見えない先、創る先
「せんせーいっ!」
 カイルの船の甲板の上から、輝くような笑顔で(たとえまだ豆粒程度の大きさでも、彼ならばまつげの一筋までわかる)手を振るナップに、こちらも笑顔で手を振り返しながらも、レックスは『どぉしよおぉぉ!!??』と心底混乱し惑乱し狂乱していた。早い話がものすごくおろおろしていた。
 以前もらったナップの手紙への答えに、どういう返事が返ってくるのか、それにどういう反応を返せばいいのか、レックスは全力で決めかねていたのだ。心の中でどきどきおろおろあわあわせずにはいられないぐらいに。
 ことのおこりは、しばらく前。いつも通りにナップから送られてきた一通の手紙の中の一文からだった(ちなみにこういう自分たちの手紙を送り届けてくれるのはカイルたちであるため、いつ届くかはカイルたちの気分次第だ)。
『俺のことを好きだって言ってくれる奴ができたよ。先生、心配?』
 その文章を読んだ瞬間、レックスは「ええぇぇえ!!?」と絶叫した。だってだって、ナップに、俺の愛しい可愛いこの世で誰より愛してる恋人(と言ってしまうくらいにはレックスもナップと回数を重ねている。なにがってそのアレとかソレとか)のナップに、好きだなんて言う子が現れるなんて……!
 もしかしたらと思ってはいた、出てくるかもと頭のどこかで考えてはいた(だってナップはあんなにあんなにもー世界一って言っても過言じゃないくらい(惚れた欲目があることは承知の上だ)可愛いし)、だけど実際こうして表れてきたことを知ったら、受けた衝撃は桁外れだった。
 男の子かな、奴っていうことはそっちの方が確率が、でもでもっ、女の子だったら……ナップが奴って言っちゃうくらい親しい女の子だったらどおしよぉぉぉ!!?
「ダメだ……勝てない」
 ナップと同じくらいの年の女の子……そんな子がナップの隣にやってきたら、ナップより十歳も年上の、もうおじさんの自分なんてどうあがいても勝てない。どう考えても俺よりずっとお似合いだ……! どっちが恋人っぽいかっていったら誰だって向こうを選ぶ、いや男の子だって俺よりは……! 十歳年上のおじさんの俺なんか、いいとこ兄弟、普通はただの師弟、下手したら親子に見えてしまう……!
 それでもなんとか恐怖と絶望の中愛をこめた返事を書き上げ、送りはしたものの。レックスは不安で不安でしょうがなかった。もしナップが帰ってこなかったらどうしよう。いや、帰ってきても別れてくれって言われたら? うわあああダメだ無理だそんなことになったら俺はもう生きていられない。
 もし別れようとしなくても、もうそっちの子の方を好きになっちゃってたら? 俺への気持ちが冷めてたら? 俺のことうっとうしいとか、邪魔だとか、いなくなってくれないかなとか思ってたら? うあ―――ダメだ―――そんな気配が少しでもナップに感じられたら死ぬ! 俺は死んでしまうぅぅぅ!!!!
