スー〜エジンベア〜最後の鍵――3
「うわー! うまー! セオにーちゃんっ、なんかこれすっげーうめーよっ」
「あ……えと、そう? だったら、よかった……」
「うんっ、こんなお菓子初めて食った! このちょこれーとってソースも、なんかにげーけど甘くってうまいし!」
「あ、うん、そのチョコレートっていうソースは、もともとスー族の人たちがいる、ガディスカ大陸や、サマンオサのある、スリッカー大陸で産出される実を使って、作ったもの、なんだけど。ここではわりと、有名なものになってるみたい、だね。ここは頻繁に、そちらの方と、交易をしているみたい、だから」
「へー……セオにーちゃんたちが言ってた、えっと……おくたびあさんって人と?」
「もちろん、あの人だけじゃ、ないだろうけれど……たぶん、その人とも、だと思う」
「へー……なんつーかさー、なんかすげーよな。俺らの乗ってる船と違って、こっちと向こうの大陸行き来するのに下手したら何ヶ月もかかるんだろ? それなのに普通に行き来してもの売ったり買ったりしてるとかさー」
「そう、だね。俺もそう、思う、かも」
「うんっ! このポルトガって街、ほんとにすげーよなっ!」
 前に来た時はラグと一緒に食べた店のチュロスを片手ににっこり笑うレウに、セオはへちゃ、と顔を緩めた。レウはそれにさらににこにこっと笑顔を返してくるが、それに応えようとするより早くセオとレウの頭をフォルデの拳ががんがんっ、と叩く。
「おら、いつまでくっちゃべってんだ。食糧やらなんやら買い出ししなきゃなんねーもんはまだまだあんだからな、喋ってりゃその間に終わるとか思ってたら大間違いだぞ」
「ぶー、なんだよー、ちょっとくらいならいいってラグ兄も言ってただろー?」
「あ……! ごめ、ごめんなさい、俺、ごめんな、ごめんなさっ」
「うるっせぇ! いいからお前ら二人ともとっととこっち来い、手がいんだよっ」
「うー……はーい」
「………はい。本当に……本当に、ごめんなさい……」
 深々と頭を下げるセオに、フォルデは小さく舌打ちし、がしがしっとセオの頭をくしゃくしゃにしてみせる。
「ぷ、わっ……あ、のっ、本当に、本当にごめ」
「いーからてめぇはとっととその菓子食え! ……別に、息抜きしちゃ駄目だとは言ってねーだろーがっ」
「………え、あ、の、はい………?」
「心配するな、セオ。要するに、こいつは君がレウのおねだりするままにほいほい菓子を買い与えたのがなんとなく面白くないというだけなんだからな」
「………え………」
「なっ……阿呆なこと抜かしてんじゃねぇぇっ! 俺は単にこいつらが買い出しする前に菓子なんぞ食ってやがるから」
「なんだよーフォルデ、そのくらいでセオにーちゃんのこと殴ったわけ? ったくしょーがねーなー、っとにガキなんだから」
「だっからてめぇに上から目線でもの言われる筋合いねぇってんだよっ!」
「ほらほらお前ら、そんな風にじゃれてると道を通る人の迷惑だろう? 別に急いでるわけじゃないんだから、フォルデもそこまでムキになるなよ。買い出しって言っても今日はここに――ポルトガに泊まるんだから、時間はあるんだし。それからレウも調子に乗ってフォルデに意地悪を言わないこと」
「はーい……ごめんな、フォルデ、調子に乗って意地悪言って」
「てめぇら……当然みてぇな顔して俺をこいつの年下扱いするんじゃねぇーっ!!」
「いや、別に年下扱いしてるわけじゃ……」
「そうそう、単に子供組の一人として生暖かい目線で見守っているだけだ」
 そんなことを口々に言いながら、セオたちは買い出しを続けた。ルーラのおかげで買い出しには特に支障はなかったとはいえ、ポルトガのように大きな街にやって来るのはほとんど数ヶ月ぶりだ。全員が揃って街を回る、などというのはほとんどダーマ以来かもしれない。そのせいで、自分も含め、仲間全員が少しばかり気持ちを浮き立たせている気がする。
 特にレウは、ひとつの国の首都を訪れるというのがアリアハン以外にほぼ経験がないため、存分にこの経験を楽しんでいるように見えた。スーでラゴス族に言われたことなど忘れているかのように。
 けれど、本当に忘れているわけではない。それは当然わかってしまう。なにより彼らの言葉を聞いたからこそ自分たちは今ポルトガにやってきているのだから。
 ここから北西に位置する島国、ポルトガとしじゅうやりあっている巨大海洋国家、現在ただひとつ自由に動かせる勇者を抱えている国――エジンベアに向かうために。

「西の海の浅瀬の前で、とは……なんのために、ですか」
 ラゴス族の村で、エドが告げた言葉に、思わず目をみはりながら訊ねると、エドはこれまでと同じようにかぽかぽと足を鳴らしながら答えた。
「存じません。私はワランカの告げられた御言葉を、そのままあなた方に告げているにすぎません」
「……なぜワランカは、そのようなことを、あなた方に告げられた、のでしょう」
「存じません。ワランカの御心はあまりに深く、広く、我々のような矮小な存在が推し量るのは不遜にすぎますがゆえに」
「では、その……西の海の浅瀬、というのはどこにあり、そこにはなにがあるのか、ご存知ですか」
「場所については後ほど地図に場所を書き込んでさしあげましょう。細かい座標までワランカは託宣を下されましたので。そこになにがあるか、につきましては……あなた方の旅の、扉を開くもの、とワランカは告げられました」
「扉……」
「……我々がワランカより預かったお言葉はそれですべてです。渇きの壺については、使用されたのちは我らの元に持ってきていただいてもかまいませんが、そのままお持ちいただいてもかまいません。我々の中でも、ワランカより託宣をいただくことのできる私がいる今、争いの元となる宝物を持ち続けることの是非については結論が出ておりませんので、ワランカに渇きの壺を使うよう指示を受けたあなた方に所持していただくのは決して間違ったことではありますまい」
「……少し、お聞きしても、いいですか」
「なんでしょうか」
「ワランカはなぜ、俺たちを選ばれたのだと、思いますか? あなた方が、どういう風に考えているのか、お聞きしたいんです」
「なぜそのようなことを?」
「俺たちは、まだ、ワランカに選ばれたという事実を受け容れられては、いません。ただ粛々と受け容れる、には、俺たちはワランカを知らなさすぎる、からです。少なくともあなた方の、ようには。まるで理解も、感得も及んでいない相手に、なぜ選ばれた、のか、できるだけ納得したいと思う、ので……あなた方にとってのワランカを、できるだけ詳しく、お聞きしたいんです」
 セオの言葉に、エドは考えるようにかぽかぽとまた蹄を鳴らした。エドの背後に控えている族長とその側近たちも、わずかにざわめいて素早く視線を交わす。
 セオが無言のままそんな彼らをじっ、と見つめていると、族長たちは表情をわずかに揺らして小さく身を引き、じっとエドを見つめ出した。エドはしばし無言のまま足を踏み鳴らしていたが、やがて身を震わせて首を振る。
