果てしなき世界
 阿呆らしくなるくらい雲のない満天の星空を見上げて、ディラは小さく息をついた。恋人と共に見上げるなら『ロマンチックv』ぐらいのことは言ってもいいが、野外のデートは趣味じゃないし、そもそも旅に出てから恋人なんぞがいたことはない。
 ここはネクロゴンドの祠、寝室。シルバーオーブを渡してくれた半ば人でない主の勧めで、一晩ここで休んでいくことになっている。
 だがディラは寝付けず、テラスから星を見ていた。別に星が見たかったわけではないが(旅で飽きるほど見ているのにまだ見たいと思うほどディラは天文マニアではない)、こんな場所では他に気晴らしになるものもないのだ。
 寝付けないのは、ひとつには気が昂ぶっているから。シルバーオーブを手に入れればバラモスとの戦いまではすぐだ。少しくらい興奮してもしょうがないと言ってもおかしくはない。
 だが、それよりも実際に睡眠の障害になっているのは単純にベッドの固さだった。ほとんど床と変わらないのじゃないかと思うほど固い、布団の薄いベッドに正直辟易していたのだ。
 野宿には慣れているがせっかくのベッドだというのに地面と同じ堅さというのは気分が悪い。少しばかり機嫌を損ねて眠くなるまで起きていようと決めたのだ(ディラもプロの冒険者だ、寝ようと思えばいつどんな時だろうと速攻で寝られる)。
 しかし自分で決めたこととはいえ、暇だ。
「流れ星でも流れないかな〜……ここらへんの星座なんてもー暗記しちゃったしさ〜……」
 独り言など呟いてみても退屈さは一向に解消されない。いっそヴェイルにでも添い寝して目覚めを楽しむか、と考えていると、ふいにカタンとテラスの扉が音を立てた。
 振り向くと、そこにはユィーナが立っている。意外な人物にディラは驚いた。普段ユィーナは自分で決めた睡眠時間をきっちり守っているタイプだからだ。
 自分がここにいるとは思わなかったのか少し驚いた顔をするユィーナに、ディラはにやりと笑いかけた。
 話し相手ゲット。
「おこんばんは。あんたもベッドの固さに腹立てたクチ?」
「……いえ。……考え事をしていたら、目が冴えてしまったので」
「へぇ……珍しいじゃん。いっつもベッドに入ったら二秒で速攻就寝のあんたがさ」
「…………そう、ですね」
 ユィーナは静かにそう言って肩をすくめた。これまた珍しい。どんな言葉にも突っ込める箇所があるなら余すところなく突っ込むユィーナが。
 この子なりにナーバスになってんのかな、と思うと少しばかり同情心と好奇心が湧き上がり、ディラは笑ってユィーナに手招きをした。
「まー、ちょっとこっち来なさいよ。少しお喋りしましょ?」
「……お喋りとは、なにをですか? 私は意味のないくだらない会話をするのは好きではないのですが」
「んー、そーねー、バラモス戦を前にして、これまでの旅を振り返っての感想なんぞ語り合ってみない?」
「……………………」
 ユィーナは口を閉じて少し考えると、黙ってディラの隣にやってきた。よっしゃ、とディラはにやりと笑んでユィーナに寄り添う。
「……なぜそのように近くに?」
「だって寒くて人肌が恋しーんだもーん。あーあったか〜い」
「……それなら毛布かなにか持ってくれば――」
「なによ、あんたはあたしとひっついてるの嫌? あたしは好きだけどな、あんたとのスキンシップ」
「………………」
 呆れたような表情をしたが、結局ユィーナは何も言わずに黙ってディラに寄り添った。
 それに気をよくして、ディラは笑みながら語りかける。
「しっかし、実際まだ旅始めてから二年経ってないっていうのによくここまで来たもんねー。もうすぐバラモスとの決戦だもん。どの勇者もまだできたことがない魔王征伐、まっさかあたしたちがやっちゃうとはねー」
「まだ実際にやったわけではありません。そういった言葉は全てが終わってから口にするべきです」
「はいはい。……でも、実際自信はあるんでしょ?」
「当然です」
 自信に満ちた瞳でこっくりとうなずくユィーナに、思わずディラはぷっと吹き出した。実際この子の強気っぷりは見てて楽しいし頼もしい。
「その自信はどこから来るのかねー」
「するべきことをやっていればこの程度の自信はあってしかるべきです」
「そうかもねー」
