舞った男は優しく笑う
「こら、ヒナ! 裸で走り回るんじゃない、風邪引くだろ!」
「やーっの、ひかないもん!」
 風呂場前の洗面所から飛び出した幼女――ひなたに、滝川陽平から芝村陽平に変わった、もはや少年とは呼べない男はバスタオルをかぶせた。
「やーん!」
「やーんじゃないの、ちゃんと体拭いて服着るんだよ。はい、手上げてー」
「うむーん」
 不満そうにしながらもひなたは素直に手を上げた。その間にわきの下、胴体、足を素早く拭き、足を上げさせて足の裏を拭いてやる。
「はい、おしまい。ちゃんと自分で服着れるな?」
「たわけ!」
 陽平は苦笑した。『たわけ』は最近のひなたのお気に入りだ。ひなたは前から舞の言葉を真似して使うのが大好きで、『たわけ』の他にも『そなた』だの『許すがよいぞ』だのを幼児なりの言葉で必死に真似しようとする。そしてうまくいったと思ったら、舞によく似た会心の笑みを浮かべるのだ。
 ひなたにとって、母は絶対権力者であると同時に近づきたい憧れの存在でもあるらしい。
「とーしゃ、とーしゃ、きるきる!」
「っと、悪い! 遅くなっちゃったな。はい大河、目つぶってー」
「わぷ、わぷー!」
 息子の訴えに即座にバスタオルをかぶせてやりながら、陽平は笑った。
 俺がこんなことやってるとこみんなが見たらなんていうかな、と。

 西暦2013年、芝村陽平二十九歳。職業、非常勤の航空会社のパイロット。配偶者、芝村舞との間に一男一女あり。
 その一男が現在二歳の滝川大河であり、一女が現在四歳の滝川ひなたであった。
 黒い月が消滅して、戦争が終わってから十四年。その間にも、もちろん――いろいろなことがあった。
 5121小隊解散後、舞と陽平は自衛軍に編入された。舞は志願して、陽平は半ば強制で半ば志願という形で。
 学兵制度は消滅したものの、絢爛舞踏という英雄をあっさり解放するほど軍は優しくなかった。軍に人を集めるため、また単純に戦力として、陽平を手元に置くべく画策したのだ。
 陽平としても、裏でこそこそやっていることは気に入らなかったが、軍に残ること自体には不満はなかった。いまだ自分の進む道を決めかねていた陽平には、自分の得意なことをしていれば衣食住を保障してくれる軍の誘いはありがたい話だったからだ。千翼長という自分の階級は自衛軍なら中尉で、給料もわりとよかったし。
 だが、そうなると当然舞とは別れ別れになってしまう。
 軍人として国内海外の復旧活動に全力を尽くしながら、陽平はいつも舞を思った。同僚や部下、上司に冷やかされながら、何通も手紙を書いた。そして思ったのだ。
 会いたい、と。
 会いたい、そばにいたい、話がしたい――そんなことを思って、いろいろ考えて、陽平は飛行機の免許を取ることに決めた。
 飛行機の免許を取ればいつでも空いている時間があれば舞に会いに行くことができる。今から考えればずいぶんと短絡的な話だが、陽平はそう考えたのだ。
 その思いは――舞にいつでも会いたいという想いに世界中の人々の距離をもっと縮めたいという情熱も加わって変質はしたものの――年を重ねるにつれ強くなり、2003年、十八歳になった滝川は軍を退役した。航空大学進学のためである。
 むろん軍からは強く引き止められ、陰に陽に脅迫じみた真似を受けたりしたが、その気になった滝川を止められるような力を持つ人間はこの世界のどこを探しても存在しない。同じく大学に進学する舞と共に、陽平は軍をやめた。
 そして陽平は航空大学に、舞は日本で最も優秀な人間が集まる最高学府に進学を決め――同時に結婚した。
 ずいぶんと急ぎましたね、と内輪の結婚式に出席した善行には苦笑されたが、陽平としてもこんなに早く結婚することになるとは予想外だったのだ。なんというか一緒に勉強しているうちに盛り上がってしまい、まあその、いろいろあったのをきっかけにあれよあれよという間に話が進んでしまっただけで。
 それをきっかけに正式に芝村姓に変わり、軍で働いていた時の貯金を使ってささやかなアパートを借りた。二人とも勉強やら実習やらが忙しくてめったにアパートには帰ってこれなかったけれども。