「わかりました。ワランカに選ばれたあなた方がワランカを知りたいというのなら、我々も応えぬわけにはいきますまい。聞いてもワランカの御意志を知ることはできぬでしょうが……できる限り、お話いたしましょう」

 そうしてスーでラゴス族の人々から話を聞いたのち、自分たちはルーラで魔船ごとここ、ポルトガにやってきたのだ。現在渇きの壺を所持している国家、エジンベアに向かうために。
 もともとロンは渇きの壺の所在は知っていたそうだし(渇きの壺というか、国の所有する宝物を知っておくために各国の宝物庫を調査したついでに覚えていた、というだけらしいのだが)、現在もう一度調べても在所は変わっていなかったそうだ。だがロンはエジンベアに行ったことがないそうなので、エジンベアから一番近い国であるポルトガまで一度ルーラで飛んで、そこから北上していこう、と相談の結果決まったのだが。
「……しっかし、けっこう買い込んだよな。保存庫があるから生ものを買っても別にいいのは確かだけど、やろうと思えばいつでもルーラで往復ができるのに、ここまで買い込まなくてもって気がするんだけど」
 魔船の保存庫に食材を手際よく詰めながら言うラグに、ロンがくくっと声を立てて笑ってみせた。
「海老やら蟹やら烏賊やら蛸やら、うまそうな海産物を見るたびに買い物籠に入れていた奴の台詞とも思えんな」
「う……いや、だから、俺のやったことも含めて! みんななんだか今日はずいぶん買い込んでたよなって。やっぱり、久々の大きな街で開放的になってたのかなって思ったんだよ」
「べっつに、そーいうわけじゃねーけどよ。まぁ……ここんとこ、金使う機会もなかったしな。そのくせ魔物倒しまくってたからやたら金は貯まってたし。だったらここで入用なもんいるだけ買っちまってもいいだろって思っただけだ」
「そーだよ、いるもん買っただけだよ! ……だいたいは」
「だいたいどころの話じゃねぇだろ、てめぇの場合は。チュロスだけで終わるなら勘弁しといてやろうと思ったけどよ、そっからも揚げカスタードだの焼き菓子だの果物入りサンドイッチだの菓子売ってる店見るたびすっ飛んでってはぱくつきやがって」
 びしっ、とフォルデに軽く額を弾かれて、レウは顔を赤くしながらも抗議する。
「だっ、だってさっ、このポルトガってとこすっげーお菓子がうまそうなんだもんっ! あんなうまそうなの今まで見たことなかったし、食ってもどれもすっげーうまかったしっ、だから……えと……ごめんなさい……」
 言っているうちに勢いをなくして頭を下げるレウに、フォルデはちっと舌打ちしてから苦笑してぶっきらぼうにレウの頭をわしゃわしゃとかき回した。
「ぷわっ」
「ま、てめぇみてーなガキが菓子食いたがるっつーのはよくわかってたしな。てめぇも一緒に魔物と戦ってたんだから、てめぇにも金受け取る権利はあんだし。まぁ今回は、いいってことにしといてやらぁ」
「! ……へへっ、うんっ!」
 にっこーっと満面の笑顔になってぐりぐりとフォルデの体に頭を押しつけるレウに、フォルデは仏頂面で「っとーしーんだよっ!」とぐりぐり拳を押しつけているが、決して嫌がっているわけではないのはその柔らかい雰囲気でよくわかる。フォルデは優しいから、口に出してはレウのことを罵っていたとしても、嫌われるようなことはまずないだろうと思っていたが、じゃれ合う二人の姿は明らかに、すごく仲がよさそうというか互いを受け容れている者たちが醸し出す気安い空気をまとっていて、思わすセオは顔を緩めてしまった。自分の大切な仲間たちが仲がいいのは、セオとしても、すごく嬉しい。
「まぁ、お小遣いの範囲内って言っても、一日で食べる甘い物としては食べすぎだけどね。今日はしっかり歯を磨かないと駄目だぞ、レウ。あと明日はおやつ禁止」
「え……えーっ! おやつ食っちゃ駄目なのっ!? だだだって今日と明日は違う日じゃんっ!」
「それじゃおさまらないくらいに食べてたじゃないか。いくらなんでも甘い物摂りすぎだからね、体内の糖分を薄めないと」
「まぁ、うまそうな菓子がごろごろ並んでるところで子供に金を渡せばそうなるだろうと予測はしていたが、まさか十件以上はしごするとは思わなかったしな。小遣いの範囲内なら好きなものを買っていいとセオから言質も取られてしまっていたし。それでも平然としているところはさすがというか若いというのは大したもんだと言うべきか……ま、なんにせよ、子供に金を渡しちゃいかんというのはけっこう真理だ、ということだな」
「ううううう……うん、でもま、いいか! 今日たくさんうまいもん食えたし! 毎日毎日あんまりぜーたくしてちゃだめだしなっ」
 ラグとロンに軽く叱られても、レウはすぐに元気を取り戻して荷物を運び出す。もちろん買い込んだのは食材だけではなく、油やら薬やら日用品やら、こまごましたものもかなり大量に買い込んだので(袋があるので持ち運びは非常に楽だった)、運ぶ荷物はかなり大量にあるのだ。
「……セオは、どうだった?」
「え?」
 ふいにラグに訊ねられ、きょとんとする。荷物をてきぱきと倉庫や保存庫に詰めながらなので、視線がこちらに向いているわけではなかったが、なんとなくセオは、ラグに注意深く見つめられているような気分になった。
「今日一日、みんなで街を歩いたわけだけど……どうだったかな」
「え……あの、それは……」
 突然の言葉に一瞬戸惑ったが、すぐにきちんとラグの方を向き、できる限り真摯に答える。
「すごく、楽しかったです。本当に」
「……そっか」
 ラグはそう穏やかな声で答えて、小さく笑った。セオはまた、一瞬戸惑う。なぜか、よくわからないけれど、決して大きな反応を返しているというわけでもないのに、そもそもセオがなにか大したことを言ったというわけでもないのに、ラグがなんだか、ひどく喜んでいるような気がしたのだ。

「なーなー、今ってどのへん?」
「シャンパーニの西端辺りだな。順調にいけば、明日明後日にでもエジンベアに着くはずだ」
 昼食時、いつも通りに全員集まって食堂で喋りながら食事をしている時、そんな話題が出た。もうポルトガを出て一週間近く経っているのだから(ポルトガとエジンベアは距離的にはロマリア〜シャンパーニ間と同程度なのだが、海流の関係で船だと(たとえ魔船でも)どうしてもある程度時間がかかってしまうのだ)、確かにそれくらいにはなるだろう、とセオは心の中でうなずく。
「エジンベアかー……なーなーラグ兄、どんな国なんだ、エジンベアって?」
「んー、そうだな……」
「粗野かつ高慢、礼儀正しくも荒々しい、鼻持ちならないと同時に馬鹿馬鹿しいほど誠実な国民の集まった国だ」
「……へ?」
「ロン……間違いだとは言わないが、もう少し言い方ってもんが」
「俺としてはできる限り正確に奴らの国民性を言い表したつもりだぞ」
「はぁ……? 意味わかんねーぞ。性格矛盾しまくってんじゃねーか。国民全員頭おかしいとか言う気か?」
「そうじゃないんだが……そうだなぁ。そういう正反対の性格が一人の人間の中に矛盾なく同居してるというか……」
『……はぁ?』
