京浜東北線大井町駅から歩いて十分ほど。閑静と言うにはやや車通りが多すぎる住宅街にそびえるビルの一階に、その店はある。
周囲に自然に馴染むパステルカラーの外壁と、綺麗に磨かれたガラス張りの出入り口。中は常に適度に明るく、そのゆったりとした間取りが通りからいくぶんか見て取れる。
ガラスに金属の取っ手をつけた扉の上にある木製の看板には、黒インクの見事な崩し字でこう記されていた。
カルパ・タルー
それがこの店の名前で、ネットワークの名前でもあった。
営業時間中は常にひどく食欲をそそる芳香が漂い、食事時には小さいとはいえ行列すらできる。実際この店は相当繁盛している、と店員の一人の立場からも断言できた。
ネットでの噂は上の方から渡される特殊プログラムで定期的に潰されるので雑誌が取材に来るようなことはなく、超有名というほどにはならないが(ならないように情報操作を行っているのだそうだ)、口コミでひそやかに、けれどしっかりとその極上の味と小さなふたつの噂は伝えられている。
噂のひとつは、『この店に来ると願いを叶えることができる』というやつ。どうしようもなく切羽詰った時、苦しい時、誰かの助けが必要な時にこの店に来ると、なぜか道が開けるというもの。本当にそうなのか(不思議な力を使っているのか)訊ねる自分を、おいしい料理には道を開く力があるんだよ、とシェフはいつも笑ってあしらう。
そして、もうひとつは―――
「お待たせしました、ささみの網焼きカルパッチョとライスコロッケ、ワタリガニのトマトクリームソースリングイネになります!」
テーブルの上に音を立てないように料理を置き、広里浩は一礼して踵を返す。そろそろ夕食の時間も終わりになる頃合、客もだいたい引けてきている。この店はほとんど終電間際まで営業しているが、祐の仕事がおそろしく早いので、目の回るほど忙しい時間というのはせいぜいが九時までだ。
それが終わると順番にまかない食を食べることができる。今日のメニューはなんだろう。奥のガス台でなにか煮込んでたからカレー系かもしれない。匂いもそれ系だし。祐はインド出身なせいか一番得意な料理はカレー系だし。祐の作る多種多様なスパイスを組み合わせた何十種類ものカレーは、カレーはカレールーで作るもの、という浩の考えを跡形もなく壊すほどうまいのだ。
思い出すだけで口の中に湧いてくる唾を飲み込み、店内を見回す。ここの店で働くようになって一年と少し、浩もこの仕事にやりがいや愛着を感じるようになってきた。料理をちゃんと運んだ時の客の嬉しそうな笑顔に自分も嬉しくなったり、きちんとしたサービスができたのを褒めてもらえた時に身が震えるほどに嬉しかったり。
高校を卒業したら正式にこの店の店員になりたい、とすら浩は思うようになっていた。まだサービス技術は未熟だと自分でわかっているので誰にも言っていないが、こっそり修行したりして頑張っているのだ。
まぁ、この店のもうひとつの仕事の方が自分的には比重が重いというのも、確かなのだけれど。
「五番テーブル、揚げ出しとぶり定入ります!」
受けてきた注文を厨房のシェフにしてこのネットワークの責任者である祐に告げると、祐は神速の速さで手を動かしながら浩に笑いかけた。
「了解。浩くん、次の注文受けてきたら休憩入っていいよ。まかない用意してあるから」
「え、いいのかよ!?」
「お客さんも引けてきたからね。今日のメニューはポークビンダルー(ビネガーのスタミナカレー)と三色サモサ、それから揚げナスのライタ(ヨーグルトサラダ)だよ」
「よっしゃあっ!」
どれも大好物だ(というか祐の作る料理の中に浩の好物でないものはない)。思わず歓声を上げてから、ぱんぱんと顔を叩いて気合を入れなおす。
「じゃ、注文取り行ってきまーすっ!」
「行ってらっしゃい」
思わずにやけそうになる顔に力を入れてホールに出ていく。別に笑っていてはいけないわけじゃないが(少なくともこの店では)、あまり接客スタッフがにやにやしていては店の雰囲気が締まらない。普段はいつもにやついているロト――小此木浪人も(ムカつく奴ではあるがホールスタッフとしての実力は浩よりはるかに上だ)ステファノス・ゲラリスも、店ではにやにやとではない穏やかな笑顔を浮かべているのだ。
と、浩とすれ違いに厨房に戻っていくロトに小さく耳打ちされた。
「三番テーブル、一名様」
「了解」
水差しとグラスを載せた盆を持って素早く指示されたテーブルに向かう。ステファンは基本的にバーから動かないのでこの店のウェイターは浩とロトだけだ。なので客への対処は迅速に、そして丁寧に。この店に入った時に叩き込まれた鉄則だ。
「いらっしゃいませ……!」
にこやかに声をかけかけて、固まった。
うつむいていたその客は、浩の声に顔を上げてこちらを見てあんぐりと口を開けている。ちびっこい背に余るほどの大きな学ラン(初夏なのに)。細っこい体。うらなりびょうたんという言葉がぴったりくる情けない、小学生のような童顔。
なんでこいつがここに、と思うより早く、そいつはぶわっと涙を流しながら抱きついてきた。
「どわっ、おいこらてめっ」
「せんぱあぁぁ〜いっ」
「こらてめ、ちょっと離れ」
「先輩先輩先輩っ、俺もーどーすりゃいいのかわかんなくてぇっ」
「おいだから落ち着けって」
「あ! そうだっ、先輩この店の人なんすか!? じゃーあれっすか、先輩もやっぱ闇の仕事人とかやってんすか!? すげっ、やっぱ先輩すげーっす! 俺、実はこの店の噂聞いてっ」
「う……わさ?」
おいまさかまさかだろ、と思いつつ問い返すと、浩にしじゅうつきまとってくる後輩であるところの穴戸穣太郎(ししどじょうたろう)は瞳をきらきらっと輝かせながら叫んだ。
「この店がなんか、怪しい厄介事とか解決してくれるって!」
「な」
「あ、そうだ、合言葉があるんすよね。えっと……そうだ!」
穣太郎はにこにこ笑顔で、店中の注目を集めつつ、思いきり大声で言ってくれた。
「釈迦とサタンにドモヴォーイが供した料理をくださいっ!」
「…………っ」
「コーちゃーん?」
ぽん、と肩に手が置かれた。は、と振り向くと、ロトがにっこり笑顔で親指で奥を指す。
「とっとと連れてきな」
「……わかってんよっ」
浩は唇を噛みながら、穣太郎の手を引く。このまま相談の内容までここで喚きかねないこいつを、店の中にいさせるわけにはいかない。
そしてなにより、話をちゃんと聞かないわけにはいかないのだ。『不思議なことでどうしようもなく困ったことがあると、カルパ・タルーである注文をすればなんとかしてくれる』というカルパ・タルーの噂のひとつ。それは、確かに真実なのだから。
「お待たせしました」
オーダーをすべて片付けてから、そう言って笑顔で部屋に入ってきた祐に、穣太郎はぽかーんと口を開けた。
それも当然といえば当然だ。『責任者が来るまでここで待ってろ』と言われて奥の部屋に通されて、料理のメニューを渡されて。待たされた時間は十分程度だったろうが、それでも早く責任者が来ないかと料理を注文する余裕もないほど焦れて、ようやくやってきた責任者がどこからどう見ても十歳程度の少年というのでは、普通おちょくられているのではないかと思うだろう。
「お、お前、なんだよ」
「当店の責任者、箕輪祐です、以後お見知りおきを」
にっこり笑顔で言ったのだろう祐に、穣太郎はむっと祐に負けないほどの童顔を歪めた。きっと祐を睨んで言い募る。
「ふざけんなよ。こっちは冗談ごとで来てんじゃねーんだ。小学生に相談するようなことじゃねーんだよ! 責任者出しやがれ責任者ぁ」
喧嘩に一度たりとも勝ったことがないくせに、いっぱしの不良のような顔をしてすごむ。穣太郎は弱い相手にはどこまででも強くなれるという人間失格な性格の持ち主なのだ。
「穣太郎。てめぇ、祐さんに失礼なこと抜かしたら殺すぞ」
ずいっ、と祐の背後の扉から姿を現して浩はすごみ返した。ヤクザも道を譲るといわれる浩の眼光に、穣太郎は「ひっ!」と怯えてぺこぺこと頭を下げた。
「すんません、すんません先輩っ、でも今度の話マジやばいんすよっ、俺マジで助けてほしーんすっ」
