「……畜生、いつになったら止みやがるんだ、このクソ雨は」
 外道丸が窓から外をのぞいて、苛立たしげに漏らした。
「そんなこと言ったってしょうがないでしょ、お天道さまはこっちの都合に合わせて動いてはくれないんだから。それより少しは落ちつきなさいよ、こっちまで苛々してきちゃう」
 沙紀が繕い物をしながらすかさず言葉を投げ返す。
 司狼丸は一人黙々と刀の手入れをしているが、彼もさほど落ちついてはいないことは時折漏れる溜め息の調子がはっきり物語っていた。
 現在三人は司狼丸の提案で、五行軍に立ち向かうため、鈴鹿と名乗った女性を仲間に迎え入れるべく甘南備山に向けて山道を歩いていたところである。
 だがもうじき峠を越えようかという時折悪しく盥をひっくり返したような大雨が三人を襲い、三人は慌てて手近にあった山小屋に避難した。
 それからすでに二日経つが、雨は一向に止む気配がなく三人はずっと山小屋に閉じ込められっぱなし。気が腐るのも無理はない話だろう。
「なあ。この際だから雨なんか無視して出発しちまわねえか? 濡れたくらいで風邪を引くほどやわでもねえだろ、俺たちゃ。術を使えばすぐに乾かせるんだしよ」
 外道丸が二人の方を振り向いて、この二日でもう何度したかわからない提案を持ちかける。だが沙紀はそれまでと同じように、きっぱり首を振った。
「駄目。この先は峠なんだから、この雨じゃいつ崖崩れがあるかわからないじゃない。崩れた後なら隠忍の力でなんとかできるけど、崩れてる最中に巻き込まれたら本気で死にかねないんだからね。あんたと違ってあたしと司狼丸は飛べないんだから。これだけひどい雨じゃ道に迷う可能性だってあるし」
 毎度変わらぬ筋の通った言い分に言い返す言葉が思いつかず、外道丸は舌打ちしてその場に寝っ転がった。生来暴れん坊気質で体を動かしていないと落ちつかない性格の外道丸にしてみれば、動くに動けないこの状況というのはある意味拷問なのだ。
 それを苦笑しつつ見やっていた司狼丸が、ふと窓の外を見やって「あ」と小さく声を上げた。
「何だよ、司狼丸?」
「鹿だ。……珍しいな、人の作った道に出てくるなんて」
「何っ!?」
 外道丸は瞳を輝かせて跳ね起きた。窓から外をのぞき、本当に鹿がいることを確かめるとニヤリと嬉しげに笑って山小屋の出入り口に向かう。
「ちょっと、外道丸! 何する気よ」
「決まってんだろ、狩だ、狩! 糒ばっかでいい加減飽き飽きしてたところだ、今日の晩飯は久し振りに肉食わせてやるから待ってろよ!」
 振り向きもせず言ってそのまま外へ飛び出していく。その様子はいかにも楽しげだ。糒に飽きたというのも確かだろうが、それよりも体を動かせるのが嬉しいというのが本当のところだろう。
 まったくもう、と沙紀は腹立たしげに呟いてまた繕い物に戻ったが、司狼丸が続いて立ち上がるのを見て目を丸くした。
「ちょっと、司狼丸。まさかあんたまで外道丸と一緒に狩に行きたいなんて言い出すんじゃないでしょうね?」
「そういうわけじゃねえよ。たださ、外道丸一人で放っておいたら何やらかすか心配だろ。この雨じゃどこで地滑りが起こるかわからないし。万が一ってこともあるんだ、俺もついていくよ」
 そういって外に出ていこうとする司狼丸に、沙紀も慌てて立ち上がる。
「ちょっと待って! あたしも一緒に行くわよ!」

 外道丸は鹿を崖下に追い詰め、荒い息をつきつつ興奮した笑みを浮かべた。思ったより手こずらされたが、ここまで追い詰めれば逃げられることはありえない。
「安心しな。一発で仕留めてやるぜ」
