one day,an old precious story
 さっさっさっ、とサララは箒で落ち葉を掃く。毎朝の日課である、店の前の掃き掃除だ。
 店内も店の前も、いつもぴかぴか清潔に。それは商売人として当然の心得だったし、なによりサララは自分の住まいの周りを不潔にしておく趣味はなかった。よそのお宅の前まではでしゃばらないように、隅から隅まで掃き清めて、集まった落ち葉は次々焼却炉に放り込む。
「サララちゃん、毎朝精が出るねぇ」
 声をかけてくれた隣の家のおじさんに、にこっと微笑んでありがとうの礼をひとつ。おじさんが微笑みを返してくれたのにほっとして、また自分の作業に戻る。
 掃除が終わったら開店の準備。綿密に立てた(つもりの)販売計画に従いつつ、その日の天候やらなにやらで微調整をしつつ、たくわえた商品を店に並べる。もちろん大鍋の中にはその何十倍ものアイテムが常備してあるが、一見のお客さんやちらりと店の中をのぞいたお客さんの目をぱっと引く努力を怠ってはならない。新規のお客さんはいつだって大歓迎なのだ。
 それから自分の朝食と、チョコのご飯を手早く用意し、手早くだけどよく噛んで食べ終えて。そうしたらようやく入り口の扉の札をひっくり返し、一日の仕事がようやく始まる。

「こんにちは魔女さん! 魔王を倒すための新しい強力な武器はありませんか? あと魔王の情報を知ってたら教えてください!」
 真っ先に毎度お馴染みの台詞で元気に店に入ってきたのは、勇者の少女、アスカだった。サララはにこり、と微笑み、「いらっしゃいませ」とまずご挨拶。それからすっとメニューを差し出す。現在の在庫の中でお勧めの冒険用品だ。
 もちろんセールストークも忘れない。現在の在庫の中でのお勧めを、アスカや仲間たちの装備品の状態を考えつつ(何度も一緒にダンジョンに潜っているのだ、それくらいは当然わかる)しっかり売り込む。
「先日マンゴーシュという剣が入荷したのですが、いかがでしょう? ある程度の防御力も期待できますし、攻撃力もいかづちの剣よりさらにアップしていてお得ですよ。もちろん回復アイテム、状態異常回復アイテム、カエルまんじゅうをセットにした冒険者セットもご用意しております」
「じゃあ、それで!」
 武器に防具、そして薦められたらアイテム。買い物にも表れているが、アスカはいつも『魔王を倒す』という目的以外に目もくれず、元気に、爽やかに、そして見境なく突撃する。目的のために邁進する。街に置いてあるものを片っ端から調べ、動物も含めた住人に片っ端から話しかけ。
 その姿を街の人のいくらかは滑稽がっているようだったが、サララにはむしろ、とても眩しく見えた。他者の思惑、視線、そんなものをまるで気にせず、ひたすらに自分の役割を果たすその強さ。
 すごいな、と思うし、頑張ってるな、と思う。そして、時々泣きたいほど悲しくなる。彼女が強いからこそ、眩しいからこそ。彼女が、自分の結末が必ずしも幸せでないことを知っても、今の自分を、自分の行うことをけして変えない人間だからこそ。
 自分にはたぶん、そんな強さはない。だからこんな気持ちは、アスカにはきっと余計なお世話なのだろうけれども。
 商品を受け取るや「じゃあっ!」と疾風のように去っていくアスカに「ありがとうございました」と声をかけて、ふ、と小さくサララは息をつく。まだ一日は、始まったばかりだ。

「こんにちは、サララさん! いい天気ですね! あの、今日は、なにかいいもの、ありますか?」
 走ってきたのだろう(そのせいだけではないかもしれないが)、少し顔を火照らせながら言うチェルシーに、「いらっしゃいませ」と挨拶をしつつ数秒観察させてもらい、今日の気分を見定める。元気な笑顔と高鳴る胸の鼓動を抑えきれない、というように胸を押さえる仕草から、たぶん恋する人にアプローチしたい気分なんだろうな、と見当をつけて笑顔で素早くセールストークだ。
「そうですね、ハチミツのいいのが入ったので、これでハニーキャンディーなど作ってみるのはいかがでしょう。リンゴも新鮮なものを仕入れたばかりなので、アップルパイにしてもジャムにしてもいいですし。頭を使うと甘いものが欲しくなるそうですから、きっと喜んでもらえると思いますよ」
「あっ、あのですねっ! 私は、あの、その、別に、そんな……」
 しどろもどろに言い訳をするチェルシーを、サララはにこにこ微笑みながら見つめる。可愛いな、といつものように思った。
 チェルシーはとても可愛い女の子だと思う。そして眩しい。恋する女の子というものがとてもきれいだということを、サララは彼女と出会って初めて知った。誰かを好きになり、その誰かに自分を好きになってほしいと頑張る、そのごく当たり前だけれどとても大変な気持ちと行動は、とてもきれいで眩しい。
 これも自分にはない強さだ。自分にはこんな風に誰かを好きになってしまう勇気はない。その想いのままに、一途に行動する強さも。
 だって、誰かを好きになって、その人と運命を共にするなんていうことが、どんなにどんなに怖ろしいことか、自分はよく知っているのだから。