「そうだな、例を挙げてみよう。俺が以前会ったエジンベア人はどいつも、他国の人間を呼ぶ時には必ず『田舎者』をつけた」
「……はぁ!?」
「しかも悪意があってそう呼ぶというんじゃなく、当然以前の認識というか、ほとんど挨拶のように言うんだ。声をかける時は『よう、田舎者!』。一緒に戦う時も『そこの田舎者、後ろは任せた!』。相談をする時ですら『お前のような田舎者にこんなことを相談するのは悪いとは思うが……』と言ってのける。それでこっちが怒ると、やれやれしょうがないなこいつは仕方ないから俺が大人になって退いてやるか、というような顔になって『わかったわかった、悪かったよ田舎者』と抜かしてのける」
「え、田舎者って……エジンベアってそんなに都会なの?」
「いや、都会なのは確かだけどそこまで文化水準が高いわけじゃないよ。街並みを見たらたいていの人間はロマリアの方がきれいだと言うだろうし、人口で言うならダーマの方がずっと多い。あと性格的にもなんていうか、どちらかというと野蛮人の部類というか……弱い者から金品を強奪するのは当然のことだ、とか戦いで勝った相手の中に女がいたら好きなように扱っていい、とか当たり前みたいに思ってたりするしね」
「……っだそりゃ! 脳味噌にウジ湧いてんのかエジンベア人って奴ぁ!?」
 激昂するフォルデに、ラグとロンは苦笑しながら顔を見合わせ、肩をすくめて口々に言う。
「で、そういう鼻持ちならない相手なのに、いざっていう時には命を懸けて仲間を守ってくれたりして」
「しかもそれについて恩着せがましいことをまるで言わず、礼を言われても『共に戦う相手を守るのは当然だろう?』ときょとんとするぐらいで」
「一度約束したことは死んでも破らず、仲間を裏切るか死ぬかどちらを選ぶか、ってことになったらためらいなく死を選ぶくらい誠実で」
「剛毅で猛々しく、勇敢さも人一倍、戦うとなったら死ぬまで全力で戦い続けるが、和解するとなったらそれまでの恨みつらみをすぱっと切り捨てて笑顔で握手してくる。そういう奴らなのさ、エジンベア人っていうのはな」
「………はぁ………?」
「なんか、いい奴なのか悪い奴なのかわかんねーな、それって」
 それぞれ首を傾げるフォルデとレウに、ラグとロンはまた苦笑する。本物のエジンベア人と何人も会ってきた二人としては、実際そうとしか反応のしようがないのだろう。
 セオはそんな会話の中、一人黙ってレウの作ったサンドイッチを食べていたのだが(レウも訓練の末、簡単な料理は一人で作れるようになったのだ。それでもまだ料理当番の時は誰かが一緒について指導をすることになっているのだが)、ふいにレウがこちらを向いて「なぁなぁ、セオにーちゃんっ」と訊ねてくるのに目を瞬かせた。
「え、と。なに?」
「あのさ、なんでエジンベア人ってそーいう性格なの? フツー、国民みんなそーいう性格になるとかあんまりねーと思うんだけど」
「あんまりっつーか、当たり前に考えてありえねーだろ、そんなん」
「え、と……俺が言えるのは、本で読んだこととかから考えた、歴史的な見地からの推測だけなんだけど……それでいい、ですか?」
 レウとフォルデを等分に見比べながら言うと、二人ともそれぞれの表情でうなずく。セオは小さくうなずき返して、話し始めた。
「エジンベアというのは、成立としては部族の集合国家なんです。エジンベアのあるブィットゥン島は、もともといくつもの部族、それも海賊行為を主産業とする部族が集まっている島でした。周囲の国々から何度も略奪をくりかえし、互いに縄張り争いをするのみならず、互いから略奪を働くことも頻繁にあったそうです。なので、エジンベアが成立する新暦七百年代以前は、部族間で本当に血で血を洗う戦いが幾度も繰り返されていたそうです」
「へぇー……」
「エジンベアが国として成立したのは、ロマリアでの権力争いに敗れた、シャンパーニの貴族が落ち延びてきてからです。彼はエジンベアで国家を興そうと考え、幾多の部族を少しずつ懐柔し、侵略し、手中に収めていきました。領土や侵略という考えになじみがなかったブィットゥンの海賊たちは、権力闘争に慣れたロマリア貴族の思うがままに操られ、傘下に入り、国家というものがどういうものかも知らないままにエジンベアという国家の構成員になっていったんです」
「……ふーん……」
「ですが、当然のことながら、国家として成立した後の部族の取りまとめには非常な苦労が伴いました。部族の人間たちのほとんどは国家の成員という自覚もありませんでしたから、それに伴う義務も権利も思考の埒外にあったんです。そこで、彼らを教育するために考え出された理念――ノブリス・オブリージュ≠ェ、現在のエジンベア人の性格の根本を成しているんじゃないか、と俺は思います」
「のぶ……? なに、それ」
「ノブリス・オブリージュ≠チていうのは、古代語で高貴なる者の義務≠チていう意味なんだけれど……簡単に言うと、貴族みたいに、人の上に立つ人間はそれに伴う義務――困っている人を助けたり、組織の腐敗みたいな間違っていることを正したりっていうことをしなくちゃならない、っていうことなんだけど。その精神で――自分たちを尊い存在だと思わせることで、義務を果たさせよう、と当時のエジンベア首脳陣は考えたんだと思います」
「………は?」
 きょとんとするレウとフォルデに、セオは懸命に説明を試みた。エジンベア人がどういう人々なのかというのは、たぶんここを理解しておかないとさっぱりわからない。
「古代帝国以前から存在する、貴族というもの本来の在り方と言われるノブレス・オブリージュ≠フ精神は、つまるところ高貴な人間は周囲から尊ばれる分働かなければならない≠ニいうことです。それを拡大解釈し、エジンベアに属する部族の人々に、『お前たちは戦う高貴な人間である』『家族を、仲間を守って戦うお前たちは高貴な貴族と呼ぶにふさわしい存在である』『だからこそその名にふさわしいだけの義務を果たさねばならない』と啓蒙……あるいは洗脳を行っていったんです」
「えー……もしかして、それでエジンベアの奴らって、みんな?」
「うん、そうじゃないかって言われてる。自分たちは高貴な存在だと考え、出会った人々に対し自身を上位の存在として接するんだけど、だからこそ上位の存在としての義務を果たそうとする。実際エジンベアの貴族はほとんどが慈善事業にすごく熱心だし、戦場にも率先して赴くそうだよ。ただ、それもあくまで上から施しを与えるようなものだ、って考える人も多いらしいけれど」
「へー……うん、だいたいわかった。エジンベア人って、みんな偉そうだけど、偉そうにするだけのことはしよう、って奴らなんだよな?」
「俺は、あくまで、知識として推測しただけだから、当てにはならない、けど……」
「話半分に聞いといても……気に入らねぇな。なんで勝手に親切にされて勝手に偉ぶられなきゃなんねーんだ」
「フォルデ……お前なぁ……」
「まぁお前がいついかなる時どんな相手にもそういう反応をするのはわかっているが。とりあえず人間の好き嫌いを決めるのは本人と会ってからにしたらどうだ?」
