君よ、俺に惚れろ
「リクト! 走れ!」
「はいっ!」
 全速力で部屋の中に駆け込み、最後尾のジェドがばたんと扉を閉めるのを確認して、リクトははぁっと息をついた。古代遺跡特有の(と、授業で習った)光を反射して鈍色に輝く不思議な素材の壁に囲まれた小さな部屋。普段なら不安を掻き立てられそうな光景に、今は心底安堵する。
「……入ってこねーかな」
「……おそらくは、大丈夫だ。あの手の、魔物は、空間認識能力が、低い。扉で、区切られれば、いないものと、考えてしまう、はず、だ……」
「……そうだな。確かに遠ざかっていくようだ。とりあえずは、休んでも大丈夫、か」
 仲間たちも息を荒げながら(特にエイルは気息奄々疲労困憊という感じだった)、話し合う。とりあえずは休んでもいいだろう、と合意を得て、全員はぁっ、と息をつく。
 ここいざないの洞窟で訪れた旅立って始めて実感した、命の危機。それは仲間たちにとってもハードな経験だったのだ、と再確認して、リクトはぐ、と奥歯を噛み締めた。

 旅立ってから一ヶ月半。その間、もーほんっとーに大変だったが、リクトも仲間たちもようやく旅に慣れてきていた。
 毎日重装備で重い荷物を背負いながら長距離をペースを崩さずに歩き、魔物が現れたら即座に荷物を放り捨てて戦闘体勢に入ることにも、毛布の下のごつごつする感触に耐えながら、寝るとなったら速やかに寝て起きるとなったら即座に起きるという野宿生活にも、あったかい食事が贅沢品という身も心も寒くなる食生活にも、どんどん変わる景色を地図と照らし合わせてきちんと確認して絶えず迷わないよう現在位置と進行方向をチェックする面倒くささにも、パーティー内外の人災にも。
 一応勇者教育を頑張って受けてきたリクトは旅の辛さというのは慣れないなりになんとかこなせはしたのだが、それでもやっぱり四六時中緊張を強いられる生活というのは疲れる。しかもパーティメンバーはしょっちゅう殺し合うわ、街に着いたら着いたでいつものごとく男が群れを成して襲ってくるわで正直憂さがたまってしょーがなかった。
 だがそれでも旅を続けないわけにはいかないし(だって可愛いお嫁さんと幸せな家庭が!)、というので頑張ってゼッシュを怒鳴りエイルに頼みジェドにすがってなんとかここまで旅をしてきたのだが、リクトの心身に澱のように溜まっていたストレスは、爆発する機会をずっとうかがっていたらしい。いざないの洞窟にやってきて魔法の玉で壁を壊そうという時、それは起こった。
「で……この魔法の玉をここに置いて、火をつければいいんだよね。メラでいいのかな?」
「衝撃で外殻が壊れる可能性がある。玉を固定して、導火線に火をつけて、安全なところまで戻ってくる、というのが正しいやり方だろうな」
「そっか、わかった」
「…………」
 こういう知識はエイルに任せて問題はないだろう。なにせ高レベルの賢者さまだ。一ヵ月半の旅ですっかり気安くなった口調で答えてうなずき、魔法の玉を取り出す。
「火をつける役は俺がやろう。俺が一番適役だろう」
「そうですね、お願いします、ジェドさん」
「…………」
 一番足が速く身のこなしも素早くおまけに器用。彼以外にこの役目を任せられる人間はいない。
 話は終わったそれじゃあ安全なところまで下がるか、と踵を返して、リクトは顔をしかめた。目の前にゼッシュがやたら目をきらきらさせながら立っている。
「……なに? ゼッシュ」
「リクト、俺は?」
「……は?」
「俺の役目は? 俺はなにやればいいんだ?」
「…………」
 リクトはぐ、と口を閉じて反射的に口から飛び出しそうになる悪口雑言を封じた。アホか、役目もクソもこの状況でお前が役に立つことがどこにあるんだっつーの! なんでいつもいつも俺にんなこと聞いてくるんだよ!? 俺は俺はって、そんなに目立ちたいのかよ、そーいう自分中心な考え方で目立ったってだーれも認めてなんかくんないんだってなんでわかんないんだよ!
 思い返せば旅が始まった頃からゼッシュには思いっきり迷惑をかけられてきたのだ。毎夜毎晩昼日中まで隙あらば自分を押し倒してくるし、パーティメンバーや町の人(男)がちょっと自分に優しくでもしようものならすぐ噛みついてたいていの場合剣を振り回す。
 そのせいで町の人(ほぼ女性)の自分たちに向けられる視線はほとんど犯罪者を見るもののよーに冷たくなるし、衛視が出張ってきて牢にぶち込まれそうになるのをどうか勘弁してやってくださいこいつはこれでも俺たちの仲間なんですとコメツキバッタのよーに頭を下げさせられたことすら一度や二度じゃない。
 そのくせ本人はそれを全然わかってないっつーか、微塵も悪びれた様子がない。リクト以外の人間にはいついかなる時も真っ向から噛みつくのを、全然悪いと思ってない。
 しかもリクトの話を聞いてるようで全然聞いてない。リクトが必死に注意しても、『だってあいつらはリクトを狙ってたんだぞ!』の一言であっさり跳ね返す。
『俺がリクトを守ってやるからな!』とウザいほどに主張し、その主張さえあればすべての行為が許されると思ってる。守ってやるもクソもこの辺の魔物なら俺だって楽勝だし(いや……そりゃアレなことは何度かあったけど、基本的には)、そもそもほとんどの厄介事はお前が引き起こしてるんだよ! と怒鳴っても『大丈夫だ、どんな厄介事からだって俺がリクトを守るから!』と全然話が通じない。
 アリアハン北東部のエニルヘヤ山脈に入ってからはまだマシだったが、それでも村に下りるたびにトラブルを起こし、鬱屈を溜めてくれるゼッシュにリクトとしてはものすごーく言いたいことがいっぱいあったのだが、言っても通じないことはよーくわかっているので、は、と小さく息をついて言った。
「じゃー、衝撃とかが後ろにこないように壁になってくれる。ジェドさんが戻ってくる時の邪魔にならないようにね」
「おう、任せろっ!」
