「よいしょっと!」 隼人は棚にごっちゃりと乗せてある荷物をどけて、はたきをかけた。埃が取れたら雑巾で水拭きする。 今日は十二月三十日。越前家は家中総出で大掃除の真っ最中なのだ。 当然居候である隼人と巴も思いきりこき使われている。朝からずっと掃除しているのでだいぶ飽きてきてはいるが、あとはこの部屋を掃除してしまえばすむのだからあともう少しの我慢だ。 「ん?」 隼人はふと、のけた荷物の中に古そうなせんべいの缶があるのに気づいた。他の荷物はみんなダンボールに入っているのに、それだけひどく異彩を放っている。 なんだろう、と開けてみると、そこには日記帳らしきものが一冊入っていた。 数秒考えて、読むことに決めた。 「せっかくの発見だからな! 読んでみるか! え〜っと……」 「なにサボってんの?」 そう後ろから声をかけてきたのは、リョーマだった。自分と同様にはたきと雑巾を手に持っている。さんざんこき使われたせいかいくぶん不機嫌そうだ。 だが隼人は別に気にせず答えた。この程度でビビッてたらこいつとはつきあっていけない。 「リョーマか。いや、ここ片付けてたら、こんなもんが出てきてよ」 「日記?」 「おう。で、面白そうだから読んでみようと思って」 「たしかに、面白そうだね」 リョーマは明らかな興味を示した。なんのかんの言いつつリョーマも好奇心は旺盛なのだ。二人揃って日記を開き、覗き込む。 「どれどれ……。『今日は夕焼けがキレイでした。キミと一緒にいたから、いつもよりずっとキレイに見えたんだね』」 その素っ頓狂な文章に、隼人とリョーマは思わずぱかっと口を開けて顔を見合わせた。震える手でページをめくって先を読む。 「『今日は一日、雨が降って退屈でした。でも、南次郎くんが……』」 南次郎。これは、つまり。 「これって、親父の……」 「もしかして……交換日記か!?」 顔を見合わせて、隼人とリョーマは同時に吹き出した。 「プッ!」 「だぁ〜っはっはは! な、なんだこりゃ!」 二人とも目を輝かせながらわくわくと先を読む。そこには期待にたがわぬ面白文章が書き連ねてあった。 「『今夜の星空もキレイだったけど、キミの瞳の方がもっとキラキラと輝いているよ』」 「……『今日の月があんまりキレイだから、キミのことを思ってカンパイをしました。いつかキミの目の前でキミの瞳にカンパイって言えたらいいな』………」 「って、おい! 助けてえ〜。ハラが痛い!」 「…………っ!」 隼人は大爆笑で笑い転げた。リョーマは無言ながらも体中をひくひくさせながらのたうち回っている。これがリョーマの大爆笑モードなのは聞かないでもわかった。 必死に笑いを堪えながら二人は日記を読み進めていったが、その日記は三十ページもいかないうちに終わってしまった。隼人とリョーマはちっと舌打ちする。せっかくの面白い、しかも南次郎をからかえるネタなのだからもっと読みたい。 「これ、どこにあったの? 他にももっとあるんじゃない?」 「おっ、確かにそうだな! あそこの棚だ。探そうぜ!」 二人揃って棚のところにとりつき、がさがさと辺りを探る。 「……親父の学生時代のもんだから、そんなに新しい箱には入ってないよね」 「そうだな……」 そんなことを喋りながら探していると、ふいにリョーマが声を弾ませた。 「あっ、この箱は?」 「おっ!? ちょっと丈夫そうな箱だし、ヒモでしっかり結んであるな……。よし、開けてみるか」 二人で一緒にヒモを解き、箱の蓋を開ける――と、隼人とリョーマは絶句した。 「これは……!?」 そこにあったのは、いかにもいやらしさをかきたてる感じのポーズを取った半裸の女性の写真が表紙になった本だった。何冊も重ねられている。隼人とリョーマは思わずそれぞれ驚愕している顔を見合わせた。 「こ、こ、これって、やっぱり……!?」 「親父の隠してた、本だろうね」 どういう本か、は言わないでもお互いよくわかっていた。 隼人はドキドキしながらリョーマの様子をうかがいつつ、囁くような声で口にする。 「……見る?」 「どうする?」 「う〜ん……」 「…………」 二人とも一緒に考え込む。隼人もお年頃なのだから、それなりに女体に対する興味はある。 だが、それをリョーマの――というか他人の前で表すのはめちゃくちゃ恥ずかしかった。