4/4・U〜速水V
 速水はひたすらじっと天井を見ていた。
 時間の感覚がない。自分が何時間、あるいは何日ここでこうして天井を見ているかもわからない。
 空腹も喉の渇きも、睡眠欲求すらも感じなかった。ただ、何も考えずに天井を見ていた。
 わかっている言葉は一つだけ。
『もう、自分はいらない』。
 これだけはわかる。だから自分はただひたすら、死が訪れるのを待っているのだ。
 自分で自分を殺す気にはならなかった。というか、そんな気も起こらないほどなにもかもが億劫で面倒くさかったのだ。
 指一本動かすのさえ、今の自分には途方もない難事業だった。だって自分はもういらない″のだから。
 生きていく必要がないのに何かやる気を起こすなんてそれこそ無駄なことだ。
 なんでそんな風になったかはわかりきっている。舞が滝川のことを『好きだ』と言った――だから自分が何をしても、もう無駄なのだ。
 たとえ滝川を殺しても、もうどうにもならない。あの二人は二人だけで、完結してしまったのだから。
 舞は滝川のもの、滝川は舞のもの。二人とも同じもの。芝村の一族。
 ――もう、僕のものにはできない。
 あの二人は二人で僕の手の中から飛び出していってしまったのだから。
 だから、自分にとってはなにもかもがもうどうでもいいことなのだ。
 速水はほとんど瞬きもせず、じっと天井を見つめた。

 ぎっ、と音をたてて部屋の扉が開いたのを速水はほとんど意識せずに聞いた。
 床がぎしっ、ぎしっときしむのを聞いて誰かがこちらに近づいてくる、ということを頭のどこかで考えたが、だからどうしようという考えも湧かなかった。
 どうでもいい。誰が入ってきて、なにをされようが。殺してくれるなら、それが一番ありがたい。
 だが、その足音がベッドから少し間を空けて止まり、おずおずと声をかけてきたのを聞いて、速水は一瞬呼吸が止まった。
「――――は……速水……?」
 ――――滝川の声だ。

 ぴしりと体が硬直した。速水に気がついているのかいないのか滝川はおずおずと言葉を続ける。
「あ……あの……茜から、聞いて、さ。お前が今、すげー調子悪いって……そんで、なんつーか、その……大丈夫かって、思って。お見舞い……っつっても、何も手土産とか持ってきてねーけどさ。ともかく来たんだよ。お前が俺のこと嫌ってるのはわかってるけど、茜がどうしてもって、言うから……」
 滝川の遠慮がちな声を聞きながら、速水の頭の中は大混乱していた。
 なぜ? なぜ滝川がここにいるんだ? 瀬戸口が教えたのか? いや、滝川は茜に聞いたと言った。確かに茜が一度ここにやってきた記憶があるが――あれはいつのことだっけ? いやそれよりも――
「――なんで来たんだ」
 天井を見つめ続けた姿勢のまま、速水は必死に声の震えを押し殺して言う。まだ自分に虚勢を張れる元気が残っていたのかと思うと少し驚きだった。
 ただ、起き上がることはできなかった。それだけの気力がなかったからではない。
 滝川を見るのが、怖かったのだ。
 今滝川を見たら、自分はどうなってしまうかわからない。それがたまらなく、震え出しそうなほど怖かったのだ。
「……なんでって……茜に言われて……あ、でも、別に嫌々来たわけじゃ! ……ねーんだ、けど……」
 慌てて言い訳しようとしたりしながらもやはりおずおずと滝川は答えを口にする。
 速水はその言葉を聞きながらも、逃げ出したくてたまらなかった――が、滝川には、滝川にだけは絶対に自分のぶざまな姿を見せるわけにはいかない。
「僕がお前をどう思ってるか忘れたのか」
 冷然とした声を取り繕って出してやると、滝川はあからさまに意気消沈した声で言った。
「……殺したいほど、憎んでる……んだろ」
「――そうだ」
 速水は奥歯を噛み締めた。滝川を思う時の熱情が、また熾火のように燃え上がってくるのが感じられた。
「殺したい″なんていう程度の甘っちょろい夢想じゃないよ。君の指を、腕を足を、一本一本切り取って苦しめに苦しませた後生きたまま体をズタズタに引き裂いてやりたい。腕と足を切り取られて壊れた人形みたいになったところをチンピラに輪姦させるっていうのも悪くないな。それとももっと単純に目玉や内臓をえぐりとって自分に食わせてやろうか? 足の先から巨大ミキサーにかけて、体をまるごとすり潰してやろうか……?」
 言いながら、速水は自らが昂ぶってくるのを感じていた。滝川への悦楽と憎悪。そのどちらも忘れていたわけでは決してない。
 本当に、そうしたい。そうできるのならどんなにいいだろう。
 でも、自分にはできない。できなかった。
 それがひどく悔しく憤ろしく、速水は唇を噛み締めた。
「……ごめん。嫌いなやつに見舞いに来られたって、嬉しくもなんともないよな……」
 ひどく落ち込んだ滝川の声を聞いて、速水はぴくりとした。
 ごめん?
 なぜ滝川が自分に対して謝るのだ?
 だがその疑問の答えを探す間もなく、滝川が言葉を継いだ。
「……でも、勝手な話で悪いけど――心配、したんだ」
 心配?
 滝川が、僕を?
 ――なんで?
 頭の中を『なぜ』『なぜ』という疑問符が飛びまわっていた。あんまりぐるぐる回りすぎて目が回りそうな気がするぐらい。
「――なぜ、君が僕のことを心配するんだ」
 かろうじて発した問いに答える滝川の声は、かすかに震えていた。
「――だって、俺……まだ、お前のことスキだもん」

