「………さらばだ」 そう言って頭に乗せられた、優しい手の温もりだけを覚えている。 滝川はさんさんと降り注ぐ陽光の下で、ぼんやりとグランドを眺めていた。 今は夏。自然休戦期。幻獣の出ない貴重な季節だ。 だがそれでも学校はまだある時期で、滝川は5121小隊の隊員と共にいまだに尚絅高校に間借りしているプレハブに通っていた。 授業が終わって、今は仕事時間。自然休戦期が終わればまた5121小隊のみんなと共に戦いを始めなければならないことを考えれば、こんなところでぼんやりしている時間はないのだろう。本当は。 だが、滝川はどうにも仕事に集中できなかった。ここのところいつもそうだ。なにか――なにかすごく大切なことを忘れている、そんな気がしてしょうがない。 それがどうにもひっかかって仕方なく、必死に思い出そうとしていたらいつの間にかグラウンドに来ていた。 「なんでこんなとこに来ちまったんだろ……」 滝川は一人ごちて、グランドの中心、スカウトの訓練場所を眺める。そこには珍しく若宮がいなかった。体力か運動力の訓練でもしているのだろうか。 おまけに――までいない。 「え?」 滝川は自分の頭を一瞬よぎった思考に呆けたような表情になった。 ――って誰だ? うちの小隊のスカウトは若宮さんだけだったはずじゃないか。 そもそも名前もわからない人間に『誰だ』もないだろう。なんでそんなこと考えたんだ? わからない。でも自分は、何か忘れてる。それはすごく大切で、絶対に忘れちゃいけなかったこと―― 滝川は胸に強い痛みを感じ、ぎゅっと制服の胸元を握り締めた。制服の分厚い合成繊維の感触の下から、くしゃり、と柔らかい感触が伝わってくる。 「わ!」 慌てて懐に手を突っ込んで、帽子を取り出す。白色の使い古されたキャスケット帽。くしゃっとなってしまった帽子を手で直して必死に綺麗な状態に戻す。 大切な帽子なのに、反射的についやってしまった。みんなに似合わないとさんざん言われてずっと懐に入れていたんだった。 ――からもらった大切な帽子なのに。 滝川は自分の思考に混乱して頭を抱え込んだ。――って誰だよ。名前が思い出せない。でも自分は知っている人だ。この帽子をくれた人だ。どんな人だったんだっけ。いつもらったんだっけ。なんだろう、何か忘れてる。すごくすごく大切な何か―― 「――持っていけ」 そう言って帽子を頭の上に載せてくれた。 ずっと見たいと思っていた、綺麗な青い瞳に見つめられ、滝川は思わずぽうっとなる。 「……無事を祈る」 無表情だった顔がわずかに笑んだ。滝川は嬉しくて泣きそうになりながら、その顔を二度と忘れないと―― はっ、と滝川は顔を上げた。なんだ? なんだ今の? もう少し、あと少しで何か掴めそうな、そんな気が―― と、グラウンドで誰かが走っているのが視界に入ってはっとした。 誰だ? まさか、まさか、まさか――― よく相手を確かめることもせず走り出した。あの人かもしれない、あの人だったら、あの人にまた会えるなら。 走りながら思い出していた。自分は何度もあの人を追って走っていた。こんな風に―― もう一度会いたい。そんなことを思いながら涙をこぼさないよう前を見もせずひたすら走って、走っている人向けて突っ込んでいった。 「せんぱ……」 「きゃっ!」 どんっ、とぶつかる感触。ぶつかった相手は勢いに押されて転んだようだった。 え? と驚いて相手を見る。――新井木だった。 「あ、新井木ぃ!?」 あっけに取られて叫ぶと、新井木はきっと滝川を睨んで怒鳴った。 「いきなりなにすんのさこのバカゴーグル! 走るときは前見る! そのくらいの常識も知らないわけ、バカサル!」 「な……なんだとぉ!? 誰がサルだこのガイコツ女! てめぇがこんなとこ走ってるから悪いんだろうが!」 「反省なし? サイテーだねっ! サル以下だサル以下! 学習能力ない奴って一番使えないんだよね、あーやだやだ!」 「てめーに言われたくねーっての! だいたい整備員のお前がなんでスカウトの練習場所で走ってんだよ!」 滝川がそう言ったとたん新井木は黙り込んだ。滝川も拍子抜けして黙り込んでしまう。数分の間があって、ようやく新井木は口を開いた。 「………スカウトの素質あるか、試してみようと思って」 「はぁ!?」 滝川は今度こそ本当にあっけに取られた。スカウトは体一つで幻獣と渡り合う最も過酷な職業だ。身体能力を極限まで鍛えなければスカウトに志願するというのは自殺するようなもので、当然新井木のような体の小さい体力のない者は最もスカウトには不適切な人材だ。 