海〜ルザミ――1
「ひ……は……ふ。ふ……ぅ。ぅ……ぁ……ぁ……」
 彼は、呼吸するのも苦しいと言いたげに、浅く小さな呼吸を何度も繰り返す。ラグは医術の心得はなかったが、その息の音はよく知っている。何度も聞いたことがある。それは、人間が息を引き取る前に聞こえる音だ。
 たとえそれを知らずとも、彼を見れば誰しも死相がそこに浮かんでいると感じることだろう。血の気の引いた、蝋のような肌。真っ青な唇。首を動かす力すらないとでもいうようにひたすら仰向けになって天井を見上げ、口元には何度も血を吐いたせいで(何度も拭いているのに)赤い色がぞっとするほど鮮やかに光っている。
 アッサラームで何度も見た、死にゆく人の姿。それを見るたびラグは、背筋がぞっと冷えるのを感じる。生≠ニいうものはこの世界では少しも当たり前ではないのだと――どれほど安全な場所で生きていても、何人の兵や幾重の城壁に護られていても、当然のように人は死ぬのだという事実を目の前に突きつけられ、気色悪い、気持ち悪い、汚らわしいものを見た気になってさっさと目を逸らしてそこから立ち去りたくなる。
 それは、今回も例外ではなかったけれど。
「やあ、セオ。体の調子はどうだい?」
 ラグはひょいと、軽い調子で顔を突き出してにっこり笑った。セオは力なく目を瞬かせてから、震える唇を動かして――おそらくそれだけの動きにそれこそ死力を振り絞る、というくらいの労力を使って――応えようとするが、ラグはやはり軽く笑って首を振る。
「ああ、そのままでいいよ。顔色と反応でだいたいの調子はわかるから」
「…………」
「あ、ならなんでわざわざ聞くんだ、とか思ってるかい?」
「…………」
「ヒュダ母さんから教わったことなんだけどさ、看病する時は、たとえ病人が問いに答えられない状態でも、できるだけいろんなことを口に出して聞く方がいいんだって。そうしないとこちらの気持ちが全然伝わらないから。なにを言ってるかもそうだけど、声の調子とかからも病人にはこっちの気持ちが伝わるんだから、って。あと、だんまりで看病されたら空気が辛気くさくてしょうがないじゃない、とも言ってたかな。無茶と言えば無茶な話だけど……そう間違ったこと言ってないんじゃないかな、って思ったからさ」
 優しく、明るく、柔らかく、落ち着いた口調で喋りながらてきぱきとセオの身繕いを整える。そっと服を脱がせ、沸かしたお湯で絞った手ぬぐいで、この一ヶ月でほとんど骸骨かと思うほど肉の落ちてしまったセオの体を優しく、少しでもセオが気持ちよくなるような力加減ですみずみまで拭く。またそっと服を着せ、布団をかける。それからそっと、唇を濡らした絹の布で濡らした。
「ぅ……ぁ……」
 セオが顔を歪め、苦しげに息を乱しながら呻く。ラグははっとして、セオの口元に耳を近づけ、小さく囁いた。
「どうかした、セオ? 俺に、なにか言いたいことがあるのかい?」
「……ご、め……さ、い。ご……め……な……、さ……い、ご……」
 ごめんなさい。
 迷惑をかけてごめんなさい。嫌な思いをさせてごめんなさい。邪魔者になってごめんなさい。手をわずらわせてごめんなさい。
 放り捨てていってください。俺のことなんか無視してください。俺なんか死んだままにしておいてくださって全然かまわないんです。
 だから、もう。
 ぎゅうっ、と拳を握りしめる。セオに見えないところで。血が出るのではないかと思うほど、強く、強く。
 だが、顔はあくまで優しくセオに微笑みかけ、軽くおどけてすらしてみせた。
「おいおいセオ、謝られても困るって。俺は好きでセオの世話をしてるんだからさ。セオが嫌だって言っても世話しちゃうぞ。他の奴らだって、みんなそういう気持ちだと思うよ?」
「…………」
 苦しげに、悲しげに、げっそりと肉の落ちた顔を悲嘆の形に大きく歪め、セオはじっとラグを見つめる。
 違う。違う。それは違う。
 ごめんなさい。ごめんなさい。俺のせいでそんな嘘をつかせてごめんなさい。
 俺なんか本当に、この世から消えてしまえばいいのに。
 意識してはいないだろうが、そんなことを考えている気配が伝わってきて、ラグはセオに見えないところでまたぎゅっと拳を握りしめたが、表情はあくまで優しく笑って持ってきたものを取り出した。
「さ、食事にしよう! っていっても悪いけど、重湯だけどね。もう少し元気になれば、ヒュダ母さん直伝の特製ヤフネットをご馳走してるところなんだけどね。あ、今回の食事当番は俺だったんだけど、ロンがヤフネットの材料を買ってきてくれたんだよ……」

「……セオの調子は、どうだった」
 ざばざば、と洗面所で頭から水をかぶっていたラグは、のろのろと顔を上げ、たぶんやぶにらみになっているだろう顔でロンを見て、答えた。
「変わりはない。相も変わらず、死にかけだ」
「そうか……」
 頭を背後の壁にもたせかけ目を閉じるロンに、ラグは暗い声で言う。
