炉端にて迎えたいバレンタイン
「知っているか。来週の金曜日――二月十四日は、バレンタインだ」
『は?』
 デスタムーア戦の前のレベル上げの日々の中、ひょうたん島で夕食を終え、居間でそれぞれがくつろいでいる時に、唐突にローグが言った言葉に、みんな揃って首を傾げた。
 バレンタイン? バレンタインって――なんだ?
「バレンタインというのはな、チョコレート製作業者の陰謀の日であり、菓子屋が一年で二番目に忙しい日であり、乙女の夢と男の妄想が入り混じる決戦の日だ」
『………はぁ』
「要するにだ、いつも世話になっている相手や好きな相手に、チョコレートやら菓子やら花束やら小物やらを送って、感謝や好意を伝える日なわけだな」
「なにが言いたいんだお前は」
 眉を寄せてテリーが言うと、ローグはふん、といつものごとく死ぬほど偉そうに鼻を鳴らしてみせた。
「ここまで言われてわからんとは……さすがぼっち野郎、察しが悪いな」
「誰がぼっち野郎だ偉そうに抜かすなそもそも貴様に言われる筋合いはないっ!」
「それはともかく。要は、来週の金曜日には、全員俺に贈り物をするように、ということだ」
『………はぁっ!?』
「え、贈り物って……ローグに? チョコレートとかお菓子とか、欲しいの、ローグ?」
「欲しくない、とは言わんが……どちらかというと単調な日々に潤いを与えよう、という試みだな。早い話がイベント企画だ。俺の方からも全員に贈り物をするから、お前らも俺に贈り物をしてくれ。もちろん他の相手に贈るのもアリだ。ここのところひたすらレベル上げの毎日だったし、これからもしばらくはレベル上げの毎日なわけだから、そういうイベントがあると生活に華やぎが生まれるだろう?」
「うーん……そう言われてみれば、そうかも……」
「馬鹿馬鹿しい。俺はやらないぞ。お前の勝手な都合に人をつきあわせるな」
 テリーはふん、と冷たく鼻を鳴らして立ち上がる――そこに、ローグの楽しげな声がかけられた。
「ほう。逃げるのか?」
「……なんだと?」
「勝負から逃げるのか、と言った。このイベントはある意味勝負だからな。自慢じゃないが、俺はお前が心底喜ぶような贈り物をしてやる自信があるぞ。お前は俺を喜ばせることはできない、と認めるわけか? 俺はお前を理解しているのに、お前には俺が理解できない、と?」
「………っ!」
「まぁ、これは単なるイベントだからな。お前がやらないというなら無理強いはしないが……お前は俺を叩きのめす機会を求めていると思っていたんだが?」
「……っ……」
「んー、まぁ自由参加のイベントだっていうなら、参加してみるのも悪くねぇかもな。要は仲間同士で贈り物しようってことだろ?」
「そうだな。できるだけ相手に喜ばれるようなものを贈るように。ちなみに俺は俺に一番嬉しい物を贈ってくれた相手に、一番ゴージャスなお返しをする予定だ」
「へ、お返しとかすんのか?」
「俺はな。まぁバレンタインというのもいろいろだが、一部地域ではバレンタインの一ヶ月後、三月十四日をホワイトデーとしてお返しをする習慣があるんだ。俺はその習慣にのっかってみようと思う」
「ふぅん……それも悪くないか。ま、ここんとこレベル上げばっかで目新しいことなかったのも確かだしな」
「そういうことだ。バレンタインデー前日は休日にするからな、しっかり準備しとけよ」

「……って、言われてもさぁ……」
 バーバラはミレーユの部屋で、ベッドに腰掛けてぱたぱたと足を揺らした。
「突然そんなこと言われても、困っちゃうっていうか。ぜんぜん知らないお祭りに、贈り物しろって言われても困っちゃうっていうか。ローグ、なんであんなこと言い出したんだろうね?」
「そうねぇ……」
 ミレーユは繕い物をしながら、考え深げに首を傾げてみせる。
「私は、ローグは単に思い出づくりをしようとしているのじゃないかと思うのだけれど」
「……思い出、づくり?」
「ええ。私もバレンタインというお祭りについては聞いたことがあるのだけれど……あれは確か、本来、男女が想いを告げるために使われるお祭りだったと思うの。場所によって違うというのも確かだったと思うけれど」
「おっ……想いを、告げるぅ?」
「ええ」
 素っ頓狂な声を出してしまったバーバラにも、ミレーユは穏やかに平然と応対してみせる。そんないつもながら羨ましくなるくらいの大人の女っぷりを見せつけながら、ミレーユは考えるように頬に人差し指を当てながら言った。
「確か……豊年を祈願するお祭りの前日に、法で結婚を禁止された人々をこっそりと結婚させてあげた司祭さまが処刑されたっていうことがあって、その司祭さまを祭った祭日がバレンタインだったと思うわ。昔のことで、起源や祭られるようになった経緯も定かじゃないから、お祭りとみなされなくなった地域もあるそうだけれど……でも、一般的な慣習としては男女が、特にチョコレートの場合は女性から男性へ想いを告げるための日だったと思うの。単に感謝を表すための慣習もあったそうだけれど、一般的な認識としてはね」
