に、どうしても完全な自信を持たせられなかった理由である単純な疑問提起に、ウェイビはわずかに間を置いてから苦々しげに答えた。
「………道を整える方法は、ひとつだけではない」
「………ふむ」
 ロンはしばし瞑目し、肩をすくめた。これはたぶん、この人はまだなにかを隠している。
 探り当てたいとも思ったが、これといって隠していることの当ても思いつかないし、なによりそろそろ人が来てもおかしくない。これで話をする機会が終わりになるわけでもないし、これ以上長話になるのはまずい、と結論付け、ロンはとりあえずあっさりと言った。
「別に好きにしてかまわんぞ」
「……なに?」
「俺たちをその最後の一撃の前座としてダーマ認可の判を押すのも、世界を泳がせるのも、あるいは最後の一撃として大事に抱え込もうとするのも好きにしていいと言っている」
「ロン……」
「ウェイビ殿、知っていると思うが思い出してもらおう。俺とラグは冒険者で、フォルデは街の盗賊だ。ルイーダの酒場やら街の通りやらで偶然縁があったというだけの理由で勇者についてきた、国の秘蔵の精鋭でもなんでもない奴らだ」
「…………」
「セオもアリアハンには国を挙げて冷遇されていた身なんでな、冷遇には慣れている。助けがあるならあるで活用するが、ないならないでなんとでもするのが俺たちの流儀だ。今のところ運よくなんとかなっているしな。無理に俺たちの手札を増やそうとしてくれる必要はないさ」
「……ロン」
「俺たちは自分たちで自分の道の進め方も決められない赤ん坊じゃないんだ。あなたがどう出るにしろ、それをしっかり利用させてもらう程度のしたたかさは全員持ち合わせてるぞ。あなたが俺たちの行く末を気にしてくよくよしたり落ち込んだりする必要は、さほどない」
「…………」
「ただでさえあなたは抱え込みやすい質なんだから、世界全部を自分が背負わなければならないなどと思い込むのはやめておくことだ。自分に軽く酔ってみる程度ならかまわんが、それも度を過ぎると恥ずかしいぞ。俺もたまにはやってきて、愚痴を聞いてやるから」
 ウェイビは小さく、だが吹き出すような音を立てて笑った。わずかに面白がるような気色を滲ませつつ、あの音楽的な響きの声で静かに言う。
「ダーマの大神官として、これまで何千という人間に道を説いてきた私に説教か?」
 言われてみて初めてそのこっけいさに気付いて、自身少しばかりおかしくなったが、ロンはあくまですまして答える。
「人間なんぞしょせん五尺三寸の糞ひり虫なんだ、年を取ろうが道を究めようが子供に諭されもすれば馬鹿にされるような真似もしようさ。そういうものだと、それでも道を修めんとするのが賢者だとさっき言っていたのはあなたではなかったか?」
「確かに」
 すい、と身を返すような音。それすらウェイビの場合は僧侶の祈りを捧げる声のようにしめやかに聞こえる。
「旦過詰の三日、励むがよい。――お前が賢者になる日を待っている」
 そう静かに告げ、ウェイビは周囲の空間に余韻を残す足音をごくひそやかに立てながら遠ざかって言った。ロンはふ、と息をつきまた座禅と瞑想に戻る。
 とりあえず、かつて愛した人との間の会話としては、悪くない部類ではあった。

「……それだけでは『日々是好日』という言葉の意は知れぬ。人生において不幸というものはいつ訪れるか知れぬもの。例えば時には地震で家が失われ、時には旱魃で食べるものもないということも起きる。時には王が道を違え悪政で職を失うこともあろうし、時には魔物に襲われ家族、友人、我が子の命も失われかねん。お前はそういった不幸に際して、『日々是好日』と言うことができるか?」
 賢人会議を構成する一人、賢者ウーモの問いに、セオは考えた。その時の感情、その時の苦痛、その時の不安や恐怖。必死に想像し、思考し、きちんとした答えを返そうと懸命になる。
 だが、数分の時間をかけたのち、出てきた答えは結局いつも通りだった。
「わかり、ません……」
 ふ、とウーモが小さく息をつく。セオは申し訳なさに身が縮みそうになった。お忙しいのだろうに自分などにわざわざ法話をしてもらっているというだけでも申し訳ないのに、問われた言葉のことごとくにきちんとした答えを返すことができないというのでは、もう本当に申し訳なさに消滅したくなってしまう。
「……災難に逢う時節には災難に逢うがよく、死ぬ時節には死ぬがよし。心を無とし、不幸も辛苦もあるがままに受け容れ、大病を病めば静かに病人となり、魔物に殺されようとしても静かに手を合わせる、その心。その心構えを自覚することが人生には必要なのだ。わかるかな?」
「ごめん、なさい。わかり、ません」
 今度の答えはさっきよりはるかに早かった。ウーモがわずかに眉をひそめこちらを見つめてくるが、それにも顔を上げてきちんと見つめ返す。今の理屈はセオにはそのまま受け容れることは難しいものだ、というのはセオにはごく当たり前のことだったので、答えるのにさほどの苦はない。
 ウーモが何事か言葉を継ごうとするように口を開いたが、言葉が発されるよりも早くそばに控えていたウーモの秘書が告げる。
「師君ウーモ、そろそろ会議のお時間が迫っておりますが」
「む……そうか。では、この辺りで終えておくこととしよう。勇者セオ、この書を渡しておく。きちんと読んでおくように」
「あ……はい、あの、ありがとう、ございます……」
 書を受け取り小脇に抱え、深々と頭を下げた体勢のまま、ウーモが部屋を出て行って十数えるほど経つまで待つ。それから姿勢を戻し、ふぅ、と小さく息をついた。こういう風に一対一で真正面から話をすることなどアリアハンでの家庭教師以来だったから、少しばかり緊張する。どの師家も真摯に対応してくれるのだが、それにきちんと応えることができない自分のふがいなさもひしひしと感じるし。
 ちらりと窓の外を眺める。腕にはめられた鉄枷から伸びる鎖がちゃらりと音を立てた。この鉄枷には運動能力と呪文、すなわち戦闘能力を封じる力があるということだが、嵌めていても基本的な生活には支障はない。
