グリンラッド〜幽霊船〜オリビアの岬――3
「でぇぇ……いっ!!」
「……っ」
 ガルファンが渾身の力を込めて振るった剣を、勇者セオ・レイリンバートルは鮮やかに受け流した。勇者として身に着けた人外の腕力や敏捷性を用いてではなく、純粋に鍛錬を積み重ねることで得た剣技によって。
 ガルファンも、ただの戦士であるのに勇者に伍し得ると錯覚することができるほどには鍛錬を積み重ねてきている。一流と呼ばれる戦士であろうともさして苦もなく制することも可能であったし、サマンオサの強力この上ない魔物に対しても一対一ならばまず間違いなく勝てる自信はあった。
 だが、その鍛錬を積み重ね、レベルを上げて、そこらの魔物の首ならば一打ちで落とせるほどまでになった豪剣を、セオは人として身に着けた技のみで、華麗なまでに捌いてみせるのだ。
「はぁっ! ふっ! つぇりゃあっ!」
「っ……!」
 右、左、右下、左上。全力で攻め続けるガルファンの剣を、あるいは力の一番かかりにくい点で受け止めあるいはこちらの体勢を崩す方向に受け流す。そしてときおりガルファンの自覚していない隙を衝いて手痛い一撃を放ってくる。ガルファンの殺気立った視線を受け止めて一歩も退かず、それでいて決して熱さない森の奥の泉のように静かな瞳で、自分の気迫を受け止める。
 ――そんな(ガルファンにとっては)全力の攻防を十分間も続けていると、ガルファンはさすがに立っていられなくなって膝をついてしまう。それをセオは落ち着いた面持ちで見つめ、小さく会釈して告げるのだ。
「それでは、俺は失礼します。……繰り返しになりますが、ガルファンさんが攻めてくるのは、いつどんな時でも構いませんので。俺が武器を持っていない時でも、油断している時でも。ただ、敵が襲ってきている時は、ガルファンさんのお命に危険がありますので、避けていただけるとありがたいですけど」
 そう汗もかかない涼やかな顔で言ってのけて、こちらに背を向けて去っていくセオの姿を睨みつけるも、姿が見えなくなるや気力が限界に達してばたり、と甲板に倒れこむ。甲板に仰臥し、青空を見上げ、腹の底から叫んだ。
「ちくしょおぉぉーっ!!!」
 悔しい。正直にぶっちゃけると、死ぬほど悔しい。
 相手が勇者だ、というのはわかっている。ただ人に過ぎないガルファンでは勝てるわけがない、という理屈は理解している。
 だが、勇者セオは、自分との勝負で、あくまで人間の範疇内に収まるような力しか使っていない。地を割り空を裂くような剛力も、目にも止まらぬほどの動きの速さも、常人ではついていけようはずのない剣尖の鋭さも、自分との勝負では用いていない。
 それなのに、勝てない。常人の力で、人として積み上げた剣技で、勇者セオは自分に連戦連勝し続けている。ガルファンの好きな時に、セオの不意を衝いて仕掛けていい、とこちらに圧倒的に有利な条件なのにもかかわらず。
 勇者セオが、勇者としての能力のみならず卓越した力を持つ少年だというのはわかってはいるが――曲がりなりにも成人してすでに十以上の年を重ねているガルファンとしては、人間として成人して一年やそこらの少年に鍛錬が劣っていると突きつけられることは、どうにもこうにも口惜しいものがあったのだ。
 叫んだのちもしばしそんな想いを抱えて空を見上げながら煩悶していると、頭上に人影が現れた。
「なにしてんだ、お前」
「……フォルデ、か」
 ガルファンは小さく唸るも、立ち上がりもせずふい、と視線を逸らした。セオに勝負しろ、と言い放ってから数日、自分はセオとしょっちゅうやり合っている。なので当然ながら、勇者一行の面々全員に自分が惨敗している場面を見られまくっている。
 仕方のないことだし自分が負け続けているのがなにより悪い、と頭では理解しているのだが、それでもやはり自分のみっともない姿を多人数に公開しているなんて面白いことのはずがない。正直、一回くらい勝ちを拾うまでセオの仲間たちとは顔を合わせたくはなかった(まぁ毎日の食事の際に顔を合わせざるを得ないのだが)。
 が、フォルデはそんなガルファンの羞恥などどうでもよさそうな顔で、つけつけと言葉をぶつけてくる。
「お前いつまでやってんだ、セオとの勝負。こんだけやってもまだ納得いかねぇってのかよ? まー俺はお前の心境なんぞどーでもいいけどよ、勝負で滞ってる分の仕事くれーはきっちりやりゃあがれ。船代も払えねぇような奴が一丁前に男の口利いてんじゃねぇぞ」
「っ……余計なお世話だ」
「言い返すんならその前に仕事しろっつってんだよ。おらとっとと立ちゃあがれ、仕事は待っちゃくれねぇんだ」
「っ……わかってるっ!」
 苛立ち紛れに思いきり甲板をたたいて立ち上がる。まったく、感傷に浸る暇もくれないのか、こいつは。
 ガルファンが立つとフォルデはふん、と鼻を鳴らし、「おら」と甲板掃除用の硬い箒を放ってよこす。ガルファンもふんっと鼻を鳴らし返し、無言でうぉっしゅうぉっしゅと甲板を拭き始めた。
 フォルデも持っていたもう一本の箒を使い、甲板をてきぱきと掃除していく。その人外の素早さを駆使したブラシさばきはガルファンよりもはるかに早く的確に、甲板をぴかぴかに磨き上げていく。
 それにさらに劣等感を刺激され歯噛みしていると、フォルデは掃除しながらふいにぼそりと声をかけてきた。
「おい。お前、セオとの勝負、どうやったら自分の勝ち、って考えてんだ」
「……なに?」
「マジで真正面から勝たなきゃ意味ねぇ、って思ってるわけでもねぇだろ。なんかこうなったら自分の勝ち、とかセオをどうこうしてやるのが目的、とかあんだろ? どうなんだその辺」
「………それは」
 もちろん、あるにはある、のだが。
 そもそもガルファンが勝負を申し込んだのは、勇者セオの心根を叩き直すためだった。現在、世界で誰より重要な人物なのにも関わらず、あっさりと自身の命を危険に晒し、むしろ投げ捨てるようなとすら言えるやり方がいかに間違っているか、ということをガルファンの身命を賭した剣によってわからせてやるつもりだった。
 だが、その身命を賭した剣≠、セオはごくあっさりと受け止めた。
 ガルファンとていかに自分が命を懸けようともセオに勝てるはずはない、ということはわかっていた。ただ、セオに自身の行状を正す、ただそれだけのために全身全霊を懸け命を賭す人間がいるということを理解させることで、自身の命の重みを思い知ってほしいと考えていたのだ。自身の身魂を投げ打ち放つ剣と剣を交わせば、セオにも伝わるものがあるだろう、と。
 だが実際には、セオは自身の身魂を投げ打つことさえさせてくれなかった。
 徹底的にガルファンの弱点を突き、強みを発揮させない剣術で、セオは徹底的にガルファンを叩きのめした。体にはまったく傷を与えることなく、セオの方が圧倒的に強いのだと思い知らせた。
 ガルファンがどれだけ気を吐こうと、セオはその気迫を受け流し、気合を発する直前に弱点に一撃を入れ、ガルファンの気力を削った。ガルファンはろくに実力を発揮することもできないまま、セオに打ち負かされたのだ。
 そしてそれを何度も繰り返していくうちに、ガルファンの方が先に気力がめげ、せめて一撃なりともという必死の想いの元に剣を振るうようになると、セオはまるで剣術の指導のように、無言のうちにガルファンの剣を矯正するような一撃をびしびしと放ってくるようになった。受けに回れば適度に隙を作りつつ、そこにどれだけ強烈な一撃を放とうともそれを上回る技で受け流す。そういう授業じみた剣術で自分と相対するようになったのだ。
 それにガルファンが奮起し、なにくそ絶対に勝ってやる、と死に物狂いになると、セオはさっきまでのような、深甚で奧妙な剣技を持って、激情を受け流し受け止めるようになった。それこそ、ガルファンの心と向き合うように、ガルファン自身の心と向き合わせるように。
 つまり、当初の勢いとは裏腹に、ガルファンの心根をセオが導いているようなもので、少なくとも剣によってセオに思い知らせるというのは不可能だ、と心底思い知らされてしまったわけだ。もちろん自身の意を伝えることをあきらめたわけではないが、剣を取ってのぶつかり合いではただ自身の未熟を思い知らされるばかりだ、というのはよーくわかった。
 なので、ガルファンにとっての勝利条件は剣以外によってセオの誤謬を自覚させることにならざるを得ないのだが、それでも剣による勝負をやめないのは、いまだ一撃すら入れることができていない現状に、忸怩たるものが心中に溢れているからだった。ガルファンにもこれまでの一生を剣に生きてきた矜持がある。手加減されまくったうえで一撃も入れられないという事態に腹が煮えてしょうがなく、一発くらいは入れてやりたいという想いからしつこく剣の勝負を挑んでいるのだ。
 なので、そういう聞き方をされると、(そんなものただの子供じみた意地と言われたら返す言葉がないとは自覚しているので)どうにも答えようがなく、ガルファンは口をつぐむ。フォルデはそんな想いを知ってか知らずか、軽く肩をすくめて言葉を重ねた。
「まーお前がどう考えてるかは知らねぇけどよ、いっくら人間の範疇の力しか使ってなかろうが、お前があいつに剣で勝つのは難しいと思うぜ。勇者の力による能力成長の範疇にゃあ、学習能力だの意志力だのってのも含まれるらしいからな。お前があいつより年上だろうが長い間修行してようが、技を磨く効率が段違いなんだ、そうそう上回れりゃしねぇだろ」
「…………それは、そうだろうが」
 勇者に勝とうとすること自体が無謀だ、というのはガルファンもよくわかっている。長年サマンオサで勇者の息子をやってきたのだ、それくらい嫌でもわかる。だが、それでも、せめて一撃なりともセオに見舞いたかった。ただ一方的に面倒を見られ、助けられ、命懸けで守られるのはごめんだった。自分にもできることはあるのだと、恃むところはあるのだと認めさせたかったのだ。
 だがそれは自分の、それこそ一方的な押しつけにすぎないというのもわかっていたので、ガルファンは口をつぐんだままひたすらに箒を動かす。それにフォルデはふん、とまた鼻を鳴らし、同様に箒を動かしながら続けた。
「ま、お前が意地でやってることに注文つけるほど物好きじゃねぇけどな。そろそろ、てめぇなりにどう決着つけるかってのは考えといたほうがいいんじゃねぇの」
「? どういう意味だ」
「阿呆か。明日にはネクトラレ中海ってとこに着くって、今朝ラグが言ってただろうが」
「あ……」
 ガルファンは思わず目をみはったまま固まった。そうか、もうすぐネクトラレ中海――オリビアの岬にたどり着く。オリビアの呪いを解き、ネクトラレ中海を開放し――サマンオサの英雄、黄金闘士=A勇者サイモンの捕らわれた牢獄の扉を開ける時が、近づいているのだ。

 幽霊船からオリビアの恋人、エリックの霊魂(というのとは正確には違うらしいが)を救い出し、オリビアの呪いを解く算段をつけてから一週間弱。セオたち一行(と、自分)は、ひたすらに魔船でネアルデュカ河をさかのぼっていた。オリビアの岬に直接転移することもできたのだが(サマンオサとは旅の扉で繋がっているのだから)、それでは魔船がオリビアの呪いに対応しきれずあっという間に沈められてしまいかねないことと、オリビアの思念と直接会話するには、オリビアの呪いの一番強い、エリックを乗せた船がネクトラレ中海から出て行った場所に向かうのが一番いい、という考えからそうしたらしい。
 もちろん、ネアルデュカ河の河口という、もはや街も村もない場所にルーラで転移することができるというのも補強理由にはなったのだろうが。もともとネアルデュカ河の東側はエルフたちの領域白の森=A西側も中央に登りつめることも穴を掘ることもかなわない強剛たる深山エーストルグ山脈を抱くドリガルフォーマ地方。どちらも人を拒む場所であり、アリアハン帝国の時代ですら入植成功例はほとんどなかった。ネクトラレ中海での交易ができなくなったのち、自然と人がいなくなるのも当然といえば当然だ。
 今回無事オリビアの呪いが解ければ、また状況は変わってくるだろうが。
 ちなみに、セオたちが転移してきた白の森≠キぐ近くの河口には、以前来た時にまたすぐここに来れるよう転移結界を張る許可を(エルフたちに)もらっていたのだそうだ。それがきっちり効果を発揮してくれていたこともあり、大陸を横切る大河としては標準的な大きさといえるネアルデュカ河をさかのぼるという大仕事のわりには、さして時間をかけずにことを進められている。
 なので、当然ながら、ガルファンに与えられた時間も自然と少なくなるわけで。
「んーっ、うっめーっ! ガルファン、このむけっか、だっけ? すっげーうめーよっ」
 夕食の席で、ガルファンの作ったサマンオサ風のココナッツミルクで作った海鮮シチュー、ムケッカを頬張って嬉しげに叫ぶレウに、ガルファンは内心のため息をできる限り押し殺した。結局なんの手応えも得られないままもう夕食の時間になってしまったと焦っているこちらの気持ちをまるっきり斟酌せず、元気いっぱいに騒ぐレウを子供らしくて微笑ましいと思える時もあるが、今は頼むから少しどこかに行っていてくれという気持ちが抑えられない。
 だが適当にあしらっているとレウは即座に見抜いて突っ込みを入れてくるので、それなりにきちんと対応せざるを得ない。レウの方に向き直って、ぼそぼそと応える。
「……俺は単に教わった通りに作っただけだからな。褒めるならサマンオサ料理の詳しい作り方まで知ってるロンを褒めるべきだろう」
「んー、でもさ、ロンに作り方教わったって俺こんなにうまく作れねーもんっ! それってガルファンが頑張ったからだろ? やっぱガルファンすげーよっ」
「…………」
「確かにな。ガルファンの家事能力の成長速度の早さには、俺も少し驚かされた。セオやレウのように、能力を限定されていない勇者というわけでもないのに、この一ヶ月の間にそこらの主婦並みの腕前を身に着けてきている」
「あー、まぁ確かにな。一月前は調味料の使い方もろくに知らなかった奴とは思えねーよな」
「相当頑張ったからなぁ、ガルファンは。俺たちの言うことわざわざきちんと帳面に書き写して勉強してたくらいだし。それだけ一生懸命なら腕が上がらないわけがないさ」
 レウ以外の仲間たちも、それぞれ笑顔で自分の成長ぶりを褒める。……嬉しくないとは言わないが、主婦ではなく戦士であるガルファンとしては、正直『そこを褒められても仕方ないよな……』と感じられてしまうのは否めない。
 そんなもんにゃりとした気分でいるところに、セオがいつもの、どこかおどおどとした口調でこちらを持ち上げてくる。
「ガルファンさん、は本当に、すごい、ですよね。あんなに、いろいろ、な仕事一生懸命、頑張って、るのに全部、すごく上達、なさってますし。稽古とか、俺に剣の、勝負挑んだりとかもなさって、るのに、そんなの全然、見せないで。本当に、すごい、って思います」
「………………それはどうも」
 どれだけ勝負挑まれようとも手加減しまくった上で全勝して、そのくせ仕事やらなにやらは全部完璧にこなしているセオが言っても嫌味にしか聞こえない。おどおどした口調も、いつもながらの下から目線も、ガルファンの苛立ちに拍車をかける。
 そして、それがセオの心の底からの本音だということもロンをはじめとした仲間の男たちに忠言を受け承知しているので、ガルファンはにっちもさっちもいかない心境を抑えかねて小さくため息をついた。
 ――このままではセオとの勝負が時間切れになってしまうというのに、自分は結局なにもできていない。そしてどうすれば自分が納得できるのかもわからない。八方ふさがり、五里霧中、そんな途方に暮れた気分だったが、そんなガルファンの気分とは関係なく明日はもうオリビアの呪いを解く日で、オリビアの祠の牢獄にたどり着くまでにはそれからそう時間もかかるまい。こんな中途半端な気分のままセオたちとの旅を終えなくてはならないのかと思うと、正直やりきれないものがあった。
 と、ふいにセオが、どこか改まった口調で訪ねてきた。
「あの、ガルファンさん。食事の後片付けが終わった後、少しでいいので、お時間をいただけますか?」
「え……それは、別にかまわないが。なにか、俺に用があるのか?」
「はい」
 セオは深々とうなずいて、きっぱりと答えた。
「俺からガルファンさんに、剣で、尋常の勝負を申し込みたいと思いまして」

「……どういうことなんだ」
「そりゃ、聞いた通りだろ」
「君に剣で勝負を申し込んだ。そのままの意味だと思うよ? セオにとっては」
「勇者セオが俺に勝負を申し込む意味が分からん。これまで何度も俺からかかっていって思いきり惨敗しまくっているってのに」
 ガルファンの渋面を作りながら言い放った紛れもない事実に、ラグとロンとフォルデは揃って肩をすくめた。彼らに聞いておきたいことがあるから、とセオとレウに食器洗いを頼んで(もちろん他の時間の当番各種を肩代わりする条件で)まで作った時間での相談だが、相談相手は全員不熱心なことこの上なかった。
「お前はどう思うんだよ。セオがなんでお前にあんなこと言ったと思ってんだ?」
「俺は……しかとはわからん。だからこそあんたたちにこうやって相談してるんだ。だが……向こうから申し込んできたとなると、それなりにこの勝負に思うところがあるんだろう、とは思うが……」
「じゃーそれでいいだろうがよ。なんの問題があるってんだよ」
「向こうの意図がさっぱりわからんのにまともに振る舞えるわけがないだろう。向こうが俺になにを期待してるのかはわからんのだから、勝負をどう決着させるかの目星すらつけられないんだぞ」