「だっ……じょっ……えぇ!?」
 なにそれなにそれあたし聞いてなーい! と叫びたい――が、ミレーユの前でさすがにそんなみっともない真似はできない。が、かといって気の利いたことを言うこともできずに口をぱくぱくとさせるバーバラに、ミレーユは優しく微笑んだ。
「想いの形がどんなものであれ……大切な人と想いを確かめあった思い出というのは、決して悪いものじゃないと思うわ。どういう風に確かめるかは、バーバラ次第だけれど……後悔しないように、頑張ってね」
 そう言ってにっこり笑うミレーユに、反論するのも筋違いに思えて、バーバラはうぅー、と唸りながら引き下がらざるをえなかった。

「うー……贈り物、かぁ……」
 バーバラはうんうん唸りながら、ひょうたん島の廊下を歩く。来週の金曜日が期限。時間の余裕がありそうに見えてあんまりない。自分たちは普段、『今日は休日にする』とローグが言った日以外は毎日朝から晩まで(日によっては早めに終えることもあるのだが)魔物を狩りまくっている生活を送っているからだ。
 いや、もちろん別に必ずローグになにかプレゼントをしなくちゃいけないというわけじゃないし、想いを告げるとか、そんな気持ちあるわけじゃぜんぜん……それほど……まったくないって言ったら言い過ぎかもしれないけど……とにかく、そういう気持ちで贈るぞ! って気合入ってるわけじゃないけど。でもあんな風に贈り物をしろって言われちゃった以上、なんにもしないのもそれこそ負けたみたいな感じで腹立つし。世話になった人に贈り物をするっていうのは、実際、悪いことじゃないって思うのも確かだし。
 そんな風に自分に言い聞かせてとりあえずプレゼントをなににするか考えていたのだが、バーバラははかばかしい考えが思いつかなかった。これまでに何度か仲間の誕生日は祝ったことがあるが、そういう時にはいつも自然にいつの間にか贈るものを思いついていた。というか、そういう時はいつもふんふん鼻歌を歌いながら街を歩いて、楽しくプレゼントを選ぶことができていたのに、今回はなぜかそうする気になれない。というか、楽しく悩む気分ではない。
 これはたぶん、ローグに与えられたプレッシャーが利いているのだろう。宿題みたいな気分になっちゃうというか。ちゃんとしないと笑われちゃうんじゃないか、みたいなことを考えちゃうというか。……喜んでもらえないのとかは、嫌だなぁ、っていうか……
 そんな言葉が胸の中に浮かび、バーバラはぷるぷると首を振った。いやいやなに考えてるのそういう問題じゃないよあたし、あたしは別にそんなローグに喜んでもらいたいみたいに思ってるわけじゃないし、いやそりゃもちろん喜ばれないよりは喜んでもらえた方がいいけどそれは普通に人としてそう思うだけでローグだからどうこうってわけじゃ――
 どんっ。ふいに、バーバラの体は大きな壁にぶつかった。
「っ、と! どうしたバーバラ、前見て歩かないと危ねぇぞ?」
「わ! ハッサン……」
 ハッサンと正面衝突してしまったのだと気づき、バーバラは照れ笑いをしながら頭を下げる。実際ハッサンは間近に立つと向こうが見えないほどの巨体なので、こういうことは宿屋などではよくあるのだ。
「ごめんね、ちゃんと前見てなかった。ちょっと考え事してたもんだから」
「考え事? ……ああ、ローグが言ってた、バレンタインなんちゃらとかいうあれか」
「うっ……そうだけどさ。あたし、そんなにわかりやすい?」
「いや、まぁ、そいつは言わぬが華ってやつじゃねぇか? ……そんなに悩んでるのか? なんだったら相談に乗ってやるぜ?」
「え……うーん……じゃあ、頼める?」
 いつもながら男気があるというか、親切なハッサンの申し出にバーバラはうなずく。正直、誰かに相談したいと思っていたのだ。
「あたしさぁ、正直なところ、なにを贈ればいいかわかんないんだよね。いいプレゼントが思いつかなくってさ……」
「へぇ? 珍しいな。お前、俺の時も、チャモロの時も、ミレーユの時もテリーの時も楽しそーに選んでたのにな」
「う、そうなんだけど。なんか、こういう風に、突然意味わかんないのにいきなり贈り物しろ、って言われちゃうととっかかりがつかめないっていうかさ……」
「ふーん。まぁ、そういうもんなのかもしれねぇな」
「ハッサンは、なんかこれっていう贈り物思いついた?」
「俺? 俺はいつもと同じだよ、木工細工の小物。全員分のそれぞれ違う細工を考えるのはちっと骨だけどな」
「あー……そっかぁ、ハッサンいっつもすごいきれいな小物贈ってくれてたもんね……」
 サンマリーノの大工の息子であるハッサンは、木工細工の腕も大したものなのだ。これまでの仲間の誕生日にも、いつも目を瞠るくらい手の込んだ細工をプレゼントしてくれた。あれならみんな絶対に喜んでくれる――けれど、そういう細かい手作業が苦手なバーバラにとっては、まったく参考にならない意見だ。
「いいなー、ハッサンはそういう特技があって。あたしなんかそういう手作業とかすごく苦手で、いまだに料理だっておいしく作れないのに」
