関東大会
 ボールを二、三度跳ねさせた。荒い呼吸を必死に整えてぎゅっとボールを握る。
 そして上に放り投げ――全力で打った。
「ホァ!」
 樺地――自分の敵はあっさりそれを返した。樺地とは反対側のコートぎりぎりを狙って打ったのに、とんでもなく早い動きでボールに追いついて打ち返してしまう。
 それを拾って必死に逆クロスに打ち返すも、向こうはさらにあっさり拾ってきわどいコースに打ち返してきた。追いつけずにこちらのコートに突き刺さったボールに、審判が宣言した。
「ゲーム、樺地! 1−4!」
 ――隼人は3ゲームの差をつけられて負けているのだ。

「……不利、だねぇ」
 竜崎は腕を組んで唸った。
 関東大会第一回戦、第三試合。シングルス3。赤月隼人対樺地崇弘の試合は、当初から苦戦するであろうことは予測されていた。樺地がパワー、俊敏性、柔軟性、およそ全てに富んだ強敵であることは乾のデータでわかっていたからだ。
 それに対し隼人をぶつけたのは、主にミクスドとの兼ね合いによる。そもそも本来なら天野と桃城、そして黄金ペア、そして不二の力があれば第三試合は捨てでいい予定だったのだ。だからこそ隼人にもシングルスの実戦を積ませようとここに入れた。
 だが、大石の負傷により急遽乾と海堂が組むことになり、そのペアは鳳と宍戸に敗れた。なのでここでなんとしても勝利したいところなのだが。
 樺地の圧倒的な身体能力――そしてなによりどんな技もそのまま使いこなしてしまう樺地の能力に、隼人は押されまくっていたのだ。
「……隼人の決め球、ストロングショットをああも簡単に真似るとは……」
 乾がぼそりと呟く。ストロングショットというのは隼人の見事な体のバネを活かした全力ショットだ。ただ踏み込んで打つ、それだけの動きの中に筋肉の力を100%活かす動作が取り入れられている。
 その速度、強烈さは青学レギュラー陣ですら取れないほどで、単純な球だがその分対抗手段を見つけるのが難しい。手塚からすらポイントを奪ったそのショットを、樺地は2ゲーム目からあっさりと追いついて返したのだ。
 しかも、隼人の打つものとまったく同じショットを使って。
「隼人くん……頑張れ……!」
「はやくん、頑張って! 必殺技の一発や二発で諦めちゃ駄目だよ!」
 天野と巴が必死に声援を送る。だが他のレギュラーメンバーの顔は厳しかった。桃城ですら苦虫を噛み潰したかのような顔をしている。
 そんな中、リョーマはみんなから外れた場所から、じっと試合を見つめていた。いつも通りの仏頂面で――ただし、これ以上ないほど強く拳を握り締めながら。

「……っ、はぁっ、はぁっ、はぁっ」
 第六ゲーム。40-0まで追い込まれて、隼人は荒い息をついた。
 強い。わかっていたことだが、おそろしく強い、樺地は。
 あと1ポイントで1−5。こちらの圧倒的不利。勝つためには6ゲームを連取しなければならなくなる。
 諦める気は微塵もないが、どうすればいい、どうすれば勝てる。向こうはこちらの使う技を全て完璧にコピーしてくるっていうのに。
 必殺技を返されたのみならず、その必殺技を使って向こうはこちらを攻めてくる。しかも自分のものよりさらに強烈にして。
 それを隼人は返すことができなかった。
「………っ」
 ぎゅっとラケットを握り締めてコートを睨みつける。悔しい。めちゃくちゃ悔しい。
 リョーマと一緒に必死に編み出した技をあっさり真似られて、しかも返すことができないなんて。それじゃあの特訓が、まるで無駄だったみたいじゃないか。死ぬ気になってやったのに。リョーマと一緒にやる以上、気の抜けたところなんか死んでも見せられないと思って―――
 無意識のうちに、青学レギュラーたちの方に視線を向けてリョーマを探した。あいつだったら、こんな時どうするんだろう?
 と、ふいにリョーマとばっちり視線が合った。距離はあるが、視力2.0を誇る(測れば3.5ぐらいあるかもしれない)隼人の目にははっきりリョーマの表情が見える。
 リョーマは、こちらと視線が合ったのに気づいたのかどうか、微塵も表情を変えず口だけをこう動かした。
 ま。
 だ。
 ま。
 だ。
 だ。
 ね。
「…………………」
 一瞬あっけに取られ。
「………あんにゃろう………!」
 一気に頭に血が上った。
 それが必死に戦っている仲間にかける言葉か!? そりゃ俺が負けてるのは俺のせいで他の誰にも文句は言えねぇけどな、だからってこんな強敵相手にして一生懸命にやってんのに馬鹿にされる覚えはねぇぞっ!
 隼人はぎっと樺地を睨みつけた。もうこうなったらやるしかない。向こうの方が強かろうがなんだろうが、絶対に勝ってリョーマに思い知らせてやる!
 軽く息を吸い込んだ。大丈夫、体に力は入る、足も腕もまだまだ動く。それならいくらだって走って、打って、勝つことはできる!
 このゲームはこちらからのサービス。一度だけ大きく深呼吸して、隼人は全力でサーブした。

