アープの塔〜世界樹の森――1
 ひたすらにひたすらに、どこまでもどこまでも、ただ蒼く冷たく広がる海。見渡す限り、一面の蒼。陸地どころか鳥の影すら見当たらない。ただひたすらに広がる、蒼。
 交代の時間が近づいてきたので稽古を終え、食堂へと向かうセオの足を、その風景が止めた。本当に、こんな世界が存在するのだ。ひとつの色以外なにもないという光景が。
 むしろこの世界の中では、人こそが異物。自分たちの方が異形。どこまでも広がる面の世界の中、ぽつんと漂う一点の染み。そんな事実が、この海を見ているとずんと胸に迫ってくる。
 自分たちの小ささ、はかなさ、無力さ。吹きつける冷たい風と水。この船から落ちれば自分たちなどあっという間に命を失ってしまうちっぽけな存在――
 という埒もない思考を空に舞う影を認識した瞬間瞬時に終了させ、セオは駆けた。海から飛び上がり船に這い上がってくるマーマンの首を一撃で斬り落とし、返す刀で甲板の上に飛び上がってきたマリンスライムを殻ごと打ち割り、よじ登ってくるしびれくらげを一刀両断する。剣の柄を握り締めぎりっと歯を食いしばりながら。
 籠手と一体化しているゾンビキラーの取り回しにももう慣れた、それこそ自分の腕とさして変わらない感覚で振り回せる。船室から、あるいは見張り台からラグたちが駆け出して、他の場所からよじ登ってくる敵に対処するのを意識の端で感じつつセオは次々と魔物たちを斬って捨てた。
 ざっ、と水音が立った。目の前のマーマンを斬り捨てつつ確認すると、船の舳先から大量のマリンスライムが登ってくるのが見える。その数二十体以上。どうするか、と次のマーマンの心臓に剣を突き刺しつつ刹那に足りない間わずかに逡巡する――その間に、ロンの声が響いた。
「下がれ!」
 反射となるまで叩き込んだ戦闘行動のおかげで、体が先に反応した。だんっ、と甲板を強く蹴り、後方で鞭を振るっていたロンと舳先の間に視線を通す。
 直後に、詠うように淀みのない呪文が響いた。
「我、以木行成稲妻、焼払!=v
 ごうっ、と熱閃がロンの掌からほとばしる。その光線は速やかに大きく広がってマリンスライムの群れを包み込み、命を奪って塵に変えた。
「…………」
 周囲の気配を探り、とりあえずこれ以上魔物が出てくる気配がない、と確信してから、ふ、と息をつき体の力を抜く。ロンたちの方に向き直り、ぎゅっと奥歯を噛み締めて頭を下げた。
「お疲れさま、です」
「ああ、お疲れさま」
「お疲れ」
「お疲れ。ちょうどキリのいいところで魔物が出てきたな。昼飯ができたところだ、船を停めて中に入って食事にしよう」
「お、メシか! 今日の昼飯なんだ?」
「牡蠣とブロッコリーの豆板醤炒めと、鶏肉と白菜のうま煮と、揚げナスのピリ辛サラダと、海鮮かに玉だ。網に牡蠣と蟹がかかったからな」
「お、うまそうだな。しかし、見渡す限り海の船の上だってのに、残量を気にせず肉や野菜を食えるなんて贅沢ができるとはなぁ……」
 喋りながら船室に入っていくラグたちのあとをぽすぽすと追いつつ、セオは小さく息を吐きながら甲板を振り返った。そこにはもはや、魔物たちの存在の影も形もない。
 それはいつものことではある。だがそれが『いつものこと』であるのに、日常となるほど繰り返されていることに、短剣が突き刺さるような罪悪感を感じ、セオはできるだけ気付かれないように拳を握り締めた。
 それもまた、もはや日常となるほど繰り返されていることではあるのだけれど。

 ダーマを出発してから一月弱。事実上ダーマ神殿が統治する東ユーレリアン大陸と、いまだ強力な統一国家が存在せずスー族の領域とされているガディスカ大陸の間に横たわる、パルトゥル海を魔船は順調に北上していた。
 ダーマ近辺の水源であり重要な交通路であるフォー河を一週間ほどかけて下り、海流と風に乗ってそのまま北東へ向かうこと二十日と少し。もはやガディスカ大陸への距離はあとわずかだ。
 場合によっては魔力推進を使用しているとはいえ、ここまで順調に航海を進められるとは思わなかった。風と海流を読み幾度も素早く乗り換えを繰り返した結果だろう。魔船に付与された航海技術の高さに、感嘆と感謝を覚えずにはいられない。
 このまま進めばガディスカ大陸の西中央、いまだほとんど人の住んでいない辺りに突き当たるだろう。そこに自分たちの、というかサヴァンの第一の目的地、アープの塔があるのだった。
「アープの塔? って」
「確か、スーの方々の崇める、祖霊神ワランカの聖地だったと思う、んですけど……」
「その通り。ワランカとルビスが協力して創り上げたとされる、聖なる塔だね」
 ダーマで目的地のことを話し合う時、そうにこにこ笑顔でサヴァンはうなずいた。
「精霊を友とするワランカと精霊から神となったルビスは神学的に言えば親戚筋に当たる。ワランカはスー以外ではまったくと言っていいほど信仰されてないからルビス側の馴染みは薄いけど、ワランカの神話にはルビスがたびたび登場するんだ」
「だからなんだってんだよ」
「ああごめん、つまりね。アープの塔には山彦の笛という神具が存在するんだ。ルビスの主導で創られた神の霊鳥、ラーミアの封印を解く鍵、オーブを探知する神具がね」
「!」
「君たちはオーブを探しているんでしょう? この広い世界から小さな宝物を探すには、必須の道具だと思うけど」
「オーブ……なぁ」
 フォルデはわずかに顔をしかめる。
「どーなんだよ、それって実際。本気でそんな信憑性あんのか? ラーミアとかいう鳥が俺たち運べるだの魔王の結界破れるだの、ぶっちゃけ怪しすぎんだろ」
「あはは、まぁ僕も見たわけじゃないから伝説の全部が本当だとは断言できないけど、ラーミアが実在するのは確かだよ。卵見たことあるもん」
「え……!」
「レイアムランドの吹雪に守られた神域でね。あれだけでかい卵から鳥が孵ればそりゃー人間の十人や二十人楽勝で運べるだろーねー。神域を守る巫女さんにいろいろ聞いてみたり卵を調べさせてもらったりしたけど、卵がとんでもない霊格と神威を持つのは確かだった。だからまぁ、たぶん本当なんじゃないかな? 魔物の襲撃に備えながらネクロゴンドの岸壁をよじ登るのと比べれば、オーブを探して世界中を回るっていうのは悪くない案だと思うよ。レベル上げも兼ねられるし」
「ふーん……」