 チャッと爆星狼を向けられ、鹿はどこか逃げる場所がないか探すようにまごまごする。だがむろんこの距離ならどこに逃げようと外しはしない。外道丸は獲物を撃つ時のぞくぞくした感覚を味わいながら狙いをつけ、引き金を引こうと―――
「危ない、外道丸!」
 したとたん、思いきり突き飛ばされて横に吹っ飛んだ。
 と同時にドドドーン! と凄まじい音がして、もうもうと煙が立ち込める。
 何が起きたかわからず一瞬呆然とする外道丸の耳に、沙紀の泣き叫ぶ声が聞こえてきた。
「司狼丸! 司狼丸! 大丈夫!? しっかりして!」
 辺りを見回すと、さっきまでさほど高くはないものの切り立っていた崖の上の方が崩れている。土砂が崖下へ雪崩れ落ち、鹿はそれにもろに巻き込まれたようで足の先すら見えなくなっていた。そして土砂の端っこの方に沙紀がしゃがみこんで必死に何かを掘り出そうとしている。
 ―――司狼丸だ。下半身を土砂に飲み込まれ、意識がないようでぐったりとしている司狼丸を、沙紀は掘り出そうとしている。
「……おい! 何でお前らがこんなとこにいるんだ!? 何やってんだよ、司狼丸は!」
 外道丸が二人のところへ走り寄って怒鳴ると、すぐさま沙紀に怒鳴り返された。
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!? 掘り出すの手伝いなさいよ! 早く!」
 言い返せず、ぐっと唇を噛んで司狼丸を掘り出し始めた外道丸に、手を動かしながら沙紀が呟くように言った。
「……万一のことがあったら大変だからって、あたしたちもあんたを追って外に出たのよ。でも外に出たらもうあんたの姿は見えなくて、あちこち探してたら今にも地滑り起こしそうな崖の前で鹿と睨みあってるあんたを見つけて――司狼丸があんたを突き飛ばして地滑りから守ったんだけど、代わりに自分が巻き込まれちゃって――」
「……馬鹿か! 人助けて自分が死にそうになってどうすんだよ! このっ……大馬鹿野郎が……!」
 怒りとも苛立ちともつかぬ強烈な感情に頭の中が赤くなり、思わず拳を握り締めた外道丸にすかさず沙紀の声が飛ぶ。
「怒ってる暇があったら手を動かしてよ! ちゃんと……絶対、助けるんだから……!」
 涙交じりの沙紀の声に外道丸はまた唇を噛む。
 しばし黙々と手を動かして司狼丸を無事掘り出すと、沙紀がすかさず治癒の術を唱えた。沙紀の手がぼんやりと光り、その光が司狼丸の体に何度も降り注がれる。
 沙紀の治癒術は最近とみに強力になり、命を失ってさえいなければどんな怪我を負った相手でもあっという間に元通りにすることができる。司狼丸の体中の傷もみるみるうちにきれいになっていき、香が一つまみ燃え尽きるほどの時間も経たないうちに司狼丸はぽっかりと目を開けた。
「司狼丸!」
「この野郎、心配させやがって!」
 声を上げつつ顔を覗き込んだ二人をぼんやりと見て、司狼丸はふるふると首を振った。
「……外道丸? 沙紀?」
「見りゃわかんだろうが! ったく、ぼけっとしてんじゃねぇよ」
「外道丸! 司狼丸は崖崩れに巻き込まれたのよ、ぼおっとして当然でしょ! 大丈夫、司狼丸? どこかまだ痛いところとかない?」
「うん、おいらは平気だぞ……おいら、崖崩れに巻き込まれたのか?」
『………おいら?』
 違和感を感じ外道丸は眉を寄せたが、沙紀は気づいていないようで涙ぐみながら司狼丸を軽く叩いた。
「そうよ! 心配したんだからね! 人助けて自分が事故に遭うなんて、笑い話にもならないわよ!」
「おいら、覚えてないぞ……ここどこだ? 村から離れたところなのか?」
「え……村?」
「おい、司狼丸……?」
 今度は二人ともはっきりと不審を感じ、司狼丸を見つめる。司狼丸はぎゅっと眉根を寄せて口を尖らせて言った。
