「里帰り?」 リョーマの訝しげな声に、隼人と巴は揃ってうなずいた。 「里帰りって、明日平日なんだけど。学校休むの?」 「ああ」 「……なんでまた」 「明日が母さんたちの命日なんだよ」 「その日は絶対に家族揃って朝からお墓参りに行くって決まってるの」 「……ふーん」 仏頂面でそっぽを向きながらも立ち去ろうとしないリョーマに変な奴、と思いつつ、隼人は荷物をひょいと担ぎ上げた。横で巴も同様に荷物を持ち上げている。 「じゃ、行ってくるな。おじさんやおばさんにはもう言ってあるから」 「土日もついでに向こうで過ごしてくるから。じゃあね、リョーマくん」 「……ああ……」 リョーマはこちらを向いて、わずかに顔を歪め、口を開けた。なにか言おうとしているのか、と視線をやると、なぜかカッと顔を赤らめてぶっきらぼうに言う。 「早く行ってくれば? お前らただでさえトロいんだから」 「んっだとリョーマっ、俺のどこがトロいって!?」 「そういう風に無駄話で時間無駄にするところ。早く行かないと電車に遅れちゃうんじゃないの?」 「最初にムカつくこと言い出したのはてめぇだろーがっ!」 「ほら、早くしたら? ――行ってらっしゃい」 「行ってきますっ!」 怒鳴って家を飛び出て、バーンと扉を閉めた。 『…………』 母と、巴の両親の墓前。全員合掌し、しばし無言で祈りを捧げる。 隼人はいつも通りの言葉で祈った。母さん、叔父さんと叔母さん、どーか俺たちが元気でいられるよう見守っててください。思いっきりテニスできるくらい元気でいられるよーに、見ててください。 隼人に母の記憶はほとんどない。なのでどうしても通り一遍の祈りになってしまう。けれどそれでもそれなりに想いをこめて、母に健康と幸福を祈った。 あ、そうだ、とふと思い出して祈りに追加した。俺たち、親父の通ってた青学に通ってます。そこで全国優勝しました。テニスで。 それくらいテニスできたのも母さんが見守っててくれたおかげ、かもです。ありがとーございます。 あれ? これお祈りとはちょっと違う? あれ? などと隼人が混乱し始めたところに、京四郎が顔を上げた。 「よし、終わり! お前ら帰るぞ」 「はーい」 「……へいへい」 「帰ったらその足で空港まで行くからな。急ぐぞ」 『………はぁ?』 隼人と巴が声を揃えると、京四郎は片眉を上げた。 「なんだ、お前ら、手紙読まなかったのか?」 『……手紙?』 「切符に同封しておいただろう。今年は墓参りしたらその足で沖縄の学会に向かうから、お前たちも一緒に来るように、ってな」 『……はぁ!?』 「聞いてねーぞ親父っ、そんなんがあるならもっと早く言えよ!」 「だから手紙を送ったんだろうが」 「手紙だけで済まさないでよ! 言っとくけど私たち粗忽さには自信あるんだからね!」 「……まぁ、それは知ってるが」 「つか、用意なんて全然してねーぞ! 里帰りのつもりだったから持ってきたのはラケットと暇つぶし用の道具くらいで……」 「別にお前は残っててもいいんだぞ? もともと俺は学会に巴を参加させて勉強させてやるつもりで連れて行くって言ったんだからな」 「なっ……」 「一人でこっちの家に残ってるか? ん?」 「……っ、行くに決まってんだろ!」 「そうかそうか。まったくしょうがないなお前はガキみたいに拗ねやがって」 「うるせぇクソ親父っ、いちいちガキ扱いすんじゃねぇっ!」 中部国際空港まで二時間ほどの時間をかけて移動し、隼人と巴は飛行機でのフライトを初体験した。当然ながらなにもかもが珍しく、二人揃って見るもの聞くものにいちいち喚声を上げる。 「うわ! なぁなぁ親父、飛行機だ! 飛行機があんなでっかいぜ!」 「空港なんだから当たり前だろう」 「わぁ、ねぇねぇお父さんあれってスチュワーデスさん!? スチュワーデスさんが歩いてるよ〜! きれーい! サインもらっちゃおうかな!」 「空港なんだから当たり前だろう。それとサインはやめなさい」 「うわ、なにこれ、チューブ? 面白ぇ!」 「飛ぶな、跳ねるな。少し落ち着け」 「お父さんお父さん、シートベルトだよシートベルト! 