「だったらとっとと祐さんに話しやがれ。助けてほしいっつーんなら偉そうな口叩くんじゃねぇ」
「す、すんません……」
顔をびくびくと震わせながらも、納得いかなそうに顔を歪める穣太郎を、浩はさらにねめつける。
「んだ? なんか文句あんのか、コラァ」
「ないっす、すんませんっ!」
わずかに眉を寄せて自分たちのやり取りを見つめていた祐は、ちらりと浩に視線を走らせてから穣太郎に向き直り言った。
「浩くんとお知り合いだそうですが……どういうご関係か聞いてもよろしいでしょうか?」
「てめぇ、広里先輩を浩くんとか呼ぶんじゃねぇ! 先輩を誰だと思ってんだ、関東最大の暴走族死琉婆憂流怖(シルバーウルフ)≠たった一人でぶっ潰した伝説の男、なのに徒党を組まない一匹狼の最強の不良サンダータイガー″L里浩さんだぞっ、気安い口叩くんじゃねぇ!」
「……サンダータイガー?」
「てっ、てめ穣太郎っその名前他に人がいるとこで出すなっつってんだろ!」
「浩くん、そういうことやってたんだ……」
戸惑ったような困ったような、見ようによっては哀れむような視線を向ける祐に浩はカッと顔を赤らめた。別に好きでやってるわけじゃない、ムカつく奴らをフツーにぶん殴って売られた喧嘩を買っていたらそういうことになってしまっただけだ。自分の頭じゃ不良どもの集まる工業高校にしか進めなかったから喧嘩の機会はやたらあったし。
「なんでっすか、カッコいいじゃないっすか、俺今でも覚えてるっすよ広里先輩のあの雄姿! 何十人って敵とぶち当たって怯みもせずばかすか敵を沈めてく、もー漫画の不良とか目じゃねーって感じでしたもん!」
「あー、だからそれはー」
ガキの頃から親父にほとんど殺し合いの勢いで鍛えられてれば暴走族だのなんだのって奴らに物怖じする必要もなくなるというだけのことなのだが、さすがにそれは言えない。
「まぁ、それについてはあとでゆっくり話を聞くとして……」
笑顔で言う祐にうぐ、と浩は言葉に詰まった。祐は基本的に暴力を嫌う。無意味に暴力を振るうと膝詰めでこんこんとお説教されてしまうのだ。ちくしょーこのボケが来たせいでっ、と穣太郎を睨みつけたが、祐はそれより早く話を進めていた。
「穴戸さん。あなたは、なにか、相談が必要な事態に巻き込まれているんですね?」
「な、なんで俺の名前」
くす、と祐は笑んだ。口元だけで。瞳はあくまで真摯な、真剣な色に輝かせてじっと穣太郎を見つめる。
「僕たちはたぶん、あなたよりほんの少し、一般に知られていないことを知っています。世界の夜闇、黄昏の壁と黎明の扉の向こう側について。昼の常識ではありえないとされる事柄について。今まで僕たちは何度もそういった事態に出会い、そして解決してきました」
「…………」
「あなたに自らに恥じるところがないのなら、僕たちはどこまでもあなたを助けます。僕を信じろ、と言っても無理かもしれませんが……浩くんを信じることは、できるでしょう?」
「…………っ」
祐の柔らかく澄んだ声に、穣太郎はたまりかねたように拳を握り締め叫んだ。
「じゃあっ! じゃあ、助けてくれよ! 俺……っ」
穣太郎の小学生のような顔がくしゃくしゃと歪み、やたらに大きな瞳からぽろりと涙がこぼれ落ちる。
「このままじゃ、人、殺しちまうよぉ……!」
「……噂、聞いたんす」
あっという間に淹れられたお茶(煎茶)を啜りながら、穣太郎はぽつぽつと呟いた。
「ガッコのちょっと先の、廃工場。あそこの奥の、いくつか並べてある旋盤の真ん中。あそこで、呪文唱えると、死神が現れて、邪魔な奴とか嫌いな奴とか、殺してくれるって。でも……その時、殺したい奴の名前言えなかったら、呪文言った奴が殺されちまうって」
「は? んだそりゃ、いつの時代の怪談だ」
浩は呆れて馬鹿にした声を上げた。オールドスタイルにもほどがある。二十一世紀になってから生まれた奴が信じるようなことか。
が、祐は真剣な顔で穣太郎に訊ねる。
「その呪文というのはどういうものか覚えていますか?」
「覚えてる……確か、『キリストとシヴァから山童が奪い取った料理を捧げます』とかなんとか、だったと思う」
「は?」
浩はぽかんと口を開けた。似ている。カルパ・タルーの合言葉となる注文と。
思わず祐を見やったが、祐は真剣な顔で穣太郎に話の続きをうながす。
「それで?」
「俺……ダチと話してるうちに、なんかその話になって。ビビリだって馬鹿にされて。ざけんなって言い返したんだけど、うまく言い返せなくて。なんか……そこに行って、度胸試しするみてーな話になっちまって」
「お前な、何度も何度も同じよーなネタで乗せられてんじゃねーよ」
「す、すんません……」
穣太郎は身を縮こまらせる。浩はは、とため息をついた。穣太郎は自分が臆病で喧嘩が弱いことをひどく気にしていて、必死に自分が強い男だと証明したがるのだ。実際ろくな実力も根性もないくせに。
「その時、お友達に普段となにか変わったことはありましたか?」
「へ?」
祐の言葉に穣太郎は目をぱちくりさせたが、浩も同様だった。なんで急にそんなことを?
「どういう話の流れでそういう話になったか、きちんと思い出せますか? なにかお友達の反応に違和感を感じたりはしませんでしたか?」
「へ……んなこと言われても、別に……あ、けどそういや、なんかカベもキザも、妙に普段よりやる気っつーか……やたら気合入れて度胸試しやらせようとしてたような」
「なるほど……すいません、話を続けてください」
「え、えっと。そんで、俺、その工場に入りこんだんす。誰もいなかったし扉開いてたし、入るの自体は簡単だったんすけど。なんか、やたら暗くて……なんか、今にも出そうな雰囲気で……なんか、なんかわかんねーんすけど、すっげー怖くなってきて」
いつものことじゃねーかよ、と思ったが一応黙っておく(そう言ったら祐さんに怒鳴られそうだ)。
「でも、ここで逃げたら広里先輩に申し訳がたたねー、って必死に奥進んでって、旋盤の真ん中で、呪文唱えたんす」
「……それで?」
静かに祐が問うと、う、と穣太郎の顔が歪んだ。目が涙で潤み、くしゃくしゃと鼻の頭に皺が寄せられる。
「周りに……誰もいねーのにっ、どこ見ても誰もいねーのにっ! 耳元で言われたみてーにはっきり、かすれた、すっげ怪しい声で、『殺してほしい奴は、どいつだ』って聞こえたんす……」
「…………」
浩はわずかに顔をしかめた。話の流れ上そうなるだろうとは思っていたが、実際そうだということを聞くと奇妙な迫力がある。
「そんでっ、俺もーわけわかんなくなってっ、逃げようとしたんすけど、足が動かなくってっ! マジ、信じてもらえなくてもしょーがねーんすけどっ、なんか急に足がまともに動いてくんなくなったんすよ! そんで、そんで……耳元でさっきとおんなじ声がしてっ、『殺してほしい奴は、どいつだ』って言われてっ、そんで俺っ」
ひっく、としゃっくりを飲み込むような音を立てて、泣きそうに顔を歪めて言う。
「死琉婆憂流怖≠フ奴ら全員殺してくださいって、言っちゃったんす……」
「……はぁ?」
「シルバーウルフ……って、浩くんが壊滅させたっていう暴走族の?」
祐の声に、もはや虚勢を張る余裕もなくなったのか、穣太郎はこっくりとうなずいた。
「うん……壊滅させたっつっても、元構成員の奴らは何十人ってくらいいて。そいつらが、しょっちゅう広里先輩にお礼参りに来るから……あいつらだったら、殺されても、別に誰も困んねーよなって……けどっ」
うっ、と穣太郎は嗚咽を漏らす。
「そう言ったら、あの声、いきなり『了解した』って言って消えちゃって。足もいつの間にか動くようになってて。なんか、あれってやっぱ、マジやべーもんだって思って。このままだとあいつら、マジ殺されちまうかもって思ったら、なんかどんどん怖くなってきてぇっ」
泣きべそをかきながら、穣太郎はがっし、と腕を伸ばし浩の腕をがっちりとつかんだ。
「せんぱぁいっ! 俺、やっぱ人殺しになるんすかっ!? 犯罪者っすか!? ネンショー送りなんすか俺ぇっ」
「あーもーお前なーちょっと落ち着けっての」