「まぁこんなもんは結局慣れだって、ある程度のとこまではな。バーバラだって旅始めた頃からは考えられねぇくらい上達してると思うぜ、料理」
「ほ、ほんと!?」
「ほんとほんと。あ、なんならチョコレート作り、一緒にやるか?」
「へ? ちょこれーと、作り……?」
「あれ? バーバラ聞いてなかったのか? いやさ、ローグがこのバレンタインって祭りはチョコレートを贈るもんだ、みたいなこと言ってただろ。だから、チャモロとかアモスとかはチョコレートを贈ることにしたんだってよ。んで、せっかくだから手づくりしましょうってアモスが言い出して、けどチョコレートの作り方なんて誰も知らなかったから、ミレーユに聞いたらじゃあみんなで一緒にチョコレート作りましょうか、ってことになって……」
「ええぇ!?」
 バーバラは思わず目をかっ開いて絶叫した。
「なにそれ、全然聞いてなーい!」
「そうなのか? いやー、ローグも来るっていうからてっきり全員聞いてるもんだと」
「……ええぇぇぇ!?」

「さて、じゃあ、みんな準備の方はいいかしら?」
「はーい!」
「問題ありません」
「こっちもいいぜー」
「ギルルン……私も……いい」
「……なんでドランゴまでいるんだ」
「は? そんなもん俺が呼んだからに決まってるだろが。ドランゴには愛を込めてチョコレートを贈りたい相手がいるんだぞ? 呼ばんでどうする。ルーキーたちはスライム同士で楽しむと言っていたしな」
「チッ……いつもながら嫌がらせには労力を惜しまない奴だぜ」
「ほう? つまりお前はこのドランゴの健気な心が嫌がらせでしかないと」
「べっ、別にそこまでは言ってないだろうが!」
「はい、騒がない。あんまり騒いでるとキッチンから追い出すわよ?」
「わかった、すまなかった。話を進めてくれ」
「……第一なんで俺までこんなところにいるんだ……チョコレートなんて買えばいいじゃないか、くそ」
「テリー? なにか言ったかしら?」
「……別に」
「ギルルゥ……テリー、私、チョコ、手作りしたい……」
「……いや……ああ、ありがとう、ドランゴ……」
 そんな風にいつものごとく騒ぐ仲間たちの横で、バーバラはこっそりため息をついていた。いや、別に悪いわけじゃないんだけど。おかしくなんてないけど。なんていうか、ローグも一緒にチョコレート作る、って………なんていうか、秘密っぽさみたいなのが全然なくって、なんか……なんか、なんかなぁ、なんて思えてしまったのだ。
「バーバラ? いいかしら?」
「あっ、うんっ、大丈夫だよっ!」
 仲間たちがミレーユの前に、エプロンを装備して顔を揃える。今日はハッサンも生徒だ。チョコレートを作ったことがある経験の持ち主が、仲間内にミレーユしかいなかったからだ。
 ミレーユはそんな仲間たちを微笑みながら見回して、軽い口調で言う。
「さて、じゃあまずこれからチョコレートを手づくりするわけだけど……最初に言っておくことがあるの」
「え? なになに?」
「まず、家庭でのチョコレート作りは、基本的に『もうできているチョコレートを溶かして固める』だけなのよ」
『………はぁ!?』
 思わずといったように仲間たちが驚く。バーバラも実際驚いた。
「え、それって……手作りって言えないんじゃないの?」
「そう思うでしょう? でも、これには理由があるの。まず、チョコレートを材料から作ろうと思ったら、業務用の機械が絶対に必要になる、っていうこと」
「へ? キカイ……って?」
「チョコレートの原料はカカオ豆という木の実の中の種なんだけれど、発酵させたりふるいにかけた後で砕いてまたふるいにかけたり、そうしてできたカカオニブを焙煎したりした後に、磨砕機で細かくすり潰さなくてはならないの。このすり潰すという作業が、専用の機械を使わないと絶対に無理なのよ。小麦粉の半分以下、というくらい小さくしなければまともなチョコレートにはならないんですもの」
「え、そんなに!?」
「それでは……さすがにすり鉢や臼では難しいでしょうね」
「……だけど、それじゃあチョコレートの手作りなんて意味がないんじゃないのか。どうやっても市販のもの以下にしかならないだろう?」
 テリーの指摘に、ミレーユは微笑みながら軽く指を振って否定してみせる。
「そんなことはないわ。チョコレートを作るのには、テンパリングの作業もとても重要なのよ」
「てんぱ……りんぐ?」
「ええ、チョコレートをおいしく作るための準備、になるのかしら。とにかく、一度やってみましょう」
 というわけで、仲間たち全員でまずはテンパリングというものをやってみることになった。
「まず、チョコレートを細かく刻む。熱を伝わりやすくさせるためにね」
「……こうか?」
「そう、上手よ。さすがテリー、刃物の扱いがうまいわね。……それをボールに入れて、湯煎する。お湯の温度は五十度くらいがいいとされているわね」
「ほほう、五十度、ですか……普通に火にかけるんじゃダメなんですね?」
