不思議な風邪のお話
「……ぐしゅっ。げほ、げほげほっ、ぐしゅんっ」
 ベッドの上、真っ赤な顔をして、鼻水を垂らしながら(その可愛らしい顔立ちをかなり台無しにして)くしゃみと咳を繰り返すバーバラに、ミレーユはふぅ、と息をついた。
「これは、やっぱり、どう考えても風邪ねぇ」
「ただの風邪なのか? なんか妙な病気じゃねぇんだよな?」
 ハッサンが気遣わしげに問うが、ミレーユはあくまで落ち着いた表情でうなずく。
「ええ。普通の風邪。この前マウントスノーに寄ったでしょう? あの時バーバラはずいぶんはしゃいでいたから……体を冷やしてしまったんだと思うわ」
「そうですね……呼吸音は濁っていませんし、熱もさほど高くありません。ごく普通の風邪だと思いますよ。今年の風邪は鼻にくるそうですから」
 考え深げにうなずくチャモロに、テリーがぶっきらぼうな言葉をぶつける。
「そんなこと言ってる場合か。ゲントの癒しの術は病気も治せるんだろ、とっとと治しちまえばいいだろうが」
 ダーマ神殿の転職によって身につけた呪文では、怪我や毒、麻痺は治療できても病気は治せない。だが癒しの民ゲントの、しかも長老一族の血を引くチャモロならば、その身にもとより備わった癒しの術で本来なら死病である病すらも快癒させてしまう。大したことのない風邪くらいすぐに治せるはずだ。そう思っての言葉だったのだが、チャモロは首を振った。
「いえ、それは意味がありません。もちろん病気の症状を緩和することはできますが……風邪というのは、体に疲労が蓄積したことを訴える信号のようなところがあるのですよ。ここのところレベル上げばかりでろくに宿に泊まっていませんでしたし、バーバラさんもお疲れなのだと思います。今はゆっくり休んで、滋養のあるものを食べるのがなによりの薬でしょう」
「ふぅん……」
 どちらかといえばどうでもよさそうにテリーは肩をすくめるが、そこにアモスがずいっと進み出てにこにこと言った。
「となれば、ここはあれですね。みなさんで看病合戦をするしかないですね!」
『……は?』
「なんだよ、看病合戦って」
「ふっふっふ、わかってらっしゃらないようですね。人間というのは弱っているところに優しくされるとグッとくるもの。それは女性でも例外ではありません」
「……だから?」
「ですから、みなさん、抜け駆けは禁止ですよ? あんまり一人がポイントアップしすぎると、パーティの和が崩れますからね!」
「お前はなにを言っているんだ」
「……ふん、看病合戦か。面白い」
『……は?』
 それまでずっと黙っていたローグが、唐突にそんなことを言って前に出た。
「パーティメンバー内で病人が出るなんて初めてだからな。ここはひとつ、今後の対策を完璧にするためにも全員いかにうまく看病するかで勝負しとくのも悪くないだろ」
「いやお前、病人相手にんな不謹慎な……」
「病人相手だからこそ今後のためにも対策を整えるっつってんだろうがわかりの悪い筋肉ダルマだな。ポイントはバーバラの満足度の累積で決める。一位を取った奴にはなにか商品でも出すとするか」
「ローグさん! いくらなんでも病気をそんな競争の対象にしようなどと……」
「いいか、チャモロ? どんなものであれ技術の向上には競争心は一番の発奮剤だ。難病の治療法の中には他よりも先んじようという功名心があらばこそ生まれたものがいくつもあるだろう? 俺もそれと同じことをここでやろうとしてるんだよ! 今後の仲間たちの病気を速やかに治療するために、心を鬼にして!」
「そ、そうだったのですか……! すいませんローグさん、まだまだ私は表面上の形に囚われて本質を見抜けぬ未熟者のようです……」
「いや気にするなチャモロ、お前は今でもずいぶん成長しているさ。これからもどんどん成長するだろう、その間お前にできないことをやるのが俺たち仲間の役割だろう?」
「は、はいっ!」
「決め顔作って純真な相手を騙くらかすな。お前は要はその場のノリで決めてるだけなんだろうが」
「フッ!」
「ごぼっ! ぐ、うぉおぉぉ……! っ、いきなり鳩尾を突くな!」
「甘いな、世界一の剣士(仮)。お前は常在戦場という言葉を知らんのか、あ?」
