ランシール〜ブルーオーブ――3
 セオは数度、深く息を吸って、吐く。体中に魔力を循環させ、心肺に酸素を送り込み、全身の力を感覚器に傾注してじっと目の前の存在を見つめる。
 それでも目の前の存在には微塵も揺らがない。自分を睥睨するその苛烈な眼差しも、いかにも剛健なその体つきも、少なくとも今の自分にはまぎれもない現実なのだと知れた。
「なにを見ている、セオ。お前は今自分がどういう状況にいるかわかっておらんのか?」
「…………」
 口が動かない。目の前の男に、どう反応するのが正しいのか、わからない。頭を、どういう風に動かせばいいのか、それこそ頭がまともに動いてくれない。
 そんなセオの状況などおかまいなしで、男は次々と言葉を叩きつけてくる。
「まったく、見苦しい。お前はそれでもレイリンバートル家に生まれた男児か? 曲がりなりにも俺の息子として恥ずかしくはないのか貴様は。そのような性根で勇者だと? 貴様などが勇者の称号を得ては、これまでの勇者たちが築いてきた名が汚れるわ」
「…………」
「貴様などをこの世に生み出してしまったことは、我が身の一生の恥だ。お前は俺の人生の汚点そのものだ。汚らわしい、呪わしい。お前のような奴が俺の子として生まれてきたせいで、俺のこれまでの人生は無価値になったも同然だ」
「…………」
「存在するだけで周りに迷惑を撒き散らす、無能で性根の歪んだ最低の屑め。お前などこの世に在ること自体許されん、一秒でも早く消え去り少しでも世界の人々への詫びとするがいい」
「………―――」
 セオは無言で相手の男の言葉を受け止める。憎悪と憤激を形にしたような表情から突きつけられる悪口雑言。自分を傷つけるために投げかけられているのではないかという考えが浮かぶほど、自分のことを徹底的に貶める蔑みの言葉。
 ――自分はそれを、身体が凍りついたかと思うほど、心情に動きも揺らぎもないまま聞いているのだと、そこまで言われて自覚した。
「あなたなどがオルテガの息子だなどと……! 名の穢れです、レイリンバートル家の恥です。あなたに勇者などと名乗る資格はありません、さっさとその力を私の子に、私の本当の子に受け渡しなさい! あなたのように醜く心根の腐った能無しなど、私の子ではありません!」
「………母さん」
「貴様、それでもわしの血を引く者か、我らが始祖から受け継いできた高貴なる血の末裔か! その程度の成果で勇者を名乗れると思っておるのか、努力も労苦もまだまだ足りぬ、さらに尚々身魂を振り絞って世界のために尽くせ! それができぬなら我らの血を受け継ぐと名乗る資格はない!」
「お祖父さま……」
 母と祖父も姿を現し、口を極めて自分を罵る。自分に対する厭悪と嫌忌の情が満ち満ちた面持ちで。自分には存在する価値などないと、生まれてきたこと自体が間違いだったのだと、死力を尽くして自分たちに尽くさねば生きることさえ許されぬと、心の底から信じきった顔で悪意を叩きつけてくる。
 それを、セオはじっと聞いた。無言のまま。表情を露ほども揺るがせることなく。心境も冷たいほどに凪がせたままで。
 けれど、彼らの言葉に返した声は、歪んでいた。母と、祖父と――そして父と呼ぶ声は、自身聞き慣れないと感じるほどに、歪み、ひずんでいた。
 おそらくは、たぶん。それが自分の、限界であり、分際―――
「……なにを偉そうに突っ立ってやがるんだ。俺たちの前で頭を上げるなと、何度も体に教え込んでやっただろうが」
「――――」
 小さく、心臓の動きが波立つ。
 セオはゆっくりと声のした方を向き、その姿を確かめた。小さく息を吸って吐き、心身に呼吸をさせながらその姿――どこかオルテガに似た、黒髪と蒼い瞳の、背が高く男らしい、けれど若者のしなやかさを有した身体の上に、雄々しさと凛々しさを併せ持ったと評されるであろう、整った上に知性を感じさせる顔立ちを乗せた、自分よりいくぶん年上に見える姿態を見つめる。
 予想していた通りの姿形に、セオはまた小さく数度呼吸して、その男に向かい告げた。
「――ゼーマ、兄さん」

「え……」
 レウは身を起こしかけた状態のまま凍りついた。目の前の人間が、言った言葉が、理解できない。
『………お前ら、誰だ』
 それは、まるで。それじゃあまるで。自分が忘れられたみたいで。自分など、最初から、いなかったみたいで―――
 震える喉を必死に動かして、目の前の人間に声をかけようとする。けれど、出てこない。音として発することも、言葉を形作ることもできない。
 目の前の人間たちが、それぞれなにか声を上げようとする。その名前を自分自身思い出すことができない、と自覚して、レウは思わず絶叫していた。
「――――――――――!!!」
 音が波になり、力を形作って周囲の空間に伝わっていく。それが空気を、そこに存在する物質を、根こそぎ薙ぎ払う破壊の力になっていることを理解しながらも、身体の底から噴き出てくる暴風を制御することができなかった。