 いい天気だった。ゆっくりと流れる雲の上からさんさんと差し込む陽光は暖かい。冬のダーマは雪は少ないが冷え込みは厳しいそうで、事実夜の空気の冷たさに何度もセオはロンは大丈夫だろうかと不安になった。
 今日は適度に雲もあるようだし、少しは寒さがましでありますように、と祈りつつ、セオは立ち上がり鎖の端を持っている監視員に声をかけた。
「あの、神殿の中を見て回っても、いいでしょうか?」
「…………」
 三人の監視員たちは素早く視線を交わし、小さくうなずきあってから、こちらに向き直り無言で首を縦に振る。セオは感謝の意を込めて「ありがとう、ございます」と頭を下げ、ゆっくりと部屋の外に出た。
 ダーマ神殿の石造りの簡素だがその中に大きな広がりのある建築をゆっくりと見て回る。ダーマ建築の妙は計算しつくされた配置にあるのだという言葉を、セオは実感していた。壁、柱、石像や花のひとつひとつに至るまで、独特の様式で計算されて配置されている。細かな部分はごく簡素だったが、それはそれで幽玄ともいうべき雰囲気を作り出し、趣深いとセオは思った。
 この生活もこれで三日目。今日行われるロンの賢者への転職の儀式と同時に終わるということになっている。セオとしては、ようやく終わりが見えたことにかなりほっとしていた。
 フォルデは食事の時に会うたびに不満をぶちまけるし(そしてそのたびに警策で叩かれる)、ラグもなにやら悩んでいるように苦しげだし、セオ自身この生活はある意味ひどく辛かった。
 世界の信仰の中心たるダーマ神殿の建築や空気を思う存分堪能できるというのは嬉しいし、ただひたすらに思索する時間というのもセオは嫌いではない。――ただ。
『……セオはゆっくりとダーマ神殿の中廊下を歩く。ダーマ神殿の空気は、風通しが悪いわけでもないのに常に埃の匂いがする。書庫にも似たどこか古臭い匂い。歴史の重みとも形容されるであろうその香りは、ガルナの塔でセオが見たあの書庫と、ひどく似ていた。』
 頭を巡らせながら頭が書き留める。文章を、言葉を、物語を。
『サトリ。自らをそう呼ぶよう言った赤ん坊の言葉をセオは思い出す。『お前は、なんのために戦う?』。その言葉にセオは『わかりません』と答えた。どうすれば成すべきことを成すことができるのか。ラグにもロンにもフォルデにも、世界にも。自分なりに少しでも幸福を与えることができるのかわからないセオにとっては、それは実際ごく正直な感想だったのだ。』
 歓喜と共に心身が言葉を紡ぐ。人生で初めての、そして唯一のものだった幸福。はっきり憶えている物語を紡ぐ快感に、心身が震えた。
『自分の存在が間違っていることを知りながら、なにかしなければならないと追い立てられるように必死に喘ぐ。自分でも愚かしいとわかっているそんな行動を繰り返すセオに、サトリは『もっと仲間たちと話をしなさい』と言った。話。どんな話をすればいいというのだろう、とセオはため息をつく。自分の中にある醜い感情や思考をぶつけても、ただの』
「――――っ!!」
 だん! とセオは力を込めて胸を拳で叩く。は、は、と息が荒くなっているのがわかった。これまで何度も繰り返してきたことなのに。
 なんでまた繰り返してしまうんだ、とセオは泣くのを堪えて奥歯を噛み締めた。そんな権利、自分にはないのに。自分の物語は、めでたしめでたしでは終われないと、そうわかってしまっているんだから。
 なのに、どうして、何度も、何度も。
 うつむいて、ぐっと拳を握り締める。監視員の人たちが見つめているのがわかっていたが、気にはならなかった。
 ただ、自分の弱さに、情けなさにふがいなさに、胸を引き裂きたくてたまらなくなる。
「なにをなさっているのかな」
「っ」
 唐突にかけられた声に驚いて廊下の向こうをみる。そこに立っていたのは、豊かな銀髪も目に眩しい、肌に深く年輪を刻んだ威厳ある老人――ダーマ大神官、シンフォンウェイビだった。
「! 大師!」
「なぜこのようなところに」
「ここは咎人の居る場所にございます、疾くお戻りを!」
「『花無心招蝶、蝶無心尋花』――縁を善く生かそうとせぬ者は賢き者とはいえぬぞ」
「……は……」
「下がれとは言わぬ。居りたいのならばそこに居るがよい。……勇者セオよ、先程あなたはなにやら、物語のようなものを呟いていたように思えたが?」
「っ……あの、声に出して、ましたか?」
 カッ、とセオは顔を赤らめていた。恥ずかしい。情けないとか申し訳ないとかそういうものとはまた別種の恥ずかしさだ。
「いや、唇が動いていたのでそう思っただけなのだが。恥ずかしながら、気がついたら頭が勝手に唇を読んでしまっておってな。あなたには申し訳ないことをした」
「え、いえっ」
「あなたは、物語がお好きなのか?」
「え……あの………はい………」
 セオは深くうつむきながら答えた。この期に及んですら好きなどと言ってしまう自分が、心底申し訳ない。
「……ふむ。『百花春至為誰開』」
「え……それは」
「この言葉をご存知か?」
「え、あの、一応は。『碧巌録』第五則「雪峰尽大地」にある言葉です、よね。花がただ自らの生命の赴くままに、誰のためでもなく咲くように、『ただ』ひたすらに生きよ、無心に在れ、という……」
「ほう、お若いのによく勉強しておられる。あなたが我ら――賢人会議の構成者たちの説く説法をすべて熟知しているようだという意見は正しかったということか」
「え……え!? いえ、あの、そんな」
 とんでもない、そんなわけはない。ただ本で読んだことがあるだけだ。それに対し自分なりに少し考えて、一応の理論付けをしただけ。
 そう説明しようと慌てるセオに、ウェイビは静かな、だが苛烈な視線を向ける。
「お聞きしたいのだが。ならばなぜ、あなたはほとんどの問いに『わからない』と答えられるのか?」
「………だって、本当に、わからない、ですから」
「我らの理を、言葉をことごとく知りながら?」
「え、でも……俺が、俺なりの理屈で行った理解と、相手の方の理解、っていうのは、同じじゃない、ですよね? 相手の方が、その言葉にどういう想いを込めているのかは、その人の人格を理解しつくさなければ、わからない、ですし」