「ふむふむ、なるほど。つまりみんなで頑張ってバーバラさんの看病をすれば商品が出るわけですねっ! バーバラさん、なにかしてほしいことはないですかっ?」
「…………」
「あら、バーバラ、声が出せないの? ちょっと待って……ふんふん。そうね、ふふふ」
「姉さん。なんだって?」
「『うるさいからとりあえず全員出てって』ですって」
『…………』
「プルルップルー」
 パーティの足元で、ルーキーがやれやれといったように体を震わせた。

 びゅうびゅう、ごうごう。
 なんだかひどく不安になるような音を立てて吹く風に、バーバラはぎゅうっと身を縮めた。もちろん部屋の窓はきちんと閉め切られ、部屋の中では火鉢が炊かれ、あんまり乾燥しすぎると喉によくない、ということでその上に水を入れたやかんを置いて快適な空間を作り出しているから、外がどんなに寒くても、別に平気だ。
 平気なはず――なのに、こんこんと何度も咳を繰り返すバーバラの胸は、なんだか外の風のように乱れていた。
 なにがなんだろう、なにがこんなにぐらぐらするんだろう。怖いような、不安なような、寂しいような、どきどきするような。頭がぐらぐらして、咳が出て、体全体がやたら熱いだけなのに、なんでかひどく胸がすうすうして、嵐の船に乗ってる時みたいに体中がふらふら揺れる。
 きゅうっと胸の辺りを握りしめた。なんなんだろう、この感じ。昔に味わったことがあるような、ないような不思議な感覚。苦しいんだけど、辛いんだけどそれだけじゃなくて。なんていうか、世界に自分たった一人しかいなくなっちゃったみたいな感覚。
 寂しいっていうか、切ないっていうか、なんにもしてないのに泣きたくなっちゃうような、布団をぎゅうっと握りしめずにはいられないような感じ。目が勝手に潤んでくるのを抑えるために、ぎゅっと奥歯を噛みしめなければならなかった。
 なんで、こんな。そんなことないって、外に出ればみんないるってわかってるはずなのに――
 ときっと扉を睨みながら堪えていると、唐突にぎぃっと扉が開いてミレーユが部屋の中に入ってきて、バーバラは文字通り飛び上がってベッドの奥に潜り込んだ。
「バーバラ、ご飯食べられる? なにかお腹に入れておいた方がいいと思って、お粥作ったんだけれど――あら、どうしたの、そんなところで」
「あ、あははっ、なんでもないよっ……ありがと、わざわざ……」
 もぞもぞとベッドの奥から這い出てきて、バーバラはミレーユに笑いかけた。ミレーユもにっこりと笑い返し、お粥の入った鍋をサイドテーブルに置き、器に盛った。
「ごめんなさいね、さっきは。具合が悪い人の横で、あんなに騒ぐなんて。みんなのことはきちんと叱っておいたから、安心して?」
「え、あの、ううん、そんなのは別にぜんぜんいいんだけど……」
 そう答えるや、バーバラは自分の胸がすうっと軽くなっていることに気がついた。さっきまでの胸をかきむしりたくなるような寂しさが、ずいぶん薄くなっている。
 あれ、なんでなんだろう、と首を傾げている間に、ミレーユは器に盛ったお粥をふぅふぅと吹いて冷まし、匙に取って差し出してくる。慌てて姿勢を正すと、「楽にしていてくれていいのよ」と笑われた。
「はい、口を開けて。あ〜ん」
「あ〜〜……ん」
 口を開けた中に冷ましたお粥を乗せた匙がそっと入れられる。バーバラはそれをぱくりと舌の上に乗せ、もぐもぐと食んだ。
「……おいしい……」
「そう、よかったわ。鶏がらで出汁を取っているし、お粥っていうよりおじやって言った方がいいのかもしれないけど……これ、おばあちゃんに教わった作り方で作ったのよ」
「え! グランマーズさんに!?」
「ええ」
 あの人ゲテモノ料理以外も作れたんだ……っていうか、もしかしたらこのお粥の中にはあたしの知らないものがいろいろ入ってるのかも……とこわごわお粥を見つめるバーバラに、ミレーユは笑う。
「あら、バーバラったら、もしかしてグランマーズのおばあちゃんは、虫やなにかを使った料理しか作れないと思ってない?」
「え……違うの?」