 だって、だって、だってそれは。確かに存在したものが見えなくなったということで。自分も、周りも、おかしくなっているということで。
 ――紛れもなく自分のそばに在ったはずの、自分の人生でなにより輝かしいものが、奪われてしまったということなのだから。
「っ、てめっ!!」
「この、止め――」
「駄目だ! やめっ……」
 確かに在ったはずなのに。たまらなく心地よい、眩しい時間が自分の人生に訪れてくれていたはずなのに。
 今自分の中でなによりくっきりと確かなのは、ムオルでの長く、孤独で、なにも起こらず、なにも得ることのない、ただひたすらになにもない$「界なのだ。

 ゼーマはセオの呼びかけに、ふん、と鼻を鳴らしてみせた。自分の前ではいつもそうだったように、高飛車で傲慢で、自分に対する敵意と害意に満ちた仕草で。
「てめぇ、自分を何様だと思ってやがるんだ? 勇者だなんぞと分不相応な称号なんぞ手に入れたからって調子に乗ってんじゃねぇぞカスが。てめぇなんぞ父上からも、母上からも、嫌われて、憎まれて、蔑まれるのが相応なんだよクソ野郎。生きる価値もねぇ、そこにいるだけで邪魔だ、ものを食う資格も息をする資格もねぇんだよてめぇは。この先一生、誰からも、好かれることなんぞありえねぇ。それがてめぇにふさわしい運命だって何度も何度も教えてやっただろうが」
「…………」
 何度も聞いた言葉だった。ゼーマは自分が物心ついた頃から、似たようなことを毎日のように繰り返し繰り返し、父や母のいないところで自分に、こんな風に威圧的に告げてきた。セオの服を切り裂いたり、セオの食べるものに異物を混入したりといった嫌がらせも。眠っている時に首を絞められたり、焼けた刃物を突き立てられたこともある。
 そしてそれらすべてを、ゼーマは周囲にまったく気づかせることのないまま済ませてきた。彼にはそういった、人の目をごまかし、人の意識を逸らす技術の才能があったのだろう。器用で要領がよく、なにをやるにしても最初はたいていの人より上手にできることも、対人関係の技術が高く他人に悪意を抱かせにくい立ち回りができたことも、それに寄与したのかもしれない。
 そして、そんな彼を、自分は、殺した。
 悪意を持って。殺意によって。自分の中でただひとつ、救いになるもの――自分の書いた物語を穢されたという激情に従って。
 それは拭いようのない、自分の罪で咎だ。どれだけ言い訳を連ねたとしても許されない、自分の犯した決してやってはならない過ちだ。自分は殺した。彼を殺した。そんな自分が許されるはずはない、許されてはいけない、そんな思いは、今も変わらず、自分の中に存在する。
 ―――けれど。
 セオは、すっと、静かに一歩を踏み出した。自分の進もうとしていた道の先へ。父と、母と、祖父と――それからゼーマの立っている場所の、反対方向へ。
 人影たちは自分を追ってくる。そして何度も何度も憎悪と蔑みに満ちた言葉を投げつけてくる。
「逃げる気が臆病者が。そのような性根で勇者だと名乗るだと? 身の程知らずも甚だしいわ。貴様ごときにそんな力を有する資格はない」
「あなたにはしょせんさっさと死んで、その力を私の子に渡すことにしか存在意義はないのです! 早く死になさい、さぁ早く! その剣で自分の喉を突きなさい、なにをのろのろしているのですか!」
「お前はそれでもレイリンバートル家の末裔か、オルテガの息子か! 惰弱な、愚劣な! お前は我らの言葉に従うことしか能がないというに、それすらもする気がないとは、懶惰にもほどがあるわ!」
「なに逃げてんだこのクズ野郎が。てめぇには俺の引き立て役ぐらいしかできるこたぁねぇって何度も何度も教えてやっただろうが。俺に逆らうなんぞ、どんな罰を与えられても当然の最大級の悪行だってこと、また体に教えてやんなきゃわかんねぇみてぇだなぁ?」
 過去の自分を支配していた人々が、間違いなく自分の中の現実である人々が、自分を追い、よってたかって悪罵を浴びせる。憎悪と侮蔑を叩きつける。それでも――自分の心は、動こうとはしなかった。
 覚えていない。記憶の中には存在しない。自分がそんなことを経験したことなどありえないように思えるほど、自分の人生の中ではこの人々の反応こそが、圧倒的に身近で現実感が溢れている。
 けれど、自分の心は、確かに、大切な人≠ノ変えられた形のままだ。
 その人が一人なのか、複数だったのかも覚えていない。本当はそんな人はどこにもいなかったのだ、という主張を否定することができないほど、自分の覚えている人生からは大切な人≠フ痕跡が削り取られている。
 でも、自分の心は、間違いなく変わっているのだ。父に、母に、祖父に――そしてゼーマに支配されていた頃と。
 彼らに蔑まれることを当然だとは思えない。こんな風に人を蔑むことを許してはいけない、という理屈さえ自分の中にはある程度の実感を持って存在している。そして――なにより、自分の中にこの人々に対する恨み≠ェ存在することを、セオははっきりと自覚していた。