「そうね、風味が逃げるし、焦げるし、滑らかに溶けてくれないからテンパリングをする意味がないわ。へらを使って、ゆっくり丁寧に溶かしていきましょう」
「む、と、む……け、けっこう大変だね、これ」
「おいしいものを作ろうとすれば、手間はそれなりにかかるわよ。……チョコの温度が四十度くらいになったら、鍋から外して、氷水の入ったボウルにチョコを溶かしたボウルを入れて、チョコを冷やすの。冷やしながらもへらでかき混ぜて、ゆっくりと……だいたい二十六度くらいが普通のチョコレートの適温ね」
「いや、だいたいとかいう数字じゃないだろ、それ……手間かかるなぁ、マジで」
「お菓子作りというのはたいていこんなものよ。はい、じゃあ二十六度まで冷えたら、五十度以下のお湯でまた湯煎して、チョコレートの温度を二十九度から三十度くらいにまで保つようにして……それができたら、チョコレートを使っていいわ」
「……はい? あの、チョコレートを使う、というのは……?」
「チョコレートは、ただそのまま食べるだけのものじゃないでしょう? ケーキに使ったり、クッキーに使ったり、パイに使ったり。ムースやプリンなんていうのもあるわね。そのまま食べるものでも、アーモンドをコーティングしてみたり、生クリームと混ぜて口どけをよくしてみたり、それにコーティングチョコを絡めてトリュフにしてみたり、いろいろあるわ。そういう風にいろいろ使えるのがチョコの魅力ですもの。……まぁ、チョコレートメインのお菓子でなければ、テンパリングが必要ないものもあるけれどね」
「うー……なんか、詐欺に遭ったみたいな気分……」
「ギルゥ……」
「まぁ、テンパリングはチョコレートを使う時の基本らしいからな。覚えておくにこしたことはないだろう。……そうだ、ミレーユ。一度このまま冷やして固めて食べてみてもいいか? 基本の味を知っておきたい」
「そうね、いいんじゃないかしら。じゃあ、型に流し込んで固めてみましょう。常温で、固まるまで待ってから型から外すのよ」
「え、それじゃあ暑い日とかに作ったら固まらないんじゃない?」
「ええ、チョコレートは温度が重要だから、暑い日とかには室温を整えないと作れないわね」
「うお、型からはみ出ちまった! やっぱこういう細かい作業は苦手だぜ」
「あんな見事な細工を作れる男がなにをぬかす。……ふん、ぬ……むっ」
「しっかり苦戦しておきながらその台詞か。いつもながら偉そうな素振りは無駄に天下一品だな」
「テリーさん、食べ物を扱っている時に喧嘩するようなことは言わないでくださいね。……でも、本当に、これはなかなか……きれいに型に納まりませんね」
「ギルルン……お菓子作り、難しい……」
「……うーん、やっぱり私としては、こういうことは女性にやってほしいですね! 純白のエプロンをつけて台所に立つ女の人には神がかった美しさがありますし!」
「なにそれー、差別じゃん! 女の子だってなんにもしないでおいしいもの食べたい時だってあるんだからね!」
「バーバラ、その意見はしごくもっともなものではあるが、威張れることじゃまったくないからな?」
 そんな風にわいわい騒ぎながらチョコレートを固め、他にもいくつかチョコレートやチョコレート菓子を試作しては楽しく試食して、その日はあっさり終わってしまった。驚いて、こっそり「お菓子、残さないで全部食べちゃっていいの?」とローグに訊ねると、ローグは肩をすくめて言ってくる。
「プレゼントに微塵のサプライズもないのは興醒めすぎるだろう。単に今日はチョコレート菓子の基本を教えてもらっただけだ。まともに菓子を作りたいならそれぞれが本を見ながら自力で作るのが当たり前だからな」
「え、あ、そうなんだ……」
 ちょっとほっとしたような――と一瞬思って、次の瞬間一気に顔から血の気が引いた。つまり、ローグの言葉通りだと、バーバラがチョコレート菓子を贈る時は、自力で、ミレーユの力を借りずにお菓子を作らなくてはならない、ということに気づいたからだ。

「うぅ……できた、は、できたけど………」
 一応自分なりにラッピングしたチョコ菓子たちを見つめ、バーバラは思わず眉間に皺を寄せた。
 一応、作ることはできた。自分なりに本を見ながら頑張って、形はそれなりに整えられた、と思う。
 ただ、肝心の味に、どうにも自信が持てない。せっかく作ったんだから、と言い訳しつつワクワクしながら味見したら、一応チョコレートの味はしたんだけれど、いまひとつこう、『おいしいっ!』って感じじゃないというか………。
 これをこのまま渡しちゃっていいんだろうか。なんていうか、この程度の想いなのか、とか思われちゃわない? あっ、そういえばハッサンは小物も一緒に渡すとか言ってたのにそういうチョコと一緒に渡すプレゼントとか全然用意してない! だ、だってチョコレートのお菓子作るだけでいっぱいいっぱいだったから……でもこのまま渡しちゃったら……でもでももう十四日だし、今からプレゼントを探すのは……!