「……ほう」
「それに、道っていうのは、頭で理屈を理解するものじゃなくて、生きている中で体得するもの、ですよね? そういうことを、俺、少しもちゃんと、できてない、ですし」
「なるほど……確かに道理だ」
 ウェイビはゆるやかな仕草で肩をすくめ、それからすい、と視線を窓の外へと向ける。なにを見ているのか気になってウェイビと見比べるようにしてセオもそちらへ目をやると、強い風が吹いているのだろう、唸るような音を立てながら中庭の枝垂槐の枝が大きくしなっているのが見えた。
「――『庭前柏樹子』」
「え……」
「勇者セオよ、貴君に問いたい。あなたはなぜ強行突入までして神殿最奥部に入ろうとしたのだ?」
「………―――」
「あなたのような賢明な人間ならば、そのようなことを行えば捕らえられ罰を受けることなどわかりきっていただろうに。今のあなたのように」
 すい、とまた視線がこちらへと向けられる。胸に手を寄せた拍子に、手首に嵌められた鉄枷と鎖がきしり、かしゃりと音を立てた。
 そう、三日前、自分たちは捕らえられた。賢人会議を構成する賢者たちに直訴すべく神殿最奥へと突撃し、三応寮の兵たちに打ち勝てず。こちらから武器を抜いてはいないこと、攻撃した際に防御に徹したことなどから、罪といっても騒乱罪程度として裁かれることなく終わったが、この三日間自分たちは修行を受けるという名目で虜囚生活を行っている(実際、修行も行っているが。セオは師家と一対一で相対し説法や問答などを主に行っているが、ラグとフォルデはひたすら座禅を組まされているらしい)。
 自分のせいでまたラグやフォルデに迷惑をかけてしまった。そう思うと本当にたまらなく申し訳なくなる。自分など消滅してしまえばいいと心から思う。けれど。
「……しないよりは、しておいた方がいい、と思ったので」
「ほう」
「賢人会議の方々がなにを考えていらっしゃるかは、俺にはわかりません。でも、ダーマを治めるほどの智者である方々なら、俺の行動に、それなりの重みを感じてくださると、思ったので」
「重み、とは」
「俺が、ラグさんやロンさんやフォルデさんのために、全力でできることをする気持ちでいる、ということです」
「…………」
 ウェイビの目つきが険しくなり、ゆっくりと、だが苛烈な迫力をもって声を発する。
「それはつまり、仲間たちの安全のためならば、手段は選ばない、ということかな?」
 セオは思ってもみなかった言葉に、目をぱちぱちと瞬かせた。
「どうして、ですか?」
「……どうして、とは。仲間たちのために全力でできることをする、とあなたは」
「もちろんできることは全力でします、けど。なんで手段を選ばないってことになるのか、わからなくて」
「つまり……あなたは、手段を選んだ結果、強行突入を行った、というのかな?」
「はい。賢人会議の方々に、対等な話し合いの席に着こうという気を起こしていただいて、かつ誰も傷つけない、という方法は、それしか思いつかなかった、ので」
「命懸けの示威行動か……確かに一策ではあるが」
 ふ、と小さく息を吐き、ウェイビはじっとセオを見つめる。
「あなたは、よほど仲間たちを大切にしているとみえる。自らがダーマ神殿の不興を買うのを覚悟で賢人会議の人間を引きずり出そうとは」
「……大切になんて、できていないです」
 セオはうつむいた。そう、大切になどできていない。自分はあの人たちに、ただ自分の感情を押し付けることしかできていない。
 あの人たちが望んだわけでもないのに勝手にあの人たちを守ろうとして。あの人たちになにもあげられていないのに欲しいという感情ばっかり膨れ上がって。
 そして結局本当に、あの人たちの邪魔になることしか、できていない。
「悪いことしか、できていないです……」
「……『薫風自南来、殿閣生微涼』」
「え?」
 セオは思わずきょとんとした。それは確か、七百年ほど前のダーマの詩人が詠んだ詩だ。夏にふいに南から吹いてきた薫風から生まれる涼味のすがすがしさを詠った詩。確かそれを読んだダーマの賢者がそれをきっかけに悟りを開いたという逸話があったはず。その意は確か。
「一切の世俗のこだわり、垢の抜けきった無心の境涯のすがすがしさ、を詠っているんですよね……?」
「あなたは無駄なことにこだわりすぎている、と言っているのだ」
「え」
「ガルナの試しを受けて、あなたは自らに足らぬと感じているものがわかったはず。ならばそれを自らの心のあるがままに、こだわりなく行えばよい。こうせねばならぬ、ああであるべき、などと無駄な理由をつけず、『ただ』行うのだ」
「え……で、でも、それじゃ」
「『年年歳歳花相似、歳歳年年人不同』――」
「え……あの」
「人は、死ぬのだ。どんな人間であろうと人である限り必ず死ぬ。悩むのも苦しむのも、それがあなたに必要であるならば甘受するのもよかろう。が、こだわっている間にも時は流れる。そして、時が流れれば人は死ぬのだ」
「…………――――」
 セオは思わずぽかん、と口を開けてその言葉を聞いた。
 時が流れれば、人は死ぬ。
 ごく当たり前のことだ。当然知っていたことだ。が、ほとんど意識してはいなかったそんな言葉を、突然ぽんと目の前に突き出されて、セオは一瞬、呆然とした。
 厳しい瞳でこちらを見ていたウェイビは、静かにうなずいて踵を返した。
「残る修行の時間、励むがよい。あなたの仲間たちも、あなたと会うのを楽しみにしていることであろう」
 す、す、とほとんど足音を立てず歩いていくウェイビを、セオは見つめた。ぽかんとした、呆然とした表情で。ウェイビの言葉は、そのくらいの衝撃を確かにセオに残したのだ。

 風呂で垢と汗を流し、ひげを剃り、髪を整え。鏡の中の自分によし、と合格点を出してからロンはふぅ、と息をついた。
 三日間の旦過詰を終え、湯殿に案内され。これからロンは、儀式用の法衣に着替えて転職の儀式を行う。
 別に旦過詰が苦だったというわけでもないが、それでもようやく終わったという気はした。セオたちがどうしているか気にもなるし、さくっと賢者になって旅を再開したいところだ。
