学園祭
 隼人はふわぁと大きなあくびをした。現在は二週間後に迫った文化祭の出し物を決めるホームルームの真っ最中だ。
 だが文化祭はテニス部のたこ焼き屋で働くことがすでに決まっているため、クラスの出し物にはあまり積極的に参加する気はない。なによりクラスの出し物は劇のようなのだ。そんなかったるいものが自分に関係してくるとは思えない。
「それでは、今回の劇は『五条大橋の決闘』に決まりました」
 ぱちぱちぱちと拍手が送られる中、隼人はひたすらぼーっとしていた。五条大橋の決闘かぁ、牛若丸が弁慶をやっつけるっていうアレだな、などと思いながら(子供の頃京四郎が話してくれた寝物語はみんな歴史物だったから、隼人も巴も歴史には強いのだ)。
 早く決まってくんねぇかなー、と思いながらぼんやり窓の外を見ていると、ふいに聞き慣れたかまびすしい声が響いた。
「はいはいはーい!! 主役は、リョーマ様がいいと思いまーす!!」
「うわ、小坂田!? お前、クラス違うだろ! なんでここにいるんだよ!?」
 驚いて思わず叫んでしまった隼人に、小坂田は冷たい視線を向けた。
「あんたねぇ、今日は一組と二組の合同ホームルームでしょ? 先週、学園祭の出し物、合同でやるって決まったの、あんたも知ってるでしょ!?」
「ああ、そんなこともあったような気がするなぁ」
 よくは覚えていないのだが。
 あくまであっけらかんとしている隼人に、周囲のクラスメイトたちは苦笑いを浮かべたが小坂田は柳眉(などというほど美しいものでもないが)を逆立てた。
「まさかアンタ、主役を狙ってるんじゃないでしょうね!?」
「ンなモン、やりたかねぇって」
 劇なんて柄じゃないのだし。
「じゃあ、主役の牛若丸はリョーマ様で決まり!」
 まだ投票もされてねぇのに、と思ったが突っ込むのも面倒なのでスルーした。それにリョーマが劇なんて、客席から笑ってやれるから面白そうだ。
「なんで、俺が……面倒くさい」
 ぶっきらぼうに言うリョーマに、天野が少し悲しそうな顔で声をかける。
「リョーマくん、確かに俺たちテニス部での仕事もあるのに大変だけど……クラスのみんながリョーマくんがこの役にふさわしいって心から思って言ってくれてるのを、そんな風に面倒くさいって言っちゃうの……ちょっと、悲しいよ」
「……悲しいって、天野、お前ね……」
「そりゃ、リョーマくんにはどうでもいいことなのかもしれないけど。文化祭って、一生に数えるほどしかないものだし。だから、できるなら、思い出に残るようなものにしたいって、俺、思う……」
「おーきーくんいいこと言うじゃないっ! その通りですよリョーマ様、中一の文化祭は一生に一度しかないんだから楽しまなくちゃ!」
「劇やっても楽しくない」
「見てる人はすっごい楽しいです!」
「…………」
「……リョーマくん、俺たちと一緒に文化祭頑張るの、嫌? 一緒に頑張りたいって思うのも、迷惑………?」
 泣きそうな顔でリョーマを見つめる天野。リョーマが苦りきった顔になるのを、隼人は非常に面白く観察した。天野がこういう風に天然いい人爆弾を爆発させるのは初めてではないが、それにリョーマは勝てたためしがない(自分も負けるであろうことはこの際おいておく)。
「じゃ、越前くんも納得してくれたところで決採ろうか。越前くんが牛若丸でいいと思う人?」
 クラスのほぼ全員が手を上げた。――決まりだ。
 苦虫を十匹まとめて噛み潰したような顔になるリョーマに、隼人は思わずくくっと笑みをこぼした。そして当然からかいの声を上げる。
「リョーマ、カッコいい〜! 牛若丸だってよ〜!!」
「…………」
 リョーマが殺気を籠めた視線でこちらを睨む。だがそんなものはっきり言って屁でもない。ふっふーんと見下すように笑ってやった。
「すごいじゃない、リョーマくん。主役だなんてカッコいい〜、ひゅーひゅー!」
 巴も援護射撃を行う。巴の場合はどこまでからかいか怪しいところだが。
 リョーマはますます苦い顔になったが、すぐに無表情に戻って手を上げた。
「じゃあ、弁慶には、こいつがいいと思います」
 そう言って隼人を指差す。
 おお〜、と声を上げる周囲に隼人は一瞬固まって、それからすぐ叫んだ。