見たいか見たくないかでいえば、誰にも知られないという前提ならぜひ見てみたい。 だけどリョーマにそんなこと言って馬鹿にされるのも嫌だし。どうするか、とリョーマの様子をこっそりうかがうと、リョーマも顔をわずかに朱に染めながらこっちの様子と本の表紙を等分にちらちらとうかがっているのに気づいた。 なんだ、リョーマも見たいんじゃんか。 それに気づいて隼人の心は決まった。赤信号、みんなで渡れば怖くない――のは間違いだとわかってはいるが、こういうことは道連れがいた方が気が楽だ。 「よし、開くぞ!」 「…………」 リョーマがわずかに息を呑んで、ぐっと体を近づけてくる。 「お、おい、リョーマ。押すなよ」 「押してなんかいないよ。お前こそ、ちょっと落ち着いたら?」 「お、俺は、落ち着いてるって!」 と言いつつ心臓がたまらなくドキドキしているのにも隼人は気づいていたが。そんなことを言うわけにはいかない、だって格好悪すぎるではないか。 隼人は数度深呼吸して、一番上にあった本の表紙に手をかけた。 「……さあ、いくぞ!」 「…………」 「二人とも、仲良くなにをしてるの? もう掃除は終わったのですか?」 背後から聞こえた菜々子の声に、隼人とリョーマは仰天して飛び上がった。二人揃って持っていた本を背中に隠し、大慌てで叫ぶ。 「あっ、菜々子さん!? ちょっと待って!」 「えっ、なんですか?」 菜々子はいつも通りの笑顔で近づいてくる。隼人とリョーマはそれぞれ慌てきった顔を見合わせた。 「いや、その……」 「まあっ、その本は!?」 『!』 菜々子の視線は、隼人たちがうっかり隠すのを忘れた、箱の中の本に注がれていた。 ……その後、隼人とリョーマが菜々子から白い目で見られたのは言うまでもない。 「ちくしょ〜っ! リョーマの親父さんのせいだぞっ!」 「それはそうだけど、俺にまで当たらないでくれる? そもそも最初に開くって言ったのはお前なんだし」 「んだとっ、お前だってちゃっかり見たがってたじゃんかよ!」 「別に見たいって言ってはいないね」 「言ってはなかったけど見たそうだった!」 二人でぎゃんぎゃん喚きながら廊下を歩く。掃除を終えて、埃と汗を流してきなさいとリョーマの母親に言われたのだ。 「そもそも、リョーマがあんなもん見つけなけりゃ菜々子さんにあんな目で見られずにすんだんだ!」 「言いがかりもほどほどにしてくれる? それを言うなら隼人がサボってなかったらこんなことにはならなかったんじゃない。ホントに……テニスとおんなじでよけいなことするのだけはうまいよね」 「ぁんだと、コラ!? 上等だ、風呂入ったら外のコートで勝負だっ!」 「別にいいけど。負けたからって当り散らさないでよ」 「そっちこそ、負けたからって拗ねんじゃねぇぞっ!」 ぎゃあぎゃあ喚きながら風呂場に入り、ごく自然に一緒に服を脱ぐ。口論を続けていたのでなんとなく一緒に入るのが自然なように思えたというか、そういうことをあまり意識していなかったのだった。 二人で喚きながら素っ裸でバーンと風呂場の扉を開け―― 風呂場の中にいた人間と目が合って、固まった。 「………っ!×▽■☆っ!!??」 「………………」 「きゃ……きゃーっ!」 ちょうど髪を洗っていた巴は、悲鳴を上げて体を隠した。隼人は大慌てしながらも必死に両手を振って弁解する。 「いやっ、巴、わざとじゃねぇんだ! マジで! 中にいるなんて全然思わなかったしっ、のぞこうなんてこれっぽっちも思ってねぇっつか……」 「いいから二人とも早く出てってよもうっ!」 風呂桶がとんでくるのをなんとかかわして、隼人とリョーマは風呂場の外へとまろび出た。お互い素っ裸で相手の顔を見つめ、はぁぁぁ、と深い深い息をつく。 ――びびった。まさかあんな状況ででくわすとは思ってなかった。 巴とこういう風に風呂場ではちあわせしたことがなかったとはいわないが、そんなのはまだ男女の区別もあいまいなようなガキの頃の話だ。 少なくとも――毛が生えてからは一回もない。巴があんなに成長してからは一回もない。 実際、かなり成長していたような気がする。胸もかなり膨らんでいたような気がするし、他にも―― 隼人はぶるぶると首を振った。