 にしても、法衣を持ってくるはずの神官はいつ来るのだろうか。一応襦袢は着けているが、冬にこれ一枚というのはさすがに寒い。風呂に入る前に着ていた服に袖を通すのも気持ちのいいものではないし、どうするか、と考えていると、がらりと脱衣所(二間になっていて、片方で儀式の着替えを行うのでそれなりに広い)の戸が開いた。
 やっと来たか、とそちらを向いて、思わず固まる。そこに法衣を持って立っていたのは、シンフォンインミン――自分に好意を寄せている、ウェイビの孫だったのだ。
「……なぜ、お前がここに」
「殿司寮の師家の首より命を受けました。あなたの転職の儀式のお世話をさせていただきます。よろしくお願いいたします」
 深々と頭を下げられ顔をしかめる。殿司寮。神殿内の神事法式を取り仕切る役寮だ。確かに賢者への転職の儀式の世話も勤めのうちだが、こいつがまさか殿司寮の人間だったとは。ロンは顔をしかめたまま、無愛想に言い放った。
「下着姿の男の前に無作法に姿を現すとは、慎みのない女だな。殿司寮はそんな女に儀式の世話役を任せられるほど人材に困ってるのか」
「私が願い出て、受理されました。道を志すものに男女の隔てはありません。羞恥の心もまた煩悩のひとつ、乗り越えんと励むべきものであり遠ざけるものにあらず。そう申し上げたところ、師家も納得してくださいました」
「…………」
 確かに、正論ではあるのだが。
「では、こちらへ、ロンさま。法衣を身に着けるのをお手伝いいたします」
 は、と小さく息を吐いて、ロンは渋々インミンの立つ方の間へと向かった。インミンは持ってきた竹籠を床に置き、てきぱきと法衣を広げていく。
 その様子は堂に入っていて、何度も繰り返した作業であることが知れた。殿司寮の首もインミンがきちんと経験を積んでいるからこそ断れなかったのだろう、が。ロンはまた小さく息を吐いた。
「おい、インミン」
「……はい。なんでしょう、ロンさま」
「こっちを見もできんほど恥ずかしいなら最初からこんなことを考えるな。ばかか、お前は」
「…………」
 インミンは一瞬手を止めたが、すぐにまた動かし始める。だがその耳はさっきと同じく真っ赤だった。
 はぁ、とまたも小さく息を吐く。実際ため息でもつかなければやっていられない気分だった。生まれた時からダーマの名家のご息女として清く正しく育てられてきた娘なのだから、男の下着姿など目の前にすれば恥ずかしくて恥ずかしくてしょうがないだろう、と頭では理解できるのだが。
 なんというか、インミンのこういうところがロンは一番苦手だった。心の底から清く正しい少女。大切に育てられてはいるがそれにあぐらをかかず真面目に賢者を目指す神官で、同じ年頃の男となどほとんど口も聞いたことがないだろう世間知らずで、一途に自分を想う女の子≠ネところが。
女≠ネらばロンとしてもいくらでも対処のしようがある。すげなくするにせよ懐柔するにせよ。大人なら必ず恋心の向こうに下心が透ける、求めるものが自分の体にしろそれ以外の部分にしろ、こちらを手に入れようとする穢い欲が見える。だから手加減をする気などはなからなくなる。
 だがインミンは少女なのだ。それも清く正しい。初めて会った時から今もずっと。インミンの心には損も得もない、あるのはただひたすらな感情だけ、想いだけだ。
 そんな相手を、自分のとうになくした純真≠ニいう美徳を持つ少女を、手加減せず傷つけることはロンにもできない、いやできなくはないだろうがしたくない。彼女を傷つけると、ロンの中のかつて純真だった部分が一緒に傷つく。
 しかもこいつがもう娘と呼んでいい年頃になってきてるというのがまた憂鬱なんだよな、とロンは心の中で弱音を吐いた。時間は流れる。自分の上にもインミンの上にも。インミンもいつまでも少女のままではいられない、自分を想う気持ちにもいつかは欲が混じることになるだろう。それは間違ったことでもなんでもなくむしろまっとうに成長したというべきことではあるのだが。
 はぁ、とついまたため息をついてしまった。子供の頃から彼女の想いを受け止めている身としては、きれいなものが穢れてしまうような複雑な想いを禁じえない。
 それにそうなるとどうしたってこっちも本気でこの少女を追い払わねばならなくなる、自分は女は無理なのだから。それはやはり気が進まない。もちろんこの少女が自分のことを忘れて順当に他の人間とくっついてくれる可能性も高いわけなのだが――
「このまま、転職の儀式を受けて、よろしいのですか」
 考えに沈んでいたところに唐突に話しかけられて、ロンは一瞬目を瞠った。ちょうどインミンが直綴の上に袈裟をかけてきたところだ。背後からかけてきているので、視線は合っていない。
「……よろしいとは、なにがだ」
「あなたは、あなた自身の今の在り様を心より愛しておられると思っておりました」
「だからなんだ。まどろっこしい、さっさと結論を言え」
「……このまま武闘家から賢者に転職して、本当によろしいのですか」
「…………」
 ロンは、またも目を瞠った。
「もしかして、お前はそれを聞きたいがためにこの役目に志願したのか?」
「………、はい」
 消え入りそうな、かすかな声でインミンはそう答えた。インミンの手が、体が震える気配を感じる。自分と相対する恐怖に身を震わせながら、上司の不興を買う恐れを乗り越えて、こちらの顔もまともに見れないほどの羞恥に耐えて、ただ、そのために。
 はーっ、とロンは今度は深々と息を吐いた。だから、本当にインミンは苦手だ。
「……ロン、さま」
「いや……」
 しばらく頭をかき回してから、ロンは言った。こいつにここまでさせたのだから、こちらとしてもきちんと答えないわけにはいかないだろう。
「俺は別に武闘家という道を捨てたつもりはない」
「……ですが」
「まぁ賢者にはなるがな。お前のような奴にはわかりにくいことかもしれんが、人生というのはひとつの道しか選べんというものでもないだろう?」
「と、いうと」