 チェルシーはしばらく抵抗していたが、やがて諦めてハチミツと赤いリンゴをお買い上げしてくれた。「ありがとうございました」と笑顔で頭を下げるサララに、まだ赤い顔で微笑み返し、言う。
「サララさんってちょっとずるいですよね。いっつもそんな風ににこにこ笑って黙ってこっちの方見て、いっつもこっちの方ばっかりやたらいっぱい言い訳することになっちゃって。なんていうか、なんでもこっちのことお見通しみたい。それで本当に優しくていい人なんだから、本当にもうかなわない感じがしちゃうな」
「…………」
 サララは笑顔を少し困ったようなものに変えて嬉しげに店を出て行くチェルシーを見送った。そんなわけはない。見通せているわけでは少しもない。自分が他の人よりすごいわけでもまったくない。
 ただ、自分は、新米とはいえ魔女で。他の人より少しだけ多くの運命を知っている、それだけなのだ。

「サララ〜、お腹減ったニャー! なにかおいしいのないかニャ〜?」
 ばーん、と扉を開けて勢いよく入ってくるチャチャにも、まずは笑顔で「いらっしゃいませ」と一言。表情と仕草でお腹の減り具合を確認し、手早くカウンターの上にどんどんと食べ物を並べる。
「じゃあ、こんなのはどうでしょう。カツブシセットとヤキトリセット、デザートに妖精のケーキです。右から100G、80G、200G。全部食べたらお腹いっぱいになること間違いなしですよ」
「う〜……実はあんまり持ち合わせがないニャ……もうちょっとまからないかニャー?」
「そうですね、じゃあそれぞれ10G引きで。その代わり今度一緒に仕入れを手伝っていただけますか?」
「ニャッ、もっちろんニャ! ガルとグレイホーンにも言っとくニャッ!」
 チャチャはニパッ、と笑顔になってこくこくうなずいた。ポケットからじゃらりとお金を出すのに、サララは素早く勘定を終えてどうぞ食べてください、とにっこり微笑んでうなずく。
 わっ、とばかりにカウンターの前でカツブシにかぶりつくチャチャを、サララはにこにこと眺めた。彼女は、いいな、とチャチャを見ている時いつも思う。単純で、純粋で、だからこそ強い。あるがままにただ$カきることをチャチャは自然のうちに体得している。
 それはたぶん彼女が獣人だからとかそういうことではなくて、無関係ではないかもしれないけれども、一番の理由は『チャチャがそういう存在だから』ということになるのだろう。だから見ていてとても心が穏やかになるし、そばにいるとなんだかほっとする。
 それはもしかしたら、チャチャが今のままでも当然のように幸せだからかもしれないとは、少し思うのだけれども。
「おいしかったニャー! また食べさせてもらいに来るニャー! バイバイニャ〜ン」
 来た時と同じように小さな嵐のように勢いよく店を飛び出ていくチャチャに、「ありがとうございました」といつものご挨拶をしてから、ふ、とサララは店の窓から空を見上げた。もうだいぶ太陽が高い、そろそろお昼の準備をしよう。キャベツとベーコンが残っていたと思うから、さっとスープを作ってそれと昨日のパンの残りを焼いて。チーズとトマトを切って。それからチョコには魚の干物を焼いて火を通した野菜をいくつか添えて。
 そんなごく当たり前の毎日の生活が、泣きたくなるほど貴重に感じられるようになったのは、いつからだっただろうか。

「サララ、ハルカ、来た。冬が近付いてきて、最近、寒い。なにか温かい服、ないか?」
「いらっしゃいませ」という入ってくるなりのサララの言葉にこっくりうなずいたハルカは、いつも通りの片言でぽつりぽつりと言った。もちろんサララは笑顔でうなずき、ひょい、と魔女の大鍋から目当てのものを取り出す。
「こういうものはいかがですか? 薄手のみがるな服に薄手の毛皮の服のセットです。空気の層ができてどちらかひとつよりぐっと温かくなりますし、薄手ですから二枚着ても鎧も上に重ね着できますよ。ちゃんと仕立て直してもらっているので鎧下の代わりにもなりますし。なんなら一度ご試着されます?」
 少し首を傾げてから、こくん、と頑是なくうなずくハルカに、サララも笑顔でうなずいた。
 この子はいい子だなぁ、と(お客様に対して失礼かなと考えつつも)ハルカを見ているといつも思ってしまう。言葉は片言だけれど、こちらに対する気遣いや信頼がちゃんと伝わってくる。
 だから、彼と一緒にいると、申し訳ないという気持ちが普段よりさらに強くなってしまう。自分がそれに値するほどの存在だなんて、とても思えないからだ。
 試着してもらったあと素直にそれを購入していったハルカに「ありがとうございました」と声をかけ、ふぅ、と小さく息をつく。一日もようやく折り返しだ。もっとも、店の営業時間としてはようやく三分の一、というところなのだけれど。

「サララちゃん、ちょっといい? この前ダンジョンで手に入れた古文書なんだけど、ちょっと見てくれないかしら? 本格的に解読作業に入る前に、アイテムの専門家としてのサララちゃんの意見を聞いておきたいの」
 入るやいなや切り出したキリールに、それでもやはり「いらっしゃいませ」と声をかけつつ小さく首を伸ばした。こういった鑑定の依頼は実はあまり来ないのだが(最近はサララの店のお得意様の輪もかなり広がってきているので)、一応サララもアイテム専門の魔女としての自負がある。一目見て触れて判断を下し、笑顔で答えた。