 にかっ! と明るく笑みを浮かべて親指を立ててくるゼッシュにまたもイラッと神経がささくれ立つのを感じたが、無言でリクトは後方の岩陰に戻って身を潜める。エイルも同様に隣に座り込む。ゼッシュも――
「……ちょっと、ゼッシュ」
「なんだ? リクトっ!」
「なんで俺に抱きついてんの。壁になってくれるんじゃなかったわけ?」
「もちろんなるともっ! だからこうしてリクトを守ってるだろう? 衝撃や埃から完全にリクトを守るには、密着して盾になるのが一番いいからなっ!」
「……あっそ」
「どうしようもない阿呆だな、貴様は。怒鳴る気さえ失せる」
「なんだとぉ、エイルてめぇっ! ふんっ、勝手にひがんでろ、俺はリクトをがっちり愛の力で守ってポイントアップすんだからなっ!」
 エイルに心底同意しつつ(ポイントアップって本人に言っちゃ駄目だろ)、リクトはゼッシュを振り払うのが面倒になって抱きつかれたまま放置した。ゼッシュはリクトより相当力が強いので振り解くの大変だし。
 ……抱きつかれていること数秒。妙に耳元にかかる息が荒いことに気がついた。
「……ちょっと、ゼッシュ、なんか変なこと考えてな……って、どこ触ってんだよっ! あっ、変なもん押し付けんなっ! な、こらっ、そんなとこ揉むなって、やだ、や……」
「リクト……たまんねぇ、いい匂いだ、愛してる、俺のリクト……」
「この状況で愛を語るな恥知らず。貴様の神経の雑駁さは承知しているが、曲がりなりにも魔物の出る洞窟でベタベタするな」
「へっ、うらやましーだろ、ぜってー代わってやんねーよっ。リクト、好きだ、リクト……あーたまんねー、リクトの感触、久々……」
「ひさびさって、ぁぅっ、一昨日も、押し倒してっ、んっ、きたくせにぃ……ひぅんっ」
「一日空いてんじゃんか! しかも最後までできなかったしっ。たまんね、リクト……好きだ……ヤっても、いいよな?」
「貴様いい加減にしろ、殺すぞ」
「! ……なにをしている、ゼッシュ。殺されたいのか」
「うっせー、爆風に怯えて立ち上がりもできねー奴は黙ってろ! リクト……愛してるっ」
「やっ、脱が、すなっ、やだっ、てぇっ、そんなとこ、触っちゃ、やだぁっ……やめっ」
 どっごおぉぉぉぉんっ!
 強烈な爆音と爆風。衝撃波に押され、リクトはすてぺんっと遺跡の床に倒れた。そしてその直後に凄まじく重いものが自分の上にのしかかってくる。
 なんだ、と思うより先に、リクトはげふっと口から息を吐き出した。腹、腹に乗ってる、重い、重いっ!
 衝撃波が治まり始めた頃、ばっと腹にのしかかっていたものが顔を上げ、にっかりと視線を合わせながら笑いかけてきた。
「リクトっ、大丈夫かっ?」
「……ゼッ、シュっ」
 重いんだよさっさとどけ! と怒鳴りたいが腹が重くて声が出ない。怒りを込めて睨みつけると、それをどう解釈したのかゼッシュは頭をかいて照れた。
「なんだよ、リクト、そんなに熱い視線で俺のこと見ちゃって……わかってるよ、リクトが俺のこと好きだってこと、ちゃんと」
「………………」
「なっ、俺ちゃんとリクトのこと守っただろっ? やっぱ他の奴なんかに任せられないだろっ、リクトをちゃんと守れるのは俺だけだろっ?」
「…………………」
「リクト……ご褒美、くれるか? 好きだ、リクト……」
「……………………っ!!!」
 どんっ、と顔を近づけてくるゼッシュを突き飛ばしてリクトは立ち上がり、ばきぃ、とゼッシュの顔に本気のパンチを入れた。驚いたような顔をするゼッシュに、無駄とはわかっていても言わずにいられなくてがーっと怒りと苛立ちと憤懣を一気にぶつける。
「アホか! バカか! なに考えてんだこのスカポンタンっ、この状況でなんでご褒美とか抜かせるんだよっ、ちっとも守れてないだろーが! そもそも守ってくれとか一度だって俺はお前に頼んでない! 余計なお世話なんだよいっつもいっつも、つきまとうなよ鬱陶しい!」
「え……」
「いっつもいっつも俺を守るとか言って厄介事ばっかり起こして! お前の尻拭いで俺がどんだけ苦労してるかわかってんのか!? 毎日毎日襲いかかってくるな、俺はお前とヤりたくなんてないって何度言ったらわかるんだ!」
「だ、って、リクトは」
「お前を愛してるとでも言いたいのかよ!? バカか、アホか、いっぺん死ね! 俺はホモじゃないって何度言ったらわかる! 男につきまとわれたって俺はちっとも嬉しくなんてないんだよ! 愛されたって虫唾が走るだけだ! 毎日毎日状況読まずに勝手に愛押しつけてくるなっ、お前なんか……」
 かぁっと頭に血が上った状態で、一瞬深く息を吸い込み。
「ゼッシュなんか、大っ嫌いだーっ!」
 ゼッシュの表情が一瞬、固まった、と思った。言ってから一瞬、あっ言いすぎたかな、とちらっと思った(直後にいやいやそんなことはないこのくらい言って当然、と自分に言い聞かせたが)。
 が、そんななんやかやの感情をはっきり認識することはできなかった。リクトがそう思いきり怒鳴った直後、ずわん、という音と共に空間が歪んだからだ。
「………っ!?」
 思わず全員飛びのいて武器を構える。だがそれより歪んだ空間から緑色の魔物――いいや、魔族が出てくる方が早かった。
 ずり、ずり、と空間に開いた穴から出てきたのは、緑色の肌の人間の子供くらいの大きさの、フォークを持った魔族――ミニデーモンだった。
「……っ!」
「でぇぃっ!」
「馬鹿、よせ!」
 ゼッシュが斬りかかるが、ミニデーモンはそれを素早くフォークで受けた。そして、なぜかリクトの方を見て、にたぁ、と笑った。嬉しそうに。というか、頬をほんのり赤く染め、いってみればいやらしく、スケベったらしく笑ったのだ。
「…………」
「リクト見ていやらしい笑い浮かべんじゃねぇーっ!」
 ゼッシュが凄まじい勢いで打ちかかったが、ミニデーモンはそのことごとくを巧みに受け流しながら素早く呪文を唱えた。人間には発音不可能なその呪文は、さらに空間を歪め、ガメゴンロードやらフロストギズモやら地獄の騎士やらホロゴーストやら、この地上でも最強の部類に属するモンスターを大量に喚び出したのだ。