「別に俺は周りに流されて賢者になるというわけでもないということだ。賢者という職業も面白そうだと俺は思っているし、本気で打ち込む価値のある道だということもよく知っている、ダーマで修行したんだからな。ま、魔王征伐という難事業に、一人は呪文の専門家がいないと苦しかろうと思ったのも確かだが」
「…………」
「繰り返しになるが、武闘家という道を捨てたつもりはない。賢者という職業を中途半端でやめるつもりもないがな。すべての道は完全に分かたれたものではない。ありとあらゆるものはそれぞれまったく異なるものでありながら、ある意味すべて同じ――」
「……『春色無高下、花枝自短長』……」
「そう、それだ。ま、そんなことをぐだぐだ言わんでも、早い話が俺は武闘家という職も気に入っているが賢者という職もなかなかよさそうだと思った、それだけのことさ。だから賢者になるのが当然のように扱う奴らにも逆らわなかった、無駄だし面倒だからな。……まぁ、そう簡単に決断できたのはセオの力でさくさくレベル上げができるから、嫌になったらまた武闘家になってレベル上げりゃいいやと思えたからなのも確かだが」
「…………」
 一瞬息を呑むような音がして、ひくっとインミンの喉が震える。そこにすかさずロンは次の言葉を押し込んだ。
「なんだ、笑ったりしていいのか、ダーマの神官さまが? いくら本音でも、本当は自分たちもこんなに頑張って修行しなくても勇者みたいに魔物倒すだけでさくさくレベル上げできたらなーと思っていても、それを言っちゃあまずいだろうダーマの神官さまが。俺は言うが」
 ぷふーっ、とインミンは吹き出した。顔を法衣から逸らしてくすくすと笑う。その笑い声は娘らしく、柔らかく可愛らしい。そういえば自分は昔からインミンの笑い声は嫌いではなかったな、と思っていると、ふいに聞いてみたくなった。
「インミン。お前はなぜ俺が好きなんだ? そういえば聞いてみたことがなかったな」
「…………」
 不意を衝かれたようにインミンは沈黙したが、しばしの間ののちどこか柔らかいというか、むにゅむにゅもちもちしたというか、客観的に描写すれば娘らしい恥じらいを感じさせる声で言葉を紡いだ。
「ロンさまが、私になにかを訊ねられるのは、初めてですね」
「そうか?」
「そうです。少なくとも、私になにか興味を持って訊ねてくださったのは」
「……そうか?」
 そう、かもしれない。インミンが子供の頃は子供の相手をしてやっているという気分がやはりどこかにあったし、インミンがある程度年を取ってからはとにかく遠ざけることしか考えてこなかったから。
「……最初のきっかけは、単純でした。誘拐された私を助けてくださったのが、あなただったから。あの時のあなたはとても凛々しく、勇壮に見えたし、私に優しくしてくださったし。そのあといつ会いに行っても、ちゃんと私の相手をしてくださったし……それに、私を子供扱いしない、というか、子供扱いされているという気分にさせないで子ども扱いをしてくださったでしょう? それが私はとても心地よかったんです」
「ふむ」
 まぁ、確かに命の恩人を見る目に色眼鏡がかかるのは人情として当たり前のことだし、自分の子供受けがいい方なのも確かだが。
「それだけというのでもなさそうだな。四歳の子供が何年も覚えていられるところからすると」
「……ええ。当たり前ですけれど、それからも私は何人もの人間に会いました。大人も、子供も、老人も。……でも、そうして新しい人と会うたびに、私はあなたを強く思い出したんです」
「ほう。なぜ?」
「物足りなかったから」
「……は?」
「あなたという人間と比べて、どの人も物足りなかったから。だからあなたを思い出さずにはいられなかったんですよ」
 ロンは、小さく目を見開いた。
「あなたと比べると、どの人も私にはあまりにつまらない人間に見えました。私の会う人間はみなダーマ神官やその高弟や、彼らの孫子ばかり。もちろん品行方正な人ばかりではありませんでしたけれど、そういう人の外れ方もみんなひどく、型にはまっていて。あなたみたいに、『違う』人間はいなかったんです」
「…………」
「あなたとまた会って。手ひどく拒絶されるようになってからも、その想いは変わりませんでした。あなたと比べれば、他の男性はみんな男性として物足りなく見えた。だから、想いを強めずにいられなかった。会いたいと願い、無事を祈らずにはいられなかった。嫌われていることがわかっていても……私があなたにとって邪魔な存在だとわかっていても、そばに寄らずにはいられなかった」
「…………」
「それだけです。本当に、ただそれだけなんですよ」
 衣を整えられつつ告げられ、ロンは内心深々と息をついていた。まずい。それは本当にまずい。元からまずかったがますますもってまずい。
 つまりはインミンは、自らの女≠フ命ずるままに自分を追いかけているということになる。まっとうで、否定できない感情だからこそますますまずい。
 自分は、その感情を絶対に受け容れられないのだから。
「……何度も言ったが。お前の気持ちは受け容れられんぞ。俺が」
「知っています。あなたが、男の方が好きでいらっしゃるのは。でも、私はあなたが好きなんです。私はその感情を否定したくない。自分の心を無理に捻じ曲げる必要はないって、あなたが教えてくださったんですよ? だから、この気持ちが消えるまで――その間、あなたを私は好きでいたいんです。ずっと、ずっと」
 するり、とロンの前にたち、にこり、と笑顔でインミンは告げる。
「お支度が終わりました。参りましょう、ロンさま」
 笑顔のくせに目の端がふるふる震えている。頬の端がひくついている。耳と目尻と瞳が赤い。そういう風にいちいち、少女≠ネのだから、ひたすらに自分を想う恋する少女なのだから本当に始末に困る。自分を想う感情は、根っこから女≠フくせに。
 だがロンはふ、と小さく息を吐いてから、顔を上げ、気合を込めた顔でうなずいた。
「――ああ」
 ならば自分は戦おう。この少女と。周囲の世界と同様に。他の誰でもない、自分の心がそう求めるから。自分がそう在りたいと、心底求め続けてきたから。