 ――滝川がそう言った次の瞬間、速水はベッドから飛び起きて滝川の胸倉を掴み、ダン! と壁に押しつけていた。
「本物の馬鹿か、お前は!? そうだろうとは思ってたけどな! 僕はお前を殺したがってる人間なんだぞ! いやただ殺したがってただけじゃない実際に殺そうとした! 無茶な訓練をさせて体を壊そうとした、戦場で特攻させて戦死させようとした、ついでに言えばお前が戦場で熱を出したのは僕がやったことだ! 弾薬に毒を仕込んでおまえの体に打ちこんだ、弾薬が致命傷にならなくても毒で一日後には確実にお前を殺そうとしてたんだ! それを、お前は――」
 まくしたてていた速水の口が止まった。滝川の表情に気づいたからだ。
 滝川は泣きそうになっていた。目に涙をいっぱいに溜めて、こぼさないよう唇を噛んでこらえつつ、じっとこちらを見ている。
「――――」
 速水は頭の中が真っ白になった。もしかしたら生まれて初めて、なにをどうすればいいのか思いつかなくなった。
 滝川が口を開いて、少しだけ涙に濡れた声で言葉を告げる。
「だって、お前俺に優しくしてくれたじゃんか」
 ――優しい?
 僕が?
 そんなわけないだろう。僕はお前をずっと殺したいと思ってたのに。
「俺がどんなくだんねー話しても、そうだねって笑ってくれたじゃんか」
 それは単に波風立てるのが面倒で話を合わせていただけだ。
「俺が腹減ってしょーがなかった時、うまいサンドイッチ食わせてくれたじゃんか」
 それは演技だ。ぽややんな優しい人物というイメージを壊したくなくてやったことだ。
「俺が訓練しようって言ったら、どんなに疲れてるときでもいいよって言ってくれたじゃんか」
 訓練は二人でやったほうが効率がいいから受けただけだ。利用しようと思ってしたことにすぎない。
 滝川はぐすっ、と鼻を鳴らすと、勢いよく目をこすって、赤い目で速水を見た。
「……もしもそれが全部嘘で、俺のこと最初っから大っ嫌いだったとしても――優しくしてくれたのはホントだもん。あんないちいち俺に付き合って優しくしてくれた奴、初めてだった。嬉しかった」
 目を伏せる。一粒涙が瞳から転がり落ちた。
「ここにくるまでの間ずっと考えてたけど――俺、やっぱお前のこと、嫌えねえよ……」
 速水は無言だった。
 だって何を言えばいい?
 こんな奴に。殺そうとした相手に対して優しいだの嫌えないだのという甘ちゃんに。そういいながら涙をこぼすような甘ったれに。
 どうしてこいつはこんなに甘っちょろくて、弱っちいんだろう。
 舞と一緒に芝村としての道を歩んでいるのに。毎日限界ギリギリまでの訓練をしているのに。
 ――初めて会った時からこいつはそうだった。
 明るい顔して寄ってきて、そのくせどこか不安そうで。
 乏しいはずの給料の中から、遠慮するのも聞かずサンドイッチと牛乳を自分におごった。
 初めっから無駄な人材だと思った。弱い奴だと思っていた。
 それが強くなろうとし始めて、実際に強くなってきて。
 舞と共に歩むようになって。
 それなのにまだこんなに弱い。
 寂しそうな顔。始めの頃他の人に話しかけて適当にあしらわれた時に見せたものと同じだ。
 変わらない。
 そして、変わった。
 速水は滝川を見た。滝川もまだ潤んでいる瞳でこっちを見ている。
 涙に揺れる紫の瞳。青と赤の中間の色。それがこっちをじっと見ている。
 ――名前。
 彼の名前を呼びたい、と唐突に思った。
 滝川。
 彼の名前は、滝川陽平。
 現在三番機のパイロットで、黄金剣のエースで、舞の恋人で、弱くて甘っちょろくて――僕のことを、スキだと言う奴。
 知らず、体が震えた。
 生まれてこのかた感じたこともないような緊張に、身がすくむ。
 でも、呼ばなければならない気がした。呼びたかった。
 決死の覚悟で、のろのろと口を開き――
「た――――」

 ウゥゥゥゥゥゥゥ――――。
 多目的結晶からサイレンが鳴り響いた。
「201v1、201v1……」
 坂上の声が聞こえる。
 一瞬茫然とした後我に返ると、滝川が自分を見ているのに気づいた。
 行くのか? と訊ねているようでもあり、来るだろ、と信じているようでもあり、頑張ろうぜ、と励ましているようでもあり――そんな複雑な、言ってみれば迷いに満ちた瞳を速水はきっかり3秒見返し、一回目をつぶると戦闘態勢に移行した顔で言った。
「行こう、滝川」
 滝川はおずおずとうなずいてから、少しだけあれ? というように首をひねった。

戻る   次へ
舞踏少年は涙を流す topへ