「な、なんだと!? 俺を道連れにする気か!? しかも……俺がリョーマに負ける役じゃねぇかよ!」
「テニスでもいつも負けてるんだから、いいじゃん」
「ぁんだと、コラ!? 何度も言ってんだろうが対戦成績は五分だ!」
「俺の方が勝ってるね」
「五分だっつってんだろこのへそ曲がりのへちゃむくれ!」
「……俺の方が勝ってるよ、お前算数もできないの?」
 クラスメイトの前で睨み合う隼人とリョーマ――にわっと歓声が浴びせられた。
「なんかすげぇハマり役じゃねぇ?」
「そーだなー、隼人体でかいし……越前ちっちゃいし牛若丸と弁慶っぽいよな」
「それにやっぱり思いっきりライバル関係なのがいいよぉ! 素でできそう、素で!」
「は、はぁ………?」
 なに言ってんだこいつら、と眉をひそめたところに小坂田が偉そうに言い放つ。
「あら〜、評判いいじゃない。アンタなんか、リョーマ様に叩きのめされてるのがお似合いってことね〜」
「んだと小坂田っ!」
「お前らなら、家も一緒だから、台詞覚えたりするのも便利そうだしな」
「あ、堀尾……余計なことを」
「決採ります。赤月隼人くんが弁慶でいいと思う人?」
 ――リョーマの時に匹敵する数の人間が手を上げた。
「嘘だろ……」
「じゃあ、けってーい!!」
 わっと拍手が送られる。巴がぷぷーっと噴き出した。
「おめでとう〜、はやくんリョーマくん! ハマってるよ〜、頑張って目指せアカデミー賞!」
「巴、お前なぁっ!」
「いいじゃない、ハマってるのはホントだし。私全面的に協力しちゃう。可愛い従兄と同居人の晴れ姿、しっかり写真に収めてあげるからねっ! お父さんに送ってあげよっと!」
「やめろ馬鹿冗談じゃねーっ!」
 怒鳴っても巴は楽しげな顔を崩さずふんふん言いながら携帯をいじくっている。写メに撮る気満々でやんの、と隼人はがっくりとうなだれた。

 いよいよ今日は学園祭か。
 隼人は浮かない顔で学園祭のアーチをくぐった。アーチはきれいだが隼人の心は曇り空だ。
 本当ならこんなお祭り騒ぎは大好きなのだが、劇がたまらなく面倒くさい。第一恥ずかしいではないか、妙ちくりんな格好してわざとらしい台詞吐くなんて。
 テニス部のたこ焼き屋だけで済んだらなー、と思いつつ隼人はテニス部部室へ向かう。今日はリョーマも巴も自分よりかなり先に出た。隼人が遅刻したというわけではないが。
 とにかく昼過ぎまではテニス部のたこ焼き屋だ。昼飯を食ったらすぐ劇をやって、それからは自由時間。一応その時にあちこち見て回る予定で、それはそれなりに楽しみではあるのだが。
 などと思いつつテニス部部室の前まで来て、隼人はどさっと鞄を落とした。
 衝撃のあまり体と心がフリーズしてしまったのだ。見られた、と気づいた相手――リョーマも固まって、こちらを呆然と凝視している。
「どうしたの、リョーマくん? 早く出てよ……あ」
 テニス部部室からリョーマのあとについて出てきた天野が気まずそうな声を上げる。そういえば、リョーマと天野にはなにやら特別な仕事があるのだと桃城がにやにやしながら言っていたような気がするが。巴も楽しそうにそれに追随していた気がするが。
 ともかく、これは。
 数十秒かかってようやく見たものを頭と心が認識し、隼人はぶっと吹き出した。ぶふっ、ぶははっ、どわはははっ、ともうとにかく笑いが止まらない。
「おま……っ、お前ら、なんだよそのカッコ!?」
 リョーマと天野は、青学中等部女子制服を着ていた。つまりはセーラー服だ。早い話が、女装である。
 リョーマはカッと顔を赤らめて凄まじい形相で隼人を睨み、天野も情けなさそうな顔でため息をつく。
「だって、桃部長がやれって言うんだもん。青学テニス部の伝統だからって」
「女装がかぁ!?」
「うん。テニス部男子一年の中でまだ小さいのに女装させて客引きさせるんだって。女テニとは出店別でしょ? だから必要なんだって。今年からはミクスド女子が入ったんだからって言ったんだけど、それはそれこれはこれって……」
「そーかそーかぁ、気の毒になぁ……ぶふっ、くくくっ」
 隼人は遠慮会釈なく何度も笑い声を上げながらリョーマと天野を見た。リョーマは今の状況がたまらなく屈辱なのだろう、真っ赤に顔を染めて必死に隼人を睨んでいるがセーラー服では微塵も迫力はない。