 たとえ自分が、この少女のことを、知っている女でただ一人『可愛い』と思っていても。

 儀式を行う分室の中は、思ったより人が多かった。大きさはざっと三丈四方というところだが、その中にぎっしり人が詰まっている。
 まず正面上座にウェイビ。それから左右にいかにも地位のある賢者という感じの顔が四人ずつ続き(自分のいた頃とは顔ぶれが変わっているが賢人会議の面々だろう)、そのあとにセオたちが並んでいる。そこから少し間を空けて、おそらくは見学者なのだろう、まだ若い賢者やら神官やらがぎっしりと群れていた。ちなみに全員立ちん坊だ(石造りの床なので)。
 勇者が気になるのか勇者の仲間が賢者になるのが気になるのか。どちらにしても暇な奴らだなやれやれ、と思いつつもロンは悠々と先導するインミンに続いて部屋の中央を歩く。ざわざわと若いのが群れている辺りがざわめいたが、軽く無視する。ひがみをいちいち聞くほど自分は暇ではない。セオたちに軽く笑顔を投げかけると、ラグは苦笑でフォルデはしかめっ面でセオは泣きそうな顔でうなずいた。
 重厚感のある儀式用の法衣を身にまとったウェイビは、じっと静かな目でこちらを見ている。ロンは粛々とその前まで歩き、すっと立て膝を立ててひざまずいた。
 りーん、と鈴が鳴らされる。部屋の中が一気にしん、と静まり返った。部屋中の視線が自分たちに集中するのを感じる。それこそ針の落ちる音が聞こえそうな静寂の中、ウェイビが重々しく口を開いた。
「汝、道を求むる者、ジンロンよ。なれはいかなるを求め道を究めんと欲するか」
「我、なにをも求めず。ただ我が在るがゆえに道を進むなり」
 ロンも落ち着いた声で答える。この問答は賢者になる際の常套句だ、自分なりに変え整えはするが基本を覚えていればお互いさして考える必要もない。
「その道はいずこへ向かう?」
「自らが在る処へ」
「その歩みが止まるはいかなる時ぞ?」
「我が道は我が在る処に在り」
 す、とウェイビが一歩を踏み出す。傍らの背の高い台から紅い宝玉が填まった金属の冠を手に取った。いよいよか、とロンは興味深くその冠を見つめる。あれが賢者のみが額に戴くことを許される紅の額冠だ。
「我、ダーマ大神官シンフォンウェイビは、汝、道を求むる者ジンロンを賢者として言祝ぐなり。頭をこちらへ」
 言われた通りにロンはすい、と頭をウェイビの前へと傾けた。ウェイビが何事か小さく呪文を唱え、冠を額に載せる――
 とたん、ずぅんっ、と強烈な重さが体中にのしかかった。
『C:\Satori-System>xcopy master01.exe Jinron Jinron は受け側のファイル名ですか、またはディレクトリ名ですか(F= ファイル、D= ディレクトリ)? D load……master01\system01.exe load……master01\access01.exe load……master01\network01.exe load……load……load……load……load……load……』
「…………っ!」
 なんだ。なんだこれは!?
 頭の中に凄まじい勢いで押し寄せてくる文章、情報、知識。システムデータインターフェースネットワークソフトウェアファイルドキュメントオブジェクトルーチンプログラムライブラリ……
 わけのわからない言葉、理解できない概念。だがロンの頭はそれを勝手に理解≠オていた。情報を分類し、注釈をつけ、次から次へと押し寄せてくる大量の情報をさばき脳に整理して格納していく。
 情報が体にのしかかる。物理的な重ささえ感じる情報、情報、情報。体が重い。思うように動かない。これは、なんだ、これは――
「賢者の名の重みに耐えるがごとく、その額冠の重みに耐えるがよい」
 静かに囁いてウェイビが踵を返しても、ロンは動くことができなかった。

「ったく、あのジジイども、儀式が終わったらとっとと神殿追い出しやがって。だったらはなっから座禅だなんだって間抜けなことさせんなってんだよ、なーにが『これからも励むがよい』だクソッタレ」
「お前な、そりゃしょうがないだろう、俺らが勝手に神殿の奥に押し入ったのは確かなんだし、無罪放免ってわけにもいかないだろうし」
「んなこたぁわかってんだよっ。けどな、罰なら罰だってはっきり言いやがれって思わねーのかよ。修行だなんだって言い訳すんなってーんだよ、あのクソボケジジイどもが」
「……まぁ、そう言ってやるな。あの爺さんたちは爺さんたちで、自分たちの理屈が正しいと思って、やってるんだ」
『…………』
 普段より明らかに沈んだロンの声に、セオたちは顔を見合わせた。賢者への転職の儀式を終え、自分たちは大神官たちへの挨拶もそこそこに神殿から外に出された。とりあえず今後のことを相談するためにも知っている宿に行こう、ということになり、夜のほとんど人のいないダーマを歩いているのだが。
 ロンの様子が、少し普段と違う。なにかにひどく疲れているような顔と声。いつも平然とした顔でどんな苦境もすり抜けていってしまうロンのこんな顔を見るのは、少なくともセオは初めてだった。
「……おい、ロン。お前、どーしたんだよ」
「なにがだ……」
「なにがだじゃねぇよ。なんか、お前変じゃねぇかよ。なんか、なんつーか……」
「賢者への転職の儀式の途中からだよな。なにかあったのか、儀式の最中に?」
「いや、儀式でなにかあったわけじゃないんだろうが……」
 ロンはひどく億劫そうに口を開き、すぐに首を振って閉じた。
「すまん、正直今の俺では説明できそうにない。ただ、まぁ……賢者になるための修行をしたわけでもないのにいきなり賢者になった弊害ってやつなんだろうと思う。悪いが、しばらく調整をさせてくれ」
「調整? って」
「体と頭のな。いうなれば今の俺は新しく赤ん坊になって生まれ変わったようなものだ、心身の動かし方を学ぶ時間がほしい」
 そんな言葉を、本当にひどくくたびれた表情で言うロン。そんな姿を見るのは、本当に初めてだ。思わず拳を握り締めながらセオはロンとラグやフォルデたちを見比べる。
