サマンオサ〜アリアハン――6
「……なるほど。まさか、魔物の変異体がサマンオサを乗っ取っていようとは……」
「やはり、その魔物の背後では魔王が糸を引いているのでしょうか?」
「さあな。だがどちらにしても、やることは変わるまい」
「確かに……魔物が偽王として国をほしいままにしているとなれば、ダーマとしても動かざるをえません」
「やはり蒼天の聖者どのの言葉に間違いはなかったということか……」
 インミンとの出会いのあと、ロンは館の奥へと案内された。予想通り主のいなくなった宿屋を勝手に借りていたようだが、掃除の呪文やらなにやらを使ったのだろう、中はきれいに掃き清められていた。
 そこで、ここにいるダーマの人間のうち、頭に相当するだろう幹部職の人間と話すことになった。インミンも一緒だというのは正直納得いかなかったが、インミンは殿司寮――神事法式を取り仕切る部署からわざわざ転属願を出して三応寮――ダーマの実戦部隊に配備された人材なのだそうだ。つまりそれが許されるだけの戦闘能力と、実戦部隊での経験がよい経験になるだろうと考えられるほどの将来性があるとみなされている、いわば幹部候補生と呼ぶべき者で、こういう場に同席するだけの資格があるのだそうだ。
 まぁ、大神官ウェイビをはばかるところもあるのだろうが、それでも実戦部隊に幹部候補生として配備されるというのはコネだけでできることではない。実際に生き残れなければより不興を買うことがわかりきっているのだから。つまり、それだけインミンは実力を磨いてきた、ということになるのだろうが。
 それでもやはり、あまりインミンの顔を見たくなかったロンは、ひたすらに真正面――このダーマからの一行の外交面での隊長ということになるだろう、知客寮――外交をつかさどる部署の人間たちの方を見て喋った。実際、それはそれで礼儀にかなっているとも言えるわけだし。
 ともあれ、ロンがこれまでサマンオサで見たことをかくかくしかじかと語った結果、知客寮の面々はそれぞれ重々しい顔つきをしかめてうなずき、三応寮の部隊長と視線を交わしてうなずきあってから、ロンに再び向き合って言ってきた。
「ジンロン殿。貴殿を信用して申し上げます。我々は、蒼天の聖者%aからの依頼により、サマンオサの調査に訪れたダーマの外交部隊なのです」
「……サヴァン殿から?」
 ロンは自分をフルネームで呼ばれるのが嫌いで、普段なら呼ばれてもまず返事はしないのだが、サヴァンの情報が出てきたとなれば節を曲げざるをえない。それにこの幹部どもは、正直あまり好みでもないからロンと呼ばれてもあまり嬉しくないし。
「ええ。蒼天の聖者<Tヴァン殿はダーマにおいては、一種の特別顧問のような存在です。大神官猊下が代替わりしようとも直接大神官に目通りすることが許され、その発言によりダーマの議会を開くことがありえるほどその発言には重みがある。サヴァン殿がダーマを訪れられたのは一ヶ月ほど前になりますが、その際サマンオサにおいて、国王が国を崩壊させんとするほどの暴政を布いているという話を聞き、さっそく調査隊が結成され、我々が派遣されたのです」
 一ヶ月前。つまり、ダーマに顔を出してからほとんどすぐ自分たちのところにやってきたことになるわけか。自分たちの居場所が特定できなければ無理なやり方だ。
「本来ならばサマンオサの国王陛下に直接お目にかかったのち、許可を得て調査を行う予定だったのですが……そういった方針は王都にやってくるや変えざるをえませんでした。ジンロン殿もごらんになったでしょう、この国の惨状を。これでは国府に接触することは文字通り命取りになりかねないと判断し、とりあえずダーマに連絡しつつ潜伏するというように方針を決定したのですが」
「まぁ、妥当な判断だろうな。……だが、そうして潜伏しているうちにこの結界が張られ、ダーマと連絡を取ることが事実上不可能になったわけか」
 連絡用の魔道具は備えつけのものでなければ基本的に信頼性が低い。一番確実なのはルーラで直接接触することなわけだが、この結界はどちらの方法もしっかり封じている。ロンがもっと早く連絡用の呪文なりなんなり確実な連絡手段を創り出していればまったく話は別だったろうが、今となってはもう遅い。
 つまり、ダーマからの援軍はまず望めず、外部と連絡を取ることも不可能なわけだ。場合によってはダーマがポルトガなりエジンベアなりを動かして船でサマンオサに部隊を差し向ける可能性も考えられるが、基本的にダーマは軍事行動をほいほい取れる機関ではないし、なによりそれにはそれなりに時間がかかる。偽王もこんな風にわかりやすく強固な結界を張った以上、なにか行動を起こすつもりでいるはずだ。たとえば大量虐殺、あるいは国家の崩壊。あの偽王は魔物なのだから、そのくらいのことをして逃げ出したとしてもさして失うものがあるわけではない。
「はい。なので、改めてご依頼申し上げたいのですが……」
「結界の解除、か?」
「はい。結界が解除できればダーマの援軍を改めて招致することもでき、状況は一変するはずです。戦力をもって国王を討ち取ることもできるはず。むろん内政干渉にならぬよう、有力な貴族なり王族なりと連携を取って要請により戦力を貸した、という形にしなければなりませんが、そういった小細工は我々に任せていただければ。今はなにより、サマンオサの現状を救わねばなりません。偽王が魔物だというならば、なんとしてもできるだけ早急に倒し、これ以上民が殺されることを防がなければ」
「ふむ」
 ロンとしてはそういう大上段から助けの手を差し伸べようという姿勢は好きではないのだが、まぁ言いたいことはわかるし、そういう相手によって救われる人間がいることも否定しない。なにより、今はロンとしても、こいつらの協力が必要なのだ。
「わかった。報酬についての詳しい話はあとでするとしよう。今はできるだけ早く結界を解きたい」
「おお……ありがとうございます。我々にお手伝いできることはありますかな?」
「周囲からの、そして周囲への影響を途絶するために小結界を張りたいのだが、その際に手がほしい。基点となると同時に、外部との連絡役にもなる相手だ」
「おお、ならばシンフォンインミン殿がよろしいでしょう。ジンロン殿とは旧知の仲とお聞きしましたし、結界の基点となるには他者からの影響を受けにくい強い意志が必要、シンフォンインミン殿ならばうってつけかと」
 いいことを思いついた、と心底から思っているような顔で相手の賢者は手を打つ。ロンは(表面上にはまったく感情を出さないようにしつつ)訊ねた。
「…………彼女は幹部候補生という扱いなんだろう。他の人員につけて仕事を学ばせるべき人材じゃないのか?」
「いえ、それは確かにそうなのですが、彼女は現在三応寮に属しているため、知客寮の仕事の間は待機しているべき人材です。勇者のパーティの一員たるジンロン殿のお力を間近で見るのは彼女にとってむしろ大きな力となることでしょうし、なにより彼女以上に適当な人材となるとこの部隊にはおりませぬので……」
「……………。承知した」
 言ってロンは立ち上がり、相手を見下ろしながら告げる。
「適当な部屋を用意してもらえるか? それと水と食事を頼む」
「はい、では、早急に」
 同様に立ち上がり、部屋を出て行く幹部を見送ってからしばし、ロンはインミンに向き直った。インミンは一人、部屋に残ってあれこれと考えていたロンをじっと見つめていたのだ。
 それに思わず心に重石を乗せられたような重苦しい気分になりながらも、真正面から彼女を見つめて言う。
「おい、インミン。真面目に問うが、お前、俺と作業をしている間心を揺らがせずにすむ自信はあるのか」
「っ……」