 ……などとえんえん悩み悶えていたので、こうしてナップが帰ってきても、レックスは顔には笑顔を浮かべつつもびくびくどきどきおろおろしてしょうがなかったのだった。
「先生っ! ただいまっ!」
 きらきらと輝くような笑顔で船から降りてきて(ああっ、眩しいよナップ! 俺の天使……! とレックスはこっそり涙ぐんだ)、ぼふっとナップはレックスに飛びつくように抱きついた。久々のナップの声、ナップの笑顔、ナップの感触――それにいちいち(ああっナップ、なんて可愛いんだ俺の愛しい妖精……! などと)心の中では悶えつつも、レックスはナップを受け止め、すとんと地面に下ろした。
「お帰り、ナップ。また大きくなったみたいだね」
「うんっ! また背ぇ伸びたんだぜ。あとで測ってくれよなっ」
「うん、もちろん。……カイル、ソノラ。今回もどうもありがとう。わざわざ悪いね」
「気にすんなって。どうせ仕事やらなにやらのついでだし。この島に来るのは、俺にもうちの奴らにもいい骨休めになるしな」
「そうそう、あたしらも好きでやってるんだから気にしないでいーって!」
「はは……そうだ、これは言わなきゃと思ってたんだ。オウキーニさんに子供が生まれたんだよ」
「はぁっ!? あいつにかよ!? へぇー、あいつあんな顔でやるこたきっちりやってたんだなー」
「人間と亜人の子供ってことで母体やら子供やらに影響がないか、気をつけてたんだけど大丈夫みたいだしね。他にもいろんな話が……」
 笑顔で喋り続けるレックスを、ナップが小さく目を見開いた、驚いたような当てが外れたような少しぽかんとした、言ってみれば切なそうな顔で見つめていることにレックスは気がついてはいたが、その目を見つめ返すことはできなかった。

 いつもの島のみんなへの挨拶回りやらなにやらを終えた、夜。ナップはこの島に来た時はいつもレックスと同じ家に泊まる。レックスはユクレス村近くに島の人々に協力してもらって建てた一軒家で暮らしていて、周囲にはほとんど人気がない(村から少し離れた場所に建てたので)。
 なのでナップといちゃいちゃしたりアレとかソレとかをしたりするにはおあつらえむきのお気に入りの我が家なわけだが、現在レックスには当然そんな余裕はかけらもなかった。というか、気分は修羅場一歩手前だった。
「……でさ、そいつがつーんとした顔で『君はよほど僕に叱られるのが好きなようだね。何回同じところを間違えてるんだい』とか言うから俺もームカついてさー」
「そうか、大変だったんだね、ナップ」
 レックスはナップの言葉のいちいちに笑顔でうなずきつつも、腹の底では嫉妬の炎を燃え滾らせていた。ナップの学校の話の中に出てくる登場人物、それがどいつもこいつも自分の恋敵に思えてしょうがない。
 ナップと面白い話をしたという子が出てくれば俺はどうせナップに面白い話題のひとつも提供できないよー! と妬き、ナップを手助けしたという子が出てくれば俺がそばにいればそんな子にナップを助ける役を横取りされたりしなかったのに……! と妬き。
 自分でも馬鹿みたいだとわかってはいるが、もしかしたらナップをその中の誰かに奪われるかも……! と思ったら、とても冷静にナップの話を聞くなんてできやしないのだ。
「……先生。なに考えてんだよ」
「え」
 はっと顔を上げると、ばんっ、と目の前にナップの顔があった。ち、近いっ! と思わず体を退かせかかるが、がっしりと肩をつかまれて果たせない。
「ちょ……ナ」
「先生、俺の話聞くの、そんなにつまらない?」
「な……なにを言うんだっ、そんなことあるわけが」
「じゃあ、なんで俺の顔見ないんだよ」
 びくり、と思わず体を震わせる。確かに自分の嫉妬心を見抜かれるのが怖くて、微妙にナップから視線を逸らしてしまっていたのは事実だ。
「いや、これは、その」
「……先生、もう、俺のこと……」
「……え? ごめん、なんて」
「なんでもないよっ! 俺、もう寝る。おやすみっ!」