「もちろん。おばあちゃんがああいう料理を作るのはね、それが一番薬効があるせいなの。働きすぎで元気がなくなっちゃった時にはあんまり強い薬は使えないから、って優しい味の料理もいくつも知ってるのよ」
「へぇ〜……すごいなぁ……」
 やっぱりミレーユはすごい。自分なんかとは比べ物にならないくらい。料理はうまいし、お裁縫も上手だし、ローグの言うこともいつも当たり前みたいにうまく受け流しちゃうし。自分とは全然、違って。
「……っ」
「あら……バーバラ。どうしたの?」
 気遣わしげな表情になって訊ねてくるミレーユに、なんだかたまらなくなってまたベッドの中に潜り込む。布団の奥からぼそぼそと、告げたくもない言葉を告げた。
「もういいよ、ミレーユ。そこに置いておいて。後で食べるから」
 ミレーユは少し黙っていたけど、「そう」と静かに言って立ち上がった。足音の立たない穏やかな足取りで、部屋を出ていく気配がなんとなくわかる。
「ゆっくり体を休めて。お大事にね」
 そう優しい声でそう言ってミレーユが部屋を出ていってから、すぐにバーバラは布団から上体を抜け出させ、ばすばすと布団を叩いた。普段なら絶対しない、物への八つ当たりだ。
 なにやってんのなにやってんのなにやってんの、あたし。あんなこと言いたくなんてなかった、したくなんてなかったのに。なんだか自分が子供みたいになっちゃって、口が勝手にあんな冷たいこと言っちゃって。やだやだやだやだ、あたしこんな悪い子じゃなかったはずなのに。
 泣きそうな気分でばすばす布団を叩く――と、唐突に部屋の扉が開いた。
「おう、バーバラ、大丈夫か? ……って、なにやってんだ、お前?」
「ハッサンさん、きちんとノックをしなくては。バーバラさんは病人ですし、それ以前に女性なのですから。……お加減いかがですか、バーバラさん?」
 チャモロがハッサンの体の後ろから笑顔を向けてくる。ハッサンも怪訝そうな顔をすぐに笑顔に変えて、ずかずかと部屋の中に入ってきた。
「ったく、心配したぜ。チャモロが病人の部屋にあんまり頻々と行くのはよくないとか言うからよー」
「バーバラさんは風邪なのですから、栄養のあるものを取ってゆっくり休んでいるのが一番の薬なのですよ。それを邪魔してはいけないでしょう?」
「へいへい、わかってますって。……んで、お見舞いの品を持ってきたってわけだ」
 ハッサンはそう笑い、手の中の大きなオレンジをひょいとこちらに放った。
「俺がガキの頃は風邪引いたらそれって決まってたんだよ。喉が乾いたら食ってくれ。皮は手で剥けるから心配すんな」
「ハッサン……」
 呆然と呟くと、チャモロがわずかに眉を寄せ、こちらに歩み寄ってくる。
「バーバラさん……なにか、あったのですか?」
「……なにも……ないよ」
「病気に一番よくないのは心と体のストレスを放っておくことです。早く治りたいとお思いなら、よろしければ話していただけませんか。もちろん、私でよければ、ですが……」
「チャモロ……」
 まだ半ば呆然としながらその言葉を聞くや、ぼろん、とバーバラの目からは涙がこぼれ出てしまった。ぼろぼろぽろぽろ、止まらない勢いで涙はこぼれ続ける。
「ば、バーバラ!? どうしたんだ、お前!?」
「ハッサンさん、お静かに。……話してくださいますか?」
「チャモロぉ……」
 バーバラは涙を流しながら、うっくえっくと喉を鳴らしながら、必死に自分の気持ちを説明した。ひどく寂しく苦しかった気持ち、ミレーユに八つ当たりしてしまった情けない気持ち、その他もろもろを。
 バーバラとしてはそれこそ一世一代の告白のつもりだった――が、話を最後まで聞くや、ハッサンは呆れた声で言った。
「なんだお前、そんなこと気にしてたのかよ?」
 バーバラは当然ムッとして言い返す。
「なによ、そんなことって」
「だってお前、病気の時は誰だって心細くなるし心が不安定にもなるだろうがよ。んなの当たり前だろ?」
「え……?」
 ぽかんとしてチャモロの方を向き直ると、チャモロもにっこりと穏やかな笑顔をうかべている。
「そうですね。バーバラさんはただ、身体に心がつられてしまっただけだと思いますよ。体の具合が悪い時は心も調子がよくなくなることが多いですから。気持ちが落ち込んだり、ひどく人恋しくなったり、もの寂しくなったり……それは、ごくごく当たり前のことです」