窓だよ、窓から外が見えるよ!」 「シートベルトも窓も飛行機のじゃなければ普通に見てるだろう。少し落ち着きなさい」 どちらが窓側になるかでしばし争ったあと(巴が勝った)、シートベルトをして宙へと舞い上がった瞬間、隼人と巴の興奮は頂点に達した。 「すげぇ! すげぇぞ親父っ、飛んでるっ、空飛んでるっ!」 「そりゃ飛行機なんだから飛ばなきゃ困る」 「わ、わ、はやくんお父さん、見て見て! 地面がどんどんちっさくなってく! うわーうわー、今まで登ったどんなビルより高ーい! すごいよお父さん、飛行機だよぉ!」 「うんうん飛行機だな。わかった存分に堪能しなさい」 「わー! すげぇっ、あれ雲か!? 雲の中通ってるっ、雲がつかめそうだぞっ! あ、あ、今耳がツーンってなった!」 「はいはいよかったな。とりあえず唾飲み込んどけ」 「うわーうわー、見て見てお父さん、雲のじゅうたんだよ! こんなの本当にあるんだぁ! 今外に出たら雲の上歩けるかなっ!」 「いやそれは普通に無理だからな。絶対にやめてくれ」 さんざん騒いで、無事那覇空港に到着した時には、隼人と巴は疲労のためぐったりとなっていた。 「ほれ、行くぞ。飛行機でそこまで疲れてどうするんだ、まったく」 京四郎に促されのろのろと飛行機を降り、その暑さに驚く。 「あっち……もう十月だぜ? なんでこんなに暑いんだ」 「そりゃ沖縄だからな、暑いに決まってる。巴、学会は琉大の医学部で行われるからな。こっちのバスターミナルからすぐだぞ」 「うん、お父さん」 「へ……おい、親父! 俺はどうすりゃいいんだよ?」 抗議の声を上げる隼人に、京四郎はクールに眼鏡を押し上げた。 「そんなもん自分で考えろ。心配しなくても泊まる場所はもうお前の携帯にメールで送ってある」 「げ、いつの間に」 「だからお前は俺たちが学会に参加してる間、好きに時間を潰してろ。気楽な身分でよかったな、隼人?」 「うっせぇなぁ……」 隼人はぼりぼりと頭をかいて、それからうんとうなずいた。確かに学会なんて退屈なものに出るより、せっかくの沖縄を堪能していた方がずっといい。 「よっしゃ、じゃあ俺観光してくるぜ! あとで土産話聞かせてやるからな!」 「ああ、わかったからとっとと行ってこい。事故には遭うなよ、なにかと面倒だからな」 「うー、ちょっとうらやましいけど、これも夢のためだもんね。気をつけてね、はやくん」 「おう!」 手を振って隼人は巴たちと別れた。さて、どうするか、と考えてみる。 せっかく沖縄に来たんだからそれらしいところに行ってみたい。沖縄らしいところといえばやはり海だろう。どっちに行けば海に出るのか。 空港の観光案内の係員の人に聞いてみると、どうやら波の上ビーチというところがいいらしい。隼人は礼を言って、バスに乗った。 走ること十五分。沖縄らしく真っ青な海が見えてきた。 「おーっ、いい感じじゃん!」 青春台から向かった色が薄くて人の多い海と違い(それでも十二分に楽しんだのだが)、色が本当にきれいな青だ。そして広くて人が少ない。ここで思う存分泳げるのか、と思うとぞくぞくした。 空港で買っておいた水着に更衣室で着替え、速攻で海に突撃する。 「ひゃっほ〜っ!」 歓声を上げながら海に飛び込む。独特の波の動きが隼人の体をくすぐった。撫でられるような水の感触が心地よい。隼人ははりきって泳ぎ始めた。 先輩たちに教わった立ち泳ぎを駆使しつつ一時間ほど泳いで、隼人は周囲を見渡した。沖縄の海はきれいで気持ちいいけれど、一人だけで目的もなく泳いでいるだけではつまらない。なにか面白そうなものはないだろうか。 と、その瞬間、足がつった。 「がぼっ!」 やばい。直感した。これは、かなりやばい。 右足がほぼ完全に麻痺している。隼人は右利き。利き足も右だ。泳ぐ時に使うのは基本的に足だから、半分以上の推力を失い、バランスが完全に崩れている。 その上この場所はかなり沖。周囲に泳いでいる人なんてまるでいない、助けが来る可能性はきわめて低い。その状況で自分は、思いっきり溺れている。 