 ぷいっ、とこちらに背を向けて、ずかずかとナップの部屋(いつかここに戻ってきてくれることを夢見て作った、ベッド家具完備の部屋。当然毎日きれいに掃除している)に入り、ばん! と大きな音を立てて扉を閉めた。レックスはそれをただ呆然と見送るしかない。
 なんかこの状況既視感が、などと頭のどこかで思いつつ、じっとナップの消えた方向を見つめる。ナップを怒らせちゃった、どうしようどうしよう、と心は全力でうろたえているのに、ナップを追いかけて弁解しようとすることはできなかった。
 だってもし下手をうって本当に嫌われてしまったら。いやそれどころかナップの心がもう俺になくて、『好きだ』と言われた子の方に傾いていたら。今のがその決定的な一打になったとしたら。ナップはきっとその子の方に行ってしまう、そして。
 きっともう、ここには帰ってきてくれない。
 そう思うと、体が麻痺したようになって、動いてくれなかったのだ。

「ナップ兄ちゃん、こっちこっちーっ」
「こらっ、スバル待ちやがれっ」
 スバルたちとはしゃいで遊びまわるナップを木陰から見つめながら、レックスはもう数十度目になるため息をついた。俺って本当に、どうしてこうなんだろう、などと思いつつ。
 昨晩からナップの機嫌は悪いままで、レックスは針のむしろどころか剣の山を素足で登らされているような気分で朝食を終え、ナップと一緒にユクレスの木の下へやってきていた。自分たちの学校もしばらくは休暇なので、昨日スバルたちと遊ぶ約束をしていたのを知っているからだ。
 ナップは楽しそうに遊んでいる。体を動かすことがわかっているからだろう、今日は短めのパンツと半袖シャツという格好だ。パンツからはカモシカのような足がしなやかに伸び、シャツからはミルク色の二の腕がのぞく。
 それをレックスは(いつものごとく)ああっなんて愛らしいんだナップ! とか思いながら(鼻血を堪えつつ)微笑んで見つめていたが、そんな(レックス的に)幸せの極致のような状況にいながらもレックスの心はどうしても浮き立たなかった(当然ながら)。
 ああ俺ってやつはなんて駄目な奴なんだナップを怒らせて、もしかしたら傷つけて、だというのに謝ることもできていない。だけど、でも、怖いんだ。ナップがもう俺のところに帰ってきてくれないんじゃないかと思ったら、体が動かなくなるほど怖いんだ。
 いつかそうなるんじゃないかとどこかで思ってはいた。だからこそどうすればいいのかわからない。ちらりと考えるたび、想像するたび、全力で打ち消さずにはいられないほど、それは恐ろしい事態だったから。
 考えるだけで耐えられない、そんな事態に打開策なんて思いつくはずがない。なんとかしたいと思っても、体も心もすくんで動かない。
 勇気を出して失態を挽回しようと話しかけて、冷たい視線で見られたら? 適当にあしらわれたら? そう思うと、どうしても話しかけることができないのだ。
 ああっどうして俺はこう情けないんだろう――そうぐじぐじと自分を責めつつじっとナップを見つめていると、水辺で遊んでいたナップの姿がふっと掻き消えた。
「――――!」
 水に落ちたのか、と思うより早くレックスは走り出していた。全速力で水辺まで移動し、ばっばっと
周囲の様子を確認する。そしてナップが水の中にいる、と知るが早いかレックスはどぼんと水の中に飛び込んでいた。
 ナップ。ナップ。ナップ。いやだ、いやだよ。こっちを向いてくれなくてもいい、そばにいてくれなくてもいい。だけど頼む、お願いだから、生きていてくれ……!
 必死にそう願いながら魚より速く水の中を泳ぎ、水の底近くに沈んでいるナップを後ろから抱きかかえて水面まで上がる。ナップの体がばたつき、口元から泡が漏れるのに、急がなくちゃ! とますます顔面蒼白になってナップを水上まで運び出す――
「せ、先生っ、なにっ!?」
 ――が、水面に出るやこちらを向いたナップに驚いた顔でそう言われ、思わず固まった。
「え……ナッ……溺れて、たんじゃ?」
「はぁ? なんでそうなるんだよ。俺ただ、スバルたちに軍学校で習った泳ぎ方を教えてやろうって……」
「そーだよ先生。水の底まで一気に沈んで泳ぎ回るってやつ! 俺たちがナップ兄ちゃんにお願いしたの、見てなかったのか?」