 時に喧嘩し、時に仲良くしつつ四年間の大学生活を過ごし、卒業すると陽平は先輩の新設した航空会社に就職、舞は司法試験と上級公務員試験にダブル合格。凄まじい勢いでキャリアを重ね、二十五歳で、むろん史上最年少で国会議員に当選してしまった。
 そして、同時に舞は、陽平のところに赤ん坊を連れてきた。
 仰天した陽平に、舞は受精卵がどうの遺伝子配列がどうの確率論的遺伝子結合がどうの、とややこしい話をしたが、陽平にはさっぱりわからなかった。わかったのは、その赤ん坊が自分と舞の子供で、舞としてもこんなに突然赤ん坊ができてしまったのは予想外だったということだけ。
 陽平は困惑した。自分の子供。自分の遺伝子を受け継いだ存在。そんな存在がなんの前触れもなく目の前に出現して、どう反応すればいいのか完璧にわかるほど陽平は頭がよくはない。
 同時に、恐怖を感じた。自分はこの子をちゃんと大切にして愛してやれるのだろうか。母ちゃんがやったように、自分がやられたように、この子を傷つけてしまうんじゃないだろうか。ひどく怖くて、その子を抱き上げることもできなかった。
「たわけ」
 そんな陽平を、舞は叱りつけた。
「そなたは昔のそなたではないはずだ。そなたは自分の意思で、血を吐きながら、戦うものに生まれ変わったはずだ。ならばなにを恐れることがある? 傷つけぬよう、自分の感情と戦っていけばいいだけのことではないか」
「それは、そうかもしれないけど……」
「それに。そなたは一人ではないであろうが。私が子育てをそなた一人に任せるとでも思っているのか? 私とそなた、二人でこの子を育てるのだ。なにが怖い?」
「…………!」
 その言葉がとどめになって、滝川はようやく、その子の顔をちゃんと見ることができるようになったのだ。
 芝村一族の慣習に従い、子供の姓は芝村ではない。名前だけ他家に養子に出すのが普通なのだそうだが、自分たちに縁のない姓がつくのは嫌だと陽平がわがままを言い、滝川の係累を辿って名前だけ滝川姓に落ち着かせた。滝川の両親はすでに亡かったので、係累を辿るしか方法がなかったのだ。
 名前は『ひなた』とつけた。陽平の陽の字と、陽の当たる場所を心に持っていてほしいという想いにちなんで。
 陽平は航空会社を休職し、非常勤になった。家庭に入り、兼業主夫になったのだ。その頃にはすでに滝川は世界で最も信頼できるパイロットの一人、という評判を得ていたが、自分たちの子供のそばにいてやりたい、という想いはその評判に対する執着よりも、勤め先の人々に対する不義理を厭う気持ちよりもはるかに大きかったのだ。
 子供の頃夢見た、帰ってこられる場所。家族を、家庭という空間を、創り出せるかもしれない、いや絶対創り出そう。そう思ったから。
 ――むろん、そんな夢想をいつまでも抱いていられるほど子育ては甘くなかった。子育てというのは圧倒的な現実だ。家事技能の極めて低い陽平にとっては、ミルクやりにおむつ替えという基本作業さえ大事業、赤ん坊のひなたは毎日毎日なにかしら面倒を起こすし、それを処理しながら主夫として家事も行わねばならない。舞も手伝ってはくれたが、舞とて家事労働は決して得手ではないのだ。パニック、混乱は日常茶飯事、愛だのなんだのを持ち出す暇もなく、一時期、芝村家舞&陽平宅は深刻な機能不全に陥った。
 だが、そういうトラブルも毎日(ある程度)真面目に取り組んでいれば慣れてくる。要領をつかみ、日常の一部、ルーチンワークとしてこなすことができるようになってくる。陽平の家事技能もそれなりに熟達し、熟練とは言わないまでもまあ主夫としてそこそこのレベルに達してきた。
 そうしてある程度落ち着いた日々を過ごすことができるようになってきて――陽平はふと、自分が心底、ひなたを愛していることに気づいた。
 可愛いからとかいい子だからとかいう理由があるからではなく、むしろ泣くし喚くしどんな状況でも見境ないし、腹が立つことの方がはるかに多いのだが、ひなたが自分の腕の中で幸せそうな顔をして寝入っているところなどを見ると、あーなんかすげー幸せだなー、とか思ったり、あー俺こいつのことすげー大切だなー可愛いなー、とか思ったりしてしまうのだ。
 たぶん、それが親になるということなのだろう――陽平は、奇妙に落ち着いた、くすぐったいような不思議な感慨をもって、湧き起こったその情愛を受け容れた。