 ガルファンの言葉に、フォルデはは、と鬱陶しげに息を吐き、ぎろり、とガルファンを睨み据えた。短気で喧嘩っ早い彼の性分からすれば当然ではあるが、彼は自分の相談に相当苛立っているらしい。
「お前な、わかってんのか。尋常の勝負、っつったんだぞ、あいつは」
「ああ。向こうから勝負を申し込んできたんだ、彼なりに思うところがあったのは」
「そーいうこっちゃねぇよ。あいつは基本、なにがあっても嘘はつかねぇ奴だ。しかもああもきっぱり真正面から言い放った以上、絶対になにがなんでも言った通りにするだろうさ。つまりあいつは言った通りのことをそのまんまやる。それがどーいう意味かくらいわかんだろーがよ」
「? ああ、それはもちろん……」
「チッ……てめぇなぁ」
「ガルファン。戦士として尋常の勝負を申し込むというのは、どういう意味かわかるかい」
 ラグがおもむろに会話に割り込んで発した言葉に、ガルファンはむっと眉を寄せた。
「当たり前だろう。命を懸けて雌雄を決する、ということ以外のどういう意味でもない」
「そうだな。それならセオにああ言われて、なんで君はそれ以外の可能性を考えているんだ?」
「は? ……………、は?」
 ガルファンはぽかん、とした顔になってラグの言葉に呆けた言葉を返した。しばらく呆然とし、さらにまた呆けた言葉を返す。そうならざるを得ないほど、ガルファンにとっては予想外の言葉だった。
「いや、なんでそうなるんだ。勇者セオはこの一週間、俺との勝負を、まるで本気を出さないままに圧勝してきたんだぞ?」
「そうらしいね。セオからも聞いたよ」
「それでどうして命を懸けて雌雄を決する、なんてことになるんだ。どう考えてもそんな必要がないだろう」
「そうだね。つまりセオにとって君との勝負は、君の考えていたものとは違うものだ、ってことになるね」
「………どういう意味だ?」
「そうだな……なんというか……」
「おいラグ、それを言ってしまってはセオも立つ瀬がないだろう。あの子があそこまで必死なんだ、横から嘴を突っ込むのはよせ」
「それはわかってるよ。ただ……なんというか。あの子は本当に頭がいい子だけど、自分の価値を認めるということについてはうまくないから、ガルファンと価値観を通じ合わせるのは難しいだろうと思うんだ」
「それはそうだが……」
「いや、待て、それとこれとどういう関係があるんだ。勇者セオの価値観については前にロンに聞いたが、今彼が俺に尋常の勝負を申し込むのとは関連のしようがないだろう」
 ガルファンの言葉に、セオの三人の仲間たちははぁ、と(それぞれの深さで)ため息をつく。フォルデが苛立たしげに小さく呟いた。
「あー、クッソ面倒くせぇ。こいつマジで面倒くせぇことしか持ってこねぇな」
「フォルデ。言いたいことはわかるがいまさらだろう」
「そりゃそうだけどよ……」
「なんだ……あんたたちはなにを知っているっていうんだ。頼む、教えてくれ。俺には勇者セオがなにを考えているか、さっぱりわからないんだ」
 眼差しに心からの真剣さを乗せて、ガルファンは頼み込む。セオにとっても自分がそんな体たらくでは相手取る甲斐もなかろうし、なにより自分にとってもそれは大事なことなのだ。セオが、あの勇者が、自分にいったいなにを求めているのか、なにを考えて自分と相対しているのか、どうしても知りたかった。
 そんな自分の言葉に、セオの仲間たちはまた揃ってため息をつく。それからフォルデが、さも面倒くさげに、鬱陶しげに言ってのけた。
「んなもんわかりきってるだろうが。お前をなんとかして、っつーかなにがなんでも助けてやりたい、ってことしか考えてねーよ、あいつぁ」
「………は?」
「お前を助けてやりたいからお前を旅に同行させて、お前を助けてやりたいからお前との勝負に乗って自分の考えつく限りの方法でお前の悩みを吹っ飛ばしてやろうとして、お前を助けてやりたいから命を懸けてお前との勝負に臨んでる。それだけのこったろーが、なにが難しいってんだ」
「え………いや………」
 フォルデの言葉にぽかんと口を開け、それから我に返って考える。セオがこれまで自分と、剣でもって相対する時の振る舞いは、確かにこちらを教え導こうとするかのような、指導者にも似た高位の人間と似た振る舞いではあるかもしれない。だが、セオは自分に指導じみたことは一言も言ったことがない。ただひたすらに自分の剣を受け止め、劇場を受け流しはするが、それでは指導者としては片手落ちだろう。
 いや剣でもって意を伝えようというのならそれもまだわかる。だが命を懸けて勝負を挑むというのはいったいなんだ。セオがどれだけ下手を打とうと、自分がセオを追い込めるとは思えない。
 そう眉根を寄せるガルファンに、フォルデは舌打ちをし、ロンは小さく肩をすくめる。そしてラグは小さく息をつき、口を開いた。
「ガルファン。セオは、君が悩んでいるのを、なんとかして助けてあげたい、って思ったんだよ」
「……なに?」
「君が父親のことで苦しんでいるようだったから船に乗せて。自分のせいで遠慮してしまっているようだから、できる限り気を使って。自分のことでわざわざ勝負を挑んでくるくらい悩ませてしまったようだから、全力で感情を受け止めることで心を安らがせようとして。それでも君が思い悩んでいるようだから、本当に自分の命を懸けて――君に殺されるのも覚悟の上で、勝負を挑んだ。それだけのことさ。別にややこしいことはなんにも考えていない」
「………なっ………」
 ガルファンは愕然とし、思わず口を押さえる。それは――それでは、自分の矜持や意気込みは、セオにはまるっきり通じていなかったということになる。いや、それはある程度覚悟していたにせよ、それでは―――
「……なぜ俺に殺されることになる。腕にあれだけ差があるんだぞ、どう考えても俺が殺される方だろう」
「腕としてはそうだろうね。ただ、セオは君を絶対に殺しはしない。楽に手加減できるほど腕に差がある上殺してもなんの益もない状況だ、彼が自分から命≠奪うとは思えない。それなのに彼に命懸けという覚悟をさせる状況といえば――まぁ、可能性は限られてるだろうな。君の前にどうとでもしてくれと首を差し出すか、戦いの中で君に気づかれないように決死の一撃を放てるだけの隙を作り出すか……」
「なっ……」
「俺はそこまで短絡的なことをするとは思えないがな。あの子も俺たちに愛を向けられていることを知っているんだ、むやみに命を投げ出すことはないだろう」
「俺も理性的にはそうだろうと信じているけれど、あの子が突発的に思考の坩堝に嵌って暴発する可能性は捨てきれないからな。少なくともそういう面に関しては、俺はあの子をあんまり信用してない」
「まぁな。一応こっちの言い分はわかってるつもりじゃあるんだろーが、でもしなけりゃなんねーってことになったらぶち切れてどーしよーもねぇことしでかすってこたぁかなりありそうだわな」
 平然とした表情でそんなことを話し合う三人の男たちに、ガルファンは思わず目をむき、それからぎりっと奥歯を噛みしめて怒鳴りつけた。
「なぜそんなことを平然と言い合える! あんたたちはセオが大事じゃないのか!? この世界を救う可能性の一番高い勇者を……それよりなにより、あんたたちにとっては仲間だろうが!」
「……は。仲間、ね。……なかなか笑える台詞抜かしてくれんじゃねーか」
 すい、とフォルデがガルファンのほうを向いた。ほかの二人もこちらに視線を向ける。――とたん、ガルファンは思わず硬直した。セオの仲間たちは、揃って、苛烈なまでの激情を無理やり抑え込んでいる、溶岩のように煮え滾った感情を瞳の中に落とし込んでいたのだ。
「てめぇが言えた台詞じゃねぇよなぁ、んななぁ。てめぇの都合で乗り込んできてさんざんこっちに迷惑かけて、そんでてめぇの理屈でこっち批判してああだこうだと抜かしくさって、命を懸けた勝負だなんだとくっだらねぇ矜持のためにあの馬鹿振り回して、挙句の果てにあの馬鹿思いつめさせて命懸けでお前の悩みをなんとかさせようとしてるって状況でよ」
「っ―――」
「あの馬鹿が思いつめてんのはあいつの勝手だし、あいつが命を懸けた勝負だなんぞとクッソくだらねぇことを抜かし始めたのもあいつの責任以外のなんでもねぇけどよ。その前段階すっ飛ばして、てめぇの言ってることやってることきれーに忘れて、偉そうなこと抜かしてんじゃねぇぞクソガキが………!」
「っ………」
 ガルファンの知る殺気を数十倍にまで濃縮したような気迫に、ガルファンの心身が数瞬凝固する。まともに息をすることもできなくなるほど、物理的な圧力さえ感じる激烈なまでの意志に、指一本動かせなくなる。
 それが三十数えるほどの時間続いたのちに、ラグが小さく肩をすくめて口を開いた。
「……フォルデ。ガルファンはお前より年上だろ」
「てめぇの言うことやることの責任を取れねぇ奴はガキで十分だろーが」
 言ってフォルデはふいと視線を逸らす。それでようやくまともに心臓が動き出し、ガルファンはは、は、は、と必死に息を吸った。
 そんな情けない姿をさらす自分に、ラグは静かな口調で言う。
「心配は、しているよ。心の底からね」
「っ………、……」
「正直、今からセオに直談判して命懸けの勝負だなんてやめてくれ、と言いたい気持ちを必死に抑えているくらいには心配しているよ。彼の価値……という言い方をすると、俺たちの個人的な感情が無視されるから嬉しくないんだけど、まぁ彼の戦略的な価値についても承知しているつもりだよ。セオの力で自分たちが人でなしになっていくのをつぶさに観察させられたんだ、否が応でもわかるさ」
「………っ、………」
「だけど、俺たちは、同じようにセオの心……と言うと陳腐な響きになってしまうけど、とにかくそういうものも心配しているし、信頼しているんだ。あの子は世界のすべてを救わないといてもたってもいられない気持ちになってしまう子だからね。護る力を得るために、毎日のように魔物を殺し続けている日々は、あの子にとって負担になっているのは間違いないし――でも、それと同時にね。あの子が本当に耐えられない時、苦しい時。逃げ出したい時もう駄目だと投げ出したくなってしまう時に、俺たちを頼ってくれるだろう、とも思っているんだ。――だから今は見守る。あの子にとっては、今はまだなんとかできる範疇のことなんだろう、って思うからね」
「ぇ………」
「俺はそーいうのとはちっと違ぇけどな。あの馬鹿は、んっとにムカつくことに、絶対になにがあっても自分曲げねぇ奴だって知ってるから――だから、無駄なことはしねぇだけだ。あいつはやるって言いだしたことはなにがなんでもやるだろうし、だったらこっちが口出ししたってどうしようもねぇだろ。せいぜい見守って、助けが必要だっつーんなら空いてる手くらいは貸してやるってだけだ。……それが精神衛生上一番いいってわかったからな」
「…………」
「俺の場合は、そうだな。あの子はいろいろと可愛らしいところのある子だが、一番魅力的なのは誰かを助けるために一生懸命な姿だから、とでもしておくか。あの子の魅力が損なわれるようなことをするなんぞ、俺は断じてしたくはない。あの子が一途に頑張るというなら、見守って、必要な時に手を貸して、一緒にやるべきことは一緒にやる。ま、大切な仲間として当たり前にやるべきことをごく当たり前にやっているだけさ」
「…………、………」
 ガルファンは何度か口を開き、そしてまた閉じる。なにを言えばいいのかわからなかった。勇者の仲間として、既に人を超えた高みに立ち、人として勇者と共に在り、勇者を当たり前に人として扱う人々に、今の自分がなにを言おうと、まともに取り合われるだけの価値のある言葉は、出てきそうになかったからだ。

「セオにーちゃんが、なんでガルファンに勝負申し込んだか、って……ガルファン、わかんないの?」
 食堂に戻る途中に捕まえて、セオには先に戻ってもらった上でぶつけた問いに、レウはきょとんと首を傾げた。そのいとけない仕草にガルファンは唇を噛みしめながらも、小さくうなずく。
「あぁ。だから、何人もの人間に聞いているんだ。あんたは勇者セオの考えていることがわかるのか、ってな」
「ふーん、それで俺にも聞いたんだ。んー……そーだなー。俺もいっつもセオにーちゃんがなに考えてるかわかるわけじゃないけど、今回はふつーに、ガルファンがなんか必死に悩んでるみたいだから、なんとか力になれないかなーっていろいろ頑張ってるだけじゃねーの?」
「……お前も、そう思うのか」
「お前もって?」
「ラグとロンとフォルデも、同じように答えたんだ。勇者セオは、俺を救うために命すら懸けようとしている、と」
「ふーん。ラグ兄たちもそう思うんだ」
「………お前は、おかしいとは思わないのか?」
「なにが?」
 またきょとんと首を傾げるレウに、ガルファンは胸の内の感情を吐き出す。確かに自分が言えた義理ではないだろう、でもガルファンにとってはごく当たり前の、当然以前の必須事項としてわきまえておくべきことだというのに。
「勇者セオが、なぜ俺を救うために命を懸ける必要があるんだ。……あの人は、世界を救うべき人だ。その力を十二分に有している人だ。それが、俺のような、しょせんはどこにでもいる戦士の一人でしかない人間を救うために、命を投げ出すような真似をしていいわけがない。あの人の命は俺よりはるかに重い。世界を救えるのはあの人しかいないんだぞ、それが俺のために自身を損なうような真似をするというのは、俺と世界を天秤にかけて俺を取るような暴挙じゃないか。……なぜ、それがわからないんだ、あの人は。あんなに賢い人だというのに」
 繰り返し伝えてきたつもりの事実を、心から湧き出る悲痛さすら交えた感情のままに、訥々とレウに投げかける。セオが自分を損なうのは、世界を損なうのと同じことだということを、どうしてあの人はわかってくれないのか、と。
 その言葉に、レウはまたきょとんと首を傾げて、逆に問いを返してきた。
「ガルファン、あのさー。それって、セオにーちゃんが好きだから、セオにーちゃんのことが心配になっちゃうってこと? それとも、世界が好きだから、世界のことが心配ってこと? どっち?」
「えっ……」
 問われて、ガルファンは一瞬絶句する。反射的に『そういうことじゃない』と言い返しそうになったが、レウの観点に依って考えると、自分は果たして、どちらを重視しているのだろう――と考えた時に、うまく答えられない自分に気づいたのだ。
 セオに対して、好感を抱いているか否か、という問いには素直に『抱いている』と答えられる。命を助けられ、祖国を助けられ、命懸けで自分たちを救ってくれた清廉な勇者に、好感を抱かないという奴はよほどの根性曲がりだ。
 だが、自分は勇者セオが自分を気遣い、自分や霊魂たちの救済のために尽力しようとした時、『そんなことをしないでもいいのに』と苦々しく思った。世界のために戦う勇者である彼が、そんな些末事のために自身を損なうようなことがあってはいけないと。それは、彼自身と彼に救われる世界、どちらのためを思ってだったのか。
 ――そこまで考えて、ようやく気づいた。セオの仲間たちは、全員、セオを当たり前に、一人の人間≠ニして考えている。ものを食べ、他の人間と違うことを勝手に考えるのが当たり前な、どこにでもいる人間の一人と。
 だから、彼が自分の意志で命を懸けるのを許す。仲間として、心から心配しながらも受け容れる。一人の人間として、自身の意志によって道を選ぶこと、そしてその選択に責任を持つことはごく当たり前のことだと考えているからだ。
 対して、自分は。自分は、勇者≠、ひとつの機構として考えていた。世界を救うための自動装置のようなものかなにかと。どれだけ偉大な勇者であろうと人間には違いない、世界を救うと決意するのも、その人間としての意志に依るものでしかないというのに。
 世界を救える人間として、彼の命は誰より重いという考えは少なくとも自分にとっては正しい。だが、そもそもが世界をただの人間一人に背負わせるということ自体がおそろしく身勝手な話なのだ。本来なら世界はそこに住まう人間一人一人が背負うべきもの、勇者はその肩代わりをできるだけの心と力を持った、持ってしまった人間でしかなく、その心と体の主は本来、自分自身以外にはありえないのに――
 かぁっ、と顔が熱くなるのに、奥歯を噛みしめ拳を顔に打ちつけて耐える。自分は――なんて。なんて傲慢な考えを、これまでセオたちに押しつけていたのだろう。勇者を世界を救うための道具扱いするような、思いあがった、身勝手な――
 もしかして、彼も。父サイモンも、こんな考えをずっと周囲から押しつけられていたのだろうか。世界を救えと、お前は世界を救うための自動装置だと。自身の意思を無視して、そうすることを強いられてきたのだろうか。そんな、身勝手にもほどがある理屈を、それが正しいのだと押しつけられて――
 ガルファンは、ぎゅうっと奥歯を噛みしめ、顔を両手で覆った。恥ずかしい。自分は、なんて。そんなくだらない奴らと、同じようなことしか考えられなかったのか。あの人の息子なのに。あの人の、家族なのに。
「わ、わ、ちょ、ガルファン、どーしたのっ!? な、な、大丈夫っ!? どっか痛いの!? ロンとかセオにーちゃんとか呼んでこよっか!?」
「っ……、………っ。…………っ」
 レウの心配そうな声に、ガルファンはただいやいやをするように、涙を堪えながらかぶりを振ることしかできなかった。情けない。悔しい。死ぬほど悔しい。そして――哀しい。
 自分の愚かさは、たぶんもう取り返しがつかない。英雄サイモンは、自分の父は――まず間違いなく、もう死んでいるのだから。