「あ、はやくん! やーっと来たー。どうどう、見て見てこの二人! すっごいでしょー、那美ちゃんと一緒に頑張ったんだよー!」
「おう隼人、遅ぇじゃねぇか。越前の奴外回りしてくるってすっげーうるさくてよ、下手したらこいつらの晴れ姿見逃すとこだったぜ」
「女装を晴れ姿とか言わないでください桃部長……」
「へー、そーなんすかー。ふーん」
 部室から出てきた巴、小鷹、桃城に隼人は挨拶をしつつも口はにやにやと笑っている。おかしい。とにかくおかしくてたまらない。これだけでも学園祭をやる価値はあった、とほくそ笑んだ。
「どうどう、はやくん! リョーマくんもきーくんもすっごい可愛いでしょー! 那美ちゃんと一緒に気合入れて可愛くしてあげたもんねー!」
「そーだなー、すっげー可愛いなー……なぁ越前リョーコちゃん?」
 隼人はたまらなく楽しげな笑みを浮かべた。実際リョーマも天野も可愛かった。まだ二人とも自分と違いそれほど男! という感じの顔はしていないし、顔立ちが整っているため化粧をすると本当に可愛らしい女の子に見える。
 それがまた、たまらなくおかしい。
「…………っ」
 リョーマはぐいっ、と持っていたプラカードを投げ捨てるとずかずかとどこやらへ歩き始めた。天野が慌てて拾ってあとを追う。
「リョーマくん、駄目だよ、外回りするならちゃんとプラカード持って宣伝しないと……」
「うるさい」
「そ……そりゃ、俺だって恥ずかしいし、嫌だけどさ。どうせ恥かくんなら、有効活用しなきゃだし……」
 そんなことを話しながら校舎の方へ向かっていく二人の後姿に、隼人はまたたまらなく笑いの衝動がこみ上げてきて大笑いしてしまった。
 それから接客している時もたこ焼きを作っている時も何度も思い出しては笑っていた。巴がまた何度も思い出させてくれるし(化粧がばっちりできたことがよほど嬉しかったらしい)。
 実際、いいものを見た。

「いよいよ、本番か……」
 とうとう始まってしまった劇に隼人は小さくため息をついた。嫌なことは必ずいつかはやってくるものなのだなぁと実感する。
 本来なら台本を覚えるなど面倒臭いしぶっつけ本番にしたかったところなのだが、巴が異常に張り切っていて隼人もリョーマも強制的に稽古させられていたので台詞はしっかり頭の中に入っている。これを無駄にするのも悔しいし、せっかくだからしっかり劇を成功させてやろう。三年の先輩たちも見に来てくれると言っていたし。
「はやくんもリョーマくんも頑張ってね〜。私、しっかり撮影してあげるから! プププ」
「巴……おめーはなー」
「リョーマ様! 応援してますから、頑張ってくださいね! アンタも、リョーマ様の足、引っ張るんじゃないわよ」
「あの……二人とも、頑張ってね。応援してるから」
「おう。竜崎さんのために、頑張るよ」
「えっ!? ええっ!?」
「冗談」
 さらりと言うと、桜乃は泣きそうな顔でこちらを睨んでくる。っとに竜崎さんって和むよなー、と隼人はほんわか考えた。騙されやすくておっちょこちょい。近くにいるとトラブルに巻き込まれそうだが(前科もあるし)、普段気の強い女とばかり話している隼人にとってはこういう内気な女の子の存在は貴重だ。桜乃をかまっていると非常に癒される。
 そして隼人はくるりと癒されない女bPの小坂田の方を向いた。
「で、小坂田は帰れ。マジで」
「なんでよ!?」
「うるせぇから。どうせ劇の間中大騒ぎするんだろ?」
「そりゃあ、リョーマ様ファンクラブとしてリョーマ様を応援しないと……」
「そーいうのがうるせぇっつってんだよ。だいたいてめぇは……」
「あ、まだ始まってない!? ないよね!?」
 ばたばたと駆け込んできたのは天野だった。セーラー服のプリーツスカートがひらひら揺れるのを見て、なんだか恥ずかしくなって目を逸らす。
「お前、まだその格好してたのかよ……」
「しょうがないじゃない、できるだけこの格好でいろって桃部長に言われてるんだから」
 そう言いながら天野はひらひら舞うスカートを気にもせずこちらにすたすた近づいてきた。もう慣れたのかこいつ。こんな風に照れもせずにやられるとなんだかこっちの方が恥ずかしくなってきてしまうではないか。