 そんな風にうんうん唸りながら考えて、結局このまま渡すことにして立ち上がる。これ贈られても喜んでもらえないかもなー、とは思うんだけどせっかく作ったんだもん。頑張って作ったのに、渡せないとか、すごくもったいないし、嫌だなぁって思うし。
 そんな風に言い訳しつつも、立ち上がって部屋を出た。昨日台所を使っていたのはバーバラ一人だったので、他の人たちはチョコレートは贈らないのかもしれない。ならばなおさら送らなければ嘘だろう。そう自分に言い聞かせつつ、たぶんひょうたん島の中にいるだろう仲間たちを探す。
 まずはいつも食事の時などに使う、かつては宴会場として使われていただだっぴろい地上部分に出る。が、そこにいたのはチャモロだけだった。足音を聞きつけたのだろう、視線を落としていた本から上げてこちらを向き、にこっと微笑む。
「え? チャモロ……? どしたの、こんなとこで」
「いえ、ここならばみなさんお通りになるだろうと思ったので。バレンタインの贈り物をするには最適ではないかと思いまして」
「え」
「バーバラさん、いつもお世話になっております。心ばかりの品ですが、どうぞお納めください」
 そう言ってすっと差し出してきたのは、小さな紙箱だった。「へ、え、お……?」とわけがわからずわずかに挙動不審になってしまったバーバラに、チャモロは苦笑する。
「いえ、あの、ローグさんの言っていたばれんたいん、ですか? の、贈り物なのですが。よろしければ受け取っていただけませんか?」
「へ、え、あ、ああ、ああ! うんうんわかったごめんっ、なんていうか、その、チャモロがあたしに、くれるとは思ってなかったから……」
「いえ、そんな。私は曲がりなりにもゲントの僧です、そこまで不義理な人間ではありませんよ」
「あはは、うん、そうだよねー……」
 自分の中ではミレーユの女性から男性へ∞想いを告げる≠ニいう言葉の印象が強すぎて、仲間全員の分を用意してはいたものの自分がもらうという発想があまりなかったのだ。
「え、えと、じゃああたしからもこれ。いつもいろいろ、ありがとね、チャモロ」
「いえ、どういたしまして。仲間なのですから当然のことです」
 にこりと笑ってそう告げられ、照れ笑いをしつつバーバラはその場を去った。こっそり箱を開けてみると、中に入っていたのは保存食になりそうな焼き固めたチョコ味のビスケットだった。チャモロはこういう、渋い料理を作るのが地味にうまい。
「あれ、これ、箱の底が二段になってる……? この箱、もしかしてチャモロの手作りなのかな……」
 そんな技術のないバーバラはちょっと傷つきながらも開けてみる。と、中に入っていたのは本だった。
「えー……なんだろ、これ……絵本……? んー、っていうか、文章がない……絵ばっかり?」
 それは、最初から最後まで街や森の風景がひたすらに続くという風変わりな絵本だった。文章がなく、物語があるようにも見えない。だが、ページを繰るごとに変わっていく風景が、まるで本の中の風景を自分が旅しているように感じさせてくれる。
「わぁ……なんか、この本、いいなぁ……これも贈り物、なんだよね? さすがチャモロ、すごいなー」
 思わずにこにこしてしまってから、自分と引き比べてまたちょっと落ち込んだりしつつも(なにせ自分の贈ったのはあんまりおいしくないチョコレートひとつだったわけだから)、バーバラは他の仲間たちを探した。とりあえず、島の地表部分に出て辺りをうろうろ探してみる。
「お、バーバラ。もしかして探してんのか?」
 そう声をかけてきたのは、さっきまで稽古をしていたのだろう、体からわずかに湯気を上げているハッサンだった。横には大きな袋を置いている。
 たいていの女の子は暑苦しいと忌避しそうな姿だったが、バーバラはハッサンの暑苦しい姿はそれほど嫌いでもなかった。ハッサンらしくて、なんというか、安心する。
「あ、ハッサン! ……探してるって、誰を?」
「え、やー、まー……や、なんでもねぇさ。あ、贈り物配って回ってんだろ? 俺の分は?」
「……もー、デリカシーないなー。なんかくれくれって言われちゃうとあげる気失せちゃうんだよ、贈る方は?」
「おっと、悪ぃ悪ぃ。けどそれでもせっかく俺の分用意してくれたんだから、くれるはくれんだろ?」
「ったくもー、しょーがないなー、あははっ。はい、ハッサンの分」
「お、サンキュー。じゃ、俺の方からも。ほれ、バーバラの分」
 袋の中から取り出したのは、小さな小鳥の木工細工だった。今にも飛び立ちそうな小鳥の姿が、見事に木材から削り出されている。
「うわー……いつもながら、上手だねぇー……ありがと、嬉しい!」
「おー、そりゃよかった。あと、ついでみたいな形でなんなんだけどよ、チョコレートな」
「え、ハッサンもチョコレートくれるの?」
「おう、まぁせっかくチョコレートの作り方教わったし、ついでにな。まぁ味の方はあんま自信ないけどよ」