 蔑まれることを、虐げられることを、大切なものを奪われることを、許さないと、相応の報いを与えると、心のどこかがそう告げているのが今のセオにはわかる。本当はきっと、ずっとそうだったのだと。ただそんなことを感じるのは許されないと、存在すら無意識下に追いやってきただけで、自分の中には確かに、彼らに対する恨みがあったのだと感じ取れる。
 けれども同時に、『そんな想いを彼らにぶつけたくはない』と心の別の部分が主張しているのも、はっきりとわかるのだ。
 自分の中の恨みを、零下の殺意を、自覚しながらもそれに支配されるのを心が拒んでいる。自分を大切にしてくれた人に恥じるようなことはしたくないと、心が全力で主張している。そんな人のことは記憶の中に少しも存在してはいないのに。
 だから、自分にとって、今目の前にいるこの人たちは、どれだけはっきりと現実として感じられようとも、自身の記憶から生まれた影でしかないのだ。
「――――」
「――――」
「――――」
「――――」
 前を向き、周囲を警戒しながら歩を進める。自身の記憶から生まれた影を、背後に引き連れながら。どれだけ悪罵されても、どれだけ苦痛を与えられても、この人たちには自分をどうすることもできないのだと知っているから。
 そうして歩き続けることしばし、道は行き止まりにたどり着いた。そこに置いてあった宝箱に触れると、自然と蓋が開き、中に在る物を目の前に示す。
「………ブルーオーブ」
 これまでに見てきたオーブと同じ、ただ宝玉部分が澄みきった蒼色に輝いている部分だけが違う宝珠。それを手にしてからゆっくりと振り向いた時――セオの目に映ったのは、えんえんと続く細い通路と、その両脇に配された面の浮き彫りだけだった。

「っ!」
 唐突にはっきりと蘇った記憶に、レウは固まった。セオのこと。ラグのこと。ロンのこと。フォルデのこと。そして彼らと一緒にやってきたこと、過ごした時間、協力して歩んできたこれまでの旅の道程などが、はっきりと、一瞬前までは存在したことすら思い出せなかったのに、当たり前のように自分の中に蘇る。
 なので、眼前に迫っていたラグの拳を避け損ね、レウの体は十丈ほども吹っ飛んで、ロンの張った結界の壁に激突した。体中から魔力を絞り出した影響で身体に力が入らずまともに受け身も取れず、後頭部をまともにぶつけてずるずるとその場に崩れ落ちる。
「っ……! レウっ!」
「っ、おいっ、大丈夫かこのクソガキっ……レウっ!」
「……っ……、今治す。退いてろ」
 ロンが低い声で言うや、柔らかい光が体に降り注ぎ、レウの傷は瞬時に癒された。体中にあふれる力にレウは反射的にぴょこっと飛び起きたが、目の前で自分を見つめる仲間たちと視線が合うや、思わずううう、と唸りつつくずれおるように頭を下げてしまう。
「なんだおい、てめぇまだどっか痛いとこでもあんのか、さっさと言え!」
「そ、うじゃ、ないけど………」
「ならどこが悪い。早く言え。今全員の状態を精査してるが、自覚症状があるならそっちの調査を優先する」
「そう、じゃ、なくて、その………」
 レウはしばし言葉を探してもじもじしたが、結局しゅんとなりながら深々と頭を下げた。
「ごめんなさい……」
「は?」
「その、俺……みんなのこと、突然忘れちゃって……そんで、なんか、すごく怖くなったっていうか、わけわかんなくなっちゃって……みんなとか、セオにーちゃんのこととか、ぜんぶ俺の中からなくなっちゃったら、なんていうか、立ってるとこがぐずぐずに崩れてったみたいで、怖くて怖くて、なにをどうすればいいかもわかんなくなっちゃって……そんで、わーってなって、暴れちゃって……ほんとに、ごめんなさい………」
『…………』
 ラグはぽりぽりと頭を掻き、ロンは小さく肩をすくめ、フォルデは思いきり顔をしかめて舌打ちをし、それぞれ深く息をついてから軽くレウの頭を叩いた。ラグは掌でぽんぽんと、ロンは人差し指で額をぴしんと、フォルデは拳でこつんと。
「まぁ……とりあえず、全員無事でよかったよ。ロンが張っておいた結界のおかげで、周りに被害は出なかったしな」
「それはレウの暴走が、大して力のない……それこそほとんど癇癪を起こして暴れた子供程度の力しか出ていないものだったというのが大きいがな。なんであれ、被害を出さずに取り押さえられたのは俺もほっとした」
「ったく……記憶失ったぐらいで暴れてんじゃねぇよ。ま、ガキだからしょうがねぇっちゃしょうがねぇけどよ」
「うぐぅ……」
「お前が言えた義理でもないと思うが。単にレウが先に我を失って暴れ出したからそっちの対処に気を取られていただけで、お前もかなり我を忘れていただろうに」
「なっ、てめ……」
「もちろん俺もかなり動転していたが。正直なにが起きたのかと仰天したぞ。ラグもそうだったようだし」
「まぁ、な……。結局、なんだったんだあれは。……やっぱり、セオの受けた試練とやらの影響なのか?」