「るっせーな、てめぇらにんなこと説教される覚えはねぇぞ、そもそもてめぇらが言い出したこっちゃねーか」
「まぁ、それはそうなんだが。エジンベア人ってのは会ってみれば気持ちのいい相手が多いぞ?」
「それに、エジンベア人に勝手に偏見を抱いて喧嘩を売られまくられても困るからな。今回はとりあえずは平和的に話し合いで解決するつもりだし」
 ラグとロンの言葉に、フォルデはむ、と不満そうに腕を組んだ。フォルデは盗賊という職業に誇りを持っているので、盗む≠ニいう行為については独特の哲学がある。一般人から武力で強奪した宝物を、話し合いで手に入れるというのはあまり面白くないのだろう。
「……っつか、本気で話し合いだけで解決できると思ってんのか? 向こうはあっちこっちから宝物奪いまくってんだろうが、そんな相手に礼儀守っても意味ねーだろ」
「まぁ基本的に海賊気質なのは確かだけどな。今は曲がりなりにも文明国なんだ、そこから無断で宝物を奪っていくってのは基本的には犯罪になっちまう」
「向こうは自分たちのやったことが非人道的だなんて意識はまずないからな。まぁ絶対確実に一国の王城から宝物を盗れるというなら任せてもいいんだが……バレた時の危険性が高すぎるからな、まずは交渉で様子見から入るのがいいと俺は思うぞ」
 ラグとロンに揃って言い返され、フォルデはむっとした顔で黙り込んだ。盗賊だからこそ、王城の警備がどれだけ厳しいものかよく知っているのだろう。
 アリアハン帝国が侵略する以前も以後も、スー族の人々の住み家に押し入り、宝物等を奪っていく人々は決して少なくはなかった、と聞いている。つまり、それだけ他国の人間の存在や意志を軽視する考え方が蔓延していたということなのだろうが(現在ですらそういった考え方は決して珍しいものではない)、『他国から財宝を強奪するのは犯罪に等しい』という考え方が正当なものとされる現在に至っても、過去に奪った金銀財宝を素直に返す人間というのはまずいない。
 過去に得たものは自分たちのもの、と当たり前のように考える者は多いし、自分たちのものを他国の人間に渡すということに抵抗を感じる人間はさらに多い。特にエジンベアは、多くの者が誠実でありながら海賊的な気質を今も持ち続けているという国だ。普通に考えて、ただ話し合っただけで渇きの壺を手に入れるのは難しいだろうが、ラグとロンは最初から『まずは個人での交渉から』という意見を崩さなかった。
「なにせ、勇者を擁する国だからな。できるだけ敵対したくはない」
『…………』
 ロンの言葉に、数瞬場に沈黙が下りる。つまり、ラグとロンの論拠は、そういうことだった。
 現在勇者を擁している国は、アリアハン、ポルトガ、イシス、サマンオサ、エジンベア。このうちアリアハンはセオのいた国だし、ポルトガとイシスはすでに誼を通じている――が、どちらも勇者としての力を十全に発揮できる状況にはなく、サマンオサの勇者は現在行方不明だ。
 そんな中、ただ一人、国家に属する勇者として活躍しているのがエジンベアの勇者なのだった。
「なーなー、エジンベアの勇者ってそんなにつえーの?」
「強いかどうかはともかくとして、貴重な勇者としての能力を持ってる相手だからな。喧嘩はしたくない。勇者と勇者が戦うなんてことになったら、どんな結果になるにしろろくなことにはならないだろうからな」
「んー……こっちが負ける、とか?」
「それはわからんが。なにせ勇者の力というものについて、俺たちはろくにわかっていないわけだし」
「ただ、国に属する勇者なんだから、勝っても負けてもエジンベアはなんとか体面が立つように根回ししまくるだろうからな。あんまり喧嘩したくないんだよ、俺たちは一応、ダーマから睨まれている身の上ではあるし」
「あー……」
 レウは納得半分、困惑半分といった声で答えた。自分たちがダーマに敵視、あるいは警戒されているということは聞いていても、ダーマの人々にいろいろと親切にされているレウには(これまで存在を知られていなかった勇者であるレウには、ダーマの人々は敬意を持って丁重に接しているのだ)いまひとつぴんとこないのだろう。
 セオとしても、ダーマの上層部の人々の態度にはいまひとつ釈然としないものを感じていた。顔を合わせた時には『あなたのような方が勇者と呼ばれるとは、世も末ですな』『堕ちた勇者と判定されぬようせいぜい精励していただきたいものだ』というように、嫌味と思わせたいのだろうこと(セオとしては彼らの言うことはほとんどはまったくその通りだと思うし、ダーマでは自分は実際法を犯した人間ではあるのだから、反論も反抗もしたいとは思わない)を言うのに、その実彼らは自分に対しても親切にしてくれている。
 ダーマにいた頃の宿の手配等々のみならず、大神官であるウェイビが自分たちをガルナに連れていってくれたのも善意、というよりは身を切ってでも自分たちに力を与えようという決意を感じるし、自分がジパングでのことで倒れた時にもダーマの人々は自分を助けようと身を尽くしてくれた。もちろんその礼をして回った時にはいろいろと嫌味(と思わせたいのだろうこと)を言われたが、セオとしてはそう言われるのも当然だろうということしか言われなかったし、実際に彼らが自分たちを害そうとしたことは一度もない。
 なんというか、わざと自分たちに『この人たちは自分たちに害意を持っているのだ』と思わせたがっているような感じさえ受けるのだが、ではなぜ自分程度の存在にそんなことをしようと思うのかさっぱりわからないため、とりあえずその態度をそのまま受け入れている。他にやりようがないからではあるものの、実際困惑せざるをえない。
 だが、それはそれとしても勇者と喧嘩をしてもろくなことにはならない、というのはセオも同意するところではあった。今はただでさえ魔物と戦わざるをえないのに人間とまで戦っても、ということとは別に、勇者の、世界に――特に属する国家に対する影響力の大きさというのはセオもよく知っていたからだ。
「なーなーセオにーちゃん、エジンベアの勇者ってどんな奴なの? すぐ喧嘩吹っかけてくるよーな奴なの?」
「え、と……そういうわけでは、ないんだけれど。属する国家……エジンベアに対する、帰属意識……自分はエジンベアの人間だ、っていう意識がすごく強い人だ、っていうのは聞いているよ」
「へー……つまり、どーいうこと?」
「ふん……要はエジンベアに喧嘩売ったらそいつが脳味噌沸騰させて突っ込んでくるってこったろ。あしらってやりゃあいいじゃねぇか」
「いえ……突っ込んでくる、というだけでなく。俺たちを本当に、人類の敵として認定させるべく、方々に働きかける可能性が高いんです。今、俺は堕ちた@E者となる可能性を持っている、と目されてはいますが、本当にそうだと知らしめられているわけではありません。ダーマにそう目されている、という事実も基本的には国家首脳部くらいしか知らず、民間にはあくまで不名誉な噂、としてしか知られていません。けれど、本当に堕ちた@E者だとダーマに認められてしまった場合、俺たちはどんな小さな町にも近寄れなくなる、どころか各国から犯罪者以上に敵視され、追われることになります。そして、堕ちた@E者だと認定する際に、一番重要視されるのは同じ勇者の意見なんです」