新井木は立ち上がり、ぱんぱんと尻についた埃をはたきながら言う。 「でも、僕スカウトには向いてないみたい。やっぱりパイロットだね。戦車技能資格取っといてよかった」 「って、おい、ちょっと待てよ。お前、戦場に出る気なわけ?」 慌てて訊ねる滝川に、新井木はあっさりうなずいた。 「………なんで? お前ずっと整備士やってたのに、なんで突然……」 「別にいいでしょ。二番機、今空いてるし。誰かがパイロットになったほうがいいってみんな言ってるじゃない」 「いや、そりゃそうだけどよ……」 確かに二番機は今空いていた。二番機パイロットだった自分が速水の司令への移動に伴い三番機に移ったためだが、これまでずっと立候補しなかったのに、なんでいまさら? それに、士魂号乗りは小柄な方が有利なのは確かだが、身体能力が直接能力に反映される人型戦車では、パイロットもスカウトに劣らないほど身体を鍛えねばならない。新井木のような華奢な体でハードな訓練に耐えられるとは思えなかった。 そんな思いが視線に出てしまったのか、新井木は不機嫌な顔をして滝川を睨んできた。 「僕には無理、とか思ってるでしょ! あーやだやだ固定観念に縛られた男って!」 「な……あのなぁ! 俺はお前のことを思ってだな……」 「言っとくけど僕。絢爛舞踏狙ってるから」 「な……」 滝川は呆然としてしまった。常勝小隊5121でそれなりの成績を残している自分でも、二ヶ月戦って撃墜数はゴールドソードにも届かないのだ。他のパイロットもそれは同じ。 なのにいきなり絢爛舞踏? あの人類最高の勲章を狙ってる? 無茶や無謀を通り越して笑い話にしかならない。 「お前な、戦場を舐めてると、本気で死んじまうぞ?」 「舐めてないよ。でも僕は決めたの。絶対絢爛舞踏取る」 「あのなぁ―――」 滝川は呆れ顔で言葉を継ぎかけて、新井木の表情に気づいた。 真剣だ。おそろしく。 新井木のこんな顔は見たことがない。決死の覚悟を決めた、石にかじりついても、たとえ命を落としても、なんとしてもやり遂げるのだと顔に書いてあった。 こいつがこんな顔ができるのか。顔から放つ裂帛の気合に気圧され、滝川は黙り込んだ。 新井木もしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。 「滝川」 「なんだよ」 「その帽子、僕にくれない?」 「だめっ!」 考えるより先に口が動いていた。その勢いのままにまくしたてる。 「これは大切な帽子なの! すっげー、すっげー大切な人にもらったんだ! 俺に生きろって渡してくれたんだ! 誰によこせって言われても、ぜってー、ぜってー渡さねーからな!」 怒るかと思いきや、新井木は意外に冷静だった。いきり立つ滝川を見て、軽く肩をすくめる。 「そう言うと思った」 「……何だよお前……なにがしたいわけ?」 「あんた――その帽子、誰にもらったか覚えてる?」 「え」 「僕は覚えてない。ううん、思い出せないんだ」 「……………」 滝川は絶句していた。そうだ、思い出せないんだ。すごく大切なことだったのに、記憶に鍵をかけられたみたいに忘れてる。 新井木はさっきとはまた違う、だがやはりこれまで見たことがない静かな顔で言葉を続けた。 「僕、あんたと一緒にさ、誰かを追いかけてた気がするんだよね。その人はこっちなんか全然見てくんない人で、でもずっとずっと追いかけてた。それなのに、その人のこと忘れてる――そんな気がしてしょうがないの」 「………なんで、そんな風に………?」 新井木は小さく笑って、滝川の胸元を指差した。 「それ」 「え?」 「あんたのその帽子。それ見てるとなんかすっごい腹立つんだよね。なんでだろなんでだろって考えて、なんかちょっとだけ思い出した。あんただけ振り向いてもらった瞬間があったんだよ。僕たちが一緒になって追っかけてた人に」 ―――ざわ、と。 頭の奥底で音が鳴った。 「滝川。その帽子は、――のものではないか?」 「………うん」 帽子を胸のところに持ってきて、滝川はまだ陶然とした声で言った。 「――が、俺に、持っていけって。無事を祈るって、そう言ってくれたんだ。俺に、大切な帽子を……なんか、すげえ……まだ信じらんねえ……」 「たわけ」 舞に喜びに水をさされ、滝川はむっとした顔をした。 「なんだよ。嬉しがっちゃいけないってのかよ。俺はなー、ずーっと――に憧れて――」 「たわけ。――はそんなことのためにそなたにそれを渡したのではないぞ」 「え?」 「戦友として、無事を祈る。