 その悔しさと情けなさと、自分に対する憤ろしさに、湧き上がる嗚咽を、ガルファンは必死で押し殺した。

「……もう、いい……ですか?」
「ああ――もう、いい。自分の愚かさは、こんな俺にも、もう身に沁みてわかったんだ」
 もう陽も落ちた暗い甲板で、ガルファンとセオは向かい合って言葉を交わす。ガルファンは、もうセオに面倒をかけるつもりはなかった。自分の感情が、勘違いっぷりが、心底情けなく恥ずかしく、いたたまれなく、悔しい。そんな自分の筋違いの想いで、セオにこれ以上負担をかけたくなかったのだ。
「すまなかった――勇者セオ。俺は……とんでもない思い違いをしていた。まるで、勇者を世界を救う自動装置かなにかのように扱って……人間扱いしないで。勇者が世界を救おうとするのは、なによりも自身が世界を救いたいと個人として思うからなのに……あなたたちの意志を、あなたたちのものとして扱っていなかった。すまなかった……本当に……」
「え……あの、…………」
「俺にとって、あなたの命が俺より重いのは変わらない。だが、それはあなたの感情とはまるで関係がないことだというのに……俺の、世界のための♂ソ値観を、あなたに押しつけていた。心から、詫びさせてもらう。本当に、すまなかった」
「いえ、あの……、………」
「だから、もう、いいんだ。勝負の必要はない。俺のために……余計な時間と労力を使わせて、すまなかった」
「………………」
 セオは沈黙し、ガルファンを見つめる。どこか濡れたような雰囲気を漂わせる瞳だ。男女の情交うんぬんという話ではなく、セオの瞳はどんな時も、泣いているかのような潤んだ気配を漂わせていた。
 いや、それは瞳だけでなく、体のどんな場所もそうだったかもしれない。どんな場所も、どんな時でも、セオの気配はいつも、今にも泣きそうなほど濡れて潤んでいた。
 圧倒的な強者なのにもかかわらず。世界を救う勇者なのにもかかわらず。
 そんな濡れた雰囲気のまま、セオは口を開いた。
「あの……ガルファン、さん。ガルファンさんのお気が進まないのに、本当に申し訳ないんですけれど、そのお気持ちを承知の上で、できれば一度俺と勝負していただけませんか?」
「……え?」
「本当に、お手間を取らせて申し訳ないんですけれど……どうか一度、勝負していただけないでしょうか。どうか、伏してお願いします」
「え……いや……」
 ガルファンは思わず呆気にとられた。セオがこれまでどんな気持ちで自分と相対していたのかは仲間たちから聞いてわかったつもりだ。だというのに、なぜこんなことを? 疑問に思わずにはいられない。
 だが、セオが自分に向ける表情は真剣だ。今にも泣きそうな気配を漂わせながら、決死の表情で自分に頼み込んでいる。それを無下にするというのも気が引けて、ガルファンは眉を寄せながらもうなずいた。
「わかった。君の期待に応えられるかどうかはわからないが、勝負に応じよう」
「ありがとうございます。……では」
 互いに剣を抜き、打ち合わせる。これまで何度も重ねてきた、戦士の習いとしてもごく尋常な、剣を交わす前の式礼だ。
 セオはいったいどういうつもりなのか。そんなことを考えながら剣を打ち合わせ、構え――その半瞬後より早く、ガルファンの心臓めがけ剣が突き入れられた。
「っ!!!」
 ガルファンは血の気を引かせながらかろうじてそれを受ける。だがその次の瞬間には首を狙って剣が振るわれる。それを必死に受ければ剣は翻って足元を払う。腕を落とそうとする。眼めがけ突き入れてくる。脳天を割ろうとする。
 ガルファンは総身を震わせながら、必死に一撃一撃を受け流した。なんだ、これは――いったいなんだ。これでは本当に、セオが自分を殺そうとしているようではないか。これまでとは違う、セオの攻撃には確かな殺意が籠っていた。ガルファンがかろうじて受け流せなければ間違いなく命を奪われていただろう。これは、このままでは。
 このままでは――殺される!
 全身が氷で包まれたように冷えるのを感じながら、ガルファンは必死に、首を落とさんと振るわれたセオの剣を跳ね上げた。そしてそのまま跳ね上げた剣を、振り下ろす動きに変えてセオの額めがけ打ち下ろす。ダ・シウヴァの家に伝わる剣術では天と地、つまり剣技における体の重心と剣の重みの平衡と制御を徹底的に叩き込まれる。この連携は子供の頃から我が身に染みついた、ガルファンの一番得意な防御連携だった。
 だがセオはそれをごくあっさりと、ガルファンに向かいさらに踏み込むことで避けた。当然体の前には剣を構え、体ごとぶつかっていく刺突の剣戟でガルファンの胴体めがけ突撃する。
「っ……!!」
 ガルファンはそれを捌ききれず、倒れこむ勢いを使って必死に避けようとして、足を取られその場に転ぶ。セオはもちろんその隙を逃さなかった。素早く剣を返し、ろくに身動きも取れないガルファンめがけ、体重をかけて突き入れる――
「ぅ……っぉおおおっ!」
 その剣を、ガルファンは、渾身の力を込めて弾き飛ばした。その一撃を受け流し損ねて、セオの体勢が大きく揺らぐ。
 その一瞬に跳ね起き、そのまま渾身の力を込めて剣を振るう。この一撃で殺さなければ殺される。勝ち負けだなんだと抜かしている暇はない。なんとしてでも自分の生存をもぎ取らなければ………!
 刹那の交錯。無我夢中で剣を繰り出し、必死に自分の生存を祈る。そんな死に物狂いの時間ののち――ぞぶり、と手に剣が肉を裂く感覚が伝わってきた。
「っ、………!?」
 一瞬ぽかんとし、それから我に返る。ガルファンの剣は、セオの腹を引き裂き貫いて、背中まで達していた。
「っ………! セオっ!」
「ガルファン、さん。あなたの……勝ち、です……ご、ぐぼっ」
 口からどぷり、と音が立つほどの勢いで血が吐き出される。ガルファンの総身から、ざぁっと音を立てて血の気が引いた。
「っ、なにを言ってっ……今すぐ手当てをするっ、もう少し我慢しろっ!」
「いえ、もう少し、このまま、で……あなたは、本当に、強い戦士、です。あなたには、いろんなことを行える、力がある……困っている相手を助ける、こともできる。そして、気に入らない相手を、殺す、ことも………」
「なにを……あんたはっ」
「忘れないで、ください。この、感触を。あなたは、本当に強い、力を持っているんだということを。敵を倒せるだけの、力を持った、本当に強い、戦士なのだということを……ぐ、っふ」
 そしてまたげぼっ、と口から血を吐く。ガルファンは思わず蒼白になりながら叫んだ。
「おいっ! ロン、でなければレウでもいいっ! 頼む、早くっ……セオがっ……!」
「大丈夫……です。このくらい、なら……心配、しないで、ください……」
 言いながら、セオは素手で腹に突き刺さった剣をつかみ、ずるっ、と引き抜く。血が溢れる、と慌てて止血しようとするが、セオはそれを制止し、小さく呪文を唱えた。
「おお愛しげな私の新芽よ、はちきれる細胞よ=c……」
 その言の葉が紡がれるや見る間にセオの傷は塞がり、血が止まる。ガルファンは思わずほっ、と息をついたが、その時ようやく気づいてはっとした。
「セオ……もしかして、あんた……いつでも、さっきの傷を癒せたのか?」
「え? あ、はい。そうです、けど?」
「じゃあなんでもっとさっさと治さなかったんだ!? 下手をしたら出血多量で死んでるところだぞ!」
「え? なんで、ですか?」
 セオはきょとんと首を傾げる。その仕草はレウにも少し似た、いとけなさすら感じるものだというのに、口元にべっとりとついた血が不条理な恐ろしさを感じさせた。
「あのくらい、の出血なら、死ぬことは、ないと、思う、んですけど。回復呪文が、間に合えば楽に、癒せるくらいの傷、ですし」
「いやしかしあれは、どう見ても!」
「えっと……俺たちは、レベルを上げた、せいで体の傷が見た目通り、じゃなくなってます、から。心臓を、貫かれても必ずしも死ぬ、わけではないですし。普通の人ならどう、考えても死ぬ、というくらいの血が流れ、ても大丈夫だっていうこと、は多いんです」
「っ……」
「それよりも、俺は。ガルファンさんに、あの時に、伝えたかったんです」
「………は?」
「ガルファンさんは、本当に強い戦士だって。あなたが救える存在は、本当にたくさんいるって。同様に殺せる相手も、本当にたくさんいるって。あなたは、すごい人だ、って」
「…………――――」
 ガルファンは思わず、目を見開いた。半ば呆然と訪ねざるを得なかった。
「お前は……もしかして、それを伝えようとしていたのか? これまでずっと?」
「えと……はい。俺が不器用なせいで、うまく伝えられるのに、すごく時間がかかっちゃったんですけど」
「まさか、これまで俺と剣を交わしている間中、ずっとそのことを伝えようとしていたのか? 俺の剣の弱点を衝いてきた時も、指導じみた剣を振るってきた時も、激情を受け止めるような剣で相対してきた時もずっと?」
「えぇと……はい。どう伝えればいいのか、ずっとあれこれ考えてたんですけど、いい案が思いつかなくて……いろいろやってみても、うまく伝えられなかったですし。それで結局、今回やったような感じに……」
「……俺に、お前を殺させることで、自信をつけさせようと?」
 そう訊ねると、セオはまたきょとんとした顔になって首を振った。
「いえ、ガルファンさんはもともと、ちゃんとした自信持たれていたと思いますし。俺を殺したところで、ちゃんと一から実力と一緒につけていった自信より上等なものなんて、つけられなかったと思いますし。単純に、ガルファンさんの力を自覚してもらおうと思ったんです。ガルファンさんの本来の力がどれだけすごいかは、これまで何度も剣を交えてわかってきましたから」
「そのために……命を、捨てようとしたと?」
 その言葉に、セオはまた子供のような頑是ない表情でわずかに首を傾げ、目をぱちぱちとさせる。
「え、あの。なんで、ですか?」
「あれは、わざとだろう。あの一瞬に、隙を見せたのは」
 今から考えれば、『セオが自分を殺そうとしている』という観点からしておかしな話だったのだ。セオのような勇者が守るべき民人を殺そうとするとは思えないし、そもそも殺す気ならこれまでにいくらだって殺せる機会があっただろう。
 なにより、ガルファンが受けきれる程度の力で殺そうとしてくるというのが奇妙すぎる。やろうと思えばセオは受け流そうとした剣ごと自分の首を叩き斬れただろう。つまり、手加減して、ガルファンが受けきれるぎりぎりの技と力で自分と切り結んでいたということになる。
 ガルファンの総身を震わせるほどの殺気を放ちながら。手加減されている可能性を微塵も考えさせない勢いでもって。そして最後にはガルファンの感じられるぎりぎり、という程度の大きさの隙を作り、ガルファンに攻撃させた。
 何度も剣を交え、ガルファンの剣筋、癖、力の強さ技の鋭さ、隙を見抜く能力、それらをすべて見切って。細心と言ってすら足りないほどの注意力集中力で、ガルファンの対処できる、隙を察知できる、ぎりぎりの強さで剣を振るってみせたのだ。
 我を忘れたガルファンの剣が、自身を貫くのを承知の上で。下手をすれば心臓を貫かれるかもしれないのに。――正直、勇者の力で通常の人間からは考えられないほど丈夫な体になっていたとしても、正気の沙汰ではない、と思う。
 そこまでして――自分に伝えようとしたのか。ガルファンには、力がある、と。世界は救えなかったとしても、人を護るに足る力があると。できることは山ほどあるのに、セオと自身を引き比べたり、勇者に自身の義務を押しつけたりしている暇があるのか、と。
「えと、それは、そうなん、ですけど命を、捨てよう、としたっていう、わけじゃ」
「なんで……そこまでするんだ。あんたにとって俺は……本当に、行きずりの相手でしかないのに。仲間たちに心配をかけていることはわかっているんだろう? だってのに、なんでそこまで必死になって、一生懸命……」
 どこか呻くようなガルファンの問いに、セオは小さく目を瞬かせた。それから一瞬困ったように眉を寄せてから、じっと自分を見つめ、小さくうなずいて、言った。
「はい。仲間のみなさんが、俺の、ことを心配して、くださってることは、知って、ます。とても、よく」
「…………」
「俺のためにそんな風に、心をかけて、いただいている、ことは……とても、ありがたくて……同じくらい、申し訳ない、です。本当に……申し訳なくて申し訳なくて、万度でも繰り返して、頭を擦りつけて、謝りたくなって、しまうくらい。……でも」
 セオは小さく、そしてゆっくりと首を振り、真正面からガルファンを見つめて告げる。
「それは、みなさんの、心配を、穢すことだ、と思うんです。心底俺の、心と命を気遣って、くれている人たちのために、という理由でやるべきだ、と思うことを放り出すことは。自分の想いを、曲げることも、その責任を人に、押しつけることも……俺を本当に、気遣ってくれて、いる人たちの想いを穢すことだ、って思い知ったんです。……ラグさんや、ロンさんや、フォルデさんやレウと、一緒に旅をする、中で」
「………それは………」
「だから、俺は、すべきことを全力でやる、と決めたんです。仲間たち、の心配に、恥じないように。そして仲間たち、の心配に応える、ために。全力で自分を守り、生き延びながら、すべきことを、する。それが俺にできる、一番ましな道だ、と思うようになったんです」
「…………それは」
「だから、ガルファンさん。俺があなたの力に、なろうとする、のは俺にとっては、当然以前の話、なんです。人の力になれる機会、があって力になれる時間、があるんですから、全力で自分のできる、ことをした。ただそれだけ、で……そしてもちろん、その中でも、自分の命は、絶対に護り、ます。自分の命を、軽んじる、ような、心配してくれて、いる人たちの、想いを穢すような、真似は絶対に、しないと、決めましたから」
「………………」
 ガルファンは、無言でセオの顔を見つめた。男に言われても嬉しくはないだろうが、美しく整った顔立ちだ。それがそれこそ決死、とすら言いたくなるような鋭いまでの真剣さでもって自分を見つめている。自然に頭を垂れたくなるほどの、気圧され従わずにはいられないほどの、神聖さすら感じる面持ちでもって。
 これが勇者というものなのか。世界を背負い戦う人間の覚悟なのか。本当に、彼は、世界のすべてを護ろうとしていると――
「……すまない」
「え?」
「本当に……すまなかった」
「え、え、あの、ガルファン、さん?」
 自然と頭が下がった。伏して謝りたいほどの気持ちだった。これほどの人間を、自分の都合で振り回してしまったことが心底申し訳なかった。
 思わず涙がこぼれそうになるのを必死に堪える。彼の――勇者の心は、こんなにも広く、強く、美しいのか。彼にとっては本当に、世界を救うというのは、そこに住まう人々一人一人を丸ごと救うことに他ならないのだろう。一人も余さず救うために、それこそ命を賭しさえするのだろう。命だけでなく、心でさえも、彼には救う対象なのだろう。
 それでいながら、彼は、どんな絶望的な状況下からも帰ってくるつもりでいる。自身の命を使い捨てにしていいものだとは少しも思っていない。偶然出会った一人の人間の心を救うためにさえ命を懸けながら、心身を十全に保ち続けようとする――それは、ただ世界を救うということより、どれほど重い覚悟なのか。そのためにどれだけの努力を積み重ねているのか――想像しただけで、体が震えた。
 そんな人に自分の勝手な都合を押しつけ、やいのやいのと騒ぎ立てるようなことをすれば、それは仲間としては腹が立つのが当然だ。自分はどれだけ無礼な、自分勝手な真似をしていたのかと思うと、頭を下げずにはいられなかった。
 ――父は、どう思っていたのだろう。
 そう思わずにはいられなかった。父は、英雄サイモンは、勇者としてどうやって世界と向き合っていたのか。
 息子として言えば、彼の父としての在りようはとても納得のいくものではない。勇者としても、サマンオサの国王に謀殺されるような異常性を見せてしまうようなやり方は、下策としか言いようがないだろう。それについて文句をつけたい、感情をぶちまけたいという想いは確かにある。
 けれど、それと同時に、サイモンはどんなことを考えて生きていたのかということを素直に知りたいと思った。彼の言葉を聞きたいと思った。彼がなにを考えて、なにを求めて、なにを指標として生きていたのか、教えてほしいと思った。彼の心を、知りたいと。
 そんな感情がむやみにあふれ出てどうにも制御できず、感情の現れ出ているであろう顔を見せたくなくてガルファンはひたすらに頭を下げる。セオはそれに対しひどく慌てて、あわあわわたわたと両手を動かしながら、それでも真正面から自分を見つめる目は逸らさなかった。

『エリック? エリックなの? ああ、エリック、私の愛しい人。あなたをずっと待っていたわ……!』
『オリビア、僕のオリビア……もう二度と君を離さない……!』
「……ひとつの海行き来できなくして山ほど街だの国だの潰しといてよくもまぁこうもてめぇらの世界に浸りきれるよな。阿呆っつーのも生易しいぐらいの阿呆だろこいつら」
「確かにな。盛り上がった恋人同士というのは大なり小なりそういうところはあるが、それに周囲を巻き込みつき合わせるというのはやり過ぎ、行き過ぎの誹りを免れん。この二人はその規模も大きすぎたしな」
「まぁ、もう何百年も前に死んだ人間にどうこう言っても仕方ないし。とっとと昇天してもらおう。二人の魂が死後どんな扱いを受けてるのかは知らないけどな」