「人を基点として結界を張る場合の特性はお前も知っているだろう。術者が結界に集中する必要はなくなるものの、移動型にしろ定着型にしろ、基点となる者の意志が結界の強度を決めることになる。単に周囲との関係を途絶させるための結界とはいえ、結界の中ではそれなりに魔力が動くことになる。結界が破れて、敵に魔力を察知されるようなことがあっては、こちらとしても困るんだ」
 淡々とした、感情を抑えた声でそう告げると、インミンはじっとこちらを見つめた。それから落ち着いた声で(逆に言えば、作っていると嫌でもわかる声で)言う。
「心は、揺らぐかもしれません。でも、あなたのご迷惑になるようなことはいたしません」
「…………」
「私にも、誇りがあります。これまで懸命に賢者としてあるべき姿を目指し努めてきた者としての、三応寮に自ら希望して転属し結果を残してきた者としての、そして……」
 一度怯むように言葉を切ってから、また顔を上げ、必死に感情を抑えた顔で。
「あなたに、好意を持つ者としての。時と場合を考えずに感情で心身を揺らがせ、あなたにご迷惑をかけるようなことは、断じていたしません。そうでなければ、私自身が、あなたに好意を持つことを許せなくなりますから」
「……そうか。ならばいい」
 それだけ言ってロンはまた椅子に腰かけた。正直、ますます重苦しい気分になっていた。
 インミンが強い意志と誇りを持って、まっとうに、懸命に、ひたすらに自分を思っていることを、またも思い知らされたからだ。

「ラグぅ、よかったね、一緒の班になれて! 将軍に必死にお願いしてた甲斐あったー!」
「……そうかい」
「んもう、つれないんだから! あたしの紹介で将軍に雇われたみたいなもんなんだから、ちょっとは優しくしてくれてもいいのにっ」
 エヴァにまとわりつかれつつそんな言葉を聞きながら、ラグは班員の詰め所へと向かっていた。ラグはとりあえずヴィトール将軍へ雇われた形になり、配下の傭兵部隊の中でも遊撃――いざという時に使うための小回りの利く精鋭部隊に所属されることとなったのだ。
 ラグとしては、エヴァが精鋭部隊に配属されるということがどうにも納得できなかったのだが、ヴィトールは『案内はその娘にしてもらうがいい』と当然のように言ってのけた。さすがに仮にも雇い主になんでこんな子供(一応成人してはいるが、精神的に)を雇ったのかと問い詰めることはできなかったが、一瞬そうしてやろうかと思った。
 それほど疑問に思わずにはいられない事態だったのだが、エヴァはそんなこと考えてもいない顔で、以前とまったく変わらずにラグにまとわりつき、媚を売ってくる。成長が感じられないその態度に、ラグは思わず深々と息をついた。
「エヴァ……お前、いい加減公私の切り替えくらいはきちんとできるようになりなさい。それくらいできないと、誰からも一人前とは扱われないぞ」
「むぅー、ラグってば、せっかく久々に再会できたのに、そんな意地悪言うかなぁ? あたしこれでも、将軍直々のお声がかりで遊撃班に配属されたくらいの腕手に入れたんだからね?」
「正直、俺としてはそこの辺りが不思議でしょうがないんだけどな。あの将軍閣下は一見したところ、それなりに頭の回る人だと思えたんだが」
 単に自分への寄せ餌にするには効率が悪すぎるだろうに。……いや、もしかして本当にそうなのか? 将軍からしてみればあそこに自分が現れることはわかっていたわけだから、それを狙い撃ちするために……いや、それはおかしい。エヴァがラグの義妹だというのは別に隠しているわけではないが、アッサラームから遠く離れたサマンオサの将軍がそんなことを知っているとは思えない。自分たちの近辺を調べようと思ったにしても、『戦士となって傭兵ギルドに身を投じた義妹』などという代物、普通は存在するなんて思いつかないだろうから調べようともしないはずだ。
 ならばいったい、ヴィトールはなぜ、エヴァを雇おうと思ったのだろう。
「……また、そんな扱いなんだ」
「え?」
 突然足を止めたエヴァに反射的に振り向く――とたん、エヴァの苛烈な怒りに満ちた瞳に出くわし、思わず目を瞬かせてしまった。
 エヴァが、これまで自分には一度も向けたことがないだろうというほど、強烈な憤激の感情でもって、自分を睨んでいる。
「ラグっていつもそう。いつもいつもいつもいつもそう! あたしがどんなに頑張って、どんなに必死になってラグを追いかけても、ラグには本当にどうでもいいことなんだよね!」
「………エヴァ」
「あたし、本当は戦士なんかになりたかったわけじゃないのに。ただ、きれいで可愛いお嫁さんになって、好きな人のところに嫁いで、一生好きな人と一緒にいたいって、そう思ってただけなのに! 毎日毎日あかぎれだらけの手で武器振るって、骨が折れるかってくらい痛い想いしながら戦って、嫌ってくらい傷だらけの体になって、それでも頑張って、ラグにちょっとでも振り向いてもらえたらって追いかけてるのに、そういうあたしの辛い気持ちとか、苦しい気持ちとか、どうでもよくって、あれしなさいこれしなさい、二言目にはアッサラームに戻りなさい、って! そんな風に、そういう風に言いたいことばっか言っても、あたしは全然めげないとか、苦しくならないとか思ってるわけ!?」
「…………」
「いい加減にしてよ! あたし……あたし、そんな、そんなに強いわけじゃない! あたしはただ、好きな人に振り向いてほしくて、一生懸命頑張ってる、ただの女の子なのに……!」
「…………」
 ラグが無言で見つめていると、エヴァはくしゃっと顔を歪め、背を向けて駆け出す。自分に泣き顔を見られたくない、と思ったのだろう。
 可哀想に思わない、というわけではない、が。
「……俺としては、できる限り早めにめげてほしいんだがな……」
 ラグにとってのエヴァという少女は、今も昔も変わらずに、『うっかり懐かれてしまったからそれなりに面倒を見ている義妹』だ。『ヒュダ母さんに面倒をかけてしまっている相手』とも言える。つまり、どう転んでも家族の一員でこそあれ、換えの利かない特別な相手ではない、ということだ。
 ラグにとって、エヴァの反応というのは、どれも感情や思考回路まで透けて見えるほど読みやすいものだった。八歳までは娼館育ちで、ヒュダと一緒に暮らすようになってからも自分と同じように育てられている少女たちに囲まれていたのだ、女の感情、思考回路、手練手管というものをラグはそれなりに知っている。
 だから、エヴァが自分に売ってくる媚も、女の身には厳しい傭兵暮らしに耐えている自分に対する陶酔も、『そんなに頑張っている自分に対してラグは当然応えてくれるはずだ』という少女らしい期待も、ラグには見えている。そしてその上で、エヴァには早く自分のことを諦めて、早くアッサラームに帰って自分に似合った男を見つけてほしい、と思っていた。
 だからラグは、できる限りエヴァの期待に応えないように振る舞ってきたつもりだ。優しくしてほしいという欲求にも人としての常識を踏み外さない程度にすげなく応え、売ってくる媚にはあくまで上からの目線で『そんなことをする前にやることがあるだろう』と伝え続ける。反論しようのない事実だからこそ、エヴァにはよけいに苦痛だっただろう。
 そんな風にして、できる限り早目に自分のことを見限ってもらえるようにしているつもりだ。エヴァにとっても自分に対する感情は、一時のはしかのようなものでしかないと、ラグはわかっているのだから。
「……お前もいい加減変わらねぇよなぁ? 相も変わらず、ヒュダ母さんの膝の上から下りたがらねぇとみえる」
「!」
 ラグはばっと声のした方を向き、目をみはった。そこに立っているのは筋骨たくましい、歴戦の戦士らしい風貌――そして、自分のよく知る顔貌を持った男だ。
 アッサラームで何度も出会い、同じ釜の飯を食い、そして同じアッサラームで一度命を懸けて殺し合い、最終的には武器を奪って別れた自分の兄弟である男――