必死に水をかくが、半ばパニックに陥っているのもあるのだろう、腕と片足の力だけではまともに浮かんでいることすらできない。カッと喉を焼くひどく塩辛い水が口の中にどんどんと入ってくる。それどころか気を抜くと海の底まで沈んでいってしまいそうだ。やばい。これはかなりやばい。どころかめちゃくちゃやばい。 だがどうすればいいのか思いつかない。頭を真っ白にしたまま、がぶがぶ塩水を飲みながら、必死に手足をばたつかせる―― と、ふわ、と体が軽くなった。 え、と思う間もなく、ぐいぐい体を引っ張られて動かされる。なんだなんだなんなんだ、と思っていると低く耳元に囁かれた。 「体から力を抜いて、動かないでいなさい」 「げ、っほ」 誰? と聞くことすら今の隼人にはできない。強い力で水面の上に顔を置かれ、なにか温かいものに包まれるような感触を感じさせられつつ首を引っ張られている。 これは誰かが自分を抱えて泳いでいるのでは、と頭で考えられたのはもうほとんど海から上がり駆けた頃だった。ぐい、と強い力で引きずられ、熱い砂浜に横に寝かせられる。 「おう、生ちちょーん生ちちょーん。ちゃんと意識もあいんがやー。ちけーねんちけーねん」 「下がっていてください、応急処置します」 声が遠くに聞こえる、とぼんやりした頭で思っていたら、ふいに痛みが腹のあたりに走り、同時に熱いものが腹から喉へ突き抜けてきた。 「げほっ!」 「永四郎、うぬひゃー意識あいびーんからぬーんあんしーちゅーく押さあいびらんてぃんしむんやあらんがやー?」 「問題はないでしょ。我々は彼を見殺しにする必要こそありませんが、優しくしなければならないわけでもありませんから」 「ああ、うれーやさやー」 さっぱりわけのわからない沖縄弁の中に混じる妙にきれいな標準語。なんかどっかで聞いたことがあるような、とちらりと思いつつ何度も水――そう、自分は水を吐かされていたのだ――を吐いて、げほげほと咳をし、なんとか呼吸を整えて目を開けて、相手を見た。 ら、考えるより先に言葉が口をついて出た。 「おま……殺し屋っ!」 『……………』 沈黙が周囲を取り巻いて、ようやく頭で認識した。目の前にいるのは比嘉中主将木手……だったと思う、確か。で、周囲にいるのは比嘉中レギュラーのうちなんか顔が整っていた二人。のような。不二先輩とタカさんと菊丸先輩にわりとあっさりやられてた人たちだったような? よく覚えていないが。自分と戦ったデブは覚えているのだが(田仁志という名前だったと思う)。 ともかく、全国で六角をぼろくそに破り、オジイにボールをぶち当て、竜崎すら狙い、それでも自分たち青学に勝てずにあっさり負けていった比嘉中のレギュラーであることは間違いない。 「……もう体の方は回復しているようですね。ならば応急処置の必要もないということで」 立ち上がる木手とレギュラー二人。隼人はなんだかわけがわからないながらも、そのあとを追おうと立ち上がった。 「なーまゆくてぃいた方がいい、塩水ぬむんと体力消耗すん」 「いや、なに言ってんのかわかんねぇし……げほっ!」 「彼は塩水を飲むと自覚している以上に体力を消耗するから休んでいる方がいいと言ったんです。我々は君に飲み物をおごってあげるほど親切ではないのでね、少し休んだら自分でなにか飲み物を買いなさい」 口調は冷たいが、言っている内容は親切な木手に隼人は目をぱちくりさせた。考えてみれば、いや考えるまでもなく、自分はこの人に助けてもらったわけだ。それもほとんど命を。なのに恩にも着せず、忠告までするなんて、自分の今まで抱いていた比嘉中のイメージとはずいぶん違う。 「……なんで、あんた、俺のこと助けてくれ……たんスか?」 一応年上だし、目上だし、というので丁寧語を使う隼人に、横の二人は肩をすくめ、木手は不機嫌そうに眼鏡を押し上げて言う。 「『いちゃりばちょーでー』」 「……なに……?」 「『行き会えば兄弟』。大和の『袖振り合うも多生の縁』です。