がしがしと頭をかきながらかけてやる言葉を考えていると、ふいに祐がすいと立ち上がった。
「浩くん、しばらくお相手をしてさしあげて」
「え、祐さん」
「まかないを準備してくるよ。お腹減ったでしょ? 穴戸さんには気持ちが落ち着くようなお茶請けを、ね」
耳元に囁かれた言葉に思わず唾を飲み込む。そういえばまかないを食べそびれていた。穣太郎が仕事を持ってきた、という突然の事実に興奮していたせいで気付かなかったが、言われてみれば腹は思いっきり空いている。
「お客様も引けているし。すぐ準備してくるからね」
去り際ににこ、と優しい笑顔をひとつ。浩は顔がほわんと緩むのを感じた。祐は優しくて、いつもにこにこしていて、笑顔にたまらなく温かみがある。そういう祐のことを、浩はまるで母ちゃんみたいだ、とこっそり慕っていた。
浩の実の母は健在なのだが、バリバリの仕事人間で、そういった母性とか温もりとかに縁のないタイプなせいもあり(そんな母がなんでいい加減で喧嘩っ早い基本的にプータローの放浪妖怪である親父と子供を作ったのか浩はこの年になってもさっぱりわからない)、浩は祐に尽くすことに本当の母親に尽くしているような喜びを感じている。それをロトは『理想追求型マザコン』と笑うが(そしてそのたびに喧嘩になるのだが)、祐はそんな自分に嫌がった顔ひとつせず微笑んでくれるので、浩はますます気合を入れて祐に尽くすのだった。
今回も、浩はそのつもりでいた。穣太郎も絡んでいるのだ、普段にも増して気合を入れないわけにはいかない。やってやるぜ、と一人誓いながら、泣きじゃくる穣太郎の頭をぽんぽんと叩いた。
なにより、自分はそのために、人を苦しめる妖怪と戦うために、この店で働いているのだから。
「で。今回の相手はどんな奴なんだ、ボス?」
ステファンがいつものように酒を舐めつつ祐を悪戯っぽく見て言う。今日も無事営業は終了したので、新しくやってきた仕事に対処すべくミーティングの真っ最中だ。当然浩は祐の作ってくれた新たなまかない飯をがつがつとかっこんでいる(ちなみに穣太郎は別室で眠っている。祐の作った料理で気が楽になったら眠くなったらしい)。
「どうだろうね。正直、これだけの情報じゃなんともいえないよ」
「まぁ、確かにな。悪戯なのか本気なのかってことさえはっきりしちゃいない状態だしな」
「けどっむ、妖怪が絡んでるってことはもむもむ、間違いねーだろっぷ。あいつビビリだしすぐパニクるけど、誰もいないのに耳元に声とか足が動かねーとかそーいうのまでっむ、ただのモーソーっつーのはなんぼなんでもねーだろーしんむんむ」
そう、そういった通常ならばありえない不思議な事態も、妖怪が絡んでいると考えればあっさり説明がつく。
この世に人ではない者がいるという認識を持っている人間は少ない。だが太古の昔より妖なるものたちは世の闇に、人の見通せぬ影の中に存在し、人を、この世をあるいは乱し、あるいは鎮めてきた――のだそうだ。
通常ありえる生命の形とは異なる、人をはじめとするさまざまな存在の想いによって生命エネルギーそのものが形を成した存在である妖怪は、この世ならざる力を行使できる。その力である者は欲望のため、ある者は主義のため、ある者は自らを縛る想いのために世界の均衡を崩す――らしい。
実のところ浩はいまひとつぴんときていなかった。虎人という妖怪である父と普通の人間である母の間に生まれ、ちょっとばかり喧嘩っ早いながらも普通の人間の子供として生活してきた浩にとって、妖怪と人間がそこまで違うものだという実感はないし、そもそも自分が妖怪だという自覚すらそう強烈には持っていない。
浩の認識としては、自分は漫画に時々あるような妖怪ヒーローのようなもんだと考えていた。本当の姿を見せたら他人を怯えさせてしまうので隠さなくてはいけない。でも人に害する妖怪を倒せるのは自分たちのような人に味方する妖怪だけ。なのでこっそりと闇に紛れて戦うのだ、というような。
そんなようなことを仲間に言った時、ステファンには面白がるように、ロトには馬鹿にしたように、祐には困ったように笑われて。「お前ある意味すげーな」だの「恵まれてるねーコーちゃんは」だの言う奴らにむかっ腹を立てる浩に、祐は「人も妖怪も、生まれ育ちによっていろんな人生を歩むものだからね。君と違う考え方をする人や妖怪を、拒否してしまわないでね」と懇々と諭したので、今ではそういう考え方は妖怪にとっては一般的でないものだ、とわかっているけれども。
「浩くん、慌てないでよく噛んで食べてね。……ロトくん。噂については調べてくれた?」
「もち。えっとねー、いちおーネット上にも噂はないことはなかったよ。でも別に大きく広まってるってほどじゃないね。その手の掲示板にいくつか話が出てるくらい、どれもさして話が転がらずに終わってる」
ロトがメモを見ながらすらすらと言う。ポルターガイストという本来の姿のせいなのかどうかは知らないが、ロトはコンピュータを操る技術に長けていて、ネット上で収集できる情報は基本的にロトがすることになっているのだ。
「その書き込み、誰がしたのかって調べられる?」
「まーね。でもそれなりに時間かかるよ。他人のID買ってアクセスしたりしてる場合まで考えて調べるともっと」
「じゃあ、お願いできるかな。この噂の出所が知りたいんだ」
「りょーかいっと」
「噂の現場も調べた方がよくないか? そこに並んでたもんに聞いてみたらあっさり犯人割れるかもしれんしな」
「そうだね。ステファンさん、お願いできるかな?」
「了解、ボス」
「祐さんっ、俺は俺は?」
目を輝かせて訴えると、祐は少し困ったように苦笑して、それから真剣な顔になって言った。
「浩くん。穴戸さんが殺してくれと頼んだ人たち……シルバーウルフの人たちを、全員呼び出せる?」
「は?」
浩はぽかんと口を開けた。予想外の言葉だ。
「え、まー、一応何人かのケー番は知ってっけど……」
「じゃあ、呼び出してくれるかな。場所は三河島公園で」
浩の通っている高校の近所にある公園だ。
「な、なんで?」
「その人たちに、お詫びをしてほしいんだ」
「え……えぇ!?」
浩は仰天の声を上げて思わず立ち上がり、愕然とした目で祐を見た。
「なんでだよ!? あんなクズヤローどもになんで俺が謝らなきゃなんねーんだよっ、あいつら公道暴走したあげくに女マワそうとするような奴らなんだぜ!?」
「うん……順を追って説明するから、とりあえず座って、落ち着いてくれる?」
言いながら祐は(いつの間に準備していたのだろう)、ティーポットを傾けてこぽこぽとお茶を注いだ。ふんわりと香る優しい匂いと普段通りの笑顔に浩は気勢を削がれ、のろのろと着席する。
「まずね。穴戸さんと接触した妖怪がどういうつもりであんなことをしたのかはっきりしたことはいえないけれど、実際に殺害を依頼された人……シルバーウルフの人たちに害を与える可能性は、それなりにあるわけなんだ。人の依頼≠ニいうものに縛られている妖怪っていうのは、古今を問わずけっこうな数がいるものだしね」
「人の依頼に縛られてる……?」
「『誰かが自分のこんな願いを聞いてくれればいいのにー』とかゆー人間の甘ったれた想いから、その願望を叶えるために生まれて、そんでその願いが解決したあとも自分を構成する想いから抜け出せずに似たような願いを叶えて回ってるってこと。んーっとにコーちゃんはそーいう妖怪の基本っつーのわかってないよねー」
「う、うっせーなコーちゃんとか言うんじゃねぇ!」
「つまり、命を失う可能性が少しでもある以上、その人たちを護衛する存在が必要なんだよ。それには反射神経がよくて運動能力が高くて体も頑強、その上護衛対象の誘導に無理のない浩くんが一番適任かなって。そしてその人たちを集めて誘導する一番無理のない話が、『浩くんがお詫びをする』ってものだと僕は思うんだよ。それに無事話が収まれば、浩くんを敵視する人を少なくできるわけだしね」
「け、けど!」
なにもあんな奴らの命必死になって守らなくたって――という言葉を、浩は途中で飲み込んだ。浩としてはぶっちゃけあんなクソ野郎どもなんぞ別に死んでもいいと思ってはいるが、祐にそんな『よくない』ことを言うわけにはいかない。