「おいら、父ちゃんと姉ちゃんに怒られちゃうのかな? 覚えてないのに怒られるのは、なんだか嫌だぞ」
「司狼丸……」
 二人から思いきり困惑した視線で見つめられ、司狼丸はきょとんとして首をかしげた。

 とにかく全員で山小屋まで戻ってきて、しばらく話し合い、はっきりとわかった。
 司狼丸の記憶が、八年前の六歳の頃にまで戻っている。まだしじまの里が襲撃される前の、平和だった頃の記憶に。
 体術や技までは確かめていないが、ちょっと話したところでは外見以外は完全に六歳の子供に戻り、父親と姉――天地丸と伊月もすぐに会えるところにいると思っている。なぜ八年前とは顔も体つきも大きく変わっている外道丸と沙紀をそのまま認識できているのかはわからないが。
 この非常事態に、外道丸と沙紀は顔を突き合わせて深刻な表情で話し合った。
「一体全体、何でこんなことになっちまったんだ?」
「あたしに聞かれても困るわよ。……そうだ、もしかしたら」
「なんだよ、何か思いつくことでもあるのか?」
「うん。昔父さんに聞いたんだけど、強く頭を打った人とかが覚えてたことを忘れたりすることがあるらしいの。司狼丸もそれかもしれない」
「そうか! で、どうやったら元に戻るんだ?」
「……わからない」
「…………なにぃ――――!?」
「だって、その時聞いた話ではどうやって治ったかまでは話してくれなかったんだもの。……もしかしたら、治す方法なんてないのかも……」
「なんだそりゃ!? じゃあ司狼丸をこのまんま放っとけっつーのか!?」
「そんなこと言ってないでしょ!? 怒鳴らないでよ!」
「なあ、二人ともなに話してるんだ?」
「どわ!」
「し、司狼丸……!」
 さっきまで火に当たっていたはずの司狼丸が、二人の間ににゅっと顔を突き出してきた。二人は大きく飛びのいて、司狼丸を見る。
「さっきから何話してるのかよくわからないぞ。おいらのことなのか?」
「い、いや、その……」
 どこまで話していいのかわからず戸惑った顔を見合わせあう二人の前で、司狼丸はくしゅんとくしゃみをした。
「ああ、ほら、司狼丸。ちゃんと火に当たってないと風邪引いちゃうわよ。ほらこっちに来て」
 話をはぐらかせたことにほっとしながら沙紀は司狼丸を火のそばに連れていく。司狼丸はしばしうーっとぐずるように鼻を鳴らしていたが、不意に立ち上がると宣言した。
「服がべたべたして気持ち悪いぞ! だから脱ぐ!」
 二人があっけにとられているうちに司狼丸はあっという間に服を脱いでいく。上着を脱ぎ捨て、半袴をずり下ろし、下帯に手がかかったところで沙紀がようやく反応した。
「キャ――――ッ!!! 女の子の前で、何考えてるのよっ!」
 手近にあった荷物をぽいぽい放り投げる沙紀。司狼丸は驚いた顔をしながら、下帯一丁でそれをかわしていく。
「なんだ? 沙紀、なんで怒ってるんだ? おいらが服脱いだら駄目なのか?」
「女の子の前でっていうのが問題なのっ! あんたには恥じらいってものがないの!?」
「恥じらい? なんだそれ?」
「………………」
 沙紀は絶句した。確かに六歳の子供なら男女の性差という意識もなく、ほいほい素裸になっても誰にも文句は言われないだろう。
 しかし今、司狼丸の体は十四歳なのだ。完全に成長しきってはいないが、すでに子供の体ではない。一人前としての兆しの見え始めた、男≠ノなりつつある体なのだ。
 沙紀はう〜〜っと唸ると、怒鳴った。
「外道丸! あたし、薬草探してくるから! 司狼丸のことお願い!」
「はあ!? なんだよいきなり!?」
「いいから! ……絶対記憶取り戻させなくちゃ、このままじゃ旅なんか続けてられないわ」