 舞が帰ってきたらお帰りと言って出迎え、子供の面倒を見つつ一緒に食事をし、一緒に寝る。そんな風に日々を重ねて、舞と陽平は恋人から夫婦へ、夫婦から家族へとゆるやかに変わっていった。
 二年後新しく、今度は男の子がその中に加わり、太平という言葉と滝川という姓からの連想を合わせて『大河』と名付けられ、家族がまた一人増えることになって。また忙しくなったりもしたけど、子供たちに対する愛しさはより強くなっているように思えるほど衰えないで。
 雪が降り積もるように、陽平の心の中には幸福≠ニいう実感が静かに積み重なり始めていた。5121小隊にいた頃のようなわけのわからないほどの強烈な情熱はないけれど、しみじみと、生きることが生きられることが嬉しいと、そう感じるようになったのだ。
 ……むろん、時々トラブルの種は降ってくるにしろ。

「とーしゃ、とーしゃ! あいしゅ、あいしゅ!」
「はいはい、ちょっと待ってろ。今出してやるからなー」
「おとーさん、わたしも!」
「はーいはい、いいから待ってろって。順番だ順番」
 お風呂上りのアイスは子供たちの大きな楽しみの一つだ。おやつの時間以外に唯一お菓子を食べられる時間ということで、ひなたも大河もアイスのために風呂に入るくらい楽しみにしている。
 ガキの頃はお菓子をもっと食わしてくれればいいのにって思ってたけど、親としてはやっぱり素直に子供の言うこと聞くわけにはいかないよな。虫歯になりやすくなるだろうし、栄養の偏りも心配だしな。
 そんなことを考えて微笑みつつ冷凍庫の扉に手をかけ――た瞬間、ピンポーンとドアのチャイムが鳴った。
 陽平は眉根を寄せる。時刻はすでに八時を過ぎ、当然とっくのとうに陽は沈みきっている。こんな時間に訪れる客というのは――
「とーしゃ、あいしゅ!」
「ちょっと待て。もしかしたらもっとうまいもんが食えるかもしれないぞ」
「もっとうまいの?」
「ああ。たぶんこのチャイム、あのおじさんだからな」
 その言葉にひなたと大河は顔を見合わせ、うきゃーっと叫び声をあげてとすとすとすと小さな足を踏み鳴らした。あのおじさん≠ヘ来るといつもすごくおいしいお菓子をくれるので、二人ともその来訪を心待ちにしているのだ。
 足元を走り回る子供たちの間を抜けて、扉の前に立つ。一応覗き窓から相手を見て、予想通りの相手が立っていることを確認してから、がちゃりと扉を開ける。
 そこに立っていたのは、5121小隊時代からの友人――速水厚志だった。
「ひさしぶり」
 すでに自分と同じく三十路近いはずなのに、年齢を感じさせないどこか少女じみた風貌でにこりと笑う。
「ああ、ひさしぶり――っつっても一ヶ月前にも会ってるけどな」
「おや? 一ヶ月という時間は君の心に久しいという感興を呼び起こすには足りなかったのかい? 僕は君とまた会う日を一日千秋の思いで待ちわびていたというのに。つれないね、我が愛人」
「気色悪いこと言うなっつってんだろ、ったく毎回毎回。俺は浮気するほど馬鹿じゃねーけど、特にお前みたいな奴とは死んでもごめんだ」
「ひなたちゃん、大河くん、聞いた? 君たちのお父さんったらせっかくやってきた僕にあんなひどいこと言うんだよ。帰っちゃいたくなるよね」
「やー、かえっちゃや!」
「おとーさんのばか! たわけ! はやみのおじちゃんにあやまってよ!」
 子供たちに喚かれ、陽平は思わず速水を睨んだ。
「てめえ、こいつらを使うなんて卑怯だぞ」
「うわあ、こんなにいとけない子供たちを使うだなんて君ってなんてひどいことを思いつくんだい? そんな非道な行為を子供たちの前で言葉にするなんて信じられないよ」
「てめーがやってることだろーが! 自分を思いっきり棚に上げて偉そーに言うんじゃねえ!」
「もう陽平ったら、子供の前で怒鳴ったりしちゃ駄目だろう? 子供は親を見て大きくなるんだからね、ひなたちゃんたちが乱暴な子になったらどうするつもりなの?」
「てめーが言わせてんだろーがっ!」
 陽平は速水を睨む。速水も睨み返す。数秒間睨みあって、陽平はぶふっと吹き出した。いつものごとく二人が喧嘩を終えたのを確信し、ひなたと大河はほっとして同じように笑う。
「『イプシロン』のシェフ・パティシエにアイスケーキを作らせたんだ。中に入れてくれる?」