「調べてみんとよくはわからんが、まぁ普通に考えてそうなんだろうな。神竜の試練がセオと俺たちをひとまとまりとして認識したせいだろうと思うが。神の視点からするとそれだけ勇者とその仲間や、勇者と共に旅する勇者というのは深く結びついている、ということなんだろうな」
「え……ってことは、セオにーちゃんも、俺たちみたいに、みんなのこと忘れちゃったりしたの?」
「普通に考えればな。セオは直接試練を受けた立場なわけだから、もっとえげつないことをされている可能性も高いだろうが」
「セオにーちゃん……」
 レウは思わず不安になって、眉を寄せて大神殿の方を見やる。
「大丈夫かなぁ……」
「これも普通に考えればの話ではあるが、さっきまでの俺たちの記憶の喪失という現象が消失したということは、セオが試練を乗り越えたから課された障害がなくなったということなんだろうし、精神的な負担はかかっているかもしれんが無事ではあるんじゃないか。もちろんセオが試練を果たせなかったせいで解除されたという可能性もあるが、セオが死ぬような目に遭っているという気はせんし」
「お前さっきからいっちいちなんだよ、その普通にうんたらかんたらって注釈はよ」
「俺も状況がわかっているわけじゃまるでないから、一応言い添えておいた方がよかろうとな。ま、これだけ早く試練を果たしたということは、たぶんセオもさっさとこっちに戻ってくるだろうから、俺たちも大神殿でセオを待っていればいいんじゃないか。詳しいことはセオに直接聞けばいいだろう」
「あっ……そうだよなっ!? よっし、急ごうぜみんなっ!」
 言いながら慌てて飛び起きて走り出すレウを、フォルデが「待ちやがれこのクソガキ周り見えてねぇだろお前!」などと怒鳴りながら追ってくる。ラグとロンは(元からあまりすばしっこい方ではないし)ゆっくり追いかけてくるつもりのようだった。だが、レウとしてはそれをのんびり待っている余裕はまるでなかったのだ。
 ――レウとフォルデが走り去ったあと、ラグとロンがひそやかに交わした言葉通りに。
「フォルデのやつ……さんざんレウの攻撃を体で受け止めておきながら、無理をするなぁ」
「あいつもセオのことが心配だったんだろうな。自分自身俺たち全員の記憶が消え失せていたんだから、精神的にも衝撃は大きかっただろうし。大暴れするレウも、一瞬交わした視線だけで会話して協力してレウを取り押さえようとしていた俺たちも、さっきまでのフォルデにしてみれば見も知らぬ相手で、それでいて無視できないほど強烈な存在感を受けてしまう奴らだったわけだから。それこそ精神的には負担という段階じゃないくらいの重さだっただろうさ」
「……レウが突然暴れ出したのは、単純にレウの精神的な問題、ということでいいのか?」
「たぶんな」
「俺はレウが精神的に不安定、というより、子供だから衝撃を受け止めきれずに癇癪を起こして暴れた、みたいな感じに受け止めたんだが、それで合ってるのかな?」
「俺だって正確なところはわからんが、意見としてはお前と同じだな。自分は大切な人たちのことを忘れてしまった気がする。そんな人たちのことなどまるで記憶にはないのに、人生からごっそり大切なものが奪われている気がする。そんな衝撃と、目の前に立っている人たちのことをまるで覚えていないのに、身体の方が存在感を覚えているという状況は、俺たちですら混乱したんだ。レウは精神的にも肉体的にも戦いを経て成長してはいるが、基本的には護られて生きてきた子供だからな。狂乱状態に陥ってもおかしくはない」
「そうか……まぁなんであれ、しばらくここに留まって休息する予定だったんだし、セオも含めて、心に傷が残っていないか看ておいてやらないとな」
「お前は大丈夫なのか? 俺としてはお前の心の傷を看てやるという状況に正直わくわくする気持ちが抑えられんのだが」
「お前な……ま、俺の方は心配ないよ。もちろん衝撃は受けたけど……俺もいい大人だからな」
「……ふぅん? ま、とりあえずは、セオたちの方を心配しておくとするかな。レウにとってはそれこそ、人生から意味が失われたというくらいの衝撃だっただろうし」
「確かにな」

 近づいてくる魔物たちを後方に置き去る程度の速度で走り続けてきたセオは、身体に負荷がかからないように足の運びを緩め、数刻前に自分が出てきた大神殿の壁の前に立つ。開かない可能性も一応考えていたが、さっきまで重々しさたっぷりにそそり立っていた壁は、出てきた時同様にずずっ、と鈍い音を立てて道を開けた。
 ふ、と小さく息をつき、夕闇の迫る橙色に染められた砂漠から暗室の中へと入る。どんどんと陽の光が退き黒暗が支配領域を広げていこうとする夕暮れの世界からでも、幾重もの扉に封じられ、わずかな明かりだけがしるべである出立の部屋は、相変わらずまともに見通すこともできないほど暗く見えた。