「ご、ごめん、気付かなかった……でも、なんだ、そうなのかぁ……よかった……」
 はあぁぁ、と深々と息をつく。心の底からほっとした。ナップが死んだりしたら、きっと自分もまともに生きてはいられなかっただろう。
 安堵のあまり思わずだらしない笑顔をこぼすと、ナップはそれをじっと見つめてきた。えっなんで急に、と小さく身じろぐレックスにかまわず、小さくうなずいてからするりとレックスの腕の中から抜け出て、地面の上へと上がると、スバルたちに向けて頭を下げる。
「悪い、スバル、パナシェ。俺、先生を送っていかなくちゃならないから、今日はここまでな」
「えーっ! 今日は夕方まで遊ぶ予定だったじゃんかぁ」
「わがまま言っちゃダメだよ、スバル。先生こんなに濡れちゃったんだもん、お風呂に入らなくちゃ」
「ちぇーっ、しょーがないなー」
 なんだかまるで俺の方が子供だと言われているような、と思いつつ地面に上がると、ナップがこちらを振り向いて、ひどく真剣な顔で言った。
「帰ろうぜ、先生」
 そのこちらの心に切り込んでくるような眼差しに、レックスは目を逸らしながら「ああ、そうだね」と答えるしかなかった。心の中が、『もしや本当に本当に絶縁状を突きつけられてしまうのかーっ!!??』と恐慌状態に陥っていようとも。

 レックスの家にはラトリクスの住人たちに協力して取り付けてもらった、水道と湯沸し機がある。普段は人力で薪をくべて風呂に入ることが多いが、こういう時は重宝この上ない。見る間にたまっていくお湯を確認し、居間にまで戻ってきて笑顔(を作って)で言った。
「ナップ、すぐお湯溜まるから、お先にどうぞ」
 が、ナップはこちらを真正面から見て、きっぱり言った。
「一緒に入ろうぜ、先生」
「へ……えぇぇぇっ!?」
 レックスは素っ頓狂な声を上げてざざっと体を退き、背後の壁にべたっとへばりついた。まさか、だって、そんな、この状況で!?
「……嫌なのか?」
「いっいやっ、嫌じゃないんだけどっ!」
「じゃあ、いいだろ。一緒に入ろうよ。昨日だって一緒に入らなかったんだから」
「う……う……うん……」
 レックスはナップの真剣な面持ちに気圧されてうなずく。だが心の中は大嵐だった。それは、普段からナップがこっちにいる時は毎日のように一緒に入っているけれども。恋人なんだからいいんだよな、とびくびくどきどきしつつもナップの眩しい肌身を堪能させてもらっているけれども。
 でも、この状況でそれは拷問だ……ムラムラが抑えきれなくなっても絶対に手が出せないじゃないかーっ! などと思いつつレックスはナップのあとについて脱衣場に向かう。ナップはこちらを気にもせず、脱衣場に入るやばっばっと思いきりよく服を脱いだ。シャツを勢いよくまくり上げ(ぴっ……ピンク色の乳首がっ!)、パンツと下着を一まとめに脱ぎ捨てる(ナッ……!! お、男の子らしいけどっ、俺の前でそんなに無頓着に大事なところを晒しちゃ……!!)。
 そしてレックスの方をきっと見るので、はっとしてレックスもさっさと服を脱ぐ。股間に男の欲望が兆しつつあるのを感じてはいたが(この状況で! この状況で俺はー!)、精神力を総動員して必死に静めた。
 そして、かぶり湯をして揃って湯船に入る。基本的に一人用なので、一緒に入るとナップのすんなり伸びた手足と自分の体が絡み合うことになるのだが、ナップはそんなことを気にした風もなくレックスのすぐ目の前にちゃぽんと体を下ろした。
「…………」
「…………」
 しばしの沈黙。その間もレックスの心臓はどっきんばっくん鳴っている(だって愛する愛しい可愛いナップの肢体が目の前に、しかも俺のとか、絡み合って……!)。とてもナップの顔を真正面から見ることはできず、かといって視線をそのまま下ろしてはナップの肢体がもろに目に入ってくるので、微妙に視線を逸らしつつ硬直した。
 沈黙を破ったのは、ナップの方だった。
「……先生。俺に、なに隠してんの?」
「は……はいぃっ!?」
 思わずずざっ、と音を立てながら身を退く。さっきと同じように背後の湯船の壁にへばりつきながら、必死に言った。