うちなんちゅ同志では使わない、たとえ外国人であろうとも出会う人は隔たりなく兄弟のようになるもの、という意味ですよ」 「……あの、意味がよく」 「君を助けるにはその程度しか理由がいらなかった、ということです。我々うちなんちゅはたとえそれが見知らぬ人間でも海で溺れていれば助けるよう努力するくらいはします。海で育っている人間には当たり前のことですから。なので、別に君も感謝する必要はありません。我々に勝った青学の選手の最後が沖縄に来ての溺れ死に、というのも面白くないですし」 「…………」 「まぁ、要すんにぬーんでぃんうみーんけーってくとぅやいびん。別にわったーねー大したてぃまやあらんし。観光客たしきぃんぐれーめーんしからしあいんしやー」 だから沖縄弁はさっぱりわからないのだが。 「それでは、失礼」 木手と比嘉中レギュラー二人はひょいと背を向けて歩き出す。隼人は思わずそのあとを追った。 十歩ほど歩いて、木手が振り向く。 「なんでついてくるんです?」 「え、だ、だって……」 溺れたてだし、心細いし、誰か知ってる人に一緒にいてもらいたいって思うし。 それに、全国大会でのムカつく比嘉中の連中ではなく、溺れている自分を助けてくれたこの人たちとあっさり別れてしまうのは、なんだか寂しいと思ったから。 という想いを言葉にできず、隼人は口をぱくぱくさせた。隼人は体の反射を言葉で説明できるほど言語能力が発達していない。 そんな隼人を面白そうに見ていた金髪のロン毛をした人が、ふいににやりと笑んで言ってきた。 「おい、わざわざわったーにちちくるってあびーんしぇー、ちゃーしんやくとぅぬみー物おごってしんだか?」 「……は?」 「平古場くん、やめなさいよ」 木手がやや雑駁な口調で言う。え、止めた? なにを? ていうかこの人平古場っていうのか、などと隼人の思考は間違った方向に回転する。 「口出しすなよーやー、永四郎。ぬーんちくぬひゃーがくまんかいういびーがやーはわかやびらんが、せっかくやくとぅうちなーぬ味堪能しみてぃんだやあらんがやー」 「あっはっは、うむっさん。ありー確かにうちなーぬ味だ。わんにんジュース代半分んじゃちとぅらすん」 「甲斐くんも……」 なんだかよくわからないが盛り上がっている。隼人はどう答えればいいのかわからず木手と平古場と甲斐(という名前らしい茶色のふわふわした髪の人)を等分に見比べた。 そんな隼人をよそに平古場と甲斐は浜辺を上がったところにある自動販売機まで走り寄り、ジュースを買ってこちらに放り投げた。 「ほい、ゴーヤジュース!」 「えっ、これくれるんスか!?」 「おう、とぅらすん。ぬーでぃが渇いてううぃんはじ? しちゅんびけーんぬめーよ」 「いただくっス!」 さっきから喉がたまらなく渇いていたところなのだ。なんだよこの人たちやっぱり親切じゃんっ、とにこにこしつつぐいっと一気に飲み干す。 そしてその直後に悶絶した。 「に………っ、苦〜〜〜〜っ!!!」 あまりの苦さにじたばたする隼人をよそに、平古場と甲斐は笑い転げる。 「あっはっはっは、引っかかたん引っかかたん!」 「しんけん引っかかいんでぃうまーんたんぜ! あー、うかさん」 「ひ……っ、引っかけたんスか!? ひでーっスよ、俺マジ感謝して飲んだのに!」 涙目になって抗議すると、平古場はくっくっくとまだ笑いながらぽんぽんと隼人の頭を叩いた。 「おう、悪かった悪かった。ぃやーがしんけん心細そうな顔してるんで、ちーとやぁからかいたくなったさぁ」 「……あ! 日本語喋ってる!」 心底驚いて思わず指差して言うと、平古場は顔をしかめてぽこんと隼人の頭を殴った。 「フラー。わんをいくつだと思ってるあんにー? 話そうと思えばやまとぅぐちくらいいくらでも話せるさぁ」 「へ……あの、フラー、ってなんスか? あと、やまとぅぐち、って……」 「フラーは『馬鹿』に類する軽い罵り言葉です。やまとぅぐちはやまとんちゅの言葉、という意味ですから君の認識で言えば標準語、となるでしょうね」 唯一双方の言葉を話せる木手が面倒くさげな口調で言う。知らない言葉がぼろぼろ出てきて、隼人は思わず頭を抱えた。 