共に戦う仲間として。それはごく当たり前の心だ。――あやつにとってそなたは、すでに対等な友だということだ。その想い、受け止めずに済ませられるものではないぞ」 「友……?」 滝川は呆然とした。そんなこと――考えたこともなかった。 舞は小さく笑って、滝川の肩を叩いた。 「大切にするがいい。それには――の想いがこもっている。では、そろそろ行くぞ滝川。頼るものなき戦場へ」 「………おう」 滝川はぎゅっと帽子を握り締めた。絶対に帰ってくる。あの人はそのためにこれをくれたんだから。 滝川は体中から汗を流しながら我に返った。なんだ? なんだ今のは? 一瞬の間にばーっと映像が流れてわけがわからなかったけど――あれはそう、舞と一緒にやった極秘任務の時だ。 あの時、自分はこの帽子をもらったんだ―― でも誰に? 新井木は滝川のその葛藤に気づいているのかいないのか、話を続けている。 「僕、それが悔しくて悔しくて。で、そのことを思い出したらちらっ、ちらっとその人のこと思い出すようになったんだ。あんたと一緒に先を争ってタオル渡しに行った時のこととか。あんたに出し抜かれてお昼一緒されてるとこを見て悔しがったときのこととか。――ほとんどあんた絡みだってのがムカつくけどさ」 新井木はちょっと苦笑する風を見せて、また半ば独白するように話を続けた。 「僕はその人のことを思い出したい。だから追いかけるんだ。絶対に忘れちゃいけないことだった気がするから。あの人のいる場所へ僕も行きたい――だから、僕は絢爛舞踏になる」 「……なんで? なんで絢爛舞踏なんだよ?」 問う自分の声は震えていた。新井木は静かに首を振る。 「わかんない。なんとなく、もしかしたら、絢爛舞踏の先にその人がいるんじゃないかと思うだけ。僕の思い込みかもしんない。でも、それ以外にあの人に会う道はないって心のどっかで思ってる。だから追いかけるんだ。全力で」 「……あら……」 「……一つだけ覚えてる、あの人の声」 新井木はうつむいて、その声を思い出すように言った。 「『さらばだ』っていう、優しくて落ち着いた声。……たった一つ覚えてる声がさよならの声だなんてひどいよね。だから、追いかけるんだ。あの人の声、もう一度、ううんもっともっとたくさん聞きたいから」 また、頭の奥で音が鳴った。 ざーっと、今度はさっきよりももっと大きく。 「………さらばだ」 そう一言だけ、口を開いた。 滝川は呆然と――を見上げる。相手の言っていることがよくわからなかった。 「さらばだ、って……? ――、どっか行っちゃうの……?」 嘘だ。本当はちゃんとわかっていた。 別れがきたのだ。この人はここから旅立っていってしまうのだ。この人とは、もう二度と会えないのだ。 目にじわあ、と涙が滲んだ。少しは前よりマシになったつもりだったけど、自分はまだこんなに弱い。 「やだよ……なんで行っちゃうの? 俺、――がいなくなるなんて嫌だよ……一緒にいたいよ! いなくなっちゃったら……寂しいよぉっ……!」 ぼろぼろ涙をこぼしながら、でも目を逸らしたくなくて必死に――の顔を見つめた。――は優しく笑っていた。なんでこんな時に笑っていられるんだよ、と恨めしく思った瞬間、そっと、優しく滝川の頭の上に手が置かれた。 暖かくて、大きい手だった。滝川は緊張したが、何度も優しく撫でられるにつれて体から力が抜けていった。こんな風に優しく、思いやりでもって頭を撫でられるというのは、滝川には生まれて初めての経験ではあった。 「お前は、俺の友だ」 静かな、落ち着いた、優しい言葉。 「離れていても、俺は知っている。お前が懸命に戦っていることを。そしていつもお前の無事を祈る。――お前も、俺の無事を祈ってくれ」 滝川が泣きながら何度もうなずくと、――は微笑んだ。 「お前が戦っている限り――いつかどこかで、また会うこともあるだろう」 滝川は再び我に返った。 今度も一瞬のことでなにがなんだかよくわからなかった。――でも、覚えてる。 あの暖かい手の感触。優しい想い。戦友にかける、励ましの言葉。 自分は知っている。あの人のことを。 たとえ思い出せなくても。 「滝川。あんたは?」 新井木の言葉に、滝川はのろのろと顔を上げた。 「……え?」 「僕はあの人を追いかける。あんたはどうすんの?」 新井木がじっとこちらを見つめる。静かな、だが烈々とした強い眼差し。自らの行く道を決めた者の顔。心底真剣な顔で、こちらを見ている。どんな答えが返ってこようと僕は僕の道を行く、でも共に来ると言うのなら――そんな顔だ。 