「うん、衣装ちゃんとできてるね。まち針取った?」
「取ったよ。たりめーだろ」
「うん、ごめん。でも万一忘れてたら一大事だし、二人ともけっこうそういうポカしそうだったから」
 天野は料理のみならず家事全般について能力が高く、この劇の衣装班チーフを担当していたのだ。
 と、小坂田がふるふる震える指で、竜崎が顔を赤くして天野を見つめているのに気づき、あ、こいつらまだ二人の女装見てなかったんだな、と気づいた。
「? なに?」
「あー……二人とも、な。これは青学男子テニス部の伝統行事っつーかー……」
「なによ、そのカッコ―――――っ!!」
 客席にも聞こえるんじゃないかというくらいの大声で小坂田が叫んだ。その鼓膜をじんじんさせる大声に、一瞬場が硬直する。
 巴はそれすら気に留めず笑いながらVサインを出した。
「えっへっへ、青学男子テニス部のちっちゃくて可愛い一年男子は女装の運命を免れえないのだ。私と那美ちゃんでメイクしたんだよー。可愛いでしょー」
「全っ然可愛くないっ、気持ち悪いだけっ!」
 吐き捨てるように怒鳴ると、小坂田は天野に指を突きつけてまくし立て始める。
「きーくんあんたそれでも男!? 違和感なくそんなカッコしてんじゃないわよ気持ち悪い! あんたには男のプライドってもんがないのっ!?」
「え……だ、だってしょうがないじゃん、桃部長がやれって言ったし、青学男テニの伝統だし……」
「そーいう問題じゃないでしょーっ! 気持ち悪いって言ってんのよ、男がそんなカッコしたって公害よ公害っ、今すぐ脱ぎなさい今すぐ!」
「え、む、無理だよ、逆らったら試合に出させてもらえなく――」
「そーいう問題じゃないっ、私がそういう見苦しいものを見たくないのっ!」
「え、で、でも朋ちゃん、天野くん、すっごい可愛いよ?」
「そうでしょそうでしょ、可愛いでしょー。自信作だもん♪」
「桜乃っ、巴ーっ! 馬鹿ばっか言ってんじゃないわよーっ!」
「……つかなぁ、小坂田。リョーマもそのカッコしてたんだぜ?」
「え……」
 小坂田は一瞬戸惑ったような顔になったが、すぐふふんと鼻を鳴らした。
「リョーマ様はいーのよ。カッコいい人はなにやったって美しいの! きーくんみたいな中途半端な顔の奴がやるとこういうのは駄目なのよっ!」
「中途半端って……」
 さすがに少し傷ついたような顔になる天野。隼人も人事ながらムカついて一言言ってやろうと口を開くと、そこにタイミングよくリョーマの声がかかった。
「ほら、そろそろ出番だよ。ちゃんとやってよね、やられ役」
「くっ……」
 毎度のことながら腹の立つ言い草に、一瞬小坂田への怒りを忘れる。
「そうよ。ちゃんとリョーマ様を引き立てて、ブザマにやられるのよ。いーわね?」
 小坂田もすっかり調子を取り戻した様子で偉そうに言ってくる。隼人はち、と舌打ちして小坂田を睨んだ。
「てめぇ、んっとに男見る目ねーよな。女装させられたらすぐ拗ねて責任おっぽり出すリョーマなんぞより、しっかり真面目に仕事する騎一の方がずーっと男前だっつーの」
「……なによ。偉そうなこと言わないでよ! なんにもわかってないくせに!」
 怒鳴る小坂田――だがその表情が少しばかり泣きそうに見えて、隼人は少しビビった。なんだよこいつ、女みてぇな顔しやがって。
 と、天野がすっと自分と小坂田の間に割って入った。そして静かに笑う。
「隼人くん、俺、そんなに男前じゃないよ。でもかばってくれてありがとう。朋ちゃん、情けない格好しててごめんね。でも、これも青学テニス部の仕事だから」
 にこにこ笑ってそう言う。――そんな風に優しく笑われたら、こちらとしては矛を収めるしかない。
「……別に、いーけどよ」
「……ふん。だったらもっと背伸ばしなさいよ! 牛乳飲むのサボってんじゃないの!?」
 そんな風にちょっと天野に甘えて、なかったことにするしか。なんだか納得いかないものはあるけれど。
「……じゃ、行くぜ。リョーマ」
 そう言って進み出ると、リョーマは小さくうなずく。だが、隼人はなんとなく背筋をぶるりと震わせた。こいつ、なんか妙に殺気立ってねぇか?