 最後の方は小声で言うと、身支度を整えて外へ走り出していく。沙紀にしてみれば年頃の女性に対する慎みも気遣いもない今の司狼丸と一緒にいては精神がもたないというのが本音なのだろう。
 だが無神経な男の代表格である外道丸はそんな沙紀の気持ちに気づくはずもなく、なんだあいつ、などとぶつぶつ呟いて渋々司狼丸と向き合った。
 正直言って、どういう風に接すればいいのかわからなかった。ただでさえずっと人間だと思っていた司狼丸が隠忍だったとわかり距離を測りかねている時だというのに、中身が六歳の子供というのでは話のしようがない。
 こいつが六歳の時、俺はどんな風に相手してたっけ? その頃は俺もガキだったからな、と中身は大して変わっていないのを棚に上げて外道丸がひとりごちていると、不意にこちらを振り向いてきた司狼丸と目が合った。
 なんだ? となんとなく睨み返すようにすると、司狼丸はひどく無防備ににっかーっと笑う。
 外道丸がついつられて笑い返すと、司狼丸はますます嬉しそうににっかにっかと笑い外道丸の前に座った。
 外道丸はなんとなく照れくさくなり、そっぽを向いてぼりぼりと頭を掻いた。司狼丸にこんな風に懐かれるのは、ひどく久し振りな気がする。久し振りすぎてどう対処したらいいかわからない。
 こんな風に自分のそばにいたがって、後をついてくるなんていうのは、そう―――
「へっくしゅ」
 司狼丸が小さくくしゃみをして、外道丸は思考を途切れさせた。司狼丸は自分の体を抱えるようにして、寒そうに鼻をすんすん言わせている。
「おい、大丈夫かよ?」
「うー……おいら、寒いぞ」
「んなカッコしてるからだよ。ほれ、もっと火のそばに寄れ。あと……そうだな、これ被ってろ」
 そう言って外道丸は荷物の中から上掛けを取り出して司狼丸に投げてよこした。司狼丸は素直にそれを体に巻きつけるが、まだ唇は青かった。
「……寒い」
 肩を抱えて言うその言い方が本当に寒そうで、外道丸はなぜか猛烈に苛立ってきた。
 司狼丸に対してではない。自分になんだか、強烈な苛立ちを感じたのだ。
「……下帯も脱いじまえ。濡れたもんは火のそばにおいて乾かすんだ。……それが終わったらこっち来い」
「?」
 司狼丸の後ろに胡坐を掻いた外道丸に、司狼丸は首をかしげる。
 外道丸は苛立った感情のまま、ぶっきらぼうに言った。
「俺が暖めてやるから抱っこされろって言ってんだよ。ほれ、早く脱いじまえ」
 司狼丸はちょっとの間きょとんとした顔をしていたが、やがて嬉しそうに笑ってうなずいた。
「じゃあ、外道丸も一緒にこの中に入ればいいぞ」
 そう言って上掛けを持ち上げる。
「それだとお前がまた濡れるだろ。俺の着てる服濡れてんだからよ」
「うー、それなら外道丸も服脱げばいいんじゃないのか?」
「……それもそうか」
 沙紀がいないこの状況下なら服を脱ごうが何しようが文句を言う奴はどこにもいない。外道丸は司狼丸と同じように素裸になり、上掛けの中にもぐりこんで司狼丸を後ろから膝の中に抱え込んだ。
 司狼丸の筋肉や骨の感触と、自分より幾分高い体温が伝わってくる。聞こえるのは薪の爆ぜる音と小降りになってきた雨が山小屋の屋根を叩く音だけ。
 司狼丸は腕の中でこちらを向いて、へへへ、と笑った。
「あったかいぞ」
「……そりゃよかったな」
「うん」
 満足そうに笑って、外道丸にすっかり体を預けている。まるで無防備に。
 外道丸ははーっ、と溜め息をついて、昔今と同じような感情を味わったことを思い出していた。
 司狼丸は八年前、あのしじまの里の襲撃までは、こんな風にいつも自分の後を追いかけてきた。