 だが、それでもセオはふ、と小さく安堵の息をつく。出て行った時と同じように、その暗闇の中には仲間たちの気配が感じられた。自分を、わざわざ間に合うように、迎えに来てくれたのだ。自分を気にかけて、慮って、自分が安心できるように心を砕いてくれた。
 その事実はそれこそその場に倒れ伏しそうなほどセオの心身を安らがせたが、自分などに試練を受けることを許してくれたこの神殿の神官たちの顔を潰すわけにはいかない。自分を送り出してくれた神官たちが、暗がりの中いかにも荘重な物腰で立ち並んでいる気配くらいは感じ取れているのだから。
 セオはゆっくりと大神殿の中へと歩みを進める。背後で壁がまたずずっ、と音を立てて閉じた。しずしずと神官長らしき人がセオの前まで進み出て、頭を下げる。
「よくぞ無事に戻られました。神より賜りし試練を人の身で越えられたこと、まずは心より言祝がせていただきましょう。されど、言習わしに則り、我らはあなたにこう訊ねねばなりませぬ。――あなたは、一人で寂しくはなかったですか?」
「………寂しい、というか……苦しかった、です」
 それが正直な気持ちだ。自分の人生から仲間たちを奪い取られても、自分の心身は仲間たちのことを覚えていた。けれどそれは、無理やり仲間たちへの想いと記憶を奪われたことは、紛れもなく酷烈な苦痛ではあったのだ。
「そうですか……では、重ねてお訊ねいたしましょう。あなたは、勇敢でしたか?」
「……勇敢、の定義にもよると思います、けれど。苦痛に負けずにすべきことを成す、心を勇敢と評することが許されるのなら……その程度の勇気は俺にもあった、と思います」
 本当の勇気というものがなんなのか。それは時にもより、人によっても変わるだろう。時には人を救う心であり、時には世を破滅に追いやりかねない代物でもあるはずだ。
 ならば、セオにとっての勇気とは――改めてきちんと考えたことはあまりなかったが、あえて言うなら、たぶん『恐怖に負けない心』と言うべきものだと、今のセオには感じられた。
 ごく簡単に人を殺すことができてしまう己の力を、自分なりに正しく使う意志。どんな苦痛を与えられても曲がらずに、すべきことを成し続ける覚悟。――自分に優しくしてくれる人を、自分などにそんな価値はないと怖気づく怯懦にも、その人がもし次の瞬間消えてなくなってしまったらどうしようと始終湧き上がる不安にも、自分にはその人に返せるほど価値のあるものがなにもないという圧倒的な確信として迫りくる絶望にも、屈せず、呑み込まれず、信じ続ける強さ。
 自分が愚かで、無能で、力足らずなことをセオはよく知っている。生まれてから何度も何度も、その現実を突きつけられてきた。
 けれど、自分にはなにもできないと立ち止まってしまうことも、自分などにはなにかを成す資格などはないと卑下することも、自分などにはその扱いが相応だ、と蔑みや憎悪をそのまま受け容れることも、もうしてはならないのだ。それは、自分に向けられた優しい想いを、否定するも同じだと教えられたから。
 だから、セオは、すべきことから逃げるつもりはない。どんなものにも負けるつもりはない。自分を信じてくれる人の想いと、それぞれの世界の重みを、セオは背負っているのだから。
「そうですか……では、お行きなさい。その勇気をもって、どうかご自身の世界を救われますよう。――あなたはすでに、真なる勇者なのですから」
 そう言って、神官長とその背後に立ち並ぶ神官たちは、深々と頭を下げた。セオは数瞬うろたえ、そののちこれはもしかして『我々はあなたを認める』と儀式的に表したのか、と理解したのだ。

「おらレウっ、とろとろやってんじゃねぇよ! 皮剥く野菜はまだまだ山ほどあんぞ!」
「うーっ……いくらなんでも多すぎじゃんこれー! もう百個くらい剥いてるよ皮!」
「なに言ってんだせいぜい三十ちょいだろーが。今日はしこたま使うんだ、この倍くらいは剥いてもらうかんなっ」
「うぅぅ……俺そんなに野菜食べないのにぃ……」
「お前が食わなくても俺ら……っつか、おっさん連中は食うんだよ! それに全部食いきれるわけじゃねーからけっこう塩だの香辛料だの利かせるし、そうなると野菜入れねーと味の調和がひでーことになるだろうが! つかてめぇに拒否権はねーんだよっ、いいからとっとと全部剥きやがれ! その後もまだまだ仕事はあんだからな、とろとろしてっと尻蹴り上げっぞ!」
「ううぅ〜……!」
 レウは呻き、半泣きになりながら言われるままに野菜の皮剥きを続けた。『暴れてみんなに迷惑かけちゃったから、お詫びに一回みんなの言うことなんでも聞く!』と宣言したのは間違いなく自分の意志ではあるのだが、『じゃあ一週間奴隷のようにこき使われてもらおうか』というロンの言葉に全力でうなずいたのも自分ではあるのだが、その一週間ずっと家事労働ばかりさせられ続けたのは、正直レウの意気を大きく挫いていた。