「……ムーサ、兄さん」
「てめぇに兄さん呼ばわりされる筋合いはねぇよ」
 そう言って、ムーサは傭兵らしい傷だらけの顔貌を歪め、にやりと笑った。

 灯火ひとつない闇の中を、フォルデは足音を殺して歩いていた。気配もできる限り消して動いている、普通の人間ならば自分がそこにいることすらよほど接近されない限り気づかないはずだ。
 今、フォルデはヴィスタリアを口説いていたギリェルメとかいう腐れ貴族の元へと向かっていた。ヴィスタリアを護衛していた昼間の間に、そいつの居場所等々は突き止めてある。今の時刻は真夜中過ぎ、これまでの傾向からしてもそいつがヴィスタリアのところへ向かう確率は低い。その間にさっさとすませてしまうつもりだった。
 つまり、今フォルデがやろうとしているのは、暗殺だった。さっさとヴィスタリアを自由にして、フォルデ自身が自由に動けるようになるための。
 あんな腐れ貴族に女が凌辱されるのを黙って見ていられるほど、フォルデは心が広くない。ああいうクズ野郎はどこにでもいるとわかってはいるが、目の前に出てきたら目障りなことこの上ない。とっとと叩き潰して自分のすることに集中したかった。
 ――こんな風に、自分のしたいと思ったことを実行できる力がある、というのは悪い気分ではない。ただ、それがセオの勇者の力とやらによるものらしいというのは、正直面白くないものはあった。
 自分が自分自身の力によるものだけでできているわけではないという状況は、フォルデとしては気に入らないし、苛立たしいし、納得いかないものはある。が、実際セオにしても好きでそういう力を得たわけではないようだし、ムキになって拒絶しても意味がないというのもわかっていた。
 なのでフォルデとしては、こういう風に転がり込んできた力はせいぜい無駄遣いをしてやろう、というように考えていた。自分の修練によって身に着けた力ではないのだから、自分のために使うのもばかばかしい。こういう風にヴィスタリアのような不幸な女を助けるために使うなり、セオに力を貸して魔王を倒すのに使うなりしてやればいい、と。
 どうせたまたま得た力だ、他人のためなりなんなり、無駄遣いしてやるのが似合いというものだろう。同様に、仲間が力を貸してほしいと言うなら貸してやればいい。人の力で得た能力など、それくらいしか使いようのない代物なのだから。
 ただ、それはそれとして、その能力を使いこなせるよう習熟したのは自分なりの修練の結果だという自負はあるので、線引きがややこしく面倒くさいのだが、フォルデとしてはとりあえずそういうなんだかんだは魔王を倒すまで棚上げしておくことにしていた。魔王なんぞというインチキな代物を相手にするのに、魔物を倒すだけ強くなるという詐欺じみた力は有用なのだろうし。
 そんな益体もないことを考えつつも、フォルデは誰の目にも止まらぬうちに目的地へとたどりついていた。ヴィスタリアのいた部屋からいくつも渡り廊下を通った公爵専用の(あのクソハゲは公爵なんだそうだ)離宮、ギリェルメが眠っている部屋だ。
 軽く気配を探り、間違いなく中にあの腐れ貴族しかいないことを確かめて、フォルデは音もなく扉を開け、素早く体をすべり込ませてから扉を閉じた。この間一秒にも満たない。見ていた人間がいたとしても、まずフォルデの姿は捉えきれなかっただろう。
 気配を消しながら素早く中の様子を確認する。いくつも連なっている大きな部屋の中央に鎮座している馬鹿でかいベッドに、あの禿頭がでかいいびきを掻いていた。よく眠っているようだ。さっさとやることをすませて戻らなくては―――
 そう一歩を踏み出しかけて、フォルデはぴたり、と足を止めた。
 なんだ、これは。なにがどう、とはっきり言えるわけではないが――なにか、おかしい。
 違和感を感じる。ギリェルメの呼吸音、窓から差し込む月明かり、蝋燭の消された豪奢な燭台から立ち昇る焦げ臭い匂い。そういうものが、フォルデの勘に強烈に訴えてきていた。
 このまま進んでは、危険だと。
 数瞬迷う。が、このまま戻ったところでどうしようもないし、なによりヴィスタリアにとってこの腐れハゲに迫られるというのはそれだけで心身を消耗させることなのだ。下手をすれば命を削ることになりかねない、とあの執事は重々しく主張していた。
 それを放っておく、引いてはヴィスタリアを見殺しにするなんぞという、男の値打ちを下げるようなことをフォルデはする気はない。どう転ぶにしろ、一当てもせずに引いたところで状況の打開には繋がらない。ならば、ここは……!
 すぅっと全身の力を抜き、気配を他者の意識の外に置く。ここまで周囲の気配と一体化すれば、たとえ相手と真正面から向き合っていようと見つかることはない自信がある。
 心を限りなくなにも考えないようにさせて、すいっと間合いを詰めて、腐れ貴族の延髄めがけ、針の先のようなダガーで一撃を加え――
 たとたん、腐れ貴族だったものは、肉塊となって崩れ、同時に猟師が仕掛けた罠のように大きく広がってフォルデを捕えようとした。
 即座に床を蹴って後ろへ飛ぶ。同時に何本もの鋼線つきのダガーを投げつける。それは目論み通り肉塊に突き刺さり、肉を斬り裂く鋼線によって部屋の中の動きを制限する壁となった。
 が、それは一瞬のことでしかなかった。大きく鎌首を持ち上げた肉塊は、突き刺さったダガーに悲鳴を上げながら大きく身をよじったものの、傷つけられた場所で大きく口を開き、ダガーと鋼線をもろともに呑み込んだのだ。そして咀嚼し、消化し、嚥下していく。この手の敵らしい生命力の高さだが、その中でもこいつはとびきりだ、とフォルデは大きく顔をしかめた。
 と、ひどく耳障りな声が部屋に響き渡る。
『ぐふふっ、ぐふくくくっ、見事に引っかかってくれたのう。勇者のパーティの盗賊というから、もう少し歯ごたえがあるものかと期待しておったが』
 間違いない、ギリェルメの声だ。フォルデは鋭く舌打ちをし、ドラゴンテイルを取り出した。
『ああ、抵抗しても無駄じゃぞ。そやつは肉でできた人形、魂どころか生命もなきがゆえに、刃物では殺せん。細切れにしようにも生命力が旺盛すぎて絶えず食事と再生をくり返すようにできているのでな、たとえ勇者のパーティの一員であろうとも間に合わぬよ。そやつの動きを止められるのは破邪の呪文のみ。まぁ、その分普段から動かしておくと周りのものをどんどん食い散らかしてしまいには主にまで危害を加えかねん代物なので、普段は封印してあるのじゃがな』
「…………」
 フォルデは無言でドラゴンテイルを振るい、どんどんと膨れ上がっていくその肉塊に叩きつけた。烈風にも例えられるだろう一撃は肉塊を見事にずっぱりと斬り裂いたが、肉塊は斬り裂かれた後からぶくぶくと膨れ上がり、ドラゴンテイルを呑み込み、ベッドから零れ落ちるまで大きくなって、フォルデへと迫ってきている。
『ぐふふふふふっ、貴様、まさか、陛下が本当に貴様のようなドブネズミに気づいておられないと思っていたのか? 裏をかけている、と? 自惚れにもほどがあるのではないか? サマンオサ城は幾人もの魔法使いが絶えず魔力探査で監視し続けているのだ、たとえレムオルを使い侵入しようともすぐに察知できるようになっているのだよ。勇者が高いレベルに任せて攻めてこようと、対処できる手を我々は打っている。そうして今、最初の一匹が罠にかかった、というわけだ』
「………っ」
 幾度も幾度もドラゴンテイルを振るうが、肉塊の膨張が止まる様子はない。それどころか膨れ上がった肉塊は、部屋の半ばを埋め尽くし、フォルデの足元まで迫ってきていた。
『ぐふふふふっ、逃げないでよいのか? 貴様のような薄汚い盗賊風情でも、この化け物が貴様の力の及ばない相手だというのは理解できよう。いったん引いて、再起の時を待つ程度の知恵もないのか、貴様には?』