「ナッナッナッナップっ、かかか隠してるってなんのことだいっ?」
「バレバレだって……先生、わかりやすいんだから。俺が帰ってきた時から、こっちの方まともに見ようとしないし、ものすごい勢いでうじうじしてたし」
 ナップは苦笑してから、すっと顔をうつむけて、ぽそりと呟く。
「最初は、俺のこともう好きじゃなくなったのかなって、思ったけど」
「そ、そんなことあるわけっ!」
「うん……それはわかった。さっき先生、ものすごい勢いで俺のこと助けてくれたからさ」
 恥じらうようにそう言ってから、きっとこちらを睨むように見て。
「だから、他になんか隠してることがあるんだろ、俺に」
「う……」
「言えよ、先生。ちゃんと話せよ、隠さないで。……話してよ」
「うううううう……」
 湯船の中で、すぐ目の前で、真正面から見つめてくる瞳に耐えきれず、レックスはあっさり陥落した。
「……実は……」

 告白するや、ナップは顔を真っ赤にして烈火のように怒った。
「はぁ!? なんだよそれ!? 先生、俺の気持ち疑ってんのっ!?」
「う、疑ってるっていうか、そういうわけじゃないけどもしかしたらって」
「それが疑ってる以外のなんだっていうんだよっ! 信じらんねぇっ、俺のことなんだと思ってんだよ! 先生、最低だっ! 俺言ったよな、先生のこと好きだって! あ、愛してるって! それが信じられないのかよっ!」
「そ、そうじゃないけど、なんていうか」
「けど、なんだよっ!」
 湯船の中でこちらをぎっと睨み、つかみかからんばかりの勢いで詰め寄るナップ(の苛烈な瞳に怒ってる怒ってるよ〜と泣きそうになりつつナップはこんな顔も可愛いなぁと心のどこかで思う気持ちに蹴りを入れつつ)に、びくびくしながら説明する。
「その、なんていうか、ナップは……見た目も中身もすごく魅力的だし、将来性もばっちりだし、モテて当然だなって思うし」
「だから!?」
「……その。俺以外にもっといくらでもふさわしい人間がいるだろうっていうか……俺なんかにかかずらってちゃいけないんじゃないかっていうか」
「はぁ!!? なんだよそれ!!」
 ざばっ、と音を立ててナップがこちらに体を近寄らせる。その瞳に映る感情の激しさに、レックスは思わずびくっ、とした。
「なんで先生がそんなこと決めるんだよ!? 俺のことだろ!? 俺の気持ち、なんだと思ってんの!? 俺が誰を好きなのかは、どうでもいいのかよ!?」
「え……ナッ」
「そ、そりゃ、俺、好きだって言われて、ぐらついたよ!?」
「え」
「相手親しい奴だったし、いい奴だし可愛かったり優しかったりするし、ちょっとカッコいいとこもあるし、一瞬流されちゃいそうになったよ!?」
「え……ナ」
 そこまで顔を伏せ気味にして一気にまくし立てたナップが、ぎっ、とばかりに顔を上げてこちらを睨みつけた。レックスは思わず固まる。ナップの瞳には、いっぱいに、それこそ今にも泣き出さんばかりに涙が溜まっていたからだ。
「でも! 俺は先生以外いらないって、必死に意地張って突き放して、大切な友達と喧嘩までして、さんざん周りに迷惑かけて……それでも、先生だったらきっとこうするって、頑張ってちゃんと仲直りして……やっと、先生のとこに、戻って、きたのにっ……!」
「……ナップ」
「先生のバカヤローっ! 先生なんて……先生なんて、もー知らねぇっ!」
 ばしゃっ、と水音を立ててナップが湯船から飛び出る。呆然としていたレックスは、はっ、と我に返り同じように水音を立てて突撃した。
「ナップっ!」
「っ……!」
 ナップを背後から抱きしめる。ずいぶん背は伸びたけれど、まだ自分より頭ひとつ分は低いナップの体。震えるそれを、力をこめて、でも傷つけないようにそっと。
「……はなせ、よっ」
「ごめん、ナップ。俺は本当に、君を傷つけてばかりだね……臆病で、鈍感で、根性なしで」
「……っ」
「俺はいつも怖くてしょうがないんだ。誰かが君をさらっていってしまうんじゃないかって。俺はただ、まだナップが目をつけられていないうちに、先生って立場を利用してナップの気持ちにつけこんだだけなんじゃないかって、どこかで思ってて……」