 ネアルデュカ河からネクトラレ中海に出ようとしたまさにその時、訪れた嵐や大渦の中唱えたセオたちの呪文によってもたらされたエリックとの出会いに、オリビアはあっさりと嵐を止めた。巨大な女と男の像を成し、抱き合いながら天へと昇っていく二人を、セオの仲間たちはそんな風に呆れ顔で評したが、セオは一人、心底ほっとした面持ちで小さく息をつく。
 それを目の端で見つめながら、ガルファンは小さく深呼吸をした。ネクトラレ中海に入れば、オリビアの祠の牢獄までは一日もかからない。つまり――とうとう父との出会いが間近に迫っているのだ。
 生きた父と出会えるのかについてははなはだ怪しいし、父の想いを知ることができるかどうかについても心もとない。だが、それでも一つの区切りにはなる。父の囚われていた地に赴き、父の残したものを調べる以上に、父の本音を知る機会はないだろう。
 今祖国サマンオサはまさに、元の暮らしを取り戻すため惨憺を積み重ねている。どのような結果が訪れるにしろ、ガルファンは祖国に戻り、窮状を回復させるため力を尽くすつもりでいた。だからこそ――父の意志と遺志を知ることができるか、正直不安を抑えきれない。
 と、ふいに目の前に、人影が立った。顔を上げると、まるで今のガルファンのように緊張しきった顔のセオが、胸元を引き絞りながらおずおずと声をかけてくる。
「あ、の、ガルファン、さん。あの……そ、の。俺なんか、がこんな風に、言う資格ない、と思うんですけど……」
 ガルファンは苦笑し、首を振ってセオの言葉を遮る。
「気にしなくていい。単に少しばかり不安になっただけだ。やるべきことはわかっているし、怖気づいてもいない」
「あ、の………、は、い………」
「ほんとかよー、ガルファン! ガルファンってなんつーか、すぐいろんなもん背負い込んじゃうじゃん。だいじょーぶか? 俺ら心配してるんだぜ?」
 いつの間に近づいていたのか、ぱんぱんとガルファンの背中を叩きながら顔をのぞきこんでくるレウにさらに苦笑し、ぽんぽんと頭を叩き返しながら言い返す。
「大丈夫だ。心配はありがたいが……俺も、お前たちよりできることははるかに少ないにしろ、護られていればそれで済むような子供じゃない。俺なりに護るべきものがあるし、そのためなら命だって懸けられる、一人の男なんだ。お前たちに護られてばかりじゃそれこそ立つ瀬がない、俺は俺なりになんとかするさ」
「もー、なんだよそれ。ガルファンってなんかさー、ほんっと最後までみずくさいんだもんなー」
「お前たちがどれだけの心意気で世界を救おうとしているかわかっているからこそさ。俺にできることは少ないだろうが……俺は俺なりに、お前たちが世界を救おうとする役に立ちたいんだ。お前たちのいる場所じゃ足手まといにしかならないにしても、お前たちのいない場所でお前たちがいたらやっているだろうことをするくらいならできるからな」
 その言葉に、レウは小さく目を瞬かせた。なにか変なことを言ったか、と思わず首を傾げるガルファンに、にっかー、と満面の笑みを浮かべてばしばしと背中を叩いてくる。
「つっ……おい、レウ……痛い、痛いだろ! もう少し加減してくれ!」
「あはは、ごめんごめん。けどさー、なんか嬉しくって」
「は?」
「ガルファン、前向きに頑張れる気持ちになったんだなーって。なんかすげー嬉しくってさ」
「………それは、どうも」
 相手が勇者だというのはわかってはいるが、子供にこんなことを言われるというのは奇妙な気分というか、正直苦笑を浮かべざるをえない。ぽんぽんと頭を叩いてやっていると、じっと自分を見つめているセオと目が合った。
「………なんだ、セオ?」
「いっ、いえっ、あの。大したことじゃ……ないんですけど、えっとあの、なんていうか……」
 わたわたとまたうろたえた顔になりながら、どこか必死な顔でセオは告げる。
「あの……俺に、力になれることが、あるなら言って、ください。俺なりに……です、けどできるだけ、お役に立てるよう、頑張ります、から」
「……それはどうも」
 苦笑して、セオの頭をぽんぽんと叩く。セオはますますうろたえた顔になったが、かまわず続けた。この少年に、『ありがとう、頑張ってくれ』と言うのも『そんなに頑張らなくていい』と言うのも失礼な気がしたが、それでもできるだけ謝意を表したかったのだ。
「……おい。てめぇらじゃれ合ってねぇでとっとと船出すぞ。今日中にオリビアの祠の牢獄ってとこに着けるようにするんだろうが」
「少しばかり嫉妬の念が籠っていなくもなさそうな言葉ではあるが、フォルデの言うとおりだな。早めに動かないと今日中に着けるかどうかは怪しいぞ」
「あ、はいっ! 今すぐ、操舵室に戻り、ますっ!」
「はーいっ!」
「……おい待てクソ賢者嫉妬の念ってなぁなんだ、さくさく話進めりゃあごまかせると思うなよ」
「すまん、それはいわゆる言葉のあやというやつだ。実際には疑う余地なく嫉妬の念が籠っているとわかっているさ、俺と同じようにな」
「てめっ………! ………っ! ……ッソ鬱陶しいこと抜かしてんじゃねぇっ!」
「お前らの方こそじゃれ合ってないで仕事しろ。ロン、今の見張り当番はお前だっただろ」
「これはすまん。だがラグ、お前もちょっとばかりは面白くないと思っただろう? うちの子がよその大人に懐いてる姿を見て、微笑ましいと思いながらも少しばかりイラッとこなかったか?」
「……だからそういう話は仕事がない時にしろと」
「ラグ兄ー! 甲板での見張り兼稽古一緒にやろーぜっ!」
「フォルデ、さん、あの……急いで移動、するのに、目的地の場所の確認、とかを手伝って、くれませんか?」
「……ったく、しょうがねぇなぁ……わーったよ、今行く!」
「はいはい、了解。ほらロン、お前もさっさと仕事しろ」
「ちっ、子供たちに懐かれたからといってあっさり機嫌を直しおって。可愛い奴らめ」
「気っ色悪ぃこと抜かしてんじゃねぇーっ!」
 元気にじゃれ合う勇者と仲間たちに、小さく笑いを噛み殺しながら、ガルファンは掃除用具入れ目指し歩き出した。自分にも当然すべき仕事はあるのだ、一緒にいるうちにできるだけのことは済ませておきたかった。それが、自分なりに役目を果たすということなのだろうから。

 がちゃり、と音を立てて、ガルファンは祠の牢獄の扉を開けた。厳重に施錠されていた扉の鍵はフォルデが解除してくれたので、手にずっしりと重い感触を与えながらも扉はあっさりと開く。閉じられた家屋特有の、むっとした空気が鼻を衝いた。
 腐臭は、しない。とりあえずは。だが、もし父サイモンがここで死んだのだとすれば、時期はおそらく数年は前のことになるだろう。普通に考えて肉はとうに腐り果て、骨だけになっているだろう。期待はするな、覚悟を緩めるな、と何度も自分に言い聞かせながら先頭に立って奥へと進む。
 人はいない。入る前から気づいていたことだが、牢獄のあるこの島には人の気配というものがまるで感じられなかった。おそらくはオリビアの呪いに遮られるままに、人がこの島にやってくることはほとんどなかったのだろう。当然、食料がもたらされることも。
 だから、当然の帰結として、父は。それを何度も自分に言い聞かせながら、一歩一歩床を踏みしめつつ奥へと進む――
「――――!」
 思わず、足が止まる。ガルファンの視界の隅、牢獄の入り口の前辺りに、目をみはるようなものが飛び込んできたのだ。
 それは、人魂だった。人間を包み込むほどの大きさの、赤いがまるで温度を感じさせずに燃え盛っている炎が、ふわふわと宙を舞っている。
 その様は炎が揺らめくようでありながら、奇妙なことに人の意志を感じさせた。虚ろでありながら動きで、気配で不気味なほどはっきりと人≠感じさせる人ならざる存在に、ガルファンは思わず背筋を凍らせる。
 が、セオたちはまるで怯んだ様子もなく、ごく自然な様子で歩み寄ってその人魂に声をかけた。当然と言えば当然だが、死者におじけるほど勇者たちの心はやわではないのだろう。
「……すいません、少し、よろしい、でしょうか。あなたは、なぜ、ここに……」
『ここは……寂しい、祠の牢獄………人が、何人も、訪れては死に、死に、死んだ……』
 声が、空気を震わせることなく耳に響く。もしかしたら心に直接話しかけられているのかもしれないが、ガルファンにはその区別はつかなかった。
「おい……聞けよ、人の話」
「もうとうに死んでいる奴にそんなことを言っても仕方がないだろう。たぶん、死んでから相当に時間が経っているんじゃないのか」
『人が、何度も、死んでいく………誰もやってこない、この島で……何人も、何人も……』
 独り言を言うように、小さく、ぼそぼそと声にならない声で呟き続ける人魂の前に、セオが立った。じっと人魂を見つめ、小さく静かに、声をかける。
「よろしければ、俺の体の中に憑かれたら、いかがでしょう」
「なっ……!?」
 ガルファンは思わず驚愕の声を上げたが、仲間たちは表情を揺るがしさえしなかった。それぞれに、あるいは忌々しげな、あるいは気遣わしげな表情を向けるものの、黙ってセオを見守っている。
「あなたがどれだけ苦しんでらっしゃるのかは、俺にはわかりませんけれど。少なくとも、生きた人の体を感じることで、解放の道筋を見つける手伝いはできる、と思います。よろしければ、どうか……」
『…………――――』
 人魂は声にならない声を上げて、セオに飛びかかるようにしてセオの中へと入っていく。ガルファンはそれを仰天しながら見つめるしかなかったが、セオは静かな表情でそれを受け容れ――待つことしばし。ふわっ、と炎が消えるように、人魂はセオの中から一瞬体の外に出るほど燃え盛り、すぐに空気の中へと溶けた。
 それを見てセオの仲間たちはは、と小さく息をつく。ラグは歩み寄って「お疲れさま」とぽんぽんと頭を叩き、ロンは「とりあえず、最初が無事に済んで何よりだ」と苦笑し、フォルデはふん、と鼻を鳴らして「おら、とっとと奥行くぞ」と背中を叩き、レウは「セオにーちゃん、お疲れさまっ!」と飛びついて笑いかける。
 それに顔を緩めて応えるセオと彼らの様子から、彼らもセオを心配していなかったわけではないということを感じ取り、ガルファンは思わず深々と息をついた。それからロンに近寄り、小声で訊ねる。
「……あれも、船乗りの骨の力にまつわるものなのか?」
 ロンは一度首を傾げてから、軽く首を振って否≠ニ答えた。
「そういうわけじゃないが、それがきっかけではあっただろうな。船乗りの骨を使って霊、というか残留思念を依り憑かせて以来、憑かせた霊と一瞬で対話する方法とやらのコツをつかんだらしい。死霊系の呪文においては霊に対する敬意と慈しみの心とやらが大きな力になるそうだが、セオの場合呪文がなくとも普通に霊を憑かせてその苦悩を開放することができるようになってしまったそうでな、もしこの先も遺された思念があったらできるだけああいう風に開放してやりたい、と言っていた」
「……俺は聞いていないんだが」
「お前の場合父親の一件があるからできるだけそちらに集中してもらいたい、だそうだぞ」
「…………」
 その気遣いに礼を言いたいような水臭いとむっとしたいような(自分が言えた義理ではないだろうが)複雑な気分になりながら、ガルファンは小さく首を振って前に向き直った。確かに、今はよそ事を考えている余裕はない。
 またガルファンが先頭に立って、奥へ奥へと進む。セオたちは道すがら、牢獄の扉を開け放っては中に囚われていただろう人々の名残に手を合わせていた。
「……後で、ちゃんとお葬式? じゃなくて、えっと……」
「こういう場合は『埋葬』と言うのが妥当だろうな」
「そう、それ! してあげないと駄目だね」
「ま、しゃあねぇか。囚人台帳もねぇし、もうどれが誰の骨かなんてのもわかんなくなってるだろうから、引き取り手もいねぇだろうしな」
「こういう時は聖職者がいるといいんだろうけど。ロン、代わりできるか?」
「まぁ、真似事くらいはな。神に祈るわけではないが、死んだ奴らの心が安らげるように、と祈りを捧げることくらいはできるだろう」
 そんなことをしゃべっている仲間たちをよそに、セオは真剣この上ない面持ちで祈りを捧げている。その真摯な姿は、いかにもセオらしく、勇者らしく感じられた。
 同じように祈りを捧げながらも、ガルファンは死体を懸命に観察し、サイモンかどうかを検証する。だが一見しただけでも、死体たちの経てきた年数は数年ではきかなそうなことがわかった。おそらくは、サイモンがこの牢獄にやってくる前に死んでいた人々なのだろう。冥福を祈りながら、ガルファンはこの牢獄でどれだけの人間が死んでいったのかを思い知らされため息をついた。
 奥へ、奥へと歩みを進める。牢獄に放置されていた死体は、どれもとうに骨になったものばかりだ。自分の父は、サイモンは、どんな姿をしているのかと、苦しみに満ちた死にざまを見せられるのではないかと、死体を見るたびに覚悟と恐怖を積み重ねつつ進んでいき――
 最奥の牢獄のひとつに、転がっている死体を見つけた。
 死体が身に着けているのは、かつて豪奢であったはずなのに年を経て古ぼけた戦装束。そしてかつてぴかぴかに輝いていたのに、赤く錆びてしまった鎧。横には、時を経てなお白銀に輝く精緻な細工を施した剣が転がっている。――ガイアの剣だ。
 間違いない。英雄サイモン――サマンオサの勇者にして、ガルファンの父だった存在の死体だ。
「っ……!」
「待て、ガルファン!」
 思わず飛び出しかけたのを、ラグに制される。反射的にぎっと睨みつけたガルファンに、ラグは厳しい顔で顎をしゃくった。
「見ろ、人魂だ。……サイモンの残留思念は、まだ残ってる」
「っ!」
 ラグに示された先にぎっと視線を向ける。そこには確かに、ふよふよと宙を舞う人魂があった。温度を感じさせない赤く燃え盛る炎という、不思議に人がましさを感じさせる異形が。
 ガルファンはごくり、とつばを飲み込んだ。思わず再度ラグの顔に視線を向けると、ラグも、その周りの奴らもそれぞれうなずく。まずは、ガルファンに話をさせてくれるつもりらしい。
 ガルファンは再度唾を飲み込み、進み出る。緊張で汗をかき手は震えている――だが、自分はこのためにサマンオサからここまでやってきたのだ。
「………親父」
『……私は、サイモンの魂……私の屍のそばを調べよ……』
「………はっ?」
 思わずぽかんとしてから、慌てて人魂に真正面から向き合う。
「親父。俺だ、ガルファンだ。あんたの息子の……」
『……私は、サイモンの魂……私の屍のそばを調べよ……』
「おいっ! 聞けよ、人の話を! あんたは俺のことも覚えてないかもしれないが、俺の方は……」
『……私は、サイモンの魂……私の屍のそばを調べよ……』
「いい加減に……!」
「……落ち着け、ガルファン」
 ぽん、と肩を叩かれ、思わず振り向いて相手を睨みつける。肩を叩いたロンは、眉を寄せながらも、淡々とした口調で視線を受け止めながら告げた。
「残留思念というのは、あくまで人の想いの欠片が残ったものにすぎない。人格が完全に残る場合は稀だ。……このサイモンの残留思念は、この言葉を残すだけの力しか持っていない。それ以外の言葉を引き出そうとしても無駄だ」
「な……」
 ガルファンは、目を見開き再度人魂に向き直る。震える声で、噴き出る感情のままに、言葉を半ば漏らすようにぶつけた。
「……これが、あんたの残した言葉、だって?」
『……私は、サイモンの魂……私の屍のそばを調べよ……』
「ふざけるなよ……ふざけるな! あれだけ……あれだけ英雄だ、勇者だと持ち上げられながら、結局最後にはこんな言葉しか遺せなかったのかよ! 国王陛下の不興を買ってこんな牢獄まで流されて、食料を与えられずに餓死なんていう最低の死に方をして、あげくに遺せた言葉はたったこれだけだって!? 馬鹿じゃないのかあんたは!」
『……私は、サイモンの魂……私の屍のそばを調べよ……』
「あんたは結局……最初から最後までお題目の奴隷以外の何物にもならないってわけかよ。俺たちをさんざん振り回して、まともに相手すらしないで、遺した言葉は遺そうが遺すまいがどうでもいいような『世界を救うために必要かもしれない』って程度のものに対する代物なのかよ! いい加減にしろ! そんな風にしか扱えないなら、最初から家族なんて、息子なんて創るんじゃねぇよ………!」
『……私は、サイモンの魂……私の屍のそばを調べよ……』
「っ………!」
「……ガルファン、さん。待って、ください」
 思わずその場を駆け去ろうとしたガルファンの腕を、セオがふいにそっとつかんだ。じ、とガルファンの顔を見上げ、ひたと静かに見据える。
 反射的に振り払おうとして、まるで腕が動かないのに気付き、それからようやくはっ、とした。セオが、自分に苛烈なまでの意志をもって相対していることに。ガルファンにもその意志に応えうるだけの想いをもって対峙せよ、という言葉が、視線から、表情から伝わってくる。セオが自分にそんな強烈な意思をぶつけてくるとは思っていなかったガルファンは、思わずその瞳の輝きに気圧され動きを止める。
「……ガルファンさん。あなたが本当にそうしたいと思うのならば、サイモンさんと、少し話をすることはできる、と思います」
「え……」
「……おい、セオ」
 ロンが厳しい声音を発する、がセオは静かに首を振る。その瞳には迷いがまるで感じられず、彼ができる限り考え尽くした上でこんなことを申し出てきたのが否応なしにわかった。
「俺が考え出した呪文を使えば、残留思念を媒介に、もう亡くなってしまったサイモンさんの人格を持った霊を、ここに呼び出すことはできます。あまり長い時間は、取れないと思いますけど」
「……本当、なのか」
「だがそれはその分セオが死に近づく、ということでもある」