「…………」
 フォルデはしばし沈黙を続けた。フォルデも一度退いた方がいいか、と考えなかったわけではない。
 だが、ここでさっさと逃げ出せば、このくそったれで悪趣味なクズ野郎は、絶対に自分の身代わりとなる生贄を、逆らえる力もないような奴らから選ぶだろう、とフォルデにはわかっていた。この肉塊に捧げるなり、自身の腹いせにいたぶり殺すなり、どういう意図であれ、他者に血と命をもってフォルデという獲物に代えるだろう。こういう下衆野郎の考えることは、どうせどこでも同じだ。
 フォルデは見知らぬ人間の命をわざわざ救うような酔狂な趣味はない。だが、自分のしくじりを他人に押しつけるような真似は、フォルデの盗賊としての矜持が許さない。
 なので、沈黙のあと、低く告げた。
「……確かに、今回、俺はしくじった。だが、忘れるなよ、クソ野郎。俺は自分が受けた借りは、死んでも返す質なんだよ」
『ぐふふふふっ……ようもまぁ、ほざいたものよ。ならば、どこまでその意地を張り通せるか、ひとつ確かめてみるとしようか――』
 その言葉と同時に肉塊が爆発的に膨れ上がり、フォルデは肉に喰いつかれて塊の中へと沈んだ。

「………………は?」
「は? じゃなくってさ。俺、勇者なんだよ。まー、まだセオにーちゃんと比べたらまだまだだけどさ。勇者の体質、っていうの? そういうのはあるみたいなんだ。力の範囲は俺一人だけだから、仲間は作れないんだけど」
「………は………?」
「いや、だから、は? じゃなくてさ……」
 顔も体も呆然、を絵に描いたような形で固まっているガルファンに、レウはぽりぽりと頭を掻いた。このガルファンという兄ちゃん、いちいち反応が奇妙というか、今までレウが見てきた大人たちの中でも相当に突拍子もないので、こちらとしても対処に困る。
「まー、別にだからどうこうっていうか、勇者を恨む気持ちとかを捨てろとか言うわけじゃないけど……一応知っといてもらえればそれで」
「ふざけるな!!!」
「……はぁ?」
 ようやく正気づいたらしいガルファンは、殺気立った血走った目でレウを睨んでいる。今にも胸倉をつかみ上げかねない勢いだ。レウはえ? え? なんでそんなブチ切れてんの? と戸惑いながらも、ガルファンと真正面から向かい合う。
「ふざけるな。ふざけるなよ、貴様! 貴様のような奴が、勇者だと!? 世界を救う人でなしだと!? 馬鹿なことを言うな! お前のようなまだ成人もしていないようなガキが!」
「でも、勇者の力っていうのは五歳頃にはもう出てきてるんだろ? ロンは俺くらいの年で勇者の力が出てきても、全然おかしくないって言ってたぞ」
「ふざけるな………! なんでそうなる! なんでそんなことが許される! なんで貴様が……貴様のようなガキが……! そんなことがあっていいわけがない!」
「いや、あっていいわけがないっつわれても実際にあるんだからしょうがないじゃん」
「ふざけるなと、言っている……! そんな、そんなことが許されていい訳がない………! そんなことがあるなら、本当にあるんだとしたら………!」
 ガルファンは今にも斬りかかってきそうな血走った眼のまま、レウに向けて手を伸ばす。
「その力、俺によこせ」
「はぁ?」
 思わず目をぱちぱちとさせるが、ガルファンはそんな素振りなど気にした様子もなく、というよりひどく切羽詰まった表情でずい、ずいとレウに向けて手を近づけていく。
「勇者の力を俺によこせ。その力はお前なんかには過ぎた代物だ。お前なんかより俺の方がずっとうまく使える! そうだ、俺の方がずっと勇者にふさわしいはずだ! 俺はずっとずっと努力してきた、苦しんできた、耐え続けてきた! ずっと辛苦に耐え続けてきた俺の方が、絶対に勇者にふさわしいはずだ!」
「え、いや……勇者の力って、あげたり取ったりできるもんかわかんないし……」
 できたとしてもそんな風に言ってくる奴にあげたくない、と正直な気持ちを告げる前に、ガルファンは奇声を上げながら自分につかみかかってきた。
「よこせ……よこせ、よこせ、よこせぇっ! それは……勇者の力は、俺のものだ………!!」
 胸倉をつかむ、というより明らかに首を絞めようとしているその勢いに、レウはえ? え? と混乱しながら押し倒され、首を締め上げられ――
 そこでようやく今自分は命の危機にさらされているのだ、と気づいて一気に意識が戦闘状態のものへと変わった。素早くガルファンの腹に膝を入れて、ガルファンがごふっと息を吐き、その手から力が抜けた瞬間に、首にかけられた手の甲を突いて力を入れられないようにしつつ振りほどき、同時にぱぁんとガルファンの体を跳ね上げつつ、その勢いを活かしてガルファンの上に乗り、しゅっと首を絞める。フォルデたちに教わった締め技は見事に効果を発揮し、一瞬でガルファンは意識を失った。
 それでとりあえずほっ、と息をついてから、レウはうーん、と首を傾げた。
「この兄ちゃん……なんで、あんなこと言い出したんだろう」
『俺の方が勇者にふさわしい』。『勇者の力は俺のものだ』。つまりこの人は、勇者の力がほしくてほしくてしょうがない人だったんだろうか。
 自分も、ムオルにいた頃は、もっと強くなりたい強くなりたいと念じていたけれど、この人のはなんか違う気がする。必死だとは思うんだけど、その必死さが、なんていうか、すごく苦しそうっていうか。力をほしがっているのは確かなんだけれど、『力を得ても自分は苦しいだろう』とどこかで思ってしまっている、みたいな感じがなんとなくするというか。
 うーん、とちょっと悩んでから、いやそんなことしてる時間ないんだった、と慌ててガルファンの上から下り、体の状態を確認してから、ひょいと体を担ぎ上げた。できるだけガルファンの体が楽なように抱き上げて走りながら、頭の中で考える。
『この兄ちゃんが苦しいの、なんとかしてやりたいなぁ……』
 なんとかしてやりたい。なんとか助けてやりたい。自分になにができるかとかわからないし、今自分たちはできる限り早くラーの鏡を取りにいかなければならないのだけれど、それでも。
 目の前で苦しんでる人がいるのに、助けてやれないのは、なんか嫌だから。
 そんなことを考えながら、レウはガルファンを抱えつつ飛ぶようにラーの鏡の安置されている場所へと走った。

「ここが……」
「ええ……ラーの鏡が封印された祠です。祠と言っても、中はほとんどが洞窟のようなものでしかありませんが……」
 休み休み(といっても、その休みはほとんどマイーラの足を萎えさせないようにするためのものでしかなかったのだろうが)マイーラを背負子に乗せて走ること一昼夜と半日。マイーラと勇者セオは、ラーの鏡の安置場所へとたどりついた。目の前には、縄と鎖で封じられた(といっても、形ばかりのものだ。本来ならここには管理人が常駐して侵入者を防いでいたのだが、ここも人狩りの波に飲み込まれたのか、宿舎には人が残っていなかった)暗い洞窟が大きく口を開いている。
 昨夜は小さな天幕の中で毛布だけしかかぶるものがなかったというのに、思いの外寝心地がよく、疲労がうまい具合に働いて普段よりぐっすり眠ることができた。勇者セオはその間ずっと外で見張りをしていたようだが、動きにまるで疲れを見せないまま、平然とマイーラを背負子に乗せて走り続け、マイーラが起きてから数刻もかけずにここまでやってきたのだ。
 恐ろしいほどのそつのなさ、と言うべきなのだろうか。そんなこまごました厄介事を片付けられるのも勇者の力によるものだとしたら、勇者の力というのは本当に便利なものだ。