「……そうなんだ」
 半ば呆然と呟いたバーバラに、ハッサンが笑って言う。
「しょうがねぇなぁ、いい歳して。お前風邪引いたことなかったのか?」
「……わかんないよ。そんなの」
「へ?」
「あたし……記憶、ないもん」
「あ……」
 忘れてた、という顔でおろおろとチャモロを見るハッサン。なんで忘れてるんですか、という顔で困った表情になるチャモロ。
 そんな二人の前で、バーバラは顔をうつむけた。また瞳がじんわりと潤んでくるのが感じられる。
 バーバラには昔の記憶がない。一番古い記憶といえば、ローグたちと会う少し前、街の中を半透明の、誰にも見えない姿で一人歩いているというものだ。
 それからしばらくは不安な気持ちを抱えたままあちらこちらをうろうろして、ラーの鏡の噂を聞き月鏡の塔にやってきた。そこでローグとハッサンとミレーユに出会い、仲間として旅をすることになって、今では記憶がないことなんてもうほとんどどうでもよくなっているけれど(自分の素性は一応わかったわけだし)。
 こんな時に、思い知る。自分には寄る辺となるものがないこと。みんなだったら当然のように持っている人生の記憶が、ごっそり抜け落ちてしまっていること。
「あ、あのな、バーバラ……」
「いい。……わかってるから、なんでもないから。だから、ちょっと……ほっといて」
「や、ほっとけっつわれてもな……」
「……バーバラさん……」
 ハッサンに困った声を出されても、チャモロに気遣わしげに声をかけられても、むしろだからこそよけいに顔が上げられない。情けなくて悔しくてどんどんどんどん気持ちが落ち込む――と、唐突にばん、と部屋の扉が蹴られたような勢いで開けられた。
「っ……え、テリー……?」
 驚いて顔を上げると、ずかずかと部屋の中に入ってきたテリーと目が合う。え、なんでテリーが、と思う間もなく、苛立たしげに顔をしかめたテリーにばっさりと言われた。
「馬鹿か、お前」
「っ……」
「な、テリーさん!」
「記憶がないってことは余計なもん背負わないですんでるってことだろ。これからどうとでも記憶作れるんだ、むしろ運がいいと俺は思うね」
「そ、んなこと、ないもんっ。あたしは……」
「思い出したくもない記憶なんぞ世の中には腐るほどあるんだよ。いい加減お前も少しはそのくらい理解したらどうだ」
「テリーさん、病人にそのような――」
 チャモロが割って入ってくれたが、バーバラはびくんと体を震わせていた。そうだ、テリーは、思い出したくない記憶がすごくたくさんあるんだ。お姉さんを、ミレーユを奪われて、傷つけられて、ずっと長いことたった一人で、最後には魔王の一人に。
「……ごめん、なさい……」
 しゅーん、と自然に小さくなってしまう。あたしって駄目だなぁ、と思うとさらにどんどん気分が落ち込んできた。それに苛立ったのか、テリーは舌打ちをしてみせる。
「くだらない気を遣ってるんじゃない」
「うん……ほんとに、ごめん……」
「だ、からっ! ……具合が悪い時によけいなこと考えてぐだぐだ落ち込むなんて馬鹿な真似するな、って言ってるんだ」
「うん……」
 何度も言われてますますしゅーんとなっていると、ぶはっ、とハッサンが突然噴き出した。
「テリー、お前わかりやすいなぁ! いや、お前ってホント、時々可愛い奴だわ」
「なっ……!?」
「え……あの、すいません、ハッサンさん、それはどういう……」
「なんだ、わかんねぇか、チャモロ? 要するにさ、テリーはバーバラを励まそうとしてたんだよ。素直に励ますのが恥ずかしいのか単に口下手なのかは知らねえけどさ、要は具合が悪いんだからぐじゃぐじゃ考えるなよ、俺たちがついてるぜ、って言いたかったんだろ」
「え……」
「なっ……俺は別にそこまで言いたかったわけじゃないっ!」
「そ、そうだったのですか……すいません、テリーさん。あなたがそのような深い心遣いをしてらっしゃることに気づかず、失礼なことを申しました私をどうかお許し」
「だからそんな感動したみたいな顔でこっちを見るな! 俺は別にっ……」