「これは名前で言うならば『すすけた古文書』と『虫食いの古文書』ですね。以前私が研究所にお売りしたのと同じものです。でも、私がすぐに鑑定できるのは私にとっての用途と性質だけなので、研究的な価値についてはやはり専門家でいらっしゃるキリール先生たちの方がよくおわかりになると思います」
「そうねぇ……でも以前見たものと性質が同じっていうのは手がかりにはなるわね」
「よろしければ解読のお供にこの大きな虫メガネはいかがでしょう? 以前買われたものより質がよくなっていますので、以前のものはスカピンさんにお渡しになられて」
「あら、ありがとうサララちゃん。サララちゃんは本当に気が利くわね」
 にこりと笑って頭を撫でられ、サララは困ったように微笑みながらぺこりと礼をする。気が利くというよりは単に商売っ気を出しただけなのだが。サララには商売人としての自負も、一応あるつもりなので。
 もっとも、キリールはそんなことを言っても別に気にしないのだろうけど。彼女はいついかなる時も自分のペースを守ることができる人だから。
 そんな人は、他者の思惑など気にしない。いついかなる時も自分の主人であるということは、人生の主人であるということ。気にしてもしょうがないことなど気にしない、そんな人として生きるために必要な能力の最たるものくらい彼女は当然のように有しているのだ。
 彼女には幸せになる力がある。自らの欲するところを、自らの在り方を自然のうちに体得し、そのために必要な努力も苦にしない彼女が幸せになれない方がおかしい。自分に対する好意には鈍感かもしれないが、彼女はそれを排斥するほど狭量ではないし、むしろそれすら人生の、日常の中に組み込む能力すら有していると思う。
 自分には、そんな能力は、きっとない。
「じゃあね、サララちゃん、今度また一緒にダンジョンに潜ってくれると嬉しいわ」
 そう言って元気に去っていくキリールの背中に「ありがとうございました」といつもの一声。この街は、本当にいろんな人がいるな、といまさらにもほどがあることをふっと思った。
 だからこそ――そう、だからこそ、自分はこんなにも怖いのだ。

「どうも、サララさん。見回りのついでに寄らせていただきました。今日はなにか変わったことはありませんでしたか?」
 爽やかな笑顔で告げるライアットに、サララは笑顔で大丈夫ですとうなずく。その答えにライアットはほっとしたようにうなずいて、店の中を軽く見回した。
「お店の方も繁盛されているようですしね。そうだ、私はこれから夜勤なのですが、なにか口慰めになるものはありますか?」
「それなら疲労回復のためにも甘いものがよろしいでしょうね……ダンジョンだんごの新作ができたんですが、よろしければご試食お願いできますか? 以前のものよりぐっと爽やかな甘味になっていると思うんですけど」
「え……いえ、その、私でお役に立つのでしたら、喜んで」
 目を少しばかり輝かせながら小皿の上の団子を口に運ぶライアットに、サララは微笑んだ。彼は、いい人だ。どこに出しても恥ずかしくない好青年というのは、きっと彼のような人を言うのだろう。騎士としての強さも、人としての、あるいは男性としての優しさも彼は持っている。
 だから彼はとても素敵な男性だと、サララは思うのだ。幸せになってほしい、そう心の底から思える人。
 それがゆえに、サララは彼のことを思うと怯えずにはいられない。あんな優しい人が、報われぬまま、幸せに届かぬまま、終わってしまう可能性があることを思うと。
「それでは。なにかありましたら、どうぞ城へご一報を。すぐにでも駆けつけます」
 いつもの台詞を言って店を出て行くライアットに、サララもいつものように「ありがとうございました」と声をかけてから小さく息をつく。終わりはいつやってくるかわからない、だけれども。
 あんなに優しい、いい人が報われぬまま終わってしまうなんてひどいと思うから、好きだと、大切だと思う人の一人だから、この街の、この大好きな街の住人だから。だから、サララは怖いのだ。この街が、本当に大好きになってしまったからこそ。

「サララちゃ〜ん、お元気かしら? 今日はいつものアレをもらいに来たんだけど、いかが?」
 いつもと同じ、女性としての美しさが匂いたつような笑み。自信と誇りに裏打ちされた輝かしい肢体を持つ女盗賊ルビィに、サララはにっこり笑ってうなずき用意しておいた商品を取り出す。
「そろそろいらっしゃる頃だと思って仕入れておきました。なやましの香水と女王様の香水のセットです。今回はサービスに、冒険者セットと盗賊のお仕事に使う消耗品を詰めた盗賊セットもお付けしておきました」
「オーッホッホッホ、さすがサララちゃん、気が利くわねv お礼に今度いいところに連れていってあ・げ・るv」
 真っ赤な唇で小さく投げキッスを飛ばされ、サララは照れたように笑ってぺこりと頭を下げた。ルビィの色香と美しさは同性相手でも通用すると、本当に思う。
 会うたびに思う。ルビィはとても素敵な女性だ。美しさ、知性、そういうものももちろんだけれども、強さも弱さも呑み込んで、凛と立つその姿勢に気高さに、サララは同じ女としてとても惹かれる。憧れていると言ってもいいほどだ。
