ポットの用意
 こことは違う、ある世界にて。
 ――19世紀末、クマモト・シティ。
 犯罪者たちの欲望渦巻くこの都市に、敢然と悪に立ち向かう(と婉曲的な言い方をすれば言えないこともない)一人の探偵がいた。
 彼の名は、速水厚志。
 少女めいた風貌に悪魔の機知を秘めた少年である。

 午後四時、探偵事務所。
 速水はにこにこ微笑みながら紅茶のたっぷり注がれたカップを手に取った。
 今は客もいなければ仕事もない。やることといえば所長席の椅子を暖めておくことぐらいなので、これ幸いと速水は一人っきりでティータイムとしゃれこんでいるのだった。
 紅茶はダージリンのファーストフラッシュ、TGFOP(ティッピーゴールデンフラワリーオレンジペコー)。速水のお気に入りの、かなりの高級品だ。
 鼻を近付け香りを楽しみ、おもむろに口をつけ――
「速水速水速水――っ! 事件だ事件!」
 バタン! と勢いよくドアが開き、事務所全体が小さく揺れた。
 その拍子に紅茶がカップから飛び出し、ばしゃっと速水の顔にかかる。
「速水事件だぜ事件! 殺人事件だ! 知ってるだろ、大富豪の――ほら、遠坂家! あそこの御曹子が殺されたって! ひさしぶりにすげえ事件だって気がひしひしと――」
 この元気にまくしたてている少年は滝川陽平。速水探偵事務所の助手をやっている少年である。いかにもクソ元気な顔つきにたがわぬガキっぽい性格と言動の持ち主だ。
 速水は紅茶に濡れた顔をゆっくりと上げ、微笑んだ。
「滝川」
「なんだよ?」
「僕、事務所のドアの開け閉めは静かにって、言ったよね?」
「へ?」
 滝川はきょとんとした顔になった。
 が、速水の笑顔を見てビクゥ! と身を震わせる。その笑顔のバックにゴゴゴゴゴ……と音がしそうなおどろ線がしょわれていたからだ。
「え、いやでもだってさ、俺事件のことを早く知らせなくちゃって思って、大急ぎで……」
「言ったよね?」
「………は……い………」
 滝川の顔から冷や汗がダラダラと流れ落ちる。
 速水は微笑んだまま、手に持ったカップをソーサーの上に置いた。
「僕はお気に入りの紅茶を今まさに飲もうとしていたところだったんだよ。紅茶をまともに入れるのって、結構手間がかかるんだよね。新鮮な水を沸騰するまで沸かして、カップとポットにお湯を入れて温めて――その手間が報われようとしたその時に、君は邪魔をしてくれたわけだ。僕の最も愛する時間であるティータイムを台無しにした罪の重さ――わかってるよね?」
「う、うん、わかる、わかるけど速水」
「じゃあ僕が何をするかもわかるよね?」
「い、いや速水、ちょっと待ってくれよ別に悪気があったわけじゃ悪いと思ってるんだってマジで」
「問答無用」
 速水はどこからかガラス板と鉄製の爪を取り出した。
「おしおき決定」
 ひきっ! とひきつる滝川の前で、速水は爪を右手に装備した。そしてためらいもせずガラス板をひっかく。
 がきゅくきゃきゃきききぎゅきききゅくきぎきぃっ!
「うぎゃぁぁぁっ! 歯が浮くぅぅぅっ!」
 大の男も七転八倒する殺人音波に、滝川は耳を押さえて床を文字通り転げ回った。だがそんなことをしても音波は容赦なく耳の中に飛びこんでくる。
「ほーらほらほら」
 速水が滝川の耳元にガラス板を近づけてひっかいた。速水もこの殺人音波を聞いているのに、毛ほどもダメージを負った様子はない。
 ぎゅきゅききくきゅききぃっ!
「うぎゃぁぁぁっ!」
 転げ回る滝川をしつこく速水は追いかける。
「ほーらほらほら」
 ぎゃききききぃっ!
「うぎゃぁぁぁっ!」
「……何をやっておるのだお前らは」
 滝川がひくひくとしか動かなくなってから、ポニーテールの少女が部屋に入ってきた。
 芝村舞。速水探偵事務所の共同経営者である。
「速水、仕事だぞ。殺人事件だ」
「聞いてる。遠坂家の御曹子だってね」
 滝川にあんなことをしながらも、聞くことは聞いていたらしい。
「場所は?」
「遠坂家屋敷。既に警察が出張っているようだが……」
「どうせ善行さんだろう。なんとでもなるよ」
「そういうことだな」
 爪を外してカップに残った紅茶を飲み干すと、速水は滝川をつんつんと足でつついた。
「滝川、いつまで寝てるの。出かけるから車の準備して」
「……ううう……お前がやったくせに……そんなこと言うならやんなきゃいいじゃねえか……」
「あ、口答え? おしおきポイント+1」
「すぐやりますっ!」
 滝川はバッと立ち上がり、車庫に向って走った。
 その後から速水と舞が悠々と続く。
 階段のところで幼女と遊んでいた遊び人、瀬戸口が声をかけてくる。
「よう、お二人さん。仕事か?」
「ええ」
「あんまり仕事ばっかりやってたら幸せが逃げるぞ」
「全然仕事してない人が言うと説得力がなさ過ぎて笑えますね」
 黙った瀬戸口に見向きもせず、速水と舞は車庫に向った。
「じゅ、準備……できたぜ……」
 車庫に着くと、窓のサッシに寄りかかりそうにふらふらしながら滝川が運転席から声をかけてきた。
「偉いね、滝川……でも雇い主より先に車に乗ってるなんてどういう了見だい? おしおきポイント+1」
「え……」
「さあ、サクサクと出発しよう。急いでね滝川、でも事故を起こしたり車を揺らしたりしたらおしおきだからそのつもりで」
「ってんな無茶なーっ!」
「さあ、出発だ!」
「ううう〜っ!」
 滝川は『絶対こいついつか殴ってやる』とこれまで何百回と誓った決心をより固めながら、車のスイッチを入れた。

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