 すまして言う速水に、陽平は笑いながら答えた。
「早く上がれよ。お茶淹れるから」

「今日はどうしたんだ?」
 切り分けたアイスケーキを懸命にがっつくひなたの頭を撫でながら、陽平は言った。
「なにか用がないと来ちゃ駄目なのかい?」
「いや、んなこたねえけどお前用がないと来ないじゃん。あ、ほら、大河大丈夫か? ちっちゃくしてやったから、ちょっとずつ食べるんだぞ」
「冷たいね。泣きながら僕のことが好きだと言ってくれたあの日の君はどこにいってしまったのかな?」
「だぁっ! お前その話何度も何度も言うな人の過去ほじくりかえしやがって! それ言うならお前だって俺のこと好きだとか言ったくせに!」
「君も覚えていてくれたんだ、嬉しいね。心配しなくても、僕は今も変わらず君のことが好きだよ」
 しれっと言い放つ速水に、陽平は不覚にも顔が赤くなってしまった。こいつはどうしてこの年になっても恥ずかしげもなくこんなことが言えるんだ?
「お前な……少しは年甲斐ってものを考えろよ。もーすぐ三十路だろ?」
「心はいつも十四歳が僕のモットーなんだ。さて、僕の告白に対する君のお返事は?」
「こ……告白ってな!」
 思わず声を上げる陽平を、ひなたと大河が不思議そうに見た。速水はにこにこしながらこちらを見ている。陽平はなんだかムキになっているのが恥ずかしくなってきて、自棄気味に頭をかきつつ言った。
「あーもうわかったよっ、俺だってお前が好きだよ! 会えて嬉しかったよ、それなりにっ! あーもう、この年になってなんでこんなこっぱずかしいこと言い合わなきゃなんねーんだ」
「気持ちを言葉に表すのは大事なことだよ」
「とーしゃ、とーしゃ、たいがもしゅき?」
 口の回りをべとべとにしながら目をくりくりさせて問う大河に、陽平は思わず笑った。
「あったりまえだろー? おとーさんは大河もひなたも世界でいっちばん好きだよ。他の誰も比べ物にならないくらい」
「おかーさんは?」
「舞もおんなじ。世界でいっちばん好き」
 その言葉に、ひなたと大河はにかーっと子供っぽい満面の笑みを浮かべた。
「たいがもしゅきー! とーしゃとかーしゃしゅきー!」
「わたしも……えっと、すきだということにしておいてもよかろう、だよ!」
「そっかそっかー」
 陽平は嬉しげに、わしゃわしゃと二人の頭をかき回した。当たり前だが陽平の手は二人の頭を覆えるほど大きい。手の中で笑うひなたと大河に、陽平も思わず微笑んだ。
 そんな家族の情景を見守りつつ、速水は楽しげに言う。
「ひなたちゃんも大河くんもかわいいねえ。さすが舞と陽平の子供」
「そーだろそーだろかわいいだろー、って、なんかお前が言うと怪しい感じがするな……」
「別にやましいこととか考えてるわけじゃないよ。僕は真剣に交際を希望してるんだ」
「………はぁ!?」
「十六歳になった時にフリーだったらお嫁さんになってくれるって約束したんだよ、ねー?」
「? ねー?」
 つられてか本当に約束したのかはわからないが、ひなたは速水の微笑みに従ってにっこり笑って首を傾ける。陽平は思わず血相を変えて叫んだ。
「ダメダメダメダメッ! 年の差がいくつあると思ってんだ、文字通り親子ほども違うんだぞ、そんな奴との結婚なんて絶対認めねーっ!」
「細かいことを気にしちゃいけないよ。愛があれば年の差なんて」
「どこにあるんだよ、愛が! 年の差はおいておいてもなぁ、お前みたいな無軌道野郎に娘をやる親がどこにいんだよ! 普段なにやってるかも次の瞬間なにやってるかもわからねえよーな奴に、うちのかわいいひなたをやれると思ってんのかっ!」
「じゃあ大河くんでもいいよ」
「もっとダメ―――ッ!」
「おとーさん、はやみのおじちゃんいじめちゃダメ!」
 むぅっと頬を膨らませたひなたに責められ、陽平は思わず愕然とした。
「ひ、ヒナ……お前お父さんよりこいつの方が大事なのか……!?」
「やっぱり愛があるからねぇ。ねー、ひなたちゃん?」
 頭をなでなでされて嬉しそうにするひなたに、陽平の目はうるるっと潤んだ。本当にひなたが嫁にいってしまったかのような悲嘆ぶりだ。その表情を愛しげな顔で眺めやってから、速水はふいに真剣な表情になった。
「ま、挨拶はこのへんにするとして」