「あははっ、正直だなー。でもいいよ、ありがと、嬉しい! あたしもあんまり味に自信ないから、おあいこだね!」
 ちらっとだけ中身を見て顔をほころばせる。ハッサンの作ったのはぱくぱくつまめてしまいそうなアーモンドチョコレートだった。ハッサンらしい、みんながおいしく食べられることを一番に考えたチョコレートだ。
「はは、そうだな。……それからな、バーバラ」
「ん? なに?」
「ローグのことなんだけどよ。あいつ、今日は夜になるまで外に出てるぜ」
「え……どこか行ってるの?」
「おう。『俺はこの世界の主人公だからな、こちらの好き嫌いにかかわらずどうしても想いを寄せてくる奴らが出てきちまうんだよ』とか抜かしてたけどよ、まぁ世話になった奴らに挨拶回りとかしてんじゃね? あいつ、そういうとこやたらマメだし。チョコも相当大量に作ってたしな。まぁ、ターニアちゃんとかちゃんと贈り物渡したい相手もいるんだろうけどよ」
「へぇ……って、え、ローグもチョコレート……っていうかハッサンたちも、チョコレートってどこで手作りしてたの!? 昨日あたし島でチョコレート作ってたけど、誰も来なかったのに!」
「あぁ、そりゃローグが『プレゼントにはサプライズが必要だからそれぞれ別の場所で作ること』って言い張ったからだよ。ローグはライフコッドで作ってくるっつってたし、ミレーユはグランマーズの婆さんのとこ行くって言ってたし。チャモロはゲントの村に戻るらしいし、アモスはモンストルだし。ドランゴはダーマでルイーダの酒場の台所借りるとか言ってたぜ? テリーはどうするかとか言ってなかったけどよ」
「えぇ!? ハッサン、よく知ってるねー……っていうか、なんであたしはそういうの全然知らないんだろ……」
「そりゃ、ローグがこっそり知られないように手回してたからじゃねぇか?」
「へ?」
「あいつ、お前がチョコレート作りにプレッシャー感じてるってやたら気ぃ遣ってたからな。他の連中の話とか聞かせないようにみんなに言い含めてたから。ま、知らなかったのも当然だって」
「ええー、なにそれ……なんでローグがそんなこと?」
「あー………ま、気にすることねぇって。気に障ったんなら文句言ってやりゃいいし、気にならねぇんなら放っときゃいいさ。あいつもそうしてもらいたがってるしよ」
「えー……でもさ、わざわざ気遣ってもらったんだったらお礼言わなきゃじゃない?」
「やー……むしろ、そこらへんを突っ込まれるといたたまれねぇっつーか……」
「?」
「や、まぁ、あいつのことだからどうにでもすんだろうけどな。まぁそんなに気にしないでおいてやれって。気になるんだったら、あいつにせいぜい気持ち込めてチョコ贈ってやってくれ」
「? そりゃ、贈るけど……」
 よくわかんないなー、と思いながらもバーバラはその場を立ち去った。ローグは夜まで戻ってこないにしても、チョコを渡す相手は他にもいっぱいいるのだ。
「ギルルン……テリー、私に、チョコ、くれた………私も、渡せた………私、嬉しい……ギルルルルン」
「あはは、よかったね、ドランゴ!」
 もじもじと身をよじって喜んでいる乙女なドランゴの作ったチョコレートは、ドラゴンらしくキングサイズのミルクチョコレート。めちゃくちゃ食べでがありそうだったが、ありがたく受け取らせてもらった。
「テリー、ちゃんとドランゴにチョコ渡せたんだね! おめでと!」
「嫌味か、お前。………ほら」
「へ? ………え、あたしにもチョコくれるの!?」
「……わざわざ作らされたのに渡さないのも無駄だからな」
「え、っていうかテリーってどこでチョコ作ってたの? ハッサンも知らないって言ってたけど」
「どこで……って。ロンガデセオでだが……って、なんでそんなことをわざわざ聞く」
「え、だってテリーが台所を使わせてもらってもいいって思うくらい仲いい相手があたしたちの他にもいるんだったら、知りたいじゃない」
「っ……なにを言ってるんだお前は!」
「あ、ちょっと、ちょっと待って! あたしの方からもテリーに、チョコレート!」
「…………。ああ……もらって、おく」
「えへへっ」
 テリーからはトリュフチョコ。それにちょうどバーバラの手の中に収まるようなきれいなペーパーナイフが添えられていた。わざわざ探してきてくれたのかと思ったら嬉しくて、「ありがとう!」と笑顔で言うと、テリーはいつものような仏頂面になって、「フン……」なんてスカした台詞を返した。
「おおっ! バーバラさん、いらっしゃいましたか! はいっ!」
「え? はいっ! って、なにこの手」
「いやだなぁ、バーバラさん、私の分もチョコを作ってきてくださったんでしょう? はいっ、どうぞ遠慮なく渡してくださっていいですよ! 私は女の人からのプレゼントは二十四時間受付中ですから!」
「………そーいう風に言われると、なんか渡したくなくなるなぁ」
「ええっ! そんなご無体なー」
