素早く注いで
「……うー……」
 滝川はやたら広いベッドの上でごろごろと転がった。この無意味に広いベッドは、滝川一人くらいならほとんど床と変わらない感覚でごろごろ寝転がることができる。
 現在自分たちは遠坂家の客間で休んでいるところだ。狩谷と話したあとで速水は、「今日調べるべきことは調べたから今日はもう休む」と宣言し、出されたゴージャスな飯や酒をぱかぱか消費したあげく休む部屋を用意しろと岩田に要求したのだ。
 俺たちまだほとんどなんにもやってないのにこんなにあつかましくっていいのかなぁ、と滝川は思う。他人にはよく誤解されるが、滝川は滝川なりにエンリョやケンジョウの心というのを持ち合わせているのだ。
 まぁ飯はうまかったからいいんだけど。俺、このままでいいのかな。狩谷って奴のとこじゃ速水に迷惑かけちゃったし。なんかした方がいいんじゃないかな。
 そんなことを考えてしまい滝川はなかなか眠れなかった(昼寝しすぎたというのも大いにあるだろうが)。他人にはよく誤解されるが、滝川は滝川なりに速水の助手という仕事に対して誠実でありたいと思っているのだ。
 速水は意地悪だけど優しい時は優しいし、舞も無愛想だけど自分に親切にしてくれる。滝川は二人とも好きだった。これを他人に言うと正気を疑うような目で見られるので内緒なのだが。
 だから二人に迷惑をかけるのはイヤだし、どうせなら役に立ちたい。今のところその気持ちは空回ってばかりだけど、自分なりに頑張りたいと思っているのだ。
 滝川はぴょん、とベッドから飛び降りた。ちょっと見回りでもしてこようと思ったのだ。
 客間を出て二階をうろうろする。招待客は全員自宅に戻っていた。もちろんこれから先しばらくの滞在先は連絡するように言われていたけれども。なので、人の気配がほとんどしない。
 昨日に引き続き、今夜も風が強かった。時刻は夜中、人の気配のない馬鹿広い暗い屋敷の廊下を、滝川は内心ちょっぴりびくびくしながらそろそろと歩く。
 びゅおっ! と大きな音がして、滝川はびっくぅ! と思わず飛び跳ねた。屋敷のそばの木の枝を風が揺らした音だ、と気づき、はー、と息を吐いてまた歩き出す。
 そろそろ部屋に戻ろうかな、と弱気な滝川は言っていたが、ぶるぶると首を振ってまた歩き出した。見回りをすると決めたからにはしなくっちゃ。俺は男だもん。
 それにこんな風の強い日に一人暗い部屋で寝るというのも、なんだか怖かったし。
 階段を下りる。殺害現場である圭吾氏の部屋の前に出て、びくりとする。落ち着け落ち着けもう犯人はいないんだから、と深呼吸して――
 部屋の中でがたり、と音が立ったのを聞いた。
 滝川は思わず硬直する。犯人? 犯人なのだろうか?
 そういえば犯人は現場に戻る、という話を聞いたことがある。これがそれなのだろうか? 誰かを殺すために戻ってきたのだろうか?
 ――止めなくちゃ! 捕まえなくちゃ!
 気合を入れても滝川の足はかたかたと小刻みに震えていたが、その足に必死に檄を飛ばして滝川は圭吾氏の部屋の扉をそうっと開けた。鍵は開いている。
 中は暗かった。灯りをつけなくちゃ、とガス灯のスイッチを探す。壁際にあったスイッチをひねる――だが灯りはつかない。
 思わずさーっと血の気が引いた。なんで? なんで灯りがつかないんだ?
 半ばパニック状態に陥ってばたばたと別のスイッチを探す。見つからない。
 犯人はどこにいるんだ? わからない。
 自分はどこにいるんだ? わからない。
 ほとんど恐慌状態に陥った瞬間――
 す、と背後に人が立つ気配を感じた。
 滝川は思わず固まった。声を出す余裕など微塵もなかった。こういう時どうすればいいかと学校で教わったことなど、頭の中からまるっきり吹っ飛んでいた。
 背後の人影から太い腕が伸ばされ、自分の体に回される。自分の口元に手が伸びる。その手の中にはなにか不思議な匂いを発するものが握られている――
 ああ、俺ここで殺されちゃうのかな。
 短い人生だったなぁ。まだ女の子と付き合ったこともないのに。
 結局俺、何の役にも立たなかったな。速水、芝村、ごめん――
 一筋涙を流しながら目を閉じる――
 その刹那、自分の口元に伸ばされた手が、ぴたりと止まった。
「!?」
 ばっと目を開ける。目の前には自分よりも小さな人影。そこから細い腕が伸び、自分の口元に伸びた腕を止めていた。
 その小さな人影は低く、言葉を発する。
「たわけ――我が事務所の職員に妙なものを嗅がせるな」
 滝川はその時ようやく人影の正体に気づいて目を見開いた。
 ――芝村!?
 気づいたと同時に背後の人間と舞の間で閃光のような速さで腕が交錯する。うわっと目を瞑るが痛みはない。背後の人間の放った拳をかわして、クロスカウンターで舞の拳が炸裂したのだとわかった。人影はびゅおっ、と音がするほど大きく吹き飛ぶ。
 舞は振りぬいた拳を軽く動かしながら、わずかに口の端を吊り上げて言った。
「確かにいい腕だ――だが、ここではせいぜいが二番目だ」
「………………」
 滝川は思わず目の前の舞を凝視した。胸の奥がずきゅんずきゅん、と鳴っている。
「……カッ……コイイ〜………!!」
 凄い。痺れた。たまんない。かっけー。
 芝村……すげぇ〜!
 そんな想いで思わず口の中で小さく呟いた言葉は舞には届かなかったようだった。
「大丈夫か、滝川?」
「う、うん……あの、ありがとう……」
「うむ」
 ふ、と小さく笑んだその笑顔も、滝川にはたまらなく魅力的に見えた。
 ……芝村……ヒーローだぁ……!
 と、舞の眉がわずかにしかめられる。
「しぶといな。まだ動けるか」
「え?」
 慌てて振り向くと、確かに人影はもぞもぞと立ち上がろうとしているところだった。はっとして捕まえなくちゃ、と手を伸ばすが、それよりも早く人影の後ろから伸びた足が人影をずしっと踏みつける。
 その足の主は、静かに、冷たく、冴え冴えとした声で告げた。
「待っていたよ――ソックスハンター」
 ――速水の声だ。

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