 そんなことをちらりと考えてしまい、首を振る。勇者の力というのは、そんなことに役立てるものではない。自分は、王として、勇者とどう接するればよいかという教育を受けているし、サイモンという英雄と接する機会が何度もあったのだから、勇者の力がどれだけ有用で、そして恐るべきものか、よく理解しているはずだ。
「マイーラ姫殿下。姫殿下は洞窟の中を、足で進まれますか? それとも」
「自分の足で歩きます。馬鹿にしないでいただけますか?」
「………はい。ごめんなさい」
 言って背負子から降り、祠へと入る。この祠の中は盗掘対策のため(ラーの鏡は初代サマンオサ国王が神より賜ったとされている神具なのだから当然と言えばその通りだが)複雑な迷路構造になっている上にいくつもの罠が施されている。少なくともラーの鏡にたどり着くまでの道筋は覚えているつもりだが、もし覚え間違いがあったら――とちらりと考え、なにを気弱になっているのだ、サマンオサの第一王位後継者がこんなところでつまづいてどうする、と自分を叱咤して一歩前に踏み出す――
 とたん、セオが腕を突き出して、マイーラの歩みを止めた。
「っ!? なにをするのですか、私に道案内をさせるためにここに連れてきたのでしょう!?」
「はい……ごめんなさい。でも、これが……」
 言ってセオが指差した先には、土と石が入り混じった地肌が見える。
「……、これがどうかしたのですか」
「え、あの……足跡が、あると、思うんです、けど………」
「……足跡?」
 もう一度よく観察して、ようやく気づいた。確かに足跡らしきものが残っている。言われなければ気づかなかったろうが。
「………これは……一体、誰の」
「わかりません。でも、注意は、必要だと思います」
「それは、当然でしょうが」
「マイーラ姫殿下。俺は、一度この足跡を追ってみたい、んですけれど、マイーラ姫殿下はどう思われますか?」
「……確かに、サマンオサの神域ともいえるこの祠の中に無断で入った者を警戒するのは当然でしょうが……」
「いえ、あの。もしかしたら、俺たちと、同じ目的でやってきた人かもしれない、って思って」
「!? ラーの鏡を盗み出そうとしている、と!?」
「単純に盗掘目的でやってきた人の可能性ももちろんありますし、サマンオサの偽王などに使おうとしているのかもしれません。でも、どちらにしても、この足跡は、まだ新しい、ですから、急げば追いつくこともできるでしょうし、どちらの目的にしても、交渉できるんじゃないか、って」
「………。わかりました。足跡を追い誤るようなことは、ないのですね?」
「足跡追跡の技術に、ついては、これまでに、何度も教えを、受けました、から」
「では、参りましょう。もしその足跡が本来の道筋とは外れていた場合は?」
「罠の発動状況にもよりますが、基本的には、声をかけて、交渉したい、と思っています」
 そう確認を取ってから、マイーラと勇者セオは、共に洞窟の中へと入った。マイーラが勇者セオのすぐ後ろでランタンを持ち、勇者セオがその案内を受けつつ前に立つという並び方だ。
 勇者セオがレミーラを使って周囲を明るくしたので灯りは必要ないのでは、と思ったが、マイーラはその言葉を口に出すことなくランタンを手にした。正直自分に「マイーラ姫殿下、通常の灯りを、担当して、いただけますか」とランタンを差し出された時は驚いたが(一国の姫にこのような仕事をさせたことが知られれば、無礼なといきり立つ者もいることだろう)、基本的に出てきた魔物との戦いを任せることになるだろうセオに灯りを持たせてもろくなことにならないだろうと思ったし、それに自分で灯りを持つなんて初めての経験だったのでちょっとわくわくしていたのだ。
 無言で足跡を追う勇者セオの跡について、暗い洞窟の中を進む。勇者は魔物を引き寄せる力を持つと言っていたのですぐにでも魔物が出てくるものと思っていたのだが、案に相違して周囲は静寂に包まれていた。少しばかり拍子抜けだ。
 ここまで来る途中も一匹も魔物は出なかったので、似たような状態と言えばそうなのだろうが。だがそんな状態でも、勇者セオが周囲に極力注意を払っているのはわかる。足跡を追いながらも周囲に視界を巡らすのを忘れず、常に気配を探っているのがマイーラにもわかる。さすがは勇者、ということなのだろうが、その程度で自分に見直されると思われては困る。自分はサマンオサの殺された民たちの怨嗟の声を晴らすため、勇者セオとは絶えず敵対していなくてはならないのだから――
 と、勇者セオが突然に、声を上げた。
「エリサリさん!」
「…………!?」
 マイーラは一瞬ぽかんとして、それから目をみはった。勇者セオが明らかに驚いた顔で前へと走り出たからだ。これまで勇者セオはずっと、こちらを馬鹿にしているのではないかと勘繰りたくなるほど落ち着いた顔しか見せなかったのに。
 そして、その声に同様に明らかに驚いている声が返事を返す。
「え……セオ、さん? セオさんなんですか!?」
 そう言って闇の中から進み出てきたのは、女性だった。年の頃はマイーラやセオとほとんど変わらないだろう、まだ若い女性。歩くごとに清水のように澄みきった紺碧色の髪が軽やかに流れ、闇の中でも炎のようにきらめく真紅の瞳が凛とした意志をもって視線を向ける様は、同性のマイーラですら目を惹かれるほど美しかった。
 けれど、紺碧の髪に真紅の瞳とは。それは伝説の、始まりの賢者のものでは――と凝視し、ぎょっとする。髪の中からするりと、光を反射するようにすら感じられる白い肌が――耳が現れたからだ。
 その形は明らかに人のものではない。先端が尖った、妖精族と呼ばれる神の眷属特有のもの。それはつまり。
「エルフ………!?」
 思わず声を漏らすと、エリサリと呼ばれた女は初めてマイーラに気づいたようにこちらを向いた。そしてわずかに眉をひそめ、セオに訊ねる。
「セオさん。こちらは?」
「あの、サマンオサの第一王位後継者のマイーラ・ニムエンダジュ・トゥピナムバー姫殿下です」
「……それがなぜ、こんなところに?」
「あの、この、ラーの鏡を納めた祠の内部構造についてよく知っておられるだろうと思ったのと、強制転移呪文をかけられたせいで、人員が分散、させられて、信頼できる護衛の当てが見つからなかったので、共にお越しいただくのが一番安全だろうと、思ったので……」
「そう、なんですか………それで仲間の方々ともご一緒ではないんですね」
「……はい。あの、もし差し障りがあれば言われる必要、ないですけど、エリサリさんはなぜ、ここに?」
「………私は………」
 ちらりとエリサリはマイーラを見た。その視線に明らかな敵意、と言うのが言いすぎなら自分を邪魔に思っている感情がうかがえたので、マイーラはむっと眉を寄せた。エルフであろうとなんだろうと、曲がりなりにも一国の姫に対して取る態度ではないだろう。
「あの、差し障りがあれば、本当に……」
「いえ……むしろ、セオさんには知っておいていただきたいんですけれど。できれば、部外者に知られたくはないんです。ことは、我々が現在全力で封滅しようとしている異端に関する問題ですから」
 マイーラはさらにむっ、と眉間のしわを深めた。サマンオサの国宝を納めた祠に無断で忍び込んでおきながら、第一王位継承者を部外者呼ばわりとはどういうことだ。心ならずも礼を失した者を許すだけの寛容さを持つことは王家の人間としてあるべき姿の一つだが、王家に礼を尽くそうともしない相手を罰しないのは国を背負う者としてあるまじきことだとマイーラは教わっている。王家を軽んずることはすなわちサマンオサという国を軽んずることだからだ。
 だから、マイーラはきっ、とそのエリサリとかいう女を咎めるように見て、口を開いた。
「エルフ殿。立場をわきまえられたらいかがですか。あなたがサマンオサの王家に対し礼を失することは、それはすなわちエルフという種族が無礼な輩だと示しているも同じなのですよ。自身の種族が侮られることを厭うなら、私に対しふさわしい口の利き方をするべきではありませんか?」