「挨拶だぁ!?」
「実際僕は用があるんだよ、舞に。ちょっとした情報があってね」
 陽平も姿勢を正す。速水が舞に話をしに来るのはわりとよくあることではあった。陽平はよく知らないが(二人が詳しいことを教えてくれないので)、速水は昔から舞に様々な裏情報を流しており、舞が最年少年齢で国会議員になることができたのもいくぶんかは速水の助力があったためらしい。
「舞だったらもうすぐ帰ってくると思うけど……一時間くらい前にこれから帰るって電話があったから」
 芝村舞&陽平宅は霞ヶ関から電車で一時間弱ほどの住宅街の外れにある。一応一戸建てだがその大きさは国会議員の邸宅にしてはずいぶんとつつましい。舞も陽平も華美を好まない性格だったせいもあるが、舞が清廉な政治家のため余分な金がないという切実な事情のためもある。
 舞は電車と徒歩で通勤しているため、通勤時間は一時間強というところ。秘書やスタッフの面々は車を用意するといっているのだが、不要の一言で切り捨てられているのだ。
「それは知ってるよ。待たせてもらっていい?」
「いいけど……なんでんなこと知ってるんだよ」
「僕は君たちのことならたいてい知ってるんだよ――おや?」
 ぷるるっ、ぷるるっ。高い電子音を立てて芝村舞&陽平家の電話が震えた。陽平は慌てて立ち上がり、受話器を取る。
「はい、芝村ですが」
『陽平さまですか』
「あ……よ、吉岡さん?」
 陽平は一瞬困りきったような顔をした。吉岡というのは舞の秘書で、舞の大学時代からの友人で腹心である。芝村家に連なる家の生まれだそうで、仕事ぶりは極めて優秀、しかも容赦がない。
 舞はこの男を深く信用し重く用いているのだが――陽平はどうもこの人が苦手だった。常に冷静沈着で仕事熱心で優秀な彼のそばにいると、怒られるのではないかとついびくびくしてしまうのだ。舞の夫としてふさわしくないとかどうたらこうたら言われるんじゃないかとか。
 実際相手が自分のことを屁とも思ってないことは、舞の国会議員選の時応援文を書かされたときによーくわかっていた。曲がりなりにも絢爛舞踏ということで学兵世代の間ではいまだ英雄扱いな自分の名声を利用すべく陽平は応援文を書かされたのだが、作文(のみならず体育以外の学校の授業関係はすべからく)は苦手だというのに、陽平自身の文章でないとリアリティに欠けると言ってむりやり陽平に書かせておきながら、冗長だの小学生みたいだだの文句をつけて何十回、何百回も書き直させたのだ。
 しかもその間ずっと顔をつき合わせて。作文合宿は三日に及び、その間逃げることも放り出すこともできず冷厳とした目で監視され続けた。陽平が彼に苦手意識を持つのも無理からぬところだったろう。
 だが、吉岡はそんなことにはまるで頓着なく早口に言った。
『悪い知らせです。舞さまにつけたSPからの定時連絡が途絶えました。舞さまに連絡を取ったところ、十人ほどにつけられているのを感じるそうです』
「―――!」
 陽平は一瞬息を呑み、それからゆっくりと息を吐いた。舞が誰かに付け狙われるのは、これが初めてというわけではない。
 心と体が日常モードから戦闘モードへと切り替わっていく。自分の組成がどんどんタイトになっていくのを感じながら、陽平は電話口に向けて言った。
「舞の現在位置は?」
『今電車の中です。五分後に駅に到着します』
 舞には万一の時のために衛星発信機がついている。その情報にはまず間違いはないだろう。
 タイムリミットは、五分。
「吉岡さん、ありがとう。あとはなんとか俺がやってみるよ」
『はい。舞さまをよろしくお願いします』
「当たり前だろ。舞は俺の――奥さんなんだから」
 電話を切る。真面目な顔でこちらの様子をうかがっているひなたと大河に視線を合わせ言った。
「ひなた、大河。これからお父さんちょっと世界を守りに行ってくるよ。その間、ちゃんと待っていられるか?」
「あい!」
「はい。おとーさん、がんばってね」
 真剣な顔でうなずく二人に、陽平は笑って頭を撫でた。陽平が『世界を守りに』行くのはこれが初めてではない。そのたびに彼らは陽平が、自分たちや世界を全力で守ろうとしてくれているのを、理性よりも感覚で感じ、深く尊敬しているのだ。
 陽平は速水に向き直った。