「えっとー……つまり、エジンベアの勇者怒らせたら、俺たちのことおちた勇者ってみんなに思わせようとするってこと?」
「ケッ……勇者だかなんだか知らねぇが、偉ぶってる奴らってのはどこの国でも一緒だな。真正面からいって勝てねぇからって、くっだらねぇ根回ししてきやがる」
「……ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
「てめぇな……」
 こちらをぎろりと睨んでくるフォルデに、たまらなく申し訳ない気持ちになりながらも、必死にその瞳を見つめ返して頭を下げる。
「俺は、全力でそれに抵抗します。死力を尽くして頑張って、俺が堕ちた@E者じゃないと証明します。でも、俺だけの力じゃ、どうしても不十分なので……フォルデさんや、ラグさんや、ロンさんに、それからレウに、どうか、力を貸してほしいんです」
『………………』
 また食堂に数瞬沈黙が下りた。セオは必死の決意を込めて頭を下げていたが、ラグとロンとフォルデがじっと自分を見つめていること、レウがきょとんと周囲を見回している気配は伝わってくる。
 と、フォルデがのろのろと口を開いた。
「……お前、よ」
「はい」
「……や………」
「……はい?」
 フォルデはなにか言おうとしている――が、ためらうように口ごもってなかなか話し出そうとしない。その間をすくい取るように、ロンがすたり、と椅子から立ち上がった。
「さて、全員飯は食い終ったようだし、そろそろ全員作業に戻るとするか。フォルデ、後片付けは頼むぞ」
「わ、わかってんだよっ、んなこたぁっ」
「……さて、それじゃあ俺たちも行くとするか。な、レウ」
「へ? 行くって……」
「お前、当番忘れたのか? 午後はお前が操縦当番だろうが。俺はその付き添い、ってことになってただろ」
「あっ、やばっ! そーだったっ、急がなきゃっ」
「よし、それでは俺たちも行こうか、セオ? この自由時間は俺も甲板で稽古をする予定なんでな」
「あ……はい。それじゃあ……ご一緒しても、いい、ですか?」
「喜んで」
 にっこりと笑ってみせるロンに、なんだかひどく恥ずかしくなってうつむきながらも、セオとロンは連れ立って食堂を出た。もう位置としてはエジンベアの近くなのだ、夜はかなり寒さが厳しくはあるのだが、なにせ今の季節は夏、日差しを浴びていると海風がことのほか心地いい。自由時間を与えられた者も、今のロンのように甲板で稽古をすることが多いのだ。
 ロンとどんな稽古をしよう、と頭の中で考えつつ食堂を出て歩くことしばし、ふいにロンがさらりとした口調で言った。
「セオ。ひとつ聞きたいんだが……誰やらと一線を越えでもしたか?」
「え?」
 セオは思わずきょとんとした声を返す。
「あの……すいません。一線、っていうのは、なんの一線でしょう」
 本来『一線を越える』という言葉の意味は『守るべきことを破る』ということだ。だが、ロンの口調は自分を叱りつけるようなものではまったくなく、どちらかというと穏やかで優しいものだった。なので、単にしてはならないことをしたか≠ニ訊ねているようには思えない。どちらかというと、これは。
「まぁ、貞操というか操というか……こういった言葉は女に使うものだ、とされているのが俺としては正直面白くないが。要するに、童貞なりなんなりを捨てたか、ということだ」
「? いえ、そういうことは、特に……」
 予想通りの意味ではあるが、やはり少しばかり唐突に感じられる質問に思わず首を傾げつつ答えると、ロンは小さく苦笑して、歩きながら肩をすくめてみせる。
「まぁ、そうだろうな。君の心がそんなことで揺らされるとは思っていない、一応確認しただけだ。……俺としても君にこんな質問をするのは気後れしたんだがな、予想通りに申し訳ない気すらしてしまったし」
「? はい……」
「それではもうひとつ聞くが。ならばどのような心境の変化があった?」
「心境の変化、ですか?」
「ああ。俺には君が、なにもないのに、あっさりと変わることができるようには思えないのさ。少なくとも、相手の気持ちを受け容れて、前向きに考えることができるようになるなど、正直今まで考えたことがなかったからな」
「え……そ、そう、です、か?」
「ああ。俺にはそう見える。初めてそういうところを見たのはスーからだが……もしかするとそれ以前からそう変わっていたのかもしれんが。とにかく、君が俺たちの、自分を大切にしてほしい≠セの自身を傷つけ損なうようなことをしないでほしい≠ネどという感情を受け容れて、その通りにしてくれるどころか事態を前向きに捉えようとしてくれるなぞ、これまで考えたこともなかったからな」
「あの……そう、なんです、か?」
「まぁ、俺にはそう思えた、というだけだがな。ラグやフォルデはまた違った感想を持ってるかもしれんし」
 セオは思わず小さくうつむいた。そうなのではないか、と思っていたことではあるが、こうして真正面から告げられるのは、たまらなく申し訳なさを掻き立てられることだった。その場に土下座して、何度も額を床に打ちつけて、大声で許しを請いたくてたまらなくなる。
 ――けれど、自分にはそんなことは許されていない。
 ラグも、フォルデも、そしてロンも、自分にそんなことは望んでいない。というよりむしろ、してほしくない、と思っているのだ。そんな感情を無視することなど自分にできはしないし、なにより、セオ自身強く、強く思うのだ。
 この人たちを傷つけるようなことは、絶対にしたくない、と。
 だからセオは小さくうつむいてから、ロンに真正面から向き直って頭を下げた。
「……ごめんなさい。ロンさんにも、フォルデさんにも、ラグさんにも本当にごめんなさい。ずっと傷つけてきてしまって。何度謝っても許されることじゃないと、本当に思います」
「…………」
「だけど、それを取り返すなんてことはどれだけやってもできないんでしょうけど、俺は間違っている――ロンさんたちを傷つけてしまっているところを、少しでも正していきたい、って思うんです。どれだけできるかわからないけれど、俺のできる限りの力を振り絞って。だから、お手数おかけして本当に申し訳ないんですけど、力をお貸ししてもらえないでしょうか。俺の間違っているところを、どれだけでもいいので、教えてもらいたいんです」
「…………」
 ロンはしばしじっとこちらを見つめているようだったが、やがてくすり、と笑った。くっくっくっ、と喉の奥を鳴らすようにして笑い声を立てている。セオは思わずきょとんとして、おずおずとロンを見上げた。
「ロン、さん……?」
「いや、すまん。なんというか……本当に成長したんだなぁ、と。なんというか、嬉しいような、それが俺と関わりのないところで起きたことなのが面白くないような、そんな心境でな」