 ロンがそう厳しい声を上げた。ガルファンも、セオの仲間たちも仰天してロンとセオの顔を見比べる。
「そんな……それ、は」
「本当なのかい? セオ」
 問われて、セオは小さくうなずく。その面持ちには、やはり微塵の迷いも感じられなかった。
「死に近づく、と言っても、寿命や生命力が削れるわけじゃないんです。ただ、なんというか……死ぬ可能性が高まる、というだけで」
「え、え? ど、どーいうこと?」
「俺たち、勇者の力の影響下にある者は、ちょっとやそっとのことでは死なないようにできていますし、死んでも蘇生呪文や教会での蘇生の儀式を受ければ心身をまったく損なうことなく復活できます。本当に死≠ニいう概念を俺たちに与えるためには、死体に相当に念入りな儀式を施した上で的確な処理……体をいくつにも分解して獣に食わせたり、さらに細かく分け裂いていくつもの場所に撒いたりしなくてはなりません」
「そう、なのか」
「ただ、その儀式もちょっとやそっとの呪力では本当の死≠与えることができず、死体の欠片を集めて蘇生すれば簡単に蘇ってしまったりもしますし、体にあらかじめ『肉体が死亡状態になったら安全な場所へ転移する』と条件付けした転移の呪を施したりしておけば死んだ瞬間に……仲間にかける呪と連動させておけば全滅した瞬間にあらかじめ指定した場所へ転移してしまったりもします。強い意志をもって『生きたい』と思っている勇者を本当に殺すというのは、たとえ強力な魔物や魔族であろうとも相当な難事なんです」
「それは、そうだろうが……」
「だが、セオが今から使おうとしている呪文はその難易度を下げる。儀式に必要な呪力の敷居を下げ、体にかけた転移の呪を妨害しやすくする。そうでなくともあらかじめ施しておいた本当の死≠避けるための予防策が何らかの手違いで働かない、という可能性まで高くなる。セオがこれから使おうとしているのは、普通の死霊系呪文のように魂の類を扱うなどという段階ではなく、死≠扱う――死≠ノ近づき、死≠ニ親しむための呪文なんだからな。勇者じゃなかったら使って数日後には死に至る可能性まである、普通なら禁呪指定間違いなしという代物だ」
「! 本当なのか、セオ!」
「……はい。本当、です」
 一瞬場に沈黙が下り、それからガルファンも含めた仲間たちはいっせいに口々に否定の言葉を喋りだす。当然ながら、セオに死んでほしいなどと思っている奴はこの中には誰もいない。
「ざっけんなよてめぇ! お前自分のやってることわかってんのか! 身勝手にもほどがあんだろ、いい加減にしやがれ!」
「セオにーちゃんが死ぬなんてヤだよ俺絶対! みんなだってそーだよ! なのになんでそんなことすんの!?」
「セオ……君の気持はわからないでもない、がそれでもそこまでやる必要は絶対にないだろう。相手の感情のために本当に命をチップに払われたりしたら、相手の方も気詰まりなんてものじゃないぞ」
「セオ……頼むからそんなことはしないでくれ。俺は……俺だって自分のせいでセオが死ぬ可能性なんてものを増やされたら、本当にそれこそ死んでも死にきれない……」
 だが、セオは、かけられる言葉ひとつひとつを真剣な面持ちで聞きながらも、やはり表情に微塵も迷いを生じさせることなく、心の底から真剣に答える。
「この呪文は確かに普通なら死ぬ可能性を劇的に高めます。でも、それは勇者でなければの話です。ちょっとやそっとの事故では俺は死にませんし、本当の死≠もたらすための儀式や行為の難易度を下げるといっても、死なないように立ち回ればその効果は発揮できません。それでも一人ならなんらかの不慮の事故が生じる可能性は高かったでしょうけれど、俺には……」
 一度小さく息を吸って、ほんのり頬を赤らめて。真正面から仲間たちを見据え、大切な宝物を見せる時のように、緊張と幸福に満ちた声音で。
「みなさん、がいます、から………」
 そう告げて、ひどくつつましやかな仕草でうつむく。――数瞬ぽかんとしてから、照れてるのか、と気づいた。他の仲間たちもあるいは視線を逸らし、あるいは真っ赤な顔を思いきりしかめ、とそれぞれの表情でこの言葉を受け容れている。
 それを見ているとガルファン自身もなんだか恥ずかしくなってきそうだったが、小さく首を振ってその想いを振り払い、真正面から言葉を投げつけた。
「だからって死ぬ可能性を高めていいってことはないだろう。俺の想いなんてものは……結局のところ、もう死んでしまった人間に対する感情でしかない。そんなものは、生きている人間がそれぞれに、勝手に胸の内で決着をつけるべきものだ。それを、生きている人間の命を危険にさらしてまでどうにかする、なんて……正気の沙汰じゃない」
「……そう、でしょうか。必ずしも、そうとは、思えない、ですけど」
 セオはゆっくりと顔を上げ、ガルファンと正面から向き合う。その表情は、最初に自分の腕をつかんだ時と同じ、苛烈なまでに真剣なものだ。
「……まず、俺自身も、サイモンさんがどんなことを考えて獄中で亡くなったのか、知りたいんです。さっき申し上げたように、勇者は心の底から死にたくないと考えていれば、ちょっとやそっとでは死にません。やろうと思えば、たとえ魔法の使えなくなる鎖に囚われていたとしても、鎖を千切って牢獄の扉を蹴倒し脱出することもできるはずですし……たとえ飢えていたとしても、苔を舐め泥水をすすって自分の肉をかじってでも生き延びようとしたならば、数年は十分生き延びられる範囲内です。英雄と呼ばれ魔物の群れを一人で撃退できたほどの勇者であるサイモンさんが、それができないとは思えません」
「……そう、なのか?」
「はい。なのにこうして亡くなっているということは、サイモンさんが本当に、心の底から『もう生きたくはない』と思っていた、ということになります」
「――――」
「俺も、一応は……曲がりなりにも、勇者ですから、サイモンさんがその心境に至った過程を知っておきたいんです。俺にとっても、たぶん、他人事ではない話でしょうから」
「…………」
 父が、『もう生きたくはない』と思っていた。その言葉に、ガルファンは一瞬強く奥歯を噛みしめた。それはつまり、自分と母の存在は、サイモンを繋ぎ止める重石にはならなかったということになる。それは悔しく憤ろしくもあったが、同時に納得できる言葉でもあった。父サイモンにとっては、自分たちは本当にどうでもいい存在だったのだと。
 ならば、父はいったいなんのために生きていたのだ。結局英雄サイモンは、上から言われた正しい≠アとを言われた通りにやるだけの、お題目に囚われた人形でしかなかったのか。
 そんな問いも、ガルファンにとっては『おそらくそうなのだろう』と納得できてしまえるものだ。父サイモンはそういう化け物なのだと子供の頃からずっと思っていた。だが、サイモンの名前しか聞いたことのない、そして勇者であるセオにとっては、サイモンの人生の終わりを自分が至りうる最期のひとつとして考えてしまうのだろう。それは一応、理解できる。
「……セオ、お前はサイモンとはまったく違う――と言っても、納得できないんだろうな」
「納得、というか、人生にはなにがあるかわかりませんから……先人の歩んだ道を知って、対抗策を模索するのは当然の心得かな、って。……それ、と、個人的に……サイモンさん、という人間、のことを、勇者として、のサイモンさんのことを、きちんと知りたいという想い、もある、んです」
「なんでそんな。お前にとってはどうでもいい相手だろうに」
 その言葉に、セオは静かに首を振った。
「いいえ。サイモン、さんは、俺の父親、である勇者、オルテガと親友、だったと聞いて、います」
「ああ……それは、俺も聞いているが」
「俺が、父を正しく知る、ために。サイモンさん、の生前、の想いを知り、たいんです。そしてその機会、は今、この瞬間、しかありません。残留思念、でなく死者の、心を本当に呼び出す、には死者と、強い繋がりを持つ、生者が必要不可欠、です。ガルファン、さんがいて、サイモンさん、の心を心底知りたがっている今、しか機会はない、んです。……だから、俺にも、命を危険にさらすだけの価値はあるんです」
 静かな表情でぽつぽつと父への想いを語ってから、まっすぐに自分を見てきっぱり主張を告げてくる。なぜかセオの仲間たちに一瞬緊張が走ったのを意識の端で認識しながら、セオの言葉にガルファンはどう答えるべきか、と心の中で煩悶した。父などのためにセオの命を危険にさらすわけにはいかないが、セオの言葉に反論するのは難しい、というかガルファン自身セオのその想いに共感し、納得できてしまったのだから反論のしようもない。父を知りたい――そう考えてここまでセオと一緒に旅をしてきたのは、自分も同じなのだから。
 どうするべきか、どうすればいいのか、と唸っていると、ふいにラグが小さく息を吐き、軽く手を挙げて発言した。
「いいかな。……俺はセオの言う通りにしていいと思う」
「はぁ!?」
「……まぁ、お前はそう言うかもしれんとは思っていたが」
「なんでぇ!? セオにーちゃんが危なくなるかもしんねーのに!?」
 騒然とする仲間たちを見渡して、ラグは穏やかな口調で言う。
「セオの言いたいこともわかるし、なにを考えているか納得できたっていうのもあるけど。ロン、セオがその呪文を使って『死に近づく』のって、『死んだ時に無事蘇ることができる可能性が低くなる』ぐらいの話ってことでいいんだよな?」
「……まぁ、な。もちろん肉体が『死亡』という状態に至る可能性も高まるわけだが、それはつまるところ『運が悪くなる』ということだから、対処できないわけじゃない。だが、それでも危険性が高まらないわけでは絶対にないぞ」
「ああ。だがそれは、レベルを上げることで余裕を作っても制御しきれないほどか?」
「…………」
「これは、セオにとっては命を懸ける価値があることなんだろう。たとえそれで死に近づく危険があるにしろ、曲がりなりにも魔王征伐の旅なんだ、死の危険があるのは当たり前だ。もちろん、その危険を背負ったことで真剣勝負の天秤が敵の方に傾くこともあるかもしれないが、セオが知りたいと思うことを知って、生き抜く気迫を増すことでその天秤の針を引き寄せられるようになる可能性もあるだろう。……それに実際、セオが有利不利をきちんと考えた上で、そうしたいと心の底から言ってるんだ。仲間としては力になってやるしかないだろう」
 ラグの真摯な眼差しで告げた言葉を、ロンは眉根を寄せて聞き終えたのち、小さく息をついた。レウはその隣でうんうんと唸り、フォルデは眉間に皺を寄せて黙り込む。
「……ま、そうなんだが、な」
「むー……そー言われちゃうと、そーかもなーって思うけど。でも俺セオにーちゃんが死ぬかのーせー増えるのはやっぱやだなー……んー、でもガルファンとガルファンのお父さんを会わせらんないってのも嫌だし……うーん……」
「…………」
「………、あの………」
 セオがおずおずと彼らの前に進み出た。そして深々と頭を下げ、静かな、それでいてその中に決死の覚悟を秘めた声で、彼らに頼み込む。
「みなさんには、本当に、ご迷惑、をかけること、になるとわかっています。余計なご負担、をおかけする、ことになると。本当に、本当に申し訳ない、と思います……でも、どうか……どうか、許して、いただけない、でしょうか。――俺には、本当に、サイモンさんの想い、を知ることが必要、だと思う、んです」
『………………』
 勇者の仲間たちは顔を見合わせ、あるいはため息をつきあるいは鼻を鳴らしあるいは頭をかきながら、それぞれの表情でうなずいた。
「ま……やむをえまい。ラグの言っていることは正論だし、セオに真正面から頭を下げて助けを請われては、応えないわけにはいかんしな」
「ったく……あーったくっ、わかったっつーんだよっ。あーったくクソッタレが……てめぇそんだけ大口叩いたからにはうっかりヘマしてあっさり死にやがったらぶっ殺すからな!?」
「もーっ、フォルデはしょーがねーなー、仲間にぶっ殺すとか言うなよな! ……うん、そうだよな。セオにーちゃんがそこまで言うなら、俺絶対セオにーちゃんが死なないように守ってみせるからっ!」
「………ありがとう、ございます……本当に………」
 セオは再度深々と頭を下げて、しばし動きを止める。仲間たちに心底からの感謝を表しているのだろう。
 数十秒ののち頭を上げ、ガルファンに向き直ったセオの顔は、ひどく落ち着いた、沈着な――けれど、鮮烈なまでに強い意志の籠った表情を浮かべていた。当然のように覚悟を決めている人間の顔だ。
「――始めましょう」

「骨も古びて苔むす時に―――=v
 セオはサイモンの残留思念だという人魂に向き合い、呪文を詠唱する。目を閉じ、ひそやかな声で唱えられるその呪文は、セオの澄んだ声で唱えられているのに、ひどく陰陰滅滅とした響きを持っていた。
 墓の底から響いてくるかのような、暗く、翳りに満ちて、聞いているだけで陰鬱な気分になるような呪文。――それなのに、その呪文は、なぜかガルファンの耳には不思議に美しく聞こえた。
「美しい人よ、告げたまえ、あなたにくちづけを惜しまぬ蛆虫に―――=v
 陰鬱で、聞いているだけで暗い気分になるような響きなのに、体の芯が痺れるほどに優しい。絹のように滑らかで柔らかく、触れた者の背筋をぞっとさせる。死者を招く禁断の呪文は、それこそ常世を垣間見ているかのように、恐ろしいと同時に惹きつけられる響きを持っていた。
「昔の愛は腐敗し果てても、その愛の形と―――=v
 なぜこんな風に思うのか。わからないけれど、この呪文は、ひどく、胸に響く。不思議な懐かしさと、切なさが胸を満たし、同時に命が失われる瞬間をつぶさに見せられているような腹の底を冷やすような感覚も感じる。なぜ、こんな風に思うのだろう。
「――神聖な精華とは僕がこれを保ったと!=v
 セオが声をぃん、と響かせる――と、人魂の後ろ、サイモンであろう死体の前に、ふわ、と人影が映し出された。
 その人影は色を持たず、わずかに透けており、明らかに実体がないのは一見してわかった。そして、その顔は、体は、間違いなく、自分が何度も――いいや、何度かと数えられるほどしか、間近で見たことのない男のもので――
「……英雄、サイモン」
 低く呟くと、サイモンはゆっくりと全員の顔を見回し、問うてきた。
『……私を、呼び出したのは、誰だ。私はすでに死して、その想いの痕跡すらこの世から失われている身だというのに』
「……っ」
 少しも変わりのない、口調、表情、言い草。死んだ人間をわざわざ呼び出すなど正しくないと言わんばかりの冷たくきっぱりした、自分は正論を述べているという確信に満ちた語調と面持ち。それらが、少しも変わりのないそれらが、自分は、心の底から―――
「……あなたをお呼びする呪文を唱えたのは、俺です。サイモンさん」
 セオが静かな、淡々とした口調でサイモンの問いに答える。
『………君は、誰だ』
「アリアハンの勇者、セオ・レイリンバートルと申します」
『レイリンバートル……オルテガ殿の、ご子息か。確かに、勇者だという話は聞いていた……だが、ならばこそ問わねばならぬ。なにゆえ私を現世に呼び出す。常世と現世の理をいたずらに乱してなんとするつもりだ』
「……まず、こちらの方と、お話をしてください」
 言ってセオは一歩下がり、ガルファンを指し示す。ガルファンは小さく息を吸い込んでから、サイモンに向かい一歩を踏み出した。
『…………』
 じろり、とサイモンは自分をねめつける。ガルファンは渾身の力を込めて睨み返した。これまで自分が味わわされてきた苦痛、恨みつらみ、それらすべてを叩き返さんとばかりに。
 ――が、サイモンはふいと視線を逸らし、セオに向き直って言った。
『この青年が、いかがしたと?』
「―――――っ!!!」
 その言葉を、自分はどこかで、予想していたのだと思う。
 サイモンが自分にまったく関心を持っていないこと。サイモンに必要とされるどころか、心の中の場所をわずかにも占めてすらいないこと。サイモンにとって自分は、血を分けた息子でありながら、心の底からどうでもいいものであることを。
 だからこそ、動揺せずに――そして、心の底からの憤激をもって応えることができた。
「ふざけるなよ――屑が」
『……なんだと?』
「お前がどれだけ、俺たちに迷惑をかけたか知りもせずに。お前がどれだけ俺たちを苦しめたか知りもせずに、偉そうな口を叩いてるんじゃない、屑が。貴様のような奴が勇者のような顔をするな。思い上がりもいい加減にしろ。お前は勇者だなんて代物じゃない――英雄だなんだと権力者に褒めそやされはしても、人の心を救う勇者には、絶対になれやしないんだ」
『なにを言っているのかわからんが。セオ殿。貴殿はこの無礼な若者がどうしたと――』
「まだわからないのか、屑野郎が。俺はガルファン・オリヴェイラ・ダ・シウヴァ。お前の血を分けた、息子だ」
『――――』
 サイモンは大きく目を見開いた。わずかに口も開く。少しでも衝撃を与えられたということに、腹の底から暗い喜びが湧いた。
「お前は、サマンオサ王にここに閉じ込められたそうだな。サマンオサ古代の宗教を奉じる人々を皆殺しにしたという罪で。手前勝手な理屈でひとつの集落を滅ぼして、それを国王に恐れられて幽閉されて――そのあと、サマンオサがどうなったと思っている。魔物に国王と入れ替わられて、国中が乱れに乱れたんだぞ。何万人という人間が殺されて、飢えさせられ、拷問され、親しい人々を奪われた。お前がまっとうに勇者として振る舞っていれば、そんなことにはならなかったのにだ!」
『――――』