「こんにちはー! バーバラさん、お見舞いに来ましたよー! これはお見舞いのチーズケーキです! あ、食べにくかったら私が食べますから心配しないでくださいね?」
「……いきなり出てきてすっとぼけたこと抜かしてんじゃないアモスぅぅぅ!」
「アモスさん、病人にチーズケーキを食べさせようとするのはよろしくないかと思いますよ。病人に必要な栄養素はなによりもまず」
「チャモロ、とりあえずそこよりも先に突っ込むとこいろいろあると思うぜー?」
 いきなりアモスも乱入し、一気に騒がしくなった部屋の中。しばらくぽかんとしていたバーバラは、思わずぷっと吹き出した。
「ぷっ……あはっ。あははっ、あははははっ……えほっ、げほっ」
「! なにやってるんだお前はっ」
「おいおい、大丈夫かよバーバラ?」
「バーバラさん、ゆっくり呼吸をしてみてください。はい、ゆっくり吸って、ゆっくり吐いて。それが終わったらお水を飲んでくださいね」
「バーバラさん、ヒッヒッフーですよ、ヒッヒッフー!」
「……それはいろんな意味で間違ってると思うぜ、アモス?」
 けほけほと咳き込んでチャモロにそっと背中を撫でられて、少しずつ呼吸を落ち着かせてからゆっくりと水を飲む。それでようやく、バーバラは微笑むことができた。
「ありがとね、みんな」
 端的な礼の言葉に、ハッサンは豪快な笑顔で、チャモロは穏やかに笑んで、アモスはいつものごとく脳天気に、テリーはわずかに視線を逸らしながら肩をすくめて応えた。
「おう」
「気になさらないでください」
「そうですとも、仲間じゃないですか!」
「……フン」
「ミレーユにもお礼言わなくっちゃね。テリー、言っておいてくれる?」
「……ああ。いいからお前はその粥食って薬飲んで寝ろ。チャモロ、薬調合してきたんだろ?」
「はい。解熱と、よく眠れるようになるお薬を処方してきました」
「どうする、一人で食うか? 俺らいた方がいいか?」
「うん……できれば、いてくれた方が嬉しい、かな」
「任せてください、気分が明るくなるように歌を歌いましょうか?」
「いいからお前は黙ってろ」
 くすくす笑いながら、バーバラはお粥をゆっくりと食べ、薬を飲んだ。優しい仲間たちに、いつものように見守られながら。

 しゃり、しゃりり。
 静かな空間にひそやかに響く音に、バーバラはゆっくりと目を開けた。
 もう陽は沈んでしまったようで、部屋の中は暗くなっている。扉脇のランプに火が灯り、ぼんやりと周囲を照らし出しているだけだ。頭の上にはひどく冷たい革袋が載っている、中身は冷たい水のようだった。ゆっくりと上体を起こして、頭から転げ落ちたそれをつかんでベッドの脇に置く。
 あの音はどこから聞こえてきたんだろう、とぼんやりしていると、声がかかった。
「起きたか」
「え……ローグ?」
「ああ」
 枕元の椅子からそう答えたのはローグだった。いつも通りの偉そうな口調。だが、しゃりしゃりと音が立っているのはその手元からだと気づき、バーバラは目を丸くした。
「なに……それ」
「見りゃわかるだろが。林檎だ」
「えと、林檎はわかるんだけど、なんでローグが林檎剥いてるの? しかも……それ、ウサギ? だよね?」
 ローグの手元で剥かれている林檎は、ただ剥かれているだけではなく、きれいに八等分されて、さらに皮がちょうど耳のように立っていた。これは確かウサギリンゴといったはず。
 そんなことを話している間にも、ローグはてきぱきと皮を剥いてさらにウサギリンゴを増やしつつ、肩をすくめてみせる。
「風邪を引いた時の林檎だぞ? ウサギリンゴにしなくてどうするってんだ」
「そ、そういうもんなの?」
「少なくとも俺のルールではそうなってる。……食えるか?」
「あ、うん、ほしい。起き抜けだから喉渇いちゃって」
「よし」
 真剣な顔でうなずくや、ローグは小さなフォークでウサギリンゴを一個取り、ひょいとバーバラに突き出してきた。
「あ〜ん」
「………え、と」
 真剣な顔であ〜んと言われ、バーバラは固まった。これ本気で言ってるんだろうか。それとも冗談? だったら乗った方がいいのかな、っていうかそれ以前に!