「! そんな、俺、そんなに成長とかしたわけじゃありませんしっ、それに関わりがないとかそういうのは絶対……!」
「いや、ないだろう。君がこのままじゃいけない≠ニ心の底から思うようになったのは、ラグに殴られてからだろう? ルザミで」
「え………あ……の」
「まぁ、それがわかるくらいには、俺も君を観察してきているということさ。一応カマかけも兼ねて聞いてはみたがな」
「…………」
 セオはなんと言えばいいのかわからず、ロンを見つめた。その顔には穏やかな笑みが浮かんでいる。優しげで、柔らかい、いつものロンの微笑だ。
 困惑と、緊張やらなにやらでやたらにどきどきと動悸の早くなる胸を抑えながら、しばしじっと互いに見つめ合う。本当に、どう言えばいいのかわからなかった。感謝? 謝罪? 懇願? どれもこの気持ちには、この胸の高鳴りを表すには足りなすぎる。
 そもそも自分などがなにかを言ったところで、ロンになにかいい影響を与えることなどできないし、ロンを本当に喜ばせることなど自分には一生できないだろう、という体にどっしりのしかかるような重圧感は消えたわけではない。今も、こうして見つめ合いながらも、心が、体が、全身が当たり前のようにそう主張する。
 その主張は間違いではないと、セオの実感としてはそう思う。心の強さも、力も、人としての器も、なにもかも足りなさすぎる自分では、とてもこの人が自分にくれたものを返すことなどできはしないと。――でも。
「……俺は、本当に……そんな、成長したとか、そういうわけじゃ……ない、です」
「そうか?」
「はい。ただ……俺は。あの時……ラグさんに、殴られた時。初めて、心の底から思ったんです」
「なにを?」
「……『この人を傷つけてしまった』って」
 今でもはっきり思い出す。自分に抱きつくラグの、熱いほどの体温、そして声と、体の震え。
 あの時、初めて自分は、『他の人間も揺らぐ』のではないかということに――苦しみ、怯え、恐怖を感じ、不安に震え、そのせいで過ちを犯すということもありうるのではないかと、そんな疑問を抱いたのだ。
「それまで俺は、自分以外の人間が、傷つくことがあるかもしれないなんて、考えたことも、なかったんです。俺にとって、自分以外の人間は本当に、どの人も神様みたいに思えたから……自分よりずっとすごくて、心も体も強くって、どんなことでも簡単にできて……だから、怖いとか、嫌だとか、そういう、負の感情を抱くことがあるのかもしれない、なんて……傷ついて、苦しむことがあるのかもしれないなんて、想像したことも、なかった」
「…………」
「レウと出会って、仮にとはいえ自分より目下の、導くべき存在っていうものができて。しっかりしなくちゃいけない、って自分に言い聞かせて……だけどそれでも、やっぱり、レウと向かい合っている時も、自分以外の人は、仰ぎ見るべき相手としか思えなかったから。他の人が、自分と同じように、悩んだり、苦しんだりするなんて本当に、考えたことすらなくて。他の人たちが悩んだり苦しむことがあったとしたら、それは本当に、自分なんかとは比べ物にならないくらい大変なことだって、そういう風に、思えて……」
「…………」
「だから、自分のことなんかを、誰かが気遣うことがあるなんて考えられなくて。気遣ってくれたとしたらそれはその人がものすごく、ものすごく優しいからで、俺が傷ついたり、苦しんだりしても……それが誰かを苦しめる可能性があるなんて、考えたことも、なくて」
「…………」
「それで、ラグさんに殴られて……初めて、本当の本当に……俺は、この人を、この人たちを傷つけてしまったんだ、って思って。それで、その時……『もしかしたら』って、思ってしまったんです」
「『もしかしたら』?」
「はい。『もしかしたら、この人たちは、俺がこの人たちを想うように、俺のことを想ってくれているんじゃないか』って」
 ありえない、そんなわけがない、と何度も否定した。今でも素直に肯定できているわけではない。自分などが、仲間たちにそんな風に存在を認められるなどあるわけがない、セオの感情は今もそう主張する。
 けれど、そのたびにセオの心臓が全力で否定するのだ。あの時感じたラグの痛みは、なによりも確かな徴だったと。
「『心配してくれてるんじゃないか』、『労わってくれてるんじゃないか』、『自分や仲間と同じように、大切な存在だと想ってくれてるんじゃないか』って。『だから俺が傷ついたら、傷つくんじゃないか』って……そういう、厚かましいにもほどがあることを」
「…………」
「傲慢で、不遜で、思い上がっていると自分でも思います。身の程をわきまえていないと心底思います。でも……もし、俺が、俺みたいな人間のそばにいて、その俺みたいな人間を少しでも大切に想っているんだとしたら……その人間が、なにか卑屈なことを言うたびに……悲しくなるんじゃないかって、思ったんです。傷つけられたような気持ちになるんじゃ、って。俺は、ずっと……ラグさんや、ロンさんや、フォルデさんを、レウを、ずっとずっと、傷つけ続けてきたんじゃないか、って……」
 その時感じた気持ちは、正直言葉にしづらい。
 世界が崩壊するのではないか、と思うほど強烈な絶望感だった。申し訳なさに消滅したくなった。どれほど頭を擦りつけても足りない、償えない過ちだと思った。自分が、自分などが仲間たちの心を、本当に、傷つけるなどとは。許されない、許されるはずがない、自分にはそもそもこの世に生存する権利など認められてはいなかっただろうが、百度死と蘇生の苦痛を繰り返してもまるで罰には足りない。そう思った。
 なのに、セオはその時、そういった感情を無視して、震えたのだ。歓喜とも、苦痛とも、幸福感ともつかない、それこそ体の中心に天地を支える柱を叩き込まれたような衝撃に。
 なぜだろう。許されないと心から思いながらも、たまらなく心臓が熱かった。してはいけないことをしたという後悔をまるで気にしていないかのように体中の血が沸き立った。
 ――償わなければ≠ナはなく、なにかしたい≠ニ。この人たちのために、大好きな人たちのために、自分ができるありったけ、いいやできないことでもなんだってしたいと、魂がはじけそうなほど強く思ったのだ。
 泣く権利などないのに泣きそうになって、そんなわけはないのに人生の目的が果たされたかのように満たされて、それなのに体中から暴走しそうなほど力が溢れ出て。この人たちのためならなんだってできる、なんて思い上がりもはなはだしい言葉が脳裏をよぎり。
 どこまでだって行けそうな気がした。世界がどこまでも広がっていく気がした。世界すべてが自分を受け容れてくれたような、そんな勘違いが圧倒的な実感をもって感じられたのだ。
 なぜなのかはいまだにわからないけれど、でも、その実感はいまだにセオの心身を痺れさせている。
「だから……本当に、思い上がっているにもほどがある話だと思うんですけれど。……『応えなければ』って、思ってしまったんです」
「応える?」