 いまひとつ要領を得ない、という顔でフォルデは眉根を寄せたが、それ以上言葉を重ねることはしなかった。その代わりのように、ラグが口を開く。
「しかし、ラーミアのことはいいとしても……そのアープの塔というのはスー族の聖地なんでしょう。スー族が警護してるでしょうし、そんなところから宝物を奪ったらスー族を敵に回しませんか?」
「心配することないよ。警護はいないしスー族を敵に回す可能性も全然ないから」
「へ……なんでだよ」
「ロンくん、なーんでだ?」
「実地授業、ですか……承知」
 からかうような笑顔を向けられたロンは、苦笑してからすっと両の瞳を閉じた。
 静かな表情。だが精神を全力で集中している証拠に、まぶたの裏では眼球が激しく動き口元はなにかを早口でぶつぶつ呟いている。まるでなにかをすさまじい早さで考えているように、さもなければ頭の中の記憶を脳を総動員して探るように。
 ロンは最近、時々こういう表情をする。サヴァンと無言で相対している時はいつもそうだし、自分たちと話している時にもときおりこんな風になる。
 それがいつも知識を必要とする場合であることから、サヴァンとの賢者としての訓練の時に行われた勉強の情報を思い出しているのかもしれない、ともちらりと思ったが、今は賢者としての職業特性――商人が金を得る時に普段より少し多く得たり、盗賊が相手からいつの間にか宝物を盗んでいたりするようなそういった職業の持つ特殊能力に関連しているという可能性の方が高いように思っていた。サヴァンと相対している時の顔と、記憶を思い出しているにしては真剣すぎる表情から。
 もしそうなのだとしたらその能力がどういうものなのかセオはひどく気になったのだが、つい訊ねあぐねてしまっていた。ロンが自分から口にしないということは、もしかしたら賢者という職業上の秘密に当たることかもしれないと思ったのだ。賢者という職業は、その神秘性と偉大性は知られているわりにどういった職業なのか詳しいことはほとんど知られていないので。
 僧侶呪文と魔法使い呪文双方を操ることができる呪文使いの上級職。通常のやり方では就職することができず、悟り≠開いた人間か遊び人かがレベル20までレベルを上げてから転職するしかない。神に選ばれし者≠ニ呼ばれる、神聖なる職業――
 セオが知っているのは(今まで師事した教師の人たちが知っていたのも)その程度。だから本物の賢者が二人もそばにいれば、聞いてみたいことはいろいろあるのだがどうしても二の足を踏んでしまう。
 自分などが聞いても迷惑にならないような気がするのだ。もし賢者の職業機密に自分が踏み入ってしまったら、ロンも、サヴァンもきっと困らせてしまう。二人ともとても優しい人なので、自分などでもむげにはできないと考えてしまうだろうから。
 それに、ロンは、自分のことをたぶん、仲間と思ってくれている……と思う、し。
「――山彦の響きし地はいずこ。山河より精霊が響きを返す。人は、音は、在るべき場所に在り。響きは常に、精霊の懐に抱かれん」
 うわぁなにを偉そうなことを俺なんかがなにを思い上がって、と思わず頭を抱えているところにロンの静かな声が響いた。フォルデが怪訝そうに問い返す。
「……は?」
「スー族の口伝さ。外には知られていない。その数数百とも言われるスー族の各種部族の中で、すべての部族で秘伝とされるいくつかのうちのひとつだからな」
「はぁ……」
「って、だからなんなんだよ」
「要は、アープの塔は確かにスー族の聖地だが、よそ者に穢されるとかそういう考えを持つような場所じゃないってことだ。山彦の笛はよそ者だろうがなんだろうが持つべき者のところに届けられる、人知によってそれを妨げることまかりならん、とまぁスー族としてはそう考えるわけだな」
「……はぁ」
「早い話が探索大歓迎という場所だってことさ。手に入れて活用する者が現れるならスー族としては本望なんだから。ま、塔には訪れたものを選別する機構があるらしいから、ワランカとルビスに許されるような心清き者以外は入れないだろうって目算もあるんだろうがな」
「え? 本当なのかそれ、どういう基準で選別してるんだ」
「さぁ? ま、曲がりなりにも神なんだから、世界を守るために必要って理由でオーブを集めようとするような奴らの邪魔をするってことはないんじゃないか、普通に考えて」
「うーん……そりゃまぁ、そう……なのか?」
「うさんくせー話だな……本気で大丈夫なのかよ」
「ま、山彦の笛の話もおそらくは事実だし、それがアープの塔にあるのも持っていっても誰からも文句が出ないのもたぶん間違いはない。俺たちの旅に有用な場所だというのはまぁ確かだと思うぞ」
「んっだよ、おそらくだのたぶんだのいちいち当てになんねー奴だな」
「そうとしか言いようがないんだからしょうがない。……それに、少なくとも俺はサヴァン殿には借りがある。サヴァン殿を船で運ぶ代わりに賢者の修行の教師になる、という約束を今の段階でかなり果たしてもらってるからな。なので、無理にとはいえないが、お前らにも協力してもらえると嬉しいんだが?」
『…………』
 しばしの沈黙ののち、ラグとフォルデは首肯した。セオも視線を向けられ、おずおずとうなずく。サヴァンはそんな自分たちの方を向き、にっこり笑って手を伸ばしてきた。
「じゃあ、とりあえずは僕と一緒にアープの塔へ向かってくれるということで。これからしばらくよろしくねっ!」
 そういうわけで、自分たちはサヴァンに握手を返し、共に魔船でアープの塔へと向かっているのだった。自分たちの旅にも有用だというサヴァンの目的地に船で連れていく代わりにロンの賢者としての修行の教師役になる。その契約をサヴァンはきっちりと守ってくれていた。
 当初フォルデはサヴァンをまだ信用できないと公言しており、常に自分たちパーティの人間のうち誰かが行動を見張るよう要求していたが、一ヶ月共に生活した結果警戒を緩め、一人での見張りや料理当番を任せるようになった。基本的に魔物との戦闘には加わらないが(自分のために呪文は使わない≠ニいう神に立てた誓いの関係ということだった)、稽古には積極的に参加する。そして、誰との稽古でも優秀な教師役として的確な指導を行ってくれているのだ。
「でもまー、実際みんな強くなってるよねー、この一ヶ月の間でも。いろんな意味で」