「気になるんなら見に行けばいいだろうが。ずっと一人で寝てるんだ、セオも退屈が紛れて喜ぶんじゃないのか」
「お前、本気で言ってるか?」
 がずっ。魔船の壁に拳を突き入れ、低く呟く。
「……それこそ、本気で言ってるか、だ」
「悪かった」
 両手を上げてみせるロンに、力なくかぶりを振ってみせてから、濡れた顔をタオルで荒っぽく拭く。今のはロンがうまく引いてくれたのだということはわかっていた。今、自分の心は、つまらない、ほんの小さなことでも大きく波立つほどにささくれ立っている。
「フォルデと……レウは」
「二人とも見張り台だ。今はあの二人は一緒にしておいた方がいいだろう、と俺も思う。レウはもちろん、フォルデにとっても、今の状況は孤独を楽しむには具合が悪すぎる。しょうもないことを考えるにしろ、溢れ出す感情に耐えるにしろ、な」
「……ああ」
 ぶっきらぼうに答えて、タオルを元の場所に戻す。うつむいたまま、小声で早口に訊ねた。
「ダーマは、どうだった」
「状況の打開に役立つような話は、今回もまるで聞けなかった。まぁ、大神官ですら今の俺よりはレベルがかなり低いのだから仕方ないといえば仕方ないが。あちらこちらに極秘に問い合わせてもくれているようだったが、それでも打開策の手がかりすらつかめていない状況だな。――というか、そもそも打開策があるのかどうか、そこがそもそも怪しい」
「…………」
「なにせ三人もの人間を仲間にできる勇者が、その力を全力で振るって世界を改変したんだ。おまけにセオの勇者としての特性は、雷――世界を構成する際の力の源ともなる信号にきわめて近しいものを操ることが主。そもそも勇者の力というものは世界の律を超えるものなのだから、俺たち人間風情がどうあがこうと、勇者が変えた世界をどうこうできるはずがない――という意見が賢人会議の間でも大勢を占めていたな」
「…………」
「知っているか? 勇者の力の目安というものはな、自分一人に対してのみレベル上げの効果を及ぼせる場合をa、余分に力を及ぼせる仲間の人数をnとして考えた場合、(a+n)の累乗として表せるらしいんだ。あくまで経験則に基づくもので理論の裏付けがあるわけではないんだがな。つまりセオの場合は4×4×4×4でaの二百五十六倍になるわけだな。さらに、勇者は互いを仲間として受け入れ、力を同調させた場合、(a+n)のnに相手の(a+n)を加算して力を層倍させることができる。レウとセオがどれだけ深く力を同調させているかはわからんが、一般的な段階でも5×5×5×5×5でaの三千百二十五倍、同調がより深くなっていればさらに高いレベルまで――」
「つまりなにが言いたい」
 ラグが低く言うと、ロンはは、と息を吐いて、こちらも低く、愛想のない声で告げる。
「そんな桁外れの力で行った奇跡をどうにかするなぞ、神の御力におすがりするしか道はない、とどこに言っても言われた、というだけだ」
「――そうか」
 ぼそりと答えると、ロンは忌々しげに髪をかき上げ、または、と息をついてからひどく悔しげに言う。
「今のは八つ当たりだ。――悪かった」
「別にいい。俺がお前に八つ当たっている回数より、お前に八つ当たられる回数の方がよほど少ない」
「……その分……いや、それではとても足らない借りがある、と俺は思っているがな。今のセオと、対面する役を、ほとんど任せっきりに」
「そんなもの、適材適所だろう。今のお前と今のセオが対面しても不毛な結果にしかならない。お互い傷つくか、悪くすればセオが興奮して死ぬだけだ」
「…………そうだな」
 は、とロンはまた息をつき、目を閉じてまた背後の壁にもたれかかる。ぐったりとしたその動作は、ロンがどれだけ死力を尽くしてあちらこちらを飛び回って情報を集めているかということと、それ以上に今の状況にどれだけ疲労を感じているかということをうかがわせた。
 ――ジパングから一ヶ月。その間ひたすら海の上をさまよって、いまだ、状況を打破する見通しは立っていない。

 フォルデは、レウと並んで、見張り台の上で海を見ていた。どこまでも続く大海原は、まだ陽は暮れていないというのに、ひどく青黒い。空のほとんどを暗く厚い雲が覆っているせいだろう。
 ただ――ぼんやりと、考える。そもそも、太陽の光なんて、ここしばらく見たことがあっただろうか? 自分たちの船はずっと、どこに行っても、暗い空の下ばかりをうごめいていた気がする。
 魔物と戦う回数も、一ヶ月前とは比べ物にならないほど減っていた。数日に一回あるかないか、ぐらいではないか? それがなにを意味するのか――考えられないではなかったが、フォルデは意図的に考えるのをやめていた。考えたところで、意味がない。少なくとも、自分には。
 なぜか? 単純だ。そちらの方が、今の自分には楽だからだ。考えない方が、魔物の襲撃がない方が、積極的に動かない方が。
