やや!お主の顔には、美しい女に愛される相が出ておる
レイアムランドの氷原よりも寒さを感じさせる冷気がユィーナから流れ出していた。ディラとヴェイルは寄り添って、ユィーナに目をつけられないよう注意深く身を潜めている。ラーミアの背中は運ばれながらくつろぐには十分なスペースがあるが、マヒャドよりも冷たい凍気を発する女から間合いを取るには狭すぎた。
 ユィーナはラーミアの頭部近くで、脇目も振らずひたすらに前を凝視している。その後姿からは背筋が凍りつくほどの苛烈な冷気が放たれており、ディラとヴェイルはもう二桁にもなろうかという回数繰り返した身震いをした。
 その原因となった男はというと――ユィーナの隣で、天地をひっくり返された状態でマット(ラーミアの羽毛)に沈んでいた。
「……大丈夫かな、あいつ。もう十分もあのままだぜ、死ぬんじゃねぇか?」
「だったらあんたあの子の横であいつ助け出す度胸あんの?」
 ディラの言葉にヴェイルはまた身を震わせ、ぷるぷると首を振った。仲間はそれなりに大切だが、やっぱり自分の身が一番可愛い。
「馬鹿だなぁ……あいつ」
 ヴェイルがぽそりと言う。それについてはディラもまったく同感だが、ユィーナと一緒にラーミアのせに運ばれながらの話題には不向きだろうがと黙殺した。
 と、ゲットがふいにがばぁっと体を起こした。意識を取り戻したらしい。
 そしてユィーナに駆け寄り(落ちる落ちる! と思わずヴェイルは慌てた)、がっしとその両手をつかんで叫ぶ。
「ユィーナ―――――っ!!! どうしてなんだなんで俺の方を向いてくれないんだ俺たちの愛は永遠だと二人で誓っただろうっ(いつ誓ったんだよ、とヴェイルは思わず突っ込んだが当然ゲットは聞いてない)!? 俺はどんなことがあろうとも変わらずユィーナを愛してる、それはユィーナだって同じじゃないのかそうだと言ってくれぇっ!」
 必死にかき口説くゲットを、ユィーナはグリンラッドの永久凍土よりも冷たい視線でちらりと眺め、それからふいと視線を逸らした。当然ながらゲットはガーンとショックを受けた表情になる。
 だがそれでもめげずにユィーナの前に走りこんで叫んだ。
「ユィーナっ、聞いてくれ! 俺は君を愛してるんだ! 何度だって言うぞアイラヴユーアイニージューアイウォンチューフォーエヴァーユィーナっ! どうか俺を見て素直に好きだと言ってくれユィーナァァァァァァァッ!!!!」
「………………」
 ユィーナは、じっと、氷河魔人の吐く息よりも冷たい視線でゲットを見て、こう言った。
「私は、あなたのことが、大嫌いです」
「………………………………………!!!!」
 ガッビィーン、という書き文字を背後に浮かべ、ゲットは愕然の表情で固まった。ディラとヴェイルはあーあ、と思わず顔を押さえる。ついに言わせてしまったかあそこまで。
 ゲットはたっぷり一分間固まった。そして目からだーっと滝のように涙を流した。そのあまりの勢いに思わずディラとヴェイルが引いている間に、しゃりーんと剣を抜いて自分の首に突きつけ――
「ってちょ、待て待て待て待てぇっ!」
「放せ! 止めるな! 俺はもう死ぬしかないんだっ! ユィーナに嫌われたら……俺はもう生きてはいけない……っ!」
「こんのオバカチンキ……っ、あのねー、これまでだってさんざん鬱陶しいだのなんだのと言われてきたくせにいきなり挫けてんじゃないわよ!」
「それはユィーナの女の子らしい照れ隠しだろうがっ! 本気で……本気で、ユィーナにウザがられたら……俺はもう、死ぬしかないっ……!」
「ってお前な、ちょっと落ち着けよ! いっくらなんだって自殺は……!」
 ばたばたと取っ組み合う――と、そこにすぅっと女が一人割り込んできた。ユィーナだ(この状況で他にいるわけがない)。
「! ユィ……」