「沖縄弁って、謎だ……」 「まぁ、あなた方から見るとそうかもしれませんね。沖縄は日本と外国の境目にあるようなものですから」 「あ、なんだ、じゃあやっぱ外国語なんスね! だったらわかんなくて当然だ!」 「…………」 木手は一瞬目をぱちくりさせ、それからぷっと吹き出した。甲斐と平古場もくっくっと笑っている。 「……木手さん? 甲斐さん、平古場さん?」 「……失礼。そう返ってくるとは思わなかったですね」 「お前、けっこう面白いさぁ。もう一本ジュースおごっちゃる」 「え!? い、いいっスよ!」 「心配すんな、今度はゴーヤじゃないさぁ。シークワサージュース。甘酸っぱくてうまいばーよ」 「え、そっスか? じゃあいただくっス! ありがとうございます!」 大声で礼を言い頭を下げると、平古場と甲斐はくつくつ笑いながら軽く隼人の頭を叩いた。 シークワサージュースを飲みながらてろてろあとをついてくる隼人の言葉に、木手たちはつきあってゆっくり歩きながら答えてくれた。 「へ〜? じゃーお前は家族旅行で沖縄に来てるさー?」 「そっス。つか、家族旅行っつーのかな、里帰りのついでに親父の学会につきあって……うわ、マジ酸っぱいスね、これ……うわ、すげ、マジすっぱ!」 「それがうまいあんにー」 「そ、そーっスね。っと、みなさんはなにをしにここへ? やっぱ泳ぎにっスか?」 「フラー。テニスの練習に決まっとるがやー」 「………へ?」 きょとんとする隼人に、木手はすたすたと歩きながら説明する。 「我々にはいつもの練習ですよ。水中で全身運動を行うことによって肺と筋肉を鍛える。別に珍しい練習方法ではないでしょう」 「あぁ! そーいや親父にやらされたことあるっス。俺の場合泉でしたけど」 「あぁ……そういえば君のお父さんは、スポーツ医学の権威赤月京四郎博士でしたね」 「ただのキツネ親父っスよ。人のことさんざん振り回して……あ、俺もその練習参加していいっスか?」 「かまわんさぁ。いいよな、永四郎?」 「俺はかまいませんが。……しかし、意外と根性がありますね、隼人くん。海で溺れた人間はそのあと海から逃げがちなものですが」 「へ? だって海は別に悪くないじゃないっスか。俺がちゃんと準備運動しなかったせいでしょ?」 木手はわずかに苦笑したようだった。 「確かに」 「おう、わかっとるじゃなーがや、隼人。海はでっかく俺らを包み込んでくれるもんさぁ」 「あ! そうだ、ちゃんと言ってなかった!」 「?」 隼人は立ち止まり、真剣な顔になって比嘉中の三人にぺこりと頭を下げた。 「溺れてる俺を助けてくれて、本当にありがとうございましたっ!」 三人はしばし沈黙して、それから吹き出す。 「いまさらさぁ。別に気にしないでいいって言ったやっし」 「いや、こーいうことはきっちりしとかないと! 親父に殴られちまうっスよ、命を助けてくれた人にお礼も言えないのかって!」 「……義理堅いというかなんというか。君は奇妙な子ですね」 「へ? そっスか?」 「ああ。全国大会の時はしんけんぶっ殺しちゃろうと思ったがな」 小さく笑う甲斐に、隼人は頬を膨らませて抗議した。 「そんなの俺もっスよ! 六角中のオジイにボールぶつけるわマナーは悪いわで、こいつらぜってー叩き潰してやろうって……あ」 しまった、と隼人は顔を青ざめさせる。地雷を踏んでしまったかもしれない。比嘉中の三人は黙り込んで微妙に視線を逸らしている。 どうしよう、と思いはしたが聞いておきたいと思ったのも事実だ。隼人は意を決し、三人を真正面から見つめた。 「あの。みなさん、なんで全国大会の時はあんなだったんスか」 『…………』 「こーして知り合ってみたらみなさん……普通っつーか、いい人なのに。なんで、全国大会の時……」 『…………』 しばしの沈黙。 やがて、木手が口を開いた。 「……負けるわけには、いかなかったので」 「え……」 「我々比嘉中は、かなり無理をしてかき集めた団体です。方々に迷惑をかけて、無理を通して道理を引っ込めさせて。……ただ、全国大会優勝旗を沖縄に持ち帰るために」 「無理って……」 「だからなんとしても結果を残さねばならなかった。