 自分もそれを当然のこととして受け入れてきた。そして子供心にこいつを守ってやらなきゃ、などと思っていた。
 あの苛立ちは、その気持ちの現れ。自分の力が及ばなくて、司狼丸を守れなかったときの自分に対する怒り。
 あの頃は司狼丸は、力を認めた戦友でも、共に戦う仲間でもなく、自分の弟分、はっきりと守るべき存在だった。
 それが、いつの間に変わったのだろう。
「……何考えてんだか」
 自分の考えが妙な方向に向かっていることに外道丸が自嘲気味な笑みを浮かべると、司狼丸は外道丸に体を預けながら目をくりくりさせて聞いてきた。
「外道丸、何考えてるんだ?」
「うるせえ。お前は黙って俺に抱っこされてりゃいいんだよ」
「おう」
 しばしの沈黙。
 鍋の水が湯になるぐらいの時間が経ってから、司狼丸がまた外道丸の方を向いて聞いてきた。
「外道丸」
「今度はなんだよ」
「父ちゃんと姉ちゃん、どこに行ったんだ?」
「――――」
 外道丸は一瞬硬直して絶句した。司狼丸はそれに気づきもせず、無邪気な顔で聞いてくる。
「おいら、腹減ったから姉ちゃんに飯作ってもらいたいぞ。父ちゃんの飯はあんまりうまくないから姉ちゃんがいいな。二人ともどこ行ったんだ?」
「…………親父は…………」
 言いよどむ外道丸を、司狼丸は不思議そうに見つめた。
「外道丸の父ちゃんじゃないぞ。おいらの父ちゃんだぞ。なんで親父なんて言うんだ?」
「…………!」
「父ちゃんと姉ちゃん、早く戻ってこないかな。置いてけぼりなんてひどいぞ」
「…………」
 外道丸はひどく苛々してきた。
 今度は単純に、司狼丸に対してだ。
 なに勝手なこと言ってやがるんだ、こいつ。
 こんなにあっさり何もかも忘れて――住んでいた世界を壊された血を吐くほどの慟哭も、目の前で父親を食われた体を抉られるような苦しみも、何もかも忘れて――
 そんなことが許されるのか? 一人だけ幸せだった頃に戻って、そのまま生きていけるとでも思っているのか?
 俺はまだ、あの時の痛みを鮮明に覚えているのに――
 この馬鹿な餓鬼に痛みを与えてやりたいとひどく残酷な気持ちになって、外道丸はきっぱりと言った。
「お前の父ちゃんは、死んだんだ」
「え?」
 何のことかよくわからないという顔。
「わかんねえのかよ。お前の父ちゃんはな、死んだんだ。妖魔に食われたんだよ。もう、二度と会えねえんだ」
「………うそだ」
 顔の筋肉が緩んで、呆然という表情を作り上げた。
「嘘じゃねえ。……俺の目の前で、親父は食われたんだ。お前の名前を叫びながら死んでいったぜ」
「うそだ、うそだ。父ちゃんが死んだりするもんか。父ちゃんは、父ちゃんは……」
「嘘じゃねえっつってんだろが!」
 外道丸はぐい、と司狼丸の顎を掴んで司狼丸の目を睨みつける。
「忘れてんじゃねえよ。親父は俺たちを守って死んだんだ。俺たちの目の前で、五行軍に殺されたんだよ!」
「う……」
 司狼丸の顔がくしゃくしゃっと歪んだ――と思うやいなや、大声で泣き喚き始めた。
「うそだ、うそだ、うそだ―――っ! 外道丸の嘘つき! 父ちゃんが死ぬもんか! 父ちゃんは死んだりしないぞ! おいらをほうって、死んだりするもんか!」
 泣き喚きながら外道丸の腕の中で手足をばたつかせて暴れる。胸をどんどんと叩かれ、外道丸はさらに熱くなって司狼丸をむりやり押さえ込もうとした。
「暴れんじゃねえこのクソ餓鬼! ぶん殴るぞ!」
「バカ、バカ、外道丸のバカ! 嘘つき! ほうき頭のうんこたれー!」
「誰がうんこたれだこのボケタコッ!」
 かなり本気で取っ組み合うことしばし。二人はぜいぜいと荒い息をつきながら、ぐったりと熱い体を横たわらせていた。