「俺はお前を勇者だなんぞと認めない。お前を絶対に許さない。お前の存在を認めない! お前の手前勝手な都合で妻をめとり、子供を作り、そのあとは顧みることもしなかったお前なんかな! 見向きもしないならなぜ家族なんぞ作った。お前の身勝手な行動で、母さんが――お前の妻がどれだけ苦しんだと思ってる! その挙句に勝手に死なれてこっちが一番大変だった時に手を貸すこともしなかったお前なぞ――絶対に許しも、認めもしない!」
『――――』
「そして死んだ後もお前は身勝手を貫き通そうとしやがった。俺たちに向けてはなにも残さないまま、遺したものはちょっと気が利く奴ならすぐに調べるだろうところを調べろなぞというしょうもない言葉だけ! そんな奴に……そんな奴に、俺は、絶対に………!」
 怒りのあまり声が震える。喉が詰まり、言葉が止まる。それでも全身全霊を込めてサイモンを睨みつける。恨みつらみ、憎しみ、そんなものを全力で込めて。たぶん自分の腹の底には殺意さえ滾っていただろう。もう死んだ相手だと理解しながら、それでも何度でも殺してやりたいという想いが全身から溢れ出る。
 ――そんな自分の視線を、サイモンはじっと見返し、それからゆっくりとうなずいた。
 一瞬呆気に取られてから、すぐにかぁっと頭が熱くなる。なにを他人事のような顔をしてやがる、と憤激で腹と頭が満ちる。思わず胸ぐらをつかもうとして、すかっと手がサイモンの体をすり抜けてから、そうだ、こいつはもう死んでいるんだ、と思い出す。ぎりっ、と奥歯を噛みしめ、怒りと苛立ちで体中をはちきれそうにしてサイモンを睨みつける――と、ふいに澄んだ声が響いた。
「サイモンさん。あなたが、なぜ『その』道を選ばれたのか、俺にはわかりません」
『…………』
「でも……ここには、それを話せる、話すべき人がいると思います。あなたがなにを考えて生きていたのか知るために、長い旅をして、自身の命を危険に晒し、苦しみを必死に乗り越えてここまでやってきたあなたの息子さんがいるんです」
『…………』
「あなたが話したくないと思う気持ちも、ある程度は理解できると思います。でも、だからこそ、これははっきりと言えます」
 セオは真正面からサイモンを見つめ、静かな面持ちで告げる。怒りで震えていたガルファンの頭が、一瞬しんと冷えるほど静謐で、清閑とした澄んだ声で。
「あなたのことを本当にわかりたいと思っている人にきちんと向き合えないままでは、あなたの苦しみは消えません」
『…………!』
 サイモンがわずかに目を見開いた、ように見えた。その一瞬の困惑に真正面から向き合って、セオは告げる。
「あなたはすでに亡くなっています。それでもあなたの話を聞きたいと思う人がいるんです。俺自身も、勇者の端くれとして、あなたの本当の心を知りたいと心の底から思うんです。どうか、お願いします。あなたの心を――本当の気持ちを、ガルファンさんたちとまともに向き合えなかった理由を、ご自身がなぜそのように生き、そのように亡くなったのか、教えてください」
『…………』
 深々と頭を下げられて、サイモンは厳しい面持ちのまま、考えるように視線を下げた。それから数瞬ののち、サイモンは視線を下げたまま、低く声を発する。
『……私は、そのように、懸命に知ろうとするほど価値のあることを考えていた人間ではない』
「なにを……! っ、なに?」
 予想もしていなかった答えが返ってきて、ガルファンは思わず目を見開く。その隣で、セオは真摯な表情でサイモンに語りかけ続けた。
「俺たちは、あなたご自身が定めた価値観も含めて知りたい、と思うんです。あなたがなにを考え、なにを求め、なんのために生きてきたのか。それが、俺たちがこれから生きていく指針を考える材料になると思うから」
『………私は、本当に、そのように言われるほど価値のあることを考えていたわけではないのだ。人として当たり前の、誰でも考えることしか私は考えることができなかった。しごく単純な……賢い人々からすれば、それこそ愚にもつかぬようなことしか』
「……と、いうと?」
『…………。天国に、行きたかった』
『………はっ?』
 思わずセオの仲間たちと声を揃えて問い返す。困惑の空気が場に満ちる――が、サイモンは、前言を翻すことなくきっぱりと告げた。
『死んだ後、天国に行きたかった。私が考えていたのは、ただそれだけだったのだ』
『はぁっ!?』
 思わず叫んでしまったガルファンたちに視線を向けることなく、サイモンは淡々とした表情と口調で、言葉を重ねる。その面持ちはひどく浮世離れして感情が感じられず、別の見方をすればある種ひどく子供じみていた。自分は当たり前のことをしているだけだ、と心の底から確信しているような。
『私は、子供の頃からずっと、死んだら天国に行きたかった。神父さまの言うような、魂が永劫に苦しめられる地獄に行くのは絶対に嫌――というか、そんなことはあってはならない≠アとだと思ったのだ。だから必死に正しい行いをし、正しくない振る舞いをする人間がいれば全力で止めた。私はできるなら、この世のすべての人間に天国に行ってほしいと願っていたがゆえ、周囲にも正しく振る舞うよう求め、人々がそう振る舞える環境を作るべく全力を尽くした。……それもまた、天国に行くためには必要な振る舞いだと思ったからだ』
『…………』
『十一歳の時に、自分に勇者の資格があると知った時には、全身全霊をもってそう在り続けよと神に言われた気がした。勇者の力をもって、万人を天国に導けと。それが自分に課せられた使命だと。……だが……』
「だが?」
『……結局私は、その使命を果たすことができなかった』
 サイモンは、低く、その言葉を告げた。表情も語調も淡々としたままで――だというのに、心底からの悔恨を言葉に込めて。
『私は道半ばにして倒れた。人々を苦しみから救い出す責務を果たすことができなかった。為すべきことを最後まで為し終えることができなかったのだ。……そのような人間に、聞かねばならぬほど価値のあることなど言えようはずもない』
『…………』
 しばしの沈黙。その間にガルファンはサイモンの言い分を呑み込み終え、カァッと心臓が燃え滾るように熱くなるのを自覚しながら、問うた。
「なら――なんであんたは、妻をめとった」
『…………』
「なぜ一人の女を妻として、家庭を作り、息子まで創った! 手前勝手な馬鹿馬鹿しい理屈で自分のやることを決めているような奴が、他人を自分の人生に巻き込んだ! 巻き込んだなら巻き込んだで、まともに相手と向き合う責任を果たせばいいものを、俺たちをまるで無視して自分の理屈で動きやがって……! 俺たちが……俺たちがどんな思いをしたと……!」
『…………』
 サイモンはわずかに眉を寄せた。困惑した――というより、なんでそんな理不尽な文句をつけられねばならないのかわからない、とでも言いたそうな顔で。
『……まず、第一には……私には、わからなかったのだ』
「なにがだ!」
『彼女と……妻として娶せられることとなった女性と、どう接すればよいのか』
「は………?」
 ぽかん、とガルファンは口を開ける。サイモンは、淡々とした表情と口調を変えぬまま、静かに言葉を重ねた。
『私は、妻となった女性と結婚する前に会ったことがなく、どのように接するのが正しいのか見出すことができなかった。いや、そもそも私は女性とまともに接したことがなく、夫婦というものはどのような関係を結ぶべきなのかわからなかった。どれだけ考え、悩んでも、どう振る舞うのが最も正しいのかということを見出すことがかなわなかったのだ』
「っ……あんただって、母親や親しい女性くらいいただろう!」
『私には、母親はない。物心ついた時には貧民窟の孤児で、十の年を数えるまで貧民窟で雇われ仕事をして糊口をしのぎ、貧民窟の教会の神父さまのご厚意で勇者の試しを受けられた。それからは城に召し上げられ戦士の技術を教え込まれ、並行して戦場に出て戦いの毎日を送ってきた。女性と話したことなど、業務連絡以外ではまるでなかったのだ』
「っ、馬鹿なことを……! ダ・シウヴァの家はサマンオサ開国から続く戦士の家柄だ! 孤児が何十人と郎党のいる家の惣領息子になれるわけが……」
『サマンオサでは、勇者の証を立てたものは王家に仕える戦士の家のひとつに引き取られ、その家の息子として扱われる。城に召し上げられた際に、私はダ・シウヴァの家の息子と定められた。ダ・シウヴァの本家に子供ができなかったことも、私が預けられた理由のひとつではあるのだろう。そして、ダ・シウヴァの家では男は女を必要以上に寄せ付けず、戦場で生きることがよしとされた。私はそれに従って生きてきた……』
「っ…………」
 しばし、言葉を失う。ガルファンはサイモンが自分の父となる前の半生についてはまるで知らなかった。そのように、潤いらしい潤いもなく、ただひたすらに戦いながら生きてきたとは――サイモンの人生に喜びらしい喜びが存在しなかったとは、思いたくなかったのだ。
 だが、それでもガルファンは大きく首を振って怒鳴る。サイモンの言葉を唯々諾々と認めるのは、これまで父に顧みられることもなく必死に生きてきた自分の意地が許さない。
「なら、なんで妻など娶った! まともに愛することもできないくせに、なぜ……!」
『…………』
 サイモンは口を閉じ、わずかに視線をうつむけた。ガルファンが思わず怒りの言葉をぶつける――よりも早く、セオが静かに言う。
「サイモンさん、どうか、正直に言ってあげていただけないでしょうか。あなたの、本当の気持ちを聞くために、ガルファンさんはここまでやってきたんです。どうか……」
『…………』
 セオに言葉をかけられても、サイモンはうつむけた顔を上げない。苛立ちに任せて、ガルファンは怒鳴るように言う。
「本当の理由とやらがあるのなら言ってもらおうじゃないか。そうでなけりゃ俺も納得ができない。言えるほどの理由があんたにあればの話だがな」
『…………』
 ガルファンの言葉に、サイモンはゆっくりと顔を上げ、ガルファンに向き直った。そして小さく息をつき、ゆっくりと告げる。
『そう、だな。そうまでして真実を追い求めているのならば、私の知ることを教えぬわけにはいくまい』
「なに……」
『ガルファンよ』
「っ……、なんだ」
 表情を厳しいものに変えて、真正面から言ってくるサイモンに、ガルファンは思わず唾を飲み込みながら向き直る。こんな風にサイモンと向き合うことなど、ガルファンには生まれてこの方一度もなかった――
『……お前は、私の血を分けた息子ではない』
 ――などという呑気な思考は、その一言で吹っ飛んだ。
「………、……は………?」
『お前の母は、私以外の男と婚前交渉をした挙句に捨てられた。お前の母の二親は、お前を妊娠したことをひた隠しにしながら夫となり得る存在を方々に働きかけて探していた。ダ・シウヴァの家はその密かな嘆願を受け容れ、私と彼女を娶せることとした。その時腹にいた子が、お前だ。ガルファン』
「………――――」
 ぽかん、と口を開ける。思考が停止し、感情が凍りつく。まともに体が動かず、精神が硬直してろくに働かない。サイモンの声はそんな自分の頭に陰々と響いた。
『私は結婚する前より、お前の母とその従者には近くに寄らぬよう言われていた。私の纏う血の匂いが心を乱す、と。戦場であまたの命を奪ってきた、私のような人間には、近づいてほしくも自分の人生に関わってほしくもないのだと。それゆえ私は彼女には近づかず、声もかけず、ダ・シウヴァの家が建てた我ら夫婦のための家屋にも近づかぬよう振る舞った。私が子をなした相手というわけでもない以上、これより子を産み育てなくてはならぬ彼女には、まず心を安らがせてもらわねばならぬと思ったからだ』
『お前と出会ったのはただ一度、お前が五歳の頃、お前の母が、我が子に私を恨ませるような教育をしていることを知り、やむを得ず会いに行った時のみだ。だが、その一度でお前の心根はわかった。お前は剣の稽古をしていたな。そして通りがかった私にまっすぐに訝しげな視線を向けてきた。お前の母親の手の者以外から、お前が私を見返すため、と懸命に稽古に励んでいることも聞いていた。――ゆえに、私はお前の母親にこのままお前を育てさせてもよいだろう、と考えたのだ。私に対する敵愾心を使い、お前を強い戦士に育てる教育に、それなりの理を見出したがため。ゆえ、『お前がガルファンか』『勇者サイモンの、ダ・シウヴァの名を継ぐ者として、修練を怠るでないぞ』とのみ告げ、その場を去ったのだ』
『私にはお前に父親として対峙する資格はない。血を分けているわけでもなく、子供の頃からたえずそばにいて守ってやることもできなかったのだからな。そして、それはたとえ求めても私には手に入れられぬ生でもあった。私は勇者として、全身全霊をもって、世界のすべての人々が天国に行けるような環境を作るため、戦わねばならなかったからだ。そうである以上、お前の母親がお前に取り返しのつかぬ傷をつけぬのならば、お前が母の手を必要とせぬ年になるまで、このまま見守るべきであろうと考えた。お前がたとえ父親への憎悪に苦しんだとしても、それと向き合い乗り越えることが、お前の魂を鍛えもするのだから』
『当然だが、お前が道を見誤ることのないよう、お前の母親に知られぬうちに、信頼できる者にお前の教育を任せるような手配は行った。ダ・シウヴァの家より頻繁に人を派遣してもらうようにし、ダ・シウヴァの一族に親しませ、視野を極端に狭まらせることがないようにもした。その上で、お前の道が私への憎しみに道を見誤るようならば、話をせねばならぬと考えていた。幸いにしてと言うべきか、私の生きている間そのような気配はなかったが』
『もとより私も養子の身、自身の血を残すことを求められているわけでもない。しかも、婚儀の前よりダ・シウヴァ本家の人間には知られていたそうだが、お前の母親の相手はどうやらダ・シウヴァの傍流のようだったのだ。私の婚儀の相手は、この話が出なければ傍流から選ばれるか、少なくとも傍流から養子を取らねばならなかったはず。私にとっては、私のような武骨な男の相手をか弱い女性にさせるようなことのないだけ、正しい選択であったのだ』
『――だから……そのような顔をする必要はない。お前は、自らの力で、今の正しき戦士としての生をつかみ取ったのだから』
 厳しい表情をわずかに歪めてそう言われ、ようやく、ガルファンは自分の顔がくしゃくしゃになっていることに気づいた。
 う、う、と自分の喉から嗚咽が漏れる。熱いものがあとからあとから瞳からこぼれ出る。自分は今、成人をとうに過ぎた男だというのに、ぼろぼろ涙をこぼしながらむせび泣いているのだ。
 真実を疑う気にはなれなかった。サイモンの言葉に嘘が感じられなかったこともあるが、それ以上に、母の言動を思い返した時、サイモンの言葉がひどく腑に落ちたからだ。
 母はサイモンにどれだけ尽くしたかを語り、それが無視されたことを嘆いていた。それをこれまで自分は当然のように信じてきた。だが、それでもその中に、隠してはいるがはっきりと、母の押しつけがましさを、身勝手さを、サイモンに対する傲慢さを感じ取っていたのだ。相手になにをしてもいい、咎められることはないと確信した小心者の、強欲で自分勝手な心を。
 母にはサイモンに対する愛情を感じなかった。自分はそれを、サイモンにさんざん振り回されたのだから当然だと思ってきた。感じ取った母の傲慢さも、それゆえと思って流してきた。
 けれど、もし母が、サイモンと結婚させられたのが気に入らず、サイモンに対し身勝手な復讐心を抱き、自分にサイモンを嫌わせ憎ませるためにサイモンの悪口を計算して吹き込んだのだとしたら――母の、母の従者たちの態度の合点がいかない部分に納得ができてしまう。口に出してはサイモンは立派な人間だと言いながら、悲しげにサイモンの高慢な行動を言い立てるやり口。自分が至らなかったのだと言いながら、相手に自分の緩怠をすべて押しつける言い草。そして、そんな母たちの言葉をすべて無視して、サイモンが誇り高き勇者だと当然のように呑み込みながら自分を鍛えるダ・シウヴァの郎党たち。
 納得できてしまった――ゆえにこそ、ガルファンはどうしようもなく顔を歪めざるをえなかった。自分はこれまでの人生で、常に英雄サイモンの息子≠ニして周囲に接されてきた。よきにつけ悪しきにつけ、それが自分の第一定義だった。
 それが、まったくの嘘っぱちだとしたら。自分は英雄サイモンとなんの関わりもない、英雄サイモンに捨てられた男との間にできた子を押しつけた傲慢な女の息子でしかなかったとしたら――自分のこれまでの人生すべてが、まるで意味のないものに、なって――
 その想いが喉の奥からほとばしりそうになった時、ぐ、とガルファンの腕を誰かがつかんだ。
「……サイモンさん。できれば、ここに投獄された理由についても話していただけませんか」
 刹那の忘我ののち、その手がセオのものだと気づく。ガルファンの腕をつかむ手は、ガルファンのものと比べれば小さく、頼りなさすら覚える少年のものでしかない。なのに――ひどく、力強かった。
 ガルファンはぐっと奥歯を噛み締める。思いきり腹の底に力を入れて、ぎっとサイモンを睨みつける。
 そうだ、負けてたまるか。自分もこれまでの人生を、ただ流されて生きてきたわけではない。
 なにより、サマンオサからここまでの旅の中で、自分は勇者と何度もやり合った。手前勝手な理屈であれこれ文句をつけて、最後には斬り合いをして勇者を殺しかけさせられて、さんざん迷惑をかけてまで、自分なりにサイモンへの感情にけりをつけてここにやって来たのだ。それを無にさせられてたまるものか。
 自分は、まだ――言うべきことをなにも言っていないのに!