 条件反射的にかフォローしてもらえると思ったのか、ゲットが顔を輝かせてユィーナの方を向く――
 その左頬に、神速の右ストレートが叩き込まれた。
「ぐぼはぁっ!」
 ゲットは数m吹っ飛んで、ラーミアの尾っぽ近くの辺りで止まった。あと少しずれていたら落っこちていただろう。
 いくらなんでも危ねぇだろっ、とヴェイルが抗議しようとして――固まった。
 ユィーナが、泣いていたからだ。目からぽろぽろ涙をこぼしていた。
 時々しゃくりあげながら、必死に泣くのを堪えようとしながらも目から次々に零れ落ちる涙の粒はありきたりな表現だがまるで宝石のようで、その場にいた全員(ゲットも含む)固まって声も出せずにその涙を見つめていた。
「許……しま、せんから……」
 ユィーナは泣きながら、涙をぽろぽろこぼしながらきっとゲットを睨んだ。ゲットが「ユィ……」と言いかかるが、迫力にか美しさにか気圧されたように黙り込む。
「絶対……っ、勝手に死ぬなんて……許しません、から……!」
 それだけ言ってくるりと後ろを向いて座り込む。こちらの方は頑として振り向こうとしない。
 ディラとヴェイルはなんと言っていいのかわからずにゲットの顔とユィーナの後姿を等分に見比べる。ゲットは――
 ひどく途方に暮れたような、呆然とした面持ちで、ユィーナの背中を見つめていた。

「………はぁぁぁ…………」
 ゲットはため息をついた。深い深い、憂いに満ちた――そんな言葉じゃ足りない、どっぷり落ち込みまくったため息というやつだ。
 ラーミアに連れられてやってきた人分け入らぬ奥山にそびえる竜の女王の城。そこで自分たちは竜の女王から光の玉というものを渡された。
 そしてなにやらいろいろと話をされたのだが、自分はほとんど右から左だった。そもそもゲットは人の話を聞くのが苦手だ。その上今はなによりも気にかかっていることがあるのだから、竜の女王がどうしようがバラモスがこうしようが話なんぞ聞く気はしない。
 そして今は竜の女王が出産するとかで部屋を追い出されたわけなのだが――
「はぁぁぁ…………」
 ゲットは再び、深い深いため息をついた。こんな状況に追い込まれて悩むなんて初めての体験だから対処法が思いつかない。
 あんな風に、好きな人を傷つけるなんて。
「あ、馬鹿男がたそがれてるー」
「……お前ら」
 ゲットはぎろりと連れ立ってやってきたディラとヴェイルを睨んだ。自分が馬鹿なことをしたのは確かだが、茶化されて気分がいいわけはない。
「なにしに来たんだ」
「なにって、暇だから城の中を見て回ってるに決まってんじゃない。ユィーナが竜の女王が出産するのを見届けるって言うから、しばらくは出発できないでしょー?」
「………ふーん」
「……お前、そーとー落ち込んでんだな」
「なんでだ」
「ユィーナの名前が出てもバカみてーに元気にならないから」
「………………」
 そうなのだろうか。そうかもしれない。たぶんそうなのだろう。
「お前にも人並みに落ち込むこととかあるんだなー。俺初めて見たわ」
「……しょうがないだろう。俺がユィーナを傷つけてしまったのは、間違えようのない事実なんだから」
「ふーん、それは自覚あるんだ」
「当たり前だろう。なんだと思ってるんだ俺を」
 むっとして睨むと、ディラもぎろりとこちらを睨み返してくる。
「じゃあ、なんでユィーナが傷ついたか、わかる?」
「……俺が命を粗末にしようとしたからだろう?」
 ユィーナは命が失われるのをなにより嫌がる、優しいやつだから。
 そう言うと、ディラとヴェイルは揃ってため息をついた。
「バカ」
「なんだと?」
「お前押しは異様に強いくせしてその鈍感さは致命的だと思うぞ……」
「誰が鈍感だ」
「あんたよあんた。……じゃあ聞くけどね。見知らぬ他人が目の前で自殺しようとしたとしても、ユィーナあんな風に傷ついたと思う?」
「……いや」
「それはなんで?」