『……………っ!!!』

「あれは結局、お前の体質のせいなんだろうな。たぶんあの魔族はあの近辺を通っていたところなんだろう。そしてお前のフェロモンを感じ、やってきたというわけだ。お前のフェロモンは魔族にも有効だと証明されたわけだ、よかったな」
「全然よくないだろ! このままじゃ死んじゃうよ俺たちマジで! ていうか今まではこんなこと一度もなかったのに、なんで……」
「偶然の要素も大きいだろうが、おそらくは冒険に出てからの緊張と疲れが怒りによって爆発したことでフェロモンも爆発したんだろうな。体質というのは体調と精神状態に想像以上に大きく左右されるものだ」
「……そんな」
「大丈夫だ、リクト」
 一応安全な部屋でエイルと語り合うリクトの肩に、ゼッシュがぽんと手を置く。
「お前は俺が守ってやるから!」
「………………」
 ぶちっ。
「そもそもお前のせいだろおぉぉぉ! なんで自覚してないんだよ罪悪感ゼロかよいい加減にしろ変態これで死んだら一生、っていうか来世まで恨んでやるからなーっ!」
「……リクト、来世まで俺と一緒にいる覚悟を決めてくれたのか……!」
「そこに注目するなぁぁぁ!」
 胸倉をつかんでがっくんがっくん揺らしながら怒鳴るが、ゼッシュはちーとも堪えた様子がなくむしろ嬉しげににへにへしている。心底ムカつく……! とぎっとそのしまりのない顔を睨みつけ、見ててもただイライラするだけだと理解してどんっ、と怒りを込めて突き飛ばしてエイルとジェドの方を向いた。
「どうしよう、エイル、ジェドさん。いったんリレミトして逃げた方がいいかな?」
「それも方法ではあるが……あれだけの魔物を召喚する魔族から空間跳躍で逃げられるかというと正直心もとないな。お前のフェロモンに引き寄せられたとなると、どこまでもついてきそうな公算の方が大きいし」
「となると……なんとかしてあの魔族を倒さなくてはならんわけか。あいつの強さはどれくらいかわかるか?」
「あの魔族はミニデーモン……魔族の等級としては中の下というところだが、地上に存在する魔物と比べれば上の下になる。魔法に長け、冷気を吐く。一体なら俺たち全員の全力でかかれば倒せない相手ではない、が……」
「周囲の魔物が問題だな」
「ああ。魔族は等級に応じてある程度の魔物を操れる、おそらくあいつは魔物たちに囲まれて魔物が成果を上げるのを待ってるだろう。その壁を突破するのは相当困難だ、が――手がないわけじゃない」
「手? って?」
「魔族が操れる魔物の数には限界がある。あれほど強力な魔物どもを呼び出したんだ、多めに見積もってもあれに加えて数体だろう。つまり、壁の層はそう厚くはならない、ということだ」
「……ふむ。となれば、一瞬混乱させて強襲すれば、壁を突破しあの魔族までたどりつける可能性は高いな」
「ああ。壁となる魔物たちは倒さない方がいい、新たな魔物を呼ばれる可能性がある。俺がレミラッパ――閃光の呪文を使って一瞬壁の魔物たちを混乱させる。その間に突っ込んでミニデーモンを倒せ。無事倒せればとっとと逃げ出して、リレミトするなり場所がよければ旅の扉の間まで進むなりすればいい」
「わかった」
「……わかり、ました……」
 おずおずと答えると、エイルはわずかに眉をひそめてこちらを睨んだ。リクトは思わずわたわたと慌てる。
「な、なにっ?」
「なにか文句でもあるのか。言いたいことがあるならはっきり言え」
「い、いや、聞きたいことっていうか」
 少し口ごもったが、意地になっていわないのもおかしいし、と上目遣いで告白した。
「エイルって、すごく頭よくて、頼りになるなー、って思って」
「………………」
 エイルは珍しく目を見開いて驚きを表したが、すぐにふん、と鼻を鳴らしつつばさりとマントを翻した。
「ふん、いまさら気付いたか、お前はまったくどうしようもなく間抜けな奴隷だな。主人の能力も把握しておらんとは」
「まだ奴隷扱いなんだ俺……」
「当たり前だ、愚か者が。せいぜい主人と自分の命のために死ぬ気で働くことだな。お前の攻撃力も……重要な戦力のひとつとして、計算しているんだからな」
「……うん」
 エイルなりに『頼りにしている』って言ってるんだろうなー、と思ってリクトは思わず微笑んでしまった。仲間に頼りにされるっていうのはリクトにはあんまり経験のないことで、ちょっとくすぐったいけど、嬉しい。
「リクトっ、俺も頼りになるぞっ!? リクトのことちゃんと絶対命懸けで守るし!」
「ゼッシュうるさい。……じゃあ、どういうタイミングで行きます?」
「ジェド、扉の向こうの気配はどうなっている?」
「ちょっと待て。……まだすぐそばを何体かうろついているようだな……が、足音からすれば合間を縫って行けなくはない、程度に間は空いているようだ」
「よし、ならジェドを先頭にして扉を蹴り開けて突っ込め。俺はその後方から魔物どもが全部こっちを向いた瞬間を見計らって思いきり魔力を集中させたレミラッパをぶつける。おそらくミニデーモンは一番後方にいるはずだ、魔物どもが怯んだ隙を狙ってそこまで一気に走り抜け攻撃する。あとは雲を霞と逃げ出すだけだ。いいな?」
「わかった」
「うんっ!」
「リクトっ、俺は俺は? 俺はなにすればいいんだ?」
「ゼッシュうるさい」
「話を聞いてなかったのか貴様。一人魔物に取り巻かれて死ぬか?」
「やかましいっ、ただちょーっとリクトの可愛い口から俺へお願いしてほしいな、って」
「ゼッシュ、うるさい」
「……はい。すいません」
 見るも哀れに萎れた、と表現するべきところなのだろうがこの状況でははっきり言って哀れとか思えない。ふんっ、とそっぽを向いて、ジェドの後ろにつけた。
 正直、緊張する。本気で命を懸けた戦いなんて今まで自分はしてこなかった。だけど負けるわけにはいかない、こんなところで死んでたまるか、自分にだって譲れないものはあるんだ(可愛いお嫁さんとか幸せな家庭とか)。
 と、ジェドがこちらを向いて、ふっと笑った。
「え……なんですか?」