「え?」
 言われて初めてエリサリはマイーラと真正面から向き合った。きょとんとした、ようやく存在に気づいたとでも言いたげな顔で。
「……あの、あなたはなにを言っているんですか?」
「………エルフは賢き種族なのではなかったのですか。私の言っていることがわからない、とでも」
「いえ、そういうことじゃなくて。なんで、私があなたに敬意を払わなくちゃならないんですか?」
「……え?」
 マイーラは一瞬ぽかんとした。そんなことを言ってくる相手がこの世界にいようとは、考えたことすらなかったからだ。
「なっ……あなたは、私が、一国の王位継承権者だということをわかっていて――」
「それは人間の社会での話でしょう? 神に仕えている私たちが、たかだか人間の国家の要人に頭を下げなくちゃならない理由がわからないんですけど。勇者というわけでもないし、実際に今役立っているというわけでもなさそうなのに、なんであなたはそんなに偉そうなんですか?」
 そんな無礼などという段階ではない、王家の人間に対して上の立場からものを言ってくる相手(それもおそらくその言葉が無礼だという意識すらない心底不思議そうな顔で)に、マイーラはかぁっと頭に血を上らせた。
「あなたは状況というものがわかっているのですか。あなたは今私の国にいるのですよ。そこでそのような言い草をすること自体、不敬と言うことすらはばかられる、エルフという種族に対して戦を挑まれても仕方ないほどの愚行だということがわかっているのですか」
「えぇ!? こんな当たり前のことを言われた程度で、戦を!? はぁ……人間は愚かなものだ、っていう先輩方の意見が、こんなに理解できる時が来るとは思いませんでした。あなた、それを本気で言ってるんですか? 自分が馬鹿にされたからっていう理由で、民草に山ほどの犠牲を強いる権利が自分にはあるって、本気で?」
 ほとんど純粋に驚いている、という顔で言ってくるエリサリに、またマイーラの頭に血が上る。マイーラとて本気で戦をしかけたいなどと考えているわけではない。だが、自分が軽んじられることはサマンオサが軽んじられることだ。国家が軽んじられるということはすなわち他国につけこまれる可能性を増やすということだ。サマンオサを双肩に背負う者として、それを放置しておくわけにはいかなかった。
「あなたの態度がそれほどひどいものだ、ということを言っているのです。将来の国家元首に対してそのような無礼な」
「いえ、ですから、それは人間の国家でしょう? それをなんで私たちが重んじる必要があるのか、わからないんですけど。勇者というわけでも勇者の仲間というわけでもないのに、私たちに礼を強要するって、私にはそれこそ無礼な態度だと思えるんですけど?」
「………っ、勇者は国家に属するものだということをあなたはわきまえていないのですか! 勇者が力を十全に発揮できるよう護り、支えるのが国家です。だからこそ勇者は国家に忠誠を誓う。それを基本とした勇者と国家の関係は」
「え、あなたもしかして、勇者より自分たちの方が偉いって思ってるんですか? それはいくらなんでも、思い上がりがすぎません? 勇者が国家に属する形になっているのは、『勇者が国家を護りたいと思っている』からでしょう? 勇者は世界を護る者ですから、そのついでに国家も護る、それを人間の国家が勝手に自分たちの組織に組み込んでいるだけでしょう? 勇者は天に選ばれた世界の則を超える者なんですよ、一山いくらで存在する人間の国家に勇者と比べるだけの価値があるだなんて」
「あの。エリサリさん、マイーラ姫殿下」
 ふいに響いた勇者セオの落ち着いた声に、マイーラも段々と険しい顔になって自分と言い合っていたエリサリもはっとした顔になった。慌ててお互い乗り出していた身を退き、お互いを見ないようにして勇者セオに向き直る。
『なんですか、(勇者)セオ(さん)』
「俺なんかが言う必要もなく、お互いわかってらっしゃるとは、思うんですけど。お二人とも、お互いの立場や、これまで生きてきた、生が、相手とはまるで、違うっていう前提の上で、話してらっしゃる、わけですよね?」
「っ……ええ。ですけれど、いくらなんでもスリッカー大陸の中心部を治めるサマンオサの王族に対してこの口の利きようは」
「だから、たかだか人間の作った国の将来の元首ってだけの人間が、勇者より上の立場だって考えてるのがすごく思い上がりだって」
「エリサリさんは、神さまの創った、世界すべてを、神さまが正しいと思うように存続、させることを目的として働かれている。マイーラ姫殿下は、国家という、人間が創り出した、自分たちを護るための囲いを、その中にいる人たちを護る、ことができるように存続させる、ことを目的として、働かれている。大切にしている、ものが二人とも違う、わけですから、お互いに、重要視しているものが違う、のは当たり前、じゃないかと、思う、んですけど」
「っ……」
「それは……」
「偉そうなことを言って、本当に、ごめんなさい。ただ、本当に、生意気で、思い上がっているとは、思うんですけど、できれば、お互いの感情と、考えを、尊重してもらえないかって……エリサリさんと、マイーラ姫殿下に、一緒に行動できるくらいに、お互いを尊重してもらえないかって、思って……」
「……一緒に、行動?」
「はい。あの……エリサリさん。エリサリさんは、ラーの鏡を、取りに来られた、んですよね?」
「え……あ、はい。さすがですね、すでに理解されていたとは」
「なんとなく、そうなんじゃないかって思っていただけですけど」
「………ちょっと待ちなさい! サマンオサの国宝を盗み出すつもりだったのですか、あなたは!? 勇者セオのように事前に了解を取るならばまだしも、安置された国宝を勝手に持っていくなどとはなにを考えて」
「ラーの鏡はそもそも太陽神ラーが信仰を集め力と成すために創り出した神具ですよ、なんで下賜された民族から下げ渡されて現在一応の管理をしている、というだけの相手にいちいち許可を得ないとならないんですか?」
「っ………!? あ、あなたはっ」
「マイーラ姫殿下。エリサリさんには、ある職務、があるんです」
「職務? なんの職務があるというのですか」
「エリサリさん。お話しても、いいですか?」
「……はい。知られて困ることではありませんし、セオさんでしたらきちんと説明していただけると思いますから」
 セオを真摯な瞳で見つめながら言うエリサリに苛立ちを覚えながら勇者セオを見ると、勇者セオは穏やかにうなずいてマイーラに向き直った。
「マイーラ姫殿下。エリサリさんは、異端審問官なんです」
「……は? なんなのです、それは」
「神が、異端と判断されたもの。世界に存在するべきではない、と神が考えられたものを、封滅するというお役目です」
「は………?」
「そして、エリサリさんたちの組織は、サマンオサの偽王を異端と判断されたんです、よね?」
「……はい。審問に長い時間がかかってしまいましたが」
「!? なんですかそれは、封滅などができるというならなぜもっと早く、そのせいで何万人の命が失われたと」
「気軽に我々が封滅を行えば、その何十、何百倍の命が失われる。それがわかっているからです」
「………なに、を」
「我々が異端≠ニ判断するものは、世界そのものの敵となる存在です。神々は何千、何万、何億という要素の絡み合うこの世界を、その全知なる眼で見通し、考えつくされた上で平衡を取り続ける、という行為を世界の起源よりずっと続けておられます。その要素の中で、存在することが世界の律を崩す、世界の崩壊を近づけるものを見出し、平衡を崩さぬようとことんまで審議した上で封滅する。それが我々のお役目です。気軽に神の御力を振るうことは世界の平衡を崩し世界の崩壊を近づける。それは自明のことでしょう?」