なに考えてるんだ、俺は! と、隣のリョーマがぼんやりとした顔で、わずかに頬を染めつつなにか考えているのを見て、隼人は反射的にカッとした。 「なに考えてんだよ、リョーマ」 「……別に」 ぶっきらぼうに答えるが、その頬はわずかに赤い。 「ざけんなコラ、てめぇなんかやらしいこと考えてただろっ!」 「お前と一緒にしないでくれる? 自分にやましいことがあるからそういうこと考えるんでしょ?」 「ぁんだと、コラ!? 俺と巴はなぁっ、ガキの頃からずーっと一緒に暮らしてたんだぞっ!」 「……だから? そういう鬱陶しいこと偉そうに言わないでくれる」 「てめっ……!」 『いいから二人とも、どっか行っててよっ!』 風呂場の中から叫ばれて、隼人とリョーマは顔を見合わせ、無言で服を着始めた。なんというか、自分たちがひどくみっともないことをしているような気がして、いたたまれなくてしょうがなかった。 「はー、なんか寒いな〜。首元が冷えちゃうな〜」 「……マフラー、どうぞ」 「ありがと、はやくん。あ〜、なーんか喉渇いちゃったな〜。熱いカフェオレが飲みたいな〜」 「……買ってくる。金出して」 「え〜、リョーマくんってばお金取るのー? 私の心に二度と消えない傷をつけておきながらっ」 「……っ、あのね」 「そういう態度だとおばさんとか菜々子さんとかおじさんとかに、昨日あったことを言いたくなっちゃうかも〜」 「……わかったよ。買ってくればいいんだろ」 「そう? 悪いね〜リョーマくん」 「くそ……!」 男子テニス部恒例らしい二年参り。男子テニス部員&ミクスド女子たちは駅前に集合し、神社に向かって歩いていた。 それ自体は隼人が神社の位置を知らなかったこともあって、むしろありがたいことなのだが。 「なんだよなんだよ〜、お前ら巴になんか弱みでも握られてんのか? なっさけねぇなぁ男のくせしてよ」 「桃先輩……隼人くん、リョーマくん、なにかあったの?」 「フフ……巴となにがあったのか、ぜひ知りたいね?」 「うんうんっ、すっげー気になるかも〜」 諸先輩方やら同輩やらに、こうも好奇の視線をぶつけられるのは正直疲れる。 昨日の風呂場での巴との遭遇のあと、真っ赤な顔で着替えて出てきた巴に隼人は平謝りした(リョーマは『別に見たくて見たわけじゃない』と偉そうな態度を崩さなかったが耳は赤かった)。『もうお嫁にいけない!』などと叫ぶ巴に、ついつい隼人は『なんでも言うこと聞くから機嫌直してくれよ』と言ってしまった。 すると巴はにんまりと笑って、『じゃあ明日のテニス部二年参りの間、はやくんとリョーマくんは私の奴隷ってことで!』と言ったのだ。 どうしてこんなことを言い出したのかはよくわからないが、わざとではないとはいえ女の風呂をのぞいてしまった男としては、逆らうわけにはいかない。隼人とリョーマはため息をつきつつも、それを受け容れたのだった。 小鷹と楽しげにお喋りしている巴の後ろで、こっそりリョーマと話し合う。 「リョーマ、この二年参りの間だけなんだから我慢しろよ! わざとじゃなくてものぞいちまったのは事実なんだからしょうがねぇだろ!?」 「……別に好きでのぞいたわけじゃない。ていうか、元はといえばお前のせいじゃん」 「はぁ!? なんで俺のせいなんだよ!?」 「お前が掃除サボったり、あんな本開くなんて言わなけりゃこんなことにはならなかったんじゃない?」 「なっ……お前だって面白がってただろ! 第一なぁ、あれを見つけてきたのはお前じゃねぇかよ!」 「俺は読むなんて一言も言ってない」 「読みたそうにしてたじゃねぇか」 「自分のことをさも他人もそうみたいに言わないでくれる?」 「べっ、別に俺はあんなもん読みたかったわけじゃねぇよ! それはリョーマだろっ!」 「隼人だね」 「リョーマだ!」 「隼人」 ぎっと睨み合う二人に、天野が苦笑しながら割って入る。 「二人とも、そろそろ除夜の鐘も撞かれ始めるっていう時間なんだから、喧嘩はよそうよ。旧年中の諍いごとはきれいに洗い流しておかないと」 「それはこいつが」 「お前のせいじゃん」 「はははっ、本当にお前らって犬猿の仲だな〜」 「桃部長には言われたくないっス!」 「んだとコラァ?」 「あはは、まぁ、二人の会話ってキャッチボールっていうよりはテニスの試合見てるみたいって気はするよね」 「え……」 思わず目を見開いた二人に、天野は優しく笑う。 