「……あまり緊張するな。俺たちならば、うまくやれる」
「………はい」
 リクトはうわーやっぱりジェドさんも頼りになるなー、と思いつつ照れっと笑ってしまった。自分だって命懸けの状況なのに、仲間を気遣えるなんてこの人は本当の意味で大人だ。
「リクトリクトっ、心配しなくても大丈夫だぞっ、俺がついて」
「ゼッシュうるさい」
「……はい。すいません」
「よし……いいか。行くぞ」
「はいっ」
「いつでも」
「偉そうに言うな!」
「……3、2、1――」
 どんっ、と思いきりジェドが扉を蹴り開け、疾風のような速度で魔物たちの群れに突っ込む。リクトも全速力でそれに続いた。
 魔物たちがこちらを向き、くぱぁ、と口を開いてこちらを襲ってくる――と思った瞬間カッ! と目の前が真っ白になるような閃光がほとばしった。エイルだ。エイルの方を向いていないリクトたちでも一瞬目が眩んだのだ、まともに光を目に入れた魔物たちはのたうちまわって悶えた。
 ガメゴンロード、地獄の騎士、フロストギズモ、ホロゴースト、そいつらの間を通り抜け走り抜け、最後尾にいる敵の姿が見えた。緑の肌のフォークを持った魔族、ミニデーモン。そいつは自分たちが出てきたことに、目を丸くしたように見えた。
 ジェドが滑るようにミニデーモンに近づく。ミニデーモンは素早く呪文を唱え、ジェドにぶつけた。あの火球の大きさ、メラミだ。普通の人間なら五回死んでお釣りがくるその熱死の炎をジェドはまともに受け止めた。
「―――っ!」
 一瞬息が引きつる――だがジェドは煙がおさまるより早く、まるで傷の痛みなどないかのように稲光の速さでミニデーモンに近づき、アサシンダガーを振るった。ミニデーモンはかわそうとするがその動きはダガーよりあまりに遅い。
 ずばぁっ! とほとんど首が落とされんばかりの勢いで斬り裂かれ、赤い血が噴き出した。魔族なのに血は赤いのか、と頭のどこかがちらりと思ったが、頭の大部分は俺がなんとか倒さなきゃ! と必死の思いでぐるぐるしている。
 まるで水をかくようにのったりとしか動かない体を必死に動かしてミニデーモンに迫る。ミニデーモンはだぼだぼ血を噴き出させながらも、こちらを見てにたぁ、と笑ったように見えた。うっ、とさすがに背筋に悪寒が走り、その拍子に思い出す。
 魔族というものにはすべてその存在を支える核≠ェ存在する。ミニデーモンの核は――
「はぁっ!」
 長年の奉仕の報酬として(というのが凄まじく嫌だが)アリアハン王から(母親が)分捕ってきたアリアハンの国宝、バスタードソード。それを腰だめに構え、リクトは全速力で突撃し――狙いあやまたず、ミニデーモンの腹を貫いた。
 一瞬驚愕の表情をミニデーモンが浮かべ、ぼすっ、と音を立てて塵となった。一瞬で。魔族が核を壊されたら終わりだというのもミニデーモンの核が腹にあるというのも、授業で得た知識だが役立ってくれた。
 はぁっ、と深く息をつき、小さくガッツポーズする。ついつい顔がにやける。今のは、正直、ちょっと俺すごいかも、と思ってしまった。今女の子が見てたら俺に惚れてくれるかも、ってぐらい。
「なにを呆けてる、逃げるぞ!」
「え、あ、はいっ!」
 エイルに怒鳴られ後頭部をはたかれて慌てて走り出す。そうだ、あの魔物たちからとっとと逃げ出さなければ。魔物たちは混乱から立ち直り、吠えたり喚いたりしながらこちらを追ってくる気配を見せている。
 全員全速力で先へと進む。さっきエイルも言っていたが、魔物というのは空間認識能力が低い。とりあえず振り切ってしまえばそれ以上追ってくることはないはずだ。
 ない、はずなのに。
「なんでどいつもこいつもすごい勢いで追ってくるんだよぉぉぉ!?」
「馬鹿、かっ、喋る余裕がある、なら、はし、れっ」
「んなこと言ってるエイルの方こそ喋るより走りなよ!」
「ギャオォォン!」
「ムオォーン」
「ギッヂャギッヂャギッヂャ」
 呼ばれた魔物たちはどれももうとうに視界から消えているはずなのに少しも諦める気配がない。まるで匂いを嗅ぎ当てた猟犬のようにしつこくしつこく追ってくる。当然ながら体力勝負では向こうの方が圧倒的に上だ、全員体にずっしり疲労がのしかかり、少しずつ少しずつ追いつかれ始めた。
「こいつらっ、どこまでっ」
「おそらくは、お前の、フェロモンに、引き寄せられて」
「だから喋るより走れって、っていうか俺のフェロモンって……」
 こんな時にまで俺の体質は足を引っ張るのか、っていうかこいつらみんなオスかそりゃ俺はこれまでどーぶつにのしかかられたり腰振られたりされてきたけどなんぼなんでもこーいう時にまで、とリクトは心底泣きたくなったが、現在の状況下でのんびり泣いていては命が危ない。
 ぜぇはぁ息をつきながら走って、角を曲がって、はっと思い出しリクトは叫んだ。
「そうだ! リレミトで一回洞窟脱出すればいいじゃないか! もともとそういう予定だったしっ」
 もー俺たちってばバカだなー、と笑ってしまいそうなほどほっとしつつ言ったその言葉は、だがエイルにきっぱり苦々しげに否定された。
「あほ、うっ、リレミトは、ぜぇっ、集中と、詠唱に、時間が、はぁっ、かかる、せいでっ、戦闘中、ひぃっ、のようなっ、落ち着かん、状況ではっ、ふぅっ、使えん、呪文、だろうがっ」
「あ……っ」
 リクトは思わずさーっと青くなった。そうだ、そうだった。リレミトはそういう呪文だった。下手をすれば追いつかれてしまうという現在のような状況下では使えない。
 じゃあ、どうすればいい。まだ旅の扉の間までは遠い。このままではどう考えても追いつかれる。あれだけの魔物に襲われては、生き残れる可能性はほとんどゼロだ。
 どうしようどうしようどうしよう。死ぬのか、死んでしまうのか。こんなところで。まだ可愛いお嫁さんどころか自分のことを好きと言ってくれる女の子にすら会ってはいないのに――
「……集中する時間があれば、使えるんだな?」