 揚げナスをおいしそうにもぐもぐ食べつつ笑うサヴァンに、牡蠣を飲み込んだフォルデが顔をしかめる。
「んっだよ、そのいろんな意味で、って」
「ん? そりゃもちろん、レベル的な意味でも力を使いこなしてるかどうかって意味でも。ロンくんもダーマにいた頃は一個も呪文使えない新米賢者だったのに、今はもう呪文数十個はらくらく使える達人はだしもんねー」
「おかげさまをもちまして。ま、まともに殴り合いができんほど身体能力が落ちたんだからそのくらいできなきゃやってられん、というのも本音ですが」
 涼しい顔で鶏肉と白菜を噛み締めつつロンが言った言葉に、フォルデは目をぱちぱちと瞬かせラグはかに玉を頬張りつつ苦笑した。
「殴り合いできねーって……お前なんか一人で型みたいのなぞってたじゃんか。その時は別に変わった感じしなかったぜ?」
「型はな。ああいうのは技術の範疇だから。だが試合でない、実戦の殴り合いは力と速さがなきゃどうにもならんだろ? それがお話にならんくらい落ちてるんだ」
「……転職って、そんな……勝手なもんなのかよ」
 きゅっ、と唇を引き締めながらのフォルデの問いに、ロンは思案げにこつ、こつとテーブルの上を叩きつつ説明する。
「転職というのは俺も初めてだからどういうものかちゃんとわかってたわけじゃないんだが……職業で得た技術は失われることはない。ただ、職業の特性は失われるんだ。俺の場合なら、武闘家の時に体に叩き込んだ技は同様に使えるが、武術に対する勘、感覚、そういうものが失われている。だからこれ以上武術の上達は見込めんわけだ」
「…………」
「それと能力がざっと転職前の半分に落ち込んだ。技を行使する筋力やら反射神経やら、その他もろもろまでな。なので俺は以前のような殴り合いはできん、というかやっても実戦で使えるほどの強さには達せられん」
「…………」
 ぎゅ、と奥歯を噛み締めてフォルデはテーブルの上を睨む。一瞬重い空気が落ちたが、ロンは軽やかな声で笑ってみせた。
「ま、その分いろんな芸が増えたんで人生はさらに面白くなったがな。今の段階で使える呪文でも相当便利だし。回復役が増えたし、攻撃呪文もどんどん使えるし、で助かってるだろう?」
「……そのいかにも賢者でござい、ってカッコは全然似合ってねーけどな」
「確かになぁ。正直まだロンが怪しげな呪文で傷を治してくれるのとか違和感があるし」
 仏頂面で言ったフォルデに続けてラグが珍しく少しおどけた顔で言うと、ロンは「言ってくれるな」とにやりと笑んでみせた。実際今のロンの装備はダーマで揃えた裁きの杖と魔法の法衣にとんがり帽子という一揃えだったので(あと前から装備していた風神の盾と副武器として鋼の鞭)、一見したところいかにもな賢者、という感じで今までとは印象が違うのは確かなのだ。
 セオとしては、これはこれで似合っていると思うが。お下げにしていた髪を後ろで結ぶだけにしたことも相まって、今までとは違う形なのだ、という印象が強いし。
「まぁ、でもこの一ヶ月でだいぶ板についてきてると思うよ。レベルもかなり他のみんなに追いついてきてるしね。他のみんなも、もう達人級なのに」
「そういや俺たち、今レベルどんくらいなんだろーな。ダーマで調べんの忘れたけど」
「教えてあげようか?」
 フォルデが軽い調子で言った言葉に、サヴァンが返す。フォルデは驚いたように目を見開いた。
「わかんのかよ?」
「もちろん! 賢者はそーいう職業関係本職だからね。お告げは聖別された場所じゃないと無理だけど。ええとね」
 ひょい、とサヴァンがこちらに向けて手を差し伸べる。フォルデは思わずといったように身を引いたが、サヴァンは気にした風もなくあっさりと手を下ろし、言った。
「セオくんが33レベル、ラグくんが34レベル、ロンくんが25レベル、フォルデくんが32レベルだね」
「………はぁっ!?」
 フォルデが目を見開いて叫ぶ。ラグははー、と息をつきつつ頭をかき、ロンが悠々とうなずいた。
「ダーマで調べた時から計算すると、そのくらいかなとは思ってたけど……改めて教えられるともうそんなかって驚いちゃうなぁ」
「ま、毎日ほとんど半刻ごとにうじゃうじゃ湧いて出てくる魔物と戦ってるわけだからな。そのくらいにはなってるだろう」
「ちょ、ちょっと待てよ! なんでそんないきなり強くなってんだ!? 30レベル以上は人間外の達人の域って俺前聞いたぜ!? それに、ロンなんて二十日前まではレベル1だったじゃねーか、なんでそんないきなり」
「勇者の力を忘れたか? 魔物と戦うことで俺たちはとんでもない早さで強くなれるんだ。今までは実感するほど頻繁に魔物が現れなかったが、ここ二月は毎日寝ている間以外は半刻ごとにうじゃうじゃ現れてくる魔物をばかすか倒してるんだぞ。成長もするさ」
「け、けど、俺は別にそんな急に強くなった覚え」
「そうか? 自分の体の切れが増したり、力が強くなったり、耐久力が上がったり、そういう桁違いの成長の実感、お前は感じてないのか?」
「そ……れは」
「あ、じゃあ具体例挙げてあげようか。ダーマであったこと覚えてる? 君たちはダーマ副随寮の人間全部――五百人と戦いながら、誰も殺さずダーマ神殿最奥部のあと一歩で賢人会議のお歴々が集まってるってところまでたどり着いたよね?」
「あ……ああ。それが?」
「そんなことは普通の人間にはできない。副随寮はダーマ神殿の直属兵だよ、そんじょそこらにいるようなレベルの人間じゃない。世界中から優秀な人間が集まってくるダーマでも特に選りすぐりの人間しかなれない、絶対にね」
「…………」
「つまり、君たちはもう人でなしの領域に入っているんだ。世界でもそこまで達した人間は数えるほどってくらいの領域にね。そんじょそこらの人間の相手なんて、それこそあくび交じりにできちゃうんじゃない?」
「………、………」
 フォルデは眉間に皺を寄せてなにやら考え込んでいる。不機嫌そう、というほど刺々しくはないが、かなり困惑しているようだった。
 セオもその気持ちは少しわかるかもしれない。自分などにわかられてもフォルデは困るだろうが。
 だって、自分のような未熟者が、すでに人間外の達人なんて言われるなんて、身の置き所がないというか、そんな馬鹿な、と思ってしまうのだ。