『……諸君は、私がここに投獄された理由を知っているのか』
「はい。サマンオサの国王陛下から、直接詳しくお聞きしました」
『………なるほど』
 サイモンは小さくうなずき、それから軽く全員の顔を眺めまわす。それからぎ、と視線に力を入れて、全員の顔を真正面から睨みつけた。
『陛下から事情を聞き、そしてなお私から話を聞きたいと思うのならば……私としても、できる限りのことを話さねばなるまいな』
『…………』
『私は陛下と共に南部の密林を探索していた際、かつてこの地に在った少年少女を生贄に捧げる儀式を是とする太陽神を奉じる集落と出くわした。……そして私は、一刻の間考えに考えたのち、その集落の人間を皆殺しにした』
「………っ」
 ガルファンは思わず唇を噛む。すでに知り得たことではあったが、それでも本人の口から話されるのは、覚悟してはいても心臓に短剣を突き刺されたような気分になる。
 だが、だからといって黙ってそれを受け容れるつもりはない。ぎっとサイモンをにらみつけ、叩きつけるように問うた。
「なぜそんな真似をした。国王陛下の前で無造作にそんな真似をしたせいで、あんたは牢獄にぶち込まれたんだぞ。陛下の不興を買い、怯えられ化け物と呼ばれ、それでも陛下の目の前でそいつらを殺さなくてはならないほどの理由が、あんたにはあったっていうのか」
『……なにを言っている?』
 サイモンは、わずかに眉を寄せた。怪訝そうな表情になり、小さく首を傾げる。
「っ、あんたはこんな話どうでもいいってわけか? 正義を守るというお題目さえ守っていればいい、結局それがあんたの――」
『そういうことではない。なぜ陛下の目の前で殺すことが関係するのか、と聞いたのだ』
「なに……」
『はっきり言うが、私にはそんな些事に配慮している余裕はなかった。とにかく一刻でも早く、その集落の人間たちを皆殺しにしなければならなかったのだから』
「っ、な、にを―――」
「サイモンさん。なぜ、そう思われたのか教えていただけますか?」
 セオの言葉に、サイモンは重々しくうなずいて、淡々とした、ごく当たり前のことを言っているだけという口調で答えた。
『彼らが、天国には行けないと知ったからだ』
「―――は?」
 思わずぽかん、とした表情になり、言葉をこぼす。なにを言っているのかまるでわからない――だがサイモンはあくまで淡々と、言葉を紡いだ。
『少年少女を生贄にするという宗教が、邪悪な、この世に在ってはならぬものであることには異論をさしはさむ余地はないだろう。彼らはそれを奉じていた。だが人間というものは自分自身を改めることができる生き物だ。だから彼らが心を改め、正しき法の下正しき道を生きていくことができるならば、彼らの命は安んじられるべき民の命となるだろう。だが、彼らが心を改めることができぬのならば――』
「……殺しても、いいと思ったってか? 人間だろうが、間違ってる%zらだから、どう扱ってもいいって?」
 怒りを押し殺しているのだろう、背筋が冷えるほど冷たく冴えたフォルデの問いに、サイモンは重々しく首を振る。
『馬鹿な。たとえ道を間違えようとも、それぞれ懸命に自身の生を全うせんとする人間には違いない。他者のほしいままに、蹂躙されてよい命などこの世に在りはしない。そも、彼らがその宗教を奉じることは、彼ら自身の罪であるとは言えぬ。先祖が正しいことと定め伝えてきたことを、伝えられたままに行っていたのだろうからな。それ以外の法を、社会を、神を知らぬのであれば、親より伝えられたことを無二の真実と捉えるのはある種当然だ』
「じゃあっ! じゃあ、なんで、そんな………」
 思わず勢い込んで問いかける。自分が必死の形相になっていることにも気づいていなかった。ガルファンにとってそれほどまでに、重大重要な話だったのだ。
 そんな自分をサイモンはじ、と見据え、小さくうなずいて告げた。
『私は彼らを処刑することで、少しでも罪を減じなければ、と考えたのだ』
「………は………?」
 再度ぽかん、と口を開けて同じ言葉をこぼす。やはり、なにを言っているのか、意味が分からない。
 サイモンは淡々と、だがその言葉の底に強い意志を込めて言葉を紡ぐ。それが彼にとっては違えようのない真実なのだ、と否が応でも知れた。
『私は彼らをできる限り知ろうとした。そして、知れば知るほどにその在りようが在ってはならぬ形としか思えなくなっていった。彼らは生贄となるべき人間を、赤ん坊のころから隔離し、生贄になることに喜びを感じるよう教育する。支配者階級の人間の子供は決して生贄に選ばれることはないのにだ。いとけない赤子を選別し、その生を、魂を歪めてしまう。その行為に、その集落の人々はなんら疑問を感じてはいなかった』
『在ってはならぬ神を奉じること自体は彼らの罪ではない。しかし、自身の真実を揺るがされ、自身の知る以外の法と神を示されながら、それでも自身の神に、真実にしがみつくことは、彼ら自身の罪に他ならぬ。……彼らは、我らを自身の集落に招き入れ、一つの家にまとめて泊めた。……そして、その家に外から火をかけようとしたのだ。我らをまとめて皆殺しにしようと』
『集落の人間は全員、まだ年若い子供すらもが、槍を掲げて気勢を上げていた。そも、彼らは血が濃くなりすぎたせいで子供がなかなか生まれなくなっていたようだったのだ。それでも彼らは、生贄を捧げる儀式に固執した。それにより自らに力を取り戻せるという、頑迷な迷信にしがみついていたのだ。外からやって来た、別なる神を――自身の真実を揺るがす真実を有する人々と出会ってさえもなお、かねてより有していた神に固執した。――ならば、彼らに対し、私がしてやれることは、地獄において苦しめられる時を少しでも縮めるべく、罪を軽くしてやることしかない。そう考えた』
『私はかつて、神父さまより教わった。罪人を処刑する――やり直せる可能性のある者の命を奪うことの是非を問うた際に、悔い改めることすらできぬ救われぬ罪人に我らがしてやれることは、速やかに命を奪い、それ以上罪を重ねさせぬことであると。むしろ正しき法にのっとり処刑されることが、自身の罪を自覚できぬ彼らの罪を軽くするのだと。私はそれに従い、いくつもの命を奪ってきた。サマンオサを襲ってきた魔物を皆殺しにし、国府に反乱を企てた者たちを殺害した。幾人もの命を奪った殺人鬼の首を落とし、我が子をいたぶり殺した親の命を奪った。今回もそのようにしたのだ。それが正しいと信じ。それが人として当然の為すべきことだ、というのが私の人生の中では紛れもない真実だったからだ。……だが』
『陛下は、そんな私を見て、化け物とおっしゃられた。狂人、人でなしと。それを聞き、私はなるほど、と思った。この集落の人間たちが自身の人の魂を歪める真実に固執し、私が断罪すべきと判じたように、私の真実も陛下にとっては断罪すべき厭わしき罪だったのだろう、と』
『つまり、私は罪を犯した、ということになる。それも断罪せずにはいられぬほどの罪を。――ならば、私は一刻も早く死なねばならない、と思った』
『はぁっ!?』
 またも声が揃う。全員目を見開き、サイモンをぽかんと、あるいは目をむいて見つめる。だがそれを気にもしないまま、サイモンは同じ語調で続けた。
『私は天国に行きたかった。地獄に行くのは嫌だった。世界すべての人々が天国に行くため粉骨砕身してきたつもりだった。だが、私は罪を犯した。これまで私が正しいと信じ行ってきたことが少なくとも国王陛下にとっては罪であることを知った。それはつまり、私はしてはならぬことをし、天国に行く資格を失った、ということだ。ならば少しでも地獄にいる時間を減らすため、罰されるしか私に残された道はない。ゆえに積極的に陛下より下された刑罰を受け容れた。無二の宝重たるガイアの剣を、渡すべき者に渡さねばという心残りはあったけれども。私は、勇者としての資格も、人として生きる資格も失ったのだから』
「待てよおい! なんでそうなる!? 神だのなんだのがてめぇを助けてくれるって本気で思ってんのか!? 阿呆かてめぇっ、神なんてなぁなっ……」
『神が実在するかどうか、天国が実在するかどうかは、正確には私にとっては問題ではない。私が私を、そして世界のすべての人々を『死後天国に行ける』と信じられるかどうかなのだ。私がそれを心から信じられたならば、私は死ぬ時心の底から悔いなく、やりきったという誇りを持って死んでいけるだろうと思った』
「っ……」
『だが、私にはできなかった。私は罪を犯した。すべきことが、人生の目的を果たすことができなかった。ならばすでに私の選べる道は、少しでも苦痛を減らすために、急ぎ罰されて処刑され、この世からいなくなる道だけだったのだ』
「でっ、でもっ……サイモンさんって、サマンオサの勇者だったんだろ!? いろんな人に好かれてたんだろ!? だったらもっと、生きてたんだったらたくさんの人を助けられたはずだろ!?」
『私が正しいと信じていたことが、少なくともサマンオサの国王陛下には罪に他ならなかったのだ。懸命に追い求めてきた正しさが、やるべきことが間違いでしかなかったのだ。ならば私がこれまでしてきたことも、これから行うことも間違いでしかなく、他者をいたずらに苦しめ、命を奪う結果にしかならない可能性は大きい。そんな可能性を放置するくらいなら、私は私をこの世界から排除する。それが私にとっても、そして少なくとも陛下にとっても正しい道なのだから』
「でもさぁっ! サイモンさん、ほんとにサマンオサの人たちに好かれてたじゃんっ! マイーラ姉ちゃんとかもサイモンさんのこと偉いすごいって言ってたし! なのにさぁっ、そんな風に簡単に自分のこと死んだ方がいいなんて考えちゃうって……なんていうか、なんつーかさぁっ、寂しいじゃんっ!」
「………っ」
 寂しい。
 レウの叫んだその言葉は、ガルファンの耳に、そして心臓にひどくくっきりと響き渡った気がした。
 だがサイモンは表情を揺るがしもせず、淡々とした口調に熱意を込めて告げた言葉を繰り返す。
『だが、私ができるだけ早く死んだ方がいい存在なことは疑いがない。私の心情としても、世界にとっても。そもそも勇者というのは正しき心によって動かねば世界にこの上ない災厄をもたらす代物だ。そのようなものが誤った正しさを信じ行動しているなど、急ぎ消滅させるべき害悪以外の何物でもない』
「だけど……! サイモンさんはそれでいいわけ!? サマンオサの人たちとか、他の国の助けた人たちとか、そういう人たちとそんな風に簡単に別れちゃっても!」
『無論だ。私が本来勇者として在るべき存在ではないと知れた以上、私が助けた人々も本来助けられるべき人間に助けられなかったということになる。本来得る必要のない苦痛や罪を背負うことになるのだ、私の存在など記憶からも認識からも消し去るべきだろう』
「そーいうことじゃなくってぇっ……! サイモンさんは、寂しくないのかよっ!」
 レウに歪めた顔を怒りにか悲しみにか真っ赤に染めながらそう問われ、サイモンははじめてわずかに表情を動かした。といっても、少しばかり眉根を寄せ、物思わしげな面持ちを作った程度ではあったが。
『……私の感情など、気にする必要はなかろう。私は果たすべき使命を果たせなかったのだ。そのような人間のことなど、気に掛ける必要はない』
「……っざっけんな! 思い上がっててめぇ勝手なことほざいてんじゃねぇ! てめぇがてめぇの人生をどう使おうが勝手だけどな、他の奴らのことまでてめぇが勝手に決めつけてんじゃねぇよっ!」
『他の奴ら、とは』
「英雄サイモン。あんたは、果たすべき使命を果たせなかった人間に気にかけられる資格はない、って言っただろう。それじゃあこの世に山といる使命を果たせなかった人間、そもそも使命なんてものを持ちようもない人間っていうのは全員気にかけられる資格はないってことになる。あんた個人が内心どう考えてるかはともかく、それぞれ必死に生きている他の人間を、あんたの価値観で否定するような言い草をされれば、普通の人間は怒ると思わないのか?」
『………それは、そうだろうが。しかし、私は』
「あんたが勇者だってことをうんぬんするなら、それは思い上がりだと言うしかないな。俺のこれまで見聞きした経験から言わせてもらうと、勇者というものは総じて心というか、『世界を護る、救う』という意志の力はそれこそ超人的なくらいに強いが、その価値観や人格の完成度みたいなものは普通の人間とさして変わりはしない。人間として優れた人格を持つ人もいれば、年若くまだ未熟な奴もいるし、狂ってるか壊れてるかしてるんじゃないかというのもいれば、器が大きいのか頭がちょっと足りてないのか判断がつかないような相手もいる。『世界を救える』ということ以外はただの人間でしかない奴が、人間以上≠フ視点からものを言うなんて思い上がりだろう?」
『…………。しかし』
「サイモン殿。俺個人の嗜好からすると、あなたのような不器用で一途な人間というのは好きな部類に入るんだが、まぁそれはそれとして言わせてもらう。―――あなたは、あなたの死を悲しむ人間がいるということは、考えなかったのか?」
『………私のような人間の死など、悲しむ必要は』
「必要がないから悲しまない、なんぞということができる人間は普通いないし、そもそも感情は『必要』で湧いてくるものでもない。あなたは大往生だから、という理由で愛しい相手の死を悲しまずにいられるのか?」
『…………だが』
「やれやれ、頑固だな。だが、まぁ確かに俺たちがああだこうだ言ってもらちが明かんか。そもそもあなたにこんなことを言える資格を持っている人間は、ここには一人しかいないしな」
「………………」
 すぅ、と小さく息を吸い、軽く吐き出す。そんな深呼吸を三度繰り返して、ガルファンはサイモンの前に立った。
 サイモンは困惑げな表情で自分を見つめる。――そんなことですら、自分の人生の中で、これで二度目の話でしかないのだ。
「勇者、サイモン。あんたに、ひとつ聞きたい」
『………なんだ』
「あんたにとって、俺は、どういう存在だったんだ? ただの他人と、どこにでもいる子供と変わらなかったのか?」
『……私とお前とは本来なんの関わりもない。血を分けたわけでも赤子から育てたわけでもない。ただ形式上父親になっているというだけの存在だ』
「そうか。だが、俺にとってはあんたは父親以外の何物でもなかった」
『…………』
 滾る感情を押し殺し、震えそうになる声を張り、真正面からサイモンに叩きつける。彼の生前にやれなかったことを今、この時にやり直す。それがセオが命を懸けてサイモンを呼び出したことに対する、自分なりの返礼だ。
「俺はあんたを恨んでいた。母を、俺を、視界にも入れずに無視してきたあんたを心底恨んでいた。世界を救うというお題目ばかり追い求めて、俺たちには幸せの欠片すら与えない、父親の義務を放棄してそれに疑問すら抱かないあんたが憎らしくてたまらなかった」
『…………』
「あんたにとってはそれは筋違いな恨みでしかないんだろう。そもそもまともに夫婦生活を営んだこともない相手とそいつが見も知らぬ相手と作った子供なんだ、そいつらの生活の面倒を見るだけで充分義務を果たしていたと考えていたんだろう。――だが、俺にとっては違った。あんたは紛れもなく自分の父親で、そいつが自分を視界にすら入れないことが、悔しくて、腹立たしくて、憎らしかった。この世の勇者すべてに、憎悪を向けずにはいられないくらいに」
『…………』
「あんたにとっては、俺は、どうでもいい存在だったんだろうが、俺にとっては、あんたは……あんたは………」