 くくっと笑う。こうも自信たっぷりに言い切られるとそうかもなーと思ってしまうから不思議だ。
 そういえば――ふと気になって、聞いてみた。
「ユィーナ」
「なんですか」
「あんたさ、どーして旅に出たの?」
「魔王を倒すためです」
「いやだからさそうじゃなくて。……魔王を倒すための旅に出た動機よ。どうしてわざわざ魔王を倒すための旅に出てきたのかなーって。辛いこととかいろいろあることわかってたんでしょ?」
 その言葉を聞くと、ユィーナはおもむろに目を閉じた。口も閉じて、体の中でその問いを熟成させるかのように沈黙する。ディラは突然なんだと戸惑いつつも、口を出さずに待った。
 しばしの時間があってから、ユィーナは静かに口を開いた。
「そんなことを聞かれたのは、初めてです」
「あ……聞いちゃ駄目なことだった?」
「いいえ。……むしろ、ずっと誰かに聞いてほしいと思っていたのかもしれません」

「……私は、子供の頃からずっと、世の中の大人という大人がみんな馬鹿に見えて仕方ありませんでした。世の中の仕組みというものを学ぶたび、もっと効率のいい方法がいくらでもあるだろうに、と腹立たしくなりました。特に馬鹿だと思ったのが魔王対策です。世界を滅ぼそうという魔王が出現しているというのに、世界を動かしている者たちの取った策といえば各国の勇者を個別に向かわせることだけ。私にはその者たちが、真面目に魔王を倒そうとしているようにはとても見えませんでした。
 最初に魔王に挑んだ勇者オルテガから十年。十年経ってまだ魔王の玉座にまでたどり着いた人間は一人もいない。こんな馬鹿馬鹿しい話がありますか。魔王は魔物を凶暴化させるだけで積極的な攻勢にはほとんど出ていないというのにですよ。もっと失敗した人があとの人間に自分の得たことを伝えようと努力して、あとの人間もちゃんとそれを受け取って対策を練り、きちんとした意思を持って旅に出るなら絶対に、もう五年は前に魔王は倒されているはずです。
 そうでないのは、世の中の人が、勇者たちが、ちゃんと魔王を倒そうとしてないからです。世の中を今よりよくしようと考えて動いてないからです。真面目にどうすればいいか、どうするのが最も効率のよい方法なのか考えて実行していないからです」
 ここで一度ユィーナは口を閉じた。また目を閉じて、何事か考えるように押し黙る。ディラはいくぶん息が詰まるような思いでユィーナを見た。これまでの言葉を聞けば普段通りのただの小言だ、だがユィーナが言おうとしているのはそれだけではないと感じ取っていた。
 なにより、ユィーナが、たとえ仲間にでも、なにかをしてほしいと頼むのは、これが初めてだったのだから。
 しばしの沈黙ののち、またユィーナは口を開いた。
「……私の母親は娼婦でした。それもかなり低級な。私はどぶ臭い売春宿の、隣からは怒鳴り声と嬌声が絶えない、満足な食事をとれることすらめったにない、そういう環境で育ちました。
 初めて犯されたのは、まだ私に月のものが来るより前のことでした。100ゴールド。それが私につけられた値段でした。母親の酒代であっという間に消えていく程度の金のために、私は股を開かされました。毎日のように精液を吐き出され、娼婦や遊び人が覚える避妊の呪文がなければ成人前に妊娠していたでしょう」
 ディラはしばし言葉を失った。ユィーナの生い立ちなんて今まで聞いたことはなかった。わざわざ聞くことでもないと思っていた。
 だが――そんな壮絶な生い立ちだったとは、思ってもみなかった。
 ディラはセックスは好きだ。気持ちいいことは好きだ。
 だが、月のものも来ていないうちから、金で股を開かせられるなんて――それはそんなものとはまったく質が違う。
 だがユィーナは口調に微塵の揺らぎも見せず続ける。
「でも、それがどうっていうんじゃありません、生まれ持った環境なんてどうでもいいことです。私は――それが変わらないのが嫌でした。ひどい状況を、ひどいままで変えようともせずに放っておく、周りの人間が、国が、世界がものすごく馬鹿に見えたんです。やればできるのに。人間は、変われるはずなのに。――私は父――といっても本当のかどうかはわかりませんけど、母と私が物心つくまで暮らしていた男の人と――そしてある少年に、それを教わったんです」