「しかし……俺がもう勇者カルロスと肩を並べるレベルというのもおかしい気がしますけどね。相手は勇者で、条件は同じはずなのに」
「ああ、そりゃカルロスくんは君たちほど魔物を引き寄せてないから。勇者の力の格の違いってやつだね。一人仲間にできる勇者と三人仲間にできる勇者は、それくらい違うってこと。ま、カルロスくんがリカルドくんとの旅から戻ってきて数年はポルトガの守りに専念していたってこともあるんだろうけど」
「え……あの、すいません、意味がよく……」
「別にわかる必要はないぞ、知りたかったら俺があとで解説してやろう。……まぁ実際、俺たちなど足元にも及ばない相手に人でなしなんぞと呼ばれるのは少しばかり心外ですが」
「……そーだよ、考えてみりゃお前レベルいくつなんだよ。それ聞いてねーぞ」
「え、僕? 62」
「ろくっ!?」
「どうやったらそこまで桁外れのレベルに……まぁだったらあの強さも納得できますけど……」
「仲間を作れる勇者の人に仲間にしてもらってね。実際あの人が行くところってとんでもない魔物がばかすか出てきたから。いやー、まったく何百回死んだことか……レベル1の時からそーいうところに連れてくんだもんなー」
「……どーいう勇者と旅してやがったんだ……」
「ま、それはさておき。このご飯の後片付け当番は僕だったよね? それから一緒に稽古、ってことでいいんだっけ?」
「確か、そうです。それで今度は俺が見張り番だったか?」
「いや、舵当番だろう。で、俺が自由時間で」
「……俺が見張り、か。くっそ、見張り台寒そーだな」
「あ、あのっ!」
「ん、どうしたんだい、セオ?」
 ラグが優しい笑顔を向けてくる。セオは必死にそれを見返す。言わなければならない。応えなければならない。言わなければ、行わなければ、なにかしなければ、さもなければ自分は、この人たちに、なにも返せないまま。
「あのっ……!」
 ――だけど、殺したのに。
 自分は殺したのに。
 自分は何百何千、どころかもう万を超える魔物を殺したのに。容赦なく、遠慮なく。ただこちらの一方的な都合で。
 言わなければ。だけど。いいのか。本当に。許されない。してはいけないのに。俺に殺された万を超える命も、俺に奪われるために存在していたわけではないはずなのに。なんて、本当に、ひどい――
 そんな相反する想いがぐるぐるになって。
「……俺も、自由時間、です……」
 こんなことしか言えないで、うつむいてしまう。なにをやってるんだ馬鹿、と自分を心の中で罵りながら。
「……うん、そうか。俺はちょっと用があるから稽古付き合えないけど、いいかな?」
「……はい。ごめんなさい……」
 場の空気をどうしようもないほど壊して。嫌な思いをさせて。迷惑ばっかりかけて。なにも言えないで。なにも返せないで。なにも、少しも、幸せにしてあげられなくて。
「本当に、ごめんなさい……」
「うっせ、バカ。んなしょーもねーこと言うくれーならさっさと皿持ってけ」
 フォルデにぶっきらぼうに告げられて、こくん、とうなずき皿を重ね台所へと向かう。そうだ、本当に、しょうもない。
 自分のこんな罪悪感になど、なんの意味もないし意義もない。誰かの役に立つわけでもないし持っていたところで誰かを幸せにできるわけでもない。そんなことで殺した相手に報いよう、などという考えは殺した相手からはそれこそ殺されても文句の言えない噴飯物の言い草だ。自分の今犯している罪は、ただ抱えているより他にない、償う方法などどこにもないもので、そんなものに罪悪感を感じたところで、ただ周りの人たちを不快にさせるものでしかない。
 ――なのに。本当に、どうして、俺は、こんなに自分勝手なんだろう。
 ぐ、と唇を噛み、ぎゅっと手に力を入れる。どうして自分は、殺した存在のことを、彼らに対する罪悪感を死ぬまで忘れたくない、などと思ってしまうのだろう。そんなことに正当性など、微塵もないとわかりきっているというのに。

「――fread(25/-7/38, 12, 1, mera-2)=v
「っ!」
 流れるような呪文詠唱で唱えられた言葉が、やすやすと世界を改変し呪文の効果を発揮する。サヴァンの前に出現した大人一人よりも大きいほどの炎は、出現と同時にセオに向かい視認が不可能なほどの速さで突撃してきた。
 考える余裕はなかった。反射的に目と口を閉じるだけがやっと。じゅっ、と音がして業炎がセオの肌と肉と髪を焼く。
 激痛が身体を走る――が、この程度なら、死ぬほどではない。そう自分の受けた打撃を刹那で判定し、メラミを受ける前と変わらずサヴァンに向けて疾走していた体を、閉じた目が開くか開かないかという間に反射で動かして、懐に飛び込みざまサヴァンの首に向けゾンビキラーを振るう。
 が、サヴァンはすいっと流水のような動きで退きつつ、その攻撃を杖で受け捌いた。そして受け流した杖をちょうどこちらの間合いを外すような動きでとん、とセオの喉を突き、一瞬呼吸と体の動きを止める。
 しまった、という言葉が脳裏によぎるより速く、サヴァンの口からさっきと同じ呪文が流れた。同じようにサヴァンの眼前、セオとサヴァンの間の空隙に炎が生まれ、こちらに向け至近距離から突撃を敢行する。
 当然、受けることもかわすこともできるはずがなかった。声を上げることさえできないまま、セオは肺の奥までを炎で焼かれ、その場に倒れる。
「fread(seo, 125, 1, hoimi-3)=v
 呪文がかすかに聞こえた、と思うや脳味噌が破裂するほどの激痛はすべてきれいに消え失せる。サヴァンがベホマをかけたのだ、というくらいのことは、さすがに(ここのところずっと繰り返されているので)言われないでもわかった。
「ごめんなさい、お手数、おかけしちゃって」
 素早く立ち上がり一礼し、即座に構える。が、サヴァンは軽く笑ってその場に腰を下ろし、首を振った。
「……あの……?」
「少し休憩しよう。君も疲れただろ? さっきからもう四十回は死にかけたからね」
「いえっ! まだ、大丈夫、ですっ」
「そう? 僕の方はちょっと疲れたんだけど。さすがに魔法力も半減しちゃったし」
「あ……! ごめんなさいっ、俺、偉そうにっ」
「いやいや。まぁもうすぐ当番交代の時間だし、ちょうどきりもいいから終わりにしてもいいんじゃないかな。っていうか、まだ一日の終わりってわけじゃないから、魔法力少しぐらい残しておきたいんで僕は終わりにしたいんだけど」