だが浩のしかめっ面から言いたいことを読み取ったのだろう、祐は困ったように微笑み、言った。
「浩くんが納得がいかない気持ちも、わかる、と思うよ。人として許せないことをするような人間を助けるっていう仕事は、実際気が進まないことだしね」
「え……わか、んの?」
「うん。僕だって聖人じゃないからね、そういう人間のために命を懸けるのは馬鹿馬鹿しい、って思ったりする。でも、ね」
困ったような笑顔をわずかにうつむけてから、じっと浩を見つめて。
「馬鹿馬鹿しいと思うけど、でもやっぱり僕は、夢を見てしまうんだ。どんな非道な人間でも、もしかしたらいつかは、生きてさえいればいつかは、店にやってきて料理を食べてくれるかもしれない。僕の、誰かの作った想いをこめたおいしい料理を食べて、幸せな気持ちになってくれるかもしれない、って」
「…………」
「ただの夢物語だとわかってはいるし、他人をそれに巻き込むなんて身勝手な真似はしたくない。だけど、浩くん。人の命は妖怪と違って、失われたらもう二度と戻らない。僕にとっては、それは本当に怖くて、哀しいことで……できるだけ避けたいって思ってしまうんだ。だから、わがままだってわかってはいるんだけど……」
深々と、どこか哀しげな、けれど優しい顔をうつむけ頭を下げて。
「お願いだから、君が僕のことを大切に思ってくれている気持ちの半分くらいまででいいから、我慢して、殺される可能性のある人たちを守ってくれないかな」
「…………」
浩はふ、と小さく息をついた。それから苦笑した。
「わかったよ。祐さんの半分……か、その半分くらいまでは頑張って我慢する」
「ありがとう……浩くん」
「いーよ、別に……」
にこ、と嬉しげに優しげに微笑む祐の笑顔を見るのが気恥ずかしくなって、浩は視線を逸らした。妙に顔が熱い。ひどく照れくさかったが、悪い気分ではなかった。あのクソどもの護衛なんざぞっとしないが、祐のお願いを聞いてやるのは嫌なことではない。
「見ました奥様? いつもながら祐さんにだけはやたらでれでれしちゃって」
「最強の不良サンダータイガーの名が泣きますわよね」
「その名前いちいち言うんじゃねぇ―――っ!!」
「ひ、広里せんぱぁい……ま、マジだいじょーぶっすか? へーきっすか? あいつらなんぞにマジ詫びしたら、あいつらぜってー調子乗って……」
「……っせーな。しょーがねーだろ」
ぼそりと言ってずかずかと歩を進める。終電間際の学校最寄り駅で降りて、急ぎ足で呼び出し場所の公園へと向かっているのだ。
ちなみに穣太郎を一緒に連れているのは護衛のためだ。敵の妖怪が依頼主である穣太郎に手を伸ばしてくる確率はけっこう高いのだとか。昔話で人の不幸を願った人がひどい目に合うようなものだよ、と祐は言っていた。ひとをのろわばあなふたつ、とかなんとか。一応穣太郎にはそういった事情は説明している、らしい(浩が妖怪だということは告げていないそうだが)。
嫌だなぁ、とは思うが一度祐さんと約束してしまったんだ、破るわけにはいかない。ずかずかと足早に歩いて、公園にまでたどり着く。
そこにはすでにぶぉんぶぉんとやたらやかましい排気音を奏でるバイクに乗った、暴走族どもがたむろしていた。どいつもこいつもにやにやと笑っていやがる。一人の男がこちらに気付き、「来たぜ」とリーダー格の男に告げた。
男がくるりとこちらを向いた。やはりにやにやとムカつく笑みを浮かべている。くそったれ、と思いつつ、浩は穣太郎を後ろにずかずかと歩み寄って男の前に立った。
「広里よぉ、お前、俺らに詫び入れるとか抜かしやがったんだってなぁ?」
「……ああ」
男が(何度か名乗られたがこんなクソどもの名前など浩はいちいち覚える気はない)上から浩を見下ろした、と思ったらがっし、と頭を掴んでぐぐぐっと下に押した。
「詫び入れる奴の態度じゃねぇよなぁ、舐めんじゃねぇぞコラ!」
「っ……」
反射的に逆らって跳ね飛ばしたくなったが、ここでそれをやったら目的が果たせなくなる。ちくしょう、と唇を噛みながら、押されるままに頭を下げた。
男はぐいぐいと腕に力を入れ、浩の頭が腰より下に来てもまだ押し続ける。相手の意図を知りぎりっと奥歯を噛み締めつつも、浩は逆らわずに押され続け、とうとう地面にまで頭を擦りつける状態になった。早い話が、土下座状態になったのだ。
「ひ、広里せんぱぁい……」
穣太郎が泣きそうな声を上げる。うるせぇ黙ってろ別にてめぇのせいじゃねーだろーがっ、と心の中で怒鳴り散らした。実際、死ぬほど負けず嫌いの浩は、全身の力を振り絞って抑えても気を抜けば男を殴りつけてしまいそうなのだ、そんな時に哀れげな声を出されるとかえって腹が立つ。
浩の頭を地面に擦り付けさせた男は、ふんと厭味ったらしく鼻を鳴らし、ぐりぐりと頭を上から押しながら偉そうに言った。
「さーて、じゃー詫び入れてもらおうじゃねーか。俺らが気ぃ済むくれーたっぷりとなぁ」
「てめぇにゃさんざ痛い目見せられてんだ、その倍くれーは落とし前つけてくれねーとよぉ」
「詫び入れるっつーんだったら頭下げて申し訳ありませんでしたっつってもらわねぇとなぁ。おら、きっちり土下座して心の底から謝ってみろよオラ!」
囃したてる奴らを今すぐ殴り倒してやりたい。そんな感情を必死に堪えて、浩は震える頭の両脇に手を置いた。紛うことなき土下座の格好に姿勢を変え、手の中の土を全力で握り締めながら言う。
「……殴って、すんません、でした」
「あぁ〜? んだそりゃ。それで詫び入れてるつもりかよコラ!」
がすっ、と男が浩の顔に蹴りを入れる。浩からすればまるでなっちゃいない蹴りだったが、顔に直撃だったのでさすがに一瞬くらりとはした。
だが浩の皮膚は人間の時でも鉄の厚板並みの硬さはある。蹴りの威力を増すためか男は安全靴を履いているようだったが、跳ね返った衝撃で効いていないことを察したのだろう、一瞬息をつめたあとがすっ、と上から浩の頭を踏みつけてきた。
「オラ、詫び入れるっつーんだったらきっちり頭地面に擦り付けて言ってみろよ、『俺は死琉婆憂流怖のみなさんの奴隷です』ってよ!」
「っつか、裸踊りさせるっつーのはどーっすか? そのあと服持ってって放置!」
「おー、いいねいいね。だったらそのカッコで三回回って土下座させてワンって言わせんのも追加だよなー」
「………ッ」
ぎりぃ、と音がするほどの力で奥歯を噛み締める。我慢だ。我慢しろ、俺。俺はこいつらを殺させねぇようにしなきゃなんねーんだから。
「っつかよー。知ってっか? こいつこの顔で猫グッズとか集めてんだぜぇ?」
「…………ッ!!!」
浩はざーっと血の気を引かせた顔を勢いよく上げた。なんで。なんでなんでなんでなんでそれを!
その素振りで真実だと確信したのだろう、言い出した男はにやにやと、馬鹿にしきった顔と声で身振り手振りを交えて悪意を込めて言う。
「こいつよ、猫のグッズ見るとすぐ欲しくなってよ、家には山ほど似たよーなグッズ持ってるくせに買っちまうんだってよ! 女が欲しがるよーな猫柄のキーホルダーだの鞄だのシャツだの見てよ、『かんわい〜い』って買わずにはいられなくなっちまうんだと!」
「マジか! うっげキモぉ!」
「猫のグッズ見て『かんわい〜い』とか言うわけ? こいつ? マジで? ぶはっ! キモォ! いい年こいた男がかよ、マジキショッ!」
「…………ッ!!」
ぎりぎりぎりぎりっ、と全身の力を込めて奥歯を噛み締める。それだけは、それだけは誰にも秘密だったのに。確かに浩は猫グッズを集めている。生きている猫も好きだが、可愛らしくデフォルメされた猫をあしらったグッズを見ると、どうしても顔が緩んで欲しくてたまらなくなってしまうのだ。
家の部屋にはこれまでに集めた猫グッズが山のようにある。だが自分のような男が(浩は自分を不良だと思っているわけではないが柄がいいとはお世辞にも言えないとは思っている)、可愛い猫グッズを集めていると知られたらなんと言われるかはわかりきっているので、家族にも友達にも店の仲間たちにだって絶対に秘密にしてきたのに……!