 それが自分に今一番足りないものだと知っているから。
「じゃあね、サララちゃん、今度また一緒にダンジョンに行きましょ? オーッホッホッホ!」
 颯爽と去っていくルビィに「ありがとうございました」と声をかけて、きゅ、と唇を軽く噛む。もう夜がやってきているのだ。

「ハニ〜♪ おお我が愛しの君よ、君の髪は月よりもまばゆく肌は星よりもきらめく、その美しさはいかに深い夜の帳でも隠せはしまい! どうか愛するハニーよ、君の瞳に映る栄誉をこの哀れな愛の奴隷に与えたまえ」
 ビシリと着こなしたマントとスーツで、飛ぶように店に入ってきて、自分を抱き上げくるくる回りながらブラム伯爵が告げたその言葉に、サララは「いらっしゃいませ」と穏やかに挨拶してから無言のままにこにこ微笑みつつ見つめることで対処した。これが一番効果的だということは、これまでの経験でわかってしまっている。
 案の定、伯爵は少しうろたえたように目を見開き(たぶん人間だったら顔が赤くなっているところだろう)、ゴホンと咳払いをしてから、笑顔に戻ってサララを下ろし訊ねた。
「さ、さてハニー、今日の私の館を飾るにふさわしい出物はなにかね?」
「伯爵さまの館を飾るにふさわしいかどうかはわかりませんけれど、このマンドラゴラなどいかがでしょう? 新鮮ですし形も伯爵様好みに特徴的ですし。伯爵さまのセンスなら、素敵なインテリアにしていただけるんじゃないかな、と思ったんですけど」
「おぉ、おぉハニー! 君の愛の深さに私は打ち震えんほどだ! よかろう、君に満足してもらえるほどのインテリアにしてみせようとも!」
 再び自分を抱き上げてくるくる回り始める(しかも歌まで歌い始めた)伯爵を、サララは少し困ったようなものではあったけれども笑顔で見つめた。たぶん次のお客様がいらっしゃる前には我に返ってくれるだろう、と思いつつ。
 ブラム伯爵のことを、サララはけして嫌いではない。困った人だな、とは思うが、その困り具合はけして不快なものではなかった。少なくともサララにとっては。
 というか、そのどこまでも自分の世界で突っ走るひたむきさとマイペースっぷりは(自分にいろいろな、例えるならば口説き文句のようなことを言われるのは、実はかなり恥ずかしくて未だに逃げ出したくなってしまうのだが)、ちょっと可愛くて、格好よかった。キュティもたぶん伯爵のそんなところが好きなのではないだろうか。
 けれど、その求愛に応えることは、どうしたってできない。
 しばらくの時間を一緒に過ごし、また何度か回ったり歌ったりしてから去っていく伯爵を、サララは「ありがとうございました」という言葉で送った。そして小さく息をつく。
 困ってしまうのだ。自分を好きなどと言われても。自分は本当に、ただの勇気も気迫も賢明さもない、魔女の小娘にすぎないのだから。

 ひゅーぉうぉぉぉおぅ、ざざざざ、ひゅーぉぅさりざりさり。
 夜。というよりは、深夜。風が何度も窓と扉を叩く。店の周りの樹からの葉擦れの音が聞こえた。閉店時間までは、もうごくわずかだ。
 たぶん、もう今日はお客様は誰も訪れないだろう。それに小さく息をつく。ほっとしているのか、残念なのか、自分でもよくわからなかった。
 カウンターの上でゆっくりと尻尾を振るチョコに、小さな、できるだけ小さな声で呟く。
「チョコ。寒く、ない?」
『そりゃもうすぐ冬だよ、寒いに決まってるじゃない。ボク的にはとっとと店じまいしてベッドにもぐりこみたいところだよ』
「チョコったら」
 くすり、と思わず小さく笑って立ち上がる。
「お茶でも淹れようかな。チョコにはミルクね。薪をもう少しくべてあげるから、あとちょっと頑張って」
『サララは働きすぎなんだよ! 昨日も今日もほとんど十八時間労働じゃない。もっとちゃんと休まないと体壊すよ!』
「だって、普段はダンジョンに潜っていたりなんだったりでお店を空けることが多いんだもの。開けられる時に開けておかないとね。大丈夫よ、ほとんどの時間は座っていられるし、それにわたしの体が丈夫なの、知ってるでしょ」
『そういう問題じゃないってば』
 会話を交わしつつ、暖炉の上でしゅんしゅん湯気を立てているヤカンを取り上げ、ポットにお湯を注ぐ。ポットが温まったらお湯を捨てて、茶葉を入れてまたお湯を注いでしばらく蒸らして。もちろんその間にチョコのミルクやカップを準備するのも忘れない。
 そしてあっという間にくつろいだ空間ができあがる。椅子の上でひざ掛けで下半身を温めつつ、ふぅ、ふぅとお茶を吹きながらちびちびと飲む。じんわりと体の中に熱が伝わった。
『……サララ』
「ん? なに? チョコ」
『ボクだけは、ずっと一緒だよ』
「……うん」
『サララがなにをしても、どんなことになっても、ずっとずっと一緒にいるよ。この街から出て行ったって、お店をやめたって、ボクだけは絶対絶対サララの味方だから』
「うん……ありがとう、チョコ」
 できるだけちゃんとした笑いになっているといい。一瞬泣きそうになってしまったので、きっと歪んだ、変な笑顔になってしまっているだろうけど。