「……はい。おつきあいくださって、ありがとうございました」
 ぺこり、と一礼し、セオはす、とサヴァンから離れ構えなおす。素振りを始める。それが一段落ついたら相手を想定して打ち倒す稽古を始めるつもりだった。
「頑張るよねぇ、セオくん。毎日毎日ここまで僕に喰らいついてくるのは君だけだよ。他の人たちは二十回くらい殺されたぐらいでやめるのにさ」
「……そんなこと、ないです。俺は、なにもできないから、せめてこの程度はってくらいを、やってるだけで」
 素振りを繰り返しながら答えると、サヴァンは笑ってちっちっち、と指を振る。
「僕曰く、『努力が報われるとは限らぬ、ゆえにこそ自らと友の流しし血と汗の価値を知るべし』。動機がなんであれ君は本当に頑張ってるんだから、自分をちゃんと褒めてあげなくちゃ」
「……そういう、ものなん、でしょうか」
「うん。まぁできれば『自分曰くかよっ!』と突っ込んでほしいところだったけど、それはそれとして君はすごく頑張ってるし、自分を褒めてあげていいと思うよ。本当に」
「……そう、ですか。………ごめん、なさい……」
 セオはそう一瞬うつむいてから答えて、また顔を上げ稽古を再会した。自分には休む暇など存在しない。休まず剣を振るう、自分にはそれくらいしかできることがないのだから。
 そんなセオを首を傾げつつも笑顔で見つめて、サヴァンはさらりと言ってのけた。
「セオくん、そんなに自分を、あるいは自分に、許すのが怖い?」
「………、わかりま、せん」
 失礼だとは思うが、以前に許しを得ているので稽古を続けながら答える。サヴァンはさらに首を傾げた。
「わからない、っていうと?」
「俺は、ただ。本当に、許せないって、許されるべきじゃないって思う、だけです」
「自分自身を?」
「はい」
「魔物を殺しているから? かつて人を殺したから? 殺される恐怖と絶望を知っているのにこれからも自分のわがままのために殺すから? 全身全霊で拒んできた、命の選別という残酷な理に従って、すべての命を、世界を守るっていう、ただひとつ誇れた誓いを穢して、それを今も続けてるから?」
 よく知ってるな、と少し驚きながらも、セオは首を振った。
「……それだけじゃ、ないです」
「というと?」
「……俺が、中途半端で、おそろしく思い上がっているからです」
「ふむ」
 また少し首を傾げてから、サヴァンは杖を弄びつつ訊ねてきた。
「それは、こういうことかな。他の人なら誰でも普通にやってる命を奪うっていう作業を、君はすごくいやいやながらやっている。やるならきっちり思いきって作業と割り切って殺せばいいのに、まだ君はぐじぐじうだうだ悩んで苦しんでいる。その割り切らなさ、中途半端さがひどく醜く思える」
「そう、です」
「かつ、君はどこかでその迷いをまだ捨てたくないと思っている。命を奪うことを完全に作業として考えるようになってしまったら、自分がもう取り返しがつかないほど、仲間のそばにいられないほど堕ちてしまう気がする。その、すべてを殺すと決意しておきながら、中途半端な逃げを抱くことをよしとするような心根が、君には許されぬほど汚らわしく思える。……ということ?」
「そう、です……」
 セオは目をぱちぱちさせつつ(自分の明らかに足りていない言葉をここまであっさりきれいに繋ぐなんてすごいなぁ、などと思いつつ)こっくりとうなずく。それから思わず剣を振るう手が止まっていたことに気づき、慌てて動作を再開したが、サヴァンはさして気にした風もなく、杖を器用に手の中で回しながらゆるゆると首を回してあっさりと言った。
「うーん。それじゃあしょうがないねー」
「……はい」
「あ、誤解のないように言っておくと『それじゃあ許されないのもしょうがないね』じゃなくて『君が自分をそこまで許されないと思いたいんじゃあ許されないと考えたまま生きないとしょうがないね』ってことだからね。わかるかな、この違い?」
「……え」
 セオは小さく目を見開いた。サヴァンの言っていること。それは理屈としては理解できるのだが、なぜサヴァンがそんなことを言うのかがよくわからない。
「あ、の」
「ねーセオくん。君、自分のこと嫌い?」
「え……あの」
「嫌い?」
 杖を弄びながら訊ねてくるサヴァンに、おそるおそる返答する。
「あの……嫌いっていうか、在るべきじゃない、と」
「そーいうんじゃなくて、好きか嫌いか。自分の人格やらなにやらを省みてみてさ、主観的な感想として自分のこと好き? 嫌い?」
「え、と……」
 今まで問われたことも考えたこともない問いにセオは一瞬戸惑ったものの、すぐに言われた通り思考を走らせた。自分自身の情報を脳内から引き出し、文章を熟読するようにさまざまな角度からそれを見つめ、結果として自分の中に浮かび上がる感情を検証する。
 数秒ののち、セオはゆっくりとサヴァンを見上げ、答えた。
「……嫌い、というか。嫌だ、と思います」
「嫌?」
「はい。こんな自分がこの世界にいることが、すごく嫌だ、と思います」
 答えになっていないかもしれない、と思いつつの返答に、だがサヴァンはあっさりとうなずいた。
「そっかー。やっぱりねー」
「え……あの、やっぱり、って……?」
「うん、君の性格をいろいろ考えてみて、そーなんじゃないかなーって。君はたぶん、もんのすごい理想家なんだろーな、って思ったから」
「そう、ですか……?」
 セオ自身は自分の性格をむしろ、理想を貫き通す根性のない柔弱なものだと考えていたのだが。
 首を傾げるセオに、サヴァンはあはは、と軽く笑い、笑顔のままセオの方を向いて続けた。
「あのね、セオくん。どんなことでもそうだけど、理想家っていう性格にもいい面悪い面があってね」
「はい」
「君は世界が――この世の理が、仕組みが、この世に生きるすべての存在が、もっと美しいものであるべきだと思ってる。いや、美しいものに事実見えてる、のかな、少なくとも命ある存在は。それこそ神様みたいに尊い存在に。それぞれの醜い部分を当然のように全力で美点であるかのように考えて、いい面を近視眼的なまでに過大視する。それこそ病的なくらいにね」
「え……」