「んでよ、俺こーいうの持ってきたんだけどよ!」
そう言ってその男が差し出したものを見て、浩は一瞬絶句した。安っぽい茶色の毛が生えた、カチューシャの形の上についているそれは、人間の頭に着けたらちょうどいいだろうという大きさの猫耳だった。さらに同色の毛の生えた猫尻尾。
「ぶはっ! キッモ、キッショォーッ! ンなモン着けさせんのかよ、見たくねェーっ!」
「すっげ、よくンなこと思いつくぜこいつ。変態くせェーっ」
「いーじゃんかよ、猫グッズ集めてるキモ男にゃそんくらいさせねーと釣りあわねぇっしょ!」
げらげらと笑い転げる奴らを目の前に、浩は呆然としていた。そんなものを着けるなんて、夢にも思ったことはない。猫は可愛いが、自分が可愛いなんぞと思ったことは一度としてないし、第一自分には自前の虎の耳があるのだ。そんなものを着けるなぞ男として最大級の屈辱だ。
笑い転げていたボス格の男が、にやにやと気色悪い笑みを浮かべながら言う。
「よォし、せっかくだ、着けてもらおうじゃねぇか。それ着けさせてすっぽんぽんに剥いて盛りのついたメス猫の鳴き真似でもさせてやろーぜ」
「あ、すんません、これ尻尾は安全ピン使うんで、服じゃねぇと……」
「ちっ、パンツいっちょか。まーそれでいいか、じゃー脱げよ、広里」
「………ッ」
浩はぐぅっ、と血が出そうなほど拳を握り締める。嫌だ、冗談じゃねぇ、こいつら全員ぶん殴ってやりたい。でも、だけど。
「詫び入れるっつったなぁ誰だコラ!」
「詫びんならきっちり言うこと聞いてもらわねーとなぁ」
「せーい見せやがれせーいをよぉ!」
「……ッ」
ぎりぃ、と渾身の力を込めて奥歯を噛み締め、浩は服を脱ぎ始めた。初夏なので着ているのはシャツとジーパンぐらいのもの。あっという間に脱ぎ終え、パンツ一丁になって男たちを睨む。
「ふゥん。じゃあこれを着けてもらおうじゃねぇか。かんわゆ〜い、猫耳と猫尻尾をよぉ」
「お前のだ〜い好きな猫ちゃんになれて嬉しいでちゅねー、ギャハハハッ」
くそったれ。内心全身の憤りを込めてそう吐き捨て、浩は猫耳と猫尻尾を装着した。カチューシャはやや緩かったが、頭から落ちるほどではない。ちくしょう、ちくしょう、なんでこんなことしなきゃなんねぇんだ、そう憤りながら男たちを睨む。
だが、男たちは揃って笑い転げた。
「ぶっ、ぶははははははっ! なーに睨んでやがんだよぉ、猫耳猫尻尾じゃちーとも迫力ねーっつーの!」
「……ッ」
「オラ、てめぇ猫だろぉ? 猫なら猫らしく鳴いてみろよ、にゃ〜んってよぉ。大好きな猫ちゃんの格好ができて嬉しいんだろぉ?」
「……ッ、にゃ〜ん……」
「棒立ちしながら鳴いてんじゃねぇよ、猫なら猫らしく腰振って媚売りながら鳴いてみろ、オラッ」
「にゃ、にゃ〜んッ……!」
顔を真っ赤にしながら尻尾ごと腰を振り鳴いた浩に、男たちは爆笑した。
「キッモォ! あの広里がパンツいっちょで猫耳猫尻尾つけて猫の鳴き真似してんぜ!」
「ぶは、ぶはははっ、マッジキショッ。撮っとけ撮っとけ、あとでホモの集まる掲示板とかに上げてやろーぜ」
「猫になれて嬉しいでちゅねー、広里チャン? オラ、もっと腰振れよ! メス猫みてーに『ご奉仕するにゃん』って鳴いてみろっ」
「……ご、ご奉仕、する、にゃん……!」
「ぶははははははっ! 変態だぜこいつ、マッジキショォッ!」
ちくしょう、くそったれ、殺してやる、こいつらぜってぇぶっ殺してやるッ! 顔を真っ赤にして、泣くのを必死に堪えながら浩は心の中でそう叫び――
『ならば、その願いを叶えてやろう』
そう心に返ってきた答えに目を見開いた瞬間、ぶしゅう! と目の前で血がしぶいた。
「……穣太郎っ!?」
「……あ」
「っ……げ、はぁっ!」
愕然とした。目の前で、穣太郎が出刃包丁を持って呆然としている。
穣太郎が出刃包丁を浩の目の前にいたリーダー格の男に刺して、刺したことに驚いたような顔をして反射的に抜いたのだ、と頭ではわかっているが、心がそれについていかない。穣太郎が呆然とした顔をしているのも、リーダー格の男が血を吐いているのも、他の奴らが騒然とするのも、まるで別世界の出来事のようだ。
「てっテメェッ、なにしやがるッ!」
「ざけんじゃねぇぞ、クソがぁッ!」
男たちが穣太郎に歩み寄り、拳を振り上げる。助けなければ、と思うが体の反応が遅い。まるで心が麻痺してしまったように、戦う時にいつも感じる怒りのような感情が働かないのだ。
『それは、これがお前の望みだからだ』
さっきと同じ声が響く。浩は無理やり体を叱咤して動かし、前に出て男の拳を受け流した。
『お前は殺してやりたいと願った。おれはそれを聞き届け、叶えた。だからお前は怒らない。お前の願いが叶ったのだから』
ちがう、ちがう。自分はこんなことを望んだわけじゃない。ただ、こいつらがあんまりクズだから、腹が立って。
『違わない。お前は本当は殺してやりたいと思っていたのだよ。クズどもを、愚かな人間どもを。人間を守る存在と自らを任じている振りをしていたのは、ただ誰にはばかることもなく敵を殺せるからだったのだから』
ちがう、ちがう。そう怒鳴りたいのに、心から力が湧いてこない。怒りの感情が動かない。その声をぶっ殺してやりたいというさっきのような熱した感情が湧いてこない。
それどころか体からどんどん力が抜けていく。腕が上がらない。もうなにもしたくない。必死に相手の攻撃を防いでいるが、体にどんどん力が入らなくなっていく。
『殺してやりたかったのだろう? クズどもを。クズと認定した奴らを自らの心の赴くままに。正義の仮面を被って、堂々と。恐ろしいほどの傲慢さと、卑劣さだな』
ちがう、ちがう。ちがう、ちが―――
『お前にはもう、生きる資格はない。おれに食われるしか価値がない最低の外道だ。さぁ、せめていさぎよく、魂を差し出せ――』
ちがう、ちがう、そう言い張るだけの気力が、浩の心には湧いてこなかった。なんだかひどく眠い。体に力が入らない。こてん、と浩は地面に横たわった。ああ、ひどく眠い。ばしゃり、と音がしたような気がしたが、それも夢の彼方へと消えていった。
と思ったら急にすっきりと目が醒めた。そして目の前には祐(妖怪バージョン)がいて浩の顔をのぞきこんでいる。
「浩くん、大丈夫!?」
「祐さんっ!?」
驚いて跳ね起きて周囲の様子をうかがう。周囲はさっきとはがらりと様相を変えていた。
さっきまで自分に殴りかかっていた奴らは全員地面に横たわっている。ぐーがーといびきが聞こえるところからすると、眠っているようだ。穣太郎は、と探すとすぐ後ろで包丁を持ったまま同じようにいびきをかいていた。
そして、自分の目の前で、ステファンとロトがなにかと戦っている。はっきりよくは見えないのだが、なにか腹が膨れ上がっているような浩より二十cmほど背の低いものの攻撃を必死にかわしているのだ。体全体に緑色の液体がかかっているような、透明ななにか――
「浩くん! あいつの相手、お願い!」
「了解っす!」
反射的に答え、寸秒をおかず浩は飛び出した。一瞬で人間から妖怪の姿――鉤爪と牙と尻尾の生えた虎人間へと変わり、全力で蹴りをその透明な敵へと放つ。
その敵はその蹴りを受けた。爪でか武器でかはわからないが、こいつ、悪い腕はしていない。目印はついているとはいえ、透明な分のやりにくさも加えると、浩ととんとんというところだろう。
だがこのくらいで負けてたまるか。祐さんに任されたんだ、死んでもこの野郎、ぶちのめしてやる!
浩はギュッと奥歯を噛み、加速≠オた。
「………!」
空気の流れが、遅くなったような感覚。周囲のすべてがスローモーションになったように遅く見える。浩の戦闘技術を最大に生かす武器がこの加速能力だ。一秒が二秒になったように、つまり普段の倍の速さで動くことができる。移動も攻撃も防御も思考も、普段の倍回しですることができるのだ。
凄まじく疲れるので連発はできないが、一度や二度の戦闘ならまるで問題ない。浩はひゅっ、と息を吐いて踏み込み、十cm以上の長さのある鉤爪を振り下ろした。
さーしーゅー。爪と爪の擦れる音がスローモーションの間の抜けた響きで聞こえる。これは予想済みだ、だがここからが本番。
ずんっ、とさらに踏み込んで爪を振り回す。防御を無視した、型もへったくれもない空手本来の動きからは外れた動きだ。
だがそんな攻撃でも必殺の意思は込めてある、力も技も全力だ。さばかなければ攻撃がもろに相手の体に入る。相手が動揺するのが、素振りではなく気配でわかった。
防御を無視し手数を増やそうとしても素手戦闘の心得のある奴なら攻撃をおろそかにもせずに受け流せる。だが一秒で繰り出せる本来の攻撃にプラスして、余分なもう一秒を使って全力で手数を増やせば、普通の相手は受けきれない。
そして相手が攻撃してきても、こちらは本来の一秒の方の動きで普通に受け流すことができる!