「15-40!」
 審判のその言葉に、跡部はわずかに目を見開いた。
「どうした、跡部?」
 宍戸が訊ねると、跡部はふんと鼻を鳴らして言う。
「少し黙ってろ。……俺様のインサイトが鈍るわきゃあねぇが……」
「は?」
「……樺地が負けるわけはねぇ。だが……なにか、気になる」
 そう聞こえないほど小さな声で呟いて、跡部はじっと試合を見つめ始めた。

「30-40!」
 二連続のポイント奪取に青学応援席は沸いた。巴が興奮してぴょんぴょん飛び跳ねながら言う。
「はやくん、ボールに追いついてきましたよね!?」
 乾も驚きを隠せない口調で答えた。
「ああ……打つボールの速さも、ボールを取る際の移動速度も上がっている。これが……あいつの力なのか……」
「……だが、それだけではこの相手には勝てない」
 手塚がぼそりと言った言葉に、不二がうなずく。
「そうだね。ただ拾って返すだけでは強烈な決め球を放たれた時どうしようもない。この2ポイントは向こうにも油断があったのか反応が遅れたけど、じきに向こうもさらに反応速度を上げてくるはずだ」
「つまりまだまだ不利は変わらないってことですか……」
 そんなことを話す青学レギュラー陣のはじっこで、リョーマはひたすらに隼人の試合を見つめていた。さっきと同じように、試合が始まった時からずっと。
 ぎゅっと拳を握り締め、いつも通りの仏頂面で、けれど視線を試合から微塵も逸らそうとせず。

「デュース!」
「おいおい、ウソだろ? あの樺地とまともに打ち合える一年がいるなんてよ……」
「せやけど、ガムシャラに打ったかて、樺地には勝たれへん。第一、樺地のヤツ、まだ本気になんてなってへん。怪我する前にやめた方がええて」
「そりゃそうだ、勝つのは氷帝だぜ。青学の一年ごときが勝てるもんか。勝てるもんなら勝ってみそ!」
 そんなことを話している向日と忍足をよそに、跡部はひたすらに試合を見つめていた。
「……あの一年……あの時より、強くなってやがる……」

「アドバンテージ、サーバー!」
 隼人はは、は、と息をつきながら樺地を見つめていた。頭の中は真っ白だ。
 いや、正確に言うと頭の中の真っ白いキャンバスの上にどーんと文字が乗っかっている。『勝つ!』という一言が。
 全力でサーブを打つ。素早い動きで追いついて返された。それをさらに追いついて返す。さらに強烈なショットで返された。
 でも勝つ。不利だろうがなんだろうが勝つ。樺地がどれだけ自分より力が強くて技術力があって順応力に富んでいたとしても、勝つったら勝つったら勝つ!
 俺はあいつに勝つまで、誰にも負けないんだ!
『負けて―――』
 全力で追いつき、踏み込み、体全体を引き絞るようにして全身で――
「たまるかぁっ!」
 振りぬく!
「フッ!」
 樺地はそのショットにも追いついて返そうとする――が。
『!』
 その光景を見た者は全員思わず絶句した。
 身長190cm、中学生としては異常なほどの体格と体力を誇る樺地が。そのショットを打ち返そうとして――ラケットを弾かれたのだ。
 中一にしては恵まれた体格、という程度の隼人のショットで。
「………げ、ゲーム、青学!」
 数秒経ってからの審判の台詞に、青学応援席は沸いた。