 最低限の鍛錬はさせてもらえているものの、それ以外はひたすら家事家事家事。魔船を隅から隅まで大掃除させられるわ、料理の練習をみっちりさせられるわ、洗い物や水回りの掃除も基本全部やらされるわで、まともに時間を使えたことがほとんどない。年が明け、宴会が行われる今日、きちんと働けば終わりになるだろう苦役ではあるのだが、今日課された仕事がそもそも半端な量ではないのだ。野菜の皮剥きをひたすらえんえんとやらされるわ、この後もあれこれ仕事があるわ、しかも宴会が終わったらその後片付けも皿洗いも自分がしなくてはならない。これまでの一週間で精神的に疲弊しきったレウとしては、いい加減本気でくじけかけていたのだ。
 隣でちゃっちゃか牛乳っぽいものをかき混ぜていたセオが、気遣わしげに言ってくる。
「レウ……大丈夫? もう少しで俺の仕事は、一段落するから、手伝いに入れる、と思うんだけど、それまで、頑張れる……?」
「う……うぅぅっ、セオにーちゃーんっ」
「なに抜かしてやがる。このガキの仕事奪う気かてめぇは。一週間こき使われるのを選んだのはこいつなんだからな、それを隣から手ぇ出すなんぞこいつを馬鹿にしてるようなもんだろーが」
「………はい。ごめん、なさい………」
「うぅぅーっ」
 そんなことマジで全然ないからっ! と叫びたいところではあるものの、フォルデの言う通り最初にやると言ったのは自分だし、それを辛いからなんぞという理由で撤回するのはあまりに駄目すぎる。嫌だったが、心底嫌ではあったのだが、仕方なくしゅんとするセオに、できるだけ元気に声をかける。
「セオにーちゃんっ、俺っ、頑張るからっ! いっしょーけんめー頑張るからっ、ちゃんとやることやって、セオにーちゃんの隣に立てるようになるからっ!」
 元気な声(を装った声)を出しながらも顔は半泣きなので格好悪いと自分でも思ったものの、それ以上に取り繕うだけの気力がレウには残っていなかった。うわーんと声を上げて泣きたい気分を頑張ってねじ伏せながら言った言葉に、セオはこっくりと、なんだかすごく真剣な顔でうなずく。
「……そう。頑張って」
 そうして自分の仕事に戻ってしまうセオに、レウはちょっと呆気にとられたものの、「おらっ、とっとと仕事しろっ!」とフォルデに尻を蹴り飛ばされ、ううううーと唸りながらまた憂鬱な任務に戻る。正直もうなんでもいいからこの仕事から解放されたいとも思っていたものの、ガキのように泣き喚いてごねて無理を通すなぞという情けない姿をさらす気にはやはりなれない。
 けれど、レウは内心首を傾げてもいた。なんだろう、セオにーちゃん、なんか、変なこと考えてるんじゃないかな?
 具体的にどんなことかと言われると困るのだが、レウはなんとなくセオの表情に、今まで旅の中で何度か、セオがその不思議な考え方を表した時と似たものを感じたのだ。たとえば、ジパングでヤマタノオロチを倒したあと、自分の命を限界まで削り取ろうとした時のような。あるいは、変化の杖を使ってアリアハンに向かい、サマンオサに戻ってきて泣き顔を見せた時のような。
 なんでなんだろー、とちょっと考え込んだが、すぐに「ぼーっとしてんじゃねぇタコッ!」と怒鳴られ、次々積み重ねられていく仕事の前に、その思考は形を成さずに消え失せてしまった。

「それじゃあみんな、俺たちが全員無事に新しい年を迎えられたことに。乾杯!」
「おう、乾杯!」
「乾杯」
「乾杯……です」
「かんっぱーい!」
 それぞれが盃を打ち合わせ、あるいは杯を乾しあるいは喉を潤す。そして卓上にずらりと並べられた全員が協力して作ったご馳走に、喜びの声と共に取り掛かった。
「あむっ、うっま! むぐっむ、うっまー! あむぐっ、すっげー、みんなすっげーおいしーよっ!」
「はいはい、そりゃよかったな。だけど喋る時は口の中から物がなくなってからにしなさい」
「しかし、今回は全員が分担を考えずに食いたい料理を作ることにしたから、量が多いな。まぁ育ち盛りもいるし、このくらいはぺろっといってくれるだろうが」
「……ん? おい、これラグの焼いたパンだよな? なんか、中にいろいろ入ってんぞ」
「ああ、それはクッベをオーブンで焼いただけだよ。揚げたクッベはよく出すだろう? 焼くと油っ気が抜けて軽く食べられると思って。今日は量が多いからな」
「むぐっ、うんっ、ラグ兄これすっげーうまいよっ! もぐっ、あれ? ロン、この餃子、たれついてないよ?」
「ああ、それは蒸し餃子……それも野菜を皮に練り込んだものだからな。ほうれん草の翡翠餃子、人参の珊瑚餃子、南瓜の黄菊餃子、枝豆の柳葉餃子……たれをつけると味が壊れる類のものばかりだ」
「えー、俺野菜あんま好きじゃないんだけど……」
「ま、いいから一個食ってみろ。食わず嫌いはよくないぞ」
「うん……む! んむっ、ん! うっま! なにこれこの餃子すっげーうまいっ!」
「ふっ、それはなにより。こっそり蒸し具合を研究していた甲斐があったというものだ」
「暇人かお前は。……まぁこの餃子は確かにうまいけどよ」
「はは……ん、フォルデ、これって、もしかして餅をグラタンにしたのか? 面白いこと考えるな」