 ディラは、ユィーナの口調に思わず目を見開いた。
 普段通りの揺らぎのない、冷たい口調――だが、なんだろうか、口調の中にかすかに、情熱の色が見える。百戦錬磨のディラだからこそわかる、ほのかな想いの色――
「私の父親役だったその男の人は私に言葉を教えてくれました。人間は、世界はいつからでも変われるのだと、言葉で。――そして、病にかかり、どうしてこの世の中は変わらないんだ、誰も変えようとしないんだ、と嘆きながら私の目の前で死んでいきました」
「…………」
「でも、私はそれを聞いていてすごく腹が立ちました。そんなのあなたも一緒じゃないかと。あなたも心底世界を変えようとはしていない。面倒くさいから、変わらなかったら怖いから、そんな理由で自分で変える努力を怠けている。馬鹿みたいだと思いました。私はそんなのは嫌だ、と思った――けれど私も、それと変わらないと思った。どうすればこの目の前の現実が変わるのかわからない。私がなにをしても、どんなに頑張ってもお金はたまらないし母は酒を飲むし私は100ゴールドで股を開かせられる。――私は絶望していました。だから、死のうと思ったんです」
「ちょっと!」
 思わずがしっと腕をつかみ叫ぶ。ユィーナはディラの勢いを受け流すように、小さく肩をすくめて続けた。
「私は生まれて初めて街の外へ出ました。魔物に食い殺されようと思って。そして――魔物に襲われた時、そこで一人の少年――未来の勇者に助けられたんです」
 ―――少年? 未来の勇者?
「……それって……」
「なぜ私を助けたのか、私は彼に聞きました。すると彼は答えました。『――目の前で襲われてる奴がいたら、助けるのは当たり前だろう?』って」
「…………ねぇ、ユィーナ、あのさ」
「それから少し話をしました。私が抱えていた鬱屈を話すと、彼は黙ってそれを聞いてくれて、最後にこう言ったんです。『――頑張れ。俺も頑張って、勇者になって、世界を救うから』――その時は結局、名前を聞くこともできませんでしたが」
「…………それって、さ…………」
「――私は、その少年に会って初めて、生きることを知りました。その少年との誓いに恥じることは絶対にできないと思った。その時初めて、私の中に――誇りが、プライドが生まれたんです」
「………………」
「私は母のところから逃げ出して孤児院へ移りました。そこで勉強をしました。戦術、戦略、世界各国の地域知識に情勢、世界の成り立ちに始まるありとあらゆる学問。そして、勇者の旅と魔王対策について」
「……その少年が勇者になった時に、胸を張って仲間になるために?」
 ディラがそう問うと、ユィーナはくすりと笑って首を振った。――ユィーナが笑うなんて、ほとんど初めてじゃないだろうか。
「別にそういうわけではありません。――ただ、私はその時生まれたプライドにかけて、死にもの狂いで変えてみるしかないと思ったんです。世界を、いい方向に。私が変えてやる、と思いました。そしてそのためには魔王退治は一番手近でしたし――そうですね、その少年が勇者になるため毎日努力する姿を見るにつけ、私も負けていられないなと思ったので、自然にそちらに進もうと思ったんですよ」
「……見てたんだ?」
 かなり驚いて聞くと、ユィーナはカッと顔を赤らめて首を振った。
「別にずっと見ていたわけでは在りません。ただ、私のいた孤児院と彼が訓練していた場所が近かったので。たまたまです」
「ふーんー……」
 にやにやしながらじーっとユィーナを見つめてやる。ユィーナは思いきり顔をしかめて、ふんっとそっぽを向いた。ディラは思わず笑いながらぽんぽんと肩を叩く。
「まーまー。でもすごいじゃん、その時の約束だけを糧に、死に物狂いで頑張って今みたいな知識を身につけたわけでしょ?」
「……ええ。あの時築いた、プライドを糧に」
 ユィーナはすっと空を見上げた。その横顔はあくまで静かで、そしてひたむきで、美しい。