「それは……俺のことを愛しているからか! なんだそうかそうだったのかそれならそうと早く言ってくれればいいのにさぁ今行くぞユィ」
「だーっ、待て待て待て!」
「その猪突猛進なとこが駄目だって何度言わせるのよこのスッタコ野郎!」
「あだだだだ痛い痛い卍固めは真剣に痛い!」
 ぜーはーと荒い呼吸をつきつつも解放されたゲットの眼前に、ディラは指を突きつけた。
「いい? まず、あんた、ユィーナが自分のことをどう思ってると思ってる?」
「そりゃ……愛してるに、決まってる」
 時々、ちょおっと俺ユィーナに愛されてないかなー、という気分になる時はあるけれども。
 自分とユィーナは運命で固く結ばれた恋人同士なのだという想いは、まったく変わらない。
「……じゃ、仮に、よ。もしユィーナとあんたが子供時代に会ってたとして」
「子供時代? ユィーナは子供の頃から可愛かっただろうな……」
「チェイッ」
 ディラの光速パンチがゲットの顔に炸裂した。
「黙って聞きなさい。……子供時代に会ってたとして。あんたが子供時代のユィーナに惚れちゃうようなことがあったとして」
「当たり前だいついかなる時に会おうとも俺とユィーナは旅の扉の入り口出口よりも固く結ばれて」
「チェイッ」
 今度はボディに炸裂した。
「いいから聞けっつーの。……それで相手が成人してから会ったらあんたのこと忘れてたら、どう思う?」
「ユィーナがそんな忘れっぽいはずないだろうっ! 貴様ユィーナを侮辱する気か!?」
「あーっ、ウザッ!」
 今度は後ろ回し蹴りがテンプルに叩き込まれた。
「いいっ!? あんたは今そーいうことをユィーナに対してやってんのよ!」
「………は………?」
「だっからもーここまで言ってまだわからんのかおのれは! 八年前ユィーナを助けた未来の勇者候補で、次会ったらまるっきりユィーナのこと忘れてたユィーナの初恋の男っつーのはね、あんたなのよゲット・クランズ!」
「………は………?」
 ゲットはきょとーんとしてディラを見つめた。
「………マジか?」
「大マジよ」
「嘘や勘違いじゃないだろうな?」
「んなわけないでしょーが。あたしを誰だと思ってんの?」
「…………………………………………」
 ゲットは口を閉じたまま硬直した。
「あ、固まった」
「ちょっと意外な反応ねー。ユィーナのとこに駆け出すかと思って殴り倒す準備してたのに」
「……………………」
 だって、そんな。まさか、そんなことがあるなんて。
 ゲットは全然覚えていなかった。そんなことがあったという記憶の欠片すらない。そもそもゲットは物事をいつまでも覚えておくというのが苦手なのだ、もう八年近く昔になることなんて覚えているわけがない。
 けれど、ユィーナの。ユィーナのことを忘れるなんて。
 一年と十ヶ月前、ユィーナと出会ったことは昨日のことのように覚えている。それから積み重ねていった思い出の一つ一つもありありと思い出せるのに。
 八年前、ユィーナと出会って、ユィーナに恋をされたなんてことを思い出せないなんて――
 不覚だなんて言葉じゃ言い表せないほどの大しくじりだったのだ。
「ゲット。ちょっとゲット。気ぃ飛ばしてんじゃないわよ。話はこっからが本番なんだからね」
「………………」
「殴るわよこのボケ勇者」
「……ゲット。ユィーナは、ゲットは妄想の中のユィーナに恋してるだけだ、っつってたよ」
「……なんだって?」
「あ、反応した」
「ユィーナが、なんだって?」
 ヴェイルは少し困ったような顔をしながら言う。
「だからさ。本物の自分に恋してるんじゃなくて、妄想の中の――自分で勝手に作り上げた幻想のユィーナに恋してるだけだろう、って」
「な―――」
 一瞬絶句して、それから猛烈な怒りが立ち上ってきた。
「――にを馬鹿な―――!」
 幻想? 妄想の中のユィーナに恋してるだけだ、と?