 そう、チョコは、チョコだけはずっと一緒にいてくれる。それを疑ったことは一度もない。自分の半身、魂の相棒。当たり前のようにそばにいてくれる存在、それがどれだけ自分を救ってくれているかしれない。
 ―――なのに。
「……占いをしていい? チョコ」
『寝る前じゃないのに? 邪魔が入っちゃうかもしれないよ?』
「もうたぶんお客さんも来ないだろうし……それに、波が来そうな感じだから。今度こそちゃんとした道がわかるかもしれない、それを逃したくないの」
『……ボクはもちろん、いいけどさ』
「ありがとう」
 にこりと笑いかけて、いつも持ち歩いているカードを取り出す。運命のカード。自らの運命を示すカード。
 それが表すのはいくつかの言葉と暗示。明確な事実を表してくれるわけではない。けれど、それでも確かにわかることはある。
 運命というものが、確かに存在していること、とか。
 カードを繰る。しゃっしゃっ、と聞き慣れた紙のこすれる音が響く。聞き慣れるほどに繰り返したのだ、いくら自分が新米魔女だからとはいえ、そのくらいのことはわかる。
 それに、おばあちゃんは言っていた。
『――サララ。運命というものは、確かにあるんだよ。世界の流れ、というものはね』
 心を落ち着けて、カードをゆっくりと展開する。カードの中の精霊が、自分に答えを教えてくれますように、と祈りつつ。
『それは川のようなものなんだ。人はそれに流される小石。人一人の力ではどうやったって、その流れは変えられない』
 流れを知りたい。今自分が行こうとしている道を。本当に自分は、その道を辿ろうとしてしまっているのか。
『けれど人は人と繋がることができる。関係を結ぶことができる。一人一人は小石でも集まれば堰になるのさ。そこまでいかなくても流れの分岐点に誰かが立つことで、小さな流れの方向を変えてしまうというのは、こりゃよくあることだよ。言葉、行動、思うだけでもなにかが伝わることはあるし、なにかが伝われば人は必死に流れの中であがこうとする。あるきっかけで流れを変えるきっかけになれる、それが人さ』
 だから、サララ。心しなけりゃいけないよ。
『あたしたち、流れを知る者は、きちんと人に与える影響を見極めなけりゃならない。どんな一言が流れを変えてしまうかしれない。そして変わった流れはいい方向に向かうとは限らない。すべての運命を見通せだの、操れだの、不遜なことをしろって言ってるんじゃないよ。ただ、自分のどんな一言が流れを変えるきっかけになるかもしれないと、用心深くならなきゃいけないってことだ』
 それが嫌なら人と関わっちゃいけない、それが流れを知る者の責任だよ。
(―――そうだね、おばあちゃん)
 今は、サララも思う。おばあちゃんもきっと何度も失敗したのではないだろうか。流れを知りながら、見通しながら、なにもできなかったことを、悪い方向に流れを変えてしまったことを、悔やんだのではないだろうか。
 だから、怖い。その重みを知ってしまったから、怖くて怖くて仕方ない。自分のどんな一言が流れを、それも大きな流れを変えてしまうかもしれないと思うと、取り返しのつかないことをしてしまうかもしれないと思うと、身がすくんで、商売と、仕事という大義名分がなければ話もろくにできない。関われない。そんなの間違ってるとわかってるのに。大切な、大好きな人たちをないがしろにしてるとわかってるのに。
 カードを移動させる。カウンターの上でカードが滑る。最後の一枚を、目の前にある自分の運命を導くために。自分のはまりこんでしまっている、この道からは逃れられないのか否か、その答えを目指して。
 ――こんなこと、したくないのに。なんで
「サララ」
「っきゃっ!」
 がたんっ、と大きな音を立てながら立ち上がり、もろに膝を打ってカウンターが揺れる。除けておいたカップが床に落ち、がしゃっ、と音を立てて割れて中のお茶の残りを撒き散らした。
「…………」
 そんなみっともないところを見たというのに、彼は入り口のところにたたずんで、いつものように無表情でこちらを見ている。待っていたのか、来ないでほしかったのかわからない、片翼の魔族の少年――アイオン。その顔を見たとたん、うろたえていた頭が顔まで真っ赤になっているだろうと思うほど熱くなった。
「っ……す、いま、せん……少し、お待ち、くださいね。すぐ、片付け、ますから」
 ばっとカウンターの下の箒とちりとりを使ってまずカップのかけらを片付け、雑巾を手にとって床を拭いた。震える手を必死に速く動かして、汚れも見えないほどきれいに拭き取ってから、ささっと掃除用具を片付けて商売人魂を総動員して笑顔を浮かべる。
「いらっしゃいませ。なにを、お探しですか?」
 だが珍しいことに、アイオンはすぐには答えず、じっとこちらの方を見続けた。え、わたしなにか変なことしちゃった? とまたうろたえ自分の体をきょろきょろ見つめるサララに、アイオンはぼそりと告げる。
「邪魔をしたか」
「……え?」
「カードを使っていたのではないのか」
「え……っ!」
 はっとしてサララはカウンターの上の方を向く。そこには最後の一枚を残してしっかり展開されたカードが乗っていた。サララは思わず顔面蒼白になる。どうしよう、スプレッドの途中でやめちゃった!