「……試しに作ってみてそうまずくなかったから作っただけだ。まずいんだったら食うなよ」
「いや、うまいぞこれ。餅もチーズもとろとろで。こういう食べ方もあったんだなって感じだ」
「うむ、確かに。アリアハンの食文化は世界中のそれが入り混じってごった煮感があるが、こういう創作料理を作らせるとやはり頭一つ抜けているな」
「もむむっ、うんっ! すっげーうまいよフォルデ! さっすがー!」
「なっ……べ、別に、んな大したことじゃねーし、さすがとか言われる覚えねーし……」
「いえっ、あの、本当に、おいしいですっ……みなさんの、全部、本当にっ……」
「っ、てめぇなっ……」
「セオにーちゃんのもすっげーうっまいじゃん! この魚の酸っぱいのとか、野菜一杯入ってるけどうまいし、この燻製肉とかも野菜いっぱいあるけどソースと一緒に食うとうまいし!」
「南蛮漬けと、バーニャカウダ……? そ、そうだったら、いいんだけど……」
 わいわいと喋りながら料理を腹に詰め込み、新しく淹れたお茶と一緒に食後のデザートを楽しんで、ゆったりした空気の中で言葉を交わす。全員心穏やかな様子で新年の宴席を楽しんでいるのがうかがえて、セオは内心ほっとした気分になった。
「そういやよ、ロン、お前消え去り草がランシールの試練に関わってるかも、みたいなこと言ってなかったか」
「そうだな。あとで調べておく、とか言ってた気が」
「ああ、調べておいたぞ。どうやらな、畑の配置が肝だったらしい」
「畑の配置?」
「消え去り草の畑は、大神殿のある町ランシール近辺のみならず、ランシールという島全体に広がっている。そしてそのほとんどが、父祖の時代から定められた耕地を広げることも狭めることもなく育て続けているのだそうだ。そういう風に大神殿からお触れが出ているんだと。ま、育てた消え去り草はほとんどが大神殿が買い上げることになっていて、買い上げる量も十年一日のごとく変わらんから、広げる意味も狭める必要もないのは事実なんだろうがな」
「……つまり、その『父祖の時代から定められた耕地』というのが、神竜……ランシールの試練を創り出した神の定めたものだ、ってことか」
「おそらくな。消え去り草はランシールの島全体に陣を描くように育てられている。完全に解析できたわけではないが、その陣は描いた要素を強め、変性させて陣の内、特に中心部分で発揮させるもののようだった。その効果のひとつがランシールを訪れた人々に対する地球のへそ≠ノついての記憶や意識の操作――前に話した噂の伝播を防ぐ呪術であり、もうひとつが今回のセオとその仲間である俺たちのような、試練を受けた者に対する、愛する者についての記憶の一時的な忘却だ」
「ばっ、なに抜かしてんだこのクソ賢者! キッショイ言い方してんじゃねぇっ!」
「……フォルデの尻馬に乗るようでなんだが、俺も正直その、仲間についての話をする時に愛を持ち出されるのはちょっと……」
「なにを了見の狭いことを。尻の穴が小さいにもほどがあるぞ。人生懸ける価値があるほど大切な仲間に対する感情なんだぞ、愛以外のどんな言葉で表せというんだ」
『ぬぐっ……』
 フォルデとラグは言葉に詰まる。それに申し訳ないと思いながらも、セオは一人仲間たちの言葉を強く噛み締めた。愛という言葉は、大仰で物々しく、けれどそれがゆえの重みがある。そんな言葉を使うことをはっきり拒絶しない仲間たちの想いの大きさが、否応なく心に刻まれるのだ――その重みと刻まれた深さをも、心地よいと感じるセオの精神を、業が深いとセオ自身感じていたとしても。
「ま、それはさておき。セオに詳しく話を聞いて一緒に考えてみたんだが、ランシールの試練は神竜が、人の強さを試すために作られたものなんじゃないか、と思うわけだ。愛の記憶をなくしても、世界に無関心か、さもなければ憎悪する対象とその記憶しかなくなっても、世界を捨てずに歩み続けることができるか、というところをな。セオの考えたあの女――サドンデスの精神性からすると、徹底的に追い込まれてなお強くあらんとする者こそを愛でるのが神竜という神なのだろうしな」
「あのクソ女の前身が、人間……かどうかは知らねぇけど、他の奴を可愛がるたぁ思えねぇぞ」
「少なくとも試練を与えるくらいには人間を視野に入れていたはずだぞ。ま、なんにせよ、ランシールの試練においては、愛する者たちや憎む者たちに立ちはだかられても、それらに対する記憶も想いも失っても、『引き返すのも勇気だ』というようなまぁ真っ当な忠言を与えられても、それらすべてを退けなお歩き続け進み続け、自分の望むものを掴み取ろうとする意志を試す、のじゃないかと思うわけだ。ただその手の精神操作術式は対象の抵抗力によって効果に大きく差が出る。だからどんな相手でも記憶を消せるよう、消え去り草の畑を魔法陣のごとく配置して神竜が遺跡に付与した魔力と相乗効果を起こさせるようにしたんだろう。もともと薬効のある魔草の類は、魔法陣による強化技術と相性がいいからな。ほとんどの相手に間違いなく効果を発揮できるはずだ」