「だから人が死んでいくのを見捨ててもいいと!? 人を助けることができるのに、放置してもいいというのですか!」
「……あなたがた人間は、自分たちの命だけを特別視していますが、我々は世界そのものの存在を第一に考えているのです。あなたたちは自分たちの繁栄のためならば獣を、植物を、大地を大気を、いくらでも蹂躙していいと考えている。それらにも命は、魂は存在することを考えもせずに。それはすなわち、世界の崩壊を近づける行為です。それを無視して自分たちが救われるのが当然だ、などと考えているのは、思い上がりです」
「っ〜〜〜〜っ………!」
 ぎっ、とマイーラはエリサリを渾身の怒りを込めて睨みつけ、さらに勇者セオを睨む。
「勇者セオ! こんな相手と話している時間はありません、急いでラーの鏡の在り処へ行きましょう!」
「……なんであなたがセオさんの行動に口出しするんですか。思い上がるのもいい加減にしたらどうですか?」
「あなたに口出しされる筋合いはありません。私はサマンオサを救うべくやるべきことをやっているのです、勇者セオはそれに協力してくれているのだから共に行動するのは当然でしょう」
「セオさんは失われる命を救うために頑張っているのであってサマンオサという国を救いたいわけじゃありません。それもわからないくせに勝手に協力者呼ばわりするのが思い上がっているというんです」
「っ……あなたの方こそ思い上がっているでしょう! さっき勇者セオは私たちにお互いを尊重しろと言いました。つまり私の想いや理屈を尊重してくれているということでしょう。なのにあなたはあなたの理屈だけが正しいと当然のように思い込んでいる。それこそ思い上がりだといことがわからないんですか!?」
「っ………! それこそあなたなんかに言われたくありません! あなたの方こそ自分だけが正しいと思っているじゃないですか! セオさんがどれだけ苦しんで、頑張って、必死になって戦っている優しい人か、知りもしないくせにっ」
「あっ……あなたに言われなくてもそのくらいわかります! 勇者セオが、優しいことくらい……すごく私のことを気遣ってくれて、こっちがどんな態度を取っても絶対に態度を変えずに私を気遣いつづけてくれてるってことくらい一緒にいればわかります! あなたの方こそ勇者セオのなにがわかるっていうんですか!」
「わっ、私は一年以上前からセオさんとは何度も会って」
「ずっと一緒にいたわけでもないんでしょう? ただ何度か会っただけで、よくまぁそんなにわかったようなことを」
「あ、あ、あなたに言われたくありません! セオさんがサマンオサに来た時から会っていたとしたって、一緒にいた時間なんて数日にもならないでしょう!? それこそわかったようなことを言う資格なんてないじゃないですか!」
「なっ………それこそあなたなんかに言われる筋合いはないでしょう!?」
「なんですっ!?」
「なんですか!」
「あ、の……俺なんかが、偉そうにこんなことを言う資格、ないとわかってはいるんですけど……」
「セオさんっ!」
「勇者セオ!」
「え、は、はい?」
『あなたはどちらの方が正しいと思うんですか!』
「…………、え、と………あの……………」
 勇者セオは、珍しく困惑しきった顔で、首を傾げた。

「……っ、と。着いたぜー」
 ぽすん、とレウに(勇者レウ、と呼ぶべきなのかもしれないが、心の中だけでもそんな風に呼べるほどガルファンの気力は戻ってはいなかった)手を離され、ガルファンは無言で地面に下りた。目の前には、ラーの鏡の安置場所だという洞窟が広がっている。
「んー、途中でセオにーちゃんと会えるかと思ってたけど、会えなかったな。まだ着いてないのかな? それとも別の場所に行ってるとか。まぁいいや、どうせラーの鏡は必要になるんだから、中に入って探してみよーぜ」
「…………」
 レウの言葉に、ガルファンはうつむいたままろくに言葉を返そうともしなかった。正しくは、できなかった。
 自分の醜さ、浅ましさが、消えてしまいたくなるほどいたたまれなかったからだ。
(あれが、本音か。俺の)
『勇者の力を俺によこせ』
『それは……勇者の力は、俺のものだ………!!』
 勇者というものを嫌っているはずだった。勇者というものがどんなものか知っているから、その傲慢を、思い上がりを知っているから、勇者という存在を全力で否定してきたつもりだった。人は自らによって自らを救えるのだと、勇者なんてものは必要ないのだと、そう言ってやるために全身全霊で努力してきたつもりだった。
 なのに、レウが――こんなごく普通の子供が勇者の力を得ていると知った時、感じたのは強烈な嫉妬だった。なんでこんな子供が得て、俺が得られないのだという思い上がった憤懣だった。俺にこそ勇者の力はふさわしいのだと、勇者の力なしでも頑張ってきた俺にこそ勇者の力は与えられるべきだという矛盾しきったわがままだった。
 それが、自分。これまで生きてきた自分の真実。英雄サイモンにならばあっさりと処断されてしまうような、醜く浅ましい欲望の塊。自分はそんな代物でしかないのだということを思い知らされ、絶望より深い自己嫌悪で、ガルファンはもはや顔を上げることすらできず、ここまでの道行きもひたすら諾々とレウについてきた。レウはなにくれと自分に話しかけてきたが、それに一言も応えることなく、言われるままにレウに背負われここまでやってきたのだ。
(俺は、結局は、あの程度のものでしかなかったわけだ)
(なんの苦労もなく天に選ばれた者を憎んでいるつもりだった。その傲慢さを唾棄していたつもりだった)
(それが結局は、『自分もなんの苦労もなく天に選ばれたかった』という嫉妬でしかなかったわけか。自分こそが特別でいたいという、思い上がりでしか)
(俺は、しょせん、その程度の――これまで心の底から軽蔑してきた、勇者に救われたいと願うことしかしない奴らと同程度の存在でしかなかった、というわけだ………)
 ひたすらに何度も何度も、そんな想いを反芻する。苦しく、憤ろしく、憎らしく、悔しく――もうこのまま消えてしまえばいいと願うほど、悲しかった。
「……ルファン。ガルファン。ガルファンってば!」
 ぐい、と手を引かれて、のろのろと顔を上げる。むぅっと唇を尖らせたレウと目が遭い、ふいと視線を逸らしてぼそりと言う。
「なんだ」
「なんだじゃねーって。これから洞窟に入るから、武器準備しとけよって言ってんの。しゃんとしろって」
「………ああ」
 しゃんとなんてできるわけがないだろう、俺の苦しみを理解しようともせずに偉そうなことを言うな、なんでお前は俺を助けて、気遣って、優しくしてくれないんだ――そんな口から飛び出してしまいそうになった言葉を噛み殺して、ガルファンはただ「……ああ」とだけ言って剣を抜いた。そんな言葉が、自分の本音が、どれだけ醜く浅ましい思い上がりか、よくわかっていたからだ。
 レウについて洞窟の中に入る。レウはうんうんと「えーと、確か洞窟入る時は、っと」「こうして、こうして、そんで……」などとうんうん唸りながら灯りやらなにやらを準備していたが、ガルファンはそちらを見ようともせずにうつむいていた。
 もう、嫌だったのだ。もう、馬鹿馬鹿しくなった。面倒になった。苦しむのが、抗うのが、生きるのが。自分がしょせんあの程度のものだったと思い知らされて、必死になる意味がなくなってしまったから。
 もう、いい。もう、楽になりたい。もうなにもかも、勇者も、父も、とうに死んだ母も、自分も――もう本当に、どうでもいい。
『グルォオォォッ!!』