 生きていない方が。
 なにを考えている、とフォルデは頭を振った。そんなしょうもないことをぐだぐだ考えてなんの意味がある。そのくらいならどんな方向にでもいい、動いた方がマシだというのが自分の考え方だったはずだろう。その方が、飯の種を得られる確率が上がるのだから。
 そうだ、確かにそうだ。それは今も変わらない、けれど。今は。
「……セオにーちゃん、どうしてるかな」
 ふいにぼそり、と呟いたレウを、フォルデは見下ろした。この小さな子供とは、この一ヶ月ほぼ四六時中一緒にいる気がする。何度か『なんだか眠れない』などと抜かして寝込みを襲われ、なんだかんだで一緒に眠ってしまったこともあるほどだ。
 ラグたちに『今はレウについていてやってくれ』と頼まれたのだから、仕方ないと理解してはいるのだが。
 ……いや、そうではない、そういうことではなくて。自分は、今。
 また小さく頭を振って、フォルデはレウを見下ろし言う。この自分より頭二つ分近く小さい、暗い海をひたすらに乾いた瞳で見つめている少年を。
「今も変わらず死にかけだろうぜ。ロンたちがなにか手を思いつくなり教えてもらうなりしない限りな」
「そう、だよなぁ……」
 無愛想な言葉に、沈んだ声が返ってくる。普段ならなに生意気に落ち込んだ声出してやがると苛立っていたところだろうが、今はそういうことはなかった。腹が立たない――むしろ、腹を立てることができなかったのだ。
「……セオにーちゃん、なんであんなこと、したんだろ」
「ロンの言ってた通りだろ。てめぇの選択に責任を払うため、とか抜かすんだろうよ」
「だって……だけど、それはそうかもしんないけどっ。セオにーちゃんがあんな風に、いっつもいっつも死にかけで、ちょっとしたことで血吐いて、魔物が襲ってきたあととか、下手したら船の揺れだけで死んじゃうくらいになるまで命吸い取ったら、セオにーちゃんこれからもう、なんにもできなくなるじゃんっ」
 ばっとこちらを向いて、叫ぶように言うレウ。その瞳は潤んでいた。この一ヶ月、何度も見てきたのと同じように。本当に、どうしてそこまで泣けるのかと思うくらいに、レウは涙を流してきたのだ。
 セオのために、自分たちのために――目の前のどうにもならない現実のために。
「あいつにとってはそんなことどうでもいいんだろ。俺たち四人がレベル上げできれば、魔王に対抗できるくらいの力は持てる、とか考えてんだろうよ」
「なんでっ!?」
 こちらを向いた小さな口から、喉も裂けよとばかりに甲高い声が響く。今までと同じ、餓鬼の癇癪。そう言い捨てて、黙れと蹴りを入れてやることもできただろう。
 けれど、自分にはもう、今の自分には、そんなことはできないのだ。
「魔王に対抗できるとか、そういう問題じゃないじゃん! セオにーちゃんが、あんな……今すぐにでも死んじゃいそうになりながら生きてるのとか……俺、やだ! そんなのやだよ!」
「お前がやだっつっても向こうには関係ねぇんだろ。お前がどう思おうと、あいつが自分でああいう風になるのを選んだのは確かなんだからな」
「………っ! そう、だけどぉっ……!」
 レウの顔が歪む。どうにもならない現実を、必死に受け止めようとはしているが、果たせていない顔。納得いかない顔、許せない顔、いやだいやだと全力で駄々をこねたいと思っている顔だ。
 けれど、レウは駄々をこねることも、泣き出すこともなく、ぐっと奥歯を噛みしめ空を見上げた。――この子供にも、もうできないのだ。目の前の現実がただ気に入らないと、駄々をこねて癇癪を起こすことは。
 ただ苛立ちや腹立ちを周囲にまき散らしたところで、自分たちの力ではどうにもできない事実というものを、身に沁みて知っているから。
「……セオにーちゃんが、あんな風に死にそうになるの、俺いやだ」
 歪んだ顔で、うつむいて、震える声で告げた言葉に、フォルデは小さくうなずいた。
「そうだな」
「どんな理由があったって、世界中の人たちが少しでも死ににくいようになるためだって、セオにーちゃんがあんな、ちょっとしたことで死んじゃうくらい弱って、苦しがってるの放っとくのいやだ。治したいし、元気になってほしい。そのためだったら、俺にできることならなんでも、する」
「―――ああ」
「だけどっ……セオにーちゃんは、俺がこーいう風に考えるの、余計なお世話って、思って、んのかな。俺が、なんかしても、みんな、よけいで、自分のしたいこと、できたから、満足、なのかな」
「……さぁな。満足はしてねぇだろうが、後悔もしてねぇだろうよ」
「………っ………」
 レウはばっ、と顔を上げ、それからまたすぐにうつむいた。その小さな肩が、小刻みに震える。甲高い子供の声のくせに、それをひどく掠れさせて、絞り出すようにして言葉を作る。
「セオ、にーちゃんっ……かわい、そうだ」