そのためなら我々はなんでもしました。本当に、なんでも。どんな厳しい練習にも耐えるのは当然、それだけでは足りない。相手校の精神的支柱を潰すために偶然を装ってボールを指導者にぶつけ、次の相手を威嚇するために負けた相手に唾を吐きかけるような真似をし、試合中も審判に知られないようにさまざまな反則行為を行いました。ただ、勝利のためだけに。結果を、全国優勝という結果をもたらすためだけに」 「…………」 「それでも結局君たち青学に負けてしまったのですから、お笑い種ですが」 「………そんな」 隼人はなんと言えばいいのかわからず、口を小さく開け閉めした。間違いを正す言葉も、責める言葉も、この人たちにかける気にはなれない。やってしまったことは明らかに間違っている、けれど今この人たちにそれを言ったところで意味がないように思えた。本当のところはどうなのかわからないけれど。 でも、なにか言いたい。言わなくちゃならない―― 「……でも、そんなテニスして勝ったら、ちょっと、辛いでしょ」 結局、そんなことしか言えなかった。 「…………」 「辛く、なかったっスか?」 おずおずと見上げながらそう言うと、木手はふ、と小さくため息をついて微笑んだ。 「そうですね。少しは」 「……そっスよね。辛いのは、大好きなテニスやってて辛いのは、よくないっスよ。うん、よくない。嬉しいのがいいっスよ。楽しくて、嬉しいのが。少なくとも勝った時くらいは、心と体全部で、わーって」 自分はなにを馬鹿なことを言っているのだろう、と思わなくもなかったが(というか心底『バカか俺』と思ったが)、隼人はひたすらそんな言葉を繰り返した。辛いのはよくない。嬉しいのがいいっスよ。馬鹿みたいにうなずきながら。 「……フラー。無理してそんな気を遣わなくてもいいさぁ。お前には似合わんやっし」 ぽこ、と頭を平古場に軽く叩かれて、隼人はうつむいた。バカみたいだ、俺、ホントに。 それからばっと顔を上げ、にっと笑顔を作る。 「みなさん、練習しましょう!」 『……は?』 「これから海の中潜るんでしょ? テニスの練習するんでしょ? やりましょーよ! 今度やることがあっても絶対俺負けませんから!」 そう、自分にできることはこれくらいだ。勝った人間として、夢を打ち破った人間として、より強い存在であり続けること。倒すべき価値のある選手でい続けること。そのくらいなら、そしてそれこそが、自分にだってできる、自分にしかできない最大限のお返しだと思うから。 隼人が必死にそう言うと、三人はそれぞれ苦笑したようだった。 「……フラー」 「またんぶりーんぬど?」 「そうですね、行きましょうか」 それから、と木手はびしりと隼人に指を突きつける。 「今度やる時は我々が容赦なく叩き潰させていただきますから、よろしく」 その高飛車な仕草に、隼人はなんだかひどく嬉しくなって、「はい!」と言ってしまい笑われた。 それからその日は陽が暮れるまで一緒にテニスの練習をした。海中で、砂浜で、そしてテニスコートでも。 翌日は巴も誘って一緒に練習した。京四郎も仕事を終えた頃やってきて練習方法などをアドバイスしてくれた。 それからちょっと沖縄観光につきあってもらったりした。首里城に行ってみたり金城町の石畳というのを見せてもらったり。だが一番多くの時間をすごしたのは、やはりテニスコートと、海だった。 「きれいな島っスね、沖縄って」 ふとそんなことを言うと、嬉しげに笑って答えられた。 「当然さぁ! うちなーの海は世界で一番いい海さぁ!」 「ま、当然やっし。俺らの故郷やいびーぐとぅ」 「観光が主産業ですからね、そうでなければ困ります」 そんな笑顔は、自分と二歳しか違わない人間らしいものだった。 空港まで送ってもらうのもなんだと思ったので、帰る時は巴と一緒に挨拶をしに行った。お世話になりました、と頭を下げる。 「どういたしまして。君たちの練習方法も参考に出来ましたし、別にかまいませんよ」 「へ? もしかしてデータ取ってたんですか?」 