「お互い思いきり打ち合ってるのに、お互いしっかりボールを返す。相手のこと信じてなきゃできない芸当だなって思うよ」 「な……」 「……それ、こいつのこと買いかぶりすぎじゃないの?」 「ぁんだと、コラ!? 騎一が買いかぶってんのはリョーマだろっ!」 「あはは……」 「はやくーん、リョーマくーん、あそこでお汁粉売ってるよ! 私お腹空いちゃったな〜」 「あーはいはいはいっ!」 巴の方にリョーマを引っ張りながらも、隼人の頭の中には天野の言葉が残っていた。 『キャッチボールっていうよりはテニスの試合見てるみたい』 ――そうかも、とちょっと思ってしまったのだ。 「巴、賽銭いくらいる?」 賽銭箱の前までやってきて隼人が聞くと、巴は笑った。 「いいよ、お賽銭は自分のお金じゃないとありがたみがない気がするもん」 「……そうか?」 「うん! ていうかもう例の話終わりでいいし。旧年中の諍いごとは旧年中のうちにね!」 「モエりん、いいことを言うね。……ところで、その諍いごとっていうのはなんだったのかな?」 「え、えーっと、それはー」 「不二、あんまり赤月をいじめないでくれよ。ちゃんとお参りもまだしてないんだから」 「そうそう、今アメリカの手塚の分も、ちゃーんとお参りしなくっちゃねっ!」 「二拝二拍手一拝だぞ、いいな、みんな」 「はーい。それじゃ……」 賽銭を投げ込んで、順番に鐘を鳴らし、二拝二拍手一拝。それから心の中で願い事、という時になって隼人は願い事を全然考えていなかったことに気がついた。 ちょっと迷ったが、やはりいつも通りに願う。 『もっともっとテニスが強くなってテニスで世界一になれますよーに!』 それから、青学に入ってから願うようになったこと。 『今年も全国大会制覇できますよーに!』 そして、少し成長してから願うようになったこと。 『世界が平和で、みんなにとっていい年になりますよーに!』 それから、それから―― 考えて、ふっと心の中に浮かんだことを反射的に願う。 『――リョーマと、会話のキャッチボールもできるようになりますように』 願ってしまってからなに願ってんだ俺!? とかーっと顔を赤くし、隼人はばっと目を開けてぶるぶると首を振った。そこにいつも通りの無愛想な声がかかる。 「なにやってんの。挙動不審なんだけど」 「…………」 隼人はすさまじく顔をしかめてリョーマの方を向いた。リョーマもいつも通りの仏頂面でこちらを見つめてくる。 「なにをそんなに願うことがあるのか知らないけど、いつまでもそこにいたら後ろの人たち邪魔じゃないの? 先輩たちもう行っちゃったんだけど」 「っせーな、わかってるよっ」 っとにこいつはいちいちっ、と思いつつ、歩きながら話しかける。 「リョーマは、なにをお願いした? ちゃんとテニスがうまくなるようにお願いしたか?」 「別に。お願いなんてしなくても、強いしね」 「そんなでかい口叩いてると、俺にコテンパンにやられて、恥かくぜ?」 「ふーん、そうなんだ? それは楽しみだね」 「……余裕ぶっていられるのも、今のうちだけだぜ? 今年こそは、リョーマより俺の方が実力は上だって、キッチリ証明してやるからな!」 「そんな大きな口叩いてると、あとで恥かくんじゃない?」 「フン……。とにかく、今年も、お前には負けねぇからな」 「それは、こっちの台詞だと思うけど?」 いつも通りの会話。進歩のない会話。 だけど、自分はこれが嫌いじゃない。 そのことに初めて気づいたような気分で、なんだか無性に照れくさくなって隼人は歩の進みを早めた。 そうだ、自分は、このテニスのラリーをしている時のようなリョーマとの会話が、嫌いじゃないんだ。 「遅ぇぞリョーマっ! とっとと歩けよっ!」 「最初にのろのろしてたのは自分のくせにいばらないでくれる?」 言い合いながら、こっそり、雑踏に紛れて聞こえるか聞こえないかぐらいの声で囁く。 『――今年も、よろしくな』 リョーマは聞こえたのか聞こえなかったのかわからないが、いつも通りの仏頂面で(けれど隼人は気づかなかったけれど頬の端をわずかに面白がるように緩めて)小さく口を動かした。 今年もよろしく。 そう言ったように、隼人には思えた。 |