「……なにがだよ。あいつは自分のやりたいことをやったんだ。今もそれは変わらねぇ。なんでお前に可哀想がられなきゃならねぇんだ? お前なんぞが可哀想がる必要も、どこにもねぇだろうがよ」
「そうかもしんない、けどっ! なんか……なんか、かわいそうだ! セオにーちゃんは、一人で、頑張って。ずっと一人で、頑張って。それに、俺たち、なんにも力貸してあげられなくて、セオにーちゃん今も一人でっ、苦しいのに、辛いのに大したことないとか思いながら、頑張ってっ……!」
「……お前、言ってること自分でわかって言ってんのか」
「わかんないよっ! よくわかんないけどっ……」
 うつむいたまま、小さな声で、呻くように囁きをこぼす。
「なんか……かなしいよ。セオにーちゃん、可哀想だよっ……!」
「……馬鹿野郎。泣いてんじゃねぇ」
「泣いてないよっ!」
「……いいから。黙ってろ」
 ぐい、と小さな体を引きよせて、腕の中に包む。痛くない程度に、けれど力を込めて抱きしめると、レウもぐすっ、ぐすっと鼻を鳴らしながら自分に抱きついてきた。お互いの体の感触が、少しばかりではあっても、お互いの心に温かみと落ち着きを与えることを、二人ともわかってしまっているのだ。
 一ヶ月前まで死んでも抱きしめようとはしなかっただろう相手をぎゅっと抱きしめながら、フォルデは海と空を見つめる。どちらもただひたすらに、暗く、黒く、そして以前と変わらず圧倒的なまでに広かった。

 セオは寝床で横になりながら、必死に呼吸を落ち着けていた。少しでも呼吸が乱れればセオの体は咳き込み、血を吐き、ベッドを汚し、下手をすれば絶息ののち死に至る。これ以上仲間たちに迷惑をかけるのは嫌だった。もしかしたら、彼らは自分のことを、とうに仲間とは思っていないかもしれないけれども。
 そんな思考がちらりと脳裏を走り、体中が悲嘆に震える。全力で押さえ込んだので体を震わせるのは一瞬ですんだけれども、今の自分の脆弱な体はたとえ一瞬であろうとも感情に身を震わせるということに耐えきれず、げはっ、げほっ、と血を吐いた。胃の腑が、喉が、口が、焼けた鉄の棒を押し当てられたような激痛によじれ、腕が、脚が、体中の筋肉がそれにつられて引き裂かれるような痛みに軋む。
 またベッドを汚してしまったという申し訳なさ、何度も同じことをくりかえす愚かな自分に対する嫌悪、また死んでロンに、ひいては他の仲間たちに迷惑をかけてしまうという事実に身がよじれるような痛みを覚えるが、それを必死に抑え、制御しようと試みる。今の自分の体は、そんな激情を抱いたというだけであっという間に死にかねないのだ。
 体中の骨を粉々に砕かれたような激痛、気を抜けばすぐに喉の奥から噴き出る血とまともに息を吸い込む力もなくなりかけている肺による絶息の苦しみ、それらすべてを呑み込んで、すさまじい勢いで荒れ狂う感情の嵐を全身全霊の力を込めて押さえ込み、必死に普通に呼吸をしようとする。慣れた仕事だった。この一ヶ月は、ほとんどそれしかできなかったからだ。せっかくラグたちが作ってくれた重湯もまともに飲み込めず、ほとんどただ生きているだけ≠フことしかできていなかった自分には。
 苦痛を必死に押さえ込みながら、ともするとセオの思考は一ヶ月前のジパング、船で自分が倒れた直後に戻っていってしまう。あの時、ロンが告げた言葉に。
「俺が賢者という職業がどういうものか、なんと説明したか覚えているか」
 あの時ロンはそう告げた。セオのみならず、仲間たち全員がきょとんとしたのを覚えている。
「なんと説明、って……てめぇ、この状況でなに言って」
「俺は賢者はSatori-System≠フ端末となる存在だ、といった。神が与えた、文明を発生させ、そこから波及する森羅万象の情報を収集し、研究し、解明することを目的とした機構の端末となる、職業というものの仕組みを創り出した職業だと。Satori-System≠ある程度使用できるがこそ、精神集中するだけでこの世のありとあらゆる情報を調べられるのだと」
 ロンはフォルデの苛立ちに満ちた言葉を無視し、早口で続けた。その様子に、セオは思わず目を見開いた。ロンがそんな風に人の話を無視するところなど、少なくとも自分は一度も見たことがない。
「そして、レウ以外は実際にガルナの試し≠受けたから知っているな? OS……人間を人間たらしめる根幹から職業に効率がいいように書き換えてしまう賢者という職業は、悟りを開いた人間しか就くことができない。悟りを開いていない人間が就けば、その者の魂、人格、そういったものまで賢者という職業の形に塗り替えられてしまうのだと」
「……ああ、そう聞いたが」
 用心深く(ロンが普段ならばありえない精神状態にあるのを見抜いたのだろう)答えるラグの言葉を聞いているのかいないのか、ロンは切るような口調で言う。
「だが、悟りというものは、一度開けばそれで終わりというのではなく、人生を通して常に開き続けねばならないものだというのは知っているか?」