「な、なんか、あ〜んって、恥ずかしい、んだけど……」
「他に誰も見てないぞ」
「み、見てなくても恥ずかしいよぉ……」
「いいか、風邪を引いて、起き抜けにウサギリンゴなんだぞ。この状況であ〜んとやらないなんぞどう考えても世界の法則に逆らってるだろが!」
「そ、そういう、もん?」
「そういうもんだ。ほら、あ〜ん」
「う。あ、あ〜ん……」
 ぱく、とバーバラはウサギリンゴを咥えた。皮の部分を摘まんで剥がし、しゃりしゃりと咀嚼する。
 渇いた喉に林檎の甘酸っぱい果汁は心地よかったが、それとこれとは別問題で、やっぱりすごく恥ずかしい。自分の顔が真っ赤になっているのが、バーバラにもわかった。暗いランプの明かりとはいえ、ローグにもその顔色の赤さはわかったのだろう、くくっと喉の奥で意地の悪い笑い声を立てる。
「あ、あーっ! 笑ったー! 人にやんなきゃダメとか言っといてー!」
「やんなきゃダメとは言ってない、世界の法則に逆らってると言っただけだ。……ま、要は俺ルールだな」
「お、俺ルールってなにー!」
「俺の決めたことは俺の世界では絶対法則なんだから、世界の法則には違いないだろが。ほら、あ〜ん」
「う……う、あ、あ〜ん」
 怒りながらもローグにウサギリンゴを突き出されると、ついつい素直に口を開けてしまう。またもぐもぐ咀嚼しつつ、恥ずかしさにちょっとぶっきらぼうになってしまいながら訊ねた。
「……俺ルールってことは、やっぱりローグも、ウサギリンゴあ〜んとか、されてたの? 風邪の、時」
「……どっちの時だ?」
「へ? どっちって……」
「上の記憶と下の記憶。どっちでの時だ?」
 あ、とバーバラは思わず硬直してしまった。そうだ、ローグは夢の世界での記憶と現実の世界での記憶を両方持っているんだ。ハッサンたちと違って、どちらも現実の記憶として。
 なのにそんなことを訊ねるなんて、ものすごく無神経じゃないだろうか。しゅんとなって、バーバラは謝った。
「ごめんね、ローグ……」
「なんで謝る」
「だって……」
「……ま、お前のそういう、すぐに感情移入するとこは嫌いじゃないけどな。今回は本気で、別に謝ることじゃないぞ。お前だって自分に風邪引いた記憶がないとかで落ち込んでたんだろ?」
「う……あ、あれはぁっ」
「あれは?」
「……普段だったら、別に、落ち込んでるとこじゃなかったもん。風邪引いて、なんか不安になっちゃって、八つ当たりしちゃっただけでさ……」
 うつむいてぽそぽそと言うと、ふいに頭をぽんぽんと叩かれた。ぱっと顔を上げると、ローグはなぜか楽しげに笑っている。
「そのくらいなら許容範囲内だろ。普段より甘やかされるのは病人の特権だ」
「……でもさ」
「記憶があってもなくても、苦しい時は苦しいんだ。生きてんだから苦しい気持ちにならない方がおかしい。そういう時に、親しい奴に助けを求めるのは人生の当たり前のイベントのひとつだろが」
「………うん」
「それに、こうしてめでたく人生の初風邪体験をすませたんだ。今度からは頼り方も八つ当たりの加減もわかるだろ」
「や、八つ当たりとかはあんまりしたくないんだけど……」
「どんなものであれ、なにかを体験して学習するってのは悪くないだろ? ってことさ」
「う……うん」
 その言葉には素直にうなずく。仲間たちのしてくれたこと、心遣い、そういうものが嬉しかったし、もし今度仲間の誰かが風邪を引いたらお返しにしてあげられることもわかった。
 記憶がないっていうのは悪いことばかりじゃない。それは、バーバラ自身よくわかっていたのだ。
 そんな気持ちを言葉にして形作ってくれたのは、なんだか、嬉しい。
「ルーキーもこっそり頑張ってたんだぞ。お前のその氷嚢、作ったのはルーキーだからな」
「え? ……えぇっ!?」
「輝く息を調節して冷たーい氷作ってな。それをうまいこと革袋の中に入れて。頭を冷やしてやってくれって。表情は変わってなかったけど、心配そうにお前のこと見てたぞ」