 魔女の占いはお遊びではない。何代、何十代という魔女たちの想いが染み込んだこのカードは、それこそ世界すら動かす力を持つという。そこまでいかなくても、占いのために呼び起こした精霊を途中で放りっぱなしにしておくなど、いい結果を生むはずがない。
 もちろん誰かに見られてはいけないとか途中で喋ってはいけないとかそんな決まりがあるわけではないので(それならサララも店で占ったりはしない)、心をさっきと同じような段階まで持っていって最後までやり通せばそれでいいのだが。いいのだけれども。
「…………」
 サララはおろおろとカードを見つめ、それからちらりと、できるだけ気付かれないようにアイオンを見やる。さっきと同じ無表情でこちらを見つめるその顔を見るや跳ねる心臓に、サララはうつむいた。こんなに心が乱れた状態で、最後まで占いなんてしたらかえってよくない結果を招くに違いない。
 だけど。そうなると。
「あ、の……すい、ません、が」
 小さくこくり、と唾を呑み込んで。震える声を必死に叱咤して。
「占いを、途中で、やめてしまったので。お手数おかけして、大変、申し訳ないのですけれど……」
「解放と追儺の儀式を行わなければならないのだろう」
「え……」
「占術ではなかったが、儀式魔術は何度も見ている。その程度の知識はある」
 アイオンはあくまで冷静で、無表情だ。微塵も感情を揺るがした様子はない。いつもと同じように、ひたすらに淡々とした、自分にも周りにも興味を持った気配すら感じられない顔だ。
 それについ落ち込んでしまう自分を叱りつけて、サララは気合を込めてにこり、と笑った。
「では、すいませんけれど。お手伝い、してくださいますか?」
「ああ」
 あっさりとうなずかれたのが、嬉しいのか苦しいのかわからない。それでもやるべきことは行わなければならないのだから、とまた微笑んで、「では、こちらへ来てください」と手招いた。
 アイオンはあっさりとカウンターのこちら側へやってきた。サララは新しい(背もたれのない)椅子を出してアイオンに勧め、自分もちゃんと椅子に座り直す。アイオンとサララが二人並んで展開されたカードの前に座り――
 そしてサララは固まった。距離が、近い。
 こんなにアイオンが自分の近くに来たのは初めてではないだろうか。アイオンの黒いズボンに包まれた膝が、いまにもサララの膝にくっつきそうだ。息遣いがすぐそばに聞こえる。もしかしたら鼓動すら、体温すら伝わってしまうのではと思うほどすぐ近くに。
 しかも、自分たちはこれから。
「どうした」
 すぐ近くにあるアイオンの顔がこちらを向くのがわかった。自分が固まっているので怪訝に思ったのだろう。とても顔が上げられなかった、心臓が破裂しそうにうるさい。
 思わず目にじんわり涙が浮かびそうになるのを必死に堪え、ゆっくり首を振って笑顔を浮かべる。うつむきながらだったのでたぶんアイオンにはよく見えなかっただろうが。
「では、手を、私の手の上に、重ねてください」
 カードに向け伸ばしたサララの手の上に、素直にアイオンは手を重ねる。微塵も動揺した様子もなく、平然と。
 それでもサララの心臓はどきん、と高鳴った。どどどどどと派手な行進曲を奏で、体中に、特に頭と顔に血液をすさまじい勢いで送り出している。
 サララの体温が高くなっているせいか、アイオンの手はひんやりとして感じられた。けれど、体温は確かに伝わってくる。蒼い肌、長い爪、人とは違う、けれど確かに今息づいている命だ。
 それが、その彼の手が、自分の手に、ぴったりと。
「……そして、私の手の動きに合わせて、一緒にカードを、回収していって、ください。心を、静かに……できるだけ、なにも考えないで」
「わかった」
 淡々とした返事に胸が勝手につきんと疼く。なにも考えないでと言った自分の方が、手は震えるわ顔は燃えそうに熱いわで泣き出してしまいそうだ。
 それでも、これはしなくてはならないことなのだから、と必死に自分を叱りつけて、サララはゆっくりと手を伸ばした。
「…………」
「…………」
 しゃっ………しゃっ。どくどくん、とくん。
 聞こえるのは、ときおりカードが擦れるわずかな音。
 そして耳の奥がかんかんするほどにうるさい自分の心臓の音。
 それから、かすかに、自分の心臓の音でほとんど聞こえないけれど、確かに伝わってくる、アイオンの鼓動。
 血液の流れる音。服の擦れる音。体の中が動く音。息遣い。体温。剣を持つ者らしいひどく固い、けれどすべらかな掌の感触。腕を動かすたびに、触れ合う腕と肩。膝、脚、つま先。ちらりちらりと目に入ってくる、静かな横顔。
(――この時間が)
 思っては、いけないのに。
(この時間が、永遠に続けばいい)
 なんて、馬鹿馬鹿しい、愚かな考え。
(続かなくても、きっと)
 こんな自分は、在るべきじゃないのに。
(一生、この時を、忘れない)
 彼の手が、体が痺れるほど、自分を。
 ゆっくりと手を動かして、カードを集める。あるべき場所へ、あるべきところへ。
(でも、わたしは)
 有るべきじゃないと、在るべきじゃないと、どれだけ思い知っていても。
(確かに、今、こんなにもはっきりと)
 涙が堪えようもなく、瞳ににじみ――
「っ!」
「……どうした」
 静かなアイオンの問いかけに、サララはすぐに返事することはできなかった。一瞬だがはっきりと雷が落ちるように訪れた幻像を、ゆっくり数度深呼吸することで追い払う。
「……いえ。なんでも、ありません」
「…………」
 アイオンは重ねて問うことはしなかった。彼は、けして無駄なことはしない人だから。
 そうだ、自分は言えない。言えるはずがない。ジェドの忠告を受けてしばらくしてから、繰り返し自分に訪れるヴィジョン。自分には見えるはずのなかった未来の、運命のかけらを。