「え?」
「いや、知らねぇ、けど……」
「それがいったい、どうしたと……」
 ――まさか。
 さっ、と顔色を変えたセオを見やり、ロンはは、と鼻を鳴らして告げた。
「その通りだ、セオ。賢者という職業はな、賢者でいる限り、人格も魂もSatori-System≠フ端末、道具に変化する可能性を持ち続けているのさ。身も心もSatori-System≠フ思い通りに使われ、なにも疑問に思わないような代物に変じてしまう可能性をな」
「――え……」
「えぇ!? な……なんだよそれっ、それじゃ、ロン……」
「……賢者ってのは、全員、そんなクソッタレな代物だってのか」
 方々から上がる驚きの声に、ふんとまた鼻を鳴らして答える。
「全員というわけじゃないだろうさ。賢者≠ニいう個体に対するSatori-System≠フ浸食速度はレベルが高いほど早く、頻繁だ。賢者の大半を占めるレベル20未満程度ならば、ほとんど気にもならない程度だろう」
「じゃあ……それじゃ、レベル40を超えてる、ロンは……」
「当然、それに層倍する勢いでの浸食を受けている。俺なりのやり方で全力で防いでいるから、今のところは大丈夫――のはずではあるがな。そもそも浸食されてしまえばそれを確かめる人格部分そのものが変わってしまうのだから、本当に大丈夫なのかどうかはわからん」
「……ロ……」
「だからな、セオ」
 ぎっ、と、初めて見るような厳しく、鋭い視線でセオを見て。
「俺は今、自分のことでいっぱいいっぱいだ。それどころか、いざとなったら君に助けを借りるつもりで余裕ぶっていたんだぞ。そんな状態で、君にそんな風に死にかけでいられては困る。なんとしても、君の力が必要なんだ」
 そう告げたロンの表情は、ほとんど敵意とすら言っていいものを感じさせるほど、鋭かった。
 ――セオとしては、ロンのセオの力が必要である≠ニいう部分は、おそらくはロンがセオに気を遣って言った言葉だと思っている。瀕死の状態を自ら選んだセオに、そんな状態でいるなと、元の状態に戻る気を起こさせるためにかけてくれた言葉なのだろう。
 だが、それ以外の大部分においては、ロンが冗談を言っているようには思えなかった。事実、ロンは悟りしすてむとやらから、そういった浸食を受けているのだろう。
 それを放っておく気はない。セオは、ロンのみならず、ダーマという世界を支える根幹となる賢者という職業自体に、まるで人を救う賢者たらんと修業した者を人身御供に差し出させるようなものなのではないか、という疑念を抱いてしまっている。
 なんとかしなければ、と思う。力になりたい、と思う――だが、現在の今の自分の状況から、ただ無計画に脱け出せばいいとも、セオには思えないのだ。
 セオにしてみれば、自分の今の状態は――味わっている身体的苦痛や衰弱は、対価だった。選択を――本来なら世界すべての人々が協議して決めねばならないことを、このままでは人が一年に一人殺され続けるからという理由で、卑小で愚かな自分一人の恣意で選び、決めてしまったことに対する対価。
 選択には、必ず対価が必要になる。なにかを選ぶということは、その結果も、起こした危険にも迷惑にも、すべてに責任を負うということ。それができない人間に、なにかを選ぶ資格はない。
 そして、これまでずっと、必死に選択を先延ばしにして、どの選択肢も選ばないままなんとかできないかとあがいてきた自分は、選んだのだ。一度は仲間たちが殺されたバハラタで、次に一ヶ月前のジパングで。
 仲間を護るために、強くなるために魔物を、命を殺すということを。そして、当然護るべきとされる、仲間たちも護るべきだと考えているであろう、人間の命を、どれを救い、どれを殺すかという選択を。
 本来ならばありえざるべき選択を、自分が愚かで、力が足りなかったがゆえに。そしてその結果、仲間たちに迷惑をかけ倒して、嫌な思いをさせて、気を遣わせてしまって。
『ごめんなさい』
 口に出そうとすると血を吐いてしまうので、激痛に耐えながら心の中で思う。
『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、本当にごめんなさい――』
 幾度も幾度も、ひたすらにくり返す――。
 それでも、セオには、選択に伴う対価を払ったことには、責任を果たしたことには、微塵の後悔も迷いもなく、ただ当然のものを払っただけだ、としか思えなかったのだけれども。

『…………』
 全員無言で、食堂に集まり、スープをすすり飲む。この一ヶ月はずっと、全員食事に対して熱意を持つ気になれず、スープとサラダとパン、せいぜいがそれに加えて卵か肉料理、ぐらいの簡素な食事を続けていた。
 そして、全員ろくに喋らず食事をすることもこの一ヶ月変わらなかった。それが楽しいわけでは決してないが、全員、話そうと気持ちを上向かせることができなかったのだ。