 それからもわきゃわきゃ騒ぎながらも、アモスともちゃんとチョコを交換した。アモスのチョコはただのチョコではなくチョコプリンで、生クリームできれいに飾られていて、アモスが実は料理上手ということを思い出させる、とってもおいしそうな代物だった。
「あ、ミレーユ! ここにいたんだっ」
「あら、バーバラ。みんなにはチョコを渡せたかしら?」
「うんっ! ミレーユは?」
「私も、ローグ以外にはね。バーバラも受け取ってくれる?」
「うんっ、もちろんっ! ……わー、さっすがミレーユ、おいしそうなケーキ!」
「ふふ、ガトーショコラかフォンダンショコラか迷ったのだけれど……今回はちょっと頑張って、ザッハトルテを作ってみたの。味わって食べてくれると嬉しいわ」
「うんうんっ、すっごいおいしそうだもんっ、絶対思いっきり味わっちゃう!」
「ふふ、ありがとう。……ああ、そうだわ、バーバラ」
「ん? なに?」
「ローグだったら、もうすぐ戻ってくると思うから、島の上で待っていたら、一番先に会えるわよ」
「うっ……べ、別にそんな、一番に会いたいとか思ってるわけじゃ……」
「そう? でも、ローグはできるなら、バーバラに一番先に会いたいと思ってると思うわ」
「け、けど、ローグ先にパーティ以外の人に会いに行ったみたいだしっ」
「そうね。でも、それは単に、他の人たちに先に会っておいた方が時間の無駄が少なくてすむと思ったのと……彼なりに、心の準備が必要だったからじゃないかしら?」
「え? 心の、準備……?」
「ええ。ローグも大切な人を相手にする時には、緊張もするし心の準備も必要だと思うの。彼は私たちを、そのくらい特別に思っているし……あなたのことを、その中でも特に気にかけている」
「え、な、ん……うー、そんなことないと、思うけどなぁ……」
「そうかしら? じゃあ……会いにいくの、やめておく?」
「………ううん。行く」
 バーバラはしばらく悩んだものの結局そう言って、ミレーユとチョコを交換したのち、また島の地表部分へと出た。
 ちょうど夕陽が西の彼方へ落ちていこうとしている頃合い。すべてが茜に染め上げられる、一日で一番どきどきしてしまう時間。
 そんな時間に外に出て、バーバラは空を見上げた。昨日今日と休みが続いていたとはいえ昼まで寝ちゃったのはよくないよなー、とかやっぱりみんなチョコ作ってたじゃんしかもみんななんかあたしよりうまい気がする……とかそんな風に考え事や悩み事がいくつも浮かんでは消える。
 そして最後にはいつものように、『ローグ、今、なにしてるのかなー』と、身近な人への想いだけが残った。
 旅も大詰め、ミルドラースとの直接対決への準備に入っている。だから、バーバラは一人になるとついつい、自分のそばにいてくれた人のことを考えてしまう。これまでずっと自分のそばにいてくれた、けれどこれからはたぶん一緒にはいられない人のことを。
 寂しい、という気持ちはもちろんある。けれど、バーバラの胸の中でより多くを占めるのはなぜか、『仕方ない』という諦観だった。
 バーバラは、自分でもかなりあきらめが悪い方だと思う。もうどうにもならないだろうという状態になっても、少しでも可能性があるならまだできるんじゃないかなー、とか未練がましく考えてしまいがちだ。
 けれど、このことについてはなぜか、妙にはっきり『仕方ない』とあきらめてしまっていた。本当に仕方ないのだと、もうどうしようもないのだと感じてしまっていた。心よりも先に体が、理屈抜きでそう結論を導き出してしまっていたのだ。
 なぜかは、わからない。本当に? たぶん、わからない。
 でもそんな風に感じてしまっているから、心も不思議と仕方ないのだと、もうどうしようもないのだとわかってしまっているから、残る時間は少しでも、みんなのそばにいたかった。みんなと一緒に、同じものを見て、同じことを感じて、同じように話をしたかった。時間が限られているとわかっているからこそ、その時が来るまではできるだけ、一番近くにいてほしいと思ったのだ。
 そんな風に思っている――のに、今一人でローグを待っている時間が、バーバラは嫌ではなかった。そばにいてくれるわけではないのに、夕暮れの中たった一人なのに、寂しいって思うのが当たり前なのに――なぜか、すごくローグを近くに感じる。
 ローグを待っているからだろうか。ローグがもうすぐやってくるとわかっているからだろうか。夕陽の中で、一人で、誰もいなくて、泣きたくなるくらい切ないのに、『もういい』なんて思っている。
 もう、自分はいい、と。もうなにもいらない、と。もう自分はたくさんのものをもらったから、と。
 なんでこんな風に思うのかわからないのに、気持ちだけはひどく確かで。なぜなのかさっぱりわからないけど、自分はたぶん、本当に――
「お、バーバラ。わざわざ出迎えてくれたのか」
「っ!」
 びくっ、として顔を上げると、そこにはローグが口元に笑みを浮かべながら立っていた。穏やかというには人が悪すぎる、いつものローグの笑顔で。
「べ、別にそういう……わけ、では、あるけど……だって、その……今日、ローグが言ったんだし」