 馬鹿な。なんでそうなるんだ。確かに自分は他の人間より少しばかり愛の表現方法は激しいかもしれないが。それを現実が見えていないと言う人間もいるかもしれないが。
 今目の前にいるユィーナを見なかったことは、一度もない!
「……ふーん。そう言われて怒るくらいには見てた自信、あるんだ」
「当たり前だ!」
「ゲット……あのさ」
「なんだ」
 ぎろりと睨むと、ヴェイルは一度ごくりと唾を飲み込んでから話し出した。
「ユィーナはさ。たぶん、自信がないんじゃないかと思うんだ」
「……自信?」
 あの、自分に自信を持つため常に努力しているユィーナが?
「うん。俺も最初なんでそんなこと言うのかわかんなかったんだけどさ」
「なんの自信だ」
「なんつうか……愛されてる自信、ってやつ」
「……………………」
 ゲットは数秒黙り込んで考えて、それからぽんと手を打って走り出しかけた。
「そうかユィーナまだ俺の愛の表現が足りなかったんだな待っていろ今すぐ俺の体中で愛を表現して」
「最後まで話を聞けこのスットコ勇者!」
 ばぎごぎどっすん。ディラの三連コンボを食らってゲットはひっくり返る。
 そこにヴェイルの声が響いた。
「あのさ、ゲット。お前にはわかんないだろうけど……好きって言われると、かえって不安になることも、あるんだよ」
「………は?」
 ゲットはばっと上体を起こす。疑問符でいっぱいのゲットの顔を読み取ったのだろうか、ヴェイルは小さく笑った。
「やっぱ、わかんねぇんだ」
「…………」
「あのさ。好きって言われるのは嬉しいよ。気持ちいいよ。でもさ、自分からアプローチして好きになってもらったんでもないのに、好き好きーって全力で攻められたらさ、どうすりゃいいのかわかんなくなっちゃう時も、あるんだよ」
「………………?」
 わけがわからん、という顔で首を傾げるゲットに、ヴェイルは根気よく説明する。
「だからさ。そういう風に、ただ一方的に好き好きって言われたら、言われてる方は自分のどこがそんなに好きになってくれたのかわかんないわけじゃん。どうすればそのまま好きでいてくれるかもわかんないわけじゃん。そうなるとさ、相手の気が変わったらもう終わりだ、っていう風に考えて、好きだって気持ちに応えるのが怖くなっちゃう……って気持ち、わかんねぇ?」
「…………? ? ?」
 さっぱりわからん。
「なんつーかさ……たぶん、ユィーナはさ。好きだって言われて、自分も好きだって言って、はい終わり、じゃないんだよ。それから先のことを考えちゃってるんだ。もし好きだって言ったあとにお前に……嫌われるってことがないにしても、興味を持たれなくなったらどうしようとか……そういうこと、考えちゃってると思うんだ。最初の出会いのことまるっと忘れられてたみたいにさ」
「…………」
「だからさ。今、お前らに必要なのは、ユィーナが愛されてるって自信が持てるよう、ちゃんと落ち着いて話し合うことだと思うんだよ、うん」
「うわーヴェイルえっらそーあたしのアドバイスがなけりゃユィーナの言葉の真意なんてさっぱわかんなかったくせにー」
「う、うっるせぇな、二人で考えてわかったことなんだからいいだろっ!」
「……………………」
 落ち着いて話し合う? ユィーナと? そんなことをしたことはない。ユィーナを好きだと気づいてからは。
 だってこの溢れそうな愛の洪水を抱えながら、どうやって落ち着いて話し合えというのだろう。ユィーナが好きだと百万回だって言いたい。愛していると叫びたい。どうすれば好きでいてくれるのかわからなくて拒絶してしまうなんて、ユィーナのそんな健気なところが大好きだと絶叫して押し倒したい。
 それを堪えるなんて―――
「……っっっっっっっっっっ!!!」
 ゲットはぎりぎりぎりっと奥歯を噛んで立ち上がった。やってやろうじゃないか。それがユィーナに必要だというのなら万難を排して行おう。自分がいかに辛かろうと、ユィーナの幸せのためならそんなもの屁でもないっ!