 たまにラグとロンがレウに調子を気遣う言葉をかけたりもするが、レウは赤い目をしながらも首を振る。ただ「大丈夫」と言い張るその顔に、苦悶の痕を見つけるのはたやすいことではあっただろうが、みなそれについては口にせず、ただ黙って「そうか」とうなずいた。
 この状況を、肯んじている人間は一人もいない。
 このままでいいわけはない。放っておきたくない。セオに手を差し伸べてやりたい。ぶん殴ってやりたい。元の健康な体に戻ってほしい。そう思うことは一再ならずあったが、みなそれを口に出して言うことはなかった。それは全員わかりきっていたことではあったし、口に出せば全員の喫水線ぎりぎりまで溜められた感情を暴発させて、互いに傷つけあうことになってしまうだろうと、この一ヶ月で知っていたからだ。
 この先がまるで見えない状況で、やみくもに仲間と傷つけあう――そんなことを楽しいと思えるような人種は、この四人の中にはいなかったのだ。
 ――と、無言のまま四人が食事をとっている食堂に、うぉんうぉんうぉん、と警報が鳴り響いた。
 全員即座に立ち上がる。レウは反射的に立ち上がりはしたもののその警報がなにを意味するのかは知らなかったので一瞬足が止まったが、フォルデに「てめぇはこっち来い!」と腕を引かれて表情を引き締めてうなずき、共に甲板に出た。
 甲板の上は、すでに荒れ狂う雨と風で相当荒らされていた。のみならず普段ならば波が荒れても水平の状態を保つ魔船が、時に右に傾き時に左に傾きと、常にはなく動きが乱れさせている。
 普通の人間並みの筋力と平衡感覚ならば船から転げ落ちていたことだろうが、フォルデとレウはそれぞれしっかりと甲板を踏みしめて舳先へと進んだ。どこまでも続く漆黒の雲と海に、レウは思わず息を呑む。
「これって、嵐……?」
「それ以外のなんだってんだよ。……こういう時はぜってー、魔物とかがばかすか出るからな。俺らはそっちをなんとかするぞ」
「うん……。ラグ兄と、ロンは?」
「ラグは魔船を操ってなんとか嵐の外に出ようとするはずだ。ロンは呪文で、少しでも嵐を落ち着かせようとすんだろーよ。前はその役は別の奴がやってたけどな」
「え……誰?」
「……たまたまこの船に乗り合わせたムカつく賢者だよ。それより、魔物ども、たぶんもうすぐ来んぞ」
「あ……うんっ」
 二人とも武器を構えて、周囲を見張る。帆はすでに下ろされ、自動的に畳みこまれていたが、それでも後方は帆柱のせいでやや見にくい――と思うや、そちらからばしゃりばしゃり、という音が立った。はっとそちらに視線を走らせると、何体ものマーマンやマーマンダインが海から飛び出し、船体を昇り、甲板へたどり着きかけているのが見える。
「チッ……お前はここにいろ!」
「え!? なに言ってんだよフォルデっ、俺もっ」
「お前は前を警戒してろ! あのくらいなら俺が一掃できる、前の方からもぜってーくっからな! 魔船が進むの邪魔させんじゃねーぞ!」
「わ、わかったっ」
 言って走り出すフォルデに背を向けて、レウは後ろ髪を引かれるような気分になりながらも真正面を向く――や、思わず目を見開いた。
「大王イカ……」
 数体の大王イカが、脚を絡め合わせながら壁のようになって魔船の行く手を遮っている。一度ごくりと唾を飲み込んでから、草薙の剣をしゃりんと抜いた。
「いっく……ぞぉっ!」
 一方ラグとロンは、足早に操舵室に向かいながら、早口で現状に際しての言葉を交わしていた。
「お前、確か天候を知る呪文を海にいる時は常時発動させてるって言わなかったか」
「ああ、その通りだ。だが、それでも俺はこの嵐を感知できなかった」
「……誰かが隠していた、と?」
「おそらくはな。だがなんにせよ、現在俺たちは周囲数百qにわたって荒れ狂っている嵐のど真ん中に放り込まれてしまっている。俺もできるだけ天候を制御しようとはしてみるが……正直かなうかどうかは怪しい。船の方の操縦はお前に任せることになるぞ」
「わかった。……やれやれ、俺は正直細かい操縦は得意じゃないんだがな」
「だが悪天候に際しての勘が一番鋭いのはお前だろう。サヴァン殿が嵐の時、お前に操縦を任せたのに意義がないわけはない、とも思うしな」
「なら、いいがな」
 呟いて操舵室に飛び込み、舵輪を握る。本来、船乗りならばこういう時は外で風と雨を直に受けて読みながらうまく波を制御するように舵輪を操るのだろうが、自分たちにそんな芸当はできない。ただ、この魔船には通常の船にはありえないほど強力な姿勢制御装置やらなにやらが設置されている。自分たちにできるのは、その力をできるだけ発揮させつつ、障害物を避けることだった。
 ロンは操舵室脇の術式回路室に入る。ここは天候制御の術式を強化するための回路が設置されている部屋で、この部屋の魔法陣の中で呪文を使えば、本来の数倍、場合によっては十倍近い強さで天候制御の呪文を行使することができるのだ。