「速水、悪い。ひなたと大河、頼めるか?」
「もちろん。二人とも僕の未来の花嫁だからね、なんとしても守ってみせるとも」
「結婚は許さねえっつってるだろ――でも、頼むな」
 最後に優しい笑みを残して、陽平は玄関へと向かった。それを真剣な顔で見送りながら、ひなたがぽそりと言う。
「はやみのおじちゃん。おとーさん、だいじょうぶだよね?」
 速水は笑った。
「もちろん。彼は世界で最強の化け物より強い、ただの人間だからね」

 陽平は家の外に出たとたん、殺気が吹き付けてくるのを感じた。いかに住宅街の外れとはいえ普段は人がいないわけではない、だが今は猫の子一匹見当たらない。
 やっぱり俺の方もターゲットに入ってたわけか、と心の中で呟く。舞に危害を加えて無事でいるつもりなら、その夫である絢爛舞踏も同時に潰すのが当然というものだろう。そう考えるのは今度の客が初めてではない。
(十五……いや、二十人。軍人だな。錬度はそこそこ……)
 頭の中で半ば言語化していない情報を検討する。殺気とか気配とかだけではなく、陽平には戦場にいる敵の陣営がわかってしまうのだ。
 陽平は無造作に駅への道を歩いた。罠があるんじゃないかとか相手の戦術とかは考えていない。考えると遅れる。頭よりもっと深い場所で、体全体から吸収した情報を使って感得するのだ。
 ふいに、カッと四方から眩しい軍用ライトの光が浴びせられた。陽平の視覚が一瞬奪われる。
 同時にダダダダダ、と鈍い音を立てていくつかの方向からアサルトライフルが乱射された。視覚を奪ってから機銃を掃射すれば殺せると踏んだのだろう。住宅街でアサルトライフルを撃つとは乱暴な話ではあるが、普通の人間ならなす術もなく肉片に変わっていたことだろう。
 が、陽平は数瞬早く射界から身をかわしていた。
『!?』
 敵の間に動揺が走る――と感じるより早く、陽平は待ち伏せしていた敵の群れの中に踊りこむ。視覚は陽平にとってなければ戦えないというほど重要なものではない。
「ぐふ!」
「げは!」
「ぐが!」
 一秒にも満たない間に急所に問答無用の一撃を次々放ち、そこにいた敵を全員あっさり気絶させてから、さらに素早く移動して次の群れに移る。相手もむろん隠れてはいるが、陽平にはその手の工作は無駄だった。どんなにうまく隠れようとも、敵の居場所はわかってしまうのだ。
 そして敵の居場所がわかれば――相手から攻撃を受けないようにして、全力で攻撃すればいい。
「ぎゃ!」
「おげ!」
「がほ!」
 普通なら言うは易しの典型的な言葉だろう。だが陽平の中には人間が何千年にも渡って積み上げ研鑽してきた戦術の数々がつめこまれている。敵がどう動くか、どう考えるかを、これまでの経験から瞬時に判断し同時に学習を行って新しい情報に対処する。
 何人敵がいようとも――陽平は負けない。負けなくなるまで、瞬時に成長するのだ。
「ごは!」
「ぐひ!」
「げぐ!」
 あと十人。狼狽する気配が空気を渡って伝わってきた。
 相手は退却を決めたらしい。味方に巻き添えが出るのも構わず銃を乱射しながら、後方の軍用車に向かって退く。
 陽平はすうっと目を細め、一見ひどく無造作にその敵兵を追った。
 敵兵から見れば恐怖だろう。陽平はただ走っているだけのように見えるのに、一発も銃弾が当たらないのだ。
 むろん陽平は瞬時に相手の射界を見切り、射界から紙一重で身をかわしつつ、というか射界の内側に走りこみつつ、凄まじい速さでこっちに向かって走ってくるのだ。
 陽平の拳と足がひらめいた。そこにいた敵兵が次々と倒れる。
 それでも何人かは車にたどりつき、仲間を見捨てて発進しようとした。それを感知した陽平は無言で運転席に向かい走る。
 もはや走り出しかけている運転席に向かい、蹴りを一発――そのとたん、運転席にいた敵兵が吹っ飛んだ。
 スキュラも一撃の陽平のキックだ。その衝撃は軍用車の装甲をぶち抜き、中にいる人間に伝わった。
 車は迷走して電信柱に激突し、中からよろよろと残りの敵兵が這い出てきて――あとは簡単だった。
 敵兵、全滅。陽平が家から出てきてから、三分も経っていない。
 陽平はそれを確認すると、息をつきもせず駅に向かって走った。舞が駅に着くまで、あと二分。
 舞には、指一本触れさせない!