 ……と言い切れはしないが、少なくとも、大丈夫だと、思う。たぶん。
 そんなゲットを見つめて、ディラとヴェイルがうなずきあったことにはゲットは気づいていなかった。
「じゃ、ちょっとここで待ってなさいよ。今ユィーナ連れてきてあげるから」
「……ここで?」
「どこだろうといいだろ、話し合えりゃ」
「ああ……おい、お前ら」
「なに?」
「なんだよ?」
「ありがとう、な。俺たちのために骨を折ってくれて」
 そう言うと、ディラは一瞬すさまじく奇妙な顔をしてからぷっと吹き出し、ヴェイルは困ったような顔をして苦笑した。
「あんたのそんな台詞聞けただけでもじゅーぶん骨折る甲斐はあるわねー」
「……そだ、な。じゃ、すぐ戻るからな!」
「ああ……」
 ゲットは二人が戻るまで、ユィーナになんと言うかについて考え始めた。
 そしてそれはすぐに中断させられた。
「おいっ! ゲット!」
「……お前ら、ユィーナはどうした? 一緒じゃないじゃないか」
「今はとりあえず保留にしとけ! それよりもなぁ……」
「竜の女王様が産気づいたんだって!」
「竜の……女王様?」
 はてそれは誰だったか、と首を傾げるゲットにディラとヴェイルはあからさまに呆れた顔をした。
「あんたねー、さっきまで話してた相手のこともう忘れたとか言うわけ?」
「……ああ、あのでかい竜のおばはんか」
「おばはんってお前なぁ……とにかく! 竜の女王様が卵産むところを俺らに見てくれって言ってるんだよ!」
「……その女王様とやらは露出好きなのか?」
『アホかぁっ!』
 ゲットの言葉に即座にディラのドラゴンバックブリーカーが入った。とても痛かった。
「……産まれてくる子供に勇者の祝福が欲しいんだってよ。ユィーナもぜひ賢者として祝福を与えたいって言ってるから……」
「ユィーナがっ!?」
 ぐいんと立ち上がって顔を近づけると、ヴェイルはわずかに言葉に詰まった。
「お、おう。だから、行ってやった方がいいんじゃねぇのかって……」
「どこだ! どこに行けばいい!?」
「……あーったくあんたはユィーナと聞くとすぐそーやって……こっちよ」
 ディラの先導で竜の女王の部屋に入る。扉は大きく開け放され、何人もの人間が出入りを繰り返していた。
 というか――そこは戦場だった。
『ウグッ……ウッグゥゥッ!』
「女王様、ゆっくり呼吸してください! 吐く時はヒー、フー、ヒー、フー、はい繰り返して!」
『ヒィィ……フゥゥ……ヒィィ……フゥゥ……』
「吸うのは自然に任せて! 身体から力を抜いて、ゆっくりと!」
 何人ものエルフ、ホビット、動物が慌てふためいてうろうろしている中、竜の女王の一番そばでいちいち指示を出しているのは、ユィーナだった。驚くほど真剣な顔で――ユィーナはいつも真剣だが、普段とはまったく桁が違う真剣さをもって竜の女王を支え、励ましている。
 ――ゲットは、その横顔に見とれた。
「うわ……なんか、入ってけない雰囲気……」
「だいじょぶなんかな……」
 そんなディラとヴェイルの言葉も右から左だった。ユィーナを見ると、ゲットの中には処理しきれないほどの大量の感情が溢れる。
 好きだ、可愛い、愛してる、好きだ、愛しい、そばにいたい、好きだ、こっちを向いてくれ……