あの人の声。あの人の声をもう一度聞けたなら―― 滝川は目を閉じてしばしそう想いを馳せ、目を開くと――首を振った。 「俺は、行かない」 「………あっそ」 言うや踵を返そうとする新井木に、滝川は声をかけた。 「俺はここで戦う。――戦っていれば会える時もあるって、あの人が言ってくれたから。――会えなかったとしても、俺はあの人と繋がっているから」 新井木が動きを止めた。ゆっくりとこちらを振り向く。その顔が一瞬くしゃくしゃっと歪んだが、すぐに笑顔になって滝川に近寄った。 「ったく、言ってくれるじゃん。やっぱりあんたってムカつく。繋がってるとかあっさり言い切っちゃってくれてさ」 決然とした笑顔になって、顔をぐいっと上げて滝川を見る。 「僕は追いかけるよ。絢爛舞踏になって」 「俺だって絢爛舞踏になっちゃうかもしれないぜ。そしたらきっと、あの人の方からやってきてくれるんだ」 「甘いこと言ってるねー、このバカゴーグル!」 「うるせえ、ガイコツ女!」 二人は顔を見合わせて笑いあい、手を高々と上げてぱあんと打ち鳴らした。 「――頑張れよっ! 負けんなっ!」 「おうっ! あんたもねっ!」 そう言うと新井木は、グランドを勢いよく走り去っていった。 「―――滝川」 ふいに後ろからぐい、と頬をつねり上げられ滝川は悲鳴を上げた。 「いひぇ! いひぇよひばむら!」 「ほう、反抗する元気があるか。私の誇りを傷つけておきながら、よい度胸だ」 滝川は頬をつねられたまま舞の方に向き直った。舞はどういうわけか、ひどく怒っているらしい。 「ほ、ほほりって?」 「わからぬというのか。たわけ! たわけめ! 私はそなたに近づいたことを今猛烈に後悔している! 曲がりなりにも三番機で共に戦うパートナーで、つ、つつつ、付き合っている人間に対しなんたる言い草だ!」 滝川は思わず顔を赤らめた。自然休戦期に入る前、自分は舞に告白され、いわゆる恋人関係になった。しかし自分から告白したにもかかわらず舞はなかなかそういうことに慣れない。自分もだけど。 「ひばむら……おへがわふかったかは、ひげんなおひてふれよ……」 「ふん」 舞は鼻息も荒く頬の手を離した。そしてぼそりと言う。 「新井木と何を話していたのだ、そなた」 「え? ああ……」 滝川は頭をぽりぽりとかき、しばし考えた。 「……あのさ、芝村。お前、忘れちゃったことってある?」 「どういう意味だ」 「あのさ、大切な思い出でさ。絶対忘れたくなかったことで、忘れたくなかった人でさ。なのに忘れちゃったの。そういうことってある?」 「………ふむ」 舞はしばし瞑目して考え込んだ。数分経ってから、目と同時に口を開く。 「この世には、忘れられない思い出も別れのない出会いもない」 「……………」 「あるのは、忘れたくない思い出と別れてもまた出会いたい出会いだけだ」 「………また出会いたい、出会い………」 舞はうなずく。 「そうだ。どんなに忘れたくないと思っても、脳の記憶野を傷つけられれば簡単に忘れてしまう。どんなに別れたくないと思っても、必ず別れはやってきて、別れた以上やがては忘れることになる。それは避けられぬ事実だ」 「……………」 「だが、それでも。思い出は、忘れたくないと思うことに出会ったことは、別れたくないと思える者に出会ったことは、その者の心に残る。たとえ忘れてしまったとしても、出会いや思い出はその者の心の中に足跡を残し、その者の心を形作るかけらとなる。決してなくなることはないのだ」 「………そうなのか?」 「私も、こう思うようになったのは最近のことだがな」 少しだけ寂しそうに微笑む舞を見て、滝川は気づいた。 芝村も、あの人のことを知っている。そして忘れてしまったことが辛くて、こう考えるようにしてるんだ。 あの人がそこまで舞の心の中に残っていることにちょっと複雑な想いを抱きながらも、滝川は明るい声で言った。 「なあ、芝村。一緒に訓練しねえか?」 「わかった、まかせるがいい。……遅ればせながらやる気になったか?」 滝川は舞のその言葉に、へへっと鼻の下を擦った。 「あの人にまた会った時、また『お前は俺の友だ』って言ってほしいもんな」 舞はちょっと戸惑ったような顔になったが、すぐに笑った。 「人に友と思ってもらうというのは、並大抵のことではないぞ?」 滝川はにかっと笑ってみせる。 「大丈夫だよ。俺、あの人の手の感触、覚えてるもん――だから、頑張れる!」 そう叫ぶと滝川はひょいと手に持っていた帽子を被って、グランドはずれへ駆け出した。 |