「ほう。俺が、なにを?」
「ちょ、忘れたわけ!? そーいうのってひどくない!? だってローグが今日バレンタインだって」
「ほう。バレンタインの贈り物をしたくて俺を待っていてくれたわけか」
「っ………」
「いやはや、まったく。前からよくわかっていたが、愛されているな、俺。心配するなバーバラ、俺も最初からお前がなんでここにいるかとかその複雑な胸の内とかはしっかりわかっていたからな」
「………むーっ!」
 人の悪い笑みを浮かべながらの言い草にバーバラは怒って拳を振り上げたが、ローグは苦笑してそれを受け止める。
「わかった悪かった。だから贈り物を振り回すのはやめておけ。せっかくの手作りチョコレートが壊れるなんぞ人生の損失だぞ」
「へ……あ、ご、ごめんっ!」
 慌てて振り上げていたチョコレートの袋を下ろし――つつも、バーバラはいまひとつ納得のいかないものを覚えたので、聞いてみる。
「なんで、この中身がチョコレートだって知ってるの?」
「当然だろが、俺はお前の最近の動向を逐一チェックしていたからな。何回作るのに失敗してラッピングにどれだけ苦戦していたかも正確に把握しているぞ」
「ちょ……女の子の部屋のぞくとか最低!」
「別にのぞいたわけじゃなく部屋や台所の外に漏れ聞こえる声から判断していたんだが……というのは言い訳だな。すまん、悪かった。だが、俺も心配だったんだ」
「心配ってなにがっ」
「バーバラが、俺にチョコを渡してくれるかどうか」
「………え」
 思わず目を見開いて固まる。え、ちょ、なに、その言葉。
 ローグは自分をちょっと笑ったような、いや温かい目と言った方がいいような、でもそれだけじゃなくて、たぶん一番近い言葉で言うなら優しい瞳で、バーバラをじっと見つめて言う。その顔に浮かぶのは、普段のローグからは考えられないような、なんだか、普通より、気恥ずかしくなってしまうような柔らかい表情で――
「俺が突然バレンタインなんてイベントを言い出したのは、旅が終わるまでにバレンタインにチョコレートをもらって思い出を作りたかったからだからな。バーバラにもらえなかったらその計画が丸潰れだ」
「な、なんで。あたしにもらえなくたってミレーユだって他のみんなだって」
「バーバラにもらいたいんだ」
「っ」
「バーバラに、もらいたいんだ。………駄目か?」
「だめっ……じゃ、ない、けど………」
 なんで、なんで、なんでこんなこと言うの、ローグ。普段絶対言わないこんなこと。
 バレンタインだから? お祭りだから? でもだって、それだってこんなのおかしい。いっつもめちゃくちゃ偉そうで、上から目線で、そのくせ実はすごく細やかに相手を気遣ってるなんていうへそ曲がりで面倒なローグが、まるで自信がないような、切なそうな顔で、あたしを見つめてお願いしてくるなんて、そんなの、なんか、なんだか―――
 けれどローグはバーバラから視線を外さず、じっと、本当に自信がないように見えてしまう顔でバーバラの答えを待っている。恥ずかしくて、いたたまれなくて、今すぐ逃げ出したかったけれど、それでも。
 こんな顔の、まるで自分に逃げないでほしいと願っているような顔のローグから、逃げ出すことなんてできるわけがなかった。
「………っ」
 バーバラは、おずおずと手を上げ、ローグに袋を捧げるように突き出した。ローグはそれをそっと受け取り、優しい声で言う。
「ありがとう、バーバラ。嬉しい。本当に」
「………っ………」
 もう耐えられず、バーバラは頭を下げて逃げ出した。心臓が跳ねまわりそうなくらい脈を打って、恥ずかしくて、いたたまれなくて、苦しくて。
 部屋に駆け戻って、扉を閉め、寄りかかってずりずりとその場にへたり込む。もう本当に、泣きそうなくらい苦しかった。
 なんでこんなに苦しいんだろう。なんでこんなに、泣きたくなるんだろう。
 自分は、夕陽の中で本当に、もういらないと、もう充分だと、そう当たり前のように思ったはずなのに。

 翌朝、どきどきしながら食堂に向かうと、ローグはいつものような偉そうな顔で、「おはようバーバラ、お前昨日俺のチョコレートを取っていかなかっただろう? 俺はホワイトデーもきっちりやるとはいえ、せっかくの俺の渾身の一品を無駄にするなぞ俺が許しても世界が許さんぞ」なんてことを言ってきたので、「なに言ってんのもーっ!」といつものように怒ることができた。
 心の中にたゆたっていたものはそれで一気に消し飛んでしまったので、ローグが渡した袋を開けて中のあんまり見栄えのよくないチョコを食べて、「うん、まぁローグにしては頑張ったんじゃない?」なんて偉そうなことを言うことができて。
 それで、ようやく、ほっとした。あんな風に、あんな風に泣きたくなる気持ちは、自分はもういらないと思ったのだ。

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