 体の上に司狼丸の体の重みと熱さを感じながら、外道丸の頭はようやく冷えてきた。
 司狼丸だって好きでこの八年のことを忘れてしまったわけじゃない。それに今の司狼丸は六歳なのだ。六歳の子供を本気になっていじめて、泣かせて、押さえ込んで――
 自分がひどくみっともない、むごいことをしているような気になってきて、外道丸は渋々口にしていた。
「……おい、司狼丸」
「…………」
 司狼丸はうっくうっくと肩を上下させながら外道丸の胸に顔をうずめている。
「……悪かったよ。いきなりひでえこと言っちまって」
「…………」
「でもな。親父が死んだっていうのは本当なんだ。……本当に俺たちの目の前で、殺されたんだよ」
「…………」
「だから俺たちはその仇を討とうとしてるところなんだ。……あいつらに、絶対思い知らせてやるために……」
 司狼丸はのろのろと顔を上げて、外道丸の顔を見た。その瞳はまだたっぷりと潤んでいる。
「外道丸」
「……なんだよ」
「さっきのうそだ。外道丸は、バカでも、うんこたれでもない」
「……そうかよ」
「……父ちゃん、死んじゃったのか」
「ああ……」
 司狼丸はまたくしゃくしゃっと顔をゆがめて、外道丸の胸に顔をこすりつけてしゃくりあげた。
「う……父ちゃん……父ちゃぁん……」
 外道丸は無言で司狼丸の頭を抱き寄せて、ぽんぽんと叩いてやった。それより他にやりようがなかったからだ。
 ひどく奇妙な気分だった。司狼丸は今六歳で、でも声はすでに声変わりを終えてそれなりに低く、体にはしなやかではあるけれども鍛えられた筋肉がついていて、背も外道丸の胸の辺りに頭が来ると少し足が余るくらいにはある。
 そんな不均衡な司狼丸を十七歳の自分が抱きしめて、頭を撫でている。
 下手をしたら八年前よりもっと子供っぽいことをやっている。だが、司狼丸も自分もすでに子供ではないのだ。乗っかっている体の重みがそれを証明している。
 たとえ心が六歳になったとしても、八年前にはもう戻れない。
 そう思うと外道丸は、妙に寂しいような、今ここにいる司狼丸がひどくいとおしいような気分になり――司狼丸の額に、そっと唇をくっつけていた。
 ――司狼丸のきょとんとした顔を見て、外道丸は思わず真っ赤になっていた。
 感情が溢れそうになってつい、なんとなくしてしまったことだが、あれではまるで赤ん坊を甘やかす母親ではないか。はっきり言ってめちゃくちゃ恥ずかしい。
 だが、司狼丸はにこ、と嬉しそうに笑うと――同じように外道丸の額に唇を押し付けてきた。
「おい……おい、司狼丸! 何やってんだよっ」
 額に続き頬、鼻、顎にまで唇を触れさせてくる司狼丸を、外道丸は慌てて押しやった。司狼丸はきょとんとしている。
「だって、外道丸が先にやっただろ?」
「い……いや、そりゃそうだけどよ……」
「外道丸の唇がちゅってなった時、なんだかすごくふわぁって気持ちになったから、おいらも外道丸にやりたかったんだ」
「………そうかよ」
 外道丸はなんとなく脱力して、されるがままになった。女じゃあるまいし、唇がくっついたくらいで大騒ぎするのも馬鹿馬鹿しい。
 だから口に口をくっつけてきた時も、司狼丸のしたいようにさせていた。司狼丸は嬉しそうに笑いながら、何度もちゅ、ちゅと唇に唇を押し付ける。
 ――ぼけーっとそれを受けていた外道丸は、腹の辺りに熱い昂ぶりを感じてぎょっとした。
「おい……司狼丸」
「なんだ……?」
 司狼丸は上目遣いで外道丸を見つめた。その瞳は潤み、唇は半開きで、息は荒い。……どう見ても欲情してるとしか思えなかった。
 おい。ちょっと待て。なんで中身六歳なのに発情すんだよ! しかもたかがちょっと唇くっつけたくらいで!