「でも当然ながらそれじゃ無理が出てくる。世界に生きる者は美点だけで形成されてるわけじゃない。だから君の瞳に映る世界は、とてもきれいだけれど、きれいすぎて人が住めない。たいていの人間に見える世界から大きくズレてる。世界に歪みが生まれるわけだね」
「………あ、の」
「で、君はその歪みを、全力で自分に集中させている」
「……え」
 セオは一瞬、サヴァンの言葉の意味がわからず混乱した。サヴァンは笑顔を浮かべながら、流れるようにすらすらと言葉を並べた。
「君は世界のすべての矛盾、歪み、穢れ、醜い部分をすべて『自分のせいだ』と思っている。自罰的思考の極大化だね。どういう理由でそう思うようになったのかは知らない……というか、それを決めるのは君だけど。とにかく君は世の中のすべての悪いことを自分のせいにして、勝手に世界を背負った気分になっているわけだ」
「…………」
「だから君は自分の醜い部分、至らない部分が許せない。他の人がよくやったよと言ってくれても許せない。もっと自分が頑張っていれば、ちゃんとしていれば、っていつも思ってる。当たり前だよね、世界の悪いことが全部自分のせいだと思ってるんだから、どこまでやっても足りるわけがない。だから君は、いつも苦しくて、辛くてしょうがない。君にはその感情すら君を責める要因になるんだから、ますますもって君には救いがない」
「…………」
 セオはサヴァンの言葉を黙って聞いていた。そうなのかもしれない、と思えたからだ。
 自分は勝手に世界を背負った気分になっている。自分などの力で世界のすべてを救えるわけがないのに。救世主気取りで、一人空回って。果てしない高慢と傲慢、そして驕慢。
「そして、その救われなさが、君を三人も仲間を作れるほどの勇者たらしめている原因だと僕は思っている」
「……え」
 くるりくるり、と弄んでいた杖を回転させつつ、サヴァンは別に大したことでもないかのようにつらつらと言葉を連ねた。
「君もエラーニアさんの言葉を聞いたでしょ? 勇者がなぜ勇者となるのか、それは解明されたわけじゃないけれど、でもエラーニアさんの考えはだいたいにおいて勇者研究の基本だ。勇者の力は世界を背負わんとするほどの大きな魂。どこにでも当たり前のようにある理不尽に全力で異を唱える気概、世界のすべてを自分の誰より大切な存在のように救わずにはいられない心、ってね」
「……はい」
「で、君は魔物を救おうとするほどの心を持っているから、三人も仲間を作れるんじゃないか、っていうのがエラーニアさんの考えだったよね?」
「……はい。でも、俺」
「魔物を殺してる? 命の選別を行ってる? 勇者の資格がない?」
「……はい」
「でも、君、実は全然諦めてないよね?」
「……え?」
「世界はもっとよくできる。自分がもっともっと頑張れば、今殺しているこの魔物たちも救える。自分がもっともっと力をつければ、もっともっとちゃんとやれれば。そう思ってるでしょ?」
「サ、ヴァンさ――」
 じっ、とサヴァンがこちらを見つめる。見たことのない瞳だ、とセオは思った。静かで、和やかで、優しい、なのにその優しさがひどく遠い。人間の生が、感情がどこまでも他人事であるかのような、自分には遠くからしか関われないと当然のように思い、受け容れているような。常世から、彼岸から人を見つめる瞳だ。
「君は思い上がっている。君一人の力で世界なんて救えるわけがない。むしろそれは一人の人間のすべきことじゃない。でも君は世界を救おうとせずにはいられない。それがどんなに思い上がったことか理解しながらも。そうしなければ生きていけないほど強く、君は『自分のせいだ』と思い込んでいる――自力で世界を背負ってしまっているからだ」
「……あの。それ、は」
「世界のすべての悲劇が自分のせいだから、君はどんなささいな悲劇も自分の一大事のように全身全霊で嘆き悲しまずにはいられない。誰かが傷つけられるたびに、命が失われるたびに、君は自分が傷つけられ殺されているかのように傷つき苦しむ。だから必死にすべてを救おうとする。どの命も、自分が奪う命のひとつひとつも、自分そのものであるかのように感じられてしまうから、その一瞬一瞬の痛みまで想像せずにはいられないから、救おうとせずにははいられない」
「…………」
「たぶん、君が物語を書くせいもあるのかな」
「え」
「君の物語を読んだことはないからはっきりしたことは言えないけれど。君には、想像力があるね」
「そ、れは。人なら、普通」
「そうでもないよ。友を、仲間を愛し、弱き者を守らんとする人間ほど、敵の境遇や心情を慮るということはしないものだ。そんなことをしたらあっという間に擦り切れてしまう。心から憎い相手の気持ちをわざわざ想像するなんて楽しいことじゃないし意味もない。想像したところで憎いのは変わらないんだから。本当に憎いのなら、ね」
「…………」
「だから君の想像力は君をけして救わない。君はいつまでも力のなさを嘆き、この世のすべての悲劇を死ぬほど悲しみ、理不尽な世界に苦しまずにはいられないからだ。……でも、君が物語を書くのはいいと思うよ」
 サヴァンはあっさりと言って、すいと視線を陽が翳ってきた空へと向ける。
「君を救いはしないかもしれないけれど。だけどたぶん、君には物語が必要なんだ。あらゆる登場人物の苦しみと悲しみをすくい上げ、世界をめでたしめでたしで完結させてくれる希望が」
「………そう、なんでしょうか」
「そうなんじゃないかな。君が自分を許されないと考えることで世界を背負うほどの気概を奮い立たせているように、ラグくんが母親に依存することで失う恐怖を忘れようとするように、フォルデくんが自分と違う存在を拒絶することで生きる気力を奮わせているように、ロンくんが女性というものを色眼鏡で見なければ拒絶される恐怖に耐えられないように」
 歌うようにサヴァンは言って、眩しげに空を見つめて続けた。
「必要なものというのは、あるんだよ。しなければならない、せずにはいられないということは。間違っていたとしても、正しいことではなかったとしても」
「………―――」
 そんな、ことが。ある、のだろうか。
 そんな理屈があっていいのだろうか。サヴァンが間違ったことを言うとは思っていない、けれどその理屈が間違っていないとするならば。
 自分が犯した罪、も、自分の生、すらも、存在が、許されると、いうこと、に―――