「……なんだよ、それ……っ」
「ごめん、君の気持ちに失礼だよね、でも、そういう見方があるんじゃないかってことは俺はいつも覚えてなくちゃいけないって思うんだ。まだ若い、大人の手で保護されなくちゃならない立場にいる君に、恋をして、自分の感情で奪ってしまった俺は」
「…………」
「だから、いつも自信がなくて。本当に君の恋人でいていいのかとか、ちゃんと恋人をやれているかとかいつもびくびくしてて。怖くて……」
「……せんせぇ」
 少し舌足らずな口調で自分を呼ぶ声。応えてくれないんじゃないかという不安に震える声。切なげに、ひたむきに自分を求めるいとけない声。
 それに、レックスは微笑みかける。自分の中の優しいもの、暖かいもの、そのありったけすべてでナップに応えたいという想いをこめて。
「でも……だからって、君を傷つけちゃ、先生失格だよな」
「……せんせぇっ……」
「ごめん、ナップ。本当にごめん。臆病でごめん。頼りなくてごめん。情けなくてごめん。でも、俺は本当に、君が好きだから……ずっとずっと、好きだから……」
「せんせぇっ……」
 うっ、うーっ、うっ、と嗚咽を上げながら、ナップが自分に抱きついてくる。それをぎゅっと、できるだけ優しく抱きしめながら、レックスは何度もナップの頭にキスを落とした。ごめん。怖がりでごめん。君を傷つけて、本当にごめん、と。
 ナップが泣き止むにはしばしの時間がかかったが、顔を上げた時にはナップはもう照れくさそうな顔で微笑んでくれた。それにひどくほっとして、思わずちゅっとその可愛らしいおでこにキスを落とす。と、ナップがカッと顔を赤らめて怒った。
「やめろよ先生! 急にそーいうことするの!」
「ご、ごめん、嫌だったかい?」
「……嫌ってんじゃないけどさ……なんか、子供扱いされてる気になるし……急にだと、なんか、すごく、どきっ、てするし……」
 視線を下げながらぽそぽそと文句を言うナップに、レックスは(照れているのかいナップ!? な、なんて愛くるしい……! と心の中で悶えつつ)苦笑して言う。
「そうだね、ごめん……じゃあ、そろそろ風呂場から出ようか。また湯船に浸かったらのぼせそうだし、服を着ないと寒いだろう?」
「えっ」
「え……?」
「あ」
 声を上げてこちらを見上げてから、ナップは耳まで赤くしてうつむいた。レックスはしばらくきょとんとしていたが、ふいにはっ、と気付き、いやでもまさかそんな都合のいいことがないないあるわけないなに妄想してるんだ俺、と必死に打ち消してから、でももし万が一ナップがそういう気持ちだったら、という念を抑えきれず、そろそろと訊ねる。
「あの、ナップ……もし、よかったら。よかったらだけど……その……」
「…………」
「……する?」
 自身顔を赤くしながらのレックスの問いに、ナップは体までまっかっかになりながら、こくん、とうなずいたのだった(当然レックスはその可愛らしさに悦び悶えこんなことがあっていいのかとエルゴに感謝を捧げた)。

「……なんか……俺、何回ヤっても、いっつも先生に翻弄されっぱなしな気がする」
「そうかい?」
 ことのあとの余韻に浸りながら、ベッドの上で肌を重ね合わせつつの言葉に、レックスは首を傾げた。自分の方こそナップには翻弄されっぱなしな気がしているのだが。
「そーだよ。だってさ、先生はさ……いっつも余裕で。涼しい顔しててさ。俺だって、その……一人の時練習したから、少しは上達してんじゃないかなって思っても、全然平気でさ」
「それはただ、格好をつけてるだけだよ。君より十歳も年上なのに、やられっぱなしじゃみっともないだろう?」
 少なくともレックスなら攻められている相手に鼻血を出されたら驚くし房事どころじゃなくなるから全力で抑えているだけだ。
 だがナップは不満そうに頬を膨らませつつ、恥じらうように目元を染めて視線を逸らしつつぼそりと告げる。
「けどさ……俺ばっか。すんげー喘いで、気持ちよがってさ。なんか……俺ばっか、ヤるごとに、やらしくなってくみたいで……」