 魔物の鳴き声だ。これは、ガメゴンか。サマンオサに住む魔物の中でも有数の防御力と攻撃力を持つ魔物。しかも複数。サマンオサの中でも強い力を持つ戦士が何人も集まらなくては対抗できないほどの魔物。
 自分を食い殺してくれる相手としてみれば、十分だろう。勇者の相手としては不足にもほどがある魔物だが――しょせん自分は、この程度のものでしかないのだから。
『グォガァッ!!』
 ガメゴンたちが猛烈な勢いで突っ込んでくる。自分を食い殺そうと迫ってくる。ガルファンは、それを顔を上げることもなく待った。自分はしょせん、こんな魔物に食い殺される程度の価値しかない、愚かで、浅ましく、傲慢な――
「――はぁっ!!!」
 裂帛の気合が耳に響いた、と思ったら、すぐ近くまで迫ったガメゴンの首が宙を舞った。まさに閃光と呼ぶにふさわしい一閃は、一匹目のガメゴンの首を斬り落としたのみならず、宙を舞い、ひらめき、他のガメゴンたちも次々と一刀のもとに倒していく。
 レウだ。あの少年が小さな体を目にも止まらぬ速さで動かして、自分に迫る魔物たちを次々倒していく。
 ガルファンはふ、と嫉妬に満ちた息をひとつ漏らし、またうつむいた。たまたま天に選ばれただけの存在が、その特別な御力をもって自分のようなか弱い存在をお救いくださるというわけか。これまでずっとそうだったように。これからもずっとそうであるように。しょせん人間には、勇者に救われる程度の価値しかない、というわけだ。
 勝手にすればいい。もう自分は、そんなものになんて、金輪際関わりたいとは思わない―――
「がっ!?」
 背中に不意に訪れた強烈な衝撃に、ガルファンは倒れ込んだ。痛い、痛い痛い痛い痛い痛い。戦士として生きていくうえで何度も味わった中でも有数な、痛烈としか言いようのない衝撃が体中を襲う。
 一匹のガメゴンが体当たりをしてきたのだ。自分を押し倒し、一噛みに殺そうと首を伸ばしてくる。鋭い牙が、荒い息が、自分の間近に迫ってくる。
「ひ――」
 剣は。剣はどこだ、と腰を探って、もうとうに抜いていたことに気づく。そして同時に手の中に剣がないことにも気づき、さっきの体当たりで落としてしまったのだと理解した。
 武器がなくてはこの魔物は倒せない。魔物に圧倒的な力で押し倒されたこの状況下からは、どうしたって自分の力では抜け出せない。つまり自分は―――死ぬ。間違いなく。
「ひ、ぃ、ぃ―――」
 なんで。なんでなんでこんなことに死にたくない自分はなんのためにここまで好きでこんなことになったわけじゃ父の英雄サイモンのせいで嫌だこんなに頑張ってきたのに自分はこんなところで死んでいい人間じゃ嘘だ自分は知っている自分がどの程度の人間かしょせんこの程度の食い殺される程度のなんで嫌だそんなの嫌だ納得いかないでもどうして自分はただ助けられたいと救われたいとなにをそんな馬鹿な思い上がった嫌だもう死ぬ自分は死ぬここでもう終わりそんなそんなそんな―――
 助け
「でりゃあっ!」
 一閃。ガルファンの目ではとても捉えられないような剣閃がほとばしり、ガメゴンの首が落とされた。同時にガメゴンの甲羅が蹴飛ばされ、体にかかっていた重みが消える。
 レウだった。勇者レウが、自分を助けたのだ。
「――ぐっ!」
 自分を助けたことでできた一瞬の隙を衝いて、他のガメゴンが体当たりをしてきた。その体重を集中させたすさまじい突撃に、レウは歯を食いしばり、足を踏みしめて耐える。
 子供の小さな体で。全身に力を込めて。骨が折れるほどの衝撃を受けながら、それでも必死に。
「だぁっ!」
 剣を振るい、首を落とす。ガメゴンの体液がしぶく。だが、レウの体は、明らかにガメゴンのものではない血で、ひどく汚れていた。
「づっ! ……でぇいっ!」
 別のガメゴンが噛みついてくるのを避けそこね、その小さな体に深々と牙が突き刺さる。それでもレウは剣を振るい、ガメゴンの首を斬り落とした。自分の体に深々と突き刺さった牙を無理やり振り捨て、自分の体から血がしぶくのも無視して、剣を振るい続ける。
 痛くないはずはない。レウの小さな体は小刻みに震え、その体にいかに負担がかかっているかを如実に示していた。
 なのに。それでも、レウは剣を振るう。自分に襲いかかってくるもののみならず、ガルファンに襲いかかってくるものも、斬り、倒し、時にはその体でもって防いで―――
「ふ、ぅ………終わったぁっ! ガルファン、だいじょーぶか? 怪我とかしてないか?」
 そう言って、レウはガルファンを振り向き、笑った。まだ体から血が垂れているというのに。体は傷だらけで痛みに震えているというのに。そんなことはなんでもないと言いたげに、当然のように、朗らかに―――
「なんで責めないんだ!」
「え………は?」
 きょとんとするレウに、感情のほとばしるままに言葉を叩きつける。
「なんでそんな当たり前みたいな顔をして人を助けられるんだ、自分の身を犠牲にしてまで! 俺がどれだけお前に身勝手なことをしたか、言ったか、忘れたわけじゃないだろう!? そんな相手を身を挺してかばって、戦って! なんにもしないで棒立ちになって敵の攻撃を避けも逃げもしないような足手まといを当然みたいな顔でなんで助けられる! それで、責めもせずに、当たり前みたいに、気遣ってっ……」
「え……いや、だってさ」
 レウは困惑したように頭を掻き、首を傾げた。
「ガルファン、考え事してたじゃん」
「………は?」
「いや、はっていうかさ、ガルファン俺に迫ってきた時からずっと考え込んでたじゃん。すごく必死になってさ。俺がなんか言っても全然耳に入んないみたいで。なに考えてたのかはよくわかんないけどさ、ガルファンにはそんくらい大切なことなんだろ?」
「………なに、を」
「人生懸けてってくらい必死に考え込んでるんだったらさ、助けてやりたくなっちゃうじゃん。なんか助けになるようなこと言ってやれるほど俺頭よくねーしさ、ガルファンは自分で考えたいみたいだから、襲ってきた魔物と戦えないのもしょーがないかなって。その分俺が戦ってやればいいって思ったんだけど……変か?」
 それが当たり前のことであるかのように首を傾げて言うレウ――その顔を見ていられず、ガルファンはうつむいて、絞り出すように言う。
「なんで――そんなことが言える。勇者の力を持っているからといって、人ではない力を持っているからといって、なぜそんな風に、当たり前のように………」
「え? や、勇者の力持ってるからかどうかとかはわかんないけどさ。目の前で人が困ってるんだったら助けたくなっちゃわねぇ? そりゃガルファンにはいろいろ言われたりしたけど……でも、なんていうかさ……」
 本当に当たり前のような、ごく普通の声で。
「そんなに苦しそうにしてるの見たら、俺にできるめいっぱいのことはしてやりたいって、思うじゃん」
「………―――」
「………ガルファン?」
「………っ……、ぅ………」
「わ! ガルファン、大丈夫か!? どっか痛いのか!?」
「…………っ………」
 それこそ子供のように泣きじゃくりながら、ガウファンは首を振った。勇者というのはこういうものなのかだの、ならなぜ父は俺を、だの益体もないこともときおり頭をよぎったが、それよりも泣けて泣けて仕方がなかった。
 身勝手なことを考えて。殺されそうになったらまた身勝手に助けてもらいたがって。そんな自分を、本当に助けてくれて。傷だらけになりながら、当たり前のような顔で護ろうとしてくれて。
 それが悲しいのか嬉しいのかわからないけれど、とにかくどうにもたまらなくなって泣く自分を、レウはどうすればいいのかわからない、という顔をしながらも、ずっとそばにいて、ときおりぽんぽんと頭や背中を叩き、一生懸命慰めてくれたのだ。

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