「分岐点は、君が仲間を悪意をもって傷つけた相手にも、それを働かせられるかということだと思うけど……ん? これは」
 サヴァンがわずかに眉をひそめるのとほぼ同時に、フォルデの叫び声が響いた。
『十二時の方向に大王イカとその色違いの群れだっ! すげぇ数だ、とっとと出てこいっ!』
「!」
 弾けそうになったなにかはその声を聞くや瞬時に消えた。さっと周囲の空気の流れを読み、だっとセオは舳先へと走る。魔船が急制動をかけたのち(魔力を付与した錨があるのだ)、サヴァンが数歩後ろからゆっくりと近寄り、「ほう」と声を上げた。
「すごいね。これは」
「すごいね、じゃねーだろバカかお前。……ったく、なんだってんだよこの数っ」
 見張り台から飛び降り駆け寄ってきたフォルデが大きく舌打ちをする。船室から駆け出してきたラグとロンも、小さくだが目を見張った。
「確かに……これはちょっと、洒落にならないな……」
「ここまでうじゃうじゃいるともう笑うしかないな」
「悠長なこと抜かしてんじゃねぇ! どーすんだよ、もう魔法力あんま残ってねぇんだろ!?」
「確かに……な」
 セオは目の前の海をほとんど埋め尽くしている大王イカとテンタクルスたちを目を細めて見つめた。大王イカの大きさは全長三〜四丈。テンタクルスの大きさは六〜七丈。彼らがほとんど手足を絡め合わせるほどの近距離で、魔船が進む先一町半ほど先に、何十匹も体を蠢かせている。
「どうする。迂回するか」
「ここまで近付いたんじゃ無理っぽいな。というか、近付いてきてるぞ、あいつら。いつものごとくこちらを敵だと見定めてくれたらしい」
「おい……それって、まずくねぇか。あいつら、やろうと思えばこの船沈められんじゃねぇのか?」
「ふむ。ま、そうだろうな。この魔船に『魔物に沈められない』とかの都合のいい特殊能力がなければ」
「なに落ち着いてやがんだっ! 船沈められちまったら戦いもクソも」
「その心配はないだろ。ロンもセオも、水上歩行の呪文を使えるんだから。メイルフォ、だっけか?」
「あ……そうか」
「ま、それはそうだがな。魔船を壊されてしまったらどうにも対処のしようがないぞ。まぁそう簡単に壊れはしないと思うが、絶対とは言いきれん」
「それに真っ向からぶつかっても正直厳しいぞ……あいつらは海でも最強の部類の魔物たちだ。俺たちも強くなっているとはいえ、そいつらが数十体となると、犠牲を出さずに乗りきれるかどうか」
「……くそ」
「手間にはなるが、ルーラで一度戻るべきだな……ロン。いけるか」
「正直厳しいな。ルーラにはそれなりにきっちり時間をかけて術式構成を組む必要がある。時間制限のある状況じゃ制御しきれるかどうか」
「そうか……セオは、どうだ?」
 すい、とセオはラグたちの方を振り向いて、答えようとした。と、ラグが一瞬目を見開き、ロンがきゅっと眉をひそめ、フォルデがぐっと顔をしかめる。
 なぜそんな顔をするのだろう、と一瞬、ちらりと不思議に思った。自分になにかおかしなところがあるのだろうか。
 いや、別に自分に変わったところがあるわけではない。いつも通り、普段通りだ。ラグたちの命を守るという自分のわがままも、それを貫き通そうとする傲慢も、微塵も変わってはいない。
 だから今、自分は、自分のわがままのために、この数十の、あるいはそれ以上の命を速やかに奪うことを宣言しようというだけなのに。
「おい、セ――」
「うーん、悪いけど、それはちょっと待ってくれないかなー?」
 唐突にそう明るく笑って言ったのは、サヴァンだった。
「……は? 急になんだよ、なにを待てっつってんだお前」
「ルーラで戻るの。僕の方の時間的余裕がねー、あんまりないんだよね。だからなんとかしてここを押し通るってことにしたいんだ」
「な、唐突になに抜かしてんだ、お前今の状況わかって」
「……どうやって、ですか? この状況を打破する方法がある、と?」
「うん、そうだね、あるよ。どうやってかっていうとー」
 にこにこ笑顔で、くすりと笑い声さえ立てながら、なんの気負いもなく数十の、ひょっとしたらそれ以上の大王イカたちの群れへと向き直った、と思うやサヴァンは言葉を紡ぎ始めた。呪文とも会話ともつかない、流水のようになんの気のない、けれど怖ろしいほど精緻を極めた言霊。
「chmod(savants.exe, 0700)&ヤ答trueアクセス権変更成功一時的に全能力を所有者の任意に発揮と宣言」
 そしてそのまま言葉と同じように計算しつくされた無為な動作ですい、と杖を船の進行方向に向け、同様にすらすらと言葉を紡ぐ。
「fopen(io-3, rb)=v
 ――とセオが認識したのとほぼ同時、目の前の空間がすべて爆発した。
『…………!!!』
 ちゅどごどがどががぼごぼがぼぐどぼがどごおぉおんっ!!! というような耳をつんざくすさまじい爆音。視界が真っ白になり、耳が聞こえなくなり、すべての感覚が一瞬機能を停止し――
 その一瞬≠ェ済んだあと、あっという間に元通りになった感覚のすべてが、大王イカたちはすべて消滅した、と告げてきた。
「……なっ!?」
 驚愕の声を上げてフォルデが舳先へ駆け寄る。ラグがぽかんと口を開け、ロンですら目を見張る。セオは目を見開いて、視界を懸命に探るが、確かに魔物たちはその気配も感じ取れなくなっていた。見渡す限り海原は凪ぎ、そこに見えるのは飛び跳ねる魚ぐらいのものだ。
「なっ……おま、これ……」
 フォルデが愕然とした顔で振り返り、サヴァンを見るが、サヴァンは涼しい顔でにっこり微笑みさらりとこう言った。
「――こうやって、かな?」
 さっきと同じ、なんの気負いもない、ごく普通のことをやっただけ、という顔。
 それにセオは小さく息をついて、サヴァンのそばにとことこと歩み寄り、頭を下げた。
「サヴァンさん、ありがとう、ございます」
 それにサヴァンはお? とでもいうように、少し驚いたように目を見開いたが、すぐに笑ってうなずいた。
「どういたしまして。お役に立てたならなによりだよ」
 その優しい言葉にセオは安心し、わずかに頬を緩め、フォルデたちの方を振り向き、少し驚いた。ラグもロンもフォルデも、それぞれに程度の差こそあれ、愕然としたような顔で自分たちの方を見ていたからだ。
 なのでぐ、と顔が歪むのを必死に堪えながら体をきちんとラグたちの方へ向き直らせ、深々と頭を下げる。