 内心外道丸はそう叫ぶが、司狼丸は当然それに構いもせずすりすりと股間を摺り寄せてくる。
「おい、おいおいおいおい司狼丸」
「外道丸……」
 こちらを見上げる、欲情に潤んだ瞳。――なぜか一瞬、ぞくりと背中が震えた。
 なんで欲情してんだこいつは。この状況だと……まさか、俺に欲情してんのか?
 なんでだ? 別に俺に惚れてるとかいうわけでもないだろうに。こいつもしかしてそっちの趣味だったのか? いや、今の司狼丸は普段の司狼丸とは違うのか。……じゃあなんで六歳で欲情してんだよ! そういうのは記憶とは関係ねえのか!?
 外道丸は納得いかねえと叫びたい気持ちでいっぱいだったが、そんな気持ちとはまったく関係なく司狼丸は息を荒くして体を摺り寄せつつ、外道丸を潤んだ目で見つめてくる。
「外道丸……おいら、なんだか、体が熱い……」
「いやそれはわかるけどよ、俺に言われてもどうしろってんだとしか言いようがねえっつうか」
「外道丸……たす、けて」
 ―――司狼丸の、微妙にかすれた、縋るような声。
 ぞくん、ときた。
 司狼丸のその声と表情は、問答無用で外道丸の股間を直撃した。
 色っぽい。
 一度そう思ってしまうとどんどん昂ぶってきた。今の状況からして、見ようによってはすぐさま褥へなだれ込んでもおかしくない状況なのだ。お互い素裸で、火の前で体をひっつけている――さっきまでは全く意識していなかったが。
 司狼丸の体は実は結構骨っぽい。というか、抱きしめてみるとはっきりわかるが、肉があまりついていないのだ。だから肩の線や腰回りがひどく細く、華奢に感じられ、その今にも折れそうな感じが保護欲と嗜虐欲を同時にそそる。
 顎から鎖骨にかけての線は、幼い丸みと男になりかけの鋭さを共に有している。それが妙に危うくて、自分のものにしたいという独占欲が湧き起こってくる。
 そして瞳。男にしては驚くほど大きい司狼丸の瞳は、幼さと同時に不思議な深さと時に揺らぎを感じさせ、こういう風に潤ませて見つめてくると非常に――色っぽい。
 おいおい何盛ってんだ俺、相手は男ってのはともかくとして司狼丸だぞ司狼丸、餓鬼の頃からずーっと一緒にいた相手に何をいまさら。
 だが理性ではそう思いつつも司狼丸の欲情に濡れた表情に外道丸の頭はカッと熱くなり、股間にもどんどん血が集まって昂ぶってくる。
 体と心の不均衡に外道丸が内心慌てていると、司狼丸は泣きそうな顔をした。
「外道……丸ぅ……」
 ぶちん!
 涙交じりの声で名前を呼ばれ、外道丸は理性の糸をぶち切った。
 もういい。やっちまって司狼丸との関係がまずいことにならないかとか、そんなことはやった後で考えればいい。第一俺はややこしいこと考えるのは苦手だ。
 俺は今こいつとやりてえって思ったんだ、こいつもやりたがってる。だったら男ならやるしかねえだろう!