「はい……。ロンさんや、フォルデさんや、ラグさんや、レウに。『もう傷つけたくない』って、『なにか返したい』って、みなさんがくれた気持ちに、『応えられるだけの自分になりたい』って。俺なんかがそんなこと考えるの、本当に分不相応で、偉そうで、思い上がってるって思うんですけど……」
「…………」
「……でも。そういうことを言ってる場合じゃないって、思って。俺がどんな風に考えてるかとか、どうでもいいから、みなさんがくれた気持ちに応えられるだけのものを、返したいって。少しでも嬉しい気持ちを与えられたら、なんていうのは、本当に思い上がりすぎですけど、でも少なくとも、縮こまってる暇はない、ってそう、思って。申し訳ないとか許されないとか、そんな気持ちで、やるべきことを怠けるのは、絶対に絶対に、したくない、って。みなさんが俺を、仲間として誇れるようになんて分不相応なことは考えてませんけど、俺が俺を、みなさんの仲間だと……そう胸を張って思えるだけのことを、したいって。そうなるためにできることは、なんだって全力でやらなきゃ、やりたいって……そんな風に、考えて……」
「…………」
「……ごめん、なさい。ロンさんにとっては、押しつけでしかない気持ちだと思うんですけれど……俺は、ロンさんたちが俺を、ほんのひとかけらでも大切だと、そう想ってくれているなら……その気持ちを、俺にできるありったけで、少しでも返していかなければ、いきたいって、そんな妄想を、抱いてしまったので……本当に、こんなことを押しつけるのは申し訳ないと思うんですけど、どうか……」
 セオは一瞬息を吸い込んでから、深々と頭を下げた。少しでも、欠片でも、ロンのくれた喜びが幸福が、それに対する自分の感謝が伝わってくれればと祈りながら。
「俺を、見守って、もらえないでしょうか。少しでも早く、多く、ロンさんたちに気持ちを返せる、俺になりたいんです」
 頭を下げるセオをしばし見つめてから、ロンは小さくため息をついた。それから小さく笑い声を立てて、おそらくはいつも通りの快活な笑顔で告げる。
「すまんな、セオ」
「……なにが、でしょうか」
「君がそういう風に、前向きな気持ちを持つに至ってくれたのは、俺としても非常に嬉しく、喜ばしいんだがな。俺はこんな時にも『俺が育ててやりたかった』なんてことを思ってしまうんだよ。まぁ、そこに至るまでにはもちろん俺も含めいろんな人間とのかかわりがあったせいだとわかってはいるが……俺がきっかけとなる一押しをしてやりたかった、なんてことをな」
「そうなん、ですか?」
 きょとんと首を傾げると、ロンはくっくっと笑い声を立てて、セオの頭を軽く撫で回した。
「そうとも。俺はしょせんその程度の人間だぞ。仲間それぞれにそれぞれの独占欲を抱いてしまっていたりするしな。……だから、君は、俺に罪悪感を抱く必要なんて微塵もないんだ」
「……え」
「苦しめられるのも傷つけられるのも、それが君のためでならば俺は嬉しい。そんな風に考える奴だからな、気にするだけ損だぞ。これからも俺には、好きなだけ空回りしたり苦しんだり傷ついたりしているところを見せてくれていい。愚痴を言うのも相談するのもどんと来いだ。俺はそれが楽しいんだからな」
「…………」
「だから、まぁ、要するにだ。――これからもよろしく、ということだな」
「………っ」
 にやり、といつもの自信たっぷりの笑みを向けられて、セオは腹の底から湧き上がる、溶岩のような、嵐のような感情に耐えきれず、深々と頭を下げた。少しでもこの感情が伝われば、感謝の気持ちが届けばという想いを込めて。
「……はい。こちらこそ、これからも、どうか末永く、よろしくお願いします」
 セオのその言葉に、ロンは軽く笑い声を立てて、「もちろん」と当然のように返してくれた。

「エジンベア、か……初めて来たけどよ、なんか辛気くさいとこだな。寒ぃし、やたら曇ってるし」
「そーかー? このくらいで寒いとか、鍛え方が足りないんじゃねぇの? まー、天気がどんよりしてんのは確かだけどさ」
「まぁ、気候としてはムオルの方が相当厳しいからな。海流の関係もあって、ここらへんは夏は涼しくて冬はわりと暖かったりするんだ。まぁ、今は明け方だからそれなりに寒いが……あと、一日の間でころころ天気が変わるんで濡れないでいようと思ったら雨具が欠かせない」
「うへ……面倒な話だな、そりゃ」
 そんなことを喋りながら、港に停泊した船の上で作業をする。こんな大きな港に停めるのはこれで二度目だが、手続きのみならず、停泊作業も港の人々にわかるようなやり方でやらなくてはならないので(普段そこら辺の岩辺などに停める時は魔船の機構がほぼ自動的にそれやこれやをこなしてくれるのだが、すぐ隣に人がいる港でそれ任せでは下手をすれば不審者扱いだ。いくら勇者の名のせいでどこへでもほぼ自由に行けるとはいえ、周囲の人々をいたずらに不安がらせるわけにはいかない)、普段よりも作業が増えるのはここでも変わらない。
 空はどんよりと曇り、ときおり小雨がぱらぱらと落ちてきたりもするが、さして時間もかけずに止んでくれる。降る時には相当な勢いで降るそうだが、エジンベアの夏はむしろ他国と比べて湿度が低い方なのだという。とにかく天気が変わりやすく、朝は快晴だったのに昼はどしゃ降り、なんていうのも日常茶飯事だとか。それでいて気候はこれほど北にある国にしては穏やかとすらいっていい。不思議な国、というのがセオの第一印象だった。
 この国に育った勇者というのはどんな性格をしているのだろう、とセオは作業を進めながらこっそり考えた。一応勇者教育の中で他国の勇者についても教えられてはいるが、それは本当に一通りの情報でしかなく、どういう人間なのか十全に理解させてくれるわけではない。それはポルトガのカルロスや、イシスのエラーニアですでにわかっている。
 セオがエジンベアの勇者ランクスドール公キャルヴィン・ブランドナー(エジンベアの勇者は代々ランクスドール公位――勇者専用の特別な公位を受け継ぐことになっているのだ。勇者が存在しない時は国王が継承する、領地も(勇者が存在する時も、事実上)直轄地として扱われるという特別な位だ)についてはっきり知っていることは、現在二十二歳のまだ若い勇者であり、エジンベアに対し強い帰属意識を持って積極的に活動しており、勇者の力を及ぼせるのは自分一人に対してのみで、現在(セオがアリアハンを出る際)のレベルは22、ということくらいでしかない。
 この情報を聞いた時、フォルデは呆れたような顔で『勇者のくせしてレベルその程度なのかよ』と言ったが(そしてラグとロンに『お前俺たちもちょっと前までそのくらいのレベルだったの忘れてないか』『というか力を及ぼせる範囲が一人の勇者と四人の勇者とでは出会える魔物の数の桁がまるっきり違うという辺りを思いっきり無視してるぞお前』と言われて黙り込んだ)、勇者の力というのは本当に、どういう加減でどこまで発揮されるのかまるで解明されていない代物なので、今はすさまじい高レベルになっているという可能性も当然存在する。そうでなくとも、セオは彼と敵対したいとは思わなかった。