「たっだいまーっ!」
「今帰ったぞ」
 そんな二つの声が玄関に響き、ひなたと大河は顔を輝かせて声の主に駆け寄った。
「おとーさん、おかーさん、おかえりなさい!」
「おかいりなしゃーい!」
「おー、ひなた、大河! ちゃんといい子にしてたみたいだな、よしよし」
 二人を抱き上げて顔を摺り寄せる陽平を、舞はちろりと睨んだ。
「そなたのいういい子という概念は親の言うことをよく聞く子、という意味か? そのようなたわけた考えで我が子を褒めていては、子育てにけしてよい結果はもたらされぬぞ」
「ったく、いいじゃんかそんな細かいこと。ひなたと大河はいい子なんだもんなー?」
「なー?」
「なにがじゃんだ、そなたはもうすぐ三十路なのだぞ、少しは年相応の言葉を使え。父としての威厳がまるでないぞ」
「う……で、でもそーいう舞だって昔と全然言葉遣い変わってねーじゃんか」
「変えてほしいのか?」
 悪戯っぽい顔で見上げられ、陽平は思わず苦笑した。
「いや。そーでないとお前って感じしない」
 くすり、と舞は笑うと、すっと二人の子供を抱き上げている陽平に顔を寄せた。
「重大な秘密を教えてやろう。……実は、私もそなたのそういう言葉遣いはそなたらしくて気に入っている」
「なんだよ、さっきは変えろって言ってたくせにさ」
 陽平が笑うと、舞はすました顔をする。
「さっきのは親としての言葉、今のは私個人としての言葉だ。公私の別と似たようなもの、その類の区別はしっかりつけねばな」
「……じゃあ、俺個人として、さっきお前を助けた報酬とか要求していい?」
 陽平がそうおどけると、舞はふ、と笑った。
「お前が私を助けるのは当然だが――敵より早く私のところにやってきた功績は認めてやろう。なにがほしい?」
「……とりあえず、久々に愛のこもったキスとかしてほしいかな、なーんて……」
「たわけ」
 舞はつん、と陽平の額をつつくと、くすりと笑って、顔を近づけてきた。
「いつでも返してやっているだろうに」
「お前からしてもらうってのが重要なんだよ」
「しかたのない奴だ。今日は特別だぞ……」
 舞が目を閉じる。陽平も目を閉じ、子供たちを抱いたまますうっと顔を近づけ――
「おやおやおやおや、子供の前でそんなことしちゃいけないなぁ」
 ばっ、と慌てて体を離した。
 しまったー! と陽平は内心絶叫していた。速水の存在を忘れてた!