 胸の奥からいろんなものがこみ上げてくる。種々の感情が溢れそうで止まらなくなる。胸を思いきりわしづかみにして堪えようとしても、喉から、瞳からどうしようもなく熱いものが漏れる。
 こんな相手にこんなところを見せるのは嫌なのに、喉を鳴らしながら泣きじゃくるところなど断じて見せたくはないのに、それでも、涙が、止まらない。
「あんたが大嫌いだ。世界を救うために俺を見捨てた、あんたが大嫌いだ。俺を見捨てたことが正しいと心の底から信じている、あんたが本当に大嫌いだ……! あんたは正しいことをしたつもりでも、俺にとっては不満しかなかった! あんたは俺のことなんかどうでもよかったんだろうが、俺にとってはあんたは二人といない自分の父親だったんだ! それが、勇者で……俺のことなんかどうでもよくて……息子のことよりも、世界が大事で……父親らしいことなんか、なにひとつしないで……それがっ、本当は正しいことでもっ………!」
『…………』
「俺はっ! あんたに、父親をやってほしかった! 自分の父親が世界一の勇者だと、英雄だと、誇れる自分で、誇れる子供でいたかった! それができなくて……あんたに、父親をしてもらえなくて……本当に……本当にっ………!」
『…………』
 サイモンは困惑げな表情で自分をじっと見つめている。その視線の、表情の軽さに、針を突き立てられたかのように心臓が痛む。この人には、英雄サイモンには、自分は本当に、そこらにいる子供と同程度の重要性しかなかったのだと。
 サイモンの心は、一般的に在るべきと考えられている勇者のものからすると、ひどく歪んでいるだろう。手前勝手な理屈で人外の力を振るい、人を殺し、その挙句に国王に幽閉された。自業自得と言えばその通りだし、当然の報いと言うべき結果かもしれない。
 だが、人としてはその歪みは、在りうるだろうもののひとつでしかないだろう。家族が、子供が、大切な存在が、そばにいて正すことができるならば、大過なく人生を送れていたはずだ。
 だが、自分は、それができなかった。本当の息子ではなかったから。サイモンにとっては他人とまるで変わらない存在でしかなかったから。大切な相手ではなかったから。
 力も、心も、サイモンのそばに立つことが、できないほどに足りなかったから。
「っ………ぅ、っ………!」
 堪えきれず、あとからあとから溢れる涙を拳で拭う。自分には、結局、この人に与えることも、この人から得ることも、まるでできなかった。ただの人のまま、英雄と関わることすらできないまま、なにもできずに、終わるしか―――
『…………』
 ふわ、と。なにかが自分の体を包んだ気がした。
 驚いて目を開け周りを見やる。自分を包んでいたのは、逞しい男の、力強い腕だった。――半透明の、もはや生なき者のそれではあったけれども。
 目を見開く自分に、自分を抱きしめているサイモンの声が耳元で響く。その声は腕と同じように、太く、力強く……そして耳がじんとするほどに、哀切な響きに満ちていた。
『泣かないでくれ。――頼むから』
「っ………」
『私は……お前のように泣く人間を見たくないから、勇者としての責務に全身全霊で打ち込んできたのだ。人々が、誰より私自身が、死後の救いに希望を抱き、人生にあまた押し寄せる苦痛を受け流すことができるように。それなのに……お前にそのように泣かれては、私の人生は、結局なにもないよりも悪かった、ということにしかならないではないか』
「っぅ……その、通りだろうがっ! あんたは、結局、英雄だ勇者だと褒めたたえられながら……世界を護りながら……俺たちに、なにも残さないで……苦しさしか、辛いことしか与えないで……」
 そうじゃない、そんなことが言いたいんじゃない。自分は、ただ、自分は――
「それでもっ! 俺は、あんたに……英雄サイモンに、世界の誰より、苦しめられてきた! 殺されはしなかったけど、一番長い時間をかけて苦しめられて、人生を支配されてきたのは俺だと自信を持って言える! だからっ!」
『…………』
「俺はっ……あんたに、感謝する」
 深々と頭を下げた自分に、サイモンは大きく目をみはった。動転した顔と口調で、慌てふためきながら自分に声をかけてくる。――サイモンにそんな顔をさせられるなど思ってもいなかったので、正直、少し胸がすいた。
『待て、なぜそんなことが言える? 私はお前たちに苦しみしか与えられてこなかったとはっきり言っただろう?』
「ああ……だけど、あんたは、必死に世界のために戦った。その戦いを、山ほどの人間が見て、それほどまでに真剣に世界のために戦ってくれることに感動し、感謝し、周りの人間に伝えた。あんたの息子ってことになっていた俺には、特にだ。だから、俺は、あんたを……父親ということになっていたあんたを、世界と比べて俺を捨てたと恨みはしても、世界を護るという、他の誰にも真似のできない仕事に心の底から打ち込んでいるという事実は、一瞬たりとも疑わずにすんだ」
『…………』
「あんたは……本当に、一生懸命、他の誰にもできないほど頑張った人間なんだ。勇者っていうのはそういう、世界とか人々とか、大きすぎて形がないように見える……だけど本当は構成するひとつひとつが替えの効かない大切なもののために、構成するものすべてのために、全身全霊で頑張れる人間なんだ。俺は、それを……この勇者たちと、その仲間たちから教わった」
 そう言って後ろに控えているセオたちを示すと、サイモンはわずかに目を細めた。いくぶん眩しげに――そして、いくぶん優しげに。
『………そうか』
「だから、俺はあんたを、最低な父親だと軽蔑はしても、見返すのに下種な手段を使おうなんて考えずにすんだ。あんたが誰より誇り高いと知っていたから、真正面からそれを打ち砕いてやろうと懸命に自分を高めることに必死になれた。あんたとはまるで関係のない、赤の他人の俺でも、あんたのために必死に頑張って、ただの人間なりにそれなりの強さを身に着けることはできたんだ。ただの人間として、自分の無力さに打ちひしがれることも多いけど……それでも、俺なりに、できることは見つけられた」
『……………』
「だから、ありがとう。俺が今ここに立つことができているのは、あんたのおかげなんだ」
『………………』
 もう一度深々と頭を下げる自分の後頭部を、ふいに形のない、けれど優しいものが覆う。見なくてもわかった。それがサイモンの掌だと。
『……泣くな。ガルファン』
「………っ」
『私は、本当にわかっていなかったのだな。私などのために心をかける者の出ないよう、できる限り人と接さずに過ごしていれば、私の死を悲しむものもいなかろうと……そんな考えは、甘すぎた。世界の中で生きている以上、どうしたところで関わりはできてしまうのだな……その者たちとの縁をないがしろにすることは、その者たちの生をないがしろにすることだと気づかなかった。私は、あまりに、至らなすぎた……』
「違う、あんたは!」
 勢いよく顔を上げる――だが、サイモンの掌は自分の頭から離れなかった。自分の頭を優しく撫でたまま、目の前でサイモンは、困ったように微笑んでいる。
『だが、お前は……そんな私のために、懸命に、縁を繋いでくれた。お前をまともに視界にすら入れなかった私などのために、ここまでやって来てくれた。だから、私にとって……お前は、たぶん、私の人生で唯一の………』
 しばし口ごもってから、サイモンは、小さく苦笑したのち大きくうなずき、今度は誇らしやかに笑ってみせた。
『そのような繰り言を言う必要はないな。お前は、私のただ一人の息子だ。世界で唯一、私の想いを知り、それを乗り越えてくれる者だ。勇者だなんだということとは関係なく、私の為したこととも関係なく、私の魂を受け継いでくれる人間だ。……私がいかに生き、いかに誤ったか……そしてその中で自分なりになにを得たか、お前はその生の中で体現していってくれるだろうから』
「っ………、………っ」
 耐えきれず、ガルファンはがばっとしがみつくようにしてサイモンを抱きしめた。形のないサイモンの体を、自分の腕はまともに捉えることもできなかったが――それでも、サイモンの腕が、優しく自分を抱きしめ返してくれたのはわかった。
 ぼろっ、ぼろぼろっ、と涙が零れ落ちる。う、うぅっ、と喉の奥から嗚咽が漏れる。それでも、形のないサイモンの体を、できる限りしっかり抱きしめた。
「父さん……っ」
『ガルファン――我が息子よ』
 泣きじゃくりながら、ガルファンは痺れるような幸福感をも感じていた。自分の人生の中で、初めてサイモンを――自分にとっては誰より偉大な勇者を、心から父と呼べたのだから。

 それから後、しばらくセオと話して、サイモンは世界から消えた。優しい笑顔を自分に向けながら。それを自分は、ぼろぼろ涙を流しながら、それでも笑顔を作ってそれを見送った。
 そして、自分はセオたちに挨拶したのち、キメラの翼でサマンオサへと帰った。セオはルーラで送るといったが、これ以上自分のわがままで勇者の時間を使わせてしまうのはガルファンとしても嫌だったのだ。
 サマンオサで、ガルファンはまず母の元を訪れ、自分の生い立ちについてサイモンから聞いたことを告げた。母は大きく目を見開いたのちに、『そう』と小さく微笑んだ。
 なぜ嘘をついたのか、と問う自分に、母は首を振り、『嘘をついたつもりはない。確かにお前がサイモンの血を引いているのは嘘だったが、サイモンにとっての息子であることに変わりはないし、私なりにサイモンに懸命に尽くそうとしたのに距離を取られ、寂しかったのも本当だ』と心の底から悲しそうな顔で主張した。
 自分でサイモンに近寄るなと言ったのではないか、と聞くと、きっぱりと、そして悲しげに『そんなことはない、確かに最初はあまりに武張った面持ちに気圧されてしまったが、サイモンは素晴らしい方だった、自分なりにサイモンを慕い、お仕えしたいと思ったのだ』と言ってのけた。
 では、サイモンが最後まであんたに拒否されていたと考えていたことはどう責任を取るのだ、そもそも他の男と作った息子をその男に捨てられたからと言って国の宝である勇者に押しつけるとはなにを考えているのだ――と口から出そうになった糾弾の言葉は、結局出すのをやめた。彼女を責めたところでサイモンが浮かばれるわけでもない。
 それに人というのは信じたいものを信じるものだ。現実を自分の好ましいように置き換えて、自分にすらそれを信じ込ませることができてしまうことは、ガルファンにもよくわかっていた。彼女を責めても、おそらくは彼女はなぜそんなことを言うのかと悲しい顔をし、声を荒げぬままにこちらを悪者にするだけだろう。その姿を見て、紛れもなく自分を産んだ母親である彼女をこれ以上嫌いになりたくはなかった。
 嫌いになりたくない、というより、これ以上裏切られたと思いたくない、という方が正しいのかもしれない。これまでずっと護るべき存在だと、唯一自分を愛してくれた親だと考えていた彼女に裏切られたと思う、そんな小さい自分を何度も何度も思い知らされたくはないのだ。自分も彼女と同様に思い込んでいた幻想を押しつけていたにすぎないと、半ばは正しいのだろう考えを幾度も幾度も正視して心を削られたくはなかった。
 だから、逆らわずにその場を辞した。――彼女に会うことは、必要がある時以外にはもうないだろう、と思いながら。
 ダ・シウヴァの郎党たちとも話をした。郎党たちの中でも古株は、当然自分がサイモンの血の繋がった息子でないことを知っていたが、彼らはサイモンが結婚しないよりはまだましだと考えていたらしい。サイモンは本当に勇者の使命にひたすらに打ち込んで女性を近づけようとしなかったため、ダ・シウヴァの家の人間は『恋人に捨てられた女性を救う』という形にして無理やりにでも結婚させなければと考えたのだそうだ。結婚すれば女性に対する扱いも変わり自然と子を残せるだろうと考えていたのだが、母とは(ダ・シウヴァの家の人々なりに人柄を見定めサイモンに添わせてもよいと定めた女性だったのだそうだが)相性が悪く、果たせなかったのだと。
 では自分は邪魔者だったのではないかという問いには、彼らは大きく首を振った。サイモンはガルファンを常に気にかけ、遠くから見守っていた。英雄サイモンにそれだけのことをさせたのだから、ガルファンはサイモンにとってはかけがえのない息子なのだと自分たちは受け容れたのだと。
 その言葉に、ガルファンはサイモンを誤解していた謝罪とこれまで見捨てずにいてくれた感謝を告げ、彼らも笑ってそれを受け容れてくれたのだが――心の中で、彼らもサイモンに勝手に自分の信じたことを押しつけていたのだ、と冷静に呟く自分がいたことを否定はできなかった。自分の家の勇者だと祭り上げて、彼の望むものを理解もせず勝手に結婚させて、彼を英雄∞勇者≠ニいう枠組みに拠ってしか見なかったのだ、と。
 ダ・シウヴァに育てられた自分は、成人近くなると娼館に通わされて女を知り、女の扱いもそれなりに学ばされた。サマンオサ貴族の子弟ならば、普通そのように教育される。おそらくサイモンも同じように教育されたのだろう。サイモンが、女をどのように扱っていいかわからないということに――正確には、きちんと正しく扱ってあげなければ触れる資格はないと思うほど、一人の人間として大切に考えていることに気づかないまま。
 自分と同じように、この人々も、無様で、自分勝手で、身の程知らずなただの人間たちなのだ。勇者に対して、自分たちの期待を押しつけることしかしない、自分たちの思うように動いてくれる存在だと確信している愚か者たちなのだ。
 それを、ガルファンは受け容れ――それから、歯を食いしばってサマンオサの復興に打ち込んだ。
 ダ・シウヴァの家の総力を挙げて復興に取り組むよう方々に指示し、あちらこちらとの政治的な交渉やら事務的な手続きやらに尽力し、そして時間ができれば物理的な復興のための力仕事にも陣頭に立って取り組んだ。サイモンに――死力を尽くしてサマンオサを護った勇者であるサイモンに少しでも応えるため。そして――セオの救ってくれたサマンオサで、人が苦しむようなことがないようにするため。
 その間、しょっちゅうサマンオサの国民の醜い姿を見せられた。勇者に、いや世界のすべてに、自分が犯した罪には、身勝手な期待には気づかないまま、自分たちが、いや自分だけは助けられるのが当然だ、と心の底から信じ込んでいる姿を、何度も。
 別にサマンオサの国民に限ったことではないのだろう。おそらく世界中の人間のほとんどは、そういう存在なのだ。自分がサイモンに、セオに、勝手な想いを押しつけ、それに応えてくれないことに勝手に腹を立てていたのと同じように。
 だから、時々、あの一ヶ月の船旅が、勇者と旅をし、勇者を父と呼ぶことができたあの経験が夢のように感じてしまう自分がいる。あのような清廉な魂のそばにいることができた時間など、自分の人生には本当は存在しなかったのではないかと。
 けれど、そんな風に思うのも、たぶん勝手な期待であり、押しつけなのだろう。勇者の仲間たちが言っていたように、勇者も世界を救うことができる、それだけの魂を持っているただの人間にすぎないのだろうから。
 それでも何度も何度も思い出してしまう。あの不思議な輝かしいひと時を。世界を救う勇者とひと時でも共に旅をすることができた、普通≠フ人間にはとても巡り合うことのないだろう時間を。
 旅の間は無駄に気を使い勇者に振り回され、苛立ち腹を立て空回りしてばかりだったというのに、世俗の塵芥にまみれながらあの旅を思う時――ガルファンには、その時間がたまらなく眩しく思い出されるのだ。

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