「……ごめん、なさい」
『……は?』
「俺、なにか、みなさんを不快にさせ、ちゃったんですね。本当に、本当にごめんなさい……」
『…………』
「……っ阿呆かぁぁっ! てめぇじゃねぇーっ!」
 怒鳴るやすぱーん! と頭をはたかれて、セオは目をぱちくりとさせてから、「そう、なんですか?」と答え、フォルデを脱力させ、ラグを苦笑させロンを微笑ませることになった。

「じゃ、僕は見張りに行ってくるから。一刻後に交代してねっ♪」
 軽やかに鼻歌を歌いつつ食堂を出ていくサヴァンを見送ってから、フォルデは片付けを始めようとしたセオを視線で押し止め、ぎろりと全員の顔を睨み渡して告げた。
「お前ら、あいつのあれ、どう思う?」
「え……? あい、つのあれ、ですか?」
「だーもーうっぜぇな、サヴァンが見せたあれだよ! あのうじゃうじゃいたイカどもをあっつーまに消しちまったアレ! どう思うかっつってんだ!」
「どう……って、いうと……あの」
「あーわかってるよてめーには期待してねー。ラグ、ロン。お前ら、アレどう思ったよ。どういうもんなんだ、あれ?」
「どう……ってな、俺は呪文は専門外だぞ。ただ62なんて法外なレベルの持ち主なら、あのくらいはできるんじゃないかって思うだけだ」
「……まー、そーだろーな……じゃーロン。お前はどーだよ。お前、今は一応賢者だろ、駆け出しだけどよ。なんなんだよ、あれ」
「一応とはひどいな。ま、実際まだ板についてるとは自分でも思わんが。少なくともあれがどういうことをしたのかぐらいはわかる」
「わかんのかっ!?」
「当然だ。……あれは、イオナズンだ」
「いおな……それ、呪文か?」
「イオ系……爆発を起こす系統の、最強呪文だよな」
 ロンは深々とうなずいてから、つらつらと説明を始めた。
「イオナズンはイオ系の最強の呪文だ。イオ系は爆発を起こす呪文で、その威力もさることながら効果範囲の広さが最大の特徴でな、普通に唱えても目の前の敵全部を範囲に飲み込めると考えていい」
「へ……じゃあ、イオナズンって呪文知ってる賢者なら、誰でもあのくらいの爆発起こせるってのか?」
「いや、違う。それとこれとはまったく話は別だ。イオ系は確かに広い効果範囲を誇るが、あのイオナズンは桁が違う。あれはたぶん、『知覚可能な範囲の世界すべて』を効果範囲にしていた。最低でも数里……下手をすれば数十里は効果範囲だったはずだ」
「……はぁ!?」
「すごいな、それは……」
「ああ、しかもそれだけ桁外れの大爆発を起こしておきながら、目の前の敵以外にまったく巻き添えを出していない。俺たちはおろか、海にもさざなみひとつ立てていないし魚やらなにやらも殺していない。制御力もまったく桁外れだ。しかもあれほど短い呪文で……人間外というのも馬鹿馬鹿しくなるほどの力だな」
「んな……賢者ってのはんなことできんのか!?」
「……賢者の呪文というのはな、端的に言えば、『世界の書き換え能力』だ。世界の法則を利用して、世界を自分の思う通りに操作する。限定的にではあるが、神と呼ばれている者の奇跡と同じ力を行使できると言ってもいいな。だから理論上はこの世界の中でならどんなことでもできる。理論上はな」
「……お前は、できねーのかよ」
「できるか。理論上はと言っただろう。呪文というものがなぜあると思ってる、そういう風に使いやすい形にしなければ普通の賢者にはまともに世界を変容させることもできないってことだ。そして、俺もその普通の賢者程度の段階にすぎない」
『…………』
「まったく……どれだけ精進すればあれほどたやすく世界を動かすことができるのか。そういうつもりで見せてくれたんだろうが……なんというか、世界は広いな」
「へ……それって、どーいう」
「……サヴァンさんは、ロンや、あとたぶん俺たちにも、自分たちの未熟さを思い知らせるために力を振るってくれたってこと。だろう? ロン」
「ああ、そういうことだろうな。時間的余裕がないというのも嘘ではないんだろうが。実際あれくらいの状況じゃないとあの人があれだけの力を振るうのは許されていないんだろう」
「あー……あーあーそーなのか。俺はなんか、あいつがこっちをいつでも殺れるぞ、っつー脅しみてーなもんのつもりじゃねーかと思ったんだけど」
「え……そうなん、ですか?」
「うっせーセオ黙ってろ、お前にその首傾げされっと自分がすっげー馬鹿に思えてくる」
「え……!? ごっごっごっごめんなさいっ、俺、ごめんな」
「うん大丈夫だよセオ、フォルデは遠まわしに『馬鹿なこと言ったな俺』って言ってるだけだから」
「うっせ! っつか、完全に馬鹿馬鹿しーって思ってるわけでもねーよ。あいつなんつーか……なに考えてるかわかんねーし……なんつの、どーにも裏があるって思えてなんねーっつーか」
「それは当然あるだろう。いくつあるのかは知らんがな」
「は……はぁっ!? んっだよそれ、お前それわかってて」
「わかっていてもあの人の申し出は魅力的だったし、わかっているからこそ俺たちはあの人の申し出を受けた。実際真正面からぶつかってもあの人には勝てないんだ、せいぜい泳がされながら情報を収集するしかないだろう、今のところはな。この話もたぶんあの人には筒抜けなんだろうし」
『そんなことはないよ』
『……っ』
「っだおいっ、サヴァンっ! お前いつから聞いてやがったっ!」
『けなんだろうし、のところから。だからなんの話かぜんぜんわかんないんだけど、とりあえずそういう時はそんなことはないよって言うのでだいたい正解だからー』
「てっめぇなぁっ、いったいどこまで人のこと」
「フォルデ。……サヴァンさん、なにか見えましたか?」
『うん見えたよ、とりあえずの目的地というか、通過点というかが』
「え……それ、って」
 セオの思わず漏れた言葉をサヴァンはしっかり捉え、くすりという声ののちさらりと告げた。
『アープの塔が見えたよ。明日には陸に着ける、その翌日には塔の中に入れるだろうね』
「…………」
 セオは小さく息を呑んでから、こくりとうなずき、いや見えないんだと思いなおして「はい」と答えたが、サヴァンから返ってきたのはただ楽しげなくすくすという笑い声だった。

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