「そう、なんだ……うん、ルーキーにもお礼言っとく……」
「よし。……で、バーバラ?」
「なに」
「結局、どいつの看病が一番だった?」
 そう言ってにやりと笑ってみせるローグに、バーバラはむぅっと唇を尖らせて枕を投げつけたが、ローグはあっさりそれを受け止めて立ち上がった。
「そのくらい元気があるなら大丈夫そうだな。俺は隣の部屋にいるから、なにかあったら壁を叩くか、そこの鈴を鳴らして呼べ。すぐ来るからな」
「あ、うん……」
「じゃあな。林檎余ったら、残しといていいから」
 言って軽く手を振り、部屋を出ていく。ふぅ、とバーバラは思わず息をついた。
 ほんとにもう、なんでローグはいっつもああなんだろう。いつでもどこでも誰にでも自分のペース崩さないっていうか、他人の気持ち無視するっていうか。あたしの看病で競争するとか普通しないよ。そりゃ、みんなが争ってあたしの面倒見てくれたの、嬉しかったけど……
 そこでバーバラはあ、と思わず口を開いて固まってしまった。突拍子もない考えが頭に浮かんでしまったのだ。
 もしかして。まさかとは思うけど、ローグがあんなこと言い出したのって、あたしに、寂しい思いさせないため、だったり?
 しばらくぽかんとしてから、思わずぷっと吹き出し、それからきれいにウサギの形に切られた林檎をゆっくりと口に含んだ。本当にそうかどうかはわからないけど、でもそういう心遣いがあったらって思うと、なんだか嬉しい。
 だからそれでいいや、と思ったのだ。風邪の時は、ぐじゃぐじゃしょうもないこと考えるのには向いてないってよくわかったから。

 翌日。バーバラの風邪は、見事に完治した。
 が、さっそく旅に再出発、というわけにはいかなかった。
「ちくしょう……俺今まで風邪なんぞガキの頃にちょっとしか引いたことなかったのによぉ……げほ、えほっ」
「心配するな、そんなもん大した自慢にゃならん。ほら、水」
「けほ、けほ……ごめんなさいね、三人とも。迷惑をかけてしまって……けほ」
「もー、ミレーユってばそんなこと気にしないの! 立場が逆だったらミレーユだってあたしたちのこと助けてくれたでしょ?」
「私としたことが……医者の不養生とはこのことですね。本当に……申し訳ない……けほ、げほっ」
「気にするな。普段しっかりしてるお前の弱ってる姿というのは、実際見ててけっこうぐっとくるしな」
「いやー、ローグさん、相変わらず好みがきわどいですねー……ぐえっほぐえっほっ」
「ほら、もう! アモスもちゃんと寝てなきゃ駄目でしょ?」
「……俺は、大丈夫だ。このくらい、慣れて……げほ、けほっ」
「ああん? それが大丈夫な顔か、あぁ? つまらん意地張ってねぇでとっとと休んで治せ!」
「プルルルップリッププップルリンップリルルリッ」
 どこをどう巡ったか、ローグとバーバラとルーキー以外の全員が見事に風邪を引きこんでしまったのだ。ひょうたん島に宿を取っていたので全員続けてゆっくり休むことはできたものの、当然ながら旅立ちは中止。バーバラはローグやルーキーと協力し、大わらわでみんなの面倒を見ることになった。
 まぁ、そのおかげで昨日学んだ風邪引きの看病の仕方というのを実地で身につけられたといえばそうなのだが。病人の面倒を見るのがどれだけ大変かというのも、よーくわかったし。
 ただ、ひどく奇妙な風邪だなぁ、とは思ったのは確かだった。そんなに簡単にうつるものなんだろうか、風邪って。みんな昨日は普通に元気だったのに。しかもなんでローグだけなんともないんだろう?
 けれど、五人もの人間の看病をする忙しさに取り紛れて、その疑問もすぐに忘れてしまったのだけれども。

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