勇者≠ニ呼ばれる存在のことを――なぜ勇者が勇者と呼ばれるのか、どうやって勇者は勇者と成るのか、その力の源泉はなんなのか、そういったことをセオはまだまるで知らない。自身も勇者≠ニ呼ばれる存在でありながら。
 だから、できる限り敵対よりも対話をしたかった。他の相手でももちろんそう思うことに違いはないが、むしろセオの一方的な都合で、できるだけ喧嘩を避けたかったのだ。もしかしたら、ラグやロンの主張は、自分のその感情を慮ってくれたせいかもしれない(礼を言った時には『そこまで考えてたわけじゃないよ』『俺の都合でそう言ったんだから気にしなくていい』と笑ってくれたのだが)。
 作業を終えて、入国審査等々の手続きをする。船を訪れた衛兵にポルトガと同様御免状(アリアハンで用意されたものに、レウの氏素性等々をダーマで書き添えてもらったもの)を見せて入国の目的(エジンベア国府の人間に面会を申し込む)を告げると、相手は仰天して『そのことについては城で直接責任者の方にお話しください』と早口で告げ、手続きを終えて船から降りていった。セオとレウはきょとんとしたが、ラグは苦笑して、ロンは肩をすくめ、フォルデは鼻を鳴らして受け流し、魔船を待機状態(外部からの干渉を遮断する状態。再起動に手間がかかるが、きちんとした港に勇者の名でもって入港した以上、認識疎外の呪文をかけるのはむしろ問題になりそうだったので)にし、全員揃って船から降りる。
 エジンベア国府が執務を執り行う場所でもある、バルトゥクルギヌス宮殿は港町からはある程度の距離がある。だが靴≠使えば数時間もしないうちにたどり着けるので、朝の日差しが少しずつ眩しくなっていく中を、行き交う馬車を追い越しつつ靴≠ナ早足に歩いた。
 そうしてエジンベア首都である同名の都にたどり着く。魔都、霧の都とさまざまな名前で呼ばれているこの街は、石造りの伝統的な古典様式による建物が立ち並ぶ、ぱっと見たところ古びた感じの都だった。
 だがその古びた、というのは悪い意味ではなく、古くからの建築物を大切にしているロマリアのような、あるいはそれをさらに強固にしたような、古くからの建築物に対する強い愛着と誇りが感じられた。むしろその都中から漂ってくる古びた雰囲気が、エジンベアの冷涼な気候と相まって、装飾過多気味の建築様式にもかかわらず、どこか侘びたような、人の心をしみじみと惹きつける空気を創り出しているようにすら思える。
 しかも都人の古いものに対する愛着は、建築物だけにとどまっていなかった。宮殿に続く目抜き通りには他の都同様大きな商店がいくつも軒を連ねているのだが、その軒先からのぞく店内の調度品にセオは思わず気圧された。なにせ、どこの店でも骨董品ではないかと思うほど古いものばかりが転がっているのだ。
 場合によっては古物として値がつくのではないかという代物が当然のように店の調度品として転がっており、実際に使われてすらいるように思え、セオは驚かずにはいられなかったのだが、ラグはそんなセオの驚きを笑ってみせた。
「まぁ、エジンベア人っていうのは大なり小なりそういうところがあるみたいだね。古いものはいいものだ、って考えがちっていうか、新しいもの嫌いっていうか。伝統に乗っ取っていないものには拒否反応を示すっていうか」
「へー……なんで?」
「さあ。セオの言っていたノブレス・オブリージュ≠ェ形を変えたものなのかもな、とは思うけど。まぁ少なくとも、そこらへんもエジンベア人が他国の人間をやたら田舎者呼ばわりする理由の一つではあるんだろうな」
「へー……なんかよくわかんねーなー、エジンベア人って」
「……そう?」
「へ? そう、って……」
「……セオ、君、もしかして店の調度品が気になるのかい?」
「え! あの、その、あの……はい、そう、です……」
「ああ……確かに、そこらへんの店に当たり前みたいに歴史の塊が転がってるわけだもんな」
「知的好奇心の塊であるセオとしては気になるところだろうな」
「い、いえ、あのっ! 俺のはそんな、知的好奇心の塊なんて、たいそうなものじゃ」
「ほう。では、店をのぞいてみたいなど微塵も思わない、と?」
「………いえ、あの………。…………。……申し訳ない、んですけど、俺は、店を、のぞいてみたい、って、思い、ます………」
 真っ赤になってうつむきながらぽそぽそと告げると、ラグとロンは揃って笑い、先に立って歩き始めた。
「よし、じゃあ、どこか酒場に入ろうか。この辺りの酒場は、その手の代物が本当にごろごろしてるから」
「味の方はどうだ?」
「……まぁ、こだわりがある店は多いよ。その分気位も天井知らずに高い店が多いけど」
「なーなー、酒場って、酒飲むの? 朝から? 俺でも飲めるようなやつとか出るの?」
「まぁ、エジンベアの酒場には昼間に飯を出す店がけっこうあるからな。大きいところだけだけど。ただ食事の味の方は、よっぽどうまいところじゃないとせいぜいがそこそこ程度でしか……」
 にぎやかに喋りながら歩くラグたちの後ろをついて歩く――と、ふいにぽん、と肩を小さく叩かれた。思わず振り返って、目をぱちぱちとさせる。
「フォルデ、さん……」
「おう」
 仏頂面でこちらを見つめるフォルデに、思わず首を傾げる。
「あの……なん、でしょう、か?」
「……お前、よ」
「はい」
「なんで……や、別に理由知りたいってわけじゃねーけどよ。ただ、なんつーか。これまでずーっと変わんなかったくせしていきなり変わったのになんにも知らねーのも収まりつかねーっつーか……まぁ別に変わってねーっていやそーなのかもしんねーけどよ、それならそれで一応言っといてもらわねーと、困る……っつーわけでもねーけど、なんか面白くねぇ……っつーか! 俺ははっきりしねーのが嫌ぇなんだよっ! わかってんだろーな!?」
「? えと、あの、はい……あの、なにが、でしょうか……?」
「………だから……あれだよ」
「はい」
「あれっつーか……お前が……」
「はい」
「っっっ……つまり! 要はなっ」
「ようやく見つけたぞ、アリアハンの勇者セオ・レイリンバートルよっ!」
 高らかに響いた宣言に、セオは思わず周囲を見回す。周囲に気配は感じなかった、と思ったせいなのだが、気配と人影は声より遅れてやってきた。どぉん、と大きな音を立てて馬に乗ったままセオの真正面に降り立ち、びっ、と鞘に入ったまま剣を突きつけて宣言する。
「まさか我がエジンベアに直接乗り込んでこようとはな……愚かなことだ、このランクスドール公キャルヴィン・ブランドナーの目を欺けると考えるとは! 祈りを唱えるがいい堕ちし勇者よ、お前の存すべき地はこの世にはあらず、ただ天界――神々の裁きを受ける場所しか残されてはおらぬのだから………!」
「…………あ、の」
「てっめぇ……横から出てきて阿呆なこと抜かしてんじゃねぇこの脳味噌オガクズの脳天気ボケが!」
 ――セオがなにか反応をする前にそう叫んだのは、久々に怒りに面を朱に染めた、フォルデだった。

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