「おい、リョーマ。どうかしたのか?」
「別に。早く行かないとまずいんじゃないの?」
 なんとなく悪い予感がしたものの、早く行かないとまずいのは確かなので、隼人はステージの中央に進み出て台詞をがなり始めた。

 劇は中盤まで順調に進んできていた。あとはクライマックス、牛若丸と弁慶の決闘だけだ。隼人は小道具の長刀をぴたりとリョーマに突きつけ、叫ぶ。
「さあ、小僧。怪我をしたくなければ、その腰のものを置いていけぇ!」
「やだ」
「いやだというならば、力づくでいただくまでだ。今日まで狩った刀が999本。小僧の小太刀で、ちょうど千本目! 覚悟しろ!」
 ぶるんぶるんと長刀を振り回し、上段から振り下ろす――
 リョーマはその一瞬前に、間合いを詰めて小太刀を叩きつけてきた。
「どわっ!」
 台本とは全然違う動きに隼人は一瞬泡を食ってのけぞった。リョーマは薄く笑いを浮かべたまま鋭い攻撃を何度も繰り出す。
 一瞬慌てたが、すぐにはっとした。こいつ……女装笑ったこと根に持って俺を公衆の面前でぶん殴って恥かかすつもりだな!?
 隼人はにやり、と笑んだ。自分もただリョーマのやられ役をやるのは面白くないと思っていたのだ。先にやってきたのは向こうだ、こっちも行動してなにが悪い!
「勝負!」
 そう叫ぶと隼人はだんっとステージの床を蹴って間合いを取った。そしてぶおんっと長刀を振り回し、刃(実際にはダンボールだが)の部分でリョーマの頭を狙う。
「……甘いよ」
 リョーマは頭をわずかに沈めてかわした。隼人は小さく舌打ちする。やっぱりリョーマの動体視力と反射神経は悔しいが凄まじい。
「おらぁっ!」
「……フン、そんな大振りじゃ当たらないね」
 今度は持っている小太刀(これもダンボール)でリョーマは受け流した。ほとんどラケットを扱う要領だ。
「こんのっ……!」
「遅いよ」
 リョーマは長刀をうまく跳ね上げ、空いたスペースに素早く走りこんだ。小太刀でこちらの頭を狙って振り上げる……!
「……っのぉ!」
 隼人は辛うじて見切ってかわした。実際にはかなりぎりぎりだったが、顔に出しては余裕の表情で笑ってみせる。
「甘いんだよ、タ〜コ!」
「……にゃろう」
 戦いが始まった。隼人は間合いを取りつつ長刀を振り回してリョーマを攻撃するが、大きさのせいか攻撃が読まれやすくリョーマに避けられ巧みに受け流されてしまう。リョーマは間合いを詰めて積極的に攻撃してくるが、隼人のリーチに邪魔されて有効打を与えることができない。
「らぁっ!」
「……っの!」
「くらいやがれっ!」
「甘いね!」
 実力伯仲。互いに戦いに没入してひたすらに相手を攻撃する。
 なので隼人は劇の割り当て時間がごりごり少なくなっていることにも、「どうしようやばいよ」「もー、二人のバカ〜!」「こうなったら仕方ないわっ。アンタ止めてきなさいっ!」「え、え〜!?」などというやり取りが舞台袖で行われていたことにも微塵も気づいていなかった。
「どぉ……りゃぁっ!」
「は……ぁぁっ!」
 お互いに武器を振り回し、全力で相手の体を狙――
「待ちなさいっ!」
 ――っていたところにそんな声がして、二人は同時に動きを止めた。
 声の主は隼人よりやや背が低いぐらいの背丈で、覆面にあれは……作務衣だろうか? そんな妙な格好でびしりと小太刀の予備をこちらに突きつけてきた。
「私は牛若丸の師匠、鞍馬の天狗! 血に酔い戦に飢えた愚物、武蔵坊弁慶よ! 我が成敗してくれるっ!」
「いや……ていうか、なにやってんの? お前」
 それは巴だった。どこからどう見ても。声も低くはしているが巴の声だし、なにより目が見えているのだ、すぐにわかる。
「罪もなき者を斬る愚かしさ、天地人いずれもこれを許さず! 我が意をもって天誅を下すっ! はぁっ!」
「ちょ、待……!」
 だだだーっと駆け寄ってきて小太刀を振るう。反射的に長刀で受け止めた隼人に、巴は顔を近づけて囁いた。