 そんな永遠に連なる感情の螺旋は、ユィーナにしか止められない。ユィーナだけが、自分の、この感情を受け止めることができるのだ。
 そのユィーナは、今、自分などに目もくれず他人の世話に没入している。
 でも、だからこそ。だからこそユィーナは本当に、美しい。
 誰かのために一生懸命になっているユィーナは本当にきれいで、今自分の中に渦巻く感情をぶつけたら、あの美しさはきっと崩れてしまう。それは嫌だ。よくない。
 ユィーナが自分以外の誰かを見るのは嫌だけど。ユィーナのあの顔を遠慮会釈なく崩してしまうのはもっと嫌だ。
 ――ああそうか、これが『状況を読む』ってことなんだな――
 ゲットは、その時初めて、そんな風にして、やっとのことで。どんな時でも自らの感情をただ押し付ければいいってもんじゃない、ということを知ったのだった。

 何時間もかけた長いお産。その最後は、母体が死に、卵が残るという結果に終わった。
 残されたこの卵を健やかに育てていく、と涙しながら誓う随従たちを残し、ユィーナは一人姿を消した。
 ゲットはそのあとを追った。ユィーナの匂いならたとえルーラを使われたとしても嗅ぎ付ける自信がある。
 ユィーナは、城のテラスにいた。いつの間にか陽が落ちて、空には月と星が浮かんでいる。
「……なにしに、来たんですか」
 かすれた声で訊ねるユィーナに、ゲットは正直に言った。
「なにしに、ってとこまで考えてない。ただ、ユィーナがどっか行っちまうと思ったら体が勝手に動いてた」
「……人が一人になりたい時を察することもできないんですか。私は、あなたのそういうところが嫌なんです」
「……俺は、ユィーナのそういう本当は人の気持ちをすごく大切にするところが大好きだ」
 ばっとユィーナがこちらを振り向く。その瞳が濡れているのがわかった瞬間、ゲットは駆け寄ってユィーナを腕の中へ収めていた。
「……っ、放しなさいっ!」
「意地っ張りで自分の気持ちをなかなか素直に表せないところも好きだ。冷たいって言われそうなくらいきれいな顔も好きだ。きれいだとか言われるのを嫌がってるところも真面目で可愛くて好きだ。頭がよくて頭を使うことはなんでも得意なところもカッコよくて好きだ」
「放しなさいっ……放してっ! そんなこと聞きたいなんて誰も言ってないでしょう!?」
「世界を変えようって心から思える一途でひたむきで真面目なところも大好きだ。……お前を形作ってるもので嫌いなものなんかない」
「……そんなの……聞きたくないって言って……」
「お前の全部が好きだ。これからもずっとずっと好きだ。それじゃ駄目か。足りないのか」
「………っ」
「ユィーナ。好きだ」
「…………」
 しばしの沈黙のあと、ユィーナは口を開いた。
「私は……」
「うん」
「私はあなたのそういうところが嫌いです。人が、竜族ですけど、人と話し合える存在が死んだんですよ。この世から消えたんですよ。どうして悼まずにいられるんですか、あなたは」
「うん、ごめん。悼んでないわけじゃないけどユィーナの方が大事だ」
「……そういう恋愛至上主義的なところも嫌いです。恋愛なんて基本は錯覚と思い込みなんですよ。そんなものに振り回されるなんて非建設的な人生を送りたいと考えるなんて信じられません」
「うん、ごめん」
「ものぐさなところも嫌いです。船旅の時あなたしょっちゅうお風呂掃除手を抜いたでしょう。毛が残ってたっていうことが何度もありました」