「もちろん考えているのと実際にやるのは大違いで、苦労も痛みも山ほど感じました。馬鹿にされましたし邪魔もされました。あたしたちに必要なのは明日の飯だ、それも稼がないでなにをやってるとも言われました。――でも、私でも、最低に近い娼婦の娘でもここまで来れたじゃないですか。決意ひとつで。王の使命を果たし、街を救い、宝物を手に入れて国まで救ったじゃないですか。……なのに、世界を変えることができるのは遠い世界の偉い誰かだけなんだ、なんて絶対に言わせません。……私は、そのために――自らの誇りにかけて世界を変える第一歩のために、魔王と戦うんです」
「第一歩なんだ?」
「もちろん。魔王征伐の功績を足がかりに、まずはアリアハンの施政改革からです。すでに年間計画も立てているんですから」
「さすがというかなんというか」
 ディラはくくっと笑った。恐ろしいほどに実際的なリアリスト。全てを効率がよいか否かで判断する女。その根本の原動力があのストーカー男へのほのかな初恋から来るものだったとは。
「……誰の原動力がほのかな初恋ですか」
「え? あれ、聞こえてた?」
「当たり前です! 私はあのような男に対して恋をしたわけではありません、私が彼に仲間にするようもちかけたのは彼が優秀な能力を持ち私と年齢が近かったというただそれだけのためでっ……!」
「えー、言い訳くさーい。ていうかあの話の少年ってやっぱあいつなんだ?」
 ユィーナはその言葉にカッと耳まで一気に赤くなる。
「む、昔のことです! 第一……彼は、そんなことはとうに忘れているようですし……」
「あー、それはひっどいわよねー。あいつあれだけあんたに惚れた惚れた言っときながら大切な思い出忘れてんだもん。ぶっ殺しもんよね。あんたの気持ちわかるわよ、そりゃ素直になれんわ。もーしばらくは焦らしていじめてもオッケーよ?」
「だからそういう問題ではないと! 第一あなたになんの関係がっ……」
「あるじゃん、関係。あたしたち仲間じゃん? 仲間にはやっぱ幸せになってもらいたいしさー」
「なっ……」
 ユィーナがますます顔を赤らめ――
「ユ゛ィ゛ィ゛ナ゛ァァァァァァァァァァァア゛ッ゛!!!!」
 どっごぉーん! という音と共にテラスの扉が開いた――というかぶち壊れてどこかへ飛んでいった。
 仰天して振り返ると、そこには悪鬼の形相をしつつ目からぼろぼろ涙をこぼしまくっているゲットがいた。足元にはずたぼろになったヴェイルがしがみついている。
「……なにやってんのあんた?」
「……すまん。止めようと努力はしたんだが、五分が限界……ぐふっ」
「あっさり死んでんじゃないわよコラ!」
 そんな会話など気にも留めず、ゲットはユィーナに向け突進する。思わずびくりとして一歩退いたユィーナに追いすがり、がっしと両の手を握り締めて号泣した。
「ユ゛ィ゛ィ゛ナ゛ァ゛ッ゛、嘘だろう!? お前に俺以外に愛した男がいるなんて!」
「…………………は?」
 ひどく不穏な表情でそれだけ言ったユィーナに、ゲットは泣き喚きまくし立てる。
「俺は一生涯お前一人、お前だって愛した男は俺ただ一人と言ったじゃないか(ここでいつ言ったんだよというツッコミがヴェイルから入ったがゲットは聞いていなかった)! いや過去のことなんてどうでもいい。まさか今もまだ愛しているとか言わないだろうユ゛ィ゛ィ゛ナ゛ッ゛!? 初恋なんてしょせん幻想だっ、いや俺の初恋はお前でこの想いはもはや鉄筋より強固だと断言できるが、お前のそんな想いは今の俺たちの愛に比べれば屁のようなもんだそうだろうっ!? 第一お前にそんな想いを抱かせておきながら忘れるような奴なんてクズだクズっ、お前にはふさわしくない! お前の方こそそんな奴のことは忘れて俺と愛し合おう、それがいいと思うだろうそうだと言ってくれユ゛ィ゛ィ゛ナ゛ァァァァァア゛ッ゛!!!」
「…………――――」
 ユィーナは無言でゲットを見つめた。感情の感じられない表情で。
 そしてそれから、にっこりと――どんな憤怒の形相より恐ろしい、絶対零度の微笑を浮かべた。
「炎、これなるは力、生動かす源、我と世界が意思をもて――=v
 やばい、と判断したディラはヴェイルを担いでとっとと逃げ出した。あれはメラゾーマの詠唱だ。
「ユィーナっ、なんで怒ってるんだ、ユ゛ィ゛ィ゛ナ゛ァァァァァア゛ッ゛………」
 ゲットの絶叫は途中で掻き消えた。あ、ありゃ死んだな、とディラは小さくため息をつく。
「あの………馬鹿」

戻る   次へ
『知恵の樹に愛の花咲く』 topへ