 ――どこまでも続く墓場。積み重なる死体。それこそ池を作るほどの血。人の、魔族の、獣人の、あらゆる種族の死体死体死体。そしてその前に立つアイオンと、自分――
 そうだ。彼の向かう先に待っているのは、死と破壊。血と、苦痛と、怨嗟の声。そして自分がこの人のそばにいることは、その道へ向かう彼の背中に、取り返しのつかない一押しを加えてしまうことになる。
 それが、自分はわかった。魔女の血、あるいはカードの精霊が、自分の心にそう囁いてくれたのだ。自分は今、彼の運命の分岐点に立とうとしていると。彼の運命の流れを、変えようとしているのだと。
 だから、自分は、離れなければいけないのだ。彼から。本当ならさっさと店をたたんで遠くへ引っ越すのが一番いい。そうでなくとも彼とできるだけ関わらないようにしなくてはならない。
 そうしなくてはならないとわかっているのに。仕事だから商売だからと言い訳して。誰かに向けるどんな一言がその運命に近づけるかわからず勝手に身動きを取れなくして。
 嫌なのに。この街の大好きな人たちを、誰一人失いたくないのに。なのに――
 小さく深呼吸して雑念を消す。そうだ、なにも考えてはいけない。伝えてはいけない。関わりを持ってはいけない。自分はどうしたって、責任など取れないのだから。
「では、最後に、ありがとうとごめんなさいの、気持ちを込めて、小さく礼をして、開かれなかった最後のカードを一番上に戻して、終わりです」
「…………」
 アイオンがわずかに眉をひそめた。どきん、と心臓が大きく鳴る。さっきとは違ったように。
 今の彼の顔は、サララには確かに、アイオン自身は気付いていないのだろうけれど、傷ついたような顔に、見えたのだ。
「……あ、の」
 駄目。言っちゃ駄目。関わりを持っちゃ駄目。普通のお客様とただの店主、そのラインをけして踏み越えないようにしなければ駄目。あの終わりが、死が、破壊が、血が苦痛が破滅が。そんなのは自分は絶対に嫌、なのに。
「なにか、お気にかかる、ことが?」
 わずかに首を傾げて、自分は言った。けして言ってはいけない言葉を。
 ぎゅっと、アイオンの掌の下の手を握り締める。爪を立てる。なんで。どうして。いけないのに。わかっているのに。
 ――だって、この人が傷ついているから。
 この人が苦しんでいるから。辛そうだから。心が痛いと悲鳴を上げているから。そしてそれに自分で気付いていないから。可哀想だから切ないから見ていてたまらなく苦しいから。
 好きだから。
 だから、放ってなんて、おけない。
「……サララ」
「……はい」
「お前の言う、『ありがとう』と『ごめんなさい』とは、どういう感情だ」
「……え」
「俺は、『ありがとう』とも『ごめんなさい』とも、誰かに言ったことはない。だから、お前の言うその言葉に伴う感情がわからない」
「…………」
「説明してくれ。それは、どういう感情だ?」
「………っ」
 じわ、とまた目に涙がにじむ。ああ、この人は。本当に、ずっと、そんな気持ちの存在を、考えたこともなかったのだろう。
 だから、少しでも、とサララは思ってしまう。少しでもこの人に温かいものが伝えられたらと。優しいものが、心穏やかでいられる時間が。自分の中にあるいいものを、ありったけこの人に与えることができたならと。
 そんな人だから、好きになって、しまったのだから。
「……アイオン、さんは。嬉しいと、思ったことが、ありますか?」
「覚えていない」
 平然とした顔で、淡々と答える。
「そう、ですか。私は、何度も、あります」
 そんなことを思う資格はないと、知っていても。
「アイオンさんが、お店に来てくれて、嬉しいと、思いました」
 思ってはいけないと、わかっていても。
「アイオンさんが、私の勝手な事情に、協力してくれて、嬉しいと、思いました」
 そんなことを考えるなんてと、自分を罵っても。
「アイオンさんが、生きて、いてくれて、嬉しいと、思いました」
 心が、勝手に、そう叫ぶ。
「嬉しくて、嬉しくて、感謝せずにはいられなくて、アイオンさんにも、他の誰かにも、お礼を言いたくなりました。何度も、何度も。ありがとう、って。本当に、本当に、ありがとう、って」
「……サララ」
 眉をひそめ、ちょっと聞いただけではいつもと同じ感情の感じられない、けれどサララには確かに困惑しているとわかる声でアイオンは訊ねた。
「なぜ、泣くんだ?」
「え」
 問われて初めて、目の前のアイオンの顔が歪んでいることに気がついた。かぁっと顔が熱くなり、慌ててポケットの中のハンカチを取り出す。
「ごめ……んなさい、こん、な……店主、失格、ですね。さんざん、ご迷惑、かけて、あげくに、泣い、て……」
「…………」
「本当に……本当に、ごめんなさい。勝手、な……身勝手な、こと、ばっかり。ええ、と、とに、かく……そう、いう、なにかを、してくれたり、してくれなくても、感謝したい、っていう気持ちと、なにかをしてしまって、していなくても、申し訳ない、許してほしい、っていう気持ち、なん、ですけど、ごめんなさい、本当に、わけが、わからない、ですよね」
「いや」
 アイオンは、かぶりを振った。静かに。小さく。見ようによっては、優しくとすら言えそうなほどそっと。
「完全にとはいかないが、わかった」
「え」
「お前が俺に思う感情を込めるのならば、俺は、お前に思う感情を込めればいいのだろう」
「……え」
 それ以上は口にせず、すい、とアイオンはカードに向き直る。きゅ、と小さくサララの手を握り。サララはカッと顔が熱くなるのを感じた。
 どういう意味だろう、わからない、わからない。でもだけど彼は今自分を促しているのだ、自分は自分のすべきことをしなければ。