「しょうがないなぁ二人ともラブラブで。やっぱり子供作っちゃうと恥じらいがなくなるね。あ、どうぞ続けて? 僕はひなたちゃんたちと一緒に横から見物させてもらうから」
「…………」
 ジャキンっ、と無言で銃を構える舞に、速水は苦笑した。
「はいはい、邪魔者はさっさと退散しますよ。今日の襲撃が誰の差し金かとかの情報はこの記憶媒体の中に入ってるから」
「え? もしかしてお前、情報ってそれ? 舞が襲撃されるの知ってたの?」
「まさか今日だとは思わなかったけどね。少しは手間が省けるはずだよ。それじゃあ舞、陽平? また会おうね〜」
 バイバイ、と手を振って、速水は二人の脇を通って家の外へ出ていく。
 ふう、と思わず息をつく陽平――そのこめかみに突然銃がつきつけられた。
「ま……舞……?」
「そなた……速水がいることを知っていたな?」
「え……いや、その……」
「知っていたな?」
「………はい………」
 舞が壮絶な目で陽平を睨む。陽平は思わず震え上がった。
「だったら早く言わんか、このたわけ―――っ!」

「おとーさん、だいじょーぶ?」
「心配することはない、ひなた。こやつは超のつくほどのたわけだが、その分頑丈にできている」
「そーなんだ! おかーさんってあったまいい!」
 用意した食事を食べる舞の前ではしゃぐひなたと大河を見ながら、陽平は痛む頬を押さえつつ微笑んだ。父親より短い時間しか会えない母親を、この子たちは無心に慕い、家にいる時はいつもそばにいる。ちょっとやけなくもないが、自分の好きな舞を自分の好きな子供たちが愛してくれていることは、とても嬉しいことだ。
「ほら、ヒナ、大河。そろそろ寝る時間だぞ」
 実際、大河は今にも寝そうにこっくりこっくり舟を漕いでいる。
「えーっ、だっておかーさんかえってきたばっかりなのに……」
「安心するがよい、ひなた。私は明日朝が遅い。明日たっぷり遊んでやろう」
「ほんと? やくそく?」
「ああ、約束しよう」
 重々しくうなずく舞に、ひなたと大河は顔を見合わせて笑った。
「よし、それじゃ今のうちに寝て明日うんとこさ遊ばないとな! ほら、寝室行くぞ!」
「はーい!」
 大河を抱き上げ、ひなたの手を握り、寝室へ向かおうとして――陽平は舞をふと見つめた。
「なんだ」
 怪訝そうな顔で聞いてくる舞に、ちょっと笑って言う。
「舞。俺、幸せだぜ」
「………………私もだ」
 裏に照れくささを隠した、ぶっきらぼうな答えに笑い、寝室に向かう。
 ひなたがこちらを見上げて訊ねてきた。
「おとーさん、なんでしあわせなの? しあわせっていいこと?」
「そうだな、いいことだな。俺が幸せなのはな、舞がいて、お前たちがいて、世界が無事に回ってるからだよ」
 ひなたの手を引きながら、一歩一歩階段を上る。陽平は時々子供たちに聞かせる話を、半ば無意識に語っていた。
「ひなた。お父さんはな、子供の頃あんまり幸せじゃなかったんだ。だから幸せって、どういうものかよくわからなかった。ただ想像して、憧れて、ある日突然幸せが訪れることを夢見てたんだ」
「おとーさん、しあわせじゃなかったの? かわいそう」
「うん……でも、俺は舞と、お母さんと会って。いろんなことがあって、ケンカもしたりしたけど、でも舞が好きだって心から思うようになって。そして結婚して、家族になったんだ」
「かぞく?」
「うん。一緒に暮らして、嬉しいことも辛いことも一緒に体験して。一緒に年を重ねて……それで、お前たちが生まれた」
「わたしたち?」
「そう。二人きりの家族に子供ができて、家庭になって。舞と出会った頃のわけのわからない情熱みたいなものはなくなってしまったかもしれないけれど、その分体中の隅々まで幸せな気持ちが行き渡るようになった。舞がいて、お前たちがいて、世界が無事に回ってて――それが俺は、すごく嬉しい」
 陽平は子供部屋の扉を開けた。ひなたと大河を中に入れ、それぞれのベッドに寝かせる。
 眠そうに目をしばたたかせるひなたともう半分以上眠っている大河に、陽平は優しい笑みを浮かべて言った。
「だから俺はこれからもずっと舞を、お前たちを、世界を守るよ。俺にできることはほんのちょっとだけど、それでも全力で世界を守る。お前たちが好きだから、守りたいから――お前たちと一緒に、生きていきたいから、な」
 ひなたはゆるゆると目を開けて、ぽそりと小さく何か言った。陽平はその言葉を聞いて、一瞬目を丸くし、それからひどく幸せそうに笑う。
 ――わたしたちも、おとーさん、まもるよ。おとーさんのこと、だいすきだから。
 陽平は、ただの絢爛舞踏は、心から優しく笑んで、ひなたと大河にちゅっとキスをした。

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