 だが、この嵐はおそらくは、誰かが意図して自分たちにぶつけてきたもの。そんなものに――通常の呪文を使う生物ではありえない規模の嵐を操れるような相手が創り出した嵐に、どれだけ自分が抵抗できるかは正直、怪しいが。
「……やらないよりは、やる方がましだ」
 なぜなら少なくとも、この嵐をそのまま受けたならば、船室にいるセオは揺れに耐えきれず命を失うだろうと、経験上わかってしまっているのだから。
 ロンはふ、と軽く息を吸い込んでから、魔法陣を起動した。

「はぁ……ふぅ……はぁ……っ」
 レウは草薙の剣に寄りかかりながら、やっとのことで息をつく。次から次へと出てくる魔物と休みなしに戦い続けること数刻、さすがに体力は今にも倒れそうなほどまでに削られていた。
 でも、やっぱ、前とは違う、とレウは一人嵐の後のおそろしいほど蒼い空を見上げる。以前魔物と戦っていた時は、どれだけ休みなしにどれだけ多くの魔物が出ても、ひどく体力を削られるということはほとんどなかった。
 やっぱ、セオにーちゃんが死にそうだから、勇者の力ってのが低くなってる、のかな。
 ちらりと思って、ぶんぶんと首を振る。だめだ、そんなこと考えちゃ――セオにーちゃんは今死にそうになってる。だから変なことを言って、気を遣わせちゃ、だめだ。
「気合だ、気合ぃっ……!」
 腹の底に力を入れてしゃんと立つ。フォルデの方はどうだろう、と船尾の方をうかがう。ときおり傷ついていたのを見た時に回復呪文をかけたくらいで、お互い舳先と船尾に分かれて戦っていたけれども。
 見ると、フォルデの方も相当戦いは激しかったようで、傷はさほどではないが、体力ぎりぎりまで削ってます、というくらい青い顔をし、ときおり足元がふらついてしまっていたけれども、全力でしゃんと立とうとしているのがわかる足の運びでこちらに向かい歩いてきていた。ほっとして思わず笑いかけると、ふんと鼻を鳴らして言われる。
「ひでぇ面だな。今にもぶっ倒れそうって顔だぜ」
「わ、悪かったなぁっ」
「別に。……一応お前の分の仕事はしてたみてーだからな、文句言う筋合いでもねーだろ」
 フォルデがまたふんと鼻を鳴らすのに、ほっとして思わずにこっと笑う。自分が誰かの役に立てたというのは、特に相手が大切な仲間たちだというならことに、嬉しいことだ。
 ――たとえ、その中にセオがいなくとも。
 また暗くなりかける思考をぶんぶん首を振って逸らし、改めて舳先の、魔船が進む方向を見る――と、気づいた。
「……あ」

 ラグは操舵室の床に座り込み、待っていた。数刻ぶっ通しで、上下左右に大きく揺れる操舵室の中で、嵐にも魔物にも障害物にも魔船を沈められないよう舵輪を回して魔船にかわさせまくる、というのは本職ではないラグには相当に体力を削られることだったのだ。傭兵時代は船で戦うこともたびたびだったので、船の揺れには慣れているつもりだったが、今回は経験した中でも随一というくらいの勢いだった。
 ほどなくして、操舵室の扉が開き、ロンが入ってくる。
「ロン。……どうだった?」
「死んでいたので、ザオリクで蘇生させた。幸い死んでからそう時間は経っていなかったようだ――幸いと言うべきものなのかどうか、怪しいところではあるがな」
「……そう、か」
 今のセオの、わずかな揺れにも体力を削られ、血を吐くような状態では嵐はさぞ体に辛いだろうと(それでも様子を見させられるほど暇な人間は作れなかったのだが)、様子を見に行かせたら案の定だったわけか。
 ふいに、腹の底から湧いてくる猛烈な怒りを、ラグは奥歯を噛みしめて呑みこむ。そんなこと、今の自分が怒っていい筋合いのものじゃない。怒りをまき散らしたところで、八つ当たりにしかならないのだ。
「……他になにか気づいたことはあるか?」
「特に……ああ、そうだ。レウたちがなにやら騒いでいるようだったぞ。もうすぐこちらへ――」
「ロンっ! ラグ兄っ!」
 と、ロンが言い終るより早く、レウとフォルデは操舵室へ飛び込んでくる。その瞳がなにやらきらきらと輝いているのに、ラグは驚きつつも声をかけた。
「レウ、フォルデ、どうした? なにかあったのか?」
「あったんだよっ! 陸地があった!」
「……え?」
 言われて慌ててラグは魔船に備えつけられている海図を見る。これは自分の現在位置が一目でわかる上に、これまでに自分たちが行った場所がだいたいどのようなところだったか、主要な都市や遺跡はどこか、色分けでぱっと一目でわかるようになっている優れものなのだが、そこに見える自分たちの現在地には、どこまでも海が広がっているようにしか見えなかった。
「海しか見えないように思うんだが……」
「なに言ってんだよっ、上に来て見てみればわかるって! ほらほらっ、ロンもっ」
「……ふむ」
「はいはい、わかった、そう引っ張るなって」