 ゼッシュが荒い息の下から訊ねる。妙に平板というか、平静というかな口調で。エイルもその不自然さを感じ取ったのだろう、眉間に皺が寄った。
「そう、だが、なにを、考えている」
「俺が、時間を稼ぐ。お前らは先に行って、安全な場所でリレミト使え」
「……はあっ!?」
 リクトは思わず叫んだ。別にゼッシュが英雄を気取りたがるのはこれが初めてじゃないが、いくらなんでも今回のはひどすぎる。
「ばっかじゃないの!? お前そんな風に自分の体なげうったら俺がカッコいいと思ってくれるとか思ってるのかよ!?」
「お! リクト俺のことカッコいいって思ってくれたか!?」
「思うわけないだろばっかじゃないの!?」
「……そうですか」
 しょぼん、と走りながら器用にしょぼくれるゼッシュを、リクトはぎっと睨む。
「今回はそーいう風にふざけていい場面じゃないだろ! 空気読めよ、相手は世界でも最強レベルの魔物なんだぞ、本っ気で死ぬんだぞ!? 洒落やカッコつけで命捨てていいなんて思ってんのか、そんな考え方しかできないなら家に帰ってヘソ噛んで死ねバカ!」
「リクト。俺は、洒落で言ってんじゃねぇよ」
「え」
「俺はお前の前で、洒落でカッコつけたことなんて、一度もない。今回だって、死ぬ気の本気だ」
「…………」
 リクトは思わずぽかん、とした。言っている内容にもだが、ゼッシュがこちらをぎっと睨みつけるような視線で見てくるのにも驚いた。覚えてる限り、そんなのは初めてだった。リクトの記憶にあるゼッシュは、いーっつもこっちをでれでれへらへらしたとろけそうな緩い顔で見つめてきていたからだ。
「魔物が、襲ってこなければリレミト、使えるんだろ。俺が時間稼いでる間に先行って、呪文使う。できねーとは言わせねーぞ、エイル」
「……確かに、できんとは、言わんが、かなり、時間が、かかるぞ。その間、一体も、こちらに、寄せ付けない、なんぞという、ことが、できるのか。相手は、世界でも、最強レベル、なんだぞ」
「できる。向こうの動きは、さっき観察した。追ってくるのは移動速度の違いで、ばらばらになってるんだ、しのぎきるくらいできるさ」
「……だが、リレミトを、遠距離の、相手に、かけるのは、難しい。下手を、したら、時空の、狭間に、吹き飛ばされるぞ」
「ほー? お前いっつも賢者だって威張ってるくせに、こーいう時にはヘタれるのかよ。それでも男か、根性入れろ!」
 ゼッシュが睨んで怒鳴った言葉にむ、と顔をしかめ、エイルはぶっきらぼうに言った。
「せいぜい、死なないように、しろよ。死体に、リレミトを、かけるなんぞ、魔力が、もったいないからな」
「へっ、言われるまでもねぇよ」
「……俺も行こう。一人より二人の方が、やりやすいはずだ」
「バッカ、お前はさっきメラミ食らった時の傷、まだ全然回復してないだろ! リクトにきっちり、回復してもらってからにしろ、お前俺より防具薄いんだから!」
「……え」
「リクト、ジェドのこと頼むぜ。きっちり治して、エイルとまとめて面倒見てやってくれよな」
「面倒、って」
「だいじょーぶ。リクトのとこには、一匹だって魔物来させたりしないからな」
「なに、言って」
「いっつも言ってるだろ。俺がリクトを守る、って」
 にっ、と口の端をあげて自分に笑いかけるゼッシュの顔は、あんまりにもいつも通りで、嬉しげで、自分のことカッコいいと思ってそうな感じがひどく間抜けな感じで、ちょっと緩くて―――
 なのに。
 くそ、とぎりっと奥歯を噛み締めつつ、リクトはぴたっと足を止めて、素早く剣帯を外してばっと愛剣をゼッシュに突き出した。同じように足を止めたゼッシュがぽかんとした顔になる。
「リクト……これって」
「知ってるだろ。アリアハンの国宝、バスタードソード」
「だって、お前、これ俺がいくら使わせてくれって言ってもこれは俺の報酬なんだからって絶対使わせてくんなかったのに」
「今はそーいうこと言ってる場合じゃないだろ! ちょっとでもいい武器が必要だろっ、いらないって言っても押し付けるからな!」
 ていうかそんなこと抜かしたら絶対殴ってやる! とぎっと睨みつけると、ゼッシュはへへっ、とちょっと照れくさそうに笑った。……ゼッシュが(普通に)照れたところなんて初めて見たかもしれない。
「ありがとな。……じゃ、俺の剣、渡す」
「え」
「リクトにだって武器、必要だろ」
 言いながら剣帯を外し、ゼッシュはすっと使い込んだ鋼の剣を差し出した。なんだか妙に気恥ずかしくなってから、なに恥ずかしがってんだ! バカか俺は! と思いつつぶっきらぼうに剣を交換する。
 なんだか妙におごそかな表情でバスタードソードを受け取って腰につけ、にっと笑った、と思うとゼッシュは軽く『行ってきます』のサインを送り走り出した。
「じゃーなっ! 心配しなくてもすぐ戻ってくるからなーっ!」
 あっという間に姿を消すゼッシュをあのクソバカっ生きるか死ぬかの時にちょーしこきやがってっ、と怒りを込めて一瞬睨みつけてから、リクトはジェドに向き直った(エイルはとうの昔に呪文の集中と詠唱を始めている)。
「ジェドさん、急いで治すんで、できるだけ力抜いてくださいねっ」
「……ああ」
 静かに言うジェドにうなずいて、リクトはホイミの詠唱を始めた。

 ゼッシュは全速力で魔物のところへと向かいながら小さく笑っていた。だってなんたってこの状況。神様がプレゼントしてくれたのかと思うくらいおいしいシチュエーションだ。
「リクトを守って命懸けで戦う俺! リクトの好感度うなぎのぼり! ポイントアップ間違いなしっ!」
 さっき「大嫌いだーっ」とか言われてしまってもう超弩級にショックだったが(別にリクトに大嫌いと言われたのはこれが初めてじゃなかったがショックなのには変わりない。もちろんそんなのはリクトがただ素直になれなかったりするだけでホントのホントは自分のことを愛してくれているとわかっているけれども!)、それを一気に取り返せるくらいのナイスシチュ。だってだってリクトは俺のこと愛剣を貸すくらいに心配してくれてるんだもん!