「うん、ごめん。それから?」
「…………………っ。そういう、自分は絶対に愛されていると確信しているようなところも、嫌いです」
「は? なんでだ。俺は今とってもビクビクしながら話を聞いてたんだが」
 眉根を寄せるゲットに、ユィーナは驚いたような顔をした。
「本気で言ってるんですか?」
「当たり前だ。ヴェイルたちが話し合えというから必死に気持ちを抑えて話をしてるんだ。はっきり言って俺は今にも泣きそうだぞ。……ユィーナ、お前は俺のこと、本当に嫌いなのか」
 体中の力を振り絞って普通の顔を作って話してはいるけれども。
 そう言うと、ユィーナはまじまじとゲットの顔を見つめ、それからくすっと可愛らしく笑った(ユィーナが、俺に! 笑いかけた! とゲットは状況を忘れて感動する)。そして顔を真っ赤にして、小さな小さな声で囁いた。
「そういう、鈍感なところも、嫌いです」
「……そうなのか」
 ゲットはしょぼーんとする。
 それをユィーナははーっと、深いため息をついて眺め、それから耳元で囁いた。
『…………』
 ――ゲットはその瞬間、びっかーんと顔を光らせて、雄叫びを上げながらユィーナを押し倒した。

 そして当然しこたま殴られた。
「なにを考えているんですかあなたは! 状況というものを考えなさい状況というものを! こんな時に、しかもこんな場所で押し倒して道理が通ると本気で思ってるんですか!」
「だって! ユィーナが俺のことを生まれて初めて『す……』」
 即座に鋼の剣で殴られた。
「黙りなさいなにも言うんじゃありませんその口永遠に閉じさせてあげましょうか……!?」
「わかったすまん黙るぞユィーナ。……とにかく愛し合う二人がその愛を確かめ合ってなにが悪いんだ!」
「そういうことは双方の合意があって初めて成立するものでしょう!? 言葉より先に行動するんじゃありませんそういうのを変態と呼ぶんです!」
「じゃー言葉でおねだりするぞ! させてくれーしたいー今ーすぐー!」
 駄々こね駄々こね、と地面に子供のように転がって訴える。
「子供ですかあなたは! 第一そんなことを大声で言うんじゃありませんっ!」
「……嫌なのか?」
「…………」
「嫌なのか、俺とするの………」
 ゲットが不安げな顔でそう訊ねると、ユィーナは思いきり顔をしかめて思いきり顔を赤くし、頭から湯気を立ち上らせんばかりに顔を熱くして小さな小さな声でぽそり、と言った。
「………バラモス戦が、終わったら………」
 ゲットはユィーナのその顔をしばし見つめ、それからにっかーっと満面の笑みになってぽんとユィーナの肩に手を置いた。目が、たまらなく燃えている。
「間違いないな、ユィーナ」
「……ありません」
「バラモス倒したら、初夜。文句はないんだな?」
「……何度も聞き返さないでください! 私に二言はありません!」
 それを聞くとゲットは満面の笑みをにたぁ〜と崩れさせた。
「よっしゃあぁぁぁっ、行くぞユィーナっ! 絶対に速攻でバラモス倒して初夜だーっ!!!」
「………………ここは勇者のモチベーションが上がったことを喜ぶべきなのか……」
 小さな声でユィーナが言った言葉など、当然ゲットには聞こえていないのであった。

戻る   次へ
『知恵の樹に愛の花咲く』 topへ