「はやくん、なにやってんの!? もう時間残り少ないよ! 劇の進行めちゃくちゃにしちゃ駄目じゃない!」
「あ……」
 そんなことすっかり頭から消し飛んでいた隼人はあんぐりと口を開ける。巴は素早く隼人に指示した。
「このあと私がリョーマくんの方にいって説得して一緒にはやくんを倒すから、抵抗しちゃ駄目だよ! そのあと台詞! いい!?」
「う……わかったよ……」
 本当はあんまりよくはないのだが、仕方ない。元はといえばリョーマが、と言いたいところなのだが自分が乗ったのも確かだし、クラスのみんなに怒られるのも嫌だし。
 うなずいた隼人に、巴もうなずいてばっと見事なバク転をした。すたりとリョーマの隣に降り立ち、リョーマに少し近づく――
 その瞬間、リョーマの顔が真っ赤になった。
 なんだ? と思ったが、次の瞬間自分も固まった。自分も顔が真っ赤になっているのがわかる。巴が怪訝そうにこちらをうかがういつつ歩を進めてくるが、隼人はどうすればいいのかわからず口をぱくぱくさせるしかできない。
 ていうか見えてる! 見えてるから!
 リョーマがひどく言いにくそうに顔をしかめながら巴に囁くのが聞こえた。
「お前……お尻のとこ、破れてる……」
「え……」
 巴は固まった。おそらくはバク転の時に釘に引っ掛けて破いてしまったのだろう、作務衣が破けてパンツが見えている。
「……………………」
 巴はきっかり十秒間、固まった。
 それからぎっ! と隼人とリョーマを凄まじい殺気を籠めて睨みつける。
「なんで早く言ってくれないのーっ!」
「おま、それ言いがか……っ!」
 巴はぶんぶか小太刀を振り回す。ぱっかーんとリョーマの脳天に小太刀がぶち当たるのが見えた。
「おま、あぶ、危ねぇって、振り回すのやめろ!」
「わーん、馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿ーっ!」
「わっ、だっから危ねぇって……!」
 そう言った時にはすでに遅かった。
 巴の小太刀は凄まじい勢いで隼人に叩きつけられ、その勢いでセットを見事に破壊してしまったのだった。

「……まったく、お前らのせいでひどい目にあった」
「うぅ……」
 劇をむりやり終わらせて。反省会のあと解散、自由時間になって。隼人はリョーマと巴と一緒に歩いていた。天野はテニス部の方に(女装のまま)戻っている(リョーマはテニス部に戻るとまた女装せねばならないのでサボりだ)。
「セットは壊れるし、クラスのみんなには文句言われるし」
「う……け、けど、元はといえばリョーマが打ち合わせと違う動きするのが悪ぃんじゃねぇか!」
「あそこでお前が素直にやられててくれれば劇も遅れなく進行できたんだけど?」
「う、うるせぇうるせぇ! お前が殺気出さなきゃ俺だって素直にやられてやったさ!」
「……ていうか、さ……はやくんとリョーマくんが喧嘩しなきゃ、私があんな大恥かくこともなかったんだよね……」
『う……』
 思わず二人揃って黙ってしまった。それを言われると、さすがに弱い。
「……け、けど! あれだって別に俺らのせいってわけじゃ……!」
「……ていうか、調子に乗ってバク転とかしなけりゃあんなことにはならなかったんじゃないの?」
「ひどい……! 女の子のあられもない姿見ておいてその上そんな冷たい言葉を……! ううっ」
「わ、わぁ、泣くなよ巴っ!」
 隼人はめいっぱい慌てて巴の周りをうろちょろした。嘘泣きならともかく、巴に泣かれると隼人は本当にどうすればいいかわからなくなってしまう。
「もー、巴、いつまでもめそめそしてるんじゃないわよ! いい女っていうのはね、どんなに恥ずかしいとこ見せようが優雅でなきゃ駄目なの! 逆に言えばね、慎みがありさえすればどんな格好しても平気ってことよ!」