「……君たちや君たちのご父君から練習方法を教示してもらったでしょう」 「ああ! 参考になりました?」 「ええ、まぁ。……次に戦う時には、勝たせてもらいますから」 「俺たちだって負けないっスよ!」 「あ……でも、また公式戦で戦えるのはずいぶん先ですよね。もうみなさんは卒業でしょう?」 「あ……」 「フラー。ぬーんち練習そーんでぃうみとーんんだ?」 「あ……。もしかして!」 三人はわずかに笑んだ。 「ええ、我々三人はJr.選抜に選ばれたのです。それに向けて今から練習しているんですよ。君たちとはその時に、また戦えるということです」 「そっか……またやれるんスね! うわ、なんか嬉しいっス! うわー!」 思わずはしゃぐ隼人に、木手がクールな声をかける。 「どうでもいいですが、そろそろ時間ではないですか? 急いだ方がよいのでは?」 「あ、そっスね! 行くぞ、巴!」 「うん!」 「ああ、そうそう、隼人くん、巴さん」 「はい?」 振り向くと、木手はわずかに視線を逸らしつつぶっきらぼうに言った。初めて聞くうちなーぐち、沖縄訛りの口調で。 「わっさいびーん、にふぇーでーびる、またいちゃーら」 「え……」 「では、お二人とも。我々は練習があるので」 くるりと背を向ける木手に、隼人は思わず笑顔で手を振った。 「また会いましょうね、木手さん、甲斐さん、平古場さん!」 那覇空港から直接成田へ向かう便に乗り、隼人と巴は青春台に帰ってきた。沖縄よりはるかに柔らかい陽射しを浴びつつ、越前家の扉を開ける。 『たっだいまーっ!』 と、なぜか玄関に立っていたリョーマと、ちょうど目が合った。いつも通りの無愛想な顔。それがこちらを見つめ、一瞬なぜか頬を紅潮させて、それから肩をすくめ言葉を発する。 「お帰り」 その言葉になんだか無性に嬉しくなって、隼人はリョーマに飛びつくようにして髪をわしゃわしゃかき回した。 「ちょ……なにすんだよ」 「おう、ただいま、リョーマ!」 人と会った。嫌いだった人と仲良くなれた。それが嬉しかった。とっても嬉しかった。 そしてそこにこいつがいないことが、少し寂しかった。帰ってきた時に、当然のようにお帰りと言ってくれて嬉しかった。 でも、そんなことは言わない。だってこいつには自分は絶対負けたくないし、それに―― 木手さんと甲斐さんと平古場さんとの思い出にこいつはいないんだから、こいつには内緒の、秘密。普段の行動に対するちょっとした意趣返しだ。 そう勝手に決めて、隼人は一人にんまりとした。 作中のうちなーぐち日本語訳。翻訳サイトに頼ってるんでかなりいい加減です、うちなーぐちに堪能な方の指摘をお待ちしています。 ※おう、生ちちょーん〜:おう、生きてる生きてる。ちゃんと意識もあるじゃないか。大丈夫大丈夫。 ※うぬひゃー意識〜:そいつ意識あるんだからなにもそんなに強く押さなくてもいいんじゃないか? ※ああ、うれーやさやー:ああ、それはそうだな。 ※なーまゆくてぃいた方が〜:まだ休んでいた方がいい、塩水を飲むと体力を消耗する。 ※まぁ、要すんにぬーんでぃん〜:まぁ、要するに気にするなってことだ。別に俺たちには大した手間じゃないし。観光客を助けるぐらい前にも経験あるしな。 ※おい、わざわざわったーに〜:おい、わざわざ俺たちについてくるっていうなら、どうせだから飲み物おごってやろうか? ※口出しすなよーやー〜:口出しするなよ、永四郎。なんでこいつがここにいるのかは知らないが、せっかくだから沖縄の味を堪能させてやろうじゃないか。 ※あっはっは、うむっさん〜:あっはっは、面白い。あれは確かに沖縄の味だ。俺もジュース代半分出してやるよ。 ※おう、とぅらすん〜:あげる。喉が渇いているんだろう? 好きなだけ飲めよ。 ※しんけん引っかかいんでぃ〜:本気で引っかかるとは思わなかったぜ! あー、おかしい。 ※んぶりーんぬど:溺れるなよ。 ※ぬーんちわったー練習そーんでぃ〜:なんで俺たちが練習していたと思ってるんだ? ※わっさいびーん〜:ごめんなさい、ありがとう、また会いましょう。 |