「剣を交換してお互いの無事を祈りあう二人! くぅっ、チョー恋人っぽいぜ! いや、俺的にはもちろんもーチョーラブラブな恋人同士だけど!」
 この信頼と愛に応えないで、なにが戦士か男かってもんだ。なにより自分はリクトが傷つくのは絶対に嫌だ。なんとしても絶対に――
「てめぇらをリクトのところへは通さねぇーっ!」
 ゼッシュはそう叫びつつ魔物たちの先頭のフロストギズモへと剣を振りかざした。

「優しき神の御手よ、その恵みをここに、命と魂の力もてこの者の傷癒したまえ!=v
 リクトの必死に集中して唱えたホイミは(まだリクトはホイミしか使えない)、ジェドの傷をまたある程度癒した。だが完全には傷は塞がっていない。駄目だっ、と唇を噛んで、リクトは集中を再開した。
「リクト。もういい。もうほとんど傷は塞がった」
「駄目ですっ、ちゃんと全快しないとっ、本当にひどい怪我だったんですからっ」
「もういい。……あいつを助けに行きたいんだろう」
「……それは、別に、そういうわけじゃ」
「俺も、あいつが心配だ」
「……でも」
 自分だって別に心配してないというわけじゃない。それは確かだ。でも今はちょっとの傷がそれこそ生死を分ける状況だ、ゼッシュを助けにいくというのはそれこそ命懸けの戦いを覚悟しなきゃならない。ならその前の下準備はできるだけきっちりやっておくべきだし、そもそもあいつもう殺されてるかもしれないわけだし、だったら急いだって意味ないし――
 違う。本当は、ただ。
(ゼッシュ、ずるい。卑怯だ)
 こんな状況で、そんなことを言っている場合じゃないのはよくわかっていたけれども。
(ゼッシュ、ずるいよ。反則技だよ。いっつもいっつも俺に迷惑ばっかかけて、自分の都合押しつけて、勝手なことばっかりしてきたくせして。どうして、こんな時ばっかり。こんな、命懸けの時ばっかり)
 リクトを守ると、当然のように飛び出していった背中。命懸けの、死体を貪られて蘇生できない本当の死を与えられかねない状況下で、あいつは。
(あんな風に、いつも通りに、笑って)
 まるで本当に、いつも命懸けで自分のことを想ってきたかのように。
(錯覚しちゃうじゃないか。あいつの気持ちが本当に、少なくともあいつには命懸ける価値があるものみたいに)
 いっつも迷惑ばっかり押しつけてきたくせに。状況わきまえずすぐやらしーことしてくる淫獣のくせに。その前に本当に、もー大っ嫌いこいつ本当に愛想尽きた、ってくらい腹立てたばっかりなのに。
(俺を守るって、命懸けの状況で言い切って、本当に飛び出していっちゃって……)
 ずるい。卑怯だ。反則だ。こんなことしたって、ゼッシュが迷惑で鬱陶しくて腹の立つ基本使えない奴なのは全然変わりないのに。
(本当に死んじゃったらどうするんだよ、ゼッシュのバカヤロー……!)
 悔しい。こんな時なのに。あいつに人として負けてるって、そう思えてしまってすごく悔しい。あいつのやってることはどう考えてもずるいのに。そのくせ妙に、なぜなのかわからないけど心臓の辺りが痛いくらいひりひりする。ゼッシュが今も戦ってるって思うと、もうたまらなくて今すぐ走り出したい気持ちも最初からあって。
 そんなややこしい気持ちでぐるぐるして、ホイミに集中することも、ジェドの言葉にうなずいて駆け出すこともできない。
(なにやってんだ俺……本当、バカすぎる……)
 自分でもう、わけわかんない。
 なにも言えなくなってうつむくと、突然すぱーん! と頭をはたかれた。
「たっ……え、エイル!?」
「阿呆。なにをぐだぐだ考えている」
「ぐだぐだって……っていうかエイル、リレミトの詠唱はっ!」
「諦めた。無理だ」
「はぁ!?」
「そもそも規格外品でもないのに緊急脱出的にリレミトを使えるわけがない。こんな切羽詰った状況で集中なんぞできるか」
「できるかって、そんな、それじゃあいつが」
「……だからとっととあの阿呆を助けに行って、改めて徒歩で逃げ出すなり魔物を殲滅するなりすればいいだろうが。冒険中にぐだぐだ考えている余裕なんぞあるか!」
「っ」
 そうだ。今は冒険中だ。
 ぐだぐだ考えている暇はない。悩んでる暇があるなら行動しなきゃ。このややこしい気持ちをなんとかするのは、冒険が終わってからでもできるんだから!