「いや、朋ちゃんそれも極端なんじゃない?」
「なによ那美! 人が慰めてる時によけいなこと言わないでくれる!?」
「あ、あの、巴ちゃんっ、大丈夫だよ、あんまり見えてなかったから!」
「あ〜っ、はやぽんとおチビがモエりんを泣かせてる〜っ!」
 ふいに背後から聞こえてきた声に、隼人は驚いて振り向いた。そこには青学男子テニス部三年の先輩たちが立っている。
「菊丸先輩、大石先輩、不二先輩、乾先輩、タカさん……」
「女の子泣かしちゃダメダメさんだぞぉ。せっかく劇で大活躍してくれたのにぃ」
「そうだぞ、隼人、越前。あれはお前らのアドリブを収拾しようとしてやったことなんだろう? それなのになにをやってるんだ」
「そうだな。俺の数少ないデータでも、女性をいじめていいことはないと出ている」
「フフ……二人とも、なかなかいい度胸しているね?」
「う、う……先輩たち……」
 放たれるプレッシャーに隼人は縮こまった。自分だってあんな結果を望んでいたわけではないのに。
「……先輩たち」
 巴が暗い目でくるりと先輩たちの方を振り向いた。
「なんだい?」
「……見ました?」
『う゛……』
 一瞬の沈黙があって、それからいっせいに先輩たちは喋りだした。
「見てないぞ! オレは全然見てないかんなっ。袴ビリビリの大立ち回りなんてっ」
「あ、お……スマンっ……! あ、いや見てないぞ。断じて俺はお前のクラスの劇なんか見てないぞ」
「え、えっと、なんのことかな? よくわからないんだけど」
「……レディに失礼なことは言いたくない」
「……劇を観たが?」
「やっぱり見たんだ〜! うわぁぁぁん!」
 泣き出す巴に、先輩たちは慌てて近づいて口々に話しかける。
「あ、あ、でも劇はすんごい面白かったぞっ! 最後のセット壊れるとことか迫力あったし」
「そうだな、お色気シーンの挿入というのは欠かせない要素だ。中学生の劇の演出としてはいただけないが、よくわかっている」
「乾! ……な、なぁ巴、お腹空いてないか? なんでもおごるぞ! お腹が減ってるとろくな考えが浮かばないからな!」
「……おごり?」
 巴がきゅぴーんと目を光らせて先輩たちの方を見た。先輩たちはこくこくとうなずく。
「ああ、なんでも好きなもの食べさせてやるぞ」
「焼きそばがいい? それとも、お好み焼き?」
「両方がいいです! あとあと、ケーキセットとりんご飴と……」
 急に元気になって先輩たちに囲まれて歩き出す巴に、隼人は恨みがましい視線を送った。なんだよ、先輩たちにちょっとおごるとか言われたくらいであっさり元気になりやがって。
 あーくそ面白くねぇっ、と思いつつふん、と顔を背けると、リョーマと目が合った。
 同じように顔を背けたのだ、と一瞬後に気づく。
「………………」
「………………」
 しばし無言のまま睨みあって、ふんっと顔を背け、それからずかずかと並んで歩き出した。お互いを押しやりながら、巴たちを追う。
「センパ〜イ、俺たちにももちろんおごってくれるんスよね?」
「お前らは勝手なことやってたから駄目だ」
「……しぶとくやられなかったの、山ザルっスよ」
「お前だってノリノリだったじゃ〜ん」
 あーくそ面白くねぇっ、と内心では思いつつ隼人は笑顔で先輩に追従する。もしかしたらこめかみに血管とか浮いていたかもしれない。
 なんだか知らないが、猛烈に面白くない。なにが面白くないのかわからないが面白くない。
 ちくしょう、食ってやる。めいっぱい食って全部忘れてやる。
 ――結局、隼人はめいっぱい食って本当にこの時の気持ちを忘れてしまうのだが、のちに――数年後この気持ちが数十倍になってどんなに食っても忘れられないほどの強さで心にのしかかることになるということは、まだ少しも気づいていないことであった。

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