ざくっ、という肉を裂く感覚が音としてではなく骨と肉に動きとして伝わってくる。スローモーションで黒い血が噴き出すのを、浩はよっし、と会心の笑みを浮かべながら見た。
……黒い血っつーことは、妖怪なんだよな、こいつ? いやそりゃそうかだって透明なんだもんな。人間は透明になれないもんな、うん。
余分な一秒の間にそこまで思考した、と思ったのとほぼ同時にロトの声がスローモーションで響く。
「コ―――! みーぎー!」
右? と戸惑ったのは半瞬の間もない。浩はだっと右方向へと身をかわした。そしてその直後に、祐の必殺の妖術、真紅の火炎が空間を焼く。
この一年、この四人で何度もいろんな妖怪と戦い、コンビネーションを決めてきたのだ。考えなくても即興でこのくらいは合わせられる。どうだこの野郎、と敵を見て、思わず仰天した。
敵が、炎を飲み込んでいる。いや透明だからはっきりそうと知れるわけではないのだが、浩にはそう見えた。空間を焼き払う祐の真紅の炎が、敵の前で急激にしぼみ、消えていっている。
そういう妖術なのかもしれないが、どちらにしろコンクリートも蒸発させる祐の妖術を受けてダメージがないとは並みではない。ならば、と浩はは、と息を吐き出し、体をかわした動きのまま回転させる。
ぱぁっ、と琥珀色の酒気が空間を舞う。ステファンの妖術だ。敵の周りの空間が一瞬歪んだように感じられたのは、ロトの妖術だろう。
二人の攻撃から一瞬遅れて、浩は全力で爪を突き出した。
「げぇはぁぁぁぁぁぁっ!!」
悲鳴がスローモーションで響き渡る。浩はにやり、と笑みを浮かべた。
加速能力の使い方のひとつ。移動能力の向上の応用例だ。祐の妖術を防ぐほどの防御能力があるのなら、反応できない攻撃をかませばいい。早い話が真後ろから攻撃すれば、それを防げる相手はほとんどいないというわけだ。
もちろん人間離れした動きの速さを誇る浩でも一瞬で敵の真後ろに回りこみ攻撃することはできない。だが加速能力で連続して移動を行えばそのくらいはできる。そしてその浩の考えは見事図に当たったというわけだ。
敵は耐久力の限界に達したのだろう、しゅるしゅると体を縮ませていく。よっしゃ、と笑んで、浩は加速能力を解除した。
「祐さんっ、どーだよ俺の作戦っ……」
嬉しげに叫びかけて、止まった。祐が、ロトとステファンも、ひどく難しい顔で縮んでいく敵を見つめている。
「ど……どしたの?」
「……空気読めないコーちゃんにロトおにーさんが親切に説明してあげるとね」
「んっだその言い草!」
「逃げてるんだよ、あちらさん。影に潜んでね」
「え……はぁ!?」
「あちら影に同化する妖力を持ってるみたいでね。そっからさらに転移の妖力で逃げちゃったみたい」
「な、な、なんでんなことが」
「あのね、祐さんは妖怪や人間のオーラが見えんだよ? 生きてるか死んでるかくらいわかんの」
「あ、そっか……ってそれまずいじゃねーか!」
「まずいよ。だからむずかしー顔突き合わせてんじゃん、したくもないのにさ」
「ううううー」
浩は必死に考える。なにか打開策はないか、敵を倒す方法は。敵を見つける方法は。そういや祐さんたちなんでいきなり現れたんだろ。とりあえず別行動するって話だったのに。いやいや今はそういうことを考えてる場合じゃ。
そんなところで頭をぐるぐるさせていると、おもむろに祐が顔を上げ、叫んだ。
「能登観童丸!」
「……へ」
「我、ダスジャカ・モーダカ・ブハットはなれを食卓に呼ぶ! いざ、共に飲み喰らわん!」
「た、祐さん?」
浩のあっけに取られた声にもかまわず祐はじっと闇の中を見つめる。どうなってんだ、と周囲を見回すとロトもよくわけがわかっていないようで眉をひそめていた。ステファンはわかってるんだかわかってないんだか、無言で肩をすくめて酒を舐めている。
数瞬が過ぎ、浩がとりあえず祐を正気づかせよう、と決意した頃になって、木々の間、影の中に、すい、と人影が現れた。
痩せ細り、腹だけが異様に膨れ上がり、口には牙を、手には爪を生やした浩より二十cmほど低い、明らかに人ではない影。――妖怪だ。
「祐さんっ! あそこに妖怪!」
浩は闇を昼間同然に見通すことができる。反射的に口にした言葉に、祐と人影は双方小さく震え、ゆっくりとお互い十mほどの間を空けて向き直った。
「……久しぶりだね。観童丸」
人影は、体をぶるぶると震わせて、掠れた声で応えた。
「今は観堂司(みどうつかさ)だ」
「そうなんだ。僕も今は箕輪祐だよ」
「知っているさ。だからこそわざわざ人間を使ってまでお前を呼んだ」
「やっぱり僕たちのことを調査していたんだね?」
「ふん、今に始まったことではないだろう? 何度も繰り返してきたことだ。お前が若造どものネットワークに属していたのは少々意外だったがな」
「そうだね。何度も何度も繰り返してきたことだ……」
え、なんだなんだ。祐さんこいつと知り合い? つか、こいつ、さっきの奴なの? などと? を頭の中で乱舞させる浩にかまわず話は進む。
「だからお前がおれの獲物を集めだしたのも、おれへの誘いの手だろうとすぐに見当はついたさ」
「でも、僕がやってくる前に片をつけられると思ったんだね?」
「ふん、賭けてみただけさ。もとより失うものもさしてない」
「そうだね。君が今回仕掛けたのはいくつかの噂をのぞけば僕たちの周りにだけなのだから。――今は、なにを?」
「飢えを満喫しているさ」
「……いつまで、続けるの?」
「いつまでもだ」
「僕たちは、もう生まれに縛られる必要はないのに?」
「なら、お前だって料理にいつまでも縛られる必要はないだろう。おれも好きで縛られてるんだ。――あの頃何度も繰り返した問答をまた繰り返す気か?」
「……そうだね。そんなことをしてもしょうがない……」
祐はふ、と小さく息を吐いた。知っている、その顔。あの顔は、祐さんがめちゃくちゃ悲しい時の顔だ。
そう思ったとたん、浩は加速して全力でその妖怪に殴りかかっていた。
「ーっ!」
「こーうーくーんー!?」
「てめぇがどんな奴だが知らねぇが! 祐さんの敵は、俺の敵だっ!」
相手にはいわば早送りしている声になるので聞き取れないことを知りながら怒鳴って殴りかかる。不意を打てたのだろう、距離を詰めての連撃が決まったことににやりと笑う。なんかよくわからんけど、こいつは敵だ!
と、唐突に続いて攻撃を仕掛けようとした右手が勢いよく跳ね上がった。続いて足がたたたん、と軽いステップを踏む。右足が跳ね上がる。左手が回る。意思に反して。
敵の妖術か、と思ったが違う。この感じは間違いない、何度もかけられたからよく覚えている。これはロトの、相手を踊らせる妖術だ。かぁっと頭に血が上り、無駄に疲労することはわかっていたが加速を切って振り向き怒鳴った。
「ロトォ! なんで邪魔しやがんだよっ!」
「あのさー……コーちゃん、マジ空気読もうよ。今はどー見たって会話シーンじゃん。そちらさんに攻撃を仕掛けない代わりに逃げないでお話しましょ、っつー無言のお約束が交わされてることくらいそーぞーつく……あーつかないんだねコーちゃんは」
「あったりめぇだろーがっ!」
「胸を張って言うか」
「だって祐さん、マジ悲しそうだったじゃねーかっ!」
「……え」
祐が驚いたような声を上げる。は、と浩はカッと顔を赤くしたがいまさらあとに退けるか、と勢いのままにがなる。
「どんな約束してんのか知らねーけどっ! こいつとどーいう関係なのかとかもわかんねーけどっ! こいつ、祐さんのこと悲しませて平気な顔してるよーな奴なんだろ!? 祐さんの気ぃ引きたくて悪さするよーな奴なんだろ!? そんな奴俺はぶっとばす! 祐さんの敵は、俺の敵だっ!」
『…………』
言い切ってふん、と鼻を鳴らしてやる。気圧されたのか全員しばらく黙っていたが、やがて相手の観堂だが丸だかいうやつがぺっ、と痰を吐き出し掠れた声で言った。
「ふん……こわっぱ。ぴいぴいさえずるのは貴様の勝手だがな、おれとこいつの間に口を出したとしても貴様に得はなにもないぞ。こいつと俺は存在そのものが相容れない、永遠に争い続ける定めの」
「うるせぇボケんなこと知るか、定めがどーだろーがてめぇが祐さんを泣かせる限り俺はてめぇをぶっ倒す!」
「……威勢だけはいいな。わしの煽った人間どもに苛められて半泣きになっていた分際で」
「な……」
「『ご奉仕するにゃん』だったか? くっく、妖怪としての姿もそれとさして変わらんな」
一瞬頭が真っ白になって、それからがぁっと目の前が赤くなるほどの勢いで血が上った。踏み込んで疾風のような突きを放――
「ぷはっ!」
とうとした直前、祐の笑い声が聞こえて固まった。
「た……祐、さん……?」
「あ……ご、ごめっ、でも、ぷふっ……なんか、笑えてきちゃってっ……」
かぁんと頭の中で鐘が鳴ったような気がした。眼球が熱くなり目の前が歪む。やっぱり、やっぱりやっぱり、祐さんもあれはおかしいんだっ!