 サララもカードに向き直る。アイオンと並んで。好きな人と並んで。膝や肩や脚を触れ合わせながら手を重ねて。ゆっくりと、残った最後のカードに手を伸ばす。二人揃って、心を合わせて。ありがとう、ごめんなさい、心の中でそう繰り返しながらひとつの運命に。
 アイオンの手の中のサララの手は、震えながらゆっくりとカードを運び、重ねたカードの上に載せようとし――するり、とカードを掌の中から滑らせた。
「っ!」
「っ」
 声にならない声が響く。二人の体が揃って震えた。こんな、終了の儀式の時にこんなこと、重大な失敗としか――
 だが、そのカードはサララの掌の中からこぼれ落ちてから、くるりと一回転して裏を上にしてカードの山の上に滑り降りた。ちょうど山と同じぐらいに隅を揃えて、きちんと、ちょうどそこに着地するよう定められていたように。
 だが、サララは一瞬、思わず目を見開いていた。さっき見えたカードの図柄は、確かに。
「……サララ。この場合は、対処方法は?」
「え……あ、の。……大丈夫、だと思います。カードが、戻るべきところに、戻ったわけ、ですから」
「そうか」
 小さくうなずいて、アイオンはすっと椅子から立ち上がった。あ、と思わず喉が寂しげな声を発してしまいそうなのを堪えて、にこり、と微笑みを浮かべる。お客様には常に笑顔を見せるのは店主として当然の心得だし、この人にはできるだけ、自分の笑顔だけを覚えていてほしい。
「お手数、おかけして、申し訳ありませんでした。では、改めて……今日は、なにを、お探しですか?」
「魔物の血を三つくれ」
「はい、ただいま」
 カウンターの奥から品物を取り出して、精算する。
「510Gになります。毒草、おまけに、おつけしておきますね」
「ああ」
「ありがとうございました。またのお越しを、お待ちしております」
「サララ」
「はい」
 深々と下げていた頭を、ぱっと上げる。突然名前を呼ばれたので、たぶん顔は赤くなっているだろう。指先が震えているのがわかる。目にもじんわり涙が浮かびそうな気配がする。
 それでもにっこりと、全力を振り絞って笑顔を浮かべてアイオンを見ると、アイオンは何事か言おうとして口を開き、そのまましばらく動きを止めた。サララをじっと見つめる。サララは笑顔で見返す。しばらく、そのまま空気の流れが絶えた。
 そして、やがてアイオンはふ、と口を閉じかぶりを振って、呟くように言った。
「いや、やめておこう」
「はい」
「……また、来る」
「はい。お待ちしております」
 彼の背中に向けて深々と頭を下げ、ゆっくりと上げて彼が闇の中に消えていくのを見送る。完全にその姿が見えなくなってから、小さく息を吐いて、ずっと自分の足元で毛を逆立てていたチョコを撫でた。
「じゃあ、お店、閉めようか」
『……うん。早く閉めよう。明日も、あさっても、その次の日も次の日もどうせきっと忙しいんだから』
「……そうだね」
 明日。あさって。その次の日。――未来。
「ねぇ、チョコ」
『なに?』
「わたしに、未来って、あるのかな」
『は? なにそれ、意味がわかんないよ』
「……そうだね」
 あのカード。占いの最終結果を示すカード。
 最後の一回転で見えたカードの図柄は、水晶玉だった。意味は未来、完成、完全。
 そしてサイドカードは月と太陽。この二つが隣り合って現れる、それは世界を意味する。
 世界の未来。つまりそれは。
「希望……」
 小さく呟いてから、ゆっくりと店の入り口へ向かう。扉の札をひっくり返して『準備中』にし、鍵と鎧戸を閉めてきちんと戸締りを。内装は翌朝変えるので軽い掃除だけして、戻すべき商品を大鍋の中に。お風呂にはもう入ったから、歯を磨いてベッドに入って、ゆっくりと眠って。そして明日は。
「……ダンジョンに、行こうかな」
 小さく呟いて、少しだけ軽い足取りで歩き出す。この占いが正しいのか、ちゃんと流れを見通せているのかそれはもちろんわからない。
 けれど、ただ、確かに、自分はこんな言葉も聞いたのだ。おばあちゃんの最後の教え。釘を刺し、脅しつけ、それでも最後にいつも微笑んで言ってくれた言葉。
『だけどね、サララ。それでも、あんたは幸せになろうとしなきゃいけないよ。たとえ先に見える運命が破滅を示していようとも。運命を受け容れ、乗り越えて、幸せになろうとしなきゃいけない。だって、あんたの人生なんだから。あんたの、あんただけの命なんだから』
「『あんたの生が紡いだ、あんただけの世界なんだから、あんたが幸せにしないで誰がするんだい』……」
『サララ? なに言ってるの?』
「なんでも、ないよ」
 微笑んで答えて、ゆっくりと歩く。そう、生まれたからには生きなくちゃ、生きているからには幸せにならなくちゃ。たとえ運命がそっぽを向いたとしても、全力で幸せをつかもうとする、それは生きているならどんな存在であれ当然の心得。
 だから、必死に生きる。絶望が目の前に広がっても、それでも前を向いて生きなくちゃ。その想いはきっと、いろんな人に伝わって、いろんな人の世界を変えるだろう。そうすれば、もしかしたら流れを変えるほどの堰ができてしまうかもしれない。
 それはただの夢かもしれないけれど。あの人にまた会って、心底、思い知ったから。
 自分はあの人に、笑って会いたいのだと。「いらっしゃいませ」も、「ありがとうございました」も、「またのお越しをお待ちしております」も、他のいろんな、いろんな言葉も笑って言いたいのだと。
 だから、ダンジョンに行こう。いろんな人と一緒に。自分は、この街の人たちが、本当に本当に大好きなのだから。
 小さくこくり、と子供のようにうなずいて、サララは階段を上る一歩を踏み出した。一日の仕事が、ようやく終わったのだ。

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