 魔船を自動操縦に戻し、とりあえず陸地にぶつかるまでまっすぐ進むようにしてから、ラグたちは甲板の上へと上がる。とたん、思わず目を見開いた。
「……確かに、陸地と言えば、陸地だな」
「へへっ、だろー?」
「だが、レウ。これは島と言った方が正しいんじゃないか?」
「う、うっさいなぁ! 島でも陸地は陸地だろ!」
「まぁ、そうだが……」
 ラグは改めて目の前の島を見つめる。見たところ島は丸型の、直径でも二、三里程程度の大きさしかない小さな島に見えた。木々は生えているが、森というほどではなく、さして豊かな植生をしているようにも見えない。
 そもそも魔船は海水からいくらでも真水を作れるし、食材も足りなくなればルーラで買ってくることができる。おまけに普段はほとんど揺れもせず、船に乗っているという感覚を持たずにすむ。だというのにわざわざあんな島に行って、なにかいいことがあるのか――
 と言いたい気持ちもないではないが、ラグはうんとうなずいて微笑んだ。
「じゃあ、上陸準備だな。船をあっちに向けるから、装備やなんかを準備しておいてくれ」
「うんっ!」
「おう」
 といってもレウもフォルデも武装は普段通りに完全装備だったから、探索行に必要なこまごましたもの、ということになるが。勇んで操舵室を飛び出していく二人を見送り、ラグはロンの方に向き直った。
「なにか、言いたそうだな」
「いや……そうだな。この一ヶ月、ほとんど目的もなく海の上をさまよって、いきなり大海原のど真ん中に小島が現れたという状況にしては、落ち着いているな、と思ってな」
「まぁ、この状況で慌てる必要はないだろうと思ってな。深読みすればこの上なく怪しいが、もしかしたらなんていうことのないただの島かもしれないし」
「それはないと思うぞ。この島、たぶん相当強力な結界が張られてる。さっきまでの嵐も魔物の群れも、その一端だ。しかもどうやら人が住んでいるらしい。炊事の煙が立ち上るのが見えたからな」
「つまり、ジパングみたいに神様とか、そういうものの見えざる手が俺たちをここに呼び寄せたのかもしれないんだろう? そのくらいはわかるよ、俺にだって」
「なら、なぜ」
 ラグはロンの鋭い視線を、あっさり肩をすくめてかわした。
「どんな相手だろうと、俺としては罠をしかけてきたなら踏み破る。セオに救いの手を差し伸べてくれるのなら受け入れる。そういう心づもりでいるだけさ」
「…………」
「この一ヶ月、死にかけたセオを――実際に何度も死ぬところさえ見せられたんだ。あんな状態からセオを抜け出させてくれるっていうんなら、俺はそれこそ魔族とだって喜んで取引する。それだけだ」
 言ってラグはロンの横を通り、自室へと向かった。下りるにしろ下りないにしろ、自分も装備などを準備しなくてはならない。

 いつも通りに自動昇降魔法具を使って船から降りる。協議の末、最初に降りるのはレウ、フォルデ、ロンと決まった。セオを一人にしておくわけにはいかないし、島に魔法的な罠がしかけてあった場合ロン以外では対応できないからだ。
 停泊した場所が岩がちな浜辺だったので、魔船から降りるとレウたちはひょいひょいと濡れた岩を飛び越えて島まで向かわなければならなかったが、その程度簡単というより障害にもならない。全員軽々と歩を進め――ていたが、半ばほどを進んできた辺りで、突然に先頭を進んでいたフォルデが足を止めた。
「わ、ぷ! 急になにすんだよっ、フォル……」
「……なんであいつが?」
 心底怪訝そうにそう言うと、フォルデは足を速めた。え? とレウは困惑に眉を寄せたが、ロンも同じような調子でひょいひょいひょいと急ぎ足で島へと向かっている。
 え? なんか気になるもんでもあんの? と進む先に視線を向けると、ごつごつした岩を通り抜けた辺りに、一人の女性が立っているのに気がついた。水のように澄んだ紺碧色の髪、瞳は真紅。レウには全然見覚えのない女性だ。
 なんなんだろー、と二人のあとをついていきながら考えたが、数瞬ののちあることに気づいた。女性は耳が尖っている――つまり、あの伝説の妖精族、エルフなのだ。
 フォルデたちはその女性の前に立ち、フォルデは怪訝そうに、ロンは切って捨てるような勢いで、言葉を告げた。
「なんでお前がこんなとこにいるんだよ?」
「というより、なにを企んでいるのかということをぜひとも聞きたいところだな。異端審問官、エリサリ・フリクリ」
 いたんしんもんかん? それに、えりさり・ふりくりって、名前か? 変な名前……と眉を寄せているレウにかまわず、そのエリサリという女性はきっぱりと言う。
「あなた方の勇者を救うためです。――この罪人が流れ着く世界の外れの島、ルザミにおいて」
 ロンの眉が、さらにぎゅうっとしかめられるのが、レウにはわかった。

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