「…………」
「? 先生、どうしたの? 急に後ろ向いて」
「いやごめんなんでもないんだすぐ元に戻るから」
 素早く噴き出かけた鼻血への対処を終え顔を戻し、レックスは微笑む。こんな可愛い相手を愛してもいいなんて、本当に世界は俺に優しすぎる。
「それはただ、ナップの心と体がまだ成長の途中だってだけのことだよ」
「……そうなの?」
「うん。若い時……特にナップぐらいの年頃にはね、まだ心も体も固まっていないから、こういうことの気持ちよさに心身が支配されたみたいな気分になっちゃうのは当たり前なんだ。こういうことはある程度のところまでは経験を積むほど気持ちよさが増すしね」
「そうなんだ……」
「うん。……あとはまぁ、それだけ俺がナップを好きで、ナップが俺を好きって証じゃないかな?」
 悪戯っぽく笑ってみせると、ナップは嬉しそうに笑ってから、顔をしかめてちょっとだけ冷たく言い放った。
「俺のこと、他の奴好きになったんじゃないかって疑ったくせに」
「う……ごめんなさい……」
 思わず小さくなって頭を下げてから、おずおずと上目遣いに言う。
「……けど、なんだそれって思うだろうけど、本当に疑っていたってわけじゃないんだよ」
「……なんだよそれ」
 予想通りムッとした顔になるナップに、これ言うとたぶんもっと怒られるだろうなーと思いつつ正直に口にした。
「ナップが俺を捨てるとか、気持ちを無視するとか本当に思ってたわけじゃないんだ。ただ、怖かっただけなんだ。……ナップが他の人を好きになっても、俺はなにも言えないって思うからさ」
「はぁ!?」
「いやっ、誤解のないように言っておくけどそれが平気っていうんじゃないよ!? 今回みたいにさ、もしかしたらって思うだけではたから見てわかるくらいビクビクドキドキしちゃうし、もしはっきり別れてくれって言われても、たぶん俺は泣いてすがって捨てないでくれって懇願すると思う。……世界の誰より大好きな君を他の誰かに奪われるなんて、考えただけで世界が滅びるんじゃないかってくらいの衝撃だって、わかるから」
「…………」
 レックスの言葉に説得力を認めたのだろう(自分でも考えただけで目に涙が滲むのがわかったし)、ナップはとりあえず黙ったがもの問いたげな視線をぶつけてくる。それにレックスはできるだけ真摯に説明した。
「なんていうかさ……さっきも言ったけど、俺には立場にかこつけてまだ若い君に気持ちを押しつけた、って負い目がいつもあるし。それに、そうでなくても……君が好きだから、本当に好きだから、君の気持ちが俺から本当になくなったら、それを無理やり引き戻すというか……自分の気持ちを押しつけることが、理性的にはできないと思うんだ」
「……理性的にはって、なに」
「感情的にはそうもいかないだろう、ってこと。さっきも言ったけど、理性でどう思っていてもそういうことになったら俺はみっともなく泣きながら必死に君にすがると思う。君と別れるってことは、本当に、俺にとって世界の崩壊なんだから」
「…………」
「でも、だからこそっていうか……君がすごく好きだからこそ、君の気持ちが俺にないってことになったら、嘘をつかれるのはつらい、と思うんだ。好きでもないのに、君を愛してはもういけないのにそばにいられたらきっとものすごくつらいだろう、って。それでもきっとそばにいてほしいって気持ちは消せなくて、見苦しくすがっちゃうんだろうなぁ、とも思うけど」
「…………」
「だから、君の気持ちが俺から本当になくなったら、もう俺はなにも言えない。――けど」
 にこり、とありったけの愛情をこめて微笑んで。
「だからこそ、そんな時が来ないように、俺はありったけの力をこめて、君が好きだって気持ちを伝え続けるから、ね」
 そう言ってちゅっと唇にキスを落とすと、ナップはかーっと顔を赤くしてから、「先生のたらし」とまたレックスとしては不本意極まりない言葉を告げてから抱きついてキスを返してきた。

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