「ちょ、違……ごめ、ぷはっ、あのね、僕がおかしいのは、その前の話」
「……まえ?」
「『定めがどーだろーがてめぇが祐さんを泣かせる限り俺はてめぇをぶっ倒す!』だったよね? そういうこと、ぷっ、妖怪に言われるとは思わなかったから。時代も変わったなぁっていうか、僕も年を取ったなぁっていうか……浩くんって可愛いなぁ、とか思ってね」
「かわっ……」
顔を真っ赤にして絶句した浩に、祐は笑いかけた。浩が母ちゃんみたいだと常々思っている、優しくて暖かい心がひどく和む笑顔で。
「ありがとうね、浩くん。嬉しいよ、すごく」
「え……そ、そっすか? な、なら、いっすけど」
ひどく照れくさくなって鼻を擦ったりしていると、観堂だか丸だかが冷たく掠れた声で言う。
「ふん、そうしてお前はどいつにもこいつにも神のご慈悲とやらを恵んでくださるわけだ。変わらんのはお前の方だな、ダスジャカ――本当にいつまでも、変わらない」
嘲るような声に浩はぎっとそいつの方を睨んだが、飛びかかる前に祐がくすっと笑って言った。
「いつまでも≠チて言葉は神にとっても長すぎるよ。僕はやっぱり、いつかは君が満たされる時が訪れてくれるといいなって思うし、訪れる方に賭ける」
「そこが変わらんというのだ、お前は」
「そりゃ、変わらないように頑張っているからね」
「……なに?」
わずかにその観堂だか……もう丸でいい、丸は目を見開いたようだった。じっと祐を見つめて掠れた声で問いつめる。
「お前に、変わってしまうかもしれないと感じたことがあるというのか」
「うん。何度もあるよ。実際変わったこともあった。絶望したこともあれば、希望を取り戻したこともある。死にたくなったことも、生きたいと心の底から思った時も。でも、僕はこういう生き方が今のところ一番好きで、楽しいんだ。楽しく生きているから君にも心の底から楽しいって思う瞬間が、時々の半分くらいはやってくるように生きてほしいなって思う、それだけだよ」
「………ふん………」
丸はわずかに体を震わせ、掠れた声で言った。
「おれは、また来るぞ」
「うん。待ってるよ」
「ふん……」
言ったとたん、丸の姿が消える。
「あーっ! あの丸野郎また逃げやがった!」
「丸野郎ってあいつのこと……? なにも名前覚えらんないからって体型で覚えんでも」
「ち、ちっげぇよ! 名前のどっかに丸って使われてたじゃんか!」
「いやどっかって言ってる時点で名前覚えられてないの暴露してるから」
そんな風にぎゃあぎゃあとロトと騒いでいた浩は、祐がじっと丸が消えた方向を見つめているのに気がついたのは、ぐうっと腹が鳴ってつい涙目で「祐さん、腹減った……」と訴えて、くすり、と笑われ「じゃあ、今すぐ準備するね」と調理道具と食材を取り出された、さらに数日ほどあとだった。
「彼は……今は観堂司って言ってたね、司は餓鬼なんだよ」
「ガキ? むはっふ」
「餓鬼。サンスクリット語で言うならPreta、薜茘多、へいれいた。仏教において亡者のうち餓鬼道に生まれ変わった者。強欲な死者。生前嫉妬深く物惜しく心でも行為でも常に貪り続けた者が生まれ変わる、常に飢えと渇きに苦しむ決して満たされることがない存在……というものを想像した人の想いから生まれた妖怪、だよ」
ばくばくと祐が(体から出した食材と妖怪の姿になればいつでも出せる調理用具、持ち歩いている携帯厨房を使って)作り出した料理をがふがふ食べながら浩は祐の話を聞いた。
「司は平安のはじめ……千二百年ほど前から生き続けている強い妖怪でね、餓鬼というのは自我……ちゃんとした意識をほとんど持たない小妖怪として生まれることの方が多いんだけど、彼は珍しく強い自我を持っていた。そして、自らの生まれに、とても強く縛られていた」
「んっむ。生まれに、むぐ、しばられる?」
「そう。何度か話したよね? 浩くんみたいに、種族として成り立っている妖怪が人間や妖怪と子供を作って生まれた妖怪と違って、普通の妖怪は想いから生まれる。想い抱く万物……特に、人間の。そして大なり小なり、人間の『その妖怪はこうした性質を持つ』っていう想いに縛られているものなんだ」
「あ……うん、がふっぐ」
覚えている。だからいたずらをする霊――ポルターガイストとして生まれたロトはいたずらをせずには生きていかれず、ギリシャの酒造りの神のしもべ――フォーンとして生まれたステファンはほとんどの力が酒に関係するものだ。料理の神である祐の力も料理を使ったり食べた者に影響を及ぼしたりするものだし、それぞれ性格も生まれから連想されるものに近い。
「司はね、特にそういうところが強かった。妖怪としての能力とか弱点とかそういうものだけじゃなくて、性格的にね。普通生まれてから長い時間を過ごした妖怪のほとんどは自分を縛る生まれに疑問を抱いて、反発したり対抗する方法を探したりする。そんな風にして自我を育てていくんだ。でも、司は疑問を抱かなかった。強い自我を持ちながら、自分の生まれや、それから来る衝動……飢えを世界中に振りまくっていう衝動に盲従し続けたんだ」
「ん、っぐ。なんで?」
浩はとりあえず一皿目を完食して訊ねた。なんでそんな気持ちを持つのか、さっぱりわからない。
すると、祐は苦笑した。
「僕にも彼の気持ちが全部わかるわけじゃないけど……たぶん、楽しかったんじゃないかな。楽しい、って言ってしまうのは語弊があるけどね。おかわり、いる?」
「いる! ……って、はぁ? んなことしてなにが楽しーんだよ」
「そうだね……浩くん、本能に従うのが楽しい時って、ない?」
「へ?」
「食べ物をばくばく食べてる時とか……腹が立った勢いのままに相手を殴りつけてる時とか」
「っ、べ、別に俺そんな悪ぃことはしてないぜ!?」
「わー、聞かれてるわけでもないのにんなこと言うなんてよっぽど後ろ暗いところがありそーだねー」
「うっせぇぞロトっ」
「うん、もちろん信じてるよ。……でも、そういう、気持ちとかじゃなくて、体が勝手に動くのに任せるのが気持ちいいって感じること、ない?」
「う……まぁ、ある、けど」
「司は、そういう性質が強かったんだろうね。彼の中には『人を飢えさせたい』という衝動が本能と同じくらい強く存在している。飢えるっていうのはお腹を空かせるっていうことじゃなく、足りない∞もっと欲しい≠チていう欲望を感じさせる、っていうことなんだけどね」
祐は目にも止まらぬ速さで新たな食材を切りながら静かに話す。包丁の先が浩の目にも見えないほどだ。
「そして、同時に彼自身が……司本人が誰より強く飢えていた。『餓鬼というのは常に飢えているものだ』と人が考えたから。それに反発して乗り越えるのではなく、衝動に常に従って刹那の満足を積み重ねることで楽になることを彼自身が選んだから」
調味料が宙を舞い、あっという間に味付けされた食材が火にかけられる。七輪の火は魔法のような速さで食材を料理に変えていく。
「だから彼はずっと飢えていた。なにをしても、どんな強い力を得ても、世の中や自身がどれだけ豊かになっても。そして、僕がその、彼の世界を壊してしまったんだ……はい、タンドリーチキンピーマンのピーナッツ和え添え。レタスで巻いて食べてね」
「おぉっ!」
勇んで食べて毎度ながらのうまさに頬を緩ませながら、浩はあれ、と考えていた。なんだか、祐さんが妙なことを言ったような。
「んっぐ、はぐ。……祐さんが、あいつの世界を、壊した、って?」
「よく噛んで食べてね。……僕がまだ二百歳にもならない頃だから……三百年ぐらい前かな。僕は、彼に料理を振舞ったことがあるんだ」
「……はぁ。んっぐ」
「ひどい火事があった場所で、炊き出しをしていてね。ひどく飢えたような表情をしていた人がやってきたから……ああ、彼はオーラを人間のそれのように見せることができるから人だと思ったんだけど。とにかくすごく飢えたような顔をしていたからね、僕はその人に声をかけて、料理……雑炊だったんだけど、それを振舞った。彼は一瞬迷惑そうな顔をしてから、ふふんと笑ってそれを受けた。たぶん、僕に人を満足させることができないっていう飢え≠与えるつもりだったんじゃないかな」