「っ……!」
 ぱんぱんぱん、と頬を全力ではたいて。
「ごめん、行こう! すいませんジェドさん、あとでちゃんと治します!」
「ああ」
「馬鹿者、お前のホイミなんぞに頼らずとも俺があっさり治してやるさ」
「…………」
 一瞬の沈黙にほとんど気付きもせず、リクトはだっと通ってきた道を駆け戻る。頭の中は真っ白だ、ただ衝動のままに足を動かした。
 なにがなんだかよくわかんないけど――ゼッシュは助けなきゃ。だって、あれでも、あいつは俺の。
「ゼッシュっ……!」
 叫びかけた声を、リクトは喉の奥に押し込めた。
 ゼッシュがいた。ガメゴンロードと一対一で向かい合って。
 他の魔物は、と目を走らせて、塵になりかけた地獄の騎士の骨を見て、もしかしてゼッシュが全員倒したのか!? と理解して仰天し、おそるおそるゼッシュを見つめて息を呑んだ。
 ゼッシュはぎっとガメゴンロードを睨みつけている。バスタードソードを右手に、鉄の盾を左手に。あちこち破損しひび割れた鋼の鎧をまとい、鉄兜を跳ね飛ばされ、体中からだらだら血を流しはぁはぁと息を荒げながら、それでも毅然と敢然と顔を上げ。
 今まで見たことのない顔だった。ゼッシュがそんな顔をするなんて想像したこともないような。鬱陶しくて迷惑な幼馴染の顔ではなく、陳腐な言い方になるのを承知で言えば、男の顔だった。
 ぞくり、と背筋に悪寒が走った。恐怖と、対抗心と、闘争心と、あとそれから、憧れるように単純に『カッコいい』と思う感情と、だいたいそのへんのいろいろで。
 ガメゴンロードはほとんど傷を負っていない。自分の優位を確信しているのか、大きな体で傲然と悠然とゼッシュを見下すように見て、それからふっとこちらに視線が向き――一瞬目が瞬いた、と思ったら「ゴオォォオ!」と吠えた。
 ゼッシュがわずかに眉を寄せ、一瞬ちらりとこちらに目をやる。とたん、その顔が輝いた。いつもと同じように。
「リクトっ! 俺の活躍を見に来てくれたのかっやっぱり俺たちは心から通じ合ったラブ」
「どこ見てんだよそ見すんな馬鹿ゼッシューっ!」
 リクトは絶叫して駆け出した。リクトだってわかる、ゼッシュとガメゴンロードの対峙は一瞬でも隙を見せればたちまち畳み込まれるような息詰まるものだった。そんな時に、本当に心からの馬鹿かこいつは! と別にゼッシュを庇わなければ、とか思ったわけじゃないが、ただ体が勝手に動いて、思わず駆け出して――
 そしてゼッシュの顔が変わったのを見て、足が止まった。その時のゼッシュの顔はさっきまでともまた違った。気迫というか、殺気というか、もうほとんど鬼気に近い気配があった。
「リクトに」
 ぐるん、と体を回転させ、自分の方にかゼッシュの方にか動き出したガメゴンロードの進路に割り込み、回転の勢いのままにバスタードソードを振り下ろし。
「手出しっ」
 ギャオォォン! と怪獣そのものの声でガメゴンロードが吠え、ぶぅん! と硬そうな頭を振り回して頭突きをかまされても、一瞬よろめいただけで退きもせずに、むしろその反動を利用して口の中めがけて突きを放ち。
「する奴はっ」
 ガアァァア! とガメゴンロードが絶叫し、腕に牙を突きたてても、強く歯を噛み締めただけで声を上げもせずに人間離れした力で剣を振り回し――
「許さねぇぇぇっ!!!!」
 ずばぁっ! と音を立てて、頭を割り裂いた。
「ゼッ……」
「リクトっ大丈夫かっ怪我してないかっもう大丈夫だからなお前を変な目で見る奴は俺が」
 そしてにっこー、といつもの全開笑顔でこちらを向いた、と思ったらそのままその場にぶっ倒れた。
「………ゼッシュ!?」
 仰天して駆け寄りしがみついて揺さぶる。だがゼッシュは顔は笑顔のままなのに、目はしっかりと閉じられていて開かれる様子がない。
「ゼッシュ、ゼッシュっ! ちょっとやめろよ、しっかりしろよゼッシュっ、おいってばっ!」
 揺さぶっても、叩いてもゼッシュは目を開けない。体からはどんどん温度が失われていく。さーっ、と体から血の気が引いた。
「ゼッシュ……ちょっと、やだよ、しっかりしてよ、ゼッシュってば……ゼッシュっ!」
「どけ」
 ほとんど縋りつくようにしてゼッシュを揺さぶっていた自分を、後ろから突き飛ばしたのはエイルだった。突き飛ばされるまま地面に転がった自分をよそに、エイルは呪文の詠唱を始める。
「あ……回復、呪文」
「……我を忘れていたようだな」
 ぽん、とジェドに頭に手を置かれ我に返って、猛烈な羞恥にカーッと頭に血が上ってきた。なにやってんだなにやってんだなにやってんだ俺。旅初めてもう一月半も経つってのに。物心ついたころから戦いの訓練してきたのに。曲がりなりにも勇者って呼ばれる存在だってのに。
「……ごめん、なさい」
「謝ることはない」
「でも……俺」
「謝ることがあると思うのなら、それを伝えて直すべき部分を直すようにすればいい。……仲間と思う相手には、それだけで充分だ」
「ジェドさん……」
 自分よりだいぶ高いところにあるその顔を見上げる。とたん、その輪郭が歪んで頬に熱いものが流れた、と思ったら横隔膜がひくっと鳴き声を上げた。ジェドが表情を固まらせたのを見て、やばい、と思ったが一度火がついてしまったものはどうしたって止まらない。
「う……う゛……う゛わ――――――っ!!」
「リ……リクト」
「う゛わ――――――っ!!」
「……なにを泣いている、馬鹿者。というか誰に抱きついている」
「う゛わ――――――っ!!」
 子供のように泣きじゃくって、ジェドやエイルに抱きついてわんわん泣いて、収まった頃には、ゼッシュの呼吸はもう安らかなものへと変わっていた。
 まー考えてみれば死んでも遺体さえ無事なら生き返れるんだからそこまで盛り上がる状況じゃないんだけど。

「……え?」
 きょとんとした顔をするゼッシュに、リクトは顔が真っ赤になるのを感じながら、ぶっきらぼうに怒鳴るように言った。