「ふぅん……ま、なんにせよ、セオが無事戻って来てくれてよかったよ。仲間に襲われて仲間の記憶を失って、なんて気持ちいい体験じゃなかっただろうからね」
「………はい」
 セオはお茶をすすりながらこっくりとうなずいた。ラグの言葉が、やはり心底ありがたく胸に響く。喜び、安心、充足、幸福――そんな言葉で言い表されるだろう幾多の感情が次々に湧き上がる。
 彼らのおかげだ。彼らがいなければ、少なくとも自分はこの試練を乗り越えることはできなかっただろう。
 だって、彼らと会うまでの自分の世界には、ただ一つの例外を除くならば、本当に――なにも存在していなかったのだから。
 喜びもなかった。自分の感じたことひとつひとつをよってたかって否定されてきた。安心もなかった。いつどこにいても蔑まれ傷つけられいたぶられるかしれないのが当たり前だった。充足もなかった。誰かに認めてもらうことはおろか自分で自分を認める方法も知らなかった。幸福もなかった。出会いも願いも人生も仲間と出会うまで自分に与えられてきたのは疎外と絶望と虚無だけだった。
 手に入れられたものが、なにもなかった――だからこそ、目の前に在る、自分と関わりなく存在する、美しい世界を護り、尽くすのが自分の唯一の存在意義になった。ただそのために死力を振り絞ることができた。そのくらいしか自分にはできることがないと、心の底から当然のように考えた。
 唯一の例外――物語だけを、心のよすが、美しい世界とのただひとつの繋がりとして。
 そのままの自分が、大切なものが物語以外なにもない自分が、世界との繋がりを奪われて、父に、母に、祖父に、ゼーマに悪罵されながら、それを跳ね返し前に進めたとは、セオには思えない。悪罵されるままに、自分の命を絶つべきだと思ってしまう可能性すら、なくはないのではないか――自分の命を絶つという選択肢を『あの時』になくしたにも関わらず、そんな思いがちらりとよぎるほど。
 セオの仲間たちは、本当に自分に、命を与えてくれたのだ。生きる世界を。それほどの恩を、想いを、どうすれば返せるのだろう。自分に与えてくれた世界と同じだけの重みを、自分は返せるのだろうか。いや、返せる返せないという段階の問題ではない。これからの人生かけて、全力で、彼らの世界を救っていくしかないのだ。できようとできなかろうと、それをしないという選択肢は自分の中にはないのだから。
 彼らの世界を救うだけの力が得られたならば、この世に在るすべての命それぞれの世界を救う、その一助になることもできるだろう。自分にできる一番ましなことはそれくらいだと、セオは自分で理解している。
 ――と、アイスクリームを大喜びしながらお代わりしたあとは、あらかじめ作り置きしておいた焼き菓子(フィナンシェ、ガレット、クッキーなど保存のきく物を時間のある時に作って保存庫に入れておくのが習慣になっている)をぱくぱくつまみつつお茶をかぱかぱ飲んでいたレウが、ふいにきゅっと眉をひそめてセオを見た。楽しそうだったレウが突然そんな表情をすることに、驚き慌てながらセオは問う。
「あ、の、レウ……どうした、の? なにか、嫌なこと、があった……?」
「嫌なこと……っていうか、うーん」
 眉を寄せたまま首を傾げて少し考えたレウは、「んーんっ!」と笑って首を振った。
「なんかセオにーちゃんから、嫌な感じっていうか、なんかやだなって気配が出てきた気がしてさ。セオにーちゃんが気づかないんだったらたぶん俺の気のせいだよなっ」
「そう、とは限らない、と思うけど……レウの、勘、や感覚の鋭さ、はよく知っているし……」
「え、そう!? ……うーん、でもやっぱ気のせいだよ。セオにーちゃんからあんなやな感じするのって、どー考えてもおかしーし」
「そう……?」
 セオは首を傾げつつも、きっぱり言い切るレウに逆らう気にもなれず、また場の穏やかな空気を壊す気にもなれずそれ以上言い立てることはしなかった。――ラグが、ロンが、フォルデが、それぞれの表情でわずかに判断に迷うような顔をしたのには、気づかないまま。

 レウがその時の感情がどういうものなのか理解できたのは、ずっと先のことになる。それは、正確には不安≠ニ呼ぶべきものだった。セオの中にあるものを、それが生み出す事態を、レウは頭とは違うところで読み取り体が警戒信号を発したのだ、ということは、本当にずっと先までわからなかったのだ。
 他の仲間たちが、レウの感覚の鋭さを知るがゆえに同様に警戒したことも、だがそれがなにからくるものか判断がつかずそれに対する対処を保留にしたことも。何事も明敏に考察するセオがレウの反応がなにからくるのかわからなかった理由も。本当に、ちっともわかっていなかったのだ。
 ――その時≠ェ来るまで。

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