「性格わっりぃな、あいつ。んぁっぐ」
「そうかもね。……でも、彼の目は、雑炊を一啜りしたとたんに変わった」
「へ?」
祐は宙を見る。遠くのものを見る時のように目を細めた。なんとなく、面白くなかった。祐は、今その時の丸を見ている。
「今でもよく覚えてるよ。彼が目を瞠って、ものすごい勢いで雑炊をかき込み出して。あっという間に椀が空になって、さっと新しい雑炊をよそってあげて。少しゆっくり、味わうように二杯目を食べて。少し少なめによそった三杯目、一口ごとに味を覚えようとするみたいに堪能して。食べ終えた瞬間の、ああもうお腹一杯、っていう気持ちを形にしたみたいなたまらなく幸せそうな顔」
「…………」
「僕は、彼の『飢えを満たして』しまったんだ。神として与えられた妖力でね。彼は『満足』という感情を知ってしまった。ずっと刹那の衝動を満たすことで生きながらえてきたのに、心から満たされるという気持ちを。だから、彼はずっと僕を恨んでいる」
「……なんで?」
「おれの妖怪としての根源を否定された復讐だ、って彼は言ってるね。少なくとも、彼がそれからずっと苦しんでいるのは確かだ。なんていうかな……一度お腹いっぱいになったあとは、さらにすきっ腹が堪えるものだよね? それと同じで、彼は僕が与えた満足が忘れられなくて、飢えていることが辛くて、でもそんな自分も許せなくて苦しんでいるんだと想う」
「…………」
すい、と祐が視線をこちらに戻した。
「司は何度も何度も、名前を変え顔を変えながら僕のところにやってきて、僕を打ち負かそうとしてる。僕が彼を満たすことはできない、とやっきになって認めさせようとしてるんだ。これまでそういうことは何度もあったから、穴戸さんの話を聞いた時、もしかしたら、と思った」
「……え?」
「『キリストとシヴァから山童が奪い取った料理を捧げます』。あの呪文がカルパ・タルーの呪文を意識せず作られたと考えるのは難しい。つまり、相手は僕たちに狙いを定めて穴戸さんを罠にかけた可能性が高かったんだ。僕にそんなことをしてまで喧嘩を売ってくるような相手は、司しか思い当たらなかったからね」
「…………」
「もちろん他の人の相手という可能性もあった。僕たちの噂を耳にした妖怪が言葉をもじったり、偶然そういう呪文になった可能性もないわけじゃない。それもあってロトくんに噂を調べてもらったんだ。結果、噂はすべて同一人物がいくつかのIDを使って書き込んだものだとわかった。名前に心当たりはなかったけど、少なくともそれで偶然の可能性はほぼ消えた。偶然なら誰か試す人が現れる前に、もっと噂が広がっているはずだからね」
「…………」
「そして穴戸さんの話の廃工場。あそこらへんの話を聞いてまず間違いないと思った。誰もいないのに声が聞こえる、足が動かなくなる、恐怖の感情が刺激される。僕の知っている司の力でそれらは充分こなせるんだ。司は心を操る術に長けていたからね。心のいろんな部分を喰う≠だって言っていたけど。ステファンさんから相手は姿を消してたみたいだって報告を受けて、司との共通の知り合いに当たってみて、ますますその疑念は強くなった。ロトくんやステファンさんにも聞いて、そんな相手はいない、って確認したから、さらに。最終的に確信……というか、確認したのは浩くんの心に攻撃を加えている司の姿を見た時だけど」
「え……心に、攻撃?」
「うん。司は、人の意思を削ぐことができるんだよ。感情を封じたり刺激したり、そういう術も得意だ。透明になって気付かれないようにしながら、あらかじめ暗示を与えておいたシルバーウルフの人たちの攻撃性を刺激して浩くんに過剰な攻撃を加えさせる。それを見た時の穴戸さんの怒りを刺激して、出刃包丁を渡し、シルバーウルフの人を刺させる。そうしてシルバーウルフの人たちに穴戸さんをリンチにかけさせて、意思を削いで抵抗できなくさせた浩くんを穴戸さんを守れなかったと精神的に追い詰める。そんなところじゃないかな、司のつもりとしては」
「た、祐さん、見てたの!?」
「見たのは血のべったりとついた出刃包丁を持って震えている穴戸さんと彼に襲いかかるたぶんシルバーウルフなんだろうな、って人たちと穴戸さんを守ろうとしながらも腕に力が入っていない浩くん、その横で透明になりながら囁きかける司だけだよ。遅くなってごめんね、できるだけ急いだんだけど間に合わなかった」
浩は内心ほ、と息をついた。あんなところを祐さんに見られたら、俺は死ぬ。
「……じゃあさ、それから俺、どーなったの? なんか急に眠くなったのと、ばしゃって音がしたのしか覚えてないんだけど」
「眠くなったのはステファンさんが眠りの妖術を使ったから。とりあえず人間を全員眠らせないと対処のしようがないから。同時に僕は近寄って司に用意してた染料をぶちまけて、怪我をした人を治した。それから浩くんに、心に影響する術を解除する力を持った料理を食べさせたんだ。目も醒めるし、司がなにか術をかけていても解除できるしね。うまくいけば、だけど……それからは浩くんの見た通り」
「ふーん……あとさ、なんで俺には聞かなかったわけ、敵いねーかとか。祐さんの考えとかも俺聞かされてねーし。そこらへんどーも納得いかねーんすけど」
少しばかり腹立ちの意思を込めた視線を送ると、祐は真剣な顔を悲しげに歪めた。
「ごめんね……よくないとは思ったんだけど、相手に逃げられたくなかったんだ。僕としては、本命は浩くんが全員を集めたところだと思ってた。もし司なら、まず間違いなく動くと思ってたから。誘いだとわかっていてもね。今日見たように、少しでも形勢不利になれば彼は逃げ出す。そしてその余裕がある状況なら、できる限り相手の心を読んで情報を得ようとする。司には僕が彼の存在を警戒しているっていう情報を与えたくなかったんだ」
「……なら、いーけどさ……」
それでもやっぱり少しばかり腹立ちはある。しょうがないとはわかっていても。俺のこと頼りにしてくんねーのかよと思ってしまう。
さらに言うなら、祐が丸野郎に妙に遠慮してる風なのもすんげー気に食わない。あんな奴さっさと焼いちまえばいいのに。
そういうもろもろを浩は少し考えて、ぐいっと皿を突き出した。
「じゃ、おかわり、別の料理。それで許してやるよ」
祐がほっとしたような笑顔になる。
「うん、わかった。なにがいい? リクエストある?」
「あいつに祐さんが出したっつー雑炊」
「え……」
きょとん、という顔になった祐に、浩はぐいっと顔を近づけて言った。
「そしたら、その雑炊の思い出、あいつじゃなくて俺のになるだろ」
「…………」
「うっわコーちゃんチョー自信家ー。三百年のつきあいの相手より自分のが重要だって思ってんだ?」
「っせーなたりめーだろ俺と祐さんは仲間なんだぞっ」
「……うん、わかった。ちょっと待っててね、とびきりおいしいのを作ってあげるから」
「やった!」
浩は思わず笑顔になり、そこを突っ込まれてロトと喧嘩になったので、気付かなかった。
「……ガキというかなんというか。あいつが店に来て一年は経つのに、成長しないな。妖怪同士の、想いに縛られたやり合いに、仲間とかんなこと言ってられんってのに。想いに縛られず、自分が人間側だと疑いもせずに信じてられる奴ってのは幸せなもんだな、ボス?」
「うん……そうだね。でも、僕は嬉しいよ。ああいう風に真っ向から気持ちをぶつけてくれるのはありがたいし、慕われるのはやっぱり嬉しいし……未来だけ見てる彼みたいな妖怪は、僕としては好ましい」
そんな風にステファンと祐が話していたことにも。
「だけど、僕はやっぱり、あの雑炊を一番食べさせたい相手は観童丸だって、思っちゃうけどね」
そう言って祐が、ふわりと、浩の慕ってやまない笑みを、少し困ったように浮かべたことにも。