 そんなことが頭をよぎるかよぎらないかのうちに、外道丸は司狼丸を押し倒していた。

「ん……? あ……」
「……よう。目が覚めたかよ」
 雨がやんで、星空が見えるようになった頃司狼丸は目を覚ました。それより少し早く目を覚まして、なんとも言えぬ奇妙な思いを抱きながら司狼丸の寝顔を見ていた外道丸が声をかける。
 司狼丸はぷるぷると頭を振ってから自分たちの姿を見て、ぎょっとした顔をした。
「あ、あれ!? な……なんで俺たち、素っ裸なんだ!?」
 外道丸はん? と顔をしかめた。確かに、司狼丸も外道丸もいまだ素裸ではある。だが、あの後でこんな台詞が出てくるということは……。
「おい、司狼丸。お前まさか、何があったか覚えてねえのか?」
 司狼丸は顔を真っ赤にしながら、こくんとうなずいた。
「崖崩れがあって、それに巻き込まれたのは覚えてるけど……」
「…………」
 外道丸はしばし考えて、司狼丸の顔を覗き込むようにして聞いた。
「おい、司狼丸。お前、今いくつだ」
「え? 十四……だけど。外道丸、忘れたのか?」
「お前の親父と姉ちゃんがどうなったかも、覚えてるよな?」
「……何言ってるんだよ。忘れるわけないだろ!」
「……で、寝る前に何があったかは覚えてない、と」
「う……うん」
 顔を赤らめてうなずく司狼丸に、外道丸ははーっと溜め息をついた。
 そうか。つまり、あれはなかったことになったわけか。都合いいといえば、めちゃくちゃ都合いいな。
 けど、俺は覚えてる。忘れてなかったことになんてもうできやしねえ。
 司狼丸は溜め息をついて黙り込んでしまった外道丸を、おずおずと見た。
「げ……外道丸?」
 赤い顔であからさまに不安そうな表情をする司狼丸に、外道丸は仕方なく笑ってやった。
「お前が崖崩れにあって体が冷えてたからな。沙紀が薬草を取りに行ってる間、俺がすっぽんぽんであっためてやったんだよ」
「なっ……なんだよ、それ」
 顔を赤らめたまま口を尖らせる司狼丸に、外道丸は笑みを意地悪そうなものに変える。
「お前赤ん坊みたいになっちまってよ。抱っこしてくれ抱っこしてくれってせがむんだぜ。しょうがねえから俺が抱っこしてよしよしってしてやったんだ、ありがたく思えよな」
「なっ、何言ってるんだよっ! 意識がない時のことまで責任持てるわけねえだろっ!」
 そう言うとそばに転がっていた上掛けを引っ被り、外道丸からできるだけ体を隠しながら着替え始める司狼丸。
 外道丸はニヤニヤ笑ってそれを眺めながら、ぼんやりと考えていた。
 俺は覚えてる。あいつがどんな風に俺の下で乱れたか、俺の手にどんな反応をしたか――そしてあの時の自分の感情も。
 情欲。衝動。そして――司狼丸を求める心。
 それがなんなのか、それが前からあったのか、あの時突然胸にきざしたものなのか、そんなことはわからない。ただ、確実に存在した。司狼丸の存在そのものを自分のものにしようと求める心が。
 今現在の自分たちの関係を崩す必要があるほど強烈なものなのか、それもわからない。だが、自覚してしまった以上、忘れることはできない。
 司狼丸との関係を考えなくちゃならないのかもしれない。もしかしたら少し距離を置いたほうがいいのかも――
「外道丸」
 すでに着替えた司狼丸が、ちらちらと目の端でこちらを見るようにしながら話しかけてきた。
「なんだよ」
「お前も着替えろよ……そんなかっこだと、目のやり場に困る」
 外道丸はにやり、と意地悪げな笑みを浮かべた。
「勃っちまうか?」
「………! 何言ってるんだよ馬鹿野郎っ!」
 投げられた上掛けを軽くかわし、外道丸はふん、と笑った。
 まあいいさ。もうすぐ沙紀も帰ってくるだろう。こいつとの関係も、その他のことも、成り行きに任せりゃ何とかなる、と思う。
 どうせ俺はややこしいこと考えるのは苦手なんだ。
 そんなことを考えながら、外道丸は立ち上がって堂々と着替えを始めた。

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