 しばし視線を交わしたのち、代表するように一歩ロンに近寄りラグが言った。
「時間があれば、きちんと動かせるようになるのか?」
「たぶん……いや、なるようにしてみせる」
「転職の時になにか問題があったわけじゃないんだな?」
「それは間違いない。ただ慣れない思考概念を導入したせいで切り換えが……ああどうなのかな、単に情報を処理しきれなくなっただけか? まぁどちらにせよ……三日くれればきっちり冒険者として動けるようになっておくさ」
『…………』
 お互いそれぞれの感情を込めて視線を交し合い、フォルデが口を開く。
「ただ、慣れないだけなんだな? 妙なことになってるわけじゃねーんだな?」
「ああ」
 ラグも気遣わしげに眉を寄せつつ言う。
「大神官さまとかに相談した方がいいんじゃないか?」
「いや……本気で弟子入りしてる師匠とかならともかく、賢者ってのは基本的に自分の面倒は自分で見るのが当然だからな。みんな修行者なんだから、施しを与えないのが慈悲ってことになってるんだ。それにウェイビ殿も暇ってわけじゃない、一人の賢者にそう時間を割いてもらうのも気が引ける」
 セオも、自分などがこんなことを口にしていいのかと思いつつも、おそるおそる訊ねた。
「ロン、さん。あの、大丈夫、ですか……?」
「……ああ。大丈夫」
 そう言ってから、ロンはにやり、とひどく面白そうに笑った。
「いや、たまには具合が悪くなってみるものだな。みんなの俺に対する愛を心の底から感じるぞ」
「な……てっめぇまた気色悪いこと」
「お前な、ロン、人がせっかく」
「すまんな、みんな。心配をかけて」
 にこり。そう優しく、柔らかく、あえて言うならば愛しげに笑うロンに、セオは一瞬頭が真っ白になった。
 カッと顔を赤くしたフォルデがぎっとロンを睨んで言う。
「べっ、つに心配なんてしてねーっつの! ただなぁ、てめーが武闘家からあっさり賢者に乗り換えてそんでそっちもまともにやれねーなんてことになったら、なんつーか……ムカつくから言ってるだけだ!」
「うんうん、俺が意に染まない転職をしたんじゃないかと心配してくれたんだな。ありがとうフォルデ、俺もお前を愛しているぞ」
「あっ……アホかてめーはーっ!! そーいうこと言ってんじゃねーんだよっ!」
「ロン、お前な、そういう風に人を」
「わかっている。……嬉しくて、茶化しでもしないと照れくさすぎてな。ありがとう、すまんなラグ。俺のために、わざわざ心配をしてくれて」
「な……だからな、そういうことは、普通わざわざ言うことじゃ」
「お、珍しいなラグ。顔が少し赤くなったぞ。やはりお前も俺を心の底ではちゃんと愛してくれていたんだな」
「だ、だからなぁっ!!」
 セオは必死に考えていた。のぼせてしまいそうなほど熱い頭を必死に回転させて、ぐるぐると。
 話をしなさいとサトリは言った。自分にそんな資格がないことはわかっている。なにもできずにただ迷惑だけをかけ続ける自分。自分は在るべきじゃないのに。許されない。傷つけてしまうのに。怖い。怖い。もしもっと迷惑をかけてしまったら? 嫌われたら、そばにいてはいけないと言われたら? 怖い。
 怖い、許されない、そんな資格はない、迷惑ばかり、だけど。
 時が流れれば、人は死ぬ。
 ――頭をぐるぐるさせながら、脳味噌をぐらぐら煮立たせながら、心臓をばくばく言わせながら、セオはきっと顔を上げた。なにかしなければ。早くなにかしなければ、言葉を返さなければ、本当になにも応えられないまま終わってしまう。
「あ、のっ!」
 ひっくり返った声で叫ぶと、楽しげに喋っていたロンたちが話を止めてこちらを向いた。ああ邪魔をしてしまった、と申し訳なさに泣きたくなるが、一度止めてしまったのだ、ならばせめて少しでもそれだけの価値のあることをしなければ本当に、ただ迷惑なだけで自分は終わる。
「あ、のっ」
 すーはーすーはー、と数度深呼吸。ロンもラグもフォルデも、それぞれ表情は違え黙って自分の言葉を待ってくれていた。申し訳ない、と心の底から思うけれど、心の底が歓喜に沸き立つ。だから、せめて、だからせめて。
「俺っ、好き、ですっ!」
『……は?』
「俺っ、みなさんのことがっ、大好きですっ! 世界でっ、いちばんっ!」
『………………』
 数秒の沈黙のあと、フォルデの「アホか――――っ!!!!」という怒鳴り声がダーマの夜空に響いた。

「……どういうことだい、それは」
 震える声で問うオクタビアに、サヴァンは笑顔で言った。
「ん? だから、言ったままだよ。僕はこれからのち君とは別行動を取らせてもらう」
「曲がりなりにも聖者さまが、契約を破る気かい。あんたは、俸給の代わりにあたしの指示がある時は必ずそれに従って呪文を使うって、あたしと契約を」
「うん、でもそれって契約を解除する際のことにはなにも触れられていない契約だよね? なら僕がもう嫌だ、と言ってそれで終わり、という形になっても間違った終わり方じゃないってことになる」
「っ、だが」
「期間も無期限、報酬も不定。あくまで僕たち二人の間の信頼と好意に拠る契約だよね? そもそもきちんとした拘束力があるとは、君も思ってなかったでしょ?」
「………っ」
「これまでありがとう、オクタビアさん。君の街創りがうまくいくよう祈っているよ」
 にっこり笑って頭を下げて、くるりとオクタビアに背中を向ける。と、怨ずるようにオクタビアが言った。
「くたばっちまえ、似非聖者。最後まで勝手抜かしやがって」
 それこそ呪うような声だったが、サヴァンは軽く苦笑するだけですませた。自分が聖者なんてものではないのは自分が一番よく知っているし、オクタビアのことをずいぶんこちらの勝手で利用させてもらったこともわかっている。
 だが、少なくともそれで死ぬ人間は減った。
 だから自分としてはまぁいいかと思っている。勝手を言って、無理を通して、周囲に迷惑をかけても自分が生きていたいと思う目的を果たせたのだから、少しばかりの罪悪感と引き換えにしては割りのいい取引だ。