「な……んな馬鹿な! なんで樺地が捕れねぇんだ? さっきまでちゃんと捕れてただろ!?」
「……フン、向日。お前の目は節穴か?」
 仰天する向日に、跡部は鼻を鳴らして解説した。
「あいつは試合の中で進化してやがるんだよ。あいつの決め球の威力がさっきとは段違いに上がってやがる。踏み込み、体の回転、そういう力を活かす技術がどんどんと上達してきてやがるんだ」
「な……試合中に!?」
「フン……樺地の技術も吸収してやがるのか。樺地とはまた違ったタイプだが――あいつも相手の技術を体得できるらしいな」
「おい……マジかよ? 樺地の奴大丈夫なのか!?」
「フン――樺地を舐めるんじゃねぇぜ、アーン? 樺地の本当の強さがわかるのはここからだ」

 樺地のサーブを全てストロングショットで返し、ラケットを弾き飛ばしてゲーム3-4まで持ち込み。
 サーブ権が移って隼人のサーブ。隼人は全力でサーブを打った。
「―――い゛ぃーっ!」
「!」
 樺地のリターンは追いついて返そうとした隼人のラケットを跳ね飛ばした。隼人の打ったストロング・ショットと同じように。

「あんな技すらあっさり真似しちゃうなんて……!」
「樺地さんそれ反則すぎ……!」
 天野と巴が声を上げる。乾が眼鏡の弦を気難しげに押し上げながら言った。
「奴の技を模倣する力はそれほどまでに高いのか。同じ技なら体格の優れた人間が使った方がより強力なものになる……」
「じゃあ、隼人くんが勝つのは……」
「…………」
 そんなやり取りを見もせず、リョーマは隼人を見つめていた。ただひたすらにじっと。
 隼人が勝つと思っているわけじゃない。むしろ負ける確率の方が高いだろうと思っている。
 だが。それでも。世界中が樺地が勝つと思っていたとしても――
「――まだまだだね」
 リョーマは拳にぎゅっと爪を立てながら、そう無表情に言って隼人を見つめた。

「0-40!」
 現在のゲームは3-5、マッチポイントまで追い込まれた。
 隼人の体力は限界まで削られていた。どんなショットも拾おうとすれば、自然体力は減っていく。樺地の強烈なショットを左右に打ち分けられ、体力は残っていなかった。
 それでも負ける、という気はまったくしていなかった。いや、頭の中が真っ白で考えることができなかったというのが正しい。
 頭の中にあるのは、『勝つ』という言葉だけ。
 真っ白な頭と体の中で、隼人の脳裏には一人のテニスプレイヤーのテニスをする姿が浮かんでいた。
 今まで戦った中で、悔しいが自分も含めて一番カッコいいと思ったあいつの――

「!」
 跡部が目を見開いた。
「あいつ……」

 ロブを打って打ち返してきたところにドロップボレー。

「ここまで追い込まれて……」

 ネットダッシュして樺地の反対側のコートにスマッシュ。

「プレイスタイルが……変わった!?」

 大きく跳ね上がったボールに、滑り込むようにしてドライブを打ち――

「ドライブB!?」
 青学応援席はどよめいた。青学の人間は全員わかっていたことだが、あれは。
「リョーマくんのプレイスタイルだ!」
 天野が叫ぶ。手塚が小さな声で呟いた。
「……無我の境地」
「手塚……それはまさか立海大の真田の……」
 不二が同じく小声で訊ねると、手塚は厳しい表情のまま答える。
「あいつがあれを意識的に使っているとは思えんが……プレイスタイルの変化も自分と越前の二つだけのようだしな」
「………」
「だが……タイプの違う二つのプレイスタイルを的確に使い分けることで得られる力は、通常のそれをはるかに上回る」
「……ああ」
 二人の会話が耳に入ったわけではないだろうが、巴が思わずといったように漏らした。
「はやくん……リョーマくんと一緒に戦ってるみたい……」

「ゲーム7-5、マッチ・ウォン・バイ・青学赤月!」
『うぉ―――っ!』
 青学応援席が沸いたが、隼人は気づいていなかった。ただ次の球に備えて身構えただけだ。
 それとも次は自分のサーブか。わからない、ただ、ひどく体が重い――
 ふいにぽん、と背中を叩かれた。ばっと振り向くと、そこにはずっと頭の中でプレイを追っていた奴が立っている。
「――やるじゃん」
 仏頂面でそう言われ、なんだこいつ本気で言ってんのか、と思う暇もなく隼人の意識は暗転した。

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