「だから、お礼! ……命助けてもらったようなもんだし……お礼くらいするのが、人としての筋ってもんだろ」
 あれからリレミトとルーラを使って戻ってきたレーベの宿屋で、ゼッシュはベッドへと直行した。本人はもう意識も戻ってるし大丈夫だと主張したのだが、エイルの(ひどく嫌そうな顔をしながらの)診断によると一日は結界の張ってある安全な場所の宿屋できちんと休まなければならない、ということだったのでそういうことになったのだ。
 ゼッシュは最初はぶーぶー言っていたが、リクトが付き添う、と言うとうって変わってご機嫌になった。お見舞いというわけでもないが、持ってきた林檎を剥いてやろうか、と言うと喜色満面の笑顔でこくこくうなずいてきたりして。
 そしてうれしそーな笑顔でにへにへしているゼッシュに、リクトが「なにかお礼にしてほしいことはないか」と言ったのだ。
 なんとゆーか、リクトの心情としてはそう簡単に決着がつけられることではない。ゼッシュのバカヤロー、とは今も真剣に思うし(いろいろな意味で)、でも勝手に頭をぐるぐるさせて行動を遅らせたのは本当に悪かったなーと思うし謝りたいなとも思うし、でもそーいうのを素直に言ったら絶対図に乗ると確信できるし(少なくとも今は)、でも自分なりにゼッシュに感謝の意は伝えたいし、というので行き着いたのが『お礼』だった。
 ひとつお礼をしてやることでとりあえず貸し借りをなしにして明日からすっきりした気分で相対……しちゃっていいのかなぁゼッシュに悪いんじゃないかなぁと実は思ったりしているが、だが深く考えると自分の性格上絶対深みにはまりそうなのでエイルとジェドにも相談してこう決めたのだ。今は魔王を倒す(≒可愛いお嫁さんをもらう)ための冒険の途中なのだから、考えすぎて足を止めては元も子もない。
「なんでも……とはいえないけど、ちょっとくらいのお願いなら聞いてやるし……ほしいものがあったら買ってきてやるし……なんかしてほしいことがあったらしてやるし……そのくらいなら俺もしてもい」
 顔を赤くしながらうつむいてぽそぽそ喋っていたリクトの言葉は、ぐい、と体を引き寄せられ、がっし、と抱きつかれて止まった。
「リクト――――っ!!! そうかとうとう決心してくれたんだなっ、受け容れてくれたんだな俺の愛を! いや受け容れてくれてたのはもちろん知ってたさ、けどシャイなリクトがそんなにもはっきり俺への気持ちを表してくれるなんて……! これはもう結婚するしか」
「違――――っ!! 待て、ちょっと待て! 違うだろ、俺今そんなことなにも言ってないだろ! 俺はただお礼がしたいって」
「なにを言ってるんだリクト、俺たちは愛し合ってるだろ? 恋人同士の間でお礼なんてそんな水くさい。あ、でもせっかくお礼してくれるっていうんだったらぁ……」
 ゼッシュはにへらぁ、と顔を笑み崩してでれでれと一人勝手に言う。
「とりあえず膝枕と看病プレイは必須だよな。せっかくのお見舞いシチュなんだしさ! 普段リクトってそーいうプレイとか恥ずかしがってあんまやってくんないじゃん? いやそーいうリクトのシャイなとこすんげー可愛くって大好きだけど! たまにはこう、明るく愛を交し合うのもありじゃないかなーってさ! それからさー、リクトにお口でご奉仕してほしい! せっかくの機会なんだしさ、まーリクトは気持ちよくなってきたら積極的にやってくれるけど。なんつーの、こー、素のリクトが恥じらいながら俺の股の間に可愛い顔を突っ込んでためらいながらご奉仕ってよくね!? って! あ、あと駅弁もやりてーしさ、対面座位と、あーこの際だからどれだけいろんな体位できるか限界に挑戦ってのもアリかも」
 ゼッシュがこーいうことを抜かしている間ゼッシュの手はさわさわとリクトの尻の辺りを淫猥に這い回っていたが、リクトは必死に作業に意識を集中させて耐えた。無事作業が完了してから、刃物をお盆の上に置き、安全を確認してから、ばきぃ! と全力――の半分の半分くらいのパンチをゼッシュの顎にお見舞いした。
「調子に乗るな!」
 きっぱりそう叫んでから、これだけは、と大急ぎで剥いた(そしてそのせいでちょっといびつな形の)林檎をゼッシュの口に押しつけ、ゼッシュが咥えたのを確認してから脱兎の勢いで部屋を出ていく。ゼッシュは「リクトーっ!」と悲しげに叫ぶが、そんなものは当然無視だ(トイレ以外でベッドから脱走したら許さない、と宣言したから追いかけては来ないだろうし)。
 全速力で宿の廊下を走り、隅の誰も見ていないところまでやってきてから、はぁぁ、と息を吐く。ほんっとーに、どーしてあいつはあーなんだろう。馬鹿だし、すぐ調子乗るし、勘違い野郎だし、空気全然読まないし。
 もーちょっとこう落ち着くっていうか、真面目に、いやあれでもあいつは真面目なんだろうけど、一般的に振舞ってくれれば俺もこう、カッコいいなとか、素直に思ってやれるのに。とここまで思ってはっとした。
「わーわーなに考えてんだ俺ーっ!」
 そもそもカッコいいなんて思う必要ないだろあいつはホモなんだぞホモ俺狙ってるんだ俺はホモじゃないって言ってんのに! その段階で人間としてアウトだろ、なんだカッコいいって!
 あーもー勘違い勘違い勘違い! 気の迷い気の迷い!
 そうぶるぶる頭を振って心の中で怒鳴って、でもそれでもあいつあの時はカッコよかったよな。とか心のどこかが勝手に思い、はっと我に返ってわーぎゃーと叫ぶ。リクトはそういう怪しい一人芝居を、見かねたジェドが、「仲間なんだからちょっとくらいカッコいいと思うことがあっても変じゃない」と折り合いをつける言葉を送ってくれるまで、顔を真っ赤にしながら続けたのだった。

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