 オクタビアの部屋(場所は知客寮の外れだ)を出て、自分に割り当てられた部屋へと向かう。ダーマに来るのは久しぶりだったが、何度来てもここは心に少しばかりの引け目と哀しさを呼び起こす。
 修行を積み、道を修めるという立派な目的を持つ人々と、ただ命を救いたい自分。そもそもの立っている場所が違うのだとわかってはいるが、互いに世界が正しく運営されることを願っているのに通じ合えない寂しさやら、自らの道だけを見つめ潔く生きる人間に対する劣等感やら、現実の今生きている人々を見ていない賢者たちへの憤りやら優越感やら、その他もろもろの馬鹿馬鹿しい感情を覚え、結局最後には引け目と生きる哀しさなどというしょうもない気持ちを持つに至る。
 まったく、何年生きようが悟りを得ようがしょせん人は人だよなぁ、と苦笑しつつゆっくりと歩き――
 背筋が、凍った。
 死。死。死死死死死死死死死死死死死。ただ圧倒的な、存在するだけで与えられる確実な死≠フ感触。人とは桁の違う存在だと在るだけで伝えてくる、この気配は。
 かつ、かつかつ、と石の床を踏み鳴らしながらまっすぐこちらに近づいてくる、背の高く美しい金髪の女性に、サヴァンは微笑みかけた。そうすることしか自分には許されなかったので。
「お久しぶりです、サドンデスさん」
「ふん」
神竜<Tドンデスは、鼻を鳴らしただけで自分の挨拶を吹き飛ばした。ちろり、と周囲に注意を飛ばしてからこちらを向き、告げる。
「お前に聞きたいことがある」
「なんでしょう?」
「カンダタの天使の羽はどこへ行った」
「――――」
 一瞬、呼吸が止まった。
「あいつは天使の力で体を修復させられていた。天使の使う木偶人形を部下として使っていた。が、俺があいつを捕まえた時あいつは天使の羽を持っていなかった」
「そう、なのですか」
「お前、行先を知ってるな?」
「――――」
 数度、深呼吸をする。嘘をつくなど考えられない。ごまかしなど無駄だ、気配を感じさせただけで首が飛ぶ。自分たちに許されているのは、彼女の意思にただ従うことだけだ。
「はい」
「……ふん」
 に、とかすかに口の端が上がった――と思った次の瞬間、サドンデスの指はサヴァンの胸を貫いていた。ミスリルよりも硬い指があっさりと自分の肉を裂き、心臓に触れる。ごぷっ、と口から血が漏れた。
「どこにある。言え」
「僕は、持って、いません……」
「なら誰のところだ。言え」
 サドンデスの指がわずかに心臓を押す。呼吸が激しくなり痛みが走る。ざぁっと体中の血液が氷のように冷えた。一言でも間違えれば、わずかでも彼女の機嫌を損ねれば、自分は、死ぬ。
 必死に心を落ち着かせ、言葉を紡ぐ。事実を、単純に、淡々と。
「ガルナ、へ……戻り、ました」
「ガルナだと? あそこには一番厳重に網を張ってたんだぞ」
「僕は、セオ、くんをガルナへ、運び、ました……勇者を受け容れようと、ガルナの場は、乱れる。あなたの、力に比べれば、かすかなもの、ですが……その際に、三重の、次元擬装幕を張り、異端審問官が、直接……」
「ふん……勇者の因果を乱す力に賭けたか。見つけられた時は運んだ奴は捨石になって爆散、ってか? そこまでして俺に羽を渡したくないってわけだな。少なくとも今回はそうまでさせるほど迫れたってことだろうが……」
 ぐう、とサドンデスの掌が自分の心臓を掴んだ。血管を、筋肉を分け入って。命を握り締めながら、静かに、液体窒素よりもまだ冷たい声で告げる。
「セオをガルナへ運べって命令を受けた理由を聞かせてもらおうか、サヴァン」
 心臓が激しく脈打つ。破裂しそうなほど体が痛む。だが、自分に彼女の問いに答えないなどという選択肢は存在しない。ゆっくりと、全身の力を込めて言葉を紡ぐ。
「命令は、受けました。ですが、ガルナに連れて行ったのは、僕の、意思です」
「ふん……理由は」
「賢者の力は、魔王征伐に、必要です……それに、なにより。彼らには、世界と戦う力がある……と、思い、ました。神の定めに逆らうことが、できるかもしれない、と……」
「……ほう」
「ガルナの試しは、よりよく生きようと願いながら、道を知らないものに、助けを、与えてくれる。彼らは、迷い、苦しんでいました……彼らが、まっすぐ立ち、真正面から世界を見据えて生きる、きっかけに、なるかも、しれない、と……」
「ふん」
 ずぶっ、と音を立てながらサドンデスはサヴァンの胸から手を引き抜いた。血が噴き出すが、致死量ではない、というより軽い怪我程度の血しか出ない。
「悪くない答えだ。お前がそう言うなら、そういうことにするさ。天使の羽は、別口で探す」
 そう言うやくるりとこちらに背を向けて、サドンデスはやってきた時同様、かつかつと石の床を踏み鳴らして去っていく。足音が消え、気配も消え、魔力の痕跡すら消えてから、サヴァンははぁっ、と深々と息をつきその場にへたへたとへたり込んだ。
「はぁ〜……死ぬかと思った」
 実際かなり危なかった。嘘をつかず、ごまかしもせず、かつサドンデスの機嫌を損ねないように受け答えするというのは、これが初めてではないにしろやはりそれなりに大変なことなのだ。一応考えていた通りの結果にはなったが、それでも死線というのはそう何度もくぐりたいものではない。
 ベホマを唱えて傷を癒しつつ、心の中で小さく呟く。口に出せばサドンデスに聞きつけられそうで怖かった。
(ヴィスさまも厄介な命令出してくれるなぁ……今度はセオくんたちの旅に同行せよ、か。まぁ、僕の目的にもかなってるし……面白そうだから、いいけどね)
 傷を癒し、体力を回復させて立ち上がる。サドンデスの去っていった方を見つめ、ついつい小さく呟いてしまった。
「あの人も、せっかく会えたんだから、少しくらいお喋りしていってくれてもいいのになぁ……」
 そう、少なくとも、かつて仲間だった頃には、時々はお喋りに乗ってきてくれたんだから。
 まぁ昔の話だけど、とふ、と息を吐いて